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2003年6月の5件の記事

2003/06/30

『謎解き 少年少女世界の名作』 長山靖生 / 新潮新書

60【(『若草物語』のジョーとローリィは)揃いも揃って,自分が現実に所有している性と,こうでありたいと望んでいる性が分裂している倒錯者なのである】

 試みは素晴らしく面白い。

 要は,「少年少女世界の名作」として扱われてきた過去の文学作品のあれこれをまな板に乗せ,これまでとは違う切り口で料理してみようというものである。
 取り上げられた作品は『フランダースの犬』『王子と乞食』『小公子』『宝島』『家なき子』『十五少年漂流記』『ドリトル先生物語』『ピーター・パンとウェンデー』『野性の呼び声』など,懐かしくも記憶に鮮やかな作品ばかりだ。

 だが,1つ1つの論評を読んでの印象は,残念ながらあまり鮮やかとは言いがたい。

 たとえば斎藤美奈子の『妊娠小説』や『紅一点論』と比較してみよう。その差は歴然だ。過去の名作を思いがけない角度から切りほぐしてみせる手法は両者とも変わらない。しかし,斎藤美奈子の論評は,ある「名作とされている作品」読了後に残る一抹の怪しさ,信用しきれない頼りなさを,たとえば「妊娠小説」あるいは「紅一点」といった独自の視点から切って捨てる。つまり,斎藤論評では,「名作とされているが,どこか信用できないような気がする」→「この視点から見てみるとなるほど実に情けない」→「なぁんだ怪しいと思ったがやっぱりダメじゃん」と,一連の流れが強烈に「ツジツマ合ってる!」のである。

 一方,『謎解き 少年少女世界の名作』はどうか。
 なるほど,個々の論評は作者の経歴や時代背景をもよく調べ,論旨にもそれなりの説得力はある。しかし,それはいずれも一種の積み上げ的な情報でしかなく,あっと驚く意外さには乏しい。
 たとえば,『フランダースの犬』の悲劇が,絵を売ることを是としないネルロ少年の「謙虚というより,ひきこもり的な,性格欠損」にあるとする視点,さらにはそういったシャイで繊細な芸術家のイメージを愛好する傾向は日本人独特のもので,実は『フランダースの犬』は日本人にしか読まれていないという事実……。これらは児童書やアニメで『フランダースの犬』に親しんできた者には思いがけない指摘かもしれない。しかし結局のところ,著者はこの指摘をもって何を語ろうとしているのだろう。何を破壊,あるいは構築しようとしているのだろうか。
 『宝島』が契約精神に貫かれた経済的な物語であるとの指摘,教育と無関係に天才的に「よい子」として育った『小公子』の物語が子育てになんら役立ちはしないという指摘,孤児である『少女パレアナ』の「喜びのゲーム」は周囲の者たちへの執拗な攻撃であるとする指摘。これらはいずれも一見スジが通ってはいるのだが,では読み手はいったいそれをどう受けとめればよいのか。これらの「少年少女世界の名作」をもう名作扱いするのを止めるべきなのか,それとも反面教師として深読みしながら付き合い続けるべきなのか。

 期待が大きかったせいもあるだろうが,この企画ならもう少し技のふるいようがあったろうにと惜しまれてならない。たとえば一人の著者に任せるのではなく,中経出版『ウルトラマン研究序説』のように,さまざまなジャンルの専門家がさまざまな切り口から「少年少女世界の名作」を論ずるなど……。

2003/06/15

『ゴースト・ラプソディー』(全2巻) 山下和美 / 講談社漫画文庫

28【君は メロディーを 聴いたはずだ】

 「反体制」なんて言葉は今ではも死語というほどにも生き残っていないわけだが,それでも「権威」とされる何かについつい刃向かってしまう衝動というのはそこここに顕在する(問題は権威に刃向かうより弱いものを虐待する衝動のほうが生活やネットの上で数倍数十倍顕在していることなのだが……それはまた別の話)。

 山下和美は,とくにロックミュージシャンへの共感を描くことでそのあたりの攻撃性を追体感させてくれる稀有な作家の一人で……あったのだが,『天才柳沢教授の生活』という恰好の素材を得てブレークしてしまい,最近では次に何を描けばよいのかわからなくなったかのようにも見える。描きたいものがはっきりするまで描かないという選択肢もあるだろうに,出版社やアシスタント等とのしがらみもあるのだろうか,このところ迷走気味である。余計なお世話もいいところだろうが,何もしないのも創作行為の一環だと思うが……。

 さて,『ゴースト・ラプソディー』は山下和美の攻撃性がまだ明らかだった時代の好編だ。
 好みは分かれるだろうが,ここに描かれたジェットコースターのような,ロックミュージシャンの幽霊を含む四角関係の展開には,明らかに『柳沢教授』の連載の過程において作者が喪っていった,そして『不思議な少年』の読み切り掲載でも再構築できない何かがビビッドにほとばしっている。それは,主人公が,常に自分にとって必要な何かを追い求めている,その姿勢から出てくるものだ。それがピュアな恋愛感情であれ,一過性の快楽であれ,打算,欺瞞臭あふれる擬似恋愛であれ,かまやしない。求める高み,あるいはソリッドな手応えがあるということは,少なくとも作品世界では何にも増して主人公の言動を光らせるものなのだから。

 個人的には,主人公がライブのステージでミネラルウォーターか何かのボトルを投げ捨てる,そのボトルが宙に浮いたワンカットに最も魅かれる。描き手にそのつもりがあったか否かは知らないが,そのカットにみなぎる浮遊感と攻撃性は,この作品全体のテーマと(たまたま?)合致するもののように思われてならないからだ。

 要は,ここ十冊分ばかりの『柳沢教授』を読むくらいなら,そんなものあブックオフにでも投げ込んで山下和美の旧作を読んでみてはいかが,つーことである。
 『柳沢教授』については,あっさり終わってしまったつまらないテレビドラマに対しても言いたいことの一つ二つなくもないが,正直言ってほとんどテレビを見ない者には最近のテレビドラマは文法レベルで理解できないので……。

2003/06/09

バリ島版陰陽師 『踊る島の昼と夜』 深谷 陽 / エンターブレイン BEAM COMIX

40_2【「それほどの事態」だったってことだよ】

 舞台は(深谷得意の)インドネシア,バリ島。主人公は和風居酒屋“KAMAKURA”の日本人オーナー・ヨリトモ(通称)。日本人旅行者のよき相談相手である彼には,不思議な力を操る“裏の顔”があった……。

 つまり『踊る島の昼と夜』は,バリ島を舞台にした,バリ島ならではのオカルトホラー短編集である。
 ホラーといっても,角川ホラー文庫によくあるずちゃずちゃぬたぬた系ではないし,『新耳袋 現代百物語』のように日常生活の中にすっと異界が入り込んでくるといったタッチでもない。日本でいえば貴船神社の丑の刻参り,藁人形に五寸釘,あの「呪術」系の話である。かなり原始的で,それがバリという空間を舞台にしているため,一種独特なリアリティを持つわけである。

 たとえば,部屋に異変(ポルターガイスト)が続き,玄関を開けると表札代わりの名前のタイルに緑の蛇が囲むように置いてあった……。あるいは,島で出会った若者に,観光用でない祭りに連れていかれたあげく,「誰かにちゃんと祓ってもらわないと3日以内に死ぬぞ」と言われてしまう。ヨリトモはいかに彼女たちにかけられた呪術を暴き,敵を倒すのか……などと書くとまるで必殺なんとか人シリーズだが,ヨリトモにしても狙われた日本人女性を助けるのはあわよくば彼女たちとひとつよろしい関係になろうというシタゴコロ丸出し,決して道徳的な人物とは言いがたい。つまるところこれは,浮世離れした「神」と「魔」の島における,呪術を小道具とした大人のコメディなのである。

 ……と,毎度のごとくとりとめもなく終わるしかないのだが,本書では各短編にそっと登場する“サトミサン”が魅力的だ。
 白い服の“サトミサン”は午後の光の中,日傘をさしてどこかに歩いていくのだが,誰も話しかけることができない。本当の名前も,どこに住んでいるのかもわからない。声をかけようとしても,不思議と近づくことができないのである。「バリに想いを残して死んだ日本人OLの幽霊」なんて説さえある。……

 夜の呪術と昼の“サトミサン”。
 対するのがストイックな安倍晴明ならぬ和風居酒屋の女たらしオーナーであるあたりがほどよいサジ加減であろうか。

2003/06/03

『怪しい日本語研究室』 イアン・アーシー / 新潮文庫

401【G7でこの問題についての協議がなされないというふうに断定的にとることは必ずしも正しくないというふうに思っとるんです。】

 帯の惹句に「読書中,お腹の皮がよじれることがあります」とあるが,内容はいたってまじめな日本語論考エッセイである。
 著者のイアン・アーシー氏はカナダ出身の「和文英訳」翻訳家。スキンヘッドの著者近影を見ると目つきの怪しいボブ・サップみたいで,こういうのがUFOから降りてきて流暢な日本語で話しかけてきたらちょっと怖そうだ。

 本書ではまず「外人」「我が国」という言葉に見え隠れする日本語における属人,属地域的な特性から書き起こし,さまざまな切り口の日本語論を展開する。
 著者は通算で十年以上日本に暮らし,そこらの平均的日本人よりよほど日本語に堪能なのだが,それでもぶつかる言語的障壁に日本語の特性が浮き彫りにされていく。

 たとえば,日本語での一人称,二人称の難しさ。
 あるいは「線をもうちょっと細く書かれたほうがいいんじゃないですか」「正しいんじゃないですか」といった曖昧な言葉遣い(実はこれらは曖昧なわけではなく,「線をもっと細く書いたほうがいいよ」「○×って,日本語として正しいよ」と真意のほどは明快なのである)。
 もしくは,「OL」「TPO」などのアルファベット略語,「パソコン」「セクハラ」などのカタカナ略語,「どたキャン」「朝シャン」「ボキャ貧」「MOF担」などの和洋折衷略語,はては「キムタク」「ブラビ」「橋龍」などの人名略語にいたる省略好き。
 など,など,などなどなど。

 かなり攻撃的に語られるのは,社長の挨拶文や官庁用語,つまりは「権威スジ」の用語用法である。

 著者が用意した架空会社の架空の社長ご挨拶文はまったく馬鹿馬鹿しいほど内容が空疎で,そのくせいかにも日本中の社長が挨拶文に用いていそうな立派なシロモノである。

 また,「整備」という言葉に代表される霞ヶ関の日の丸官僚言葉。
 パソコンを買ってくる,でなく「パソコンの整備」,道路に木を植えるのは「街路樹の整備」。著者が実際の役所書類から見つけ出してきた,次の文言群の意味ははたしてご想像いただけるだろうか(答えはあとで)。
   非自発的離職休職者
   語学学習意欲の高まり
   各主体の自主的対応尊重
   緑資源の基盤が脆弱化する
   人的資本の流動性の拡大のため,環境整備を行う
   平均的な勤労者の良質な住宅確保は困難な状況にある
   円滑な垂直移動ができるよう,施設整備を進めていく
   住宅のあり方が夫婦の出生行動に大きな影響を与えている
   制度を整備した上で措置する
     :

 ただ,著者はあれこれ途方に暮れることはあっても,決して日本語を見下しているわけではない。いやむしろ,とことん惚れ込んでいるといってよい。

 だから,ときにはその音や表記,構造の魅力を讃えあげる。
 一般にはカタカナ言葉を取り込んでだらしないとされることの多い近代の日本語だが,実は「十前後ある日本語の品詞のうち,外来語が大きく踏み込んでいるのは名詞と,その延長線上にあるものだけ」と論破する。実際,外来語をそのまま動詞として取り込んでいるのは「トラブる」「ダブる」などごくごく特殊な例だけ,形容詞も「ナウい」のようなケースはまれ,副詞にいたっては事実上外来語ゼロ。
 つまり,日本語は,外来語を広く無節操に取り入れているように見えて,実は骨格の部分は揺るがされていない。あらゆる外来語の品詞をいったん名詞化して取り込み,広く浅く分布はさせているが,実のところ日本語の構造はほとんど影響を受けていない。むしろ,日本語の文法に飲み込んでしまっている,というのである。
 カタカナ言葉の多さを卑下する文章は数あれど,このような視点から明快に例を示して語る文章にはあまり記憶がない。おかげでなんとも豊かな気分にひたれた次第。

 なお,先に示した整備文体の著者による口語訳は,以下のとおり。
   クビになって仕事にあぶれている人
   外国語ブーム
   みんな勝手にやればいい
   緑が少なくなる
   転職しやすくする
   普通のサラリーマンは家を買えない
   エレベーターを入れる
   うちが狭いから子供はもうつくれない
   少しあとでやります

2003/06/02

たまには少し辛口で…… 『毎月新聞』 佐藤雅彦 / 毎日新聞社

66【本当に正しく理解すれば両者の長所や欠点がわかるし】

 佐藤雅彦は「ポリンキー」「バザールでござーる」「だんご3兄弟」等の仕掛け屋なのだそうだ。企画事務所を運営するかたわら,慶應義塾大学教授を務め,竹中平蔵との共著『経済ってそういうことだったのか会議』(日本経済新聞社)をものし,ゲームソフト『I.Q』(ソニー・コンピュータエンターテインメント)を開発,NHK教育番組『ピタゴラスイッチ』を担当。
 なるほど,ピカピカの職業インテリである。テレビCM,慶応,竹中,日経,NHK……見事なまでにハナモチナラヌ取り合わせといっていいだろう。SCEが入っているのが逆にソニーの昨今の内情を露呈するようで,物悲しさがつのる。

 問題は,こういった職業インテリは,世間一般的にみればまずまず興味深い情報や視点を提供してくれ,手軽でウィットに富んだ(ように見える)プチ・インテリゲンチャな気分を満喫させてくれることである(佐藤雅彦の一部の著作のタイトルが『経済ってそういうことだったのか会議』や『プチ哲学』であることはその意味でなかなか示唆的だ)。したがって,彼らはえてして高い人気をほこり,またサブカルチャー派より半歩ばかり高いステータスをお持ちのようにふるまわれることが少なくない。

 ……と,思い切りこきおろした書き起こしから始めてしまったが,今回取り上げる『毎月新聞』はそれほど不愉快な書物というわけではない。これは著者が毎日新聞紙上で1998年の秋から4年にわたって「毎月新聞」という月一のコラムを掲載し,日常の不可思議や物事に対する新しい見方を世に問うたものである。おそらく,本書収録の48のコラムに「はっ」としたり,我が意を得たりと手を打つ方も少なくないのではないか。

 たとえば,表紙にも流用されている「じゃないですか禁止令」など,なかなか面白い。著者は最近の若者から中高年齢層にまで広まった「じゃないですか」という物言いに,誰かがその言葉を用いた瞬間にそれが既成事実と化したかのように思えること,それは同時に自分の責任を一般論に置き換えるずるさをもった便利な言葉であること,を指摘する。だから禁止しよう,と。なかなかパワフルな切り込みである。
 実は,僕自身,ある関連会社の若手役員がこの「じゃないですか」をなかなか巧みに連発するのに苦戦した経験もあり,この指摘には納得できるものがあった。もちろん,今後は勝ち目の薄い会議などで「じゃないですか」を要所要所で連発していこうと考えている。

 しかしその一方,なんというか,著者が頭でっかちな,理屈だけで働いてきたことを感じる部分も少なくはない。たとえば,自分が経済であるとか,音楽であるとか,特定のジャンルに疎い場合,それについて何か教えてもらうと必要以上にその内容を紹介したがる面。あるいは,田舎の葬式のように,自らの日頃の生活とかけはなれたものに出会うと妙に大仰に取り上げたがったりする面。
 巻末の付録エッセイ「テレビを消す自由」では,故郷の高齢の母親が自分の好きなテレビ番組を見たあとで迷いもなくテレビを消す姿を見て,「僕達」はテレビを楽しむ自由と同時にテレビを消す自由も持っているのだ,と気がつく……これはまったく馬鹿げた指摘で,リモコンの登場とともにテレビジャンキーと化して,面白い面白くないにかかわらずテレビを消さないのは「僕達」などではなく「僕」=佐藤雅彦だったはずなのだ。

 当たり前のことだが,世の中というものはさまざまで,別の地域(単に都道府県市町村といった括りではない)に行けば別の地域の生活やものの考え方,別の社会にいけばそれぞれの社会のスペシャリストがその社会で機能している,という,それだけのことを,佐藤雅彦はしょっちゅう見失ってしまうらしい。そして,(かなり狭い)自分の世界に相容れないものと出会うと,その都度その衝撃を読者と共有したがるのである。
 妙なたとえかもしれないが,新大陸を「発見」してみせた大航海時代の船長たちのことを思い出さないでもない。それは欧州の王宮で報告を待つ身にはなかなか興味深いレポートだろうが,発見される側にしたら面白くもなんともない話である。「デジタル」という言葉に対する過剰反応,カマキリが1匹部屋に飛び込んだだけで大騒ぎする感覚。こういう人物は20世紀と21世紀の切れ目だとか,インターネットの普及などにも大袈裟な反応を示しがちである。もちろん,それがいけないわけではない。需要があるところには,供給がなされるべきなのだ。

 ところでこのコラム「毎月新聞」には,毎回,(あのだんご3兄弟のタッチの)「ケロパキ」という3コママンガが掲載されている。はっきり言って,おだやかですこやかなカエルのケロパキ少年の日々を描くこの作品は,高校教師の説教臭い本文より格段に好感が持てる。定価1,300円(税別)の本書だが,このケロパキを読むために1,100円くらい出しても惜しくないといったらほめすぎだろうか。

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