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2003年3月の5件の記事

2003/03/31

『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』 ナンシー関 編・著 / 角川文庫

Photo 【でも,言っておきますが揃いも揃ってパンダではないです。】

 昨年6月にナンシー関が亡くなってからの寂寥感ときたら,心にぽつんと穴があいたとかいうレベルではない。部屋の一方の壁がぶっ飛んで,雨風が無造作にばらばら吹き込んでくるような,そんな感じだ。彼女の1ページ単位のエッセイがコンスタントにあちらこちらの週刊誌に掲載されていたことで,僕たちは多分、安心することができていたのだ。テレビという,放っておくと底なしに(それ自身が,あるいは視聴者が)ダメになってしまいそうなメディアに対して,自分は決して気を許しているわけではないことを,ナンシー関の厳しさが代弁してくれるような気がしていたわけだ。
 だが,彼女を喪った今,当たり前のことだが,僕たちは,あのように語り,あのように描き,あのように立ちふさがっていたのがナンシー関であって自分ではないことをもう知っている。僕たちは,いや,僕は,ナンシー関に甘えすぎていたのだ,多分……。

 『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』は,そんなナンシー関の残してくれた,彼女ならではのグラフィカルな思考実験のコレクションである。
 「記憶スケッチ」とは,提示されたお題を記憶のみに頼って描いてみること,そしてその作品を愛でながらも「人間と記憶とは,そして絵心とは」などについて考察していくのが「記憶スケッチアカデミー」である。具体的にはカタログ雑誌「通販生活」(カタログハウス発行)誌上において,同誌読者からの投稿を募ったものにナンシー関が寸評を加えたものがそれにあたる。
 文庫化された本書には,数年間にわたる成果の中から,「カエル」「ペコちゃん」「フランケンシュタイン」「カマキリ」「ガイコツ」「パンダ」「自由の女神」「スフィンクス」「鬼」などのお題に応えた作品が収録されている。いずれも,ナンシーいわく「人間の記憶のでたらめさを白日の下にさらす」,「症例とかカルテと言い換えてもいいかも」しれない珠玉の作品群である。要するに,いずれも,カエルにも,ペコちゃんにも,フランケンシュタインにも,カマキリにも,見えない。それは何か別のものであったり,何か別のものですらなかったりする。

 だから,これらの作品とそれに添えられたナンシーの寸評は,大いに笑えると同時に,どこかで心を黒くする。
 記憶にのみ頼ったスケッチは,不思議な「傾向」を見せる。たとえば,年をとると一気に線が描けなくなり,短い線を何本も重ね描くことで長い線を描くようになる。あるいは,誰もが本来「眉毛」のないものについつい眉毛を描いてしまう習癖,ハガキ1枚の隅に絵を描いてしまう習癖……。
 これらに対する巻末のナンシー関の「考察 ~記憶のあやふやとスケッチのうやむや~」と,押切伸一,いとうせいこうを交えた「記憶スケッチ学会座談会」は必ずしも学術的とは言えないが,記憶と,それを描くことについて,激しく読み手を揺さぶる。パンダやムーミンをちゃんと描けないからといってどうということないように思えるが,実のところ衝撃は小さくない。なぜなら,僕たちが確かなものと信じている記憶が,これほどあいまいであること,うやむやであることが,言い訳できないほどに剥き出しにされてしまうからだ。
 試しに,長年連れ添った家族の顔を記憶だけで描いてみようか。……これは,なかなか恐ろしい試みである。

 なお,「記憶スケッチアカデミー」収録作品の多くは,ナンシー関の公式サイトNANCY SEKI's FACTORY『ボン研究所』で見ることができる。
 だが,本書の考察欄にて「何も恐れることはない。これからもふるって御参加いただきたい。責任は私がとる。」と豪気に断じてくれた,あのナンシー関はもういない。

2003/03/24

事件の領域。 『Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて』 林 明輝 / 講談社モーニングKC

522【これは土壇場で 人生を変える一発が 出せるかどうかの 練習なんです】

 少年マガジン『はじめの一歩』,少年サンデー『KATSU!』,ヤングサンデー『パラダイス』,スーパージャンプ『リングにかけろ2』,そして『あしたのジョー』の復刊。ボクシングマンガが元気である。

 ボクシングそのものの人気が決して快調とはいえない現状を鑑みれば,この盛況は特筆すべきことのように思われる(実際,現在どれほどの日本人が,今日の時点での日本人チャンピオンの名をあげられるだろう。ヘビー級の世界チャンピオンの名を知っているだろう。オリンピックの金メダリストを覚えているだろう)。
 要するに,リアルなボクシングに結びついての人気ではなく,一対一,決着のはっきりした戦いの構図が読者にわかりやすい,あるいは勝ち上がりマンガとして描きやすいだけなのではないか。
 その1つの顕れとして,物理法則を超えた必殺パンチの飛び交う一部作品は論外としても,大半の作品で,いっこうにホンモノのボクシングの匂いが感じられないということがある。その原因は,それらの作品の登場人物の顔つきや体つきがちっとも「ボクサー」らしくないことにつきる。

 ごく大雑把にいえば,重量級の一部の選手を除き,プロボクサーの多くは顔も腕も格闘技の選手としてはラインが細い。スピードが命のこの競技では,贅肉は敵であり,さらに選手は試合前の減量でとことん水分をしぼり取られる。丸顔でずんぐり筋肉質な体系というのは,およそプロボクサーとしてのリアリティに欠けるのである。
 その点,モーニング誌上で断続的に掲載され,この3月に同時に1,2巻が発行された『Big Hearts』は,実にプロボクシングの匂いがする。ボクサーの,余分なものを削り落とされた,一種薄っぺらいまでの戦闘性がきちんと描かれているためだ(添付の表紙画像からでも、それはご理解いただけるだろう)。

 だから『Big Hearts』はリアリティあふれており,……と話を進められるなら紹介も楽なものである。
 しかし,『Big Hearts』の魅力は,実はそんなところにはない。

 主人公は,プレッシャーに弱く,プレゼンで失態をさらして会社を辞めた26歳の青年・保谷栄一と,メジャーデビューしたばかりの新人歌手・古谷カオリの2人。思いがけずプロとしてデビュー,鍛錬を重ねる栄一と,脱アイドルをはかり,自分の作った曲で人を感動させたいと願うカオリの2人の軌跡が,つかず離れず展開していく。
 粗筋だけみると陳腐なほどにオーソドックスなボクシングマンガだし(最近のトレンドとして,これに「死んだ父親もボクサーだった」を加えればデキアガリ),絵柄そのものも決して流麗とは言いがたい。決してこれだけで人気が出そうな造型とは言えないだろう。

 しかし,本作が鳥肌が立つほどに感動を呼ぶのは,無名なボクサーの生活や心情を上手く描いている,などといったナイーブな次元の問題ではない。
 2度,3度読み返すうちに明確になってくるのだが,この作品ではシンプルな線や登場人物の言動の背後に,驚くほど細密な計算が行き渡っている。いや,計算という言葉は誤った印象を与えるかもしれない。どちらかといえば,橋であるとか,塔であるとか,そういった建造物のイメージである。

 たとえば,栄一のために招かれた,まじめだがちょっとピントのはずれたトレーナー,梁瀬。彼は四六時中ボクサーらしからぬ丁寧な口調でボクシングを説くのだが,それが栄一の試合のゴングとともにぼそりと敬語モードを捨て去る……彼がですます調で語っていたのは,その効果のためだったのである。
 あるいは,栄一の試合の最中に,いわゆる回想シーンが見開きで入る。これは同じ2巻の最初のほうに登場したシーンのコピーなのだが,最初に登場したときは1ページだったのに,後の回想シーンは見開き2ページ分に絵柄が広がっている。つまり,このコピーは,連載を抱えたマンガ家の苦し紛れのコピーではなく,最初から反復効果を意図して用意されていたものなのである。
 これらの点に気がついてみると,たとえば栄一が大手ジムに出稽古に赴き,スパーするシーン。おそらく取材の写真をもとにした構図なのだろうが,2度登場するスパーの見開きシーンで,エプロンに立つ2人のトレーナーの姿勢が鏡に描かれたように逆転していることにも効果が見えてくる。

 つまり,本作は,素朴な青年の成長を素朴に描いたように見えながら,多数の伏線,造型上の工夫が縦横に張り巡らされているのである。そのため,ただのジムでの反復練習シーンをみても,その効果は深い。
 実際,2巻のうち何箇所か,数十コマにわたってただ鍛錬の様子が続くページがあるのだが,これが異常なほどに心に残る。その数十コマを通して,栄一の肉体とハートが,ボクサーとして削られ,尖っていくことが如実に伝わるのだ。
 これは,稀有な経験だ。このようなボクシングマンガ,いやスポーツマンガは記憶にない。

 本作が非常に高度かつ複合的な構成意識に基づいて描かれていることの例証として,もう1点あげておこう。次のセリフは,カオリが脱アイドルのために作品を持ち込んだプロデューサー,ミカミの独白である。

  「わたしはこういうネイキッドなのは好きではない!! 断じて好きではない!! だが………」

 このプロデューサーの揺れは,そのまま『Big Hearts』を前にした読者の動揺でもあるだろう。この相似形は偶然とは思えない。作者は確信犯的に「狙って」いるのである。

 単にネイキッドな「勝ち上がり」マンガとして読むか,計算し尽くされた緻密にして大胆な建造物として読むか。
 このあと,勝ち抜きマンガに流れてしまうくらいなら,現在までの2冊で終わってほしいと思うほどの力作である。推奨度120%。

2003/03/17

ノートPC購入に向けての雑感(烏丸は電気手帳の夢を見るか)

 愛用ノートPCのハードディスクが不調で,近々買い換えることになりそうだ。

 これまで使っていたのは,2000年春に発表されたメーカー製B5ノートで,CPUはセレロン450MHz,液晶は10.4型の800×600と現在からみればかなり貧弱だが,会議や出先でメールを見ながら議事録を取るといった用途には全く不満はなかった。足りないとしたら9GBのハードディスク容量で,GPS用の地図や趣味の音楽データ数百曲分等を詰め込んでしまうと残るは1GB程度しかなく,いつも汲々と不要なファイルを削除していたものだ。
 仕事がら,業務のメールは日に数十MB,保存フォルダはこの1年分でも合計数GBにのぼる。それを常に持ち歩きたいができないのもフラストレーションの種ではあった。

 しかし,新たに買い換えるとなると,なかなか「これ1台」と断言できる機種が少ないのもまた事実だ。今回壊れた機種に比べれば,最近のノートPCはいずれもCPUパワー,メモリ・ハードディスク容量,イーサネットに無線LAN内蔵等々,充分なうえにも充分なパワー,機能を持ち合わせているのだが,どうも自分の望むものとバランスがとれないのである。

 今回の個人的なテーマは,まずなんといっても軽量であること。
 これまで持ち歩いていたものは1.4kg,ノートPCとしてもかなり軽いほうではあったが,それでも連日肩に下げると疲れの残る重量ではあった。ところが,1kg前後の機種となると,意外とバリエーションがないのである。VAIOの一部や東芝Libretto,富士通LOOKのように,PCというよりはPDA的要素が強まって,液晶やスロット等にクセが強いものも少なくない。
 次に,価格だが……これはある程度しかたがないことなのだろう,軽量,コンパクトであることは電子機器としては重要な付加価値だ。なんとか無線LAN機能とOfficeと消費税を併せて20万以内におさまればと思う。
 コンパクトな機種で問題となるのは,キーボードだ。当たり前だが,狭いスペースに無理やり詰め込めば,使い勝手が悪くなるのは当然のことである。それが容認できるかどうかは,困ったことに使い慣れてみないとわからない。これまで使ってきた何機種かのノートPCだって,最初のころはキートップの幅が狭い,タッチが浅い,配列が違うとイライラさせられたものだ。ノートPCを通販で買う勇気がなかなか湧かないのも,キーボードの問題が大きい。

 ……などなど,実のところ,買い物そのものより,どのような機種を購入するかあれこれ迷うのがPC選びの楽しみではあるのだが,今回周囲の知人などに相談した結果,しみじみと感じたことは,やはりメーカー,ブランドイメージには誰しもしばられているのだな,ということだ。

 たとえば,SONY VAIOシリーズに感じる抵抗。宇多田ヒカルや浜崎あゆみのCDを購入する際の照れくささのようなもの。「かっこよいから」「人気があるから」選んだ,ように見られることへの抵抗,とでもいえばいいだろうか。ただの思い込みとはわかっているのだが,思い込みが生むのがブランドイメージなのである。
 次に,NEC 98シリーズに感じる抵抗。いかにも「パソコンに詳しくないオヤジが,店員に薦められるままに購入してしまった」イメージ。コネクタ類にひらがなで名称が書いてありそうな雰囲気,とまでいうと失礼だろうか。
 富士通だとFMV BIBLOとなるのだが,これも若干オヤジっぽさが漂うかもしれない。少なくとも,マニア臭は今はなく,かつてのFM-7,77時代のユーザーカラーを知る者には寂しい限り。
 シャープは,ある時期までノートに力を入れていたように見えたが,最近はどうだろう。なんとなく焦点がしぼれない。熱意を感じないというか。
 東芝は,ノートはさすがに強い。バラエティも充実している。……が,なぜか,東芝のノートPCは,分厚くフルスペックでCD-ROMはおろかFDまで付いているような機種は安いくせに,小さくてちょっとかっこよいと思われる機種はめっぽう高い。
 高いといえば,IBMは個人で手を出すのはちょっと。壊れにくい,との評判だが。
 デル,コンパックあたりは,十把一絡げ,文句をいうスジ合いもないが,B5コンパクトサイズはあまり見受けられず,正直なところ,よくわからない。A4スリムノートを企業でまとめて納入,といったあたりが向いているのだろう。

 などなど,などなど……こうしてみると,パナソニックのレッツノートが軽くてデザインもちょっと特殊で,面白いかなと思っているのだが,さてどうだろう。
 もっとも,重量よりキーボードよりブランドイメージより,秋葉原に買い物にいく時間,そして家人に了解を取る勇気がポイントなのは言うまでもないことなのだが。

2003/03/09

『剣豪 その流派と名刀』 牧 秀彦 / 光文社新書

97【剣豪にとって剣術がスキルなら,日本刀はツールであろう。】

 「あらすじではなく,自分の思ったこと,感じたことを書かなくてはいけません」というのは,小・中学校を通して読書感想文の指導として何度も言われてきたことだ。そのためか,いまだこうして趣味の書評を書いていても,ただタイトルと内容紹介だけですますとまるで悪いことをしているかのように後ろめたい思いにかられてしまう。ついつい余計なことを書きつらねては書評を長くしてしまうのはそのせいでもある。
 しかし世の中には,評者の狭い了見に基づいた感想などより,ただ内容を端的に紹介したほうがよほどその価値を明確にできる本というものもある。本日取り上げる『剣豪 その流派と名刀』もそういった本の1冊だろう。

 本書は『図説 剣技・剣術』など,剣術や日本刀についての書籍を次々とものしている著者が,刀を扱うための“スキル”たる剣術流派と,“ツール”たる名刀を紹介するものである。取り上げられた流派は塚原ト伝の新当流,薩摩国の示現流,宮本武蔵の二天一流,佐々木小次郎の巌流,現代剣道のルーツとも言われる一刀流,柳生十兵衛を輩出した柳生新陰流,池波正太郎『剣客商売』の父子の無外流,千葉周作の北辰一刀流,近藤勇の天然理心流など五〇。刀鍛冶は正宗,村正,孫六,虎鉄,童子切安綱などやはり五〇。
 随所に挿入された
  免許皆伝
  本当の「真剣勝負」とはどのようなものか?
  誰も教えてくれなかった「峰打ち」の真実
  日本刀のメンテナンス
などのコラムも剣技,剣術にうとい者には新鮮だ(日本刀の手入れで剣豪がポンポンと刀を叩く,あのタンポの正体がやっとわかった)。また,流派,名刀を取り扱った作品として,小説のみならず,映画,コミック作品まで自在に紹介するフットワークも軽快である。なにしろ井上雄彦『バガボンド』や小池一夫『子連れ狼』あたりまではともかく,渡辺多恵子『風光る』まで取り上げられているのだ。

2003/03/03

ですます調のファンタジー 『伝七捕物帳』 陣出達朗 / 光文社文庫

431【十手術にかけては江戸一番といわれた伝七に腰を打たれては,さしものくま男もたまりません。】

 江戸一番の御用聞「黒門町の伝七親分」は,そもそも一人の作家によるオリジナルキャラクターではなく,昭和二十四年に設立された「捕物作家クラブ」(会長・野村胡堂)の会員による競作シリーズだったのだそうである。
 執筆を競った作家には『銭形平次捕物控』の野村胡堂,『人形佐七捕物帳』の横溝正史,『若さま侍捕物手帖』の城昌幸,そして『遠山の金さん』の陣出達朗らがあった。
 いわば「捕物作家クラブの共有財産」(細谷正充)だった『伝七捕物帳』が現在陣出達朗の作品とされているのは,彼がこの企画に深くかかわったことと,もっとも多くの作品を発表したことによる。

 「伝七」が捕物帳としてオーソドックス過ぎるほどにオーソドックスな設定なのも,おそらくかのごとき出自からかと思われる。逆に言えば,オーソドックスな骨組みに,当時の花形作家たちがバリエーションの腕を競った,それが「伝七」だったのだろう。
 テレビでは中村梅之助が「伝七」を演じたが,彼の当たり役だった遊び人・遠山の金さんの印象があまりに強く,また当時はほかのさまざまな名物時代劇が現役だったこともあって,インパクトは今ひとつだったように記憶している(梅之助が北町奉行・遠山左衛門尉,つまり遠山の金さんを二役で演じるなどの楽しみはあったが)。

 さて,光文社文庫『伝七捕物帳』は,陣出達朗の手による捕物譚を十篇揃えたもので,いずれもおおらかなエンターテイメント,肩のこらない娯楽読み物となっている。ストーリーそのものは荒唐無稽といえば荒唐無稽,ときには時代考証や物理法則さえ風呂敷に仕舞い込み,伝七にしても無類のスーパーマンぶりである。なにしろ廊下の縁の下にもぐれば「忍びの術を心得ていますから……座敷のうちの話し声をきくくらいのことは,ぞうさもない」,窮地におちいれば「剣法と,十手術をじゅうぶんに身につけている伝七のまえには,敵ではありません」といった按配。
 しようがないなあと苦笑いしながらも,ページを繰る手はとまらない。不景気だリストラだと世知辛い現在においても,いや,そんな時代だからこそ,シンプルな勧善懲悪に忘我の一時を過ごしたくなるというものである。

 なお,本作はいずれも「ですます調」で書かれている。師・野村胡堂の『銭形平次捕物控』にならったものと想像されるが,銭形平次に比べれば権力への反発,弱い者に寄せる思いなどの込められたいわば厳しく選ばれた「ですます調」ではなく,江戸時代ののどかさ,伝七や周辺の登場人物たちの温かさ,人なつこさ,そして「難しいことは考えず,くつろいでお楽しみください」といわんばかりの作者の姿勢が感じられる文体となっている。
 価値観の多様化によって,もはや「市井のヒーロー」は共有財産たり得なくなったとみなされて久しい。しかし,物語の作り手側がこの「ですます調」にあたる工夫を見失っているのもまた事実のように思われてならない。

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