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2003年1月の6件の記事

2003/01/25

『まんがサイエンスVIII ロボットの来た道』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)

Photo【今の時代にキミはいないんだよね】

 くるくる回転図書館でも何度か取り上げてきた『まんがサイエンス』の最新刊である。

 今回の主人公は,池上タクミ少年。
 ある日彼の家に「タクミさんはわたしのことを知りませんか」とロボットが尋ねてきた。タクミはこのロボットがどこから来たのか,どこに行くのかを求めて,近所のお姉さんとともに調べて歩く。なぜロボットは人間と似た姿を持つのか。二足歩行することの困難とは。心を持つロボットは実現可能なのか。

 今回は,過去のシリーズでおなじみだったよしおくんもあさりちゃんも,あやめちゃんもまなぶくんも登場しない。これは「5年の科学」「6年の科学」に連載された作品であり,1年間のひと区切りを越えて同一のアイデンティティを保つ必要はないのだ。
 ではあのよしおくんは,あさりちゃんは,あやめちゃんは,まなぶくんはどこへ行ってしまったのか。

 ……などとセンチメンタルな気分になってしまうのは,今回の第VIII巻が,どこかうら寂しい雰囲気を漂わせているせいかもしれない。
 登場する少年型のロボットは,最後まで名前を与えられない。彼はヘルメットの下の「目」を描かれない。どこから来たのか,どこへ行くのか,明快な答えは最後まで得られない……1つの未来の「可能性」は描かれるにしても。
 そして,その未来にすら,やはり強い孤独の匂いがたちこめる。

 自分がどこから来たのかを淡々とタクミに尋ねるロボットの姿はとても痛々しい。自分が人間に作られた目的を求め,ロボットの完成の意味を問い,この時代に自分のようなロボットはいないことを悟る彼の言葉はこの上なく切ない。胸が引きちぎられるようだ。

 その切なさの裏側には,あの夏の日のようにロボットに無限の夢を重ねることのできなくなった自分がいる。このロボットは,僕たちが未来の世界で「二度と出会えない」友人の姿なのかもしれない。それはもう,遠い,遠い,遠い,遠い……。

2003/01/19

『MISSING』 本多孝好 / 双葉文庫

09【それはつまり謎々なのだと。ルコが僕にあてて出した最後の謎々なのだと。】

 昨年の末,この『MISSING』,そして同じ作者による『ALONE TOGETHER』の2冊は,立ち寄る書店のいくつかで信じがたいほどうず高く詰まれて目を引いていた。ドラマ化,映画化等のメディアミックス展開というわけでもないらしい。単に秋に文庫化された『ALONE TOGETHER』の行き過ぎたプロモーションだったのか。いまだ背景,そして平積みのボリュームに応えるほどに売れたのかどうかはわからない。ヨイケドネ。

 当方,もともとドラマ化,映画化といった話題を追うのは得手でない。ベストセラーは3年ほど寝かせて,それでも手元に降ってくるならそれはご縁があるか,本当に読む価値があるのだろう,などと急がないほうである。したがって本書の平積み攻勢にも多少敬遠していたところがあったのだが,第16回小説推理新人賞受賞作収録だとか「このミステリーがすごい!2000年版」10位ランクインとかいう話も小耳に入り,かつ短編集でもあることだし,意地を張らずに読んでみることにした。

 一読後の印象は,「こういうのなんて言ったっけ,そうか,センチメンタルか」。
 多分,20年かもう少し以前なら,もっと没頭していたに違いない。

 収録された5つの短編には,それぞれ,いちおう「謎」といえるものが内包されている。主人公が後半でそれを解きほぐすという展開は,それなりにミステリの形式を踏んでいるようにも見えるが,これらはやはりミステリーというよりは青春小説と呼ぶべきだろう。
 恋慕というより思慕といったほうが近い,そういった相手が永遠に失われてしまう,それに対して叫ぶわけでも泣くわけでもなく……いずれの短編にも共通する,そういった展開は嫌いではない。「瑠璃」などの作中に登場するエキセントリックな女性像も,どちらかといえば魅かれるほうである。いくつかの作品で主人公の青年が少しばかり背伸びした口調で暑苦しい韜晦を重ねるのも,お約束といってよいだろう(こういった青春小説では,語り手がある水準以上に静謐な境地にいたってしまうと,詩の領域に入ってしまい,やがては語られる必然性を喪ってしまうのである)。

 困った。ことさらにけなすつもりはないのだが,どうもこれ以上うまく表現できない。

 では,こんな薦め方はどうか。
 初期の村上春樹や,大林宣彦監督の尾道三部作を好もしく思われる方にはお奨めかもしれない。あるいは書店店頭で手にとってみて,この表紙に胸キュンとなる方向け。

2003/01/12

『あのこにもらった音楽』 勝田 文 / 白泉社 花とゆめCOMICS

Photo_2【俺には まだ ブラームスがいたからな】

 『のだめカンタービレ』の欠点としては,いや,欠点というのもおかしいのだが,少々読者に緊張を強いる点をあげることができる。この作品には,ギャグにしてもシリアスにしても,1ページで一気に針をマックスまで振り切ってしまうようなところがあって,主人公のだめがいたってノンシャランなキャラクターであるにもかかわらず,読み手は常に強い反応を強いられてしまうのである。

 しかし,峠をタイムアタックするのが車の楽しみなら,コンパクトワゴンで行くあてもなく旧道をのんべんだらるのもまたドライブの極意というもの。
 続いては同じ音楽を素材にしながら,およそ『のだめ』とは風味手応えの違う作品を取り上げてみよう。

 勝田文については,何一つ知らない。「文」は「あや」ではなく「ぶん」と読むらしい。
 『あのこにもらった音楽』は,新聞か雑誌の書評欄で取り上げられているのを見た記憶がある。その直後,書店で探すまでもなく目に入り,これも何かのご縁だろうと買い求めた。
 内容は,カバーの惹句によれば次のとおり。
「幼くして母と死別した梅子は,母の幼なじみの女将が営む梅木旅館で健やかに育ちます。旅館の一人息子・蔵之介は,かつて天才と謳われたピアニストでしたが…。ある日,18年音信不通のドイツ人の父が,梅子の前に現れて!? 和風・ほのぼの音楽旅館ストーリー。」

 ストーリーを明かしてしまえば,収録短編6作の最初の一編で梅子は蔵之介とあっさり結婚してしまう。『あのこにもらった音楽』は,梅子と蔵之介の恋愛アップダウンストーリーではないのである。
 では,ひなびた旅館を舞台にした人情話に終始するかといえば,その割には蔵之介の「元」天才ピアニストとしての扱いが大きく,かと思えばその他の登場人物があまりにも音楽に無頓着でもある。
 そのほか,作中の音楽についてはいろいろ言いたいことはあるし(一番納得いかないのは,日々の練習が軽んじられていること),旅館業務についてもリアリティの疑われる面が少なくない。

 ……などと,細かいことにチェックを入れるタチの方には本書はお奨めしない。「ほのぼの」と「のどか」にちょっとドタバタしたギャグをまぶして,三十分から小一時間ばかりまったりしたい方が手に取ればよろしいかと思う。

 それにしてもこの作者,現時点では,というより本質的に「アマチュア」なのではないかと思われてならない。
(「アマチュア」という言葉をとくに悪い意味で用いているつもりはない。ほめているわけでもないが。)

 絵柄がガタガタして安定しない,コマ割りがちまちまとうるさいといった「読みにくさ」について言っているのではない。少女マンガにおいては,たとえば手描き文字が散らされることによる「読みにくさ」は読み手のシンパシーを呼ぶ一種のアイキャッチ技法だし。また,そもそも勝田文より絵やコマ割りのヘタな「プロ」などいくらでもいる。
 勝田文にことさらアマチュア性を感じるのは,作品中の随所で作者が登場人物をどう動かしていいかわからず,途方にくれたように見える,そのためである。たとえば蔵之介に怪我をさせてピアニストの道をあきらめる原因となったフランス人ピアニスト,エマ・ベラについてなど,作者自身が最後の一編までどう描いてよいのかまるで決められなかったようにしか見えない。彼女は蔵之介をどうしたかったのか。どうありたかったのか。
 言ってみれば,人間の描き方におけるフォームが身についていないのだ。
 だから,エマ・ベラに限らず,梅子や蔵之介やその他の脇役にいたるまで,あらゆる登場人物たちはしょっちゅうどうふるまうかを決めかねたような表情やポーズをしている。稚拙と言えばケチをつけることになるが,そのどこか途方に暮れた描き方が読み手の緊張を解くと言えば言えなくもない。また,確信にいたらないまま描かれたため,存外に含みのあるよい表情になった,そんなコマが突発的に現れるのもアマチュア性が強いゆえのメリットである。

 逆にいえば,今後作品を描き続けて経験を踏み,プロとしてのフォームを身につけたとき,勝田文はそう面白い作家ではなくなってしまうだろう。少なくともこの『あのこにもらった音楽』のように,読み手を束の間浮世から解き放つ力は失われてしまうに違いない。
 それを乗り越えるには,また違う方向への「突破」が必要なのだ。大きなお世話だけど,多分。

2003/01/10

『のだめカンタービレ(4)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

Photo_3【フォルテ! 新しいエピソードのはじまりです】

 昨年1年の間だけで4巻というハイテンポ,ハイテンション,『のだめカンタービレ』の最新刊だ。

 ストーリーは世界のマエストロ シュトレーゼマンの思惑を含んでますます先が読めず,夏の高原は天国,一皮焼ければ二日酔い地獄。ぎゃぼ~!!
 おまけに今回も妙に気合が入っていて,ページの約3割くらいは仮面ライダー龍騎並みのシリアスさだ。千秋は指揮者になれるのか。のだめの才能は開花するのか。

 話の続きは新刊を待つとして,ふとこんなことを考えてみた。

 「『のだめ』はテレビドラマ化できるだろうか」

 それはまぁ,テレビ局がその気になればできるだろう,多分。
 だが,当たり前だが,テレビドラマの柳沢教授がどこを切っても柳沢教授ではなかったように,およそ『のだめ』が『のだめ』でないものになってしまうのは予想にかたくない。
 いや,千秋に今ふう二枚目の俳優をあてがうのは簡単そうだし,のだめだって適当な若手女優がいるに違いない(セリフだけなら演技抜き,地でなんとかなりそうだ)。オケはどこかの音大とタイアップし,指揮やピアノはプロの演奏家の手タレ。なんなら一人くらい本気で高名な音楽家を連れてきてもよい。
 もともと,二ノ宮知子の作風はテレビドラマの強い影響下にある。少なくとも文学や過去のコミック作品よりは,トレンディドラマの血のほうがずっと濃いように思われる。

 しかし。
 テレビにははたして本作にあふれる雑駁な魅力は表現できるだろうか。

 テレビは昔に比べれば技術的にも倫理的にもずいぶんと解放された。
 しかし逆に,スポンサーからの圧力や視聴率を理由に,無難で判で押したような作りになっていることもまた事実(若者の怒りの表現など,テレビ内文法が完成していて,そこから踏み外すことがない。それを若者がまたマネして,リアルと映像のちっぽけな無限ループだ)。『のだめ』を『のだめ』たらしめている要素は,おそらくテレビがもっとも苦手とするものの1つのように思われてならない。それがテレビにとってよいことか悪いことかは知らないが。

 とりあえず二ノ宮知子には,しばらく読みを外し続けてほしい。ただし……しいたけはいらな~イ。

2003/01/05

2002年烏丸ミステリ大賞!? 『喰いタン 1』 寺沢大介 / 講談社 モーニングKC

523【このお茶は…… 苦過ぎる】

「いったいいつまで,待たせるつもりだ」
「あ,あたし,なぜこんなところに呼び出されたのか,わけがわ,わからないわ」
「まあまま皆さん,お忙しいところまことに申しわけありません。しかし皆さんも例の事件については,気にかかっておられるはず。今夜はかの高名な探偵,鳥丸氏が,例の事件について重要な発見があるということで,こうしてお集まりいただいたわけです。どうぞ,鳥丸さん」
「ああ,ありがとうオガタ警部,いや,ありがとう。……さて,皆さん。魅力的なミステリの条件とはいったい何でありましょう。エッセイ集『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』において,澁澤龍彦は『推理小説はペダンティックでなければならない』と断じました。さらに加えて『それに恐怖,怪奇,パラドックス,ユーモアがふくまれていれば申し分ありません。描写はあくまで冷たく,きざったらしいまでにダンディーである必要があります』とも述べています。異論もあることでしょうが,いかがでしょう。いの一番にペダンティック(衒学的)が出てくるあたり,なんとも澁澤らしい」
「シブサワだかシブガキだか知らないが,青臭い文学談義を聞きにきたわけじゃないぞ」
「ふむ,確かに,ミステリは果たして文学なのか否か,それもたいへん興味深いテーマではあります。が,今夜は魅力的なミステリの条件というテーマをもう少し考えてみましょう。ミス・キョウコ,あなたのホラー映画についての批評記事,楽しく読ませていただきました。ひとつうかがいたいのですが,ホラー映画で映画館が悲鳴に包まれるのはいったいどのようなときでしょう」
「そうですね。もちろん怖いシーンなのですけれども,ただ血なまぐさいだけではだめ。やはり思いがけないところに,いきなり何かが現れたときこそ悲鳴が上がるものなのですわ」
「そのとおり。ミステリでも『思いがけなさ』,これは大切な要素です。いかにも人を殺しそうな粗暴な者が,いかにも人に恨みを買いそうな金持ちを殺害して金品を奪い,それが明らかになったからといって,誰も驚きはしません。非力で,その金持ちの死に悲しみにくれているように見える,か弱くはかない乙女が実の犯人であったことが露見してはじめて人は驚くのであります」
「その犯人像は,少しばかり古くさくありませんこと?」
「よくご存知でした。これは英米のミステリ黄金期にまま見られたパターンです。最近では読み手の目が肥えてしまい,多少のことでは誰も驚きません。機械的にこしらえた密室は密室とみなされず,探偵が真犯人であっても二番煎じと失笑を買うばかりです。意外な犯人,意外な殺害方法,意外なアリバイトリック……これらの資源はまさに今,世界規模で枯渇しようとしています」
「そのわりにはミステリの大量出版は続いているように見えるが」
「いや,ここ数年は一時ほどではないようです。『新本格』と銘打ってのパズルブームもさすがに熱が冷めてきたように見えます。が,しかし皆さん,ミステリの『思いがけなさ』は本当に枯渇しつつあるのでしょうか。これは,今回の事件の現場に落ちていた1冊の本です」
「『喰いタン』……麻雀の教則本かね」
「いえ,これは物を食べるのが好きで好きで,高級フランス料理から立ち食いソバ,学食のカレーまで,食べてさえいれば幸せという探偵が登場するミステリコミックです」
「なんだマンガか」
「作者の寺沢大介は『ミスター味っ子』『将太の寿司』といった料理マンガで知られる作家です。『ミスター味っ子』はアニメ化され,人気を博しました。ただ,十年二十年後にマンガ評論で重く語られるような作家かといえば,そうはならないでしょう。人情,ユーモア,肩の力の入らない,まことにマンガらしいマンガの描き手であり,それはエンターテインメント,立派なB級の証しでもあります。その寺沢大介が2002年春,『また料理マンガかよ』とぼやきながら講談社の月刊誌『イブニング』に連載し始めた作品が,この『喰いタン』だったのです」
「寺沢大介の過去の作品は署のほうでもファイリングしております。今回の事件の解決に直接結びつくとは思えませんが……」
「警部,それが予断というものだ。まずこの連載第一回目を読んでみたまえ」
「は。……うう。……なんと。ふーむ。いや,なるほど」
「いかがかな。この探偵の素っ頓狂さ。意外な犯人を明らかにしていく手法。犯人逮捕後のしみじみとした味わい。私見だが,2002年に発表された,いかなるミステリ長短編より,この作品は面白かった。物を食べることに底知れぬ意欲を燃やし,殺人事件の現場でも冷蔵庫を開けては中の料理を全部平らげ,現場を叩き出されてなおケーキ屋を捜し求める探偵。そのくせその推理は料理を味わい分ける舌先に負けず劣らず快刀乱麻,痛快無比。ここには澁澤龍彦の規定中,恐怖,怪奇を除けば,ペダンティック,パラドックス,ユーモア,ダンディー,すべてがそろっている。しかもとびきりのテリーヌのように上質なそれが」
「なるほど! すると鳥丸さん,その『喰いタン』が今回の事件の鍵となるわけですね」
「いや,私はあまりに面白かったので,皆さんにもぜひご一読いただこうと思って,ほらこの通り,人数分」
「ま,待ってくださいよ,鳥丸さん。それで事件のほうは」
「それは警察の仕事でしょ。素人に過大な期待をしてはいけないよ」
「いや,その,ですが」
「そろそろヘンリーにワインとオードブルを出してもらおうか。皆さん,今日も警部のおごりだそうですよ」
「おごりって……な,何を言ってるんだ。警視庁若手ナンバー1と言われようが,しょせん若い警官にそんな金があるもんか。一度ならず二度ならず毎回毎回。叔父も叔父だ,もうほんの少し金を貸してくれと,そんなにたくさんじゃないんだ,ろくに推理もできないくせに資料だ食事だと金ばかりかかる探偵と付き合うために,それをあの叔父ときたら少しばかりの金を出し渋るから,あの日俺はマンガなんぞを手にこれでも読んで捜査を勉強しろと言うのを鉄パイプで」
「あ」
「あ」

2003/01/02

『続・お父さんは急がない』 倉多江美 / 小学館PFコミックス

37【ほ~っ プロも打たないところにお打ちになる】

 新春でもあるし,好きな作家を取り上げよう。
 どのくらい好きかといえば,好きで好きで,寡作なのをありがたく思うくらいである。さりとて全作品を暗誦しているとか,そういうのでもない。入手し損ねた単行本も少なくないが,それを追うのに汲々とはしたくはない,そんな感じ。この世にその作家があり,あれらの作品に出会えただけでよかった,どうにも大袈裟だが偽りのないところである。

 倉多江美を知ったのは萩尾望都や大島弓子,竹宮恵子,樹村みのりらが毎号のように作品を発表していた当時(1974年)の別冊少女コミックで,初めて読んだのは「ドーバー越えて」だった。
 驚いた。
 今もあのときの目から火花が出るようなショックを体が忘れていない。24年組全盛,つまりそれまでの少女マンガの在り様に飽き足らず,その状況を激変させていった作家たちのただ中にあって,なおその特異性が際立っていたからだ。

 「ドーバー越えて」は,デビュー2作目にもかかわらず,恐ろしいほどによく出来た短編である。
 主人公はロンドンからパリに留学してきたルーテル(ハンサムでプレイボーイでケンカも強い)。彼はいとこのドミニの家に居候しているが,彼女は化学の実験に夢中でドレスやボーイフレンドには興味を示さない。ところがある日,ドミニの試験管に偶然できた赤い液を飲まされて,ルーテルの心は女になってしまう……。
 設定だけみれば少女マンガにときどき見られる男女入れ替え譚のバリエーションなのだが,ともかくスピードあふれる展開がすごい。手足の細い絵柄が斬新。リズムが独特。セリフが憎い。
 しかも,今見ると,ルーテルのしんっと冴え渡った表情といい,精神分析の世界に踏み入ったのちの暗く重い作品を予見させるコマもあったり。本拙評のために久々に手にとって読み返してみたのだが,あまりの「匠」にほとんど「あきれた」次第。

 倉多江美の作品は大半が掌編,数少ない長編も短いとっぴんしゃんな事件をつなぎ合わせたものが多く,初期はギャグ,のちに人の心をさくりと鋭敏なメスで切り取って標本にしてみせるような作品も得意とした。その2つは不可分で,たとえばお気楽な王国を舞台にしたファンタジー「ジョジョシリーズ」で不意に死後の世界を描いたり等,およそテーマ選びの自在さが倉多江美の大きな特徴となっている。
 ただし,執着がない,こだわりがない,というわけでもなさそうで,単行本を何冊か続けて読んでみると,「傷つけてしまうこと」というテーマが何度も取り上げられていることに気がつく。傷つける側の受ける傷,傷つけないためには超然とした存在たること。彼女の作品に再三登場する突拍子もない人物たちは,それゆえ迷惑ではあっても,他人を傷つけもしなければ,他人から傷つけられもしない。

 さて,倉多江美はデビュー当時から変貌しただろうか。
 絵柄はさらに白っぽくなり,対象年齢が上がったせいか,いかにも少女マンガ然としたファンタジーはほとんどなくなった。どちらかといえば,どこかの街角の一日をさっくりとスケッチしてみせたような作品が少なくない。
 この作風は,単行本『バンク・パムプキン』(主婦の友社)に収録された作品群,とくに1980年にポップティーンに掲載された「はなび」で定着したように思われる。「はなび」では,若い男女が海辺の花火大会を見に行くシーンが距離をもって淡々と描かれていく。鎌倉駅での待ち合わせから実際に花火が打ち上がるまで,すれ違うなんの変哲もない人々の言動がなぜか読み手の印象に残る。そしてそのスケッチは最後の4ページに青年が彼女を家に連れて行き両親に会わせようと言い出すところで突然動き出して,終わる。
 多分,倉多江美はこのとき「着地」したのだ。
 彼女は現実から浮遊した物語を描く必要がなくなった。それは初期からのファンからみれば少しばかり残念なことではあるが,代わりに,私たちは類似する作家の思い当たらない素描家を得た。

 『続・お父さんは急がない』はそんな倉多江美の最新刊で,前作『お父さんは急がない』から2年半ぶりの単行本である。

 主人公・佐江子の父は万年プロ4段のうだつのあがらない棋士。趣味は居眠りと散歩,夢は三百年生きること。プロは大変なのになぜなったのかと聞かれ,「でも冷静になってみると そうか ほかに何もできないんだ…… …… …… …… と気が付くわけ」とゆっくり答えるような浮世離れした人物である。
 物語はこの父を中心に口うるさい母(夫に甲斐性がないためパートに出ている),高校生の主人公,優等生で囲碁好きの弟,の4人家族それぞれの日々を達筆でさらりと描いていく。
 主人公は,少女マンガ的な表現でいえばとくに魅力的に描かれているわけではない。どこにでもいそうなしもぶくれの「娘さん」である。しかし,それが,何度か読み返すうちに心に染みてくる。単行本2冊のページの大半で主人公は高校生として描かれているのだが,巻末の後日談に大学卒業後すぐに結婚して子供をもうけた姿が描かれており,彼女は結婚を前提としてその魅力が描かれていたことがそこでわかる。うまく言えないが,そうなのである。

 いわゆる「純文学」が蛭子のように骨のない「奉られ者」扱いされて久しい現在,文学の果たすべき役割の何割かをコミックが担っていることは今さら言うまでもない。その中でも闊達な倉多江美の作品は,決して多作ではないものの,いや寡作だけに貴重であるように思われる。
 ……とはいえ,このような大仰な扱いが似合わないのも,また倉多江美なのだが。

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