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2002年12月の5件の記事

2002/12/30

『百鬼夜行抄 10』 今 市子 / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス

Photo【お手々もね まだ片っぽしかないんだって】

 さて,どうしたわけか最近誰も口にしたがらないが,岡野玲子の『陰陽師』が山岸凉子の『日出処の天子』の影響下に初めて成立し得たことは今さら言うまでもないだろう。
 少女マンガの世界に歴史,それも飛鳥時代という描きにくいはずの極めて古い時代を持ち込み,そこで単なる恋愛絵巻ではなく国政,文化,さらには宗教,モノノケさえ持ち込んだ『日出処の天子』の功績はわざわざここで主張する必要もない。
 振り返って『陰陽師』は,夢枕獏の比較的淡白な原作に,『日出処の天子』の切り開いたものを全面的にかぶせたような構成になっている。時代的にも近いし,オカルティックな(魔性の)主人公は底知れぬ知性と能力を認められながらも朝廷で直接権勢をふるおうとせず,ワトスン役の多少とぼけた好青年と親しく,朝廷(国)の行く末を宗教的な目で見据え,周囲の人々に理解できぬ特異な儀式を取り計らう。決して多弁とはいえない主人公が,説明を排した物言いでワトスン役を煙に巻くのも似ていれば,後半女が出てきてストーリーが水びたしになるという大難点までそっくりといえばそっくりである。
 『日出処の天子』は強引というか中途半端な幕切れもあって(白泉社から角川書店への作者の移籍にからんだとも噂される),最近では山岸凉子の代表作という扱いはあまり受けていないように思われる。いや,むしろ現時点での評価の低さは驚くばかりだ。
 『陰陽師』が今後どのような影響を残せるかは……。

 おっと失礼。『日出処の天子』や『陰陽師』のレビューではなかった。今回は今市子『百鬼夜行抄』の新刊の話である。

 『日出処の天子』が『陰陽師』に与えた多大な影響は先に述べたが,『日出処の天子』が残したものは設定,ストーリーといった大枠だけではない。とくにホラー系少女マンガにおける「モノノケ」たちの描き方への影響は見逃せないだろう。
 ここでいう「モノノケ」とは,厩戸皇子の指の間をちろちろとうごめき,水をかけると追い払われてしまう,あれである。当時,あの怪異の描き方にショックを受けた者は少なくなかったのではないか。少年マンガに「ぐわーっ」と登場するような血まみれずちゃぬたの化け物とはまったく異なる,新たな表現技法として,あのちょろにょろ小物モノノケに日本中のマンガ家のタマゴたちが感銘を受けたのは間違いない。その結果,畳のへりをうよふよするようなモノノケの描き方は,ホラー系の少女マンガでは今日かなり日常的になった。
 そのようなモノノケを描ける代表的な作家の一人が,今市子である。

 ところで,ここで「モノノケ」という言葉を選んでいるのには,理由がある。
 『日出処の天子』も『陰陽師』も,さらには『百鬼夜行抄』もそうなのだが,ホラー,霊感系の少女マンガにおいては「神」と「妖怪」と「幽霊」の区分が不明確なのである。『日出処の天子』や『陰陽師』では,主人公は人間界とは違う次元の存在を見たり感じたりコントロールできたり,という描き方をされている。したがって,「神」と「妖怪」には大物か小物,高次か低次かの区別はあれど,本質的にそう大きな違いはない。彼らが人間に害悪を為すのはたまたまの結果であって,象が蟻を踏む,踏まないに近い。
 『百鬼夜行抄』では主人公はせいぜい少し「見える」だけなので,「神」にあたる存在はめったに語られず(登場したこともあるが,どちらかというと土着の強力な妖怪としての描かれ方だった),作中では「妖怪」「妖鬼」といった言葉が頻繁に使われる。ここでいう妖怪の多くは,鳥や蛇,狐狸の類など,要するに長生きした生き物,土地や樹木,はては物品などから派生した精霊,アニミズムの系譜である(「百鬼」というタイトルは,確かに身を表している)。
 したがって,『百鬼夜行抄』は「キツネ,タヌキにばかされた」ような手ごたえの話が多くなり,登場人物は「ひどいめ」には遭うが死んだり地獄に落ちたりはしない。

 ……などと安心していると,突然足をすくわれることがある。
 それは。
 それは,ときどき「幽霊」の話がまざってくるためだ。

 『百鬼夜行抄』における幽霊たちは,ある意味妖怪たちより格段に始末が悪い。
 妖怪は基本的に人間界と互いに接点をもたぬよう心がけているが,幽霊はなんらかの妄執をもって現世をさ迷っている。あるいはある場所に足を踏み入れることで,スイッチが入るように突然かかわりをもってくる。
 これらの霊や怨念のうち,比較的妄執の軽いものは,主人公たちの活躍によって「往生」する。主人公たちが一時的に危機的状況に陥る場合もあるが,そこは主人公を守る式神・青嵐がぶつぶつ言いながら守る,という筋書きである。非常に大雑把な言い方をすれば,幽霊こそ登場するが,実質は陽性のオカルト冒険譚である。
 問題はそう簡単にはいかない霊の場合だ。その大半は人間界における事件(多くは殺人事件)で殺されたほう,ときによると殺したほうの怨念が色濃く残り,トラブルを引き起こすものである。……これが,怖い。『百鬼夜行抄』が「飯嶋律と愉快な仲間たち」ではなく,ホラー作品であったことを唐突に思い出される瞬間である。
 いくつかの物語で,霊や怨念は,主人公たちがなすすべもないまま,第三者に対する彼らの目的を達成する。主人公たちは,ただそれ以上かかわりにならないよう,脱出するしかない。主人公たちが立ち去ったあとの状況は……想像して楽しいものではなさそうだ。

 今回発売された第十巻は,そんな幽霊譚がいくつか含まれた,ここ数冊では久しぶりに怖い1冊である。気をつけよう。モノノケの世界に時効はないのだ。

2002/12/24

『陰陽師 11 白虎』 原作 夢枕獏,作画 岡野玲子 / 白泉社(Jets comics)

Photo_2【そう思うんだったら 少しは恐れ入ってくれ】

 第十巻で危惧したことがますます進行し,もはや末期症状のてい。もっとも本作はもともと十二巻でおしまいになるとのもくろみのようだから,まぁそれはそれでよいのかもしれないが。

 第一巻をいま手に取ってみると,あまりの薄さに驚く。
 二百頁にも満たぬ中に掌編も合わせて三篇が収録されており,それぞれがまったく完結しているのだ。
 比べて新しい第十一巻。こちらは四百頁を埋め尽くして,それで実のところ第十巻からの続譚に過ぎず,第十二巻への足がかりに過ぎない。要するに,明確な切れ目も決着もなく,だらりだらりと話がのたうち,流れるのである。

 単なる長編化というのとは,少し違う。
 ここでは,読み手が失われているのだ。

 実際のところ,たいへんな力量ではある。それは決して否定されるべきではない。
 力量というのは,作者の持つ素質,という意味より,物理学的な,本作に投入されたエネルギーの総量,といった意味のほうが近い。膨大な情報が密にこめられており,絵柄としても一巻よりよほど深遠,玄妙なものも少なくない。

 しかし,作者が己のために力量をそそぐことと,読み手がそれを堪能することはイクォールではない。膨大な手間と執念を煮詰めたような見開きのコマが,かならずしもコミックの読み手にとって魅力的とは限らないのだ。
 なにより。作者は読み手に対して「説明」することをもはや放棄してしまっているように見える。もちろん,もともと晴明は博雅に多くを語りはしなかった。だが,作者は絵柄や晴明の独り言の中で読み手にその「怪」の起こる因縁,その収まるところをきちんと説明してくれてはいた。一方この十一巻で,たとえば霊剣に対する晴明の言動,あるいは真葛のあり方について,はたして作者がすべてを明らかにすることはあるだろうか。否,あるまい。そのような描き方ではないのだ。
 つまり,絢爛豪華な殺人と探偵たちのはっしはっしの議論はあれど,事件の真の姿は語られない,そんな探偵小説(最低だ)めいたところがこの十一巻には顕現しているのだ。

 気がついてみれば,ここしばらく,岡野玲子は夢枕獏の原作から解き放たれている。ひるがえって,夢枕獏は(決して好きな作家ではないが)いかに読者のほうを向いて書いているか。彼は決して,この十一巻のようには,書かない。

 本書のあとがきには,まだ霊剣について連載にはちらりとも書いてないのに,問い合わせた日本刀に詳しい知人が「待ってましたよ,いよいよ剣ですね」と応えた,という話が掲載されている。
 一見美談に見えるが,これも,違う。

 本書はすでに,作者と,作者の周辺の,作品を読まなくても内容を語れる人々のために存在しているのである。マスな読み手は,そのおこぼれを流し読みしているに過ぎない。そんな作品に対しては,気に入らなければ,つまらない,わからない,と言ったって別にかまいやしないのである。

2002/12/15

冷たい夜をいっそううそ寒く 『生霊(いきすだま)』 ささや ななえこ / 角川ホラー文庫

02【うそよ あなたは あたしが 好きなはずよ】

 アメリカ版がヒットするなど,鈴木光司『リング』の人気が変わらず高い。もはや「貞子」はお岩やお菊,化け猫や口裂け女と並ぶ,いやそれ以上のホラーアイドルとなった観がある。今夜も『リング0・バースデイ』(2000年リング0バースデイ製作委員会)がテレビ放映されていたようだ。
 ただ,残念なことに,個人的には『リング』は怖いとは思えなかった。以前も書いたので繰り返さないが,西洋の古城のどすどすギイギイにぎやかな幽霊がピンとこないのに近いものがあるのかもしれない。アイデアの妙には感心したが,どうしても「怖い」という反応にはいたらなかった。

 もともと角川ホラー文庫は全般に「これでもかこれでもか」型とでもいうか,『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』ふうのホラーが存外に多く,面白くはあっても怖くはない……そんなことを話題に取り上げてみようかと思って,いやいや,ありました,怖いのが。
 ささやななえこ(ささやななえから改名)の『生霊(いきすだま)』である。

 角川ホラー文庫版『生霊(いきすだま)』は1980年代後半に少女マンガ誌に単発で発表されたオカルトホラー短編をまとめたもの。
 女子高生の嫉妬がドッペルゲンガーと化してすさまじい表題作,奇怪な事件相次ぐマンションを描く「空ほ石の…」など,いずれも平凡や高校生たちの生活に徐々に怪奇が忍び寄り,最後には……という作風である。

 「空ほ石の…」は,オーソドックスな心霊ホラーだが,「押し入れが気になる」というシチュエーションの作品として出色の出来である。

 問題は表題作だ。高校2年の良二とその恋人・真理子との関係に,根暗で目立たないクラスメートの浅茅優子の存在が少しずつ影を射す。やがて浅茅の怨念は暴走し,クライシスを招くのだが,この浅茅という女が実に怖い。
 普段はクラスメートに振り返られない地味な存在なのだが,面長で背も低くなく(小さくて巻き毛の真理子たちとの対極として描かれているわけだが),要するにひとたび相手の心に踏み入ったとき,この女は妙にボリュームがあるのである。そして彼女の良二に対する恋慕は,常軌を逸し,恐ろしい事件を引き起こしていく……。

 ささやななえ(当時)がのちに「ストーカー」と称される人々ないし習性について,どうしてこれほど的確に把握していたのかはわからない。しかし,浅茅として描かれた人物像は確かに「いる」,そしてストーカーの描き方において,オカルトな面を除けば,作者の目と表現力は実に確かである。
 そして,ストーカーという,生身でも十分に剣呑でやっかいな人間のあり方に「生霊」(ドッペルゲンガー)という様態が加わるとき,まず並みの人間では太刀打ちできないだろう。私たちにできることは,人生のどこかの交差点において,うっかり浅茅とすれ違わないことを祈るばかりだ。ノウマクサマンダバザラダンカン……。

 なお,「生霊(いきすだま)」が角川書店ASUKAに発表されたのは1986年で,リンデン・グロス『ストーカー ゆがんだ愛のかたち』が出版されて国内でも「ストーカー」という言葉,概念が広く認知されるより10年近く早いことは強調しておきたい。

2002/12/08

[近況]ADSL 12Mbps,無線LAN導入

 この金曜日にNTT局舎内工事がなされ,モデムも届いてADSL 8Mbpsから12Mbpsにサービス変更。加えて無線LANパックを導入して,ノートPCを持ち歩けば,自宅内どこからでもインターネットにアクセスできるようになりました。

 8Mbps→12Mbpsの変更は,従来が下り5Mbps以上出ていたのが7Mbpsになった程度で,体感速度的にはほとんど変わりません。現時点では,よほど巨大なファイルをダウンロードしない限り,そうですね,3Mbps以上出ていれば感覚的にはほとんど変わらないのではないでしょうか。むしろダウンロード相手のサーバー側をもっと強化してほしいことも少なくありません。

 無線LANのほうは,ADSLモデムそのものにIEEE802.11bの送信カードを装着するという,ちょっと珍しいタイプ。受信はサードパーティ製のIEEE802.11b無線LANアダプタが装着されたPCなら何でもよいようです。
 ただし,現時点ではなぜかブラウザからモデムのESS-IDやWebキーの設定画面に入ることができず,デフォルト設定のままの運用です(セキュリティ面で少々怖い)。なにか単純な思い違いなのか,仕様上のトラブルなのか明らかでないので,明日カスタマーサポートに問い合わせるなりしようかと思っています。

 無線LANは,PCやインターネットの利用法の中ではいまだ未開拓というかメジャーになりきれない技術で,その分アダプタのドライバやセットアップユーティリティが練られてない印象です。しかし,無骨なイーサネットケーブルから解き放たれてみればこんな便利な環境はなく,サブマシンとしてノートPCをお持ちの方にはぜひともお勧めしたい次第。

 いずれにしても今後は,昼はマロニエの木陰の白いベンチでダージリンを味わいながら,夜は書斎の本棚の間をめぐりながらインターネット三昧。……おっと,その前に,広い庭と書斎を調達しなくっちゃ。

2002/12/01

失われた言葉 その3 「18金」

 言葉は生活,仕事,風俗・習慣に密着したものであり,その対象が失われれば,それとともに霧散していく。

 たとえば,学生運動,全学連といったムーブメントそのものがきれいさっぱり忘れさられてしまった現在,「ゲバ棒」「タテカン」「ノンポリ」「総括」といった言葉が通じなくなるのは自明のことだろう。
 地下鉄サリン事件の際には,オウム真理教関係者についての報道で,ある人物が学生時代に「ノンポリで周辺からは恐れられた」という報道が何度か繰り返されたが,これはどう考えても「ノンセクト・ラディカル」と「ノン・ポリティクス」を取り違えているとしか思えない。学生運動経験世代が少なくないはずのマスコミにしてこの体たらくなのだから,現役の学生たちが「アジ演説」という言葉ひとつ知らなくとも,なんら不思議はない。それにしても「ノンポリ」を周囲が恐れるか。

 最近でいえば,あっという間に敷衍して,あっという間に消えてしまった言葉に「パソコン通信」がある。
 「パソコン通信」は日本では1980年代後半に広まり,一時は大小の通信ネットワーク会社を合わせると会員数は数百万人にまで達した。しかし,1995年ごろからインターネットが一般に普及するにつれ,上記ネットワーク会社はいずれもインターネットサービスプロバイダー(ISP)に宗旨変えするなど統廃合して現在にいたる。
 実は@niftyはいまだに「パソコン通信」のフォーラムやメール機能も持ち合わせ,巨大なパソコン通信のホストサービスを運営しているのだが,それらの機器のメンテナンスが難しくなり,やむを得ずサービスを縮小しているのが実情らしい。

 「パソコン通信」は「インターネット接続」にとってかわったわけだから,言葉に対する愛惜というのはとくに感じられない。もちろんせっかく構築されながら捨てられていく技術や機器は少なくないのだが,それはパソコン産業全体にいえることで,パソコンやネットワーク機器がいまだ成長期,過渡期であることの証しなのかもしれない。

 愛惜すべきは,成長期の言葉ではなく,爛熟期から衰退期に向かった言葉ではないか。

 たとえば,何十年か前まで,万年筆は若者が大人になった証しとしてのステータスを誇る文房具だった。ペン先のクオリティを保障する単位として「18金」「24金」という言葉がテレビや雑誌の広告を彩ったものだが,どれほどの人がそれを覚えているだろうか。
 現在「ジュウハチキン」と言えば,誰だって「18禁」のほうを思い浮かべるに違いない。万年筆が大人の証しであることをやめたのは,水性ボールペンやワープロに文具としてのメインストリームとしての立場を追われたからだけでなく,プレゼントされる側が「大人」という概念,そして言葉が失われたからのような気がしないではないが,どうだろうか。「大人」つまり「体制」側がないなら,「反体制」つまり若者の共闘もあり得ないのである。

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