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2002年11月の6件の記事

2002/11/28

失われた言葉 その2 「風呂を焚く」

 たとえば,厚いアルミサッシに覆われた部屋で,丈夫なプラスチックや金属の食器だけで育てられた子どもにとって,「ガラス」は透明なプラスチックとどれほど違うものだろうか。ほんの小さなカケラでも人の命を奪いかねない鋭利さ,どんなに大切にしていてもちょっとした不注意で永遠に失われてしまうはかなさ,彼らはそんな相反するイメージを「ガラス」という言葉に抱くことができるだろうか。
 もし,子供たちの半数がそのように育てられたとしたら,世の中は「ガラス」という言葉について,同じものを指差しながらまるきり別のものとして会話を繰り広げることになるだろう。
 最近の子どもたちの育てられ方を見るに,これはさほど極端なたとえ話ではないのではないか。

 言葉が失われるのは,「レコード」のように,モノとしての存在が失われる場合だけではない。
 ある日,ふと気がついた。「風呂」という言葉も,「焚く」という言葉もとくに珍しくはないはずなのに,「風呂を焚く」という行為は,いつの間にか多くの家庭から失われてしまった。
 たいてい蛇口をひねるだけか,せいぜいスイッチを押す程度。「風呂をわかしすぎる」「熱い風呂を水でうめる」という行為も実感として把握できない子どもたちがいるかもしれない。ほんの数十年前まで,風呂はどの家庭でも,木材や燃料を直接燃やして「焚く」ものだったはずなのに。

 そもそも最近は,ガスコンロや石油ストーブ以外の,管理されていない「炎」をじっくりと目にする機会が,ない。
 生木の燃えにくさ,ぱちぱちとはぜる音,じうじうとしたたる水気,なめるように炎が広がるさま。熱く燃え盛ったあと,やがて白い灰が揺れて,火鋏で突き崩せば滑らかな赤い断面が心をとろかせる。火照る頬,燃やしたくないものを,それでも炎に投げ込む切なさ。

 僕たちは「快適」の代わりに,数知れぬ言葉を無造作に捨ててきてしまった。
 管理されていない「炎」を見つめたことのない者に,「炎のような」思いは伝わるのだろうか。

2002/11/23

失われた言葉 その1 「レコード店」

 15年ばかり前だったか,CDがあっという間に普及するとともに,「レコード」という言葉はどんどん生活の場から消えていってしまった。
 もちろん言葉そのものはアナログレコードを示すものとして今も生き残ってはいるのだけれど,その隙間に落ちて,「レコード店」という言葉がすごく居心地の悪いものになってしまっている。だって,レコード店に行っても,CDしか置いてないのだから。
 困ったことに「レコード店」の代わりとなる明確な総称はいまだに定着していない。古くからの店は「○○レコード店」のままだったりするし,逆に「○○堂」など屋号だけで押し切る例も少なくない。CDだけではなくてビデオやDVDも扱っているのだから,「CD店」が必ずしも座りがよいわけでもないためだろう。
 こうして,僕たちは「CDを買いにいく」ことはあっても,「レコード店に行く」という共通の語法を失ってしまった。失われたのが言葉だけなのかどうかは,まだよくわからない。

 似たことは,「ステレオ」という言葉についてもいえる。
 かつて,左右にスピーカーを配置したプレイヤーとアンプ,場合によってはそれにチューナーやテープレコーダーを加えたものは,「ステレオ」という言葉でおおよそ誰に対してでも通用したものだった。考えてみれば「ステレオ」はその機器の機能というか特性の1つであって,機器そのものの名称ではなかったのだが,ともかく「ステレオ」と言えば誰しもがあの家具調のオーディオ機器を思い浮かべたものだ。
 ところが,コンパクトタイプの製品が登場したあたりからだんだん雲行きが怪しくなり,アナログレコードプレイヤーが滅びたころにはすっかり「ステレオ」という呼び方も滅びてしまっていた。
 問題は,ここでも代わりの言葉がいまだに登場しないことだ。「CDプレイヤー」? いや,MDプレイヤーやFMチューナーも付いているし。ラジカセとの区別もつかないし。「オーディオ」? 確かにそうだけど。「コンポ」? そうも言うけれど,でも。
 ちなみに我が家の機器のマニュアルには「コンパクト コンポーネント MD システム」とあった。MDの上下に並んだCDプレイヤーやチューナーの立場を思うと,気の毒で夜も寝られない。

 こんなふうに言葉の盛衰を感じるのは,それなりの時間を生きてきたせいかもしれない。少なくとも,十代,二十代にはあまり感じなかったことのように思う。

 たとえば,現在僕たちはビデオプレイヤー(レコーダー)のこともビデオテープのこともビデオテープに録画された映画や番組のことも「ビデオ」と気軽に呼び慣れているが,そのうちDVDやハードディスクレコーダーが家庭に広まると,「ビデオ」という言葉は使われなくなってしまうのかもしれない。
 「テレビ」という言葉はそう簡単には失われそうにないが,そのうちにコンテンツ(番組)の意味,放送システムや局の意味,あるいはディスプレイの意味,これらのうちのどれかに特化したり,どれかが失われたりすることもあるのかもしれない。

2002/11/17

現代版ミス・マープルはトルココーヒーがお好き 『伯爵夫人は万華鏡』 ドロシー・ギルマン,柳沢由美子 訳 / 集英社文庫

99【読み,承ります】

 今夜は少々軽めの本を1冊ご紹介。

 かつてヨーロッパの貴族と結婚して,伯爵夫人の称号を持つ主人公マダム・カリツカ。
 赤ん坊のころに家族はロシアから抜け出し,十代にはアフガニスタンで物乞い。夫を二度亡くし,ブダペストでは大金持ち,アントワープでは一文無しに。彼女は四十代半ばとなった今,アメリカ東海岸で一人ひっそりと暮らしている。
 彼女は控え目で,誠実で,思いやりがあり,しかし大切なことはきっぱりと口にする。そして彼女には,相手の所有物を手のひらに置くと,その性格,過去,未来まで読めるという超能力があった。
 茶色いレンガ造りのアパートに「読み,承ります」の看板を出して千里眼でクライアントの質問に応えるようになって以来,マダム・カリツカは次々と事件を読みとっていく……。

 つまりは,年齢こそは若干若いが,クリスティのミス・マープルである。

 もちろん,千里眼にあたる超能力を犯人探しに利用するなど,本格ミステリとしてはルール違反もいいところだろう。しかし,さまざまな事件を扱ったいくつかの短編の連なりからなる本書は,そうしたミステリとしての無法を感じさせないほどよくできている。それは,事件があって推理が始まるのではなく,マダム・カリツカが「読み」の能力をもって相手の運命を垣間見たところから物語が動き始めるためだ。
 もし,あなたにそういった能力があり,目の前の若者がこれから悲しい事件に巻き込まれることを知ったとき,さあ,あなたはどうするだろう。

 しかも,穏やかな筆致とは裏腹に,描かれる事件そのものは決してささやかないさかいレベルではない。マダム・カリツカのクライアントたちが巻き込まれるのは,あるときはカルト集団であったり,全米を巻き込むテロ事件であったり,冷たく暗い少年犯罪であったりと,それぞれが実はずいぶんと苦くて重い。マダム・カリツカが幼いころにカブールの難民だったという設定もどこか暗示的だ(本書が書かれたのは,もちろん昨年のニューヨークテロ事件よりずっと以前である)。

 マダム・カリツカは,無闇に「正義」を遂行しようとはしない。アドバイスは伝えるが,それを受け入れるかどうかはクライアント次第なのだ。マダム・カリツカは銃で白黒をはっきりさせたがる保安官ではないし,さりとて祈ってばかりいる傍観者でもない。

 煎じ詰めれば,本書を覆っている独特な気配は東洋的な諦念,無常観のベールなのかもしれない。前作『伯爵夫人は超能力』の「人生は山あり谷あり,いいときもあれば悪いときもあって一巡りなのだと悟っていた」という一節など,まさに「人生万事塞翁が馬」と呼応する。
 それが,本書になんともいえない寂寥感と,風景画のような救いを与えている。

 少しつらいことがあるようなとき,手にとって読んでみてはいかがだろう。相手の指輪や腕時計を手のひらに乗せたとき,過去や未来や,それ以外のいろいろなことが読めるのは伯爵夫人だけではないのだから。

2002/11/10

現代語訳された三文メロドラマ 『永久帰還装置』 神林長平 / 朝日ソノラマ

74【ここの環境の言葉で自分の存在を説明するために,記憶の内容を,ここで通用する言語に変換する作業,とでも言えばわかってもらえるだろうか。】

 たとえば,遠い未来の月や火星の都市を舞台にした物語。
 あるいは,常ならぬ能力を持つ人物を主人公とした一人称小説。

 これらは,よしんば現代の日本語で書かれていたとしても,おそらく僕たちの目には「ヘタな翻訳モノ」のように読めることだろう。登場人物たちの言動は不自然であったり,大袈裟であったり,無感動であったりするように見えるに違いない。もし現代の僕たちの生き方,考え方,瑣末な条件反射,風俗習慣と変わらぬように読めるなら,そのほうがよほどウソなのである。

 神林長平はときおりそのように小説を書く。
 彼の一部の作品の文体はよく言えば硬質,悪くいえば箇条書きのようにぶっきらぼうで,従来の文学的感覚からいえば名文とは言いがたい。しかしその不器用そうな文体は,そうあるべきだからそうなのであり,また,そうあることに納得がいくとき,読み手はその文体でなければ得られないリアリティを読み取ることになる。

 先月取り上げた『蒼いくちづけ』は,ざっと次のようなストーリーだった。
 月開発記念市で恋人と信じた男に裏切られ,脳死したテレパスの少女ルシア。やがて彼女の体内に残存した憎悪の念が周囲に災厄をもたらしはじめる。男は,他者の脳内感応細胞を奪いながら逃亡を続ける,やはりテレパスの犯罪者だった。無限心理警察刑事OZは,事件解決のために月に渡る……。

 一方,今回ご紹介する『永久帰還装置』(言うまでもなく「永久機関」のもじりだ)の冒頭は次のような具合だ。
 火星連邦軍が緊急脱出用の小型宇宙機を捕らえた。冬眠状態から目覚めた乗員・蓮角は自分が永久追跡刑事であり,世界を勝手に作り変える能力を持った犯罪者ボルターを追っていること,この世界はボルターが構築したものであることを主張した。彼を調査するために赴いた戦略情報局のケイ・ミンは,彼の言葉を理解できないながらも世界が,自分の過去の記憶が揺らいでいくのを感じる……。

 ご覧のとおり,2つの作品の舞台,構造はかなり似通っている。しかし,最初の数ページに目を通しただけで,同じ作家が書いたとは思えないほどにその印象がかけ離れていることに気がつくだろう。

 『蒼いくちづけ』は,未来の月世界,テレパス能力者を主人公にしている,ということを除けば20世紀的な文体で描かれたありきたりな心理描写の積み重ねであり,「悪役」のルシアへの裏切りにいたっては馬鹿馬鹿しいほどに古典的でさえある(裏切りを告白する必要もないのにルシアを傷つけてみせたのは,その後に続く物語を転がすため,以外に考えられない)。
 しかし,『蒼いくちづけ』の後に書かれた『永久帰還装置』での登場人物たちの会話は,およそ「小説」ふうではない。本書は,奇妙なことにと言うべきか,一種の「恋愛小説」でもあるのだが,蓮角,ケイ・ミン,そして周辺の人物たちの会話は大半がト書き的な状況解説と互いの立場についての理屈を並べたものにしか見えない。
 さりとて,本書が抽象的な,あるいは哲学的な作品である,とするのも正確とは思えない。本書のストーリーをはしょりにはしょってみれば,それは意図せず故郷を追われた男が新しい故郷(女)に一目ぼれする物語にすぎない。

 つまり,『永久帰還装置』は,実のところ,火星を舞台にした三文メロドラマなのだ。しかし,その三文ドラマが神林長平の手によって直訳的に「翻訳」されたとき,僕たちはその「翻訳」の屈折率ゆえに,その類型的でありきたりな恋愛ドラマに勘違いかもしれない何か,質でも量でもない何かを見てしまい,ついうっかり感動してしまうのである。

2002/11/04

オーケストラ,オーケストラー,オーケストリスト 『のだめカンタービレ(3)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

Photo_3【しゅ…… しゅきあり──】

 『のだめカンタービレ』について,もう少し続けたい。

 先日の紹介は1巻読了時点でのものだったが,その後2,3巻も求め,連日この3冊を読み返すのが就眠儀式と化している。
 2,3巻と,主人公・のだめ(野田恵)の浮揚感はさらにとめどなく(1巻を読み返すと,同じのだめが常識人のようだ),さらに続々登場する奇人,変人の束で,舞台の音大はチャームなお化け屋敷と化す。
 と,ここまででも十分お奨めに足る奇妙奇天烈な面白さなのだが,ここでとくに取り上げたいのが,3巻巻末のオーケストラ演奏シーンについてである。

 学生オーケストラの演奏会を描くこの数ページを読んで,あらためて気がつき,あらためてショックを受けたのは,傑作,名作といわれるマンガは少なくないが,3人以上の人物の行動を同時(同一見開き)に描ききった作品は意外と多くはないのではないかということだ。

 たとえば,団体競技であるはずの野球マンガを考えてみよう。ピッチャーが魔球を投げ,バッターがそれを迎え打つ……このとき,あるコマにおいて描かれるのはピッチャーのアップ,フォーム,心境であり,その瞬間はバッターもキャッチャーもその他の野手たちも解説席のアナウンサー同様単なる傍観者に過ぎない。
 外野フェンスを直撃する打球を外野手が追ってフェンスに激突する,そんなシーンは野球マンガでは伝統的だ。しかし,その打球をもう1人の外野手が捕球し,内野手,キャッチャーへと見事な連携,その間ピッチャーはキャッチャーのバックアップ,といった一連の動作をスピーディに(言葉による説明でなく映像として)表現した作品ははたしてあっただろうか?
 サッカーマンガにおいても大差はない。逆サイドを上がる選手がアップになることはあっても,全体のフォーメーションが描かれているわけではない。10人抜きの名プレイが描かれることはあっても,ディフェンスフォーメーションを「確かに攻めにくそうだ!」と描いてみせた作品などないのだ。
 少女マンガのお家芸,バレエマンガはどうか。スポットライトを浴びるのは主人公やそのライバルであって,周辺の踊り子たちは添え物だ。つまり,見開き,もしくは数ページを費やして「群舞」を描ききった作品はそうそうないのではないか。
 スポーツマンガに限ったことではない。たとえばロックバンドを扱った作品の,登場人物たちが息のあったプレイを,というシーンを思い起こしてみよう。その日,ある事件から一皮剥けたギタリストが素晴らしいプレイをしてのけたとき,ドラムはスティックを上げて「どうしたんだ,今夜のヤツの出来は」と,プレイヤーとしては停止していないか。

 例示がくどかったかもしれないが,要はこういうことだ。マンガは映画に似て時間と空間を基盤とするメディアでありながら,複数の登場人物を時間軸,空間軸にそって描くのが不得手なのだ。
 ところが『のだめカンタービレ』3巻では,(おそらくクラシック演奏会のビデオやパンフレットを参考にしたのだろうが)その,マンガがこれまでもっとも不得手としてきた集団による行為,しかも「音」が紙の上では絶対に再現できないにもかかわらず,「オーケストラ」を描く努力(挑戦)がなされ,それがある程度成功しているように思われるのである。

 オーケストラにおいて,それぞれの演奏家の意識は指揮者に,視線は楽譜に,神経は楽器に向けられる。
 観客がオーケストラの演奏を「観る」ことは,これらの都合数百本,いやもっと,の意識や視線のカラフルな矢印が演奏の音に合わせて揺れ,束ねられ,離反し,また集まる,そのさまを味わうということである。オーケストラはそういった装置なのだ。

 白っぽいシンプルな絵柄で「オーケストラ」が「オーケストラ」であることを感じさせ,それゆえの昂揚感まで描いてみせた二ノ宮知子。タダモノではない。

2002/11/01

最近読んだ本 その三 『のだめカンタービレ(1)』『延長戦に入りました』『クリヴィツキー症候群』『ハポン追跡』『カプグラの悪夢』

Photo_4『のだめカンタービレ』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

 イラストレーターこやまけいこ氏のホームページで紹介されていた作品。どれどれと試しに1冊,オンライン書店から注文してみた。
 講談社サイトの紹介によると「クラシックはこんなに愉快!? 変人&おちこぼれピアニスト・のだめ(野田恵)と,オレ様指揮者・千秋の爆笑学園コメディー(ちょっとラブあり)。」

 妹が音大に通っていたのを近くで見ていたためか,音大を舞台にしたマンガのハズれはなんとなく苛立たしい。……が,結果は「2巻,3巻もいっぺんに注文しなかった俺ってfff(フォルティッシシモ)バカ!」だった。
 キャラがいい。テンポがいい。ギャグとおとぼけとシリアスのバランスがよい。

 この自在感と反・自在感のあやなすとっぴんしゃんな面白さって……絵柄もテンポもまるで違うが,佐々木倫子『動物のお医者さん』を知ったときの高揚に似ているような気がする。
 お奨め agitato(アジタート)。

『延長戦に入りました』 奥田英朗 / 幻冬舎

 スポーツ観戦エッセイ集。
 「レスリングのタイツはなぜ乳首をだすのか」「ボブスレーの前から2番目の選手は何をする人なのか?」など,苦笑を招くループシュート連発。この手の「ウォッチャー」本は,笑えるかどうかに加え,実は深いんじゃないの?と思わせられるかどうかがキモなのだが,伝説の名投手沢村が大リーガー相手に好投したのは草薙球場の1試合だけで,ほかの3試合は10点以上とられて大敗したという指摘,日本人大リーガーへの応援や正月の駅伝中継におけるひまつぶしの構造など,そのあたりについても収穫多々アリの1冊であった。

 また,1966年に行われたジャイアント馬場とフリッツ・フォン・エリックの対戦に漂う「たとえ嘘でもノンフィクションと信じるに足る切迫感」という一節には同感。
 そうなのだ。僕も以前,古い力道山の試合の白黒映像を深夜TVで見たのだが,空手チョップの響き渡る映像の暗い重さは,近年のショーアップされた明るいプロレス(K-1やプライドも含めて)の持ち合わせない,ゴツゴツした何かを感じさせた。
 あの気配は,あの時代までは確かに存在した,(裏にストーリーがあったにせよ)ショーでもケンカでも格闘技でもない,何かとしか言いようのないものだった。「戦争」を知らない僕たちは今,あの剥き出しになった互いの殺意を正確に表す言葉を持ち合わせていない。

 もう一点。
 '94年3月に執筆された章には次のような一節がある。「今ならカズがモヒカン刈りにしたら,全国のサッカー少年は後に続くのではないだろうか,」。
 ……まだいるのだろうか,ベッカムヘアの非サッカー部高校生。

『クリヴィツキー症候群』『ハポン追跡』『カプグラの悪夢』 逢坂 剛 / 新潮文庫,講談社文庫

 ミステリ短編のアンソロジーをあれこれ読んでいるうちに,ふと自分が逢坂剛の短編をコンスタントに楽しんでいることに思い当たった。
 ヒマつぶしより少しだけ高いレベルで,少しずつ短編集を読むことにしよう。とりあえず書店,古書店店頭で手にできた上記3冊から。

 いずれも面妖なタイトルである。
 クリヴィツキー将軍は元ロシア赤軍情報部のスパイ。ハポンとはセビリャ郊外に見られるスペインの名字だが,支倉常長の一行の子孫かもしれない。カプグラとは,家族や知人に対し,外見はそっくりでも自分の内部は別の人間であると主張する症候群。
 ……やっぱり面妖だ。

 これらの短編集は現代スペイン史の研究が趣味というフリーの調査員・岡坂神策を主人公に,あるときは現代史の闇を暴き,あるときは謀略のサスペンス,あるときは登場人物のこんがらがった精神を解きほぐす。味わいもビターからクール,サワー,ブラッディまでさまざまだ。
 主人公岡坂は,攻めはたいしたことないが,受け身はそれなりに強いというハードボイルド探偵の典型。スペイン内戦について語らせると学者とタメをはるという設定はなかなか珍しい。脇役も弁護士,精神医学者など理屈方面の抑えが固い。

 要するに,守備範囲が広く,クレバーなセカンドプレイヤーのシブい好守好走塁集,といった感じか。

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