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2002年10月の8件の記事

2002/10/27

『三葉虫の謎 「進化の目撃者」の驚くべき生態』 リチャード・フォーティ,垂水雄ニ 訳 / 早川書房

08【よみがえった三葉虫たちがニューヨークの街を自由気ままに暴れまくり,肌も露わな美女たちを踏みつけ,ビルを殴り倒していく……。】

 三葉虫といえば,それはもう,化石界のアイドルである。

 小さくて,キュートで,大きく3つの部分からなる殻はさらにいくつかの小さな節に分かれ,きっとその下にあったであろう数知れぬ脚はさわさわと優雅かつ細かなステップで水底の泥を掻いたことだろう。
 何を食したのだろうか。光を好んだのか,闇と静寂を好んだのか。
 チキチキと殻のこすれる小さな音が太古の海を満たす。波の音。
 三億年の満ち潮と,三億年の引き潮と。

 ……それにしても,ハイスクールの先生は著者リチャード・フォーティに「文章はわかりやすく,簡潔に!」と指導しなかったのだろうか。
 本書の書き出しはいきなりこうだ。

 「季節はずれの,ボスキャッスルの蜘蛛の巣亭の酒場は,パブとしての条件を何もかも揃えている。」

 蜘蛛の巣亭。何事かと思うではないか。
 この半ページ費やして描写された暖かく居心地のよいパブが三葉虫といかなる関係があるかといえば……。
 関係は,ない。著者がビーニイ崖に向かう前に一休みしただけらしい。
 ともかく暗くなる前に作者と一緒にでかけよう。すべりやすい道のりの描写が延々と続く。どうやらビーニイ崖というのは,トマス・ハーディ(イギリスの詩人,小説家。ナスターシャ・キンスキーの『テス』の原作者)の小説に登場する場所らしい。その小説の主人公は,その崖で宙吊りになって三葉虫の化石を発見するのだそうだ。なるほど!
 ……しかし,どうやらこの崖の地層では三葉虫の化石は発見されそうにないそうなのである。

 本書は一事が万事,そんな調子だ。

 著者の三葉虫についての学識と業績がなみなみならぬものであり,本書にも非常に詳細かつ重要な情報がふんだんに盛り込まれている,ということはわかる。彼は少なからぬ三葉虫に学名をつけ,また少なからぬ三葉虫の学名に彼の名が織り込まれている。だが同時に,彼はたいへんな読書家でもあるらしい。
 たとえばある学者が想定した三葉虫の姿がのちに否定されたことをもって「知識を追い求める旅に終わりはない」とのたまわり,17世紀の詩人ジョン・ドライデンの教訓的な詩を持ち出す。
 また,三葉虫がある時代に突然登場したように見えることについての文言は次のようなものだ。

 「芝居(とりわけ推理劇)が,少しだれはじめたとき,活力を与えるために舞台で用いられる常套的な「手口」は,爆発を持ち込むことだ。ドカーンという轟音! 聴衆は跳び上がって注目する。そして,芝居がかっていえば,もちろんその銃撃の煙幕の下で,殺人をやりおおせることも可能だ。」

 断っておくが,チェチェン武装勢力によるモスクワ劇場占拠事件のことではない。

 ともかく,何かを語るために,これでもかとばかり衒学的,あるいは下世話な比喩,引用がたらふくついてまわるのだ。冒頭の【  】内も,三葉虫の体の構造を語る一節からの引用である。

 言い方を変えてみよう。
 本書は「いかにも大学入試の現代国語の問題に用いられそうな」文章で埋め尽くされているのである。複雑な構文構造,飛び交う代名詞,降り積もる直喩隠喩の山,著名詩人や小説家からの引用,そしてそれらすべての下敷きには,三葉虫について(現時点までに)明らかになった厳密な事実。傍線(1)は何を示すか40字以内で述べよ,傍線(2)によって著者が否定している三葉虫の生態は次のうちどれか。
 しかし,現国の教科書に載せる分には名文かもしれないが,それでハードカバー1冊通されるとさすがにつらい。

 実は,読了した今も,三葉虫の仲間がいつごろ,どのようで,個々の特徴は,体の仕組みは,といった具体的なことについては(書いてあるということはわかるのに!)いまだによく把握できていない。少なくとももう一度目を通さないことには,どうにもなりそうもない。内容が豊穣なことが透けて見えるだけに……。

 なお,文章は多弁だが,写真は能弁だ。
 巻頭,および本文中の随所に挿入された三葉虫の化石写真は素晴らしい。
 巨大で平べったい三葉虫,アルマジロのように殻を丸めた三葉虫,小さくて目のない三葉虫,トンボのように大きな目を持った三葉虫。
 なかでも壮絶なのは,縦横に刺をはやした三葉虫を見事に立体的に剖出(プレパレーション)した数葉の写真である。牛の角,というより竜のヒゲのように曲がりくねった刺を剖出したものさえある。驚きだ。感動だ。

 やっぱり,三葉虫は,化石界のアイドルなのだ。

2002/10/25

幾何学的ナ薔薇ト死ト 『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』 澁澤龍彦 / 学研M文庫

57 澁澤龍彦については1980年代前半に河出書房新社,中央公論社,福武書店などから立て続けに文庫が発行され,それまで単行本や全集本で読んでいたものもついつい手に取り,読み返したものだ。
(河出書房新社は,この20年の間に断続的に40冊もの澁澤の著作を文庫で発売し,その一方,90年代後半には1冊5000~8000円ほどもする大部の澁澤龍彦全集,澁澤龍彦翻訳全集を発刊している。奇特というか,欲がないとえばない,計画性がないといえばない会社である。)

 そうこうするうち,ここ数年は澁澤の本を手にしても,なんとなくぱらぱらとめくってめぼしい章題のところにだけ目を通し,そのうちにほかの本に目移りしてしまうということを繰り返すようになってしまった。
 読み手のこちらの変節に由来することはわかっている。最近はなかなかプリニウス,黒魔術,錬金術,シュルレアリスム等々といった澁澤的な世界に浸る気分にはなれなかったため,噛み砕いていえば,澁澤による「癒し」を必要とする余裕がなかったためである。ちっとも噛み砕いたことにはならないが。

 しかし,最後のエッセイ集とされる本書『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』は,よかった。
 一篇一篇は新聞掲載のコラムであったり,書籍に寄せた解説であったりの短文なのだが,おそらく編集者にテーマを指定されて請われて書いたためだろう,かえって「自在」な面が強く浮き出た気がしてならない。
 下咽頭癌の入院記(闘病記ではない),幼年時代の懐古録,旅の思い出などを含むおそろしく雑多な短文の中では,澁澤らしいテーマ,らしくないテーマ,その作家や画家を知らないと何のことやらわけのわからないテキスト(これは彼の場合珍しいことではないが)などあれこれだが,全体を通してみればまことに肩の力の抜けた,まさに澁澤龍彦なのであった。
 そうしてその細やかなテキストに触れるうちに,メリメ,リラダン,クロソウスキー,それぞれ久しく手にしていない本の類をふと読んでみたいと思えてくる……。いや,それらを実際に読んでみて,それが今の己にしっくりくるとは実のところ思えないのだが,それでも「それらを読みたいと思わされた」ところでもうなにやら満たされた気分になってしまう。

 細部では,第一回,第二回の幻想文学新人賞の選評にある「夢みたいな雰囲気のものを書けば幻想になると信じこんでいるひとが多いようだ。もっと幾何学的精神を! と私はいいたい。明確な線や輪郭で,細部をくっきりと描かなければ幻想にはならないのだということを知ってほしい。」という一説には我が意を得たり,の気分であった。実際,恐ろしい夢,後に引く夢というのは,妙に細部がリアルではないか。

 また,雑誌の企画ものであろうが,澁澤龍彦の選ぶ「海外ミステリー愛読書ベスト10」,「澁澤龍彦が選ぶ私の大好きな10篇」(小説),「ポルノグラフィー BEST 10」などが掲載されているのもありがたい。未読のものを少しずつ注文していこうか,などとつらつら考えたりもする。
 もっとも,「ポルノグラフィー BEST 10」といってもそこは澁澤龍彦である。サド,ビアズレー,マンディアルグ,バタイユらが並んでいるのは,まぁ当然といってしまえば当然なのだが。

2002/10/21

最近読んだ本 そのニ 『クリムゾン・リバー』『はやぶさ新八御用帳 十 幽霊屋敷の女』『蒼いくちづけ』

64『クリムゾン・リバー』 ジャン=クリストフ・グランジェ,平岡 敦 訳 / 創元推理文庫

 以前から気になっていた作品。積ん読で1年放置して,ようやく読了。

 「古い大学町周辺で次々に発見される惨殺死体。両眼をえぐられ,両腕を切断され…。同じ頃別の町で起きた謎の墓荒らし。二つの事件の接点は何か?」

 設定は魅力的だし,早い展開もぞくぞく。読み始めると止まらない。墓荒らしに続く子供の写真をめぐる展開もウスラサムイ。
 だが……最終章にたどりついたころには「なんだかな」と脱力感が沸くのもまた事実。
 第一に,あまりにも映画化を狙いすぎた印象。元花形刑事ながら激すると前後の見境なくして度を過ごした暴力に走るニエマンス警視正はどう読んでもジャン・レノを意識しているとしか思えない(実際映画ではジャン・レノが演じている)。もう1人,アラブ人二世のカリム・アブドゥフ警部,彼がニエマンス警視正同様,暴力的な面と知的執拗さを併せ持っているのも,映像にはしやすいかもしれないが通してみると主人公がしぼれない印象。接点のなかった2人の暴力性,抱える闇の色が似かよりすぎているのだ。
 第二に,事件を生んだ背景の「陰謀」だが……壮大なようで運任せ,そもそも幼稚園バスを乗っ取って地球征服,みたいなところはないか。キーワードがあまりに多すぎ,伏線が一気にまとまるのでなく説明的に終わってしまうのも残念。山ほどの伏線を片付けた力ワザを評価すべきかもしれないが,それよりむしろ伏線をしぼるべきだった。

 それにしても……ジャン=クリストフって,あちらではよくある名前なのか?

『はやぶさ新八御用帳 十 幽霊屋敷の女』 平岩弓枝 / 講談社文庫

 『はやぶさ新八御用帳』の主人公・隼新八郎は,南町奉行根岸肥前守鎮衛の内与力,つまり奉行直属の家臣である。
 初期はその特異な立場,役分をベースに大奥にかかわる隠微な事件などを扱っていたのだが,最近は江戸市井の事件が少なくない。同じ作者の『御宿かわせみ』シリーズとの境界がどんどんあいまいになっているのである。おまけに当初は相思相愛のお鯉とのなさぬ仲が1つの焦点だったのに,お鯉が肥後守の身の回りの世話をするようになってからはその手の葛藤も途絶え,本書では当初添え物(ないしお鯉との恋仲の香辛料)のような存在だった妻の郁江との穏やかな関係を主題とした短編さえ用意されている。
 いくら江戸時代とはいえ,男側に少々都合がよすぎやしないか。『御宿かわせみ』にも男に都合のよい局面はあるが,主人公はもう少し(現代風に)途方に暮れている。

 ところで新八の上司の根岸肥前守鎮衛といえば『耳嚢』(江戸期の巷の怪談,奇談を蒐集したもの。最近『耳袋の怪』として角川文庫から抄訳が発行されている。お奨め。)の作者と思われるが,本シリーズ中には一度もそのような話題が登場しない。はて。

『蒼いくちづけ』 神林長林 / ハヤカワ文庫

 神林長平。この名の周りには『遅れてきた……』というビラがひらひら舞っているような気がする。もし,この国のSFが質・量ともに最もパワフルだった時代に彼が間に合っていれば……。
 もちろん,そのような「れば・たら」はあり得ず,彼の作風が国内外のSFの熟成と疲弊を受けてのものだということはわかっているつもりだ。それでも,彼におよそライバルといえる作家がいなかったことが悔やまれる。彼には強烈な資質があるが,素質の領域から次の領域に進まないと彼をあざ笑う,そんな圧倒的な存在は少なくとも彼の周辺には見受けられない。ほぼ同期にデビューした梶尾真治,森下一仁,岬兄悟,その時期にすでに作家としての地位を固めていたかんべむさし,横田順彌,山田正紀,高千穂遙,川又千秋……いずれも同じSF作家でありながら神林の作風とはおよそ異なり,互いの作風についての的確な議論が成り立つとすら思えない。
 だが,当時,SFは撤退に次ぐ撤退の時期で,少しでも人気,実力のあるプロパーに期待するしかなかったに違いない。だから,『戦闘妖精・雪風』ほどのものを書きながら,神林はこの『蒼いくちづけ』のような作品も書いてしまう。依頼がきてしまう。

 本作の出来が悪い,ということではない。
 脳死を迎えた精神感応者ルシアの憎悪の念とテレパス犯罪者を追う無限心理警察刑事OZ……この設定は神林ならではのものであり,あちらこちらに彼ならではのゆがみ,ギミック,諦観と再生への希求力が見られる。
 しかし,このラブロマンスはB級だ。B級がいけないなどということではない。いまやこの国に現役でA級のSFを書ける人間なぞ数えるほどしかいないのに,その1人がB級ラブロマンスに時間を費やすことが惜しいのだ。B級はB級のスペシャリストに任せておけばよいのだ。

2002/10/20

最近読んだ本 その一 『陰陽師 鳳凰の巻』『蘆屋家の崩壊』

46 例によって,取り上げるタイミングを逸してそのまま棚ざらしになってしまった本が少なくない。くだくだ余計なことを書き連ねるより,とりあえず駆け足で紹介しておこう。

『陰陽師 鳳凰の巻』 夢枕 獏 / 文春文庫

 パッと咲いてパッと散った感のある陰陽師ブーム。少なくとも各社から新刊,文庫が相次ぐといった状況は沈静化しているようだ。
 本書は今回の陰陽師ブームの火付け役,いわば元祖陰陽師マンジュウ,本家陰陽師センベイ,老舗陰陽師カリーライス(ええい,くどい!)のシリーズ久々の文庫化。
 巻頭の「泰山府君祭」をぱらりと開く。ふむ。ほう。もう止まらない。さくさく,おっ今回はライバルの蘆屋道満が相手か。すたたた,むむむ。
 ……と,おなじみのシンプルな文体に見事引き込まれる。晴明と博雅の会話の妙も相変わらずだ。

   「ゆこう」
   「ゆこう」
   そういうことになった。

 全編,このテンポである。
 逆にいえば全7編,ほとんど同じリズム,同じ展開なのは少々残念。1冊の作品集としてみると,類似品が7作並んでいる印象で,それはどうなのだろう。1作くらいは晴明がピンチに陥るとか,博雅が思いがけない活躍をしてのけるとか,もう少しそういう揺れがあってもよいように思われるのだが……。

 岡野玲子のコミック単行本も10巻が出て以来久しく停滞したままで,なんとなくすっきりしない心持ちである。

『蘆屋家の崩壊』 津原泰水 / 集英社文庫

 続けてこの本を紹介するのは実は若干問題があるのだが,それを推測できる方には同じことだし,よしとしよう(身勝手)。
 無論,本書のタイトルはE.A.Poeの高名なうえにも高名な「アッシャー家の崩壊」のパロディである。それゆえ半可通のおふざけ短編集かと敬遠していたのだが,別のアンソロジーで同じ作者の「超鼠記」を読み,気になって手に取った次第。
 内容は,「定職を持たない猿渡と小説家の伯爵は豆腐好きが縁で結びついたコンビ。伯爵の取材に運転手として同行する先々でなぜか遭遇する,身の毛もよだつ怪奇現象」。……いやはや,この「伯爵」だの「豆腐」だののなんとなく白っぽく粉を吹いた感じに,そのような書物であろうと敬遠したのはもったいないことだった。実のところ非常に濃密な怪奇短編集である。「ホラー」という言葉すらそぐわない,純文学寄りのねっとりした中にも芯のある文体,心理的にも生理的にもかなり粘着質な恐怖を招くストーリー。この,心理的にも生理的にも,というあたりがなかなかに得がたい。

 世間では巻末の「水牛群」の評価が高いようだが,正直(クオリティはともかく)爾来純文学同人誌や新人の作品ではこの手の神経症的幻覚譚はそう珍しいものではない。そこで,ここではきっちり「埋葬虫」をお奨めしたい。現代ホラーでは「虫モノ」は1つジャンルを立てており,文字通り「よだった身の毛から虫が這い出る」ような佳作が少なくないのだが,その中でもおぞおぞとキモチワルイことこのうえなし。

 なお,本書の「伯爵」は怪奇アンソロジストとして著名な井上雅彦がモデルだそうである。『スラムダンク』『バガボンド』の作者が井上雄彦,Yahoo! JAPANの社長が井上雅博。……だからなんだといわれても困るが。

2002/10/17

乾いた喉にミネラル新本格……? 『放浪探偵と七つの殺人』 歌野晶午 / 講談社文庫

96【とっとと自首して楽になりましょうよ】

 1960年代後半から70年代前半のメッセージフォーク,ハードロック,プログレッシブロックなどやや重めの音や歌詞にかぶれた世代にとって,1975~76年当時のポップス状況はなんとも居心地の悪いものだった。ラジオのトップ10はオリビア・ニュートンジョンやジョン・デンバー,ベイ・シティ・ローラーズらの生ぬるい音に占領され,クイーン,イーグルスとてボーカルグループかイージーリスニングスにしか聞こえない。街にあふれるディスコサウンドも甘すぎてたまらない。
 この時代があったからこそ,パンク,テクノ,ニューウェイブがあれほど輝いて聞こえたのだろう。それは乾いた喉に,冷えた水のようにきらきらと染みとおった。多少カルキくさくても許せるというものである。

 1970年代後半から80年代前半にかけて,「本格ミステリ」ファンも似たような状況にあえいでいた。
 泡坂妻夫『11枚のとらんぷ』『乱れからくり』,竹本健治『匣の中の失楽』,島田荘司『占星術殺人事件』,あるいは都筑道夫の一部作品といった突発的な花火を除き,書店にあふれるのは赤川次郎,西村京太郎,山村美沙,夏樹静子らの大量生産型TVドラマ向きサスペンス,もしくはユーモアミステリ,トラベルミステリのたぐいが大半だったためだ。
 だからこそ1987年の綾辻行人の登場は衝撃的だった。綾辻作品そのものには「はてな,こんなでいいのか?」という面も実はあったのだが,「本格だ本格だ」の喜びの前に展開の無理押しなど瑣末な問題だったのである。

 綾辻についで講談社からは歌野晶午『長い家の殺人』『白い家の殺人』,法月綸太郎『密閉教室』『誰彼』『頼子のために』,我孫子武丸『8の殺人』『人形はこたつで推理する』,東京創元社からは折原一『五つの棺』『倒錯のロンド』,有栖川有栖『月光ゲーム』『孤島パズル』,北村薫『空飛ぶ馬』『覆面作家は二人いる』などが登場する。いずれも「最終章の手前までちゃんと読めば犯人が推理できるはず」という身構えで書かれた作品群である。
 ちなみに「新本格」というのは正しくは当時の講談社ノベルスの一連の新人の作品に与えられた惹句。講談社組に京大ミステリ研出身者が多いのも特徴の1つである(講談社ノベルスの若手が島田荘司の推薦を受けて登場するのに対し,東京創元社のほうは鮎川哲也を本尊とする)。

 ……と,「新本格」ムーブメントの状況をリアルタイムに追っていたのは,このあたりまで。
 当時は綾辻はもちろん「新本格」と銘打たれた若手のパズラー,加えて島田荘司,東野圭吾らの新刊はほとんど無条件に読んでいたものだが,その情熱は数年で失せた。
 「本格ミステリは推理ゲームが主で,人間が描かれているかどうかは必要条件でない」とする新本格の考え方はそれなりに評価できるが,パズルだけではどうしても飽きがくる。さらには作者たちの,大学ミステリ研のOBどうし,あるいは派閥的な「おつきあい」がハナについてうんざりする面もあった。その「くさみ」は文庫の解説の持ち上げ合いにとくに強い。

 そのため,ミステリ全体から足が遠のき,京極夏彦の登場には反応が遅れ,宮部みゆき,森博嗣等は「トレンドのお勉強」レベルでしか読んでいない(実際,楽しめない)。二階堂黎人,加納朋子,麻耶雄嵩等は読んでいないか読んでもすぐ放り出し,それ以降の新人にいたっては誰が誰だか把握できないような状況である。

 とはいいつつ,社会派,ユーモア,トラベルミステリに比べれば,やはり圧倒的に「本格」が好きだ。というわけで,鮎川哲也主催の一般公募作品集や,新本格系の作家の文庫を見ればついお付き合いしてしまうことも少なくない。

 さて,ようやく今回のお題までたどりついた。

 歌野晶午は,「新本格」というくくりで語られる作家の中では,比較的早い時期にデビューしている。文庫化も早い。……にもかかわらず,明確な特徴を打ち立てられずにいる作家の1人,かもしれない。
 実際,『長い家の殺人』『白い家の殺人』『動く家の殺人』など初期の作品以来,コンスタントに読んできたはずなのだが,「それなりに奇想天外な犯人や殺害方法を提供してくれる」程度の印象しかない。綾辻や我孫子,有栖川ほど「タカビー」な感じもしないが,さりとて彼等以上とほめられるほどでもない……。ただ,犯罪方法や犯人当ての思いがけなさという面ではよくもあしくもお奨めで,丁寧に読めば伏線から推理できそうな,しかしラストの探偵の推理を聞かされてはじめて「おやまあ」という,そういった読後感が強い。もっとも,およそ人間的ドラマとして深いわけでもなんでもないため,読後30分もするとそのトリックをまるごと忘れてしまうのがオチなのだが。

 本作『放浪探偵と七つの殺人』は,歌野晶午のオリジナル探偵・信濃譲二をフューチャーした短編集。全体に,被害者(死体)の発見のされ方がエグく(とはいえ綾辻『殺人鬼』,我孫子『殺戮にいたる病』ほどではない),ひげ面で一年中タンクトップにビーチサンダルという探偵は決してスマートとはいえないが,推理そのものはなかなかトリッキーで楽しめる。講談社ノベルス版では,解答編がすべて袋綴じになっていた,その一事からも本シリーズの「目的」がご想像いただけるのではないか。

 およそミステリとして強くお奨めする,といえるほどの水準のものではないかもしれないが,このような本が必要な時間というのは誰しもあるはずだ。何かで時間に追われているとき,あるいは何かにいらだっているとき,そんなときに実はとてもよい本なのかもしれない。

2002/10/14

食いしん坊なマンガといえば… 『水に犬 -DOG IN THE POOL-』 村上もとか / 講談社モーニングKC

09【カオ・カー・ムーにカポ・プラーのスープ パッ・ペッ・ムー・パアにナム・プリック・オーン この店のヤツは特に辛くてうまいんだ】

 『トルコで私も考えた』のトルコ料理やお菓子がなんとも旨そう……とながめているうちに,ぜひとも紹介しておきたい本を1冊思い出した。
 『水に犬』はモーニングに断続的に掲載された。1993年48~50号,94年39号~40号,95年39号~41号。つまり単行本1冊分,短編3作に足掛け3年というわけだ。

 「タイ内務省警察局中央犯罪捜査部(CSD)第7課のボスは,スラム出身ながらも名門大学を卒業したワッサン大佐だ。日夜,タイ全土にわたる凶悪犯罪と格闘するエリート刑事だが,プライベートでは日本人の妻を愛する食いしん坊のノンキなオジサン。」(カバーの惹句より)
 タイでは警官は薄給ゆえ民衆からのタカリ,ゆすりも少なくなく,幹部は私服を肥やして高級外車を乗り回す。そんな中,CSD第7課(通称 犯罪制圧特課)はワッサン大佐を中心に巨悪,不正を摘発していく。取り引き価格にして4億バーツのヘロイン,ミャンマー国境の森林乱伐,サウジアラビア王室宝石盗難事件……。

 作者の村上もとかは徹底した取材と綿密な描き込みで知られており(F1を扱った作品では「ブロロロロ…」等のエグゾーストノーツすらエンジン別,いやそのコンディション別に描き分けられていたという伝説がある),本作でもタイ取材をもとにしたバンコクの風物がじっくり,びっしり描き込まれている。
 ただ,旺盛な取材や描写力はともすると「描写」そのものを目的としかねない。代表作の1つ『六三四の剣』では剣道シーンにすさまじいばかりの労力がかけられているが,実は主人公がどうして剣道やライバルとの闘いにそこまで執着するのかはよくわからない。両親ともに剣道家,六三四も子供のころから剣道が大好き,大きくなっても剣道に熱心だった,だけの話といってしまえばそれまでなのである。

 それに比べ,『水に犬』はタイトルどおり「泥の川を泳ぎ渡ろうとしているヤセ犬」「途中で多少の泥水飲んだって」と清濁合わせ呑む鷹揚で豪快なキャラクターを得て,村上もとかとしては短いながら読み応えのある佳作となっている。作中ワッサン大佐は再三「マイペンライ」(英語でいえば「No problem」「Take it easy」,日本語だと「まっ,いいか」「大丈夫」)を連発するが,実のところ凶悪犯罪や不正を暴き,身内の腐敗までえぐるワッサン大佐の捜査は執拗かつ合理的で,犯罪の構造そのものと合わせてその読み応えは深い。
 また,随所に登場するタイ料理も『水に犬』の魅力の1つで,くつくつと熱く,辛く,甘く,読んでいるだけで汗が噴き出してきてしまいそうだ。

 単行本は1995年秋に発売されてわりあいすぐに品切れになってしまったが,早期の再販が望まれる。勤務時間中などにマンガ喫茶等にお出掛けの際は,ぜひご一読願いたい。……なに,仕事中はまずくないかって? マイペンライ!

2002/10/13

Hayirli olsun! 『トルコで私も考えた(3)』 高橋由佳利 / 集英社(ヤングユーコミックス)

88【行動の自由と貞節はトルコではまた別の話である】

 以前取り上げた高橋由佳利『トルコで私も考えた』の新刊だ。以前っていつだよと調べてみるとなんと2年以上も前のことである。驚いた。

 そういえばワールドカップ堂々の第3位,トルコのパス回しはほんと目に鮮やかだったよね……などまっすぐに内容に入れないのは,本書について必要なことの大半は前回書いてしまったから。でもいいんですよ。もう1回取り上げたい。

 相変わらずコミックスとしては異常なほど読み通すのに時間がかかる。文字が多いということもあるけれど,内容が細部にわたり素通りできないため。本書で描かれるトルコの生活習慣が日本の現在のそれとあまりにも異なること,それが積み重なってトルコの人々のモノの考え方,ひいては我々日本人の生き様についてまで考えさせられること。

 もちろんそんな重ったるい読み方をせずとも
「ほーっ,トルコの結婚写真では,二人がバラの花や炎に囲まれて情熱的なポーズを決めるですか!」
とか,
「トルコでは子供たちをベタベタに甘やかす,でもその子供たちは日本の子供たちより年長者やお年寄りを大切にするのね」
とかいって驚いたりため息をついたりすれば十分,ではあるのだが……。

 少女漫画家高橋由佳利が,あくまで通りすがり,異邦人として,いわば趣味嗜好の延長でトルコにかかわった第1巻に比べ,トルコ人の夫を得,子供も大きくなった現在の作者の視点はもはや旅行記といった次元にはない。

 トルコの映画の話題,デートのしかた,お菓子やスープ,サラダのレシピ,空き巣の話,病院の話などなど,トルコの歩き方的というかトルコウォーカー的というか,そういう情報源として読む手もあるだろうがそれだけではもったいない。
 ここには肯定すべき人間の話がぎゅうぎゅう詰まっている。どうだろう,キーワードは「祝福」と「大家族」か?

2002/10/07

模型の本をもう1冊 『田宮模型の仕事』 田宮俊作 / 文春文庫

601【もし願いが叶うのであれば,もう一度最初からやってみたい】

 今年8月の,マブチモーター社長宅の放火殺人事件の報には,少なからぬ中年男性たちが胸をざわつかせたのではないか。モーターライズプラモデルのエンジンにあたるマブチ15モーターや水中モーターは,単なるおもちゃの部品としてだけでなく,その当時の少年たちにとっては骨の髄まで染みた大切なアイテムだったからである。
(水中モーターを船底に取り付ける方法に,凹凸の標準化と吸盤の2つを用意した柔軟性は,今でもまことに素晴らしいと思う。)

 プラモデル,プラモデル,プラモデル……。

 なんと甘美な響きだろう。なんと胸躍る言葉だったろう。
 それは,昭和30年代から40年代前半の少年たちにとって,本当に限られた機会にしか手に入れられない高価かつ魅力的なおもちゃであり,(当時まだ世界を席巻していた)科学・技術の導く素晴らしい未来と力の象徴でもあった。
 無粋な表現を用いれば,昭和30年代の後半にラジコン戦車のプラモデルを持っていることは,それだけで5人の子分を引き連れて近所を歩けるほどのステータスだったはずだ。
 もちろん,現在の子供たちにも,ゲーム機,ポケモン,ミニ四駆,ベイブレードなど,さまざまなジャンルのおもちゃがあり,それが彼ら個々のステータスに結びついているのは確かである。しかし,軍艦,戦車,戦闘機,スポーツカー,SFメカ,怪獣,ロボット,TVマンガのキャラクター,はては城や日本刀にいたるまで,あらゆるジャンルを含有しつつ,「プラモデル」という括りでそのトータルの魅力を語り得る,その独特な手応えはほかに思い当たるものがない。

 本書『田宮模型の仕事』は,☆☆のロゴマークで知られるプラモデルの老舗「田宮模型」の現社長・田宮俊作氏が同社の歴史,プラモデルのあるべき姿を語った記録であり,ページを埋め尽くすその苦いスタート,熱いハート,深いポリシーがぐいぐいと胸を打つ。少年時代の憧憬の対象だったプラモデルが,これほどまでの心構え,これほどまでの苦心の果てに製作されていたのかと思うと,その時代に子供であったことの喜びに涙が止まらない。読者を選ぶかもしれないが,選ばれた読者にはまことに良書であるといえる1冊だろう。

 田宮模型はもともと木工の模型を製造,販売する会社だったものが,1950年代後半にアメリカからプラモデルが上陸し,木工をあきらめてまったく未知のプラモデル開発を手がけ,苦心の末に技術や販売網を世界を対象に築き上げてきた,というのが本書のあらましである。
 横暴な金型屋とのやり取り,人気イラストレーター小松崎茂(イマイのサンダーバードのあの箱絵の作者)との知遇,パンサー戦車のヒット,スロットカーブームの短期終焉など,少年時代の記憶を埋めてくれる記述が続く。ソ連大使館に戦車の資料を求めて公安に後を追われたり,アバディーン戦車博物館(アメリカ)で寝食を忘れて戦車の写真を撮りまくったり,ソ連製戦車の撮影のためにイスラエルにわたったり,著者やスタッフの「とことん」な心意気が感動的である。
 その「とことん」な姿勢に太い芯として通っているのは,F1カーの模型についてホンダ社内会議で機密漏洩が話題とされるほどの徹底した取材,そしてその取材結果のプラモデルへの反映である。
 一方興味深いのは,ミニ四駆などのヒット作では,その徹底したスケーリングとは逆のデフォルメが効果を上げていることであったりするのだが……。

 プラモデルの魅力にはいろいろな要素があるとは思うが,1つには,著者も指摘しているように,それが「工作」であることを推したい。
 子供たちが自分の手でゼロから戦車や軍艦を作るのはさすがに難しい。しかし,プラモデルなら,部品を切り取り,バリを削り,組み立て,接着剤で貼り,場合によってはラッカーを塗ったり,ジオラマを作成したり,と,自分の手で確かなものを作り上げていくことができる。
 タミヤのミニ四駆が,単にプラモデルを組み立てるだけでなく,より速くより安定して走ることを目標に,子供たちがさまざまな工具を用いて工夫を重ねたブームだったことは知られるとおりである。おもちゃを買い与えられるというパッシブな事件が,自分の手の中でアクティブなイベントに変わっていく,そこがプラモデルのたまらない魅力なのである。

 本書は,そんなプラモデルの開発に賭けた男たちの,本当に熱い記録だ。ここに描かれたことは1つの成功事例だが,それはプラスティックではなく,リアルな人間の心が組み上げた1/1のビジネスモデルなのである。

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