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2002年9月の8件の記事

2002/09/30

『眼で食べる日本人 食品サンプルはこうして生まれた』 野瀬泰申 / 旭屋出版

44【作り物だからつまらないのではなく,よくできた作り物だから面白いのだ。】

 たとえば技術革新というと,やれ「スーパーコンピュータの並列処理が」とか,「巨大な建造物が」とか,「世界を結ぶ衛星ネットワークが」とか,そういった大仰な話になりがちだ。しかし,個人的には「缶ジュースのプルトップって,誰が考えたか簡単で安全ですごいなあ」とか,「フライパンのテフロン加工って主婦のストレスをものすごく軽減してるはず」とか,そういった生活に密着して結果もわかりやすいキチっとした技術,アイデアのほうが興味深い。魔法瓶にポンプを組み合わせたアイデア,パキパキ折れるカッターなども素晴らしいと思う。
 逆に,「シャープペンシルは0.9ミリから0.5ミリへの進化はあっという間だったのに,それより細い方向に進まないのはなぜだろう」とか,「これだけピッキングが問題となっているのに,安価で安全な鍵というのは開発されないものだな」といった不思議もある。

 本の世界もそう。
 人生の道標となるディープな小説もよい,南北問題を視野に世界経済を扱ったドキュメンタリーも必要だろう。でも,ごくまれながら,身近なテーマに焦点を当て,タイニーではあるがかっちりしたレポートとして仕立て上げてくれた本は,それはそれとして得がたい読書の喜びを与えてくれる。

 本書『眼で食べる日本人』は,そういった意味で実に見事な1冊といえるだろう。

 第一に,テーマ選択が素晴らしい。
 本書は,私たち日本人が生活の中で再三目にしながらとくに深く考えることもなく過ごしてきた「食品サンプル」,つまりレストランやデパートの食品コーナー,ファストフードのウィンドウに並べられたスパゲッティや弁当,菓子等のサンプルに着目し,その歴史に着目する。食品サンプルには業界団体がない。そのため全国のメーカー数,市場規模,従業員数など一切がまとめられておらず,技術史,文献のたぐいもない。そのような状況の中,著者はこつこつと人から人を渡り歩くような取材を続け,食品サンプルの発生の時期,草創期を担った何人かの名前を少しずつ明らかにしていく。

 第二に,選ばれたテーマが語る事実が素晴らしい。
 前項のように著者が明らかにした草創期に,ではなぜ食品サンプルは必要とされたのか。それは大正,昭和前期における日本の社会経済的背景を語ることにつながり,日本人と食について考察していくことにつながる。それはまた,この国の百貨店文化,食堂文化を語ることに等しい。著者が記すように「一面識もないこの3人がほぼ同じころ,期せずして食品サンプルを作り始めたのは……(中略)……時代が食品サンプルを必要としたのである」。

 第三に,それによって得られる視点が素晴らしい。
 たとえば,著者はラーメンのサンプルで,ビニールの管を刻んだものがネギに,黒いビニール布がノリに見えることを例に,「模型」と「サンプル」の違いについて触れ,後者は「概観するものであり,詳細な観察を前提としていないから,記号の集合体で十分なのである」とする。喫茶店のサンプルケースにコーヒーや紅茶のサンプルがあるのは,サンプルの持つ記号性に意味があるためだと説く。
 本書では,食についてのこういった視点がさまざまな切り口から提起される。同じ名称のメニューが地方によっていかに変遷するか(地方による「カツ丼」「たぬき」「きつね」「コショウ」「すじ」の違い,など),逆に似た食べ物に日本人はいかに深い名称をつけるか(「時雨煮」「天草四郎すし」「木の葉丼」「ウィンブル丼」など)。
 これらは,単に食品サンプルの様子や,メニューの地域差だけでなく,日常私たちが見聞きしていることがいかなる意味や背景を持つかということを示唆している。デパートのレストランで食品サンプルに目をやり,入店し,椅子に腰掛け,食事をし,レジで料金を支払う,これだけのことに実はさまざまな歴史や意味が重ねられていることを知る快感,逆に日ごろ気にもとめてなかったことに思いをやると,そこからさまざまな情報が立ち上がってくる,その手応え。

 欧米やアジア各国での食品サンプルの扱われ方についても触れ,ちょっとした日本人論となりつつ,かといって無理な高言にはいたらずあくまで食品サンプルについて語り尽くそうとする本書。巻頭の食品サンプルの例,巻末の食品サンプル制作工程等掲載写真も驚愕を呼ぶ。

2002/09/23

順番の物語 『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』(全26巻) ゆうきまさみ / 小学館少年サンデーコミックス

27【どれもいいね!(竹岡竜二)】

 乱暴な括り方をしてしまえば,少年マンガのメインテーマは,主人公もしくは読み手の「かくありたい自分」である。

 苦心惨憺ののち,主人公が「かくありたい自分」の枠にピタリとはまり,それを衆目に実証してみせたとき,読み手はそのカタルシスに溜飲を下げ,こぶしを握ることだろう。逆に,運命に翻弄された主人公がいかに願っても「かくありたい自分」に近づくことがかなわないとき,読み手は自分のことのように身悶えて涙するかもしれない。あるいは登場人物が「かくありたい自分」どころか(往々にして無意識のうちに)それを数段飛び超えた存在であることが示されたとき,その作品は「永遠の名作」と呼ばれたりもする。たとえば『ドラゴンボール』,『キャプテン』,『スラムダンク』,エトセトラ。

 もちろんこんなことはごく一部の少年マンガのごく一面に過ぎず,何ほどのことでもない。多分この程度のツジツマなら,「努力・友情・勝利」なり,ほかの言葉でも適当に組み上げられるだろう。
 が,まぁ今回は「かくありたい自分」から話を起こすことを許していただこう。

 「かくありたい自分」を表に出し,それにまっしぐらに邁進する。これなら実のところ話は早い。
 「強いってどんなんだろう……強いって……いったいどんな気持ちですか?」とチャンピオンを目指す『はじめの一歩』,「おれは世界一の海賊王になる」とゴムゴムのパーンチ!『ワンピース』など,そういうシンプルな構造の例にはことかかない。
 一方,「かくありたい自分」が見つからず,「かくありたい自分」を探す過程そのものをテーマとする作品も決して少なくはない。たとえば手塚治虫作品の大半が,実はこれに属す。

 少年サンデーに長期連載され,北海道・渡会(わたらい)牧場を舞台に,競馬界に馬を送り出す側の日常を詳細に描き上げた『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は,都会の平凡な高校生として「かくありたい自分」を見いだせずにいた若者のモラトリアムなあり方が明示された作品の1つである。主人公・久世駿平の「自分」を求める路程は実に「学業」「就職」「親からの自立」「得恋~結婚」「学業への復帰」「仕事の成就」……とまったく見事なまでに自分探しの旅ワンセット揃い踏みオプション付きパックツアーである。

 ポイントは,駿平が決してスーパーマンでも二枚目でもないことだ。
 恋仲のひびきにさえ「能天気ナ声ト──間ノ抜ケタ表情──」と酷評され,多くのコマで膝を曲げただらしない姿勢で描かれるまことに頼りないお調子者の若者。彼は高校の休みにツーリングに出たまま渡会牧場でアルバイトすることになるが,その姿勢は正面から牧場の仕事に立ち向かうほどでもなければ,現実から逃げ出したというほどでもない。
 かといってこの頼りなさが読み手に身近な印象を与え,本作の人気に結びついた……ようにもとても思えない。なぜなら,彼の資質がいかに凡庸であっったとしても,渡会牧場はおそらく大半の読者にとって「異郷」であり「異界」であったはずだからである。

 部外者にはせいぜい馬に飼葉を与える絵柄くらいしか思い浮かばない牧場業務だが,本作ではそれが微に入り細に渡り(それも特別なこととしてでなく)描かれる。朝6時半に目覚めても「普段よりずっと長寝」という次第で,全ページデリケートな馬の面倒を中心とした牧場の日常の業務,生活がコマを埋め尽くしている。渡会家の少し変わった間取りや,家族の風呂の順番,洗濯の時間帯など,少年マンガとは思えない密度で詳細に描かれていることも,おそらく理由のないことではないのだ。

 『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』の登場人物のうち,少なくとも駿平やひびきは,ダービーなどのGIレースに直接騎乗するわけではない。渡会牧場の仕事は,よりよい馬を送り出すことにある。彼らには産駒が大きなレースで勝利する喜びがあるが,当然のことながらその時点ではその馬は馬主のものであり,その面倒すら厩舎の管理下にあって,もはや彼らの管轄下ではないのである。
 他者に何かを受け渡したところで完結する,これは,特殊な例を除けば,実は仕事や生活というものの本質だ。つまり,都会住まいの能天気な高校生であった駿平が足を踏み入れた「異郷」「異界」は,まさしくリアルな仕事や生活の場であったわけである。その「場」で,駿平は少しずつ「仕事」をする「自分」を見出していくが,その成長はまことに遅々としたものであり,その動機もひびきへの恋愛感情であったり,双子の馬(ヒメ,ヒコ)を産ませてしまったことへの責任感であったり,錯綜するがゆえに四六時中揺れて定まらず,ときには牧場の仕事を投げ出して都会に戻ったりしてしまう。

 本作の後半,かみ合わなかったひびきとの関係が相思相愛に,さらには思いがけない妊娠から結婚にいたる過程,また勝てるとは誰しもが思わなかった双子のヒメ,ヒコの活躍など,やはりマンガだけに都合のよい夢のような展開が続く。しかし,それは必ずしもマンガでなければ絶対にあり得ないほどのことではない。
 読み手の少年たちの多くが迎えるであろうパッとしない人生とはいえ,第一希望の大学に落ちても第二,第三希望に合格できたとき,日ごろもてなくとも見合い相手からOKの返事がもらえたとき,共稼ぎできなくなって厳しいとぼやきながらも第一子誕生を喜ぶとき,同期より少し遅れても課長に出世できたとき,などなど,そのときどきに人は心に祝杯をあげる。それはスーパーサイア人でなくとも,まさにその青年が得た自己実現の瞬間なのである。
 本作は数々の落胆と,そのような日常の中の喜びとその手応えを得た若者の物語である。だからこそ25巻のひびきの何気ない「あんた、ヒコの面倒で疲れ果てて眠っちゃって、ずっと夢見てるのかもよ。」というセリフは冗談とわかっていても駿平を(読み手を)ひやりと打つ。

 そして,駿平の若さ,幼さがそれほど目立たない程度にのどかな渡会牧場の「仕事」が,一皮向けば非常に厳しい大人の世界につながるものであることを明言するかのように,作者の「競馬」界側の描き方は徹底してリアルでクールである。中央競馬にかかわるシーンだけを抜き出して読んだとき,そこにはがっちりとした重荷をしょわされ,それでもなおかつ淡々と働き続ける大人の日常がある。
 少なくとも,本作26巻において,駿平のリアリティはその世界の厳しさには到底いたらない。一子をなしてなお駿平は子供であり,「かくありたい自分」への道のりがまだ続くことを示して物語はいったん閉ざされる。

 ところで『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』がこのように仕事や生活を詳細に描き上げた結果,当然の帰結として,世間の一般家庭で避けられない問題は作中でも重いいさかいとして浮上する。たとえば,駿平を一流の大学に進学させて一流の会社に,と考える母親と駿平の仕事観には最後まで歩み寄りがなく,またこの母親とひびきとのいわゆる嫁・姑問題はかなり早い時点から明示され,やはり最後まで一切の解決を見ない。
 総じて駿平の母親は,一人息子に対してごく当たり前の期待をかけているにすぎないにもかかわらず,常に主人公たちの夢の前に立ちふさがる存在として描かれて気の毒なばかりだ(最終回,15年後の主人公たちを描くエピローグにも,渡会牧場の主な面々に対し,駿平の両親は父母とも登場しない)。

 最後にもう一点,本作は「順番」の物語でもある。
 作者ゆうきまさみの癖かもしれないが,なにかというと「順番」にこだわるのだ。たとえば,
 22巻ではひびきの妊娠発覚に,駿平がひびきの母親に結婚を口ばしり,ひびきが「順番が違うっ!!」
 同じく22巻,駿平の母親にひびきの妊娠と駿平の獣医大進学の意思を説明するのに,ひびきが「普通に説明したらいいんでないの。……だからさ、始めから順番に。」
 23巻では渡会家の次女たづなに駿平が大学進学の意思を説明するのに「だ…だからそれは順番が違うんだよ!
 25巻では渡会家の長女あぶみの夫候補たる猪口繁行が,披露宴より先に子供を宿した駿平・ひびきに「ちょっと順番を間違えたからな、君たち。」
 26巻では交通事故を起こして怪我をした醍醐悟(のちのあぶみの夫)に対して猪口父が「醍醐の社長も息子に先に死なれたらかなわんぞ。順番を間違えたらだめさ。」

 考えてみれば,競馬こそは何よりも順番にこだわるものではあるのだが。

2002/09/21

『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その3

 ところで,一つ,不思議なことがあります。

 いしいひさいちの『現代思想の遭難者たち』,いや,原本の『現代思想の冒険者たち』の顔ぶれに,サルトルが入っていないのです。サルトルの場合,哲学者より文学者の色合いが強いせいもあるかもしれませんが,カフカ,バタイユ,バシュラールらを取り上げているのだからそれだけではないでしょう。また,実存主義なんて当節ではぱっとしない,というなら,構造主義だってぱっとしているとは思えません。

 結局,講談社はサルトルを語れる著者の人脈にさほど強くない,ということなのかもしれません。
 いや……講談社に限らず,サルトルについて語る書籍がどうも少ないように思えてならないのは私だけでしょうか。紀伊国屋BookWebで「サルトル」をキーワードに和書検索をかけて,ひっかかるのは113冊。品切れ,絶版も含めてのこの数字は,サルトルのネームバリューからするとおよそ多いとはとても思えません。
 もちろん,有名であるから実際に読まれている,理解されている,などというつもりもありません。『資本論』を読破した者がどれほどいるかを想定してもそれは明らか。それにしても,サルトルは読まれていない。

 思うにこれは,サルトルの主な作品を長年にわたって翻訳,発行してきた人文書院に,少なからぬ責任のあることではないでしょうか。おそらく『嘔吐』あたりには,何度も文庫化の話が舞い込んだはず。いや,まさしく『嘔吐』さえ文庫化なっていたならば,興味本位であれ本好きな読者がサルトルに直接触れる機会が格段に増え,その中で何人かが熱心な読者,あるいは著者の側に回ったかもしれず……。

 『アンドレ・ブルトン集成』を未完のままにしたことといい,気持ちと苦労はわからないでもありませんが,なんだかなぁ,人文書院。いや,人文書院の本は好きなだけに。

『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その2

 大修館書店から『ウィトゲンシュタイン全集』が発行された当時というのは,今思えばちょっとした「現代思想」ブームだったように思います。シュルレアリスム,オカルト・錬金術,論理哲学についての出版が相次いだ時期でもありました。早い話,白水社,みすず書房,人文書院,青土社などなどが現在とは比較にならないほど元気だった,ということです。

 当時のアイテムの1つに,朝日出版社の「エピステーメー叢書」というムックがありました。「ユリイカ」や「現代思想」を分厚くし,縦にも長くしたような版型で,黄色から青,赤のグラデーションを用いたカラフルな背表紙が書店店頭でも目立ったものでした。

 このエピステーメーが,もう,なんとも,難解。というより,もう少しわかりやすく書けなくもないことを,意図的に思いっきり晦渋に書き著すのが目的! といわんばかりの記事が並び,困る以前にとほほと苦笑いするしかないような,そんな読後感でした。今,もう一度手に取ると,さてやっぱり難しくて手に負えないのか,それとも細部は難しいながらも全体はそれなりに見渡せるのか,さぁ,どうなんでしょう。
 我が家の本棚には今もこのエピステーメーが数冊残っているのですが,資料的に必要になるとも思えないのに捨てもしない,そのココロは,言うなれば1970年代に流行ったベルボトムのジーンズ,それも膝のところにストーンズのアイロンシール(べろんと舌を出した,アレ)をあしらったものを捨てられずに衣装箪笥にしまってある,とかいうのに近いかもしれません。

 思うに,講談社の『現代思想の冒険者たち』は,このエピステーメーのセンを狙ったものではないでしょうか。いや,エピステーメーに比べれば格段に「本文を読んでもらう」つもりではあるようですが,要は現代の若者が哲学にちょいと意識を引っ掛け,ブームでもファッションでもよいから知的好奇心の触手を伸ばすことを期待しているのではないかと……。
 今のところ,『ソフィーの世界』のような具合にはいたっていないようですが。

2002/09/18

『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その1

 一昨日の拙評をものするため、多少は勉強しなくてはとWeb上のページを調べて歩いたのですが、その際に講談社のサイトで見かけた『現代思想の遭難者たち』の惹句は次のとおりでした。

 ハイデガー、フッサール、メルロ=ポンティといった現代思想の巨人たちを4コマ漫画で鋭く風刺した傑作集。この漫画を描くために、いしい氏は全31巻もある『現代思想の冒険者たち』(小社刊)を読み込んだという。

 ちょっと考えてみればわかることですが,これは時系列的に少しばかりおかしいようです。
 『現代思想の遭難者たち』が『現代思想の冒険者たち』の「月報」に掲載された作品を中心としているなら,その制作は少なくとも印刷製本納品工程においてほぼ同時でなくてはなりません。『冒険者たち』にはさみ込む月報の原稿を描くのに『冒険者たち』を読み込めた,はずはありませんよね。
 もちろん,いしいひさいちが個々の思想家,哲学者について勉強したことはおおよそ間違いないはずで,『冒険者たち』のゲラを早い時点で読み込んだということはあったかもしれませんが、言葉の正確な意味からすると,講談社の惹句は勇み足気味であると言わざるを得ないでしょう。

 ところで「月報」といえば,大修館書店発行の『ウィトゲンシュタイン全集』の月報を懐かしく思い出します。正確には1975年に発行された『論理哲学論考』収録の第一巻の「別冊付録」なのですが(「月報」はさらにそれにはさみ込まれた形でした)。
 この別冊付録はウィトゲンシュタインの生涯,年譜,文献表からなっており,とくに黒崎宏による(多少演出の過ぎる)評伝が,短いながらなんとも「たまらない」味わいでした。
 自殺した兄のこと,ホワイトヘッドとの共著を著した当時のラッセルとの出会いのこと,トラクルやリルケら文学者の寄附のことなどが,たとえば次のような文体でじゃきんじゃきんと語られているのです。

 (ウィトゲンシュタインの三人の姉について)ルートウィッヒはヘルミネを最も愛し,ヘレネを好まず,マルガレーテとは終生,愛しつつ戦った。

 ウィトゲンシュタインの著作そのものについては、当方がおよそ論理的な頭の持ち主ではないため、ほとんど「禅問答」あるいは「前衛詩」としてしか読めなかったのですが(それゆえに面白く読めた、ということもいえなくはないかもしれませんが)、ウィトゲンシュタインに対していまだになんとなく好もしい、いや正直に申し上げれば「かっこいい!」イメージがあるのは、多分にこの別冊付録、月報のなせるわざだったに違いありません。

 それにつけても、『論考』の要所要所に鉛筆で線を引いてあるのなどを今見ると、いやもうその勇敢さに赤面のいたり。ほてほて。

2002/09/16

およそ4コマとなりうるものは明晰に4コマにされる 『現代思想の遭難者たち』 いしいひさいち / 講談社

Photo【レヴィナスは嫁に食わすな。】

 いしいひさいちには,どことなく底知れぬ,不気味な側面がある。

 たとえばこの「くるくる回転図書館」でも何度か取り上げた双葉社「ドーナツブックス」のタイトルだが,これをもう一度思い返してみよう。

 いわく『存在と無知』『丸と罰』『健康と平和』『玉子と乞食』『老人と梅』『いかにも葡萄』『椎茸たべた人々』『垢と風呂』『ああ無精』『長距離走者の気の毒』
 いわんや『まだらの干物』『馬力の太鼓』『美女と野球』『フラダンスの犬』『かくも長き漫才』『学問のスズメ』『麦と変態』『不思議の国の空巣』『ドンブリ市民』『泥棒の石』
 とりもなおさず『毛沢東双六』『とかげのアン』『伊豆のうどん粉』『公団嵐が丘』『出前とその弟子』『女の一升瓶』『任侠の家』『パリは揉めているか』『風の玉三郎』『アンタ・カレーニシナ』『テニスに死す』『お高慢と偏見』
 あまつさえ『失禁園』『酒乱童子』『錯乱の園』『クローン猫』

 言うまでもなく,これらは古今東西の文学作品タイトルのパロディであり,これらのタイトルを考案したのは文学部露文出身,もしくは露文を志向した編集者ではないかと言う推測についてはすでに述べた(2冊めと7冊めにドストエフスキー,それも『虐げられた人々』とはシブい,というのがその最大の論拠なのだが)。
 しかし,いしいひさいちがどことなく得体がしれない原因は,関西の凡庸な家族のばたばたを描いた『ののちゃん』を連載しつつ,ちくまの文学全集3セットくらいは当然のように読みこなしていそうな,そのあたりの「知的化け物」的気配にある。そもそも,このパロディタイトル群は,いかにも彼の作品的であり,初期の仲野荘モノあたりを彷彿とさせるではないか。

 実際,いしいひさいちの一連の作品には,さまざまなミステリ作品やその登場人物をおちょくったもの,正面から書評に取り組んだもの,あるいは純文作家やミステリ作家の日常を(妙に詳細に)笑いのめしたもの,などが多数存在する。自身がマンガ家として創作の側,出版社の近隣にいるから,だけでは説明のつかない,この妙にリアルな,妙に場慣れした手応えは何だろう,何故なのだろう。

 そのいしいひさいちが,とうとう現代思想,つまりは哲学の領域にまで手を伸ばしたのが今回取り上げる『現代思想の遭難者たち』である。
 本作品は,講談社刊行『現代思想の冒険者たち』(全31巻,1996年5月~1999年3月刊)の月報に掲載された4コマ作品に書き下ろしを多数加え,またそれぞれの思想家についての注釈執筆にあたっては同シリーズを大いに参照した,とのことである。
 取り上げられているのは,ハイデガー,フッサール,ウィトゲンシュタイン,ニーチェ,マルクス,フロイトからレヴィ=ストロース,バルト,フーコー,はてはバタイユ,ベンヤミン,メルロ=ポンティ,あげくにバフチン,ポパー,ルカーチってどんな食べ物だったっけ,などなどの総勢34人。

 本を手に取って,まず表紙のジェリコー「メデューズ号の筏」のパロディにいきなり圧倒されてしまう。絵柄はまさしくいしいひさいちなのに,このカットは異様なばかりに物を語るのである。
 本文をパラパラめくってみると,章立て,つまり登場する思想家たちの名称がすべてフルネームでないことに気がつく。いかなる意図からかは不明だが,生没年まで記載しながらファーストネームは無視されているのである。どこか,読み手を試すようでもある。実際のところ,フルネームをすらっと言えない思想家については,ギブアップとしか言いようがない。ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン,ジグムント・フロイト,フランツ・カフカ,ロラン・バルト,ジョルジュ・バタイユ,ガストン・バシュラール……要するに,それなりに読んだことがあったり勉強したことがあったりする思想家ならなんとかしてみようとも思えるのだが,そうでない場合はお手上げ,当たり前といえば当たり前だが。

 さて,では,パロディとして,あるいは4コマギャグとして,あるいは(無理を承知の)現代思想入門マンガとして,本書はどうか。
 評価は難しい。当然ながらどうもこのような作品に落とし込むのにも向き不向きはあるようで,たとえばウィトゲンシュタインはなんとなく笑えたが,ニーチェやカフカはどうもイメージがそぐわなかった。かと思えば,その思想家についてはちんぷんかんぷんと言ってよいほど知識がないのに,それなりに笑えてしまうものもあった。
 要するに,読み手のこちらが十分に原本の「現代思想の冒険者たち」に追いついていないので,それを扱ったいしいひさいち作品を味わうにはいたらないのである。

 おそらく,同じプロ野球を扱っても,実際の試合やインタビューをベースにあくまでリアルな選手本人を笑いの対象としたはた山ハッチ(=やくみつる)に比べて,その選手をモチーフとしつつ,いつしかまったくその選手を離れたいしいひさいち独自のキャラクターと化してしまう「タブチくん」シリーズのようなことがここでも起こっているのだろう。ただ,いしいひさいちの評価が一筋縄ではいかないのは,選手当人を離れて突飛でしつこい表現となっているにもかかわらず,やがてその選手が引退してしまうと,いしいひさいちが描いた選手像があたかも本当のその選手であったかのような強烈な刷り込み,いや逆にいえば,すなわちいしいひさいちがその選手の実像を喝破して描いていたとしか思えないようなこと,がこの『現代思想の遭難者たち』においても起こっているのかもしれない……(あなたは,いしいひさいちの描いたヒロオカ監督以外の広岡達郎を思い浮かべることができるだろうか。ヤスダやマツオカ,タツノリ,ヒロサワについても同様)。
 評価は非常に難しいが,とりあえず本棚において数十年は待ってみたい,ひょっとすると30年後に本書を片手に「えーうーれーかーーぁ!」と叫ぶ自分の姿が……なにしろ言葉は深い風呂の表面に張った皮膜のようなものであるからして。

 それにしても困ってしまうのは,本書がどれほどのものであるのかを誰かに尋ねたくとも,適任者がいないということである。本書で取り上げられた思想家たちのことなどよくわからない,という書評家の言葉はそもそも座標に欠けるし,よくわかるという書評家の言葉はすでに十分に疑わしいからだ。いやしょーみのところ,ほんまに。

2002/09/09

何してる人ですかー? 『セクシーボイス アンド ロボ』(#1) 黒田硫黄 / 小学館 BIG COMICS IKKI

68【いやー、いろんな人がいるのは、本当驚くばかりだけど。】

 将来スパイか占い師になりたいと考えるニコ(林 二湖)は,七色の声色を利用してテレクラのサクラを演ずる14歳の中学生。いつものようにテレクラで誘い出した男たちを喫茶店の窓から観察しているところに声をかけてきた謎のおじいさんの依頼に応え,頼りにならない子分・ロボ(須藤威一郎)を運転手兼お供にしたがえて,今日もニコは事件を追う……。

 と,B級アクションマンガのようなタイトルや設定だけを抜き出せばまるで黒田硫黄の作品ではないように思われなくもないが,ページを開いてしまえばやはり筆ペンで描かれたいつもの黒田硫黄である。

 黒田硫黄の魅力を,その作品を見たことのない人に伝えるのは難しい……のは実は当たり前のことで,本来,音楽であれ美術作品であれ,何かを奏で,あるいは描いてそれを伝えるためにその形態が選ばれている以上,それ以外の手段でそれが伝えられるはずはない。他の手段を持って伝えられるなら,その作品の魅力などたかが知れているということなのだ。
 ……とかなんとか,ついつい屁理屈をこねてしまうのも,黒田硫黄の作品が他の作家の作品とは一線を画したものであり,その独自性をつい誰かに伝えたい衝動にかられてしまうからにほかならない。たとえば,手塚治虫や大友克洋,あるいは岡崎京子,まぁ誰でもいいのだが,それら他の作家を語るのと同じ文体,文脈では,黒田硫黄について語れそうもない。唯一思い浮かぶのは安部慎一の黒く太い線だが,黒田硫黄と安部慎一を比較したって何が始まるわけでもないだろう。とりあえず黒田硫黄がガロでデビューして青林堂の類型に納まらずにすんだことを今は喜びたい。

 さて,黒田硫黄についておおよそ一般に言われていることは,その奇想天外,奔放な展開,意外なアングル,コマ割り,洒脱なセリフのやり取りといったところだろうか。とはいえ,これらは新しい魅力的なマンガ家については必ず言えるはずの,というかマンガというジャンルそのものが持っている構造的な魅力であって,だとしたら黒田硫黄作品はマンガとして正しく面白い,ということに過ぎない。
 しかし,実のところ,コマ割りは意外とオーソドックスであり,また画力がずば抜けて高いかといえば必ずしもそうではない。精密さ,巧緻,バラエティといった要素には明らかに欠けるし,若い女たちは描き分けがきかずたいがい同じ顔に見える。

 ここではたとえば「情交」という言葉を持ち出してみよう。
 「情交」というと色恋沙汰,それも肉体関係を交えた場合に用いることが多いように思うが,黒田硫黄の描くコマには,そこに登場する男女の間に肉体関係がなくとも,いやそもそも恋愛感情にあたるものがなくとも,濃い「情交」が感じられる。ただ黙ってその空間に同席するだけで,あるいは突拍子もない会話を交わすだけで,濃密な情交の圧力がかもし出される,そんな感じである。しかも,ト書きにあたる「説明」がほとんどないから,読み手はただもう黒田硫黄の提供するセリフと登場人物たちの表情からあらゆることを読み取ろうとするしかない。そのボリュームが,厚い。

 収録作の中で,個人的には「タワーの男」が一番強く印象に残った。
 ベッドの上で股を開きマニュキュア,ペディキュアを塗りながらテレクラのサクラを演じる少年のようなニコ,その電話の相手で,次世代高速携帯電話の開発を担当するエンジニア・相模武夫。鈍色に内から光るような相模武夫の色男っぷり,有能ぶりと,それに見合う見事なばかりの壊れっぷり。次世代高機能オタクのあるべき姿を見るような思いである。

 以上,『茄子』の新刊(講談社 アフタヌ-ンKC)を紹介したかったが,どうもうまく説明がつかないので少し前に発売された本書を取り上げた次第。『茄子』の連載は終わったそうだが,漬けるも焼くも,要注意である。黒田硫黄。

2002/09/02

愛しの首長竜たちよ 『世界最大の恐竜博2002』(主催:朝日新聞社,NHK,NHKプロモーション,共催:国立科学博物館)

45【きみ,なかなか大きいなぁ。】

 8月頭から家人と子供たちが田舎に帰っていたため,この夏は単身赴任同然。帳尻合わせというわけではありませんが,夏休み最後の日にようやく家族そろって,幕張メッセの『世界最大の恐竜博2002』に行ってまいりました。

 目玉は全長35メートルにおよぶセイスモサウルス(大地をゆるがすトカゲという意味だそうです)の全身復元骨格。これまでもあちらこちらの博物館で竜脚類の復元骨格は見てきましたが,これほど大きいのは記憶にありません。尻尾だけでもこーこーかーーらーーーーーこーーーーーーーーーーこーーーーーーーーーーまーーーーーーーーーーーーでーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ,ぜいぜい,というくらい,長い。あんなの,どうやって支えていたんでしょうね。

 今回の展示は,セイスモサイルス,マメンチサウルス,ディプロドクス,カマラサウルス,アパトサウルス,ダトウサウルス,クンミンゴサウルス,クラメリサウルスなどなどの竜脚類(いわゆる首長竜)と,アロサウルス,ティラノサウルス,ガソサウルス,サウロファガナクス,トルボサウルス,シンラプトル,モノロフォサウルスなどの顎の大きな肉食恐竜が中心で,オーソドックスといえばオーソドックスな恐竜の品揃え。
 その分,それ以外のシブめの面々はあまり置いてありません。
 いちおう剣竜類からステゴサウルス,鎧竜類からガストニアが展示されていましたが,大好きな鎧竜はもう少し見てみたいところでしたし,オシャレな角竜,つまりトリケラトプスやカスモサウルス,ステラコサウルスたちはカタログの系統樹にすら影も形もありません。これはちょっと寂しい。
 逆にいえば,ここ十数年ブームの続いていた子育て恐竜マイアサウラ,頭のコブで頭突き合戦をしていたららしいパキケファロサウルス,同じく頭に特徴のあるカモノハシ竜パラサウロロフスの3種には少々食傷気味だっただけに,それらが目玉になってなくてほっとした面は否定できません。

 個人的には,ひょっとしたらこれが世界最大かもしれないアルゼンチノサウルスのドでかい背骨の一部を見られたこと(骨1個で200~300kgあるそうです),中国で発見されたマメンチサウルスの首が本の図解どおり本当に長いことをこの目で確認できたことなどに満足。アフリカで発見された原始的な竜脚類ジョバリアの二足で立った復元骨格がかっこよくて,写真も撮れて,これまた大満足。ああ,幕張メッセくらい広い豪邸を建てて,ジョバリアをペットに飼いたい! エサ代が大変だろうけれど。

 それにしても,夏休み最後ということもあってか,素晴らしい人出でした。
 入場券をすでに持っていて,それで入場に1時間待ちです。かといって人数制限してるとかそういうわけではありませんから,中は人,人,人の寄せ鍋状態。ちょっと珍しそうな展示物を見るには人ごみを数メートル押し分けねばならず,あきらめたものも少なくありません。子供の写真を撮ろうにも,少し離れるとあっという間にぎゅうぎゅう人がはさまって,しかたなくアップばかり。

 一点気になったのは,最近,美術館や博覧会など,大きな展示会では音声ガイドが珍しくなくなったこと。
 あれはあれで説明を受けるにはよいのでしょうが,どうも音声に気をとられて,目の前の作品や展示物に気持ちが集中しないような気がしないでもありません。クイズの紙ペラまでセットになっていて,今回は子供たちに音声ガイドを持たせたのをほんの少し後悔しました。そういうのはテレビや本で十分な気がします。

 もう一点。会場の随所に主催のNHKがらみで作成されたと思われるCGによる恐竜のビデオ映像が流れているのですが,今回のものに限らず,どうしてCG動画による恐竜はあのようにせわしなく首や腰を振るのでしょうか。大きな爬虫類には,ワニやリクガメのように悠然泰然としていてほしい。B級アイドルタレントじゃないんだから,あのように四六時中ヘラヘラと首を振らず,山口百恵のように(?)首を据え,目線を落ち着けてほしいと思うのは私だけでしょうか。……要するに,アメリカ産ゴジラより,国産ゴジラの動きのほうがよいな,と,いう話のような気もしますが。

 ともかく心躍る1日ではありました。
 子供たちの夢に,セイスモサイルスは歩いているでしょうか。

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