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2002年7月の5件の記事

2002/07/29

朽ち果てて,風化して 『廃墟霊の記憶』 板橋雅弘 文,岩切 等 写真 / 角川ホラー文庫

05【深夜,ここでセックスをするなんて,ただの肝試しだ。】

 「廃墟という趣味」について初めて知ったのはスポーツライター山際淳司の記事によって,だったかと思う。アメリカでは,休日にゴーストタウンを訪ねる趣味があり,写真を撮ったり廃屋に残された生活用品類を手に取ったり,確かそのような内容だった。
 その後も長崎の軍艦島をはじめとする廃墟の写真集が地道に売れているらしい,とか,廃墟を舞台にした映画が廃屋で上映されてマニアが集まったとか,静かにブームは続いているようだ。

 『廃墟霊の記憶』は,雑誌「SPY」に連載されたフォトエッセイが1992年マガジンハウスから『失楽園物語』として単行本化,さらに今年になって文庫化されたものである。

 廃墟めぐりの趣味はないし,本物・見世物を問わずお化け屋敷を訪ねたいとも思わない。それでも,廃屋に前にするときの,あのなんとも言えない思いはわかるような気がする。
 埼玉県K市に住んでいたころ,家人の運転で郊外に車をめぐらせると,工事途中でバブルが崩壊してそのままとなった巨大なマンションの棟があり,夕暮れから夜にかけて,そこを通りかかるたびに少し怖さのまじった暗い気持ちになったものだ。人が住み始める前であの気配である。このマンションはその数年後,体裁を整えて売りに出されたが,あの数百の窓に人が住み,そののちに廃屋と化したなら,何か出ないほうがおかしい。

 『廃墟霊の記憶』は全体的には意外とキワモノではなく,文章的にも落ち着いて読めるものだった。過分なアオリもなく,むしろ淡々と閉館された映画館,金の採掘場後,30年以上運行されてないモノレールなどを訪ね,紹介する文章は好感が持てる。
 ただ,「幽霊ホテル」として有名な琵琶湖湖畔の木の岡レイクサイドホテル(表紙写真),スペシャル級の「お化け屋敷」相模外科病院跡などをまじえたため,「ひとが勝手につくり,勝手に捨ててしまった物件たちに,かつての賑わいの残り香を嗅ごうと思って」という当初のルポの目的が曖昧になってしまったようにも思われる。
 要するに「廃墟めぐり」に「お化け屋敷めぐり」が必要以上にまざってしまったわけである。読み手にしてみると,住宅展示場と化した大阪球場やブームの終焉した幸福駅などの章に焦点が合わせにくいのだ。

 念のために言っておけば,本書は角川ホラー文庫にありながら,ホラーの要素はほとんどない。幽霊が出ると有名な現場に赴いても,どのようないわくつきの幽霊がどのように出るか,という話はほとんど触れられていない。
 だから怖い,という面もなきにしもあらずだが……。

 ところで,「SPY」連載時に編集者として付き合ったのはどうやら西原理恵子との親交でも知られる(正確にはサイバラとの付き合い以外ではよく知らない)新保信長らしい。いや,そもそも,著者の板橋雅弘という名前に覚えがあるので誰だろうと思ったら……少年マガジンに長年連載されたあのほのぼのラブラブコミック「BOYS BE…」の原作者だった。なるほどねえ。

2002/07/22

怖さひりひり 『新耳袋 現代百物語 第七夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー

Photo_4【ふみひこ は だめ】

 怖い話は聞くのも話すのも大好きで,かつて,とあるパソコン通信ネットの会議室でオンライン百物語が始まったときには,喜んで夜毎踊り明かしたものだ。インターネットが普及するよりずいぶん前の話である。
 ただ残念なことに,猫も杓子もインターネットの昨今と違い,当時は参加者が決して多いとはいえず,季節の移ろいに伴ってだんだん怪談のアップ数が減り,感想や雑談はにぎわったものの結局百話に満たないうちに会議室ごと沈んでしまった。
 不思議なのは,日々怪談の題材を求めていると,勘が冴えてくるというか,うっかり呼んでしまうというか,ほうっておいても怪しい気配がにじり寄ってきたことだ。もともとは霊感が強いとかいうほうではないのだが,当時はいくたびかおかしな気配を感じたり,つじつまの合わない思いをしたりしたものである。
 今でも残念に思うのだが,このオンライン百物語,百話めがアップされていたならはたして何が起こったのだろうか……。

 それはさておき,独特のひりひりした怖さで知られる『新耳袋』の新刊である。
 最近は文庫,コミック,映像化など,メディア展開もにぎにぎしい『新耳袋』だが,凡百の怪談集と異なるのは,このシリーズがいかにもな「心霊」モノ,あるいはセミプロの手による創作モノでない,市井の「不思議」体験をヒアリングして集めた点にある。いわば,現代の「遠野物語」なのだ。
 したがって,その中にはもちろん,友達の兄姉の友達とやらによる作り話,いかにもどこかで語られていた怪談のリメーク,あるいは話者の単なる思い込みや夢とおぼしきもの,などまで含まれているようにも思われるが,逆に,なんとも説明のつかない,得体の知れない話も少なくない。

 たとえば,新刊の第七夜には,次のような話が掲載されている。
 中古の一戸建てを購入すると,壁が妙に厚い。大工を呼んで調べてもらうと,なぜか壁の中に食器棚が塗り込められ,平皿,深皿,グラスまでが揃っていた……。
 これは,怖い。前の住居者は,いかなる意図で食器棚を壁に塗り込んだのか。その背景にはいかなる事態があったのか……。
(ただ,この話には,ちょっと気のきいたオチが用意されており,話としてはよく出来ている分,一種出来すぎともなってしまっている。語りが巧すぎると,かえって作り話に見えやすい,ということである。)

 一方,旅館で寝ていると歯ぎしりの音が,とか,天井から女の手が,とかいった話は一つ一つはそう怖くない。閉めたはずの押し入れが気がつくと少し開いているという話がすでに山岸凉子の単行本のタイトルとなっているなど,よくある怪談の一パターンと化したものが少なくないためである。

 いずれにしても,部屋の体感温度を確実に5℃は下げてくれる本シリーズ,寝苦しい夜にはお奨め。
 今回はどれがとくにということではないが,全体に,ここ数冊の中では怖い印象がある。テナントの入りの悪いビルの屋上に揺れていたものとか,回っている皿がすべて空で,客が全員席に座ったままうつむいている回転寿司屋だとか……。

2002/07/15

人間とアイアイ,謎なのはどちら? 『アイアイの謎』 島 泰三 / どうぶつ社

65【バナナを食べる。卵を食べる。使う指がバナナでは薬指,卵では中指である。】

 朝日新聞・日曜版の書評欄とは,どうも相性が悪い。
 なんというか,「著者が長年にわたって丹念に調べ上げた市井の○○はその時代を反映して……」といった具合に,時代への意味付け,社会変革に役立つかどうか,そういった(その本の内容とは必ずしも一致しない)価値観があまりにも前面に濃厚すぎ,いやなかなか面白かった,ではすませてもらえないことが少なくないからだ。
 いきおい,紹介される本のラインナップも道徳臭,説教臭が強くなる。たとえば最近紹介された文庫をざっとリストアップすると,次のような具合だ。
  宮崎和加子『家で死ぬのはわがままですか』
  根深誠『シェルパ』
  高野裕美子『サイレント・ナイト』
  アエラ編集部編『女は私で生きる』
  筒井康隆『わたしのグランパ』
  吉行あぐり『あぐり 95年の奇跡』
  塩倉裕『引きこもる若者たち』
  村上龍『希望の国のエクソダス』
  鈴木浩三『資本主義は江戸で生まれた』
……一部を除き,文庫というよりは岩波の新書新刊一覧といった趣である。

 もちろん,そのような選択がなされるのはそうしたニーズがあるということで,もちろん心ときめいて注文を急ぎたくなる本が取り上げられることもないわけではない。

 本書『アイアイの謎』が作家の堀江敏幸によって紹介されたのは6月9日。
 マダガスカル固有の原猿類アイアイをうたう童謡がなぜ「アイアイ アイアイ おさるさんだよ」とことさらに「おさるさん」だと断りを入れなければならないのかと疑問を提示し,その回答として本書を推奨するその手際やよし,もとより奇態な生物についての本は嫌いではない。早速その日のうちに紀伊国屋BookWebに注文を入れた。

 アイアイについては,正直,何一つ知らない。
 霊長類としては例外的に耳が大きく,その耳には毛が生えていないこと。リスに似た歯をもち,19世紀半ばまではげっ歯類(ネズミやリスの仲間)とみなされていたこと。中指が曲がったワイヤーのように細く長く,薬指が最も太くて長いこと。アフリカとモザンビーク海峡を隔てたマダガスカル固有の哺乳類の一種であること。マダガスカルには大型の原猿類もいたが,ここ数百年の間に何種類もが絶滅したこと。残る種も,国土の8割にも及ぶ野焼きのために絶滅の危機に瀕していること。

 アイアイそのものはまことに不思議な生き物であり,その特徴的な耳や指がいかなる食性を意味するかを究明する道すじは一種の探偵小説のようで興味深い。
 しかし,本書を手にしたことが読書として爽快だったかといえば,残念ながらそうでもない。

 夜行性の動物だからやむを得ないのだろうが,ポケモンのピカチュウ,いやピチュウを思わせるアイアイの写真はいずれもフラッシュに目が光って無気味だし,その撮影がアイアイにとって必ずしも快適なものではなかったことも明らかだ(飼育されたアイアイの貴重な赤ん坊が死んだのは,明らかに研究を目的とした著者の介在のためだろう)。
 著者の文章は笑えないギャグをところどころに配置して,真摯なのかアバウトなのか掴みにくく,マダガスカルで長年困難な調査に務める以上アイアイへの愛情がないはずはないのだが,そうは読めない面もまま見られる。

 とくに,煙草の吸殻を間違って口に入れたような気分になってしまうのは,本書に何度も登場するアメリカ人霊長類学者エレノア・スターリングに対する悪意ともなんともつかない表記である。彼女の論文が取り上げられるのは,ほぼ毎回,そのデータとしての曖昧さ,アイアイの生態についての指摘のあやふやさを攻撃するためである。著者にしてみれば,自説と相反する説を持ち出すアイアイの「権威」たるスターリングの存在は鬱陶しいものかもしれないが,それなら自説の正しさを適切な資料を示して強調すればよいだけだ。「後からきた者に知名度で追い越されたひがみ」とでも言いたくなるようなこの書きっぷりはいかがなものか。

 結局,そこらの図鑑よりは詳しくアイアイについて知ることができたが,だからどうかと言えば,消化しづらいものが胃に残る。

 マダガスカルでは住民はアイアイを恐れ,アイアイに触れた者は1年以内に死ぬと言われていたそうだ。もちろん,間違いである。アイアイに触れた人間が死ぬのではない。人間が触れたアイアイが死ぬのだ。

2002/07/08

本の中の強い女,弱い女 その十八 『ヘルマドンナ』 原口清志 / 講談社パーティーKC

06【「女の敵」だということ自体が許せませんのに よくもまあ わさわさと これだけの数がどこから湧いてくるのか】

 不遇な作家というのは,いる。
 プロとしてデビューすることに成功し,そこそこ実力もあるのに,掲載雑誌に恵まれなかったり,時代に乗りそこなったり,ブームを作りそこなったりでメジャーになるチャンスを逃してしまうタイプ。
 もちろん,雑誌や編集者を選ぶのも才能のうちという見方もあるし,物書きである以上,時代の欲求を読むのは仕事の範疇ではあるのだが──。

 原口清志は,もっとメジャーになっている可能性もなくはなかった漫画家の1人で,とくに,少年チャンピオンに連載された『しゃがら』が,単行本5巻まできたところで病気休載になってしまったことが惜しまれる。
 『しゃがら』は人間と魔族の間に生まれた主人公が失われた五体を求めて魔族と闘うという筋立てで,言ってしまえば手塚治虫の『どろろ』と高橋留美子の『犬夜叉』を足しておたっきーな猫耳少女趣味を振りかけたようなバイオレンスホラー大作(予定)であった。いかんせん,この作者には週間の連載は体力的,精神的に厳しかったようで,連載開始後わりあい早い時期から画は荒れ,ストーリーは混濁している。それまでの比較的小奇麗にまとまった作風から,多少無理押しでもバイタリティあふれる作風に切り替えようとして果たせなかった,そんな印象である。

 今回ご紹介する『ヘルマドンナ』は,1991年から92年にかけて,講談社のモーニングパーティ増刊,アフタヌーン誌上に散発的に掲載された作品で,ストーリーやセリフの細部にまで気を遣った,作者の魅力の強く現れた連作短編集となっている。

 主人公・古杣夕湖(ふるそまゆうこ)は魔物(デアボリカ)ハンター,警察の手におえない怪異な事件が起こると呼び出され,事件を解決する。彼女は,2m近い長躯,長髪の美女で,普段は「じい」と2人,豪奢な洋館で暮らしているが,ひとたび事が起こると赤いフェラーリで現場にかけつける。
 マンガにはよくある設定だし,敵役も泥人形ゴーレム,寄生植物曼陀羅華(マンドラゴラ),吸血鬼(ヴアンピール),化け蜘蛛アルケニー,始原児ホムンクルス,火蜥蜴サラマンダー等々,オカルトコミックやRPGではおなじみの面々ではある。
 しかし,『ヘルマドンナ』の特徴というか魅力はそういったバイオレンスホラーとしての対決以外のところにある。早い話,夕湖のファッションや色気が独特なのである。たとえば「ガーゴイルの像」編では夕湖は花嫁の姿をしてフェラーリから降り立ち,「では ひとつ わたしが◇ 悪魔の気でもひいてみましょうか」と魔物たちを呼び寄せる(◇はハートマーク)。わらわら押し寄せ,花嫁衣裳を引き破るガーゴイルたちを夕湖は剣で切り散らし,下着姿でガーゴイルたちの正体を暴くのだが,この,下着姿で闘うということが,青年誌としての読者サービス,つまり読み手におもねる面より,夕湖のノーブルな魅力を描くことのほうにポイントがあるようなのである。
 つまりは,作者が強く高貴でキュートな女闘士のイメージを先に持ち,それを描き上げるために『ヘルマドンナ』を用意した,そう言っても過言ではないだろう。

 とくに,有名エステティッククラブで若い女性が行方不明になる事件を追う「ラビュリントス」は,先ほどの「ガーゴイルの像」と並んで夕湖の可憐さとマタドールのような凛々しさが描きつくされ,お奨めの一編となっている。また,事件解決後に紅茶を飲むシーンの「くみ・・」,爪を長く戦闘モードに変える際の「ビ キャ!」など,各編の随所に効果的なオノマトペが用いられているのも興味深い。
 ただ,元来が集中の持続しないタイプらしく,1巻めでは7つの事件(7つの敵との闘い)が描かれていたものが,2巻めで3事件,3巻めでは実質たった2事件と,ストーリーがだんだんダレてしまったのが残念極まりない。もちろん3巻めではこれまでにない強敵を前に,魔物(デアボリカ)ハンターたる夕湖の背景,正体などがいろいろ暴かれるという展開ではあるのだが,それにしても1巻めに比べて3巻は進展が遅く,重い。
 もっと読みたい,これ以上は無理か,という,なかなか微妙なセンがこの3冊という長さだったのかもしれない。

 原口清志は,『ヘルマドンナ』のあと『しゃがら』を連載,それが休載となったあと,同じ少年シャンピオン誌上で『魔物な彼女たち』,ヤングチャンピオン誌上で『シスターヴァイス』をぱらぱらと散発的に発表している。相変わらず少女に魔物が溶け込んでずちゃずちゃのぬたぬた,という作風ではありながら,絵は乱れ,コメディだかホラーだかよくわからない,悪い意味でのB級作品となり果ててしまった。
 どうか,じっくりと時間をかけて,『ヘルマドンナ』1巻,2巻のクオリティを再現してほしい。ニッチとはいえ,この種のファッショナブルホラー,まだ市場はある,と思うのだが。

2002/07/01

「精神分裂病」から「統合失調症」へ 『ロマンティックな狂気は存在するか』 春日武彦 / 新潮OH!文庫

331【病気ならば,治療法は存在するのである。それは思弁や倫理や哲学の領域なんかではない。】

 日本精神神経学会は29日,都内で臨時評議員会を開き「精神分裂病」の呼称を「統合失調症」に変更することを決めた。偏見や差別の解消を図るために以前から話題にされてきたが,8月の予定を前倒しにして決定されたものである。
 英断とみるべきか,差別言葉狩りの一種とみるべきかは,正直いってよくわからない。念のために書いておくが,日本精神神経学会に言葉狩りの意図があったと主張しているわけではない。世の中には言葉を置き換えさえすれば問題が解消するかのようにみなす風潮がある,ということである。

 無論,言葉の置き換えですべて事足りるとするのは明らかに間違いなのだが,問題が軽減されるならそれは悪いことではない。
 だが。よくも悪しくも,言葉が置き換えられるとき,元の言葉に長年込められてきたさまざまなイメージがどこかに霧散してしまうのは確かなことだ。「歌謡曲」という言葉を「J-Pop」という言葉で置き換えるとき,同じ若者向けの流行歌であっても,そこからは歴然と「戦後」「昭和」がすっぱり切り捨てられてしまう。そんな感じ。

 最近のWindowsのMS-IMEではすでに「きちがい」「きぐるい」「はくち」「せいはく」といった言葉が正しく変換できない。「ばか」「せいしんぶんれつびょう」,果ては「きょうき」が変換できなくなる日もそう遠いことではないだろう。
 キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」を「21世紀のスキッゾイド・マン」と名称変更してCDを発売し直す(本当)程度ならどうということもないし,ピンク・フロイドの「狂気」は「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」ととするのが自然だろう。しかし,ドストエフスキーや安吾の『白痴』はどうすればよいのか。ゴダールの『気狂いピエロ』にこれ以上適切な邦題はあるだろうか。
 現在,20代の若者の大半が「瘋癲病院」という言葉を理解しないように,「白痴」という言葉が理解されなくなったとき,ドストエフスキーはもはや無用,という時代がくるのだろうか(いや,もうすでに必要とされていないようにも見えるが)。

 さて,いつものように前置きが長くなってしまった。本日取り上げる『ロマンティックな狂気は存在するか』は,現役の精神科医・春日武彦が,イメージばかりが先走りし,ときとして「創造性,純粋さ,真摯さの究極として位置づけられ,いわば憧憬の対象とすらなることがある」狂気,すなわち「ロマンティックな狂気」という現象を取り上げ,それに対して冷静な態度をとれるよう,「とにもかくにも好奇心をひととおり満足させ,さらに知的関心をも満たしておく」ことを目標とした論評集である。

 たとえば本書では,「狂気によって産出される幻覚や妄想の内容が,人々が通常考えているよりは遥かに退屈で硬直したものだという事実があるいっぽう,文学青年だとか芸術家を任じている連中が狂気へ過大な可能性や評価を『片想い』しているという事実もある」という指摘がなされる。
 「新しいジャンル,思いもかけぬ可能性を指し示すような狂気なんかはまずない」というのである。狂気を示す人物の言動は,当初は非常な驚きをもって迎えられるが,精神科医としてある程度経験をふむと,患者の妄想や幻覚,幻聴等はある程度分類できて,前衛芸術家が狂気の世界から斬新な,思いもよらぬ作品を生む,というようなことはほとんど期待できない,つまりはそういうことである。

 これは,ある種の「文学青年だとか芸術家を任じている連中」にはまことに耳の痛い指摘に違いない。
 詩でも小説でも絵画でも,新奇なもの,思いがけないものをよどみなく生み出せる天才はまれで,たいがいは艱難辛苦の果てに,悪くはないがありきたりな作品をひねり出すのが精一杯だ。そんな中で,新しい作品を生み出すために心をねじりにねじらせて,創造と生活を天秤にかけたあげく家族や恋人からも見捨てられ,その果てに待つ狂気の世界で初めて誰をもうならせるまったく新しい作品世界を……という手はずがまったく空しい夢に過ぎないことを示すからである。

 ただ,指摘は指摘として,そのような文学や芸術のあり方は,同時に読み手,受け手が何を求めているかを示すようにも思われる。
 春日武彦が「退屈で硬直したもの」という幻覚や妄想にはどのようなものがあるのか,また逆に,実際の文学作品や映画などで,いかに「事実」としての狂気と異なるものが描かれているか,それを知りたい,覗き込みたいという好奇心は本書を読了してもまた別の欲求として残る。
 エボラ・ウイルスの登場と跳梁を描くリチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』が人を魅了するのは,それが「恐ろしい」「事実」であるからであり,逆にいえば,「恐ろしい」「事実」は多数の客を招くのだ。その意味で,いかに「統合失調症」等と用語が置き換えられ,あるいは著者が冷静な対応を推奨しようと,「狂気」という現象が(おそらく事実としての症状とは別のあり方で)さまざまな作品の中で生き残り,黒い影として,あるいは美麗な破滅の相として描かれ続けることは想像に難くない。

 ……それにしても,本書のカバージャケットは,巧い。
 狂気と正常の境目という陰惨かつロマンティックな読み手の思い込みを,モノトーンの端正な美女,剥き出しの首や肩,そして左右が微妙に乱れたキャミソールで示して秀逸だ。この上にはいかなる両の目が隠されているのか。本書を手にする者の多くはそこに恐怖とこの世のものにあらざる美を見いだすだろう。それこそが「ロマンティックな狂気」に過ぎないのだが。

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