フォト
無料ブログはココログ

« 待望の「ROCKS」収録 『山下和美【短編集】』 講談社 | トップページ | 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社 »

2002/06/03

子どもたちの夏のために 『ぼくがぼくであること』 山中 恒 / 角川文庫

81【ヒデカズッ! 夏代がすきか?】

 コマーシャリズムの中で多用される「本当の自分」という言葉はおよそ信用ならない。ワイドショーの「衝撃の真実」の「真実」度合いといい勝負だ。
 なにしろ「本当の自分」とまったく同じシチュエーション,文脈の中で使われる言葉が「いつもと違う自分」だし,その実マスコミに「踊らされている自分」だし。

 今さらどうしてこんな言わずもがなのことを持ち出すかといえば,最近,たまたま別の場所で二度にわたって「本当の自分」という言葉を耳にしたためである。いずれも,およそ信頼するには足りない人物の口から。

 P君はグループ内の別会社から出向でやってきて2か月,見事なまでに使い物にならない。口は達者だが,何をやらせても完結しない。出向元に問い合わせてみたところ,周囲に面倒な仕事を押し付けて仕事をしている振りを重ねてきたが,そのうち当初配属されていた部署から出され,次の部署でもものにならず,もう一度チャンスを与えるために出向させた,といったところらしい。
 彼の場合,上司の前ではそこそこ殊勝だが,いなくなると途端に態度が豹変し,それが周囲の者のモチベーションにまで影響を与えているため,やむなく注意したところ,「反省している」「自分は力不足」などと並んで出てきた言葉が「本当の自分」だった。
 要は出向元の前の前の部署で仕事をしていたときが「本当の自分」であった,ということらしい。そこでの勤務態度が問題視されて──早い話が職業人として使い物になっていないために──よそに出されたという認識がないのである(会社の経費削減などの方針のためにやむなく異動させられた,と考えているらしい)。

 一方のQ君は,P君よりもう少し年かさで,今は小さな会社の社長である。私的な集まりで久しぶりに会ったが,相変わらずそのテーブルの話題の主でなくては気がすまない。尋ねもしない知識や,人生訓を次から次に披露してくれる(ときどきは,目の前の相手の専門業種についてまで説教が繰り広げられる)。だが,Q君の「会社」とやらが四半期で黒字になったことがなく,資金について父親,生活において母親の面倒をずっと受けていることは仲間打ちで知らぬ者もない。
 そんな未婚の彼がその夜声高に主張したのが教育論で,「本当の自分」を実現するためには会社に使われる身分になったのでは駄目だ,独立して社会を相手に働かないと仕事について本当のことは何一つわからない,そういった話である。

 P君,Q君の雰囲気,キャラクターは,およそ似ても似つかない。が,一方,現状認識がとんでもなく甘い点など,妙に通じるところもある。彼らに共通しているのは,そこそこに高い学歴を誇り,世間一般でいえば良家に育ち,不自由なく育った,ということだろうか。
 ……だとすれば,子の親として,P君やQ君のような「大人」に育てないためには,いったいどうすればよいのか。
 正解があるとは思えない。しかし,指針だけはなんとなくある。

 山中恒の『ぼくがぼくであること』は,小学校高学年の子どもたちに,「読ませる」のではなく,ぜひとも「出会って」ほしい1冊だ。

 『ぼくがぼくであること』の主人公,小学六年生の平田秀一は名前に「一」が付いているが三男である。良一,優一,稔美,秀一,マユミの兄弟の中で,一番出来が悪く,学校でも家でもしかられているばかり。そんな秀一が,夏休みのある日,ひょんなことから軽トラの荷台に乗って家出をしてしまう。そしてひき逃げ事件を目撃し,同い年の少女・夏代と出会い,武田信玄の隠し財宝の秘密に巻き込まれ……。
 家出をめぐるさまざまな事件,さまざまな人々との出会いが,秀一をしかられるだけの子どもから,一本スジの通った少年に変えていく。そして同時に,教育ママの牛耳る平田家は少しずつ崩壊していく。

 本書から読み取れることは,実にシンプルなことだ。
 思春期を迎えた子どもはどこかで,自分の意思で物事を考え,生活することを知らなければならない。往々にしてそれは,親の期待に,あるいは親そのものに背く形で実現する。
 昭和40年代という時代を反映して,本書には,第二次世界大戦中の社会の罪,戦後の若者の無軌道,さらには学生運動などが重いテーマとして盛り込まれている。だが,荒っぽくても,痛みがあっても,自分で考え,自分で選ぶ以外に「ぼくがぼくであること」にいたる道はないのだ。

 本作は,昭和42年の「六年の学習」(学習研究社)に連載され,のちに大幅に加筆修正されて実業之日本社から発行された。
 我が家の納戸の段ボールには今も「六年の学習」版が切り抜きで保存してある。ちなみにそれは自分の学年のものでなく,従姉の「六年の学習」を一式譲り受けたときのものだが,切り抜いて取っておくほど子ども心にも何か大切なものが詰まった印象があったのだろう。

 現在角川文庫版を読み返してみると,「六年の学習」版に比べ,後半,平田家が崩壊していくさまが強調されている。作者にしてみれば戦後~高度成長期における社会の混乱や家庭の崩壊を描き込むためだったのだろうが,その分,秀一のひと夏の成長,そして夏代への淡い思いは味わいが弱まってしまったような気がしないでもない。
 僕にとっては,「六年の学習」版のシンプルだが鮮やかな秀一の「夏休み」が,ささやかな「ぼくがぼくであること」への転機だったように思う。
 願わくば,愛しい世界中の子どもたちが,彼らの夏代と出会い,彼らの「まるじんの正直(まさなお)」と闘い,父や母を踏み越えていかんことを。

« 待望の「ROCKS」収録 『山下和美【短編集】』 講談社 | トップページ | 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社 »

小説・詩・文芸評論」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 待望の「ROCKS」収録 『山下和美【短編集】』 講談社 | トップページ | 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社 »