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2002年4月の4件の記事

2002/04/29

民話としての「ワダツミの木」

 ここ数日、元(はじめ)ちとせの「ワダツミの木」ばかり、繰り返し、繰り返し聞いている。

 奄美の民謡「島唄」がルーツという元ちとせの歌唱についてはここではおき、上田現の歌詞を考えてみたい。もとより身勝手な分解であり、なんら内容を保証するものではない。自分にとっての「ワダツミの木」を大切に思われる方はブラウザの「戻る」ボタンをどうぞ。

 歌は「赤く錆びた月の夜に」という、少々不吉な言葉から始まる。すでに、死が、それもきいきいと血の味がきしむような時間の向こうのざらざらした死が暗示されている。
 その夜、男女は小さな船で海にこぎ出る。
 もとより生還を期する旅立ちではない、二人を乗せた船は「どこまでもまっすぐに」進み、「同じ所をぐるぐる」廻る。第三パラグラフでは「月の夜」は「星もない暗闇」と化す。その間に流れているのはただ時間だけだろうか。
 言葉少ない二人がどのように死んだのかはわからない。第四パラグラフの「私の足が海の底を捉えて砂にふれたころ」は、つまり女が波の底に沈んだことを示している。
 ここから歌はギリシア神話的なメタモルフォーシスを具現化する。女のむくろは枝を伸ばし、花を咲かせ、「ワダツミの木」と化す。木は波にさらわれてはなればなれになってしまった男の魂が迷わぬように、探さぬように水の上に枝を伸ばして遍在し、やがて幾千万の夜の果てに木のまわりは島となし、億千万の波が寄せる。

2002/04/22

シリーズ 怖い本 その七 闇に葬る……

【もう人間を食べないとちかえっ】

 1960年代の少女マンガ作品が,品切れあるいは絶版で入手不能であること。ことこれに関しては別に不思議はない。
 西谷祥子『ジェシカの世界』『学生たちの道』,矢代まさこの各作品,本村三四子『太陽のカトリーヌ』など,読み返してみたいが再販,文庫化の気配もない作品も少なくない。水野英子にしても,今となってはそう売り上げが上がるとは思えず,営利組織たる出版社が復刊を検討しなかったとしても不思議はないだろう(今回の文庫化が彼女の人気のバロメータを把握しているだろうマーガレット,りぼんの集英社からではなく,双葉社,講談社からの発行だったのは,その意味で象徴的だ)。

 しかし,「美しいお姫様に高価な宝石,ハンサムな怪盗,気球にSL,クラシックカー」という道具立て,「生い立ちにちょっぴりわけのありそうな可愛い女の子と子ネコを主人公に世界中の有名な風景の中を回らせる」という現在からみればファンタジーとすらいえない設定の『ハニー・ハニーのすてきな冒険』がながらく絶版だったのは,どうもそういった理由によるものではなかったようだ。
 今回の文庫の第1巻の,作者自身の手によるあとがきによれば,「登場する黒人のキャラクターが差別にあたるかもしれないという理由」から今まであまり出版されなかった,というのである。

 岩波書店『ちびくろさんぼ』が廃刊となり,カルピスの商標マークが消え,タカラのダッコちゃんが姿を消し,竹本泉『あんみつ姫』,手塚治虫作品のいくつかが書店から撤退したのは,堺市の「黒人差別をなくす会」という市民団体の抗議によるものだった。このことを,はたしてどれほどの人がご存知だろうか。
 市民団体というと,なにやら大勢の市民が公会堂かなにかで集会を開き,というイメージを抱いてしまうが,実はこれは親子3人の,今ふうの言葉でいえば「クレーマー」家族に過ぎない。この家族が「差別」の名のもとに攻撃した作品やデザインが,次々と闇に葬られた。事実はそういうことなのである。
 たとえば『ちびくろさんぼ』がアメリカで広く問題となった背景には,「サンボ」という名前やサンボの両親の「ジャンボ,マンボ」がアメリカで黒人の蔑称,黒人を揶揄する言葉として用いられてきたことがあった。そのような背景を検討せずに1冊の絵本を絶版にし,あるいは差別用語を使用禁止にすることでトラブルを回避するのは,単に臭いものに蓋をして,抗議を避けるコトナカレ主義以外のなにものでもない。「色が黒くて唇の厚い」マークをすべて抹消することで植民地政策~奴隷制度に端をなす黒人差別をなくすことに結び付くと考えるほうがどうかしている。
 極論すれば,そういった隠蔽と,被差別者を島の療養所に閉じ込めて被差別者との「関係」そのものを抹消することの間に,どれほど違いがあるというのか。

 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』に登場するコンゴの村の女ボスは,首からシャレコウベを下げ,骨の髪飾りをして,人間をシチューにして食べようとする。まず現在のテレビで放送が許されることはないだろう設定である(この数ページ,タッチといい,コマ割りといい,実に手塚作品ふうなのが不思議だ)。『ちびくろさんぼ』がNGなら,この作品は間違いなくアウトだろう。

 問題なのは,岩波書店をはじめとするいくつかの出版社,メーカーが,この「黒人差別をなくす会」から抗議を受けたあと,充分な討議をする時間もかけずにある意味安直に商品を廃してしまったことである。さらには,日ごろは差別問題に重きを置いているがごとき態度をとっている新聞などの大手マスメディアが,ことさらその経緯を明らかにせず,目をそらし続けた,その姿勢,その目のそむけぶりこそが怖い。

 この世界にはさまざまな差別があり,それは現在も続いている。
 その問題に光を当てようとしないでただ目の前の差別用語だけ消し去って差別という事実そのものを箱の底にしまい込み,一方でたとえばハンセン氏病患者に政府が謝罪したといった場合にだけ手柄のように一面を飾る大手マスメディア……。

 いつの間にか隠されていることはほかにないのか。
 今後,新たな抗議団体が現れたとき,彼らはしおしおとそれに従って記事をねじまげていくのか。

2002/04/19

シリーズ 怖い本 その七 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』 水野英子 / 双葉文庫名作シリーズ

90【ごきげん! クレオパトラに なったような きぶんよ】

 まず双葉文庫名作シリーズから『ハニー・ハニーのすてきな冒険』,次いで講談社漫画文庫から『白いトロイカ』,『エリザベート』,『星のたてごと』,『銀の花びら』と,水野英子の作品が続けて復刊されている。
 一部はさすがに画風の古さが目につくが,少女マンガ黎明期に活躍した作家の骨太な作品が復活し,手に入れやすくなったこと,新しい読者の目に触れることは,1960年代からのファンとしても実に喜ばしい。

 数多くの国で,言葉を基調とした文化は,非常に大雑把な言い方をすれば,まず特権階級の間に韻文が発達し,やがて近代に至って散文が巷間に拡散する,という経緯を示す。
 ところが,1コマの風刺絵,ポンチ絵から「コマ割り」という武器を得たマンガは,手塚治虫というルネサンス型の天才の手によって時間芸術,つまりストーリーマンガへと変身し,数々の長編,大作を生み出してきた。このマンガにおいては散文 → 韻文(正しくはもちろん韻文ではないが)的な発展がむしろ後に起こり,大島弓子が完成した「コマを海の波や緑のこずえが破ることによって時間を切ったり貼ったり,遡ったりする」技術によってその叙情は1つの頂点に至る……。

 などと大仰な戯言を持ち出しておいて平気でその逆のことを書いてしまう俺様だが,水野英子の魅力は,そのような叙情性にはない。

 彼女の作品におけるダイナミズムは,実は,日本の昨今のあらゆる文化,つまり小説や映画やテレビドラマがなかなか描くことのできない,「叙事」性に基づくのである。
 実際,演出や効果音ばかり大袈裟で,戦国の世を舞台にしながら実のところ「お家の台所事情」的展開ばかりを繰り返すNHK大河ドラマと『白いトロイカ』『ファイヤー!』『エリザベート』などを比べれば,後者のスケールの大きさは驚くばかりだ。
 昨今の作家の線を見慣れた目には,たとえばその「お姫様」的ファッションセンス,ご都合主義的展開,類型的な人物造形などなど,さまざまな難点弱点はあるだろうが,それを含めてなお大河ドラマを上回るだけの魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。

 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』は,ハリウッド大作映画の影響の強い,水野英子ならではの設定で,追って追われて世界中の国を巡り,主人公の少女は実は小国の姫,彼女を追うハンサムな怪盗は実は……と,こうあらすじを書いただけで,これが現在ではおよそ描きにくい,力ワザであることはご理解いただけるだろう。白馬の王子様的夢物語とはいいつつ,そのおおらか,コミカルだが流麗な線描,匂うような女性,男性的魅力……。

 だが,実は。
 今回この「怖い本」シリーズで本作を取り上げた理由はまったく別なところにある。

(つづく)

2002/04/08

シリーズ 怖い本 その六 『ティッシュ。』 坂辺周一 / リイド社 SPコミックス

23【お兄ちゃんの お嫁さんに なりたいんだろう?】

 ちあさをずっと女手ひとつで育ててくれた母親が,大学教授と再婚することになった。だが,新しい家庭には……。
 本書は,一言でいえば,ストーカーに追われる少女の話である。

 通勤路からは離れているためそうたびたびは立ち寄れないが,なかなかシブめの棚の揃えと,平積みの扱いにさりげなく工夫をこらすことでお気に入りの郊外型書店がある。推奨コミックには「見本」とシールを貼って立ち読みを許可する,話題作には簡便な書評を記した手書きポップを立てるなど,一歩間違えるとわずらわしいが,趣味が悪くなければ役立つ,そういったサービス。
 この『ティッシュ。』に用意されていたシンプルなポップは,こうだ。「かなり,気持ち悪いです」

 確かに17歳の少女にとって,母親の再婚先に30歳近いストーカーがいたら,これはたまらない。おまけに敵はずんぐりした巨体で,無口で,ターミネーターのようにタフで,獣医の卵だから麻酔薬さえ持っている。それが顔を洗う自分の背後に黙って立っているのだ。生理用具を捨てたゴミ袋をあさるのだ。そんなのに追われたら,主人公でなくとも悲鳴をあげるだろう。

 残念なのは,余計なものを詰め込みすぎたことだろうか。
 主人公と母親の葛藤,ストーカーの父親のジレンマなどを描き,厚みのある人生ドラマに仕立て上げようとしたのだろうが,いずれも中途半端なまま,かえってサイコホラーとしての純度を薄めているように思える。
 また,雑誌連載時のお色気サービスということもあるのだろうが,主人公がわりあいあっけなく裸にされてしまうのも,ホラーとしてみればマイナスだ。ストーカー氏の「いやがらせ」が主人公だけでなくその母親や周囲の者にまで向かうのはかえって焦点がぼけてしまうような気がする。

 ストーカーを扱うホラーの恐怖は,まず,ごく普通の,むしろ好感のもてる人物が,だんだんおかしな言動を見せる,その違和感,微妙な色合いの狂いにある。次いでポイントとなるのは,相手がストーカーであることが明らかになってからも,周囲の者にその恐怖が伝わらないことだ。ストレートな恐怖とはまた別の,婉曲で,胸の奥にじわじわ食い込んでくるような嫌悪感。
 たとえば,(本書とは少し離れるが)寝室に押し入って無理やりレイプしようとする直接的な暴力ではなく,朝目覚めると枕元の小物の位置が整えられていたり,パジャマが新しいものに変わってしまっているような恐怖。
 しかし,本作はわりあいあっけなく,直接的な性描写や暴力,悲鳴,絶叫シーンに走ってしまう。このあたり,B級のサガといえばいえるか。

 もう一点,途中で掲載誌が廃刊になって他誌に移るなど,作者にとって思うようにならない面もあったのだろうが,タイトルの「ティッシュ」は,実はストーリーにはとくにかかわらない。要所要所で使われるのはティッシュではなく,○○○である。その使い方はなかなか,いや非常に見応えがあるのだが,ただ,タイトルに○○○では色気もヘチマもないものなぁ。

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