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2002年3月の7件の記事

2002/03/30

シリーズ 怖い本 その五 『影を踏まれた女』 岡本綺堂 / 光文社文庫

82【あたし,もうみんなと遊ばないのよ】

 岡本綺堂。劇作家,小説家。
 彼がシャーロック・ホームズのような探偵物語を江戸を舞台に描こうと書き起こした『半七捕物帳』シリーズは,のちのさまざまな「捕物帳」の祖となった。最初の作品「お文の魂」が発表されたのは大正6年1月のことである。
 もっとも『半七捕物帳』がいわゆる「推理小説」として正嫡子かといえばそれは少々疑問で,確かにある種の犯罪が起こり,その真相を探偵にあたる主人公が追うという構図こそ守られているものの,半七の人となりはおよそホームズの「けれんみ」「傲慢さ」等とは無縁で,彼は間違っても物語の筆記者たる明治時代の新聞記者に向かって「今日は深川のほうからおいでなすったね」だの「基礎ですよ」などと言って唇をゆがめたりはしない。ただ淡々と,犯人を追い込めたのは捕り手の丹念な聞き込みであったこと,犯人を特定できた自分は幸運であったことを述懐するばかりである。

 『影を踏まれた女』はその岡本綺堂の,光文社文庫では『白髪鬼』と並ぶ怪談集の1冊。
 大半を占めるのは「青蛙堂鬼談」と題された連作で,これはある雪の夜,青蛙堂主人を名乗る人物の家に集った性別,年齢,出自もさまざまな人物たちが順に奇談怪談を語るという,一種の百物語の類である。
 得体の知れない魔性の女を描く「一本足の女」などわりあいストレートに恐怖をあおるゴシックホラーから,露店で手に入れた木彫りの猿の面をめぐる怪異を描く「猿の眼」のように白昼俄かに影がさすような薄きび悪さ漂う作品まで,内容題材はバラエティに富む。後者は(味付けはまるで違うものの)ジョン・コリアらの「奇妙な味」に通じるものを感じないでもない。
 ただ,たとえば日露戦争の従軍記者が一種のお化け屋敷で一夜を過ごす「窯変」など,「現代の作品なら,もう二転三転,どんでん返しをしてみせるだろうに」と,いささか古びた印象を与えるものもなくはない。逆に,古い井戸の怪異に源平時代の事件を結びつけた「清水の井」のように,幽霊譚としてはとりたてて怖いものではないように読めるのに,手首の返し一つでひやりとさせられる,かなり近代的な恐怖を描きあげた作品もある。

 「青蛙堂鬼談」に続く掌編集「異妖編」に含まれる「寺町の竹薮」では,親しい子供たちに「あたし,もうみんなと遊ばないのよ」と去っていった数珠屋の娘お兼はすでに殺されていたはずで,それが幽霊だったのかどうかはよくわからない。表題作の「影を踏まれた女」にしても,往来で子供たちに影を踏まれて以来,自分の影を映し出すものすべてを恐れるようになった糸屋の娘おせきがやがて侍に斬り殺されるのは,はたして彼女が影を踏まれたからなのかどうか。

 血や内臓が飛び散るわけでもなく,怖いかと言われればさほど怖くないような,怖くないかと問われればどこか冷たい手が首筋をなでるような,岡本綺堂怪談集。光文社文庫以外でもちくま文庫,学研M文庫などで手に入る。また,以前も紹介した無料公開の電子図書館「青空文庫」には,すでに著作権の切れた岡本綺堂作品が多数提供されている。
 これからの季節のぼんやり靄たちこめる夜のナイトキャップ代わり,毎晩1編ずつといった具合に,いかがだろうか。

2002/03/22

シリーズ 怖い本 その四 『屈折愛 あなたの隣りのストーカー』 春日武彦 / 文春文庫

47【狂気の沙汰と,狂気であることとは同じではない】

 たとえば本書に紹介されているフェイ・ケラーマンの短編小説「ストーカー」に登場する夫のセリフはこうだ。
「どうしてぼくがわざわざきみに頼まなきゃならないんだ──それぐらい,きみが察して当然じゃないか」

 私たちはこの短いセリフの中に実にいろいろなものを読み取ることができる。
 私たちが知っているあの彼,あの彼女たちの,あのなんともいえぬ粘着質な執拗さ,「甘え」という言葉では表しきれぬ全人的なもたれかかり,自己と他者/責任と無責任/嘘と本当とがくるくる軽々しく裏返ってしまう言葉の群れ。
 理屈では明らかに破綻しており,それを指摘されながらも胸を張ってあるときは愛を,あるときは真実を主張する彼あるいは彼女たちの,ベニヤ板にペンキで描かれたポスターのように薄っぺらい,だが過剰な言葉,そして行為。

 インターネットの広まりは,私たちにさらに数多くの奇妙な人々,異常な人々の存在を教えてくれた。
 ボーダーライン上の人々は増えているのだろうか。そうではないだろう。インターネット上では従来なら家庭内,学校内,職場内でしか明らかにならなかったさまざまな個人の性状や言動が撒き散らされる。もう1点,テレビやマスコミの蔓延によって,都会型の恋愛や意思表示の仕方がいわばコピーマスターとして広く伝播されたこともポイントだ。かつての農村型の社会でならそこでのあるべき姿にはまっていたであろう主体性のない輩が,都会の生活パターンやテレビや雑誌から氾濫した情報に染まったとき,ストーカー的な行動に走ることは少なくないのではないか。

 つまり,ストーカーという言葉がある種の被害者たちに明確な加害者の輪郭を与えたように,都市とマスメディアはある種の資質をもつ者たちにストーカーとなるフォームを与えたのだ。もともとは単に主体性をもたず,なにかというと他者のせいにする程度の弱き者だった彼らは,その薄い函の中にリキッドな自らをみたし,ぽたぽたとこぼれながらあなたをうかがい,それから追い始める。執拗に。

 だが,異常であることが問題なのではない。
 ある種の特殊な技量は,異常さの現れであることも少なくない。たとえば寝食を忘れて何かに没頭できるというのは,何かを成し遂げるために必要なことでもある。「なぜそこまで」と周囲の者が呆れるほどの執拗さ,途方もない自己中心的な目的意識は,ある種の成功者に共通の特性でもある。しかし。
 ストーカーが問題なのは,それが異常だからではないのだ。ストーカー的な言動によって問題を起こす人物が、普段は(本書の表現を引用するなら)「流行に敏感であったり,デートの演出に長けていたり,どこか謎めいたソフィスティケートさを備えていたりといった具合に,むしろ魅力的にすら感じられる」ことを,私たちは何度も目にしてきた。もちろん,その多くの場合,周辺からは彼らの異常な依存性,過激な二元性が目についていることも少なくない。しかし,その一方で彼らの異常性に一切気がつかず,むしろその味方となってしまう者がいる。
 「○○さんはそんな人ではありません」,だが現にそんな行為はなされている。追われる者にはそれが難題なのだ。

 ストーカーは確かに存在し,うっかりその尻尾を踏みつけたとき,彼らは驚くべき俊敏さをもって「熱愛」の鎌首を向けてあなたをおびやかす。そういった彼あるいは彼女は(口ぶりでは否定するが)自分が周囲にどのように見られているかひどく気にしているため,ある意味で周囲のあらゆる者の歩く前に何度もその尻尾をアンテナ代わりに置いているからだ。愛する私,愛される私,愛しているはずの私,愛されているに決まっている私……。
 彼らがまったく病気のレベルなのかボーダーライン上にあるのか,追われる者には関係ない。一度彼らに追われ始めたとき,普通の神経の持ち主はなかなかその檻から逃げ出せない。なぜなら,ひとたび「それ」が始まったとき,世界はすでにまるごと彼らの偏狭な意識の中にしかないからだ。

2002/03/16

シリーズ 怖い本 その三 『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気,非情の13事件』 「新潮45」編集部編 / 新潮文庫

78【腹を一回,左胸を二回,頭を一回ナイフで刺し,最後に喉を切り,念のためにビニール紐で首を二回絞めて】

 エボラが怖い,毒クラゲが怖いといっても,気をつければそれなりに避けることができる。もちろん,いかに気をつけたところで,地震でビルが倒れる,トラックが飛び込む,飛行機が落ちる,肺癌にかかる,餅が喉につまる,などなど,いたるところに死の扉は待ちかまえている。
 だが,これらの怖さは,即物的とでもいうか,殴られれば壊れる,壊れれば痛む,そういう次元の話にすぎない。

 エイズや狂牛病の怖さは,少し違う。免疫性が損なわれたり,脳がスポンジ状になったりという,症状による恐ろしさもあるが,それだけではない。
 たとえばエイズの場合,人と人が結びつくことからウイルスが侵入する。また,免疫性が損なわれるというのは,いわばアイデンティティが損なわれるということだ。その意味で,エイズは自己と他者の「関係」の病だということがいえる。
 狂牛病という病気にも似たところがあって,牛に肉骨粉を食べさせた結果広まったこの病が,食人の習慣のあった部族のクールー病と同じ異常プリオンによるなど,どうも生物が同族を食べたときに何かが壊れていくそんな摂理によるもののように思われてならない。ここでも壊れているのは「関係」なのだ。

 本書はもう1つの「関係」の病,「殺人」を取り上げたものだ。
 取り上げられた事件は13。有名なものからそうでもないもの,じっくりと1人を殺したものから無造作にたくさん殺したもの,子供殺しから親殺しまで,さまざまなパターンが含まれている。

 取り上げられた事件の中,熊本「お礼参り」連続殺人事件,広島「タクシー運転手」連続四人殺人事件,世田谷「青学大生」殺人事件などが,行為の陰惨さのわりに記憶に残りにくいのは,殺人者の言動があまりに身勝手で,その分,人間の行為に見えないためかもしれない。しつけられていない野生動物が噛みついた,その程度の感じ。つくば「エリート医師」母子殺人事件も,幼児性において印象は変わらない。

 それに比べると,いまだに犯人が特定されない井の頭公園「バラバラ」殺人事件や,名古屋「臨月妊婦」殺人事件は格段に薄気味が悪い。
 後者では殺された臨月の主婦の腹部が切り開かれて胎児が取り出され(赤ん坊は生きていた),代わりに受話器とミッキーマウスのキーホルダーが押し込められていた。前者ではビニール袋に入れられた遺体の一つひとつが入念に洗われ,きれいに血が搾り抜かれていた。すべてのパーツはまるで定規で測ったかのように(切り取りやすい関節などに関係なく)ほぼ二十数センチに切り揃えられている。そのくせ,切断のしかたは乱暴に手ノコをあてたものや鋭利な刃物で肉を切って骨を露出してから慎重に切ったもの,切れ目を入れてからポキンと折ったものなど,数種類の特徴があって複数の人間の手によるものと想像され……。

 いや,それにもまして恐ろしいのは,葛飾「社長一家」無理心中事件で,妻子を殺したあと逃亡し,首を吊って縊死した男の,自殺実況テープの内容だろう。

 犯人はクラシック音楽を専門に扱うソフト制作会社の社長。資金繰りに破綻したあげく,49歳の妻と23歳の娘を自宅で絞殺,それから約10日間,死に場所を求めて国内を転々とする。そして長野県塩尻市内のホテルで首を吊って死ぬのだが,その絶命までの約40分間のテープはいろいろな意味で恐ろしい。

 第一は,その弱さ,ねっとりとした身勝手さを示す妙に丁寧な内容だ。
 彼は金融機関からの借金,2800万円の返済日が間近にせまるや,家族に返済が困難なこと,返済の期日が近いことを何一つ知らせず,そのくせ「信じられないくらいの心の負担となって,何も出来なくなって,本当に心身ともにボロボロになってしまうんじゃないかと思うんですね」と妻子の殺害を決めてしまう。そして殺害後,「わたし自身も,その後を追おうと思ったんですけれども」「死ぬのはいつでもできると……あんたたちの行きたいといったところを,時間の許す範囲で回ってみようと思ったわけです」「富士山に関しては,一番いい姿を全部見せてあげられたんじゃないかな,と思います」
 そして,奈良市内のホテルで一度自殺を決行するが,途中で紐が切れて失敗。大小便にまみれ,痛みに這いずりまわり,それから二日後に今度は自殺に成功する。
「今日は強いロープを二重にして,ぶら下がっても大丈夫な梁に付けてありますから。もっと早いうち,死にますから。ハァーッ……排尿の中,動き回るってことはないと思います」

 そして,テープは後半にいたって,聞く者を異様な世界に誘う。本文から引用しよう。
 「雅夫の背後で,激しいノイズが聞こえる。ゴーッという,地鳴りのような音。聞きようによっては,嵐の中,断崖絶壁に立って録音しているような音である。(中略)ふと思い当たってしまった──あの世から吹く風,黄泉の国から吹き付ける風があったら,きっとこんな音がするだろう」

 そして,お喋りな自殺者の断末魔の悲鳴のあと,ゴーッという轟音が延々と十分ほど続いてテープが終わる。
 ほつれた「関係」の紐がその黒い風の中に揺れて,ちぎれる。

2002/03/12

シリーズ 怖い本 その二 『海洋危険生物 沖縄の浜辺から』 小林照幸 / 文春新書

61【刺されて助かったという話はまったく聞かない】

 「毒」。なんと蠱惑的な言葉であることか。
 たとえば毒薬,猛毒,毒蛇。あるいは毒蜘蛛,毒牙,毒殺。さらには劇毒,毒婦,毒茸,毒芹,毒団子。
 爬虫類館を訪れてガラスの向こうの緑に輝く蛇が強い毒を持つと知るや,心のどこか黒い片隅が沸き立つような気がするのは私だけだろうか。蠍やタランテラのフォルムに単に不気味さだけでない,濃密な意志を感じるのは?
 「毒」のなまめかしいまでの恐ろしさは,穏やかな日常の中に,その黒い錐が突然刺し込まれることだ。穏やかな青い海,珊瑚礁。そこに足を踏み入れると,そこには小さな,しかし強烈な毒をもつ生物が静かに棲息している……。

 本書は一見穏やかで平和に見える沖縄の海に潜むさまざまな危険生物を取り上げ,その恐ろしさと対処法を紹介する。

 たとえば,ハブクラゲに刺されると,「刺傷後六時間ほどでミミズ腫れは炎症性の浮腫を伴った水疱となる。重篤な患者では,受傷直後にショック症状を起こし,呼吸停止から心臓停止となり,死亡に至る」。
 1997年8月には小学1年生の6歳の女児が水深約40センチ,波打ち際から約10メートルの浅瀬で,翌98年には3歳の女児が水深約50センチ,波打ち際から約15メートルのやはり浅瀬で,ハブクラゲに刺されて死亡している。
 ハブクラゲに刺された場合,特効薬にあたる血清は現在のところ,ない。触手が絡みついた患部は絶対に砂や水でこすらず,食酢を何回かにわけてかけるのがよいのだそうだ。

 あるいは,錐状の殻が15センチにも達する美しいイモガイの一種,アンボイナガイは,歯舌歯と呼ばれる毒矢をもち,ここから猛毒を刺し入れる。アンボイナガイに刺された箇所には小さな穴ができるが,このとき痛みはないし,腫れたりもしない。しかし,「刺されてから十五分から三十分後に,ようやく刺された周囲が紫色になり,痺れてくる。このとき同時に口の痺れ,目眩,物が二重に見える複視などが起こり,徐々に全身の運動神経が麻痺して重篤となる。そのまま放置しておくと,最後は呼吸麻痺となって死に至る」。
 沖縄ではアンボイナガイのことを「ハマナカー」と呼ぶが,それは,刺されると浜の真ん中で死んでしまうということに由来するそうだ。
 このアンボイナガイの毒を中和する血清も,今のところ存在しない。

 このほか,背鰭の毒棘に,一匹でゆうに四人を殺せる毒をしのばせたオニダルマオコゼ(砂や岩の色に似ていて,これを踏み付ける事故が後を立たない)。光をめがけて突進し,長く鋭いくちばしで人に突き刺さり,死に至る大怪我を負わせるダツ(オキザヨリ)。茶褐色の海藻そっくりな体表にある何千という刺胞球から毒を発射し,刺されると激しい痛みを感じ,潰瘍の回復までに数か月,場合によっては1年以上かかることもあるウンバチイソギンチャク。黄色い体に青い斑紋が美しいが,咬みついたときに相手にフグと同じテトロドトキシン系の毒を注入し,筋肉の麻痺,嘔吐,呼吸困難,運動麻痺を招くヒョウモンダコ。性質がおだやかで,毒牙が小さいためハブやマムシに比べて被害数は少ないが,実はコブラより強い神経毒をもつウミヘビ……。

 しかも,これらの海洋危険生物の多くには,ハブに咬まれたら血清,といった決定的な治療法がない。沖縄ではこれらの生物による被害を減らすために,ビーチにクラゲネットを用意したり,啓蒙用のポスターを多数配布するなど行政上の対策が進められている。それでもこれらの生物による被害はあとを絶たないし,また,原因不明の水難事故死のうちいくつかがこれらの生物によるものである可能性も少なくないようだ。

 本書の巻末には,取り上げられた海洋危険生物の被害に遭った際の応急処置一覧と,2001年12月現在の沖縄の保険所及び医療機関連絡先が掲載されている。
 この夏,南の島でのリゾートを計画している方は,痛いめ,悲しいめに遭わないためにも前もって本書に目を通しておくことをお奨めしたい。
 必要以上に恐怖にすくむこともないだろうが,結局のところ,「自分は大丈夫」という安易な思い込みこそが一番の猛毒なのだから。

2002/03/10

シリーズ 怖い本 その一 『キラーウイルス感染症 逆襲する病原体とどう共存するか』 山内一也 / 双葉社 ふたばらいふ新書

01【ローラが亡くなった八日後,シャーロットが発病した。発病後一一日目にシャーロットは死亡した】

 前回も取り上げた『お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き』は吉野朔実によるなかなか鋭い書評コミックなのだが,リチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』を紹介した一節には,
  エボラとエイズ,どっちが怖い?
という実にやっかいな命題が提示されている。
 かたや致死率90%,宿主も感染経路も治療法も見つかっておらず,20日で内臓どろどろのエボラ。かたや,かかってるのかかかってないのかいつ死ぬのかわからないエイズ……。

 『キラーウイルス感染症』には,そのエボラ出血熱をはじめ,マールブルグ病,ラッサ熱,牛海綿状脳症(狂牛病),ウエストナイル熱など,最近になって新しく出現(エマージング),または再出現(リ・エマージング)したさまざまな感染症が紹介されている。
 それら感染症の病原体の多くはウイルスで,また,そのウイルスのほとんどは「本来の宿主である動物と平和共存しているが,人に感染したとたん激しい内臓出血,全身痙攣,脳の破壊,肺の損傷などの惨状をもたらし患者を殺す」。しかもその大半には薬が効かない。というより,現状では,その本来の宿主が明らかでないために感染経路が不明で,かつまた,アフリカなど一部の貧しい地域で散発的に発生する病気のためにワクチンを製造,販売するのは,製薬会社にとってメリットのある話ではないのだ。

 ただ,「キラーウイルス」なるタイトル,「悪魔の感染症」なる惹句ほどには本書は煽情的ではない。むしろその逆で,長年ウイルス感染症による発病メカニズム,動物バイオテクノロジーに取り組んできた著者をはじめとする研究者たちの地道な活動の記録といえるだろう。もっとも,致死率が80%,90%などというすさまじい感染症に対する戦いは「地道」という色合いとは少々異なり,たとえば本書には,マールブルグウイルスをモルモットに接種しようとした研究者が注射器の扱いのミスから感染して死亡,その研究者を解剖した研究者もまた死亡,という話が紹介されていたりする。
 また,これらの病気が出現または再出現してきた背景には,密林の無闇な開拓や,航空の発達による野生動物の輸送など,人間の手によるウイルスのグローバリゼーションがあるという著者の指摘が重い。

 それにしても,エボラ出血熱や狂牛病の話は,なぜこれほどに恐ろしいのだろう。実際のところは,癌や交通事故で死ぬ確立のほうがずっと高いし,苦痛や死ぬまでの時間の短さだけで片付けられる話でもない。
 思うに,この恐ろしさは,これらの病気がまだ局所的で,非常に限られた者だけが発病すること,いうなれば通り魔的に見えることに起因するような気がしないでもない。あなたがこの週末に歩いたデパートのペットショップの輸入動物から飛散したフィロウイルス,あるいはその帰りに立ち寄ったレストランで口にした普段と同じスープから体内に入ったBSEプリオンが原因で全身から血を噴いて死ぬなんて,脳がスポンジ状になって死ぬなんて,そんなことは起こらないはずだけど,そんなことが自分にだけ起こったらなんて不条理な……そんな感じだろうか。

 もっとも,本当に不条理なのはエボラウイルスやBSEプリオンではない。
 肉骨粉を用いた飼料から狂牛病が発生する可能性に目をつむり続けた役人根性や,アフガンやイラクへの空爆という利益のからんだ戦争には星条旗を振り続けるのに,炭疽菌の白い粉事件にはいつの間にか言及しなくなった正義の国など,人の世のならいのほうがよほど不気味ではないか。
 そして,そんな不条理な人の心が歯止めを失った今,天然痘など伝播力をもつウイルスを用いたバイオテロリズムが発生する可能性は高い。そのとき,世界は「他者への不信」という血を噴き出しながら内臓からどろどろに腐っていくのだ。

2002/03/04

『エッセイ&コミック サカタ荘221号室』 坂田靖子 / PHP研究所

85【キンカンナマナマ】

 ……坂田靖子をお気に入りの作家として意識した時期は,わりあいはっきりしている。
 初期の数年は,「ちょっと変わった作風だけれど,白っぽくてなんだか手抜きのような。ギャグをやりたいのかファンタジーやりたいのか,方向が今ひとつわかりにくいし」といった印象で,目は通すものの,雑誌を切り抜いたり,単行本を買い集めたりしていたわけではない。
 それが,カメラのピントがくぃーんと合うように「ギャグともシリアスともつかないけれど,とてもよい」に変わったのが,「別冊ララ」1982年夏の号に掲載された「砂浜の家」を読んだときだった。「砂浜の家」は,事故で妻を失ったコント作家のところに仲間がやってきてパーティーを開く,それだけのことなのだけれど,たった一晩のどたばたしたパーティーが,喪われた永遠を思わせるような,にぎやかで静かで切ない話なのである。この作品はのちに,やはり妙に心に染みる「タマリンド水」,神経に染みる「トマト」などとともに『エレファントマン・ライフ』(白泉社)に収録されている。まだご覧になってない方はぜひともご一読をお奨めしたい。

 さて,坂田作品の1つの頂点が,「花とゆめ」に連載された『バジル氏の優雅な生活』であることは言うまでもない。
 これは19世紀,ヴィクトリア王朝のイギリスを舞台に、有閑貴族のバジル・ウォーレン卿と孤児ルイがさまざまなやっかいごとに首を突っ込んでは解決していく(あるいはさらに混乱させていく)連作短編集。シリアス,ギャグ,ラブロマンス,カルチャーがほどよくブレンドされた,美味しい紅茶とマフィンのようなおしゃれで贅沢でそのくせ経験してもいない過去を深く振り返るような味わい深い時間を過ごせることうけあいである。
(『バジル氏の優雅な生活』の文庫を見ると,白っぽく見える坂田靖子の画風が,実は微妙なタッチに裏づけられていることがよくわかる。単行本に比べて細部がつぶれて,その絶妙の「間」がときに判読しづらいのである。それほど入手が難しいとも思えないので,古本でよいから花とゆめコミックス版をお奨めしたい。)

 そしてもう一方の頂点が,『闇夜の本』をはじめとするスラップスティックな異界譚だが,これはもうトリッピーなサカタ漫才とでもいうか,これを説明するには「げんこつやまのおにぎりさま」や「在広東少年」における矢野顕子のアレンジをもってするしかないような,そんな作品群である。個人的には「浸透圧」シリーズがお気に入りだ。

 なお,坂田靖子が恋愛を正面から描くことはめったにない(『チャンの騎士たち』『闇月王』のように,いや,『伊平次とわらわ』でさえ,登場する男女が恋愛に陥って不思議でない設定にもかかわらず,そのはならない作品が少なくない)。恋愛そのものは描かれるのだが,その多くで主人公は傍観者にすぎない。その分,「神が喜びを下さるように」「イースター・エッグ」,バジル氏の友人ウォールワース君の得恋などは実に心を揺らす。
 坂田作品における恋愛感情が多くの場合,傍観の対象であること,あるいは恋愛をパスしてすでに落ち着いた夫婦になっていること,恋愛の成就に「思い出す」ことや「やり直す」ことが前提とされていること,などなどは注意を必要とするような気がする。

 さて,ご紹介が遅くなったが,『サカタ荘221号室』はそんな坂田靖子が雑誌やホームページで散発的に発表してきたエッセイや単行本未収録のコミックをまとめたものである。

 内容は「ふだんのはなし」「たべもののはなし」「ゲージュツのはなし」の三部に分かれているが,「ふだんのはなし」に三葉虫の化石を主人公にした「三葉虫の夏」(泣ける……)が収録されているなど,いわゆる「とりとめもない」作品群になっている。ただ,一篇一篇は短いものの,さほど「寄せ集め」感はない。全体に,坂田靖子テイストというか,そういう統一感があるためだろう。

 個人的には浜田廣介「泣いた赤鬼」やRPG「ドラッケン」への突っ込みにはたと手を打ったり(記事を書くためにプレイしたパソコンゲームライター以外で「ドラッケン」をコンプリートした人の話は初めて読んだ),住まいの近くの花や漱石譚に同じく最近読んだ吉野朔実のコミックエッセイ『お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き』(本の雑誌連載)との類似を感じたり,それなりの読み応えだった。
 巻末の「あとがき」には,マンガの単行本を作る手間と手順が簡単に紹介されており,文字や写真による雑誌作りしか知らないカラスには新鮮な驚きでもあった。なるほど,マンガの短編集はこのように作られているのであるか。「コマをバラバラに切ってから組み直して頁増やすとゆー方法もアリ!」って,そりゃそうだろうけど,いいのかそんな赤川次郎が改行増やすようなことして。

2002/03/02

『楽園夢幻綺譚 ガディスランギ gadis langit』 深谷 陽 / リイド社 SPcomics

641【気のせいかここに来てから… 一晩ごとに夜の闇が濃くなる気がする】

 とても便利,なのだけれど,その便利さにもたれかかっては危うい言葉,というものがある。

 たとえば先の『かめくん』についての書評にも登場した「癒し系」が,それだ。
 「癒し系」の音楽。「癒し系」の写真。「癒し系」のグラビアアイドル。言わんとすることはわからないでもない。だが,数分から数十分の心地よい,ちょっとひねった音楽や,愛くるしい子犬の写真で癒されるように思われるような欠落など,本来病気でも傷でもなんでもない。
 若者がある種の苛立ちにかられるのはわかる。無力感,飽和感,無闇な破壊衝動,いずれも誰もが覚えることで,しかもその頃には「自分ばかり」という意識が強い。だが,それを癒してくれるのは「系」などという曖昧模糊としたものではない。行為と時間だけである。
 誰かのため,何かのために腕も上がらないほど働きつめ,働きつめして,報われず,救われず,苦痛に身もだえしながら唇に感じる死に水の清涼感。そんなものだ。

 ほかにも,その便利さについつい使ってしまうが,その実何を伝えられているのか心もとない言葉は少なくない。
 たとえば,「エスニック」。
 もともとは民族や人種に由来するさまを表す言葉だそうだから,たとえば金田一耕助が和服を着ればエスニック,エーベルバッハ少佐がイモを食えばエスニック,ブッシュ父子がイラクを空爆すれば……そりゃ違う。
 ともかく,ethnicという言葉にはとくにどの民族,どの人種を特定する意味はなかったはずなのに,なぜかエスニック料理といえばトムヤムクン,キーマカレー,チャーゾーなどなど,要するに東南アジアを中心としたアジア文化圏の料理がぼっと脳裏に浮かぶ。せいぜいがメキシコ料理,アフリカ料理あたりで,ミラノ風カツレツや信州そば,球磨焼酎をエスニックと評することはないようだ。

 とはいえ,このエスニックという言葉,その東南アジアのスパイシーな味や香り,濃密な色遣いを実によく伝えてくれる。タイ料理の店で過ごすダルな午後が,頭の後ろのほうまで「エスニックな」気分でいっぱいになるのも,また事実なのだ。
 そんなエスニックな(ああ,つい,使ってしまう)雰囲気を濃厚に漂わせるマンガといえば,これはもう深谷陽である。

 深谷陽の魅力が最も表れた作品は,バリやベトナムの風俗とそこに長期滞在する日本人アキオをまたーりと描いた『アキオ紀行 バリ』,『アキオ無宿 ベトナム』につきるように思う。ポイントは「長期滞在」で,世に氾濫するアジア本にまま見られるバックパッカーの一過性のイベントではなく,さりとてアキオがその土地にすっかりなじむわけでもない,そのあたりのバランスがなんともいえない。二種類のチョコレートが練っても練っても1つにはならない,そんな感じだ。

 さて,本作は『レディ・プラスティック』以来の長編だが,舞台は「楽園」と呼ばれる地・ガディスランギ。
 過去の作品で何度も登場したインドネシアやバリの気配が濃厚ではあるが,川べりの街のようであり,深い森の奥のようでもあり,あくまでそれは架空の土地。そのガディスランギを訪れた旅行者タロー(24,日本人),ハキーム(年齢国籍不詳),そこで知り合ったミホたちが濃密な事件に巻き込まれていく。
 人を喰らう神獣(ヴィダダリ),月天女(デウィラティ)の神事,神々の御霊,血の男(ラキダラァ),そして神殺し(ブヌゥデワ)。
 まぁ,こういったオカルトファンタジーについてあらすじを云々するのは野暮というものだろう。

 1ついえるのは,『ガディスランギ』はアジアを舞台とした貴種流離譚,霊的な資質と守護をもつ主人公が自らの出目を知らず……つまりは要するにハリー・ポッターだということだ。
 ただし,ハリー・ポッターが「魔法使い」であるのに対し,本作ではまことにアジア的な(「くるくる」でもかつて取り上げた)○○,さらにハリー・ポッターが世界的ベストセラーであるのに対し,深谷陽の作品発表の場は「モーニング」,「オールマン」,「ミスターマガジン」,「コミックビーム」,「MANGAエロティクスF」等々とマイナー化する一方で,『ガディスランギ』が連載された「リイドコミック爆」(「リイドコミック」のリニューアル誌)にいたっては2001年3月の発刊から10冊めの12月号で見事休刊となってしまった。
 追いかけるのもたいへんである。

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