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2002/02/12

『牌がささやく 麻雀小説傑作選』 結城信孝編 / 徳間文庫

881【失牌は成功のもと】

 北池袋場末のその雀荘は,場代が安いのは魅力なのだが,貧乏学生の我々がたむろする4階はともかく,遮光カーテンで窓を塞いだ3階はどうやら少々訳ありな方々の社交場らしく,24時間営業にもかかわらず,深夜になると1階からの出入りが許されないどころか,外から電話しても誰も電話に出てくれないのだ。
 駅ビルのバイトで知り合った我々はその雀荘で,それはもう打ちに打った。出入りを許される朝まで打って,R大の学食に紛れ込んで安いメシを食い,そのままそろってバイトにでかけ,稼いだ日銭をまた夜になると賭けるのだった。

 当時の,あの情熱は何だったのだろう。
 神保町に「近代麻雀」のバックナンバーを探し歩き,著名プロの牌譜を読み漁る者(四筒はもちろん,筒子の上のほうをばらばら撒いた阿佐田哲也のペン七筒リーチは今でも鮮烈に思い出される),炬燵に4人分の牌を並べ,1人でそれを周りながら研究にいそしむ者,一発,裏ドラといったツキを拒否して競技ルールでなければ参加しないと口を尖らす者,麻雀禁止の四畳半に住んでいながら,カキヌマの全自動卓を購入するのに貯金があといくらと昼メシを抜く者。
 そのくせ,どいつもこいつも情けないほど弱かった。ありがちである。

 麻雀の本はずいぶん捨てたつもりだったが,それでも棚には五味康祐『雨の日の二筒』,畑正憲『ムツゴロウ麻雀記』,吉行淳之介『麻雀好日』,佐野洋『麻雀事件簿』,田村光昭『麻雀ブルース』,井出洋介『恐怖の東大麻雀』など懐かしい本が並ぶ。もちろん,阿佐田哲也は別格で,『Aクラス麻雀』1巻,『麻雀放浪記』全4巻は,麻雀という枠を超えて我が青春のほろ苦いウィルヘルム・マイステルである。

 1970年代後半の「近代麻雀」ブームのあと,麻雀人気そのものは急速に失速していく。
 現在所属する会社がもともと市井のギャンブルにあまり興味を抱かない面子が多いこともあって(なにしろ部署の存続自体が毎日ギャンブルみたいな会社だけに),世間一般のことはよくわからない。それでも80年代,90年代と,どうにもオシャレとは言いがたい麻雀が,少しずつ市民権を失い,主婦やOLを巻き込んで隆盛を極めたパチンコや競馬に追いやられ,影が薄くなっていったようには感じたものだ。かつてオフィス街の要所要所には地階や2階を示す雀荘の看板があったものだが,最近あまり目にした記憶がないのは,カラスの無関心からばかりではあるまい。

 80年代になって能條純一『哭きの竜』がちょっとした人気を呼ぶが,極道の世界をシリアスに描いたように見えたこの作品も,実のところ,片山まさゆき『ぎゅわんぶらあ自己中心派』同様,眉間に皺寄せた麻雀漫画の一大パロディだったように思えてならない(とはいえ『哭きの竜』は今読み返してもやはり傑作である。とくに,意外や竜がよく喋る第1巻から,石川喬との決戦を描いた3巻までは,麻雀メディア史に残る名場面,名台詞の連続だ。あんた,背中がすすけてるぜ)。
 実際に麻雀人口が激減している以上,麻雀小説やマンガの元気が失われていくのもまた当然のことだろう。

 ところが,このところ,妙に麻雀本が元気だ。
 一時は品切れ,そのまま絶版かと思われた角川文庫の阿佐田本が平積みになり,ときどきは新刊が現れたりもしている気配だ。どうも,少年マガジン連載の星野泰視/さいふうめい『哲也 雀聖と呼ばれた男』の人気によるように思われるのだが,どうだろう。『哲也』はいうまでもなく若かりし阿佐田哲也の活躍を描いた……などと思って手にすると,阿佐田ファンが七筒を投げつけそうな,それはもう無茶苦茶なストーリーなのだが,細かいことに目をつむれば,実に楽しい,血湧き肉躍るバトルマンガとなっている。連載開始当時の坊主頭の哲也はなんだかなぁ,な印章であったが,そのうち無造作に髪をたらした寡黙な「黒シャツ」姿となって,阿佐田哲也とも誰とも違う,なんともいえない味のあるいいキャラに仕上がった。これこそマンガの魅力だろう。

 結城信孝編『牌がささやく 麻雀小説傑作選』は,そんな微かな麻雀景気の浮上気配の中に登場したアンソロジーで,収録作品は以下の通り。

  阿佐田哲也「新春麻雀会」
  清水義範「三人の雀鬼」
  五味康祐「雨の日の二筒」
  大沢在昌「カモ」
  山田風太郎「摸牌試合」
  横田順彌「麻雀西遊記」
  三好徹「雀鬼」
  黒川博行「東風吹かば」
  生島治郎「他力念願」
  清水一行「九連宝燈」

 いくつかは麻雀そのものを描こうとし,いくつかは麻雀(ギャンブル)を小道具に人生の機微を描こうとしたもの。いずれも黒い,ビターな味わいに充ちた好編ばかりといえるだろう。ポン,チーとは,程度の知識を持ち合わせている方で,これまで麻雀小説なるものに触れたことのない方には,ぜひ一読をお奨めしたい。世の中には,こういった味わいの小説もあるのである。

 ただ,ここに取り上げられた作家の多くはすでに故人か,そうでなくとも「境地」という面ではすでに盛りをすぎた作家であり,つまりはその麻雀小説というジャンルそのものが過去の遺物であることもまた否定できない。

 たとえば清水一行「九連宝燈」では,製造会社で係長への出世を争う若い社員が,九連宝燈を振り込んだ者と上がった者とで運命を分かっていく。それだけならまだしも,九連宝燈の話題をきっかけに次期社長とも噂される常務と卓が囲め,それが出世の足がかりとされる,とか,イカサマを見られたと思われる同僚の女性社員の口をふさぐために電灯の下で彼女を犯し,「わたしはどうなるの」と嗚咽する彼女に「君さえよければ結婚してくれ」と言ってみたり。……なんというか,神代の世界である。それとも,この国のサラリーマン社会には,今もこんな雅な風俗習慣が残されているのだろうか。
 また,比較的新しめの横田順彌,清水義範の2人が,かたやハチャハチャ,かたやパスティーシュと,呼称こそ違え,要はパロディの名手とされていることが少々気にかかる。要するに,麻雀小説は,先に『哭きの竜』や『ぎゅわんぶらあ自己中心派』について述べたように,もはやパロディとしておちょくられる対象としてしか生き残っていないのではないかということだ。
 麻雀小説が過去の伝統芸の再生産に終わるのか,それとも『哭きの竜』や『哲也』に触発された若い世代からなにか新しい切り口が登場するのか,そのあたり,このアンソロジーだけでは読み切れない。

 ちなみに麻雀をこの国で初めて活字で紹介したのは夏目漱石だし,アガサ・クリスティのあの『アクロイド殺人事件』で登場人物たちが打ち嵩じていたのが麻雀というのもまた事実だ。麻雀は,文学の歴史において,決してキワモノではない。
 というわけで,新しい時代の新しい麻雀小説を,ショウ子も待っているのである。ふわっ(わかる人だけ,わかってください)。

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