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2002年2月の6件の記事

2002/02/25

『かめくん』 北野勇作 / 徳間デュアル文庫

13【エスプレッソを飲んでから,ミワコさんはかめくんの甲羅にいろんな色の電極やプローブやスキャナを取り付ける。】

 かめくんは模造亀(レプリカメ)である。
 かめくんは会社が吸収合併されたために退職することになり,それまで住んでいた独身寮にもいられなくなった。それでもキノネ主任のおかげでクラゲ荘という新しい住まいを見つけ,フォークリフトを操作する新しい仕事に就くことができた。
 かめくんは仕事の合間には図書館に寄り,駅前の商店街でパンの耳を買い,土手を散歩しながらそれを食べる。かめくんはりんごが好物だし,スルメやおかきも好きだ。

 しかし,帯に書かれていた「脱力&極楽小説」だとか「ぼくもこれで癒されました」だとかは違うんじゃないか。もっといえば,NHK教育「むしまるQ」のカメさーん!や以前モーニングに連載されていたながいさわこ『かめ!』を思わせるようなこの表紙イラスト,そしてこのタイトルロゴは勘違いを招きゃしないか。
 実際,1年ほど前に発売されたときに各書店で平積みになっていたのを一度ならず手にしながら,友人のテクニカルライター・駒沢丈治氏にお奨めいただくまで読む気になれなかったのは,「いかにも当世ふう《ほのぼの》志向の本」に見えたせいだ。
(本文に挿入されたカットは悪くないのだが……)

 いや,もちろん,かめくんの視点から語られる世界はあくまで淡々と静かで,そこに描かれる近未来の大阪の街や人々はどこか懐かしい。
 レプリカメは木星戦争に投入するために開発されたカメ型ヒューマノイドなのだが,その戦争は常にプリズムをかませてしか描かれない。

 だが,ここに描かれているのは,一見ほのぼのした手触りにもかかわらず,実のところかなり寂寥として,不安のたちこめた,もっとはっきり言えば絶望に甲羅をはばまれた世界だ。

 かめくんの世界と人間の世界は,親しく近しく見えつつもまったくのところ断絶しており,さらにはかめくんがかめくん自身からも断絶していることが徐々に明らかになる。
 本書は静かに少しずつ加速していく,かめくんの別れの物語でもあるのだ。

2002/02/21

『だめんず・うぉ~か~』 倉田真由美 / 扶桑社

681【いい男にもてあそばれるほうが ブサイクと真剣につき合うより100倍ましでしょーが】

 ところで。
 ダメ監督の面々を,もう一度よーく見ていただきたい。
 金田正一や吉田義男はチームをリーグ優勝どころか日本一に導いている。この本が書かれた当時はまだ現役だった野村克也は,おそらくこの阪神での3年間と夫人をネタに今後永くダメ監督の一人として数えられるだろうが,彼が南海,ヤクルトでチームを何度も優勝まで引き上げたのは周知の事実である。いや,少なくとも阪神に移るまでの数年間は,名将中の名将として讃えられていたのは間違いないことなのだ。

 結局のところ,ダメかダメでないかなどは相対的な問題にすぎない。
 そもそもプロ野球チームの監督に招かれた段階で,その人生は十分に評価されたものであり,逆に,いかな名将も,引退時はたいてい優勝を逃したダメ監督として辞めていくものだ。
 たとえば,阪急,近鉄というパ・リーグの「お荷物」級の弱小チームを何度も優勝させた西本幸雄。彼は,何度も日本シリーズまで進みながら,微妙な采配ミスがたたってどうしても日本一になれず,そこに至る間にも選手に総スカンを食らったり,オーナーとケンカしたり,といった逸話を多々残している。だからといって彼を,ダメ監督と呼べるだろうか。まさか。

 ……とかいう相対的な問題とはまったく別に,どうもこの世には,かなりダメな男がいる。
 単にダメなのではなく,ダメダメ~だったり,ダメダメダメ!だったりするようだ。

 たとえば,カラオケパブで知り合って,初めて外で会っていきなり「金貸してくんない」,1回については1万,2万でも累計が50万円くらいになって借用書を書いてと頼むと「信用貸しでおねがい,オレってモテるから金かかるんだ」,100万円になってそろそろ返してほしいというとぶん殴って,突き飛ばして,「お前の親をムチャクチャにしてやるぞコラ」……。

 それでもなおかつ,そんなダメ男に,それも連発で引っかかる女がいる。引っかかったら最後,自分からはどうしても別れられない女がいる。
 そんなダメ男に繰り返し惹かれる女を「だめんず・うぉ~か~」というくくりで描いたのが本書である。本書であるなどといっても,1回数ページのぱらぱらのぽちぽちで。連載は週刊SPA!だし。男と女のことを分類するだけ分類して指さして,それ以上でもそれ以下でもないあたり,すごくSPA!らしいし。

 ただ,読み返すほどには盛り上がらないのは,どうもこのダメ男のパターンが「女に金を出させる身勝手フリーター」タイプか「高級取りでもてて身勝手」タイプ,「ドラッグでらりぱっぱ」タイプなど,せいぜい数パターンしかないためではないか。
 さらにいえば,ダメ男にほれる女の側はさらにバラエティがなく,作者くらたま当人と美人に描かれた麻雀プロ渡辺ヨーコを除いてほとんどキャラに描き分けはない。大半がそういうダメ男につくすことに充足を感じるらしいというだけで,流行りの「共依存症」といえば何かわかったような気がするし,「破鍋(われなべ)に綴蓋(とじぶた)」といえばそれなりにそれらしい。

 結局,「だめんず」という切り口に「ストーカー」ほど妙味が感じられないのは,異常さ,ヤマイダレの気配が希薄なせいかかもしれない。他人の恋愛など,多少あぶの~まるな味付けがなければ面白い見ものではないのだ。

2002/02/16

『プロ野球殿堂 ダメ監督列伝 怒涛編』 テリー伊藤 / メディアワークス

19【子供が学校でいじめられるから,やめて】

 存亡の危機を迎えた日本プロ野球界。
 長嶋監督が引退し,野茂,佐々木,イチローらが大リーグに流れ,これを活性化するには,もはやかつてのように名選手,名監督の名前を列挙するだけでは何も始まらない。

 そこで,現役時代にまばゆいばかりの実績を残しながら,監督になったとたんに汚名を背負って消えていったダメ監督たちに着目するという,本書の着眼点は面白い。
 大相撲を語るのに,貴乃花,千代の富士,北の湖,大鵬,柏戸ら名横綱ではなく,たとえば安芸乃島,琴錦,栃乃和歌,琴ヶ梅,逆鉾,栃赤城,玉ノ富士,荒勢,長谷川ら,大関になれそうでなれなかった力士を語るようなものである。そこには勝負について,人間について,単にたくさん勝った者とはまた違う何かがくっきりと描かれるに違いない。

 本書では,そのダメ監督として,前作『お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝』でピックアップされた金田正一,鈴木啓示,田淵幸一,中村勝広,関根潤三,有藤道世らに加え,大沢啓二,藤田平,吉田義男,佐々木恭介,石毛宏典,高田繁,達川晃豊,近藤昭仁,ボビー・バレンタインが取り上げられている。

 しかし,テリー伊藤はしょせんプロ野球の一ファンにすぎない。
 そのため,ここで扱われている話題の大半は,デイリーで新聞やスポーツニュースに目を通していればわかるようなことばかりだ。また,エンターテイメントな側面,要するにテレビ的な盛り上げに着目するあまり,ダメ監督,すなわち名脇役たちの魅力が,ダメでない,すなわちその年の優勝監督と対峙して初めて意味があることがついつい忘れられてしまうのも問題だ。
 近年,プロ野球が面白くないとされる最大の原因は,その,ダメでないほう,つまりたくさん勝ち,より速く投げ,よりたくさん打つ,そちらの側が魅力として手応えを感じさせないことにあるのだから。
 1冊の本としてみれば,たとえばプロ野球記録の鬼,宇佐美徹也氏と組み合わせ,ダメ監督として列挙された監督個々の手腕を見るなど,改善の手はいくつかあるだろう。しかし結局のところ,それは本としての出来の話にすぎない。

 ところで,カラスは実のところ,プロ野球はもうつぶれても,あるいは卓球やハンドボールと変わらぬ,それを愛好するプレイヤーとウォッチャーによって成り立つ一スポーツとみなされても別によいではないか,と最近考えるようになった。

 思うに,プロ野球の魅力は,空き地の三角ベースの楽しみの上に立脚するものであった。日本中の空き地で,投げ,打ち,走る,そのきらめくような時間のエネルギーが,選ばれた高校球児に,選ばれたプロ野球選手に,そしてさらに選ばれた名選手の中にフォーカスされていく……。
 だが,今,あらゆる空き地は閉ざされ,子供たちはほかの楽しみに三々五々散ってしまった。
 ナショナリズムの流し込み先として,第二,第三の野茂,イチローは登場するかもしれない。しかし,上流を潤す豊かな雨雲を失ったプロ野球が枯渇し,先細っていくのはしかたない。

 あとは,もう,演出などいらない。白球に任せればよい。

2002/02/12

『牌がささやく 麻雀小説傑作選』 結城信孝編 / 徳間文庫

881【失牌は成功のもと】

 北池袋場末のその雀荘は,場代が安いのは魅力なのだが,貧乏学生の我々がたむろする4階はともかく,遮光カーテンで窓を塞いだ3階はどうやら少々訳ありな方々の社交場らしく,24時間営業にもかかわらず,深夜になると1階からの出入りが許されないどころか,外から電話しても誰も電話に出てくれないのだ。
 駅ビルのバイトで知り合った我々はその雀荘で,それはもう打ちに打った。出入りを許される朝まで打って,R大の学食に紛れ込んで安いメシを食い,そのままそろってバイトにでかけ,稼いだ日銭をまた夜になると賭けるのだった。

 当時の,あの情熱は何だったのだろう。
 神保町に「近代麻雀」のバックナンバーを探し歩き,著名プロの牌譜を読み漁る者(四筒はもちろん,筒子の上のほうをばらばら撒いた阿佐田哲也のペン七筒リーチは今でも鮮烈に思い出される),炬燵に4人分の牌を並べ,1人でそれを周りながら研究にいそしむ者,一発,裏ドラといったツキを拒否して競技ルールでなければ参加しないと口を尖らす者,麻雀禁止の四畳半に住んでいながら,カキヌマの全自動卓を購入するのに貯金があといくらと昼メシを抜く者。
 そのくせ,どいつもこいつも情けないほど弱かった。ありがちである。

 麻雀の本はずいぶん捨てたつもりだったが,それでも棚には五味康祐『雨の日の二筒』,畑正憲『ムツゴロウ麻雀記』,吉行淳之介『麻雀好日』,佐野洋『麻雀事件簿』,田村光昭『麻雀ブルース』,井出洋介『恐怖の東大麻雀』など懐かしい本が並ぶ。もちろん,阿佐田哲也は別格で,『Aクラス麻雀』1巻,『麻雀放浪記』全4巻は,麻雀という枠を超えて我が青春のほろ苦いウィルヘルム・マイステルである。

 1970年代後半の「近代麻雀」ブームのあと,麻雀人気そのものは急速に失速していく。
 現在所属する会社がもともと市井のギャンブルにあまり興味を抱かない面子が多いこともあって(なにしろ部署の存続自体が毎日ギャンブルみたいな会社だけに),世間一般のことはよくわからない。それでも80年代,90年代と,どうにもオシャレとは言いがたい麻雀が,少しずつ市民権を失い,主婦やOLを巻き込んで隆盛を極めたパチンコや競馬に追いやられ,影が薄くなっていったようには感じたものだ。かつてオフィス街の要所要所には地階や2階を示す雀荘の看板があったものだが,最近あまり目にした記憶がないのは,カラスの無関心からばかりではあるまい。

 80年代になって能條純一『哭きの竜』がちょっとした人気を呼ぶが,極道の世界をシリアスに描いたように見えたこの作品も,実のところ,片山まさゆき『ぎゅわんぶらあ自己中心派』同様,眉間に皺寄せた麻雀漫画の一大パロディだったように思えてならない(とはいえ『哭きの竜』は今読み返してもやはり傑作である。とくに,意外や竜がよく喋る第1巻から,石川喬との決戦を描いた3巻までは,麻雀メディア史に残る名場面,名台詞の連続だ。あんた,背中がすすけてるぜ)。
 実際に麻雀人口が激減している以上,麻雀小説やマンガの元気が失われていくのもまた当然のことだろう。

 ところが,このところ,妙に麻雀本が元気だ。
 一時は品切れ,そのまま絶版かと思われた角川文庫の阿佐田本が平積みになり,ときどきは新刊が現れたりもしている気配だ。どうも,少年マガジン連載の星野泰視/さいふうめい『哲也 雀聖と呼ばれた男』の人気によるように思われるのだが,どうだろう。『哲也』はいうまでもなく若かりし阿佐田哲也の活躍を描いた……などと思って手にすると,阿佐田ファンが七筒を投げつけそうな,それはもう無茶苦茶なストーリーなのだが,細かいことに目をつむれば,実に楽しい,血湧き肉躍るバトルマンガとなっている。連載開始当時の坊主頭の哲也はなんだかなぁ,な印章であったが,そのうち無造作に髪をたらした寡黙な「黒シャツ」姿となって,阿佐田哲也とも誰とも違う,なんともいえない味のあるいいキャラに仕上がった。これこそマンガの魅力だろう。

 結城信孝編『牌がささやく 麻雀小説傑作選』は,そんな微かな麻雀景気の浮上気配の中に登場したアンソロジーで,収録作品は以下の通り。

  阿佐田哲也「新春麻雀会」
  清水義範「三人の雀鬼」
  五味康祐「雨の日の二筒」
  大沢在昌「カモ」
  山田風太郎「摸牌試合」
  横田順彌「麻雀西遊記」
  三好徹「雀鬼」
  黒川博行「東風吹かば」
  生島治郎「他力念願」
  清水一行「九連宝燈」

 いくつかは麻雀そのものを描こうとし,いくつかは麻雀(ギャンブル)を小道具に人生の機微を描こうとしたもの。いずれも黒い,ビターな味わいに充ちた好編ばかりといえるだろう。ポン,チーとは,程度の知識を持ち合わせている方で,これまで麻雀小説なるものに触れたことのない方には,ぜひ一読をお奨めしたい。世の中には,こういった味わいの小説もあるのである。

 ただ,ここに取り上げられた作家の多くはすでに故人か,そうでなくとも「境地」という面ではすでに盛りをすぎた作家であり,つまりはその麻雀小説というジャンルそのものが過去の遺物であることもまた否定できない。

 たとえば清水一行「九連宝燈」では,製造会社で係長への出世を争う若い社員が,九連宝燈を振り込んだ者と上がった者とで運命を分かっていく。それだけならまだしも,九連宝燈の話題をきっかけに次期社長とも噂される常務と卓が囲め,それが出世の足がかりとされる,とか,イカサマを見られたと思われる同僚の女性社員の口をふさぐために電灯の下で彼女を犯し,「わたしはどうなるの」と嗚咽する彼女に「君さえよければ結婚してくれ」と言ってみたり。……なんというか,神代の世界である。それとも,この国のサラリーマン社会には,今もこんな雅な風俗習慣が残されているのだろうか。
 また,比較的新しめの横田順彌,清水義範の2人が,かたやハチャハチャ,かたやパスティーシュと,呼称こそ違え,要はパロディの名手とされていることが少々気にかかる。要するに,麻雀小説は,先に『哭きの竜』や『ぎゅわんぶらあ自己中心派』について述べたように,もはやパロディとしておちょくられる対象としてしか生き残っていないのではないかということだ。
 麻雀小説が過去の伝統芸の再生産に終わるのか,それとも『哭きの竜』や『哲也』に触発された若い世代からなにか新しい切り口が登場するのか,そのあたり,このアンソロジーだけでは読み切れない。

 ちなみに麻雀をこの国で初めて活字で紹介したのは夏目漱石だし,アガサ・クリスティのあの『アクロイド殺人事件』で登場人物たちが打ち嵩じていたのが麻雀というのもまた事実だ。麻雀は,文学の歴史において,決してキワモノではない。
 というわけで,新しい時代の新しい麻雀小説を,ショウ子も待っているのである。ふわっ(わかる人だけ,わかってください)。

2002/02/07

ジョン・レノン『ヌートピア宣言』などについての断章

Photo 音楽の好みなんて人それぞれで,そもそも当人にだって説明つきゃしない。

 ジャーニーが嫌いでトトがつまらなくてELOがかったるくて,そのくせなんでボストンが好きなんだ俺は。ピーガブ時代はもちろん,フィル・コリンズになってからもお気に入りだったジェネシスが,『デューク』『アバカブ』以降,まるで3日間テーブルにさらしたままのカステラみたいな味になってしまうのはいったいどういうわけだ。

 世間の評価もどこかそういうところがあって,同じ大物ミュージシャンで,同じように人気を博したはずのアルバムが,今となってはまるで歴史から埋もれてしまった,そんなこともある。

 たとえば,デヴィッド・ボウイの『ステイション・トゥ・ステイション』。
 次の作品があの傑作『ロウ』だったアオリをくらったのか,当人からも「なかったこと」みたいな扱いを受け,CD化に時間のかかったボウイ作品の中でも発売されたのはずいぶんと後回しだったように記憶している。まぁ,グラムの帝王がディスコに走ったとか,アメリカにひよったとか言われた前作『ヤング・アメリカン』とこの『ステイション・トゥ・ステイション』,忘れたい気持ちもわからないでもない。ゲルマン人がこさえたゴジラのサントラみたいな『ロウ』に比べれば確かに上滑りした感は否めないし。それでもたとえば「野生の息吹き」など,なかなか捨てがたいと思うのだが……。

 ジョン・レノンでいえば,『ヌートピア宣言』。
 あの『イマジン』の次のアルバムが,20年後の今これだけ忘れられ,見捨てられるとは。
 そりゃ確かに,冒頭の「マインド・ゲームス」にせよ,6秒間の無音にすぎない「ヌートピアン・インタナショナル・アンセム(ヌートピア国際賛歌)」にせよ,ご大層なタイトルのわりに思いの高みは「イマジン」や「ハウ」「神」に遠く及ばない。『ジョンの魂』当時の野太い丸太がごんごん激流を下るような率直さパワーもなく,「ワン・デイ」は「ラヴ」や「オー・マイ・ラヴ」の透過性に欠け,ヨーコを歌った「あいすません」は「母(マザー)」や「母の死」のようにソリッドな個人の経験に裏打ちされた切実さを感じさせず……うーむ,こうして1曲1曲を比較してみると,そりゃ確かに『ジョンの魂』や『イマジン』より評価が劣るのはやむを得ないという気もしないでもない。だが,それにしてもこれほど軽んじられるほどのことはないのではないか。
 説得力がイマイチなぶん,1つ1つの曲相はポップで,馴染みやすい。大傑作とは言いがたくとも,心地よい佳曲が並んでいるとでもいおうか。「アウト・ザ・ブルー」は少しゆがんだラブソングとしてときどき口をついて出るし,「ミート・シティ」はジョン・レノン,いやビートルズのメンバーとしては珍しいほどのバリバリしたハードロックだ。
 というわけで,『ヌートピア宣言』は,レッド・ツェッペリンの『フィジカル・グラフィティ』である,とか言ってみたいわけだが,どうか。どうかって言われても困るだろうけど。

 ほかにも,たとえばミッシェル・ポルナレフ『星空のステージ』。
 「愛の伝説」をフューチャーした『ポルナレフ革命』を最後の花火として,なんとなくフレンチポップスブームが完結してしまい,当人も巻き返しのつもりかどうかアメリカに移ってごそごそやってた時期のアルバムで,「青春の傷あと」がシングルとしてはそこそこヒットしたものの(馬場のスカイコンパのジュークに入っていたなあ),もはや「ラース家の舞踏会」「愛のコレクション」「ロミオとジュリエットのように」などに象徴される「あの」おフランチ,大袈裟,華麗・美麗なポルナレフのイメージはここにはない。でも,今聞いてもそれなりに耳を楽しませてくれるのはさすがだ。「青春の傷あと」は今聞くとこれはもう演歌としかいいようがないのだが,「失われたロマンス」「愛の旅人」「雨の日のラヴソング」などのメロディは,地味ながら噛めば噛むほど味が出る。いや,実際,1曲1曲,タイニーながらなかなかよく出来ているのだ。
 大ヒットとはいえなかったこのアルバムにしてこのメロディメイク。逆にポルナレフの天才を見るような気がしないでもない。

 10ccでは,後期の『ミステリー・ホテル』だ。
 当時の『ルック!ヒア!!』,『都市探検』,『ミステリー・ホテル』,発表順もよく思い出せないこれらの作品群はファンからの評価も低く,いずれも今では国内はもちろん海外のCD通販サイトですら入手できない。ゴドレイ&クレイムがいた初期の知的でビターなアルバム(個人的には2作めの『シート・ミュージック』が一番お気に入りだ),後期のエリック・スチュワート&グラハム・グールドマンによるちょっとシニカルだけどメロディそのものは伸びやかなラヴソングス,そういった彼らの魅力がどんどん失われ,才能が涸れに涸れた時代の作品,ということになっているのだが,どういうわけか『ミステリー・ホテル』だけは妙に心に馴染む。最後の「サバイバー」なんて,10cc全曲の中でもベスト5には入れたいお気に入りだ。10ccというお祭りそのものの終焉を歌うような,というとご大層に過ぎるか。
 10ccが男性のアレの1回分を指すというのは当時ロック雑誌などで繰り返し語られたことだが,その10ccの最後のひと絞り,というかね。

2002/02/03

ニュー・オーダーについての断章

Photo New Orderの新譜‘Get Ready’,もちろん昨夏に発売されたアルバムを今さら「新譜」でもないのだけれど,前作の‘Republic’が8年前で,90年代のオリジナルアルバムがその1枚だけだったことを思えば,半年やそこらは誤差に過ぎない。

 その,‘Get Ready’は予想されたようなものではあったが,期待したようなものではなかった。
 無人島に追いやられる際に,持っていくことを許されるなら‘Power, Corruption and Lies’や‘Low Life’のほうがよい。間違っても‘Get Ready’ではないだろう。
 ‘Get Ready’の出来が悪い,というわけではない。ギターをフューチャーした音には厚みがあり,メロディは相変わらずセンチメンタルで,文句をつけるようなものではない。Bernard SumnerとJohnny Marrによる趣味のユニットElectronicの‘Twisted Tenderness’と似たような音で新鮮味が足りなかった,ということもあるだろう,だがそれだけでもない。

 New Orderは,その前身だったJoy DivisionのリーダーにしてヴォーカルのIan Curtisが2ndアルバム‘Closer’完成直前に首吊り自殺してしまい,途方に暮れた残されたメンバーたちがBlue Mondayの世界的ヒットによって……。
 と,この粗筋だけだとウェットな成功譚になってしまうのだが,当時の彼らの,メンバーの写真も歌詞も提供しないアルバム,愛想のないライブ,といったぎしぎしした無造作さが懐かしい。あれは,本当に心地よいものだった。世にもヘタクソなギター,ヘタクソなヴォーカルが,昇って,降りて,昇って,降りて。

 Leave me alone, leave me alone
 苔むした廃墟,ではない。見渡す限りの,空虚。

 彼らの音はかつてもっとずっと痩せていたが,それだけ豊かだった。
 その音は完成にはほど遠く,だからずっと深いところまで揺れるのだった。

 かつて,ミュージシャンが恋だの夢だのを提供して,リスナーがそれをまっすぐに受け取るということがあり得そうに見える時代があった。
 New Orderはそんな甘やかなカタチには頓着しない。無造作,不親切,投げ遣り。
 IanのことはIanにしかわからない。New OrderのことはNew Orderにしかわからない。
 外からはだからただ迷路にしか見えない。
 だが,あらゆる迷路のランダムな組み合わせを試すうちに,ごくまれに,いくつかのステップがまっすぐにリスナーに届く,そういうことはある。
 そういうことはあるのだ。

 Ian Curtisが自殺したとき,彼は僕とほぼ同年だった。
 Ian Curtisがもし生きていたら,彼は僕とほぼ同年ということになる。
 僕は彼を追い越せない。彼は僕を追い越せない。
 僕はIanではないのでIanのように歌うことはできない。BernardではないのでBernardのように歌うことはできない。
 だが,彼らが得られなかったものを,同じように手にしないことはできる。

 それはとてもつまらないものだ。だが,つまらないものの中に本当の答えはあるものだ。

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