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2002年1月の4件の記事

2002/01/29

スザンヌ・ヴェガについての断章

Photo_2 昨秋に発売されたSuzanne Vegaの6作めのスタジオ録音アルバム‘SONGS IN RED AND GRAY’は,初期のSuzanne Vegaを思い起こさせるアコースティックな音がとても好もしい。
 あるべき声の波が遠くに引くことによって,かえって歌詞の一言一言が気になるような,そんな彼女らしさが久しぶりによく現れているように思われる。

 Suzanne Vegaがブレイクしたのは2ndアルバム‘SOLITUDE STANDING’のLUKAやTOM'S DINERのヒットによると言われ,実際この2曲はラジオやTV CFでよく耳にされたわけだが,同じ2ndアルバムの8曲め,LANGUAGEこそは比類なき作品ではないかと個人的には思っている。流れない言葉,消えてしまう言葉を歌うアコースティックギターを中心とした複層的なアレンジが理屈の縦糸,感性の横糸で音のタペストリーを虚空に結ぶ。
 当時毎週欠かさずチェックしていたPeter BarakanのPopper's MTVのエンディングで流れていたのを初めて聞いたときには,ほんのサワリだけで体中の血液が繻子ごしに洗われるような気がしたものだ。

 その後の何枚かのアルバムも,ずっとつきあってはきたが,2ndアルバムほどの思いはなかなか味わえずにいる。
 このあたり,当たり外れの多い元PoliceのStingと少し似ている。
 そういえば,少し嗄れた,だがハスキーというほどではない声,歌唱力があるんだかないんだかよくわからない,だが決してヘタなわけではなく淡々と難しい歌を歌い上げるところ,アコースティックな音を中心にしているようで電子的なアレンジもいとわない音楽性など,StingとSuzanne Vegaには似たような点が少なくない。初期のヒットにRoxanne,Marlene On The Wallと娼婦を歌う歌があったり。声や歌い方にどこか微かな「はすっぱ」さが匂ったり。少しばかりこじつけがすぎるかもしれないけれど。

 多分,Suzanne Vegaは僕の欲しいものを全部満たしてはくれない。言葉は流れず,音は消えてしまう。それでも,どこかに残るものはあるのだ。多分。きっと。

2002/01/27

『目をみはる 伊藤若冲の『動植綵絵』』 狩野博幸 / 小学館アートセレクション

Photo_2【居士は少きより専ら新奇に務め,套習に渉ることを欲せず】

 今年の正月,2日の深夜。NHK総合で放送された『神の手を持つ絵師 ~江戸の画家・若冲の不思議世界(ワールド)~』をご覧になった方はおられるだろうか。
 江戸中期の画家・伊藤若冲(1716~1800)を岸辺一徳が飄々と好演,若冲コレクターの第一人者であり,50年の歳月を私財を投じて若冲研究に打ち込んだジョー・プライス氏の語りを交えて,ドラマと現代のドキュメンタリーの交錯する中に若冲の作品を紹介する,地味ながらなかなかよくできた番組だった。
 ドラマとドキュメンタリーが交錯するといえば,フィリップ・ルロワがレオナルドを演じた1971年イタリアの傑作ドキュメンタリー番組『レオナルド・ダ・ビンチの生涯』を思い起こす。画家の人生を描くのに,この手法は向いているのだろうか。

 伊藤若冲。名は汝鈞,字は景和。斗米庵、米斗翁などの号もある。
 京都錦小路の裕福な青物問屋の長男として生まれながら,絵を描くことのみに没頭し,四十にして弟に家督を譲り,隠居して俗事から離れ,ただただ絵を描いては寺社に寄進するという生涯を過ごして八十五歳で没す。
 白井華陽が著した画人評『画乗要略』によれば「初メ狩野氏ニ学ビ,後元明ノ古蹟ヲ模シ,兼テ光琳之筆意ヲ用ユ」,すわなち初めは狩野派に学び,のちに元,明の中国古画の研究を積み,なおかつ光琳の筆遣いも用いたという。写生を重んじ,沈南蘋(しんなんぴん)の花鳥画や黄檗(おうばく)宗関係の絵画など,新しい中国画からも学び,と,その自在な精神には恐れ入るばかりである。

 本書ではそんな若冲の作品のうち,相国寺に寄進され,のちに宮内庁に謙譲された「動植綵絵」全三十幅が紹介されている。いずれも着色画である。
 「動植綵絵」では鶏や孔雀,桜や梅のリアルな色彩だけでなく,タコやイカ,エイを含むさまざまな魚,百種類以上の貝(おやおやオウムガイの姿もあるぞ),チョウやカブトムシからカエル,トカゲ,ヘビにいたるさまざまな虫,という具合に,その描かれる対象も江戸時代の絵画のイメージを変えそうなバラエティである。
 重要なのは,単に貝や虫がさまざまに描かれていることだけではない。そこにいるのは単なるセミではなくてアブラゼミ,クモではなくジョロウグモ,バッタでなくショウリョウバッタ,ケムシではなくてカレハガの幼虫であることだ。つまり,若冲は「虫」を描くにおいて,イメージの集合体の「虫」ではなく,そこにいた,特定できる一匹の「虫」を描いた,ということである。そういった徹底した細密なリアリズムが,形を刻み,色を刻み,やがてリアルを越えて抽象にいたる。

 その意味で,大作「鳥獣花木図屏風」(六曲一双,各167.0×376.0cm)は,署名,印章がないため,若冲の筆ではないとも言われているらしいが,実に興味深い。
 あいにく本書ではあまり大きくは扱われていないが(*1),「鳥獣花木図屏風」では,約1cm四方の升目で画面全体を区分けし,その升目のひとつひとつに色を割り振って象,駱駝,猿,鹿,驢馬,兎,麒麟など,さまざまな(現実の,あるいは架空の)動物達が描き上げられている。パソコンのグラフィックツールでいえば,ドットに「グリッド」が表示されているような感じだ(*2)。
 一種のモザイク画ではあるが,単色のタイルのような色遣いから,升目の中にさらに小さな四角を描いたもの,その小さな四角を二重に重ねたもの,升目を気にせず曲線を描き込んだものなど,升目の扱いは多種多様でだ。

 ここには表現のひとつの理想がある。重厚な長編小説を究めれば十七文字の俳諧に通じ,分子,原子,素粒子とミクロを追求すればそこにはマクロなコスモスが見えてくる。点は世界,世界は点。色彩は沈黙,沈黙は止揚。
 この,音楽の聞こえるような「鳥獣花木図屏風」を広々とした風呂場の壁に配したプライス氏が羨ましい。多少高くともよいからどこか酔狂な紙屋が,襖絵として販売してくれないものだろうか。都の辰巳の我が庵にも一面に飾りたいものと切に願う。

 伊藤若冲,面白い。

*1……新潮日本美術文庫10『伊藤若冲』の図26参照。

*2……若冲には,スーラやシニャックら,ポアンチュリストともみまがう墨の点描を用いた「石灯籠図屏風」という作品もある。若冲にはすでに現在のパソコン上の「ピクセル」(画素)にあたる概念があったのではないか。

2002/01/24

ここで会ったが百円め,百円も承知の 『カラスの事件ファイル 紫陽花寺殺人事件』 吉岡道夫 / ダイソー・ミステリー・シリーズ2

61【ともかくカラスの正体をつきとめることですよね】

 古本屋のワゴンの50円本,100円本にはおよそ読みたい本との出会いがない。パルプ・ミステリ,シドニィ・シェルダン,盛りを過ぎたタレント本,ハウツーセックス,オカルトとんでも本。
 ときどき「ひょっとすると掘り出し物が埋もれているかも」と丁寧に眺めてみるのだが,不思議なほどアタリがない。単に古いから,汚れているから,というだけでもないようだ。
 新幹線のホームで本を持ち合わせてないことに気がついて,目の前にこのワゴンがあったら……それでもやはり,食指が動くかどうか。

 たとえば西村京太郎や山村美紗,門田泰明,こういった作家の本は普段からそう読みたいとは思わないが,それでもヒマつぶしに彼らの文庫の1冊,たまには手にしないわけではない。それが100円で買えるなら悪い話ではないように思うのだが,逆に,その,100円がいけないのかもしれない。
 なんというか,値引きもそこまでいったら本としての誇りというか矜持を失っているように見えるのだ。
 では,正面から100円の定価がついていたらどうか。これが本日のお題である。

 缶ジュースも100円で買えなくなった昨今,100円といえば100円ショップである。当初は安かろう悪かろうで,文具など実際は使い物にならないものが少なくなかったが,最近はずいぶん品質もこなれ,よく見ると正規のメーカーがボリュームを調整して納品するケースもあるようだ(ニチバンのセロテープなど)。最近のカラス的ヒットは,名刺サイズのCD-Rメディア。容量45Mはそれなりに便利な大きさで,アドレス帳やよく使うユーティリティなど,データを持ち歩くのに重宝している。

 そんな100円ショップの最近のトレンドの1つが「本」で,地図,辞書,料理レシピなどに加えて,とうとう対象がエンターテイメントにまで広がった。ダイソー・ミステリー・シリーズは,そんな100円ショップのチェーン「ダイソー」の店頭で発見した文庫サイズのポケットブックである。全30冊,通常の文庫のようにカラーカバーは付いておらず,糊付け平綴じのシンプルな造りだが,紙質,印刷,そう悪いものではない。
 店頭で発見したときは,売れないゴーストライター,無名新人,編集者のアルバイト,もしくは逆にかつてそこそこ売れた作家がペンネームを変えて粗製濫造といったところかと思ったのだが,ラインナップを見てみると少し違うようだ。『夏の旅人』の田中文雄,怪奇体験の矢島誠,作家集団「霧島那智」でも知られる若桜木虔など,そこそこ名の知られた文庫本レベルの作家も含まれているのである。筑波孔一郎という作家にいたっては,1970年代に幻影城ノベルス(!)を上梓して以来の出版と思われる。

 添付画像の『カラスの事件ファイル 紫陽花寺殺人事件』の作者・吉岡道夫にしても,売れっ子かどうかはともかく,紀伊国屋BookWebで調べてみた限りでは講談社や学研,双葉社といった出版社から53冊上梓した,立派なベテランである。倒産した大陸書房から『署名(サイン)はカラス』というミステリを出しており,推測するに本書はそれをタイトルを変えて収録したのではないだろうか。
 内容はカラスと名乗る脅迫者と新進俳優殺人事件が交錯する,というもの。犯人はすぐわかるが,文章は手馴れていて無理がなく,存外に楽しめた。報われない情愛,ユーモアやお色気の要素などがばらばらと散りばめてあり,要するにテレビのサスペンス劇場のように考えればそうはずれはない。ストーリーは凡庸だし,タイトルもなぜこれが「カラスの事件ファイル」なのか,なぜ「紫陽花寺殺人事件」なのか,まじめに考えれば首をひねらざるを得ないようなものではあるが,そんなことを気にせず中間小説誌を読み流す程度のかまえで読めば,決して悪い読み物ではない。いや,むしろ,トリックにこだわるあまり登場人物の言動が不自然でもよしとしてしまう最近の一部の新本格ミステリ等に比べれば,よほど肩の力を抜いて読むことができた。

 ただ,ではシリーズのほかのラインナップも購入したいかといえば……そのあたりの判断は,どうかご自身で手に取って判断してほしい。
 百円は一見にしかず,というではないか。

2002/01/20

十代の夢のフローチャート 『キスまでの距離 おいしいコーヒーのいれ方I』 村山由佳 / 集英社文庫

73【俺がどれだけ悩んだかわかってるのか!】

 マンガならでは,としか言えないような設定,というのがある。
 たとえば
   実は兄妹あるいは姉弟であった
   実は兄妹あるいは姉弟ではなかった
   不良にからまれた彼女を助けた
   親が長期留守することになって従姉と暮らすことになった
   いつもは「なによ年下のくせに」と生意気な彼女が突然泣き出した
   誰もいないと思ってシャワールームに入ったら彼女が悲鳴をあげた
   小さな喫茶店の寡黙なマスターは元有名スポーツマンだった
と,思い浮かぶままいくつか並べてみると,これってあだち充の専門分野じゃないかと思いいたるわけだが,今回は『みゆき』も『タッチ』も関係はない(話がそれたついでに……柳沢みきおの『翔んだカップル』の続編『翔んだカップル21』が最近連載されているそうだ。昨年暮れには単行本も発売された。30歳になるまで互いに恋し合いながらとうとう結ばれることのなかった勇介と圭はいまや50歳になって親の世代なのだそうだ。『特命係長 只野仁』に登場するくたびれたオヤジたちといい,いつの間にか見事な中年マンガ家になってしまったなぁ,柳沢みきお。単行本推計400冊)。

 さて,本書『キスまでの距離』は,数年前に文庫化されて以来ずっと気にかかっていた1冊だ。
 内容ではなく,ナウシカふうの表紙のイラストの2色刷りが目に心地よかったからである。ちなみに同シリーズ3巻目『彼女の朝』の文庫の表紙もとても好もしい。
 ただし,当たり前のことだが,表紙がよいからといって読み甲斐のある本であるとは限らない。カラスは小池真理子のサスペンス小説は読みたくてたまらないほうではないが,彼女の数十冊ある文庫の表紙はいずれもなかなかの力作で,表紙だけを目的に集めてみたいほどである。

 というわけで本書も,発売されてしばらくしてふらふらと購入してしまったものの,とくに急いで読む必要も感じないままに本棚に積んだままになっていた。
 なにしろ裏表紙の惹句が,
「高校3年になる春,父の転勤のため,いとこ姉弟と同居するはめになった勝利。そんな彼を驚かせたのは,久しぶりに会う5歳年上のかれんの美しい変貌ぶりだった。しかも彼女は,彼の高校の新任美術教師。同じ屋根の下で暮らすうち,勝利はかれんの秘密を知り,その哀しい想いに気づいてしまう。守ってあげたい! いつしかひとりの女性としてかれんを意識しはじめる勝利。ピュアで真摯な恋の行方は。」

 ……もう,まんま,どこを切ってもマンガである。いまどき,少女マンガでもこれだけどっぷりした設定はないのではないか。

 先日,ちょっとした外出に軽くて薄い読み物を,とポケットに詰め込んで出先で読んでみた。
 いやはや,マンガならそれなりに読めてしまうだろうこの設定が,文章だとなんと甘いことか。気の抜けたコーラ,お茶なしの落雁。シッポまでアンコの詰まった鯛焼きにメープルシロップかけて真っ黒い羊羹と一緒に汁粉に浮かべたくらい甘い。
 主人公ショーリ君は男らしさを求めてイキがり,喫茶店にはHey Judeが流れ,2人が互いの思いを確認するのは風の海辺だ。全編,すべての行がてれてれと「おもはゆい」。

 いや,甘いからいけないと非難しているわけではない。

 ある世代にこういった物語が必要なことはよく知っている。彼ら彼女たちにとってこの甘さは嗜好品の甘さではなく,日々の活動の糧なのだ。シリアスぶった書き手自身のための精神的マスターベーション純文学より,ある意味よほど誠実にニーズに応えているようにも思う。いや,ずっと好もしい。

 というわけで,続編も読もうっと。ただし,虫歯には気をつけなくっちゃ。

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