フォト
無料ブログはココログ

« 2001年11月 | トップページ | 2002年1月 »

2001年12月の7件の記事

2001/12/30

コギレイなパラサイトたちの物語 『ヒカルの碁』 原作 ほったゆみ,漫画 小畑 健,監修 梅沢由香里四段(日本棋院) / 集英社(ジャンプ・コミックス)現在15巻

Photo【オレなんかが打つより 佐為に打たせた方がよかった! 全部! 全部! 全部!!】

 我が家ではここしばらく,囲碁がちょっとしたブームとなっている。
 『ヒカルの碁』のアニメ化がきっかけで,長男が囲碁を覚えたいと梅沢由香里の入門書を買ってきたり,碁盤をねだったり,もっとも,実のところまだ一度も対局にはいたっていない。ブームのブームたる所以である。というわけで,息子たちは冬休みに入るやいなや,碁盤や碁石のあるジジババのところへ飛んで帰ってしまった。

 そんなこんなで,『ヒカルの碁』の単行本を最新の15巻を含め,何冊か読み返す機会を得た。実はちゃんと読んでなかった。どうもあまり好きではなかったからである。

 『ヒカルの碁』が好きになれない理由は,わりあいはっきりしている。
 この作品世界では,努力とか研鑚とかいった概念が極めて希薄なのだ。要するに,囲碁に強いかどうかは天性の素質の問題であって,あとはその素質の持ち主が「やる気」になるかどうか,それがすべてとまではいわないまでも,非常に大きな要素を占めるのである。
 だから,登場人物一人一人の勝負へのこだわりは感情や名誉のレベルにとどまってしまう。努力の裏づけやジレンマの蓄積がないから,勝ち負けに執着はないし,負けたときに失うのはせいぜいプライドであって,己の生き様ががたがたになってしまうような,そんな思いはせずにすむ。

 たとえば,主人公ヒカルは,自分にとりついた平安時代の幽霊,藤原佐為の要望に応えて囲碁を始めるが,そんなきっかけで始めただけに勝ちにも負けにもさほどのこだわりは見せない。当初はただ佐為の指示するままに盤面に石を置いていくだけである。そのくせ,塔矢名人(ヒカルのライバルであるアキラの父親。五冠)と初めて対決した折には,その佐為や名人が注目するような異彩を放つ一手を打つ。ここには「天性の資質」の都合のよさ以外,何もない。
 だから,そんなヒカルは,やがて中学生にしてプロとなるが,佐為が消えてしまったあとには「全部おまえに打たせてやるから」と泣くことになる。彼にとっての囲碁はその程度のものにすぎないし,人生はその程度の手応えのものだったからだ(このあたり,山岸凉子『アラベスク』の天才少女ラーラのエピソードが思い出される)。

 ヒカルに比べれば,佐為は純粋に囲碁を愛し,より強い相手とより優れた一手を打つことを常に願う。だが,その佐為は,ヒカルの前,江戸時代にとりついた子供(虎次郎,のちの本因坊秀策)にはすべて自分の指示で囲碁をさせている。では,若くして死んだ秀策の人生とは何だったのか。
 その裏返しとして,ネット対局で塔矢名人と至高の対決をしてみせた佐為が,その直後,「神はこの一局をヒカルに見せるため 私に千年の時を長らえさせたのだ」と悟る場面は胸に痛い。彼の人生もまた「誰かほかの者のため」のものに過ぎなかった。
 そして,この一局の前にかわしたヒカルとの約束を守って,塔矢名人がタイトルを保持したまま引退してしまうのも,また,彼がそのタイトルに固執していなかったことの証のように思われてならない。

 スポ根マンガなどによく見られる,「○○以外は頭にない」とか「○○の鬼」とかいったものと,どうも少し様子が違う。
 言うなれば,ここにあるのは,限りない,依存の連鎖だ。
 依存がいけないとは言わない。たとえば,家族の絆は依存の糸によって紡ぎ上げられる。依存そのものが悪いわけではない。
 だが,囲碁に限らず,勝負などというものはそんな依存を超えた先にあるものではないのか。家族や友人の協力は得がたい。だが,少年が成長していくために必要なのは,自分自身の努力や,経験や,そして手痛い敗北によって得るものではないのか。

 よくも悪しくも純朴な佐為との会話や,佐為を身近においての囲碁の勝負を切り除くと,ヒカルという少年は実に身勝手で,佐為や祖父,母親に対する態度もおよそ感じが悪い。自らの要求についてはしつこいくせに,少し都合が悪くなるとすぐ走って逃げてしまう(ストーリーの中で,彼が他者との会話を打ち切って走り去ってしまうシーンの多さは驚くばかりだ。囲碁の勝負さえ再三途中で投げ出してしまうのである)。
 身勝手ではいけない,などと道徳の教科書のようなことを言うつもりはない。しかし,身勝手な態度を重ねればその反動で何かを失う,それが社会の仕組みというものだ。それが許される時期のことを「子供」と言うのであり,その意味で,極論すれば,『ヒカルの碁』は15巻までのところではプロを名乗りながらも子供であり続けるパラサイトたちの物語ということもできる(傍若無人に見えながら倉田プロが妙に一本芯が通って見えるのは,彼はごく普通に自立しており,ほかの登場人物たちが彼に比べるととても大人としての域に達していないためではないか)。

 本作がこのあとどう展開していくのかはわからない。このまま佐為が消えてしまうのでは,エンターテイメント作品として問題だろう。ドラえもんの最終回ではないのだから。では,どんな展開ならあり得るか。

 願わくばパラサイトでも身勝手でもない,自分の手で自分の責任をかかえることのできるようになったヒカルと,佐為(ほかの子供にでもとりつくか)の真剣勝負を見てみたい。

 本当に凄いものは,神の一手などではない。人の一手なのである。

2001/12/24

本の中の迷画たち 『殉教カテリナ車輪』 飛鳥部 勝則 / 創元推理文庫

98【店長はああ見えて画家志望だったんですよ】 ← 作者の「画家」に対する思い入れがよくわかる

 表紙に名画を用いた文庫本をもう1つ取り上げてみよう。
 『殉教カテリナ車輪』は第九回鮎川哲也賞受賞作である。

 表紙に用いられているのはカラヴァッジオの「アレクサンドリアの聖カテリナ」,おまけに『殉教カテリナ車輪』なるなんとも意味深なタイトル。作者・飛鳥部勝則は自ら油絵を描き,それをミステリ作品に綴じ込んで,イコノグラフィカル(絵に描かれた図像の主題と意味を求める)に事件の真相を追うという趣向をこらすことで知られている。
 見事である。ヒャクテンマンテンである。ここまでは。

 しかし,表紙をめくって,カラー口絵の著者の作品を見たとたんに,食欲ならぬ読書欲が即座に減退する。ヘタなのだ。いや,油絵の技術的な側面は知らないから,ひょっとすると素人としては大変に巧いのかもしれないが,そういった技巧云々以前に,本作に綴じ入れられた「S嬢」「殉教」「車輪」「バラ」の4点は,「こんな深くて重いテーマを描き込んでいるのが,わかりますか! 見えますか!」という描き手の声が油っこくキャンバスに乗って,それはもうタマラナイのだ。自意識過剰な中高生のスペルマ臭い小説を読まされるような,そんな絵なのである。
 繰り返すが,油絵の技巧的にどうこういうことはわからない。この程度でも,地方では絵描きとして「名士」になれるのかもしれない。公民館を借りて個展を開けば,親戚だの友人だのが来てくれて,キャンバス代に絵の具代とご祝儀を上乗せした程度の金でお買い上げいただけるのかもしれない。だが,それはそれだけのものだろう。
 しかも,どう見てもさほど美人とは思えない知人か誰かに無理やり頼んで描かせてもらった「S嬢」について,登場人物に
 「美しい奥さんで」
 「何をいう。並だよ」
とやり取りさせる場面など,笑ってよいのか,困ってみせたほうがよいのか。
 「殉教」や「車輪」は,絵画作品としては大作で,昨日今日描き始めた日曜画家に描けるものではないことはわかる。だからといって,日曜画家の域を越えるものではない。それとも,こんなものでよいのか? どこかのタレントといっしょに,ナントカ展とか,通っちゃうわけなのか? 

 小説のほうは,鮎川哲也賞受賞作ならではの「日常の謎」系ではなく,それなりに骨太なパズラーを狙った密室物である。地方の無名画家(綴じ入れた絵はその画家の手によるもの,ということになっている)の作品の意味を追ううちに,過去のある二重密室殺人事件の謎が徐々に明らかになってくる,というもので,前半は悪くない。後半は……このトリック,この推理で原稿料受け取って,よいのか? 払うのか?

 作者には『バベル消滅』という作品があり,こちらは角川から文庫化されている。
 こちらにも1枚の絵が綴じ入れられていて,その中央には黄土色の顔をした,セーラー服を着ていなければ根暗なおっさんにしか見えない「少女」が描きこまれている。いや,別に前衛芸術というわけではない。人物については写実のつもりのようで,どうやら,作者ははかなくもエキセントリックな美少女を描いたつもりらしいのだ。
 その作品を評した
 「絵の中の少女は泣いていた。透明な涙が頬を伝っている。何故泣くのか。何が悲しいというのか」
この描写を読んで,もう一度作者自身の手による絵画作品をめくり返す。

 やっぱり,笑ってしまう。
 この落差を味わうためだけに手にしてみても悪くない。
 ただし,1冊で,十分。

2001/12/19

[非書評] 文庫とはいえ表紙は顔,顔は命 ──『裸婦の中の裸婦』(文春文庫)

061 そんなにこき下ろすのならいったいどうして安達千夏『あなたがほしい je te veux』を取り上げたのか,いや,そもそもそんなに悪しざまに言うならなぜ「すばる文学賞」作品を手に取ったりしたのか,ということだが,これにはそれなりに理由がある。
 書店店頭にて,カラスはあきれたのである。嘆いたのである。

 添付画像ファイルをご覧いただきたい。それから,少し下に画面をスクロールしていただきたい。
 いかがだろう。

 『裸婦の中の裸婦』(文春文庫)は,澁澤龍彦と巖谷國士の共著(二人とも旧字だらけで,入力するだけで一苦労だ),古代ギリシアの両性具有像(小池真理子の文庫『恋』の表紙にも使われている,あのヘルマフロディトスだ)からバルチュス,クラナッハ,ブロンツィーノ,百武兼行,デルヴォーなど古今の名画,そしてヘルムート・ニュートン撮影のシャーロット・ランプリングのヌード写真,四谷シモンの人形にいたるまで,12点の裸婦像からさまざまなエロスのあり方を若い女性との会話体で綴ったビジュアル文庫。
 若いころの晦渋さ,攻撃性を削り取り,枯れた,だがつややかさを失わない澁澤の語り口,そして澁澤が病に倒れたあとはその友人でシュルレアリスムの書籍で知られる巖谷國士がその連載(最後の3編)を引き継いでまとめたという,実に風雅かつ手応え豊かな1冊なのである。

 この「くるくる」で1年ほど前「本の中の名画たち」という小シリーズを立ち上げたのは,実のところ,この『裸婦の中の裸婦』にたどり着きたいがためだった。
 それが果たせなかったのは,今,澁澤を語るには少しそぐわないものがあるためだ。澁澤の価値が減じたわけではないが,自分の側がシュルレアリスムだの黒魔術だのプリニウスだの思考の紋章学だの,そういったオブジェとは別の地平にいるようで,最近も『悪魔の中世』『城 夢想と現実のモニュメント』『幻想の画廊から』となぜか立て続けに文庫化が進むのを読み返すのが精一杯,といった感じなのである。

 澁澤についてはいずれまた取り上げるとして,『あなたがほしい je te veux』だ。
 著者・安達千夏を,カラスは気の毒に思う。文庫本というのは,新人作家にとって,やはり1つの夢であるのには違いない。彼女が今後何冊本を上梓できるかはしらないが,初めての文庫本の表紙がいくら本文中にポール・デルヴォーが登場するからといって,ほんの数年前に発行された他社の文庫とそっくり似た構図ってのはないだろう。装丁者と編集者は『裸婦の中の裸婦』を知らなかったのだろうが,だとすると怠慢だ。
 しかも,『裸婦の中の裸婦』が白地にデルヴォー,背表紙は赤に白抜きの文字,とすっきりした中にも1つのフォルムを見せるのに対し,同じようにデルヴォーを使いながらこの色遣いはあんまりじゃないかと思うのだが……。

2001/12/17

粘土造りの少女マンガ 『あなたがほしい je te veux』 安達千夏 / 集英社文庫

20【端的に言えば,彼女をこの腕に抱きたいということだった】

 『妊娠小説』,『紅一点論』の斎藤美奈子の書評集『読者は踊る』(文春文庫)には「休刊した文芸誌『海燕』(ベネッセコーポレーション)は購読者と新人賞の応募者がほぼ同数だったらしい」という一節がある。
 要するにマンガ家やミュージシャンになる才能がないオチコボレに対して,文章,それも技や知識の蓄積がいる本格エンタテインメント,取材が不可欠なノンフィクション,多少は勉強が必要なシナリオなどでなくて,身辺雑記的なエッセイや純文学が救済機関として機能している,というのである。
 いやはや,なんというわかりやすさ。

 では,その「海燕」休刊後,オチコボレ諸氏にはどの新人賞がオススメかという問題だが,難易度を別にすれば,集英社の「すばる」などいかがだろうか。
 その手の新人賞の多くと同様,痩せぎすで生理の遅れがちな20代の女性をモチーフに,頭でっかちなセックス描写をちりばめ,エキセントリックな言動の1つ2つさせてみせる,このあたりが基本だとは思うのだが,「すばる」の場合,ときどきSF的な踏み外しをも容認することや,さすが天下の集英社がバックにつくだけあってたまに映画化されるあたりも魅力だ(本気にしないように。カラスは「すばる文学賞」と「小説すばる新人賞」が別のモノだということを知らなかったくらいその方面にはうといのだ……えっ? そもそも「すばる」と「小説すばる」って別の雑誌なの?)。

 さて,第22回すばる文学賞受賞作,安達千夏『あなたがほしい je te veux』は,まったく基本に忠実な新人賞向け作品である。
 背表紙の惹句から引用すると「年下の友人・留美に対する同性愛の欲望を意識しながらも,中年の建築家・小田との官能と友愛に充ちた関係に癒しと安らぎをおぼえるヒロイン・カナ」。高校野球地区大会準々決勝敗退チームのピッチャーのオーバースローを見るような心持ちとでもいおうか。

 近い世代の女性ということもあるためか,先に取り上げた『コンセント』と類似した面も多々目につく。
 主人公の女性からみて恋愛対象とはいえない相手とのセックスが再三描かれること。
 それも含めて全体に「悪い子でしょあたしって」な気配が漂うこと。
 職業的なリアルな話(本作の主人公はモデルハウスに勤める不動産の営業)が小説としての読み応えを支えること。
 主人公が職場では有能とまではいかないまでも少なくとも無能ではないように描かれていること。
 主人公が周囲からユキ,カナと,なぜかカタカナ2文字で呼ばれること。
 主人公の昔の学友(既婚)の女性が登場し,軽んじられつつもそれなりにストーリーを動かすこと。
 主人公の特異性は結局のところ育った家庭,その家族のあり方にかなりの部分が求められること。

 これらの共通項がこの2作にだけのものなのか,当節の女流作家の作品に共通するものなのかはわからない。もちろん,『コンセント』と異なる点も少なくない。
 たとえば『あなたがほしい』では,『コンセント』に多用された擬音語,擬態語が極端に少ない。きちんと調べたわけではないが(実際,「ふかふかのカーペット」とか「ニヤリと笑った」とか,あるにはあるのだが)175ページまで読み進んだところで,
   庄内浜で水揚げされた寒鱈が,くつくつと煮え立つ。
という表現の「らしくなさ」にびっくりしたくらい,非常に少ない。
 たとえばセックス行為も
   (乳首の)隣で唇がさまよう。中心で疼いているものにだけは触れず,意地悪くその周りに舌で円を描く。背筋にむず痒さが溜まっていく。
といった具合にあくまで「言葉」重視で表現が積み重ねられていく。もっとも,いくらセックス描写の比率が高かろうが,
   局所的で明快な快感が立ち上がる。表面に近い筋肉が,絞られるように緊張していく。充血し肥厚した感覚に,細い異物がめり込んでくる。
ではポルノグラフィーとしては落第だ。

 もう1つ,家族や周囲から翻弄され,一方で自らの内なるものに翻弄されつつも,最後には翻弄する側に回ろうと宣言する『コンセント』に比べ,本作の主人公は最後まで相手の構えや反応によりかかるばかりだ。主人公が愛慕する留美という女性の描かれ方も中途半端で,いっそ一切描写がないほうが想像力をかきたてられてよかったかもしれない,などとも思う。
 結局,出来の悪い少女マンガを読んだような気分しか残らなかったが,作者はともかく,「すばる」はこれを選ぶことで何をしようとしたのだろうか。

2001/12/16

ぐりぐりと《精神世界》に抜いたり差したり 『コンセント』 田口ランディ / 幻冬舎文庫

87【もうすでに腐りかけています。人間の形をしていませんよ】

 ベストセラーを読むのは難しい。たいていつまらないからだ。旬の勢いと話題性を剥ぎ取ったら読むに値しないものが大半ではないか。夕刊紙でもめくったほうがよほど血行によい。さりとて,放っておくとたまに本当に自分にフィットする本との出会いを逃してしまうことにもなりかねない。このへんが悩ましい。絶版の足の早い最近では,本との出会いは文字通り一期一会なのである。

 『コンセント』は昨年のベストセラーの1つであり,文庫化されたらぜひ読んでみようと思っていた作品である。漏れ聞こえてくる作者の言動からは,およそ興趣も魅力も感じない,しかし,「二カ月ほど前から行方不明になっていた兄が真夏の暑い日に衰弱死し,アパートのPタイルの上で腐り果てて発見された」という展開はひょっとしたらクリティカルヒットという期待を抱かせないわけでもない……。

 と,一気に読んでみた印象だが,これがある種の読者を駆り立てる理由はなんとなくわかるが,あいにくそれに没頭できる年齢は過ぎてしまった,といったところか。たとえば大学生になったら高野悦子『二十歳の原点』はもうとても読み返せなかった,そんな具合。

 物語に通底する《精神世界》については,なんといえばよいのだろう,「しかたないなぁ」とでも言うか。《 》でくくったのは雑誌「ムー」の延長にしか見えなかったためであり,その方面にはとくに関心がない。よろしくない,というのではない。こういった世界観やオカルトはまやかしのように見えるが,愛だの正義だの市場だのだってまやかしといえばまやかしだ。オカルトに立脚したホラーやミステリが許せて,純文学や青春小説が許せない理屈はない。
 ただ,最近はこういう,一日中自分のことばかり考えている主人公に付き合うのが面倒なのだ。要するに,「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという,その事実が神秘なのだ」というのはウィトゲンシュタインの言葉だが,なんというか,「いかに」のところで「わあわあ,あたしって,あたしって」と騒いでいるような感じがしないでもない,そんな煩わしさとでもいうか。

 などと書くと,ひどく見下した印象を与えかねないとは思うが,本としては予想よりもずっと楽しめた。なによりミステリっぽい展開の読めなさがあるし,言葉を結晶化し,着床させるのが詩だとするなら,こういった,自分に棒を(あるいは自分自身が棒として)突っ込み,かき混ぜるような方法論も主題によってはナイスだよな,という面だってある。

 ただ,どうしても点数が辛めになってしまうのは,死臭,ビジネスライクな葬儀屋,死体が放置された部屋を清掃する専門の消毒清掃会社,そしてコンセントなどなどといった小道具の巧さに比べ,言葉遣いのレベルがあまりに凡庸に過ぎるためだ。
 一番気になるのが,擬音語,擬態語の多用である。無造作に拾ってみよう,最初のページだけでも
   喉の粘膜がひりひりして
   ウィーンというかすかなモーター音とともに,パソコンが
   カチャカチャとせわしなくハードディスクが
といった具合。
   駅に向かって歩き出すと下半身がすうすうする
   ざあざあいう水音がだんだん頭の中いっぱいに
   床がぐにゃりとやわらかくなって
   こめかみがズキズキと痛んだ
   熱い精液が膣からどくどくと溢れ出してくる
など,多用することの是非はともかく,一つ一つにあまりに芸がない。喉はひりひり,水はざあざあ,精液はどくどく。類型的というかステロタイプというか,小学生の作文じゃないんだから。
 男に肛門をいじられながらペニスにまたがる場面での
   かき回されるぐりぐりが好きなのだ
にいたっては笑うしかなかった。別の場面では
   ぐりぐりと腰を回しただけで男は慌ててペニスを引き抜いて射精していた
などというのもある。

 問題は,本作の世界における嫌悪も混乱も癒しも,その程度のステロタイプな次元のことかもしれないことなのだが。

2001/12/10

『今昔続百鬼 雲』 京極夏彦 / 講談社ノベルス

682【思い出すだに馬鹿である】

 京極夏彦の最新刊は各編に「多々良先生行状記」とサブタイトルの付いた短編集で,時代設定は終戦直後,4つの短編はそれぞれが
  岸涯小僧
  泥田坊
  手の目
  古庫裏婆
という江戸時代の絵師・鳥山石燕の『画図百鬼夜行』や『今昔百鬼拾遺』に登場する比較的知られていない妖怪とかかわる事件を描いたものである。

 というと,京極夏彦の代表作である『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『鉄鼠の檻』などのいわゆる京極堂シリーズと似た設定で期待が高まるが,しかし本作の主人公は「小柄で肥えた」「鳥の巣の如く寝癖のついた髪に小振りの丸眼鏡」「寸詰まりの菊池寛のような」妖怪研究家・多々良勝五郎と,そのお供で語り手でもある印刷工・沼上連次の2人。
 彼らは金もないのに伝説蒐集の旅に出,寺だの神社だの旧跡だの古老の家だのを訪ねて廻り,身があるとも思えない研究に勤しむ。もともと計画性のないところに,多々良センセイの身勝手が十重二十重に重なって,行く先々で事件が……というのが各編の基調である。

 しかしこれが,実に面白くない。馬鹿コンビのギャグは笑えないし,事件は埃っぽいし,妖怪談義は深みに欠ける。
 なぜだろう。作者にユーモアのセンスがないわけではないし,この作者が妖怪を語ってつまらないはずもない。実際,京極堂シリーズにおける探偵・榎木津礼次郎の言動は各編とも爆笑モノだし,京極堂こと中禅寺秋彦の妖怪についての薀蓄,快刀乱麻の憑物落しは爽快極まりない。

 実は,本作がつまらない理由はかなり明確だ。
 まず,ユーモアのベクトルがマズい。今どき,愚か者を愚かに描いても笑いなど取れない。榎木津は美丈夫の貴族の御曹子であり,古今の名探偵以上の超絶的スーパー名探偵であった。
 次に,妖怪と事件の絡み方がマズい。ネタバレになるので詳細は触れないが,いずれの事件も,実はその章で詳解される妖怪とはあまり関係がない。これは,京極作品の『塗仏の宴』上下巻あたりですでに顕著になっていたのだが,雰囲気溢れる妖怪談義と関係者たちを巻き込んでいく事件とが,実はとくに関係ないのである。早い話が「説明的」なのだ。説明がなければ,その妖怪が登場する意味がないのである。
 そして,最後に,京極堂シリーズとの大きな違いとして,多々良センセイと沼上は,単にその事件の場に迷い込むだけなのだ。京極堂シリーズでは,事件そのものよりも,登場人物の誰かがいかに,なぜその事件に絡んでいくかにページが割かれるのとはずいぶんな違いだ。もちろん多々良センセイも,事件の現場に立ち合い,解決に力を及ぼしたり,誰かに解決してもらったりはするわけだが,そもそもその場を訪れることそのものがたいてい山道に迷ってのことなのだから,時間的にも空間的にもまったくたまたまに過ぎない。

 「偶然」がハバを利かすミステリくらいつまらないものはない(本作はユーモア妖怪小説(?)のつもりであって,ミステリではないのかもしれないが)。
 そして,この程度の作品でもWebを見るとそれなりに「面白かった」と評される京極夏彦。
 大丈夫だろうか。

2001/12/05

『仮面の忍者 赤影』(全2巻) 横山光輝 / 秋田文庫

63【フフフだいたんふてきなやつだな】

 作家とは不幸であり続けなければ成り立たない商売なのだろうか。「そうでない作家」というものを考えたとき,思いつくのが横山光輝だ。

 『鉄人28号』『ジャイアントロボ』『魔法使いサリー』『バビル2世』『マーズ』『あばれ天童』『三国志』『水滸伝』……
 その活躍は多岐にわたり,常に雑誌やテレビアニメの原作としてコンスタントに作品を発表してきた彼は,不思議なほど表舞台に出てこない。本のカバーに写真や略歴が掲載されいるのだから,別に素顔を隠しているわけでもなさそうなのだが,手塚治虫,石ノ森章太郎,赤塚不二夫,藤子不二雄らに比べると本人のエピソードがほとんど聞こえてこない。また,その作風もよく言えば「安定」,悪く言えば「進歩がない」。しかし,進歩せずに数十年にわたって人気を維持できるのなら,それは進歩の必要がないということでもある。

 マンガの『赤影』は文庫で2巻と,意外なほどの短さである。そして,今読んでみると,これがそれほどは面白くない。目立ってはいけないはずの忍者が赤い仮面をつけていたり,敵が巨大なガマを出してきたり,相棒の青影がいびきの大きな子供だったり,と,どうも設定の破天荒さばかりが目につくのだ(もちろん,巨大ガマといえば読本・草双紙の自来也からの転用だから,忍者モノとしては極めて正当な妖術ではあるのだが)。

 どうも,同じ秋田文庫からすでに11巻発売されている(少年サンデー誌上では『赤影』の前に連載されていた)『伊賀の影丸』と比較してしまうことが原因のような気もしないではない。

 『伊賀の影丸』も,忍術対決の破天荒さでは『赤影』となんら変わらない。ただし,背景の設定が少々異なる。
 『赤影』が戦国時代の話で,いわば攻撃的というかイケイケだったのに対し,『影丸』は徳川家康が大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし,徳川時代を築いてから39年めの承応三年(1654年)春に物語が始まる。つまり,表向きは天下泰平の世が実現し,徳川の支配が確立していく中,なおも幕府転覆をたくらむ一派と,それをはばもうとする五代目服部半蔵配下の伊賀忍群の諜報戦&暗闘……これが『伊賀の影丸』各話の基本設定なのだ。
 つまり,影丸とその仲間たちは,安定政権の維持を受け持つ警邏として,専守防衛,忍びに忍び,耐えに耐え,人知れず,恨みを買いつつ闘い続けるのである。影丸の必殺技が木の葉を利用してのしびれ薬散布というあたりも,なんともいえない渋味だ。そして,敵の忍者たちの側にも,徳川に恨みを抱く切実な経緯や倒幕の理念があり,物語は毎回影丸たち伊賀軍団の勝利で幕を閉ざすとはいえその勝利の味は苦く,常に割り切れないものが残る(由比正雪など,そこらのマンガの主人公よりよほど正義の主人公の資格有りだった)。

 このような人気連載『伊賀の影丸』のあとを受けた(おそらく編集部やテレビ局の意向だろうが)『仮面の忍者 赤影』は,シンプルな構造の忍者プロレスタッグ戦として赤い仮面,風にあおられる大凧,巨大怪獣などを配し,特撮テレビドラマの素材として人気を博した。
 しかしそれは同時に,白土三平,横山光輝と続いた忍者マンガの一種「忍ぶ美学」を霧散させることにつながり,私たちはついには1つの人気ジャンルを失ってしまったのだった。

« 2001年11月 | トップページ | 2002年1月 »