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2001年11月の5件の記事

2001/11/25

キレてみせるばかりが芸でもあるまいに 『西原理恵子の人生一年生』 小学館

371【白夜は帰っていいから 竹は帰っていいから】

 一人の作家が面白くなって,やがてつまらなくなる,その過程における違いとはいったい何だろう,なんてことをつらつら考える。

 たとえば,もう二十年以上昔のことだが,ある夏に倉橋由美子の小説のそれまで全部,そしてその次の夏には筒井康隆のそれまで全部を読んで,それこそもう首まで彼らの作品に浸った記憶があるのだが,のちにその2人の新作にまるで興味が湧かなくなってしまったのは明らかに読み手たるこちらの問題だ。
 当時の読み方が正しかったか正しくなかったかは別として,彼らの「壊し方」に没頭できたのは二十歳そこそこの学生だったからであり,自分なりの「壊し方」を手に入れてしまえばもはや他人の作品にシンクロする必要はないのである(これは「壊し方」を「築き方」と言い換えても,結果は似たようなものだ)。

 この数年でいえば,京極夏彦がつまらない。西原理恵子がつまらない。

 前者については京極堂や榎木津,関口らの活躍する新作がなく,いわば余技のような作品が続いているせい,とみなすことができなくもない。しかし,後者は深刻だ。
 サイバラ当人は変わらず破滅的で破壊的。結婚こそしたが,やっていることにそう変わりはないように見える。
 では,こちらがサイバラを必要としなくなったのだろうか。そうとも思えない。『ぼくんち』の冷たく尖った叙情は今思い起こしても体が震えるようだし,『恨ミシュラン』は疲れたときの何よりの読み薬であることに変わりない。

 考えてみれば,彼女がサイバラ級という階級のリングで長年トップを走っていることは事実であり,同じように見えても,そのうちに高校中退の売れない,ヘタな,弱者から,といった視点が喪われてきた,ということはあるかもしれない。なんだかんだ言って夫や友人たちとうまくやっているように見え,先生と呼ばれることになじんでしまった,ということもある。初期の怪作『まあじゃんほうろうき』のラストで,はねをむしられても「みんなとあそんでもらえてとてもうれしかったからです」と述懐するマイノリティ性は最近のサイバラからはうかがえない。
 だが,それを認めてしまうのはどうか。サイバラを読む楽しみは,サイバラを見下す楽しみであったということになりはしないか。

 とかなんとか,理屈をこねくろうが,こねくらまいが,『西原理恵子の人生一年生』はつまらない1冊だった。
 オリジナル作品に加えて「人生すごろく」「黒心危機一髪ゲーム」「西原大明神御告宣告おみくじ」をはじめとする7大ふろく,『ナニワ金融道』の青木雄二との対談,サイバラ担当編集者による覆面匿名座談会など,雑誌の体裁はとっているものの,どこを切っても得した気分にはいたらない。鴨やゲッツを起用したグラビア,プチセブン協力サイバラファッションなどはずしもいいところだし,全体にざらざらした手触りが残るばかりで,つくづく壊し壊れ続けてみせることの難しさを感じる。

 ちなみに,唯一ウケたのが,各界の売れっ子に「こうすればサイバラ大ブレイク!!」と題して取材した中の,池田理代子(売れっ子か?)の言葉。

 「ペンタッチをもう少しおキレイにされると良いかとも思います」
 「非常に内容は素晴らしいので,そういう雑さのために食わず嫌いの方がいるのは残念ですからね」
 「もしかしたら,西原さんも(自分のように)コツコツした努力をされるといいかもしれませんね」

 さすがだ,池田理代子。その化粧でケンカ売るか。

2001/11/19

お願い生ませて 『妊娠小説』 斎藤美奈子 / ちくま文庫

32【文学はこんなふうに読むものだ】

 いくら死体好き,じゃなくて死体を扱った本が好きといっても,520人もの死を扱った本を2冊続けては寝覚めが悪い。このところアメリカ同時多発テロだのナチの人体実験だの,暗いテーマが続いていることもあるし,ここは一つ,「妊娠」というオメデタいテーマをメインに扱った本を取り上げてみよう。
 本書『妊娠小説』は,少し前に紹介した『紅一点論』の著者斎藤美奈子の出生,もとい出世作である。

 ……が。オメデタい本を,という烏丸の試みは,冒頭の1ページめからいきなり流産してしまう。
 本書でいう「妊娠」とは「望まれない妊娠」のことであり,「妊娠小説」とは小説の中でヒロインが「赤ちゃんができたらしいの」とこれ見よがしに宣告(受胎告知)するシーンと,そのためヒーローが青くなってあわてふためくシーンをもって涙と感動の物語空間を出現せしめるような小説のことなのである。
 そして,斎藤美奈子は,日本の近現代文学には「病気小説」や「貧乏小説」と並んで「妊娠小説」という伝統的なジャンルがあること,結核の治療や赤貧の駆除が進んで「病気小説」や「貧乏小説」が姿を消したのに対し,「妊娠小説」は今なお文学業界の現役として第一線で活躍中だと指摘する。そして,その「妊娠小説」の歴史的歩み,構造,類型学へと本文は展開するのだが,そこには排卵誘発的に複数の意味が読み取れる。

 第一に,まっとうな説得力があるということ。
 古くは森鴎外『舞姫』や島崎藤村『新生』,のちには石原慎太郎『太陽の季節』や三島由紀夫『美徳のよろめき』,川端康成『山の音』,そして最近の村上龍,林真理子,佐藤正午,辻仁成にいたるまで,取り上げられた小説群約50作にはなるほどはたと手を打ちたくなるような共通項が見受けられ,それぞれの分析もまた興味深い。実際,いまや死語と化しつつある「私小説」や「教養小説」などという言葉より,よほど「妊娠小説」のほうが小説のジャンル分けとして意味があるように思われてくるのである。

 だが,信じる者は騙される。洗剤や鍋や下着を買わされる前に少し冷静に考えてみよう。
 斎藤美奈子の目的は,決して,近現代文学の正当なジャンル分けの主張とそれにのっとった批評などではないはずである。いやむしろ,真の目的はミケンにシワ寄せた純文学とその批評の系譜をおちょくり,笑いのめすことにあると思われる。
 たとえば,その作品内で女性による妊娠の宣言,すなわち「受胎告知」がなされる部分を行数やページ数から割り出し,野球の9回の守備/攻撃に見立てて作品を論じた「ゲームの展開」の痛快さたるや! なにしろ「終盤一発ぶちかまし型」「中盤盛り上げ型」「序盤先制逃げきり型」,さらにはかつての猛虎打線を彷彿とさせる一篇の中に複数の妊娠を盛り込んだ「全編お祭り型」!!
 こういった分類に限らず,斎藤美奈子のペンは,「妊娠」という素材から透けて見える小説家の意図,作為,これまで語られなかった作品の真意にいたるまで,白日のもとにさらけだす。村上春樹『風の歌を聞け』がこう解釈できるとは。橋本治『桃尻娘』シリーズはやっぱりエラかった……などなど。

 結局,望まぬ妊娠をしてしまった女のように,古今の名作と呼ばれる作品群は斎藤美奈子の手腕によって「もてあそばれ」ているのである。こんな絶妙なエンターテイメントがあるだろうか。いや,そうそうない。

 ただ,残念なことに,本書で思い切り笑うためには,それなりに文学の素養が必要だ。パロディを楽しむためには,原本に親しんでいる必要があるのである。セックスというものは,7月7日の夜,空が曇ってなければ白装束を身につけ,祝詞をとなえてから行なうものと信じている烏丸には,あまり興味のない小説が多くて,その分ノリ切れなかったことを記しておきたい。
 もっとも,ずいぶん以前,行ったこともない宇都宮に隠し子がいるとの噂が流されたときにはちょっとあせったけどな。

2001/11/18

『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』 朝日新聞社会部編 / 朝日文庫

89【しっかり生きろ 哲也 立派になれ】

 カラスにしては書き込みに間が生じてしまった。
 その間も,別に本やマンガを読んでいなかったわけではない。

 机の周辺から無造作に拾い上げてみれば,たとえば『仙人の壺』と双璧をなすチャイナファンタジー『李白の月』(南 伸坊),中国といえば唐代の,碁を打つ如く剣を振るい,剣を振るうが如く碁を打つ侠女を描く『碁娘伝』(諸星大二郎),侠女といえば7大ふろく付き100%サイバラ雑誌『西原理恵子の人生一年生』,妖怪研究家・多々良勝五郎を主人公として戦後の怪事件を描く『今昔続百鬼 雲』(京極夏彦),百鬼といえばネムキ連載『百鬼夜行抄』の作者による奇妙な味の短編集『孤島の姫君』,姫君といえば信長の安土城趾,ラコストのサド侯爵の城を中心にカステロフィリア(城砦愛好)な傾向を語った『城』(澁澤龍彦)などなど。少年サンデー50(11/28)号収録の「鳳BOMBER」(田中モトユキ)は,プロ野球ホームラン王を父にもつ少年を描いてここしばらくの週刊誌の読み切りでは馬鹿馬鹿しくも面白かったし,そのほかにも遠藤淑子を読み返したり,少々思うところがあって古い詩集を取り出したりもした。

 それぞれの本について,書きたいこともなくはなかったのだが,その前に,つまり1つ前の書き込みの直後に読んだ本をどう片付けるか,結局なんとなく踏ん切りがつかないまま今日にいたっている。

 その『日航ジャンボ機墜落』は,先の『墜落遺体』同様,1985年8月12日の日本航空123便ジャンボ機の墜落について,朝日新聞の各担当者たちが,どのように捉え,どのように報道したのかを時間軸にそって追ったものである。
 『墜落遺体』の主な現場となった藤岡市民体育館のすべての窓が暗幕で閉ざされ,ただでさえ暑い時期に遺体の腐敗を進めたのがマスコミのカメラだったことを思い起こしたい。つまり,本書は『墜落遺体』とは鏡の向こうとこちらに相対するドキュメントなのだ。

 結論から書こう。
 朝日に限ったことではないのだろうが,大手マスコミの記者たちの神経は,やはりどこかおかしい。

 たとえば,こんな一節がある。
 「それが『事件記者』の使命だ。支局員に先を越されるなんて許されない。オレは社会部記者だ。他社にも後れたくない。夕刊早版に『遺体発見』の第一報を入れなければならぬ」
 なにが「ならぬ」のだろう。

 あるいは
 「(生存者発見を伝える)そのテレビ映像を見て背後に冷たいものが走るのを感じた。ウチの記者はいないのか。撮れていなければ,これは文字通りテレビに惨敗を喫したことになる」
 生存者発見で冷たいものが走るのか。裏返せば「遺体発見」で勝利を誇るのか。

 また,山道に迷って「行方不明」扱いされ,あわやヘリで捜索されかかった記者の一団を評して「最も哀れだったのは」と書く神経。

 いや,だからいけない,と責める権利は読み手たるこちらにはない。報道を仕事とする者たちが報道の正確さ,速さを競うのもまた道理である。

 しかし,これだけの事故にかかわったならば,それ以前と同じものの見方,生き方では片付かないものがあるのが普通ではないか。単なる興奮や伝達意欲ではすまない,何か。
 本書に登場する記者,カメラマンたちからは,それがうかがえない。
 比較するのも気の毒かとは思うが,『墜落遺体』において遺体の身元確認に携わった人々は,誰もが生き方が変わったと口にするという。また,『墜落遺体』1巻には,墜落のもようや,その原因などについて,ほとんど何も書かれていない。愚直なまでに,目の前の遺体と,その棺を覗き込む遺族を描くばかり。

 そして,結局のところ『日航ジャンボ機墜落』で胸をうつのは,朝日の記者がどうした,こう書いた,こう考えた,といった部分ではなく,ひたすら事実を羅列した文章ばかりなのだ。

 たとえば,機体が迷走する30数分の間にメモ帳に書き残された,この上なくシンプルで,だが深く心に杭を打つ遺書の数々。
 あるいは,生き残った川上慶子さんの父親と妹(咲子ちゃん)は墜落直後しばらくは生きていて,妹に「帰ったら,チーちゃん(兄の千春君)とおばあちゃんと咲子と,四人で仲良く暮らそうね」と元気づけた直後に妹がゲロゲロと血を吐いた,などという話(四人ということは,その時点でこの姉妹は両親の死を把握していたということだろうか?)。
 あるいは,48人の小,中学生を含む,無味乾燥のように見えて実は岩のように重い乗客名簿。「孫娘を伴って日帰り出張した帰り」「一家四人で東京ディズニーランド観光からの帰途」「単身赴任で休暇の帰途」「十一月に結婚するため『独身最後の旅行を』と同僚と二人で科学万博を見に行っての帰り」……。
 そして,巻末のヴォイスレコーダー全記録。

   "ウーウー プルアップ"(人工合成音)
   [衝撃音]

2001/11/07

『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』 飯塚 訓 / 講談社+α文庫

061【焦点があわないんです】

※注意。本書き込みには,かなりむごい表記が頻出します。心臓の弱い方,食事前の方などは決してお読みにならないことをお奨めいたします。

 昨夏以来,何度も取り上げようとしつつ果たせずにいる書物の1つに河出書房新社『図説 地獄絵をよむ』がある。
 聖衆来迎寺所蔵『六道絵』と北野天満宮所蔵の『北野天神縁起』を背景に,澁澤龍彦と宮次男の地獄絵についてのエッセイ,解説を編集したアンソロジーである。
 ことに巻頭を飾る聖衆来迎寺所蔵『六道絵』の人道九不浄相之図,つまり恵心僧都源信の『往生要集』の一節,墓地に捨てられた人間が,やがて青黒く変色し,血膿が流れ,蛆が群がり,白骨化していくさまを描いた作品のすさまじさはなんとも言いようがない。

 だが,地獄は人の世にある。

 アメリカ同時多発テロ事件について考えるたびに,自分があえて避けてきた事件,それについて詳細に記した本を(はっきり言えば)逃げてきたことに思い当たり,内心忸怩たるものがあった。その1つはチェルノブイリ原発事件であり,もう1つが1985年の日航機墜落事故である。
 もちろん,新聞,テレビレベルでは,それぞれ当時あれだけ話題になったこともあり,それなりに見たり聞いたり考えたりしてきたとは思う。だが,それについて詳しく述べた本や写真集については,かなり意図的に避けてきた。
 その理由は今はおく。ともかく日航機墜落事故である。

 著者は高崎署刑事官在職時に日航機墜落事故の身元確認班長を拝命し,藤岡市民体育館で520人の遺体の身元確認に務める。本書は無残な遺体に警察,医師団を率いて

 体育館はマスコミのカメラを避けるために暗幕で窓を閉ざされ,8月の焼けつくような陽光に屋根をあぶられて館内の温度は40度を越える。そこに遺体の放つ悪臭と線香の匂い,脱臭剤やホルマリン,クレゾールの匂い。
 完全遺体492のうち五体がすべてそろったもの177体,離断遺体,分離遺体,移棺遺体のうち部位を特定し得るもの680体,部位不明の骨肉辺893体……。520人の身体が,2065の遺体として体育館に運ばれたことになる。

 首からスパッと切断されているが顔面頭部にはほとんど損傷のない女児の頭部。
 炭化した15センチ×15センチくらいの肉塊をはがすように精査してみると2つの頭部が合体したもので,歯型,歯根の照合によって夫婦であることが確認される。
 顔の骨がぐしゃぐしゃに粉砕されてむくんだようになった少年の顔を担当の警察官が両手ではさみ,粘土で型をつくるように寄せると「あっ,うちの子です」と棺の中の遺体を抱き起こす父親。
 目が3つあるように見えるので調べてみると,他の人の頭部が顔面に,つまり頭の中に頭が入ったような遺体であった。
 前頭部が飛び,両手の前腕部,両下肢がちぎれた黒焦げの父の遺体の前で唇をかむ14歳の長男。
 素手で手首のない子どもの腕をさすり,片側半分だけが残った頭部に頬ずりをする母親。

 ダッチロールから墜落にいたる過程については一切触れられていない。日航の責任についても触れられていない。ただここに書かれているのは,家族の遺体を求める遺族と,その身元を明らかにしようとする警察官と医師団,看護婦,それだけである。
 作業は夏,秋,冬の127日にわたり,極度の緊張と疲労のあまり,疲弊していく担当者たち。
 「また子どもじゃねえかよ。俺は子どものはもう嫌だよ。なぜ俺んとこばっかり子どもなんだよ」と怒りながら涙を浮かべる巡査部長。
 「自分で診察した患者さんの遺体は自分で捜します」と和歌山,石川,大阪からかけつけ,必死になって棺の蓋を開けてまわる歯科医師たち。
 数万の蛆が這う横で食事をし,電車に乗ると匂いで騒ぎが起こるため,ホテルに止まらざるを得ない担当者たち。
 それでも彼らは働き続ける。休めと言われても,がんとして遺族とともに遺体を検分し続ける。

 そして,僕は自分に問う。
 ハタシテ自分ノ子ドモガ黒ク焦ゲ,腐ッテ蛆ノワイタ遺体トナッテモソレヲ抱キシメルノダロウカ(抱キシメルダロウ)。
 ドウシテモ,ドウシテモ,ドウシテモ。

2001/11/02

君はビクニン,僕の深海でゆらゆらと揺れる 『水族館行こ ミーンズ I Love You』 内田春菊 / 角川文庫

781【たぶんそれまでは母を困らせたりもしたのであろう彼は今,赤ちゃんに戻ってしまっているのだ】

 月並みだけど,水族館は訪れる者を写す。
 だから,庄司薫『白鳥の歌なんか聞えない』では薫君の友達の小林君は上野動物園の水族館で爬虫類を見るうちに気分が悪くなってしまうのだし,北村薫『覆面作家は二人いる』のフクちゃんこと新妻千秋が駆けるのはマグロが回遊する葛西臨海水族館でなくてはならなかったのだ。おや。書いて初めて気がついたが,どちらも薫……ここで栗本薫のミステリか何かで水族館が舞台になるものをみつくろえたらなかなか綺麗だったのだが,それはさておき内田春菊である。

 内田春菊は,シャイだと思う。ヌードをさらし,セックス体験をさらし,出産や育児を売り物にしてなにがシャイだという声も聞こえてきそうだが,それは彼女の作品にごくまれに現れる激しい羞恥の色に気がつかない者の言うことだ。矜持と言い換えてもよい。そのカタチやアラワレヨウが一般的でないだけで,逆に言えば烏丸には内田春菊よりシャイでない女流作家やタレント,一般人を見つけるほうが実は難しい。シャイだからよい,とか,好き,とかとはまた違うのだけど。

 本書は,その内田春菊が北は北海道から南は沖縄まで,スケッチブック片手におよそ50の水族館を訪ね歩いてそのありさまを紹介したものである。
 おそらく,無理やりなタイトルからもうかがえるように,もともとはマンガ家内田春菊が家で魚を育てていることを聞きつけた雑誌編集者が,オシャレでユニークな水族館イラストエッセイを企画したものだろう。しかし,それが実は内田春菊の前夫が無理やり強調したイメージであり,夫の指示のままに家で魚を買うこと,(もともと好きだった)水族館めぐりを仕事にすることがどれほど面倒だったか,苦痛だったかがあとがきには記される。
 だから,「水族館には好きな人と行こう」などという惹句は必ずしもあたらない。いや,好きな人と行くのは避けたほうがよいのかもしれない。

 本書は1990年ごろから数年にわたって書かれたものらしいが,10年の間に水族館の世界でもさまざまな世代交代が繰り広げられたことがうかがえる。
 冒頭で触れた恩賜上野動物園内の確か4階建ての水族館は老朽化し,今は改築されて平屋の爬虫類館となってしまった。よみうりランドの海水水族館は昨年秋に閉館され,シーラカンスのホルマリン漬けは池袋のサンシャイン国際水族館に移された。本書では珍しいとされるタツノオトシゴの一種リーフィー・シー・ドラゴンは最近はあちこちの水族館で見られるし,北海の深海魚,比丘尼から名前をもらったと言われる白くて不気味なザラビクニンは最近DyDoの(海洋深層水から生まれた)「MIU」のオマケのフィギュアの題材にも選ばれてファンを喜ばせた(すみません,そのファンです)。

 閉館時間にうしろから追い出すようについてくる館員。水槽のガラスを叩かずにいられない関西人。ショーがあると客がそれを見るのを当たり前と考えて水族館のほうに入らせてくれない館員。ガラの悪そうなパンチパーマの青年の乗った車椅子を可愛くてたまらないという顔で押す母親。
 たまたま,昨日の新聞には「世界最大級の飼育プール備えた水族館,名古屋に開館」というニュースがあり,それによると「名古屋城の金のしゃちほこにちなんでプールの目玉として飼育する予定だったシャチは捕獲が難航している」のだそうだ。

 水族館はアクリルの合わせ鏡。訪れる者を写し,運営者を写し,社会を写し,胸の内を,外を写し……。

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