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2001年10月の10件の記事

2001/10/28

きりもみ墜落中? 『ショッピングの女王』 中村うさぎ / 文春文庫

16【虚栄という名の不治の病で,自滅の道を一直線】

 このところ炭疽菌テロに対する論評だの,要人暗殺のために開発された殺人ロボットだの,ナチの人体実験を扱ったミステリだの,重めの話題,厚めの本が続いてアップするテンポも滞りがちだが,別に重い生活を送っているわけではない。
 少年サンデー,少年マガジン,モーニングにヤンサン,アニマルなどなど,マンガはそれなりにおさえているし,スポーツニュースやワイドショーのチェックも怠らない(清原のへたれにはがっかりしたけどね。ま,人生それぞれ)。
 通勤ではマンガが最優先,次いで文庫,単行本だが,同時多発テロ事件以来,主な週刊誌のチェックも欠かせない。田中外相のオバサン度,狂牛病をめぐるお役人の安請合いも要チェックだ。

 週刊誌でこのところ気になるのが,「くるくる」でも何度か取り上げてきたナンシー関の消しゴム似顔版画付き1ページエッセイに生彩が欠けることだ。大食い番組のことで何週間も引っ張るなど,どうにも敵が矮小で,盛り上がりに欠けるのである。
 ナンシー関のテレビ評のポイントをどこにおくかは人さまざまだろうが,そのときどきに最も露出度が高く,端的にいえばもっともエラそうなターゲットを叩くことに意義があったのではないか。それは単にその著名人の傲慢さを指摘するためでなく,その裏返しとして,著名人をありがたがる日本人の本質を叩くことになったのではないか。
 その1ページエッセイに迫力が感じられないということは,ナンシー関がテレビ,ひいては日本人に対する興味を失いつつあることの証のような気がする。このまま低空飛行が続くのか,それとも何か違う展開が待っているのか。

 違う展開,ということなら,ナンシー関と同じ週刊文春で,同じく女性による1ページエッセイで化けたのが,中村うさぎの『ショッピングの女王』である。

 最初の1年分ばかりを文庫化した本書を読むと,もうすっかり忘れていたことだが,本エッセイはスタートした1998年5月には,「買い物依存症」の気味はあれど,ごく普通の物書きとしての中村うさぎにさまざまなものを「買い物」させ,その使い勝手を書かせるといういかにもよくある企画だったのだ。
 1回めは北欧製の人間工学に基づいた椅子,2回めはシリコン製ニセ・オッパイ,続いて痩せるボディシャンプー,魔法のシミ抜き剤……。
 自分のジュニアをかたどって作るバイブ,キティちゃん柄のトイレットペーパー,幻の味つきコンドームとときどきはビローなシモネタで笑いを取るも文体は今ひとつ勢いに欠け,はっきり言えば週刊誌のエッセイとして極上とは言いがたい。

 ところが,連載が40回を越えたあたりから,突如,女王さまは踊り始める。
 高額な買い物への非難に答えて「あたしゃねえ,破滅の道をまっしぐらに突っ走る浪費の女王様なんだよ」と宣言し,実は税金を滞納,国民健康の保険料も滞納して保険証を発行されず,むじんくんに手を出し,にもかかわらず1年で服飾費に2000万円を費やした著者の野放図な生活の実態が明らかになる。それでも著者は買いまくる。使いまくる。反省してブランドのスーツをキャンセルしに行った先で,新たな注文を重ねてしまう。カルティエの限定版腕時計を流したくないばかりに質屋に90万円の利子を払い続ける。
 最近の連載では,督促状だの自己破産だのの話題の一方で,ホストクラブの楽しさを知ってホスト君のお誕生日にドンペリで乾杯,その請求書が……といった具合。

 西原理恵子についても感じたことだが,「これが本当なら見事なもんだ,もし作り話ならモノ書きとしてアッパレだ」といった感じだろうか。
 ただ,いかんせん烏丸は高級ブランドや服飾品にはカケラの興味もない。シャネル,エルメス,ルイ・ヴィトンと言われてもマークすらすぐには思い浮かばない。服飾品やバッグなど一に機能性,ニに耐久性,三,四がなくて五にフィット感。連れ添ってちょうど10年になる家人にも日々言って聞かせている。華美,物欲,浪費などという言葉は烏丸家の辞書にはない。

 ……ところで,今PCに向かったとき,キーボードの上にティファニーのカタログが置いてあったのはなぜだろう。ディスプレイに「駅すぱあと」が立ち上がって,我が家から銀座までの路線と運賃が表示されていたのは,はたして?

2001/10/24

イチローもすごいが上には上の 『野球術(上・下)』 ジョージ・F・ウィル,芝山幹郎 訳 / 文春文庫

20【全力をふるい,頭を使ってする野球。それがわれわれのスタイルだ。】

 神宮球場に移っての日本シリーズ第3戦はヤクルトが圧勝。「ヤクルトと近鉄なら,どちらが勝っても楽しい日本シリーズ」などと丹前の襟を緩めていながらこの悔しさ,やはり烏丸は野武士パ・リーグ党なのであった。
 それにしても第2戦の,低めをすくい上げた中村のバットの鞭のようなしなり,そしてフォークをハードヒットしたローズのバットのフラットな軌跡は夢のように美しかった。見事だった。願わくば7戦まで,それも華のある打ち合いを繰り広げてほしいものだと思う。

 一方,佐々木,イチローの所属するシアトル・マリナーズはニューヨーク・ヤンキースに敗れ,ワールドシリーズへの進出はならなかった。残念だけど,まあいい。初年度からなにもかも実現してしまうこともあるまい。 > イチロー
 それにしても,なんでそこまで強い。 > ヤンキース

 さて,ワールドシリーズにそなえて,というわけではないが最近ショルダーバッグのポケットに常備してほかの本の合間に少しずつ読んでいたのが表題の『野球術』である。

 1990年に書かれた本書は,メジャーリーグの現場を4つのカテゴリーに分け,それぞれを代表する監督,選手について,時間をかけたインタビューと詳細な記録をもとに徹底的に語り尽くしたものだ。
 4つのカテゴリーとフューチャーされた監督,選手は,それぞれ
   監督術 トニー・ラルーサ
   投球術 オレル・ハーシュハイザー(以上,上巻)
   打撃術 トニー・グウィン(以下,下巻)
   守備術 カル・リプケン
といった面々。もちろん,歴史上の名選手から現役の若手まで,これ以外のさまざまな選手についての逸話や記録も随所に挿入されている。スポーツ読み物というより,独自の史観に基づいた思想書のおもむきすらある。
 もちろん,10年前の著述だけに,取り上げられた選手たちの中にはすでに全盛期を過ぎた者,引退した者も少なくない。だが,本書に記された内容は,単にある時期のある選手を讃えるだけでなく,一流選手としてファンの前で輝くには,その背後でいかなる工夫と訓練と,そして築き上げた技術を維持するための努力が重ねられてきたかを示すものだ。
 だからこそ,たかが白いボールを投げて,打って,走って,捕ってというプレイが,あれほどにも魅力的なのだろう。

 著者はただ力まかせの投球,打撃というものを嫌う。いかに頭脳を働かせ,その考えをもとに体を動かすか……本書に登場する監督,選手の多くはあたかも哲学者のように語り,ふるまう。
 そして,技術は単に頭と筋肉だけに宿るのではない。たとえば著者は「天性のアスリート」という神話を否定する。間違っているだけでなく,有害だというのだ。「この神話は,すぐれた選手たちの切磋琢磨を尊重していない。しかも,スポーツに人格が関与する度合を低く見積もっている」。
 そして著者は,輝かしい実績を残した選手たちがいかに怪我や肉体の疲弊を乗り越えてプレイしてきたかを紹介する。その限りでは,本書の野球観は日本プロ野球に負けず劣らず精神論的だ。いや,トニー・グウィンの淡々とした打撃観がこの1年のイチローの訥々としたインタビューに似ていることは驚くほどだ。
 結局,メジャーだろうが日本プロ野球だろうが,一流とそうでない者がいる,それだけのことなのかもしれない。

 ただ……。
 お奨めの本書ではあるが,読んでいて何度も違和感にくすぐったいような思いをしたのは,論理的で諧謔に満ちた本文がいかにもスポーツジャーナリスティックな「である調」なのに対し,インタビューを受けた選手たちの解答がいかにも生真面目な「ですます調」だったことだ。大学を出たばかりのルーキーならいざしらず,59イニング連続無失点のハーシュハイザーが「あのボール,カーブを投げるときにはあまりよくなかったんです」,首位打者獲得8回,通算3000本安打以上のトニー・グウィンが「待てば,三盗のチャンスも出てくるわけですから」,さらにはあのカル・リプケン・ジュニアが「あのころウチの外野陣は足が遅くて,フライに追いつくことさえできなかったんです」……そりゃないだろう。
 やはりメジャーリーガーたるもの,「ヒットを打たれない秘訣? 簡単さ,バッターが球場にたどり着く前にさっさとキャッチャーのミットに投げ込めばいいんだ。ピッツバーグでは奴はいつもそうしてたぜ」とか,そんな口調であってほしいと思うのだが。これってアンクル・トムに「おねげえでございますだ旦那さま」と喋らせてしまうのと同じ一種の差別なのだろうか。

2001/10/21

郵便配達人は二度とベルを鳴らさない 『テロリズムとは何か』 佐渡龍己 / 文春新書

58【テロリズムは心の戦争である。】

 アメリカで炭疽菌による「恐怖」が広がっている。従来,テロリストさえ使用を尻込みしたと言われる生物化学兵器(BioChemical兵器,BC兵器)が無差別に使われてしまったことで,テロリズムは新しい局面を迎えた。
 いうなれば,人類は踏んではならない蛇を踏んでしまったのだ。

 炭疽菌の投函者が,先月の同時多発テロ事件と直接関係あるか否かはわからない。犯人は特定できないかもしれないし,逮捕,処罰されるかもしれない。問題は堰が切れてしまったことだ。
 今後は放射性物質の散布,スーツケース大の核爆弾の使用等も考慮しておくべきだろう。

 ソビエト連邦の終焉とともに訪れた冷戦の終わりは,平和ではなく,市場主義を中心としたグローバリズムとそれに対する一部の勢力による新しい紛争の時代の始まりにすぎなかった。それが,強大な軍事力と経済力を誇るアメリカに対するテロの形で現れるのは,後から考えて見ればしごく当然のことだった。
 世界貿易センタービルが二度に渡ってテロの標的とされたのはなぜか。それが市場主義とグローバリズムの象徴だったからだ。その意味で「罪のない一般市民が犠牲になった」という表現は必ずしも正確でない。あのビルに働く人々の大半は,直接的,間接的にアメリカの政策を政治,経済的に支持,支援した,テロリストたちの「敵」だったのだから。
 アメリカの同盟国である日本もまた同様である。アフガニスタンへの攻撃を支援して,反撃を受けないと想像するほうがおかしい。

 戦争とは,戦闘によって相手を屈服させ,こちらの意思を通すことである。だから,戦争には勝者,敗者はあっても善悪はない。
 テロリズムは弱者による戦争の手段である。それがすなわち悪であるかのような言い方は本来正しくない。たとえば,アメリカは紛れもないテロ国家たるイスラエルの建国を支援し,その後も援助を続けている。ゲリラ組織としてのアル・カイダを育成し,アフガニスタンに放ったのはアメリカである。
 結局のところアメリカがアル・カイダと敵対するのは,彼らがテロ組織だから,ではない。彼らがいまやアメリカと政治的,経済的,思想的に敵対しているためである。アメリカがアフガニスタンを空爆するのは,彼らが正しいからではない。それが彼らの戦闘様式の1つだからである。

 『テロリズムとは何か』は防衛大出身でリスク・マネジメントおよび危機管理を専門とする著者がテロ活動が活発なスリランカで実際に生活した経験をもとに,テロリズムの意味,歴史を問い,いかにしてその脅威から逃れるかを論じたものである。
 代数,幾何の解答例を思わせるような明快な文章が特徴で,公理,定理から論旨を積み重ねるその論調は人の恐怖や生き死にかかわる話題を扱っているとは思えないほどだ。たとえば,次のような一節。

「第1のパターンは,成功する可能性は極めて低い。それにもかかわらず,このパターンを行うテロ組織が多いのは,民衆の蜂起という理想を追い求めるためである。しかし歴史的にみて,民衆は蜂起しない。フランス革命の民衆の蜂起は,テロに刺激されて民衆が蜂起したのではなく,蜂起した民衆がテロリズムを行なったのである。」

 発行は昨年の9月,つまりアメリカ同時多発テロ事件のちょうど1年前。在ペルー日本大使公邸占拠事件,キルギス拉致事件を基点に,日本人のテロリズムへの意識,対応の甘さを問題としている。その結果,アメリカ同時多発テロ事件を見事に予測した側面と,予測しきれなかった側面とを併せもつ。前者については,注意を要する主なテロ組織としてイスラム過激派をあげ,表中にタリバーンやウサマ・ビン・ラディンの名前を記したこと,後者については
・数センチメートルのナイフで民間航空機をハイジャックし,乗客もろとも自爆テロに用いる
・郵便物に炭疽菌を仕込み,主な施設やマスコミ宛てに送りつける
という戦術にまで推測できてないことがあげられる。それは当然で,これらは革命的な戦術であり,是非を別にすれば発案者のテロセンスを天才的と絶賛したいほどだ。

 いずれにせよ,ディスプレイ上の戦略シミュレーションゲームでない以上,アメリカのターン,テロリストのターン,というルールがあるわけではない。アメリカは空爆と地上戦を繰り広げ,テロリストはアメリカおよびその同盟国の国民にしばらく「恐怖」をもたらし続けるだろう。

 やっかいなのは,テロリズムはその構造上,「終戦」というスイッチを持たないことだ。
 いずれ,日本でも大きな事件が起こるかもしれない。子どもが3人いたら,そのうち1人が天寿をまっとうできて幸い,という時代がくるかもしれない。50有余年平和にひたれたことがすでに僥倖に近いのだ。そのことにひとまず感謝の意を表したい。
 そして,封筒の中でさらさらと揺れる死と戦争の音に耳を澄ませよう。それは,もうすぐそばまで届いているのかもしれない。

2001/10/17

どこにもありはしない だからこそ 『ヘヴン2』 遠藤淑子 / 白泉社 花とゆめCOMICS

Photo【人間は人間を殺さない】

 ナチの人体実験。去勢歌手。さまざまな情念が交錯する中,崩壊する古城。
 脂ぎった分厚い本の後には,さっぱりしたギャグをちりばめたさわやかな人情物語を……ところが,これがおよそ軽くない,遠藤淑子の新刊である。

 遠藤淑子は言うまでもな『退引町お騒がせ界隈』,『なつやすみ』など,今は体液もとい退役してカウンターテロの教官としてイギリスで悠々自適の(ほんとか?)コミック書評家ケロロ軍曹ご推奨,白泉社系の少女マンガ家だが,その作品の大半は絶版である。品切れではない。絶版なのだ。……ちょっと口調もケロロ軍曹を真似てみました。

 核戦争から20年経った世界,陸軍を退役したマット(マーサ)・デイリーは,病気の姉と祖母に仕送りをするため仕事を探している。姉のホリーは放射能による甲状腺異常で今も少女の姿をして入院がちだ。マットはふとしたきっかけから中古ロボットのルークを伴うことになる。ルークは戦前の精巧な技術のたまもので,マットは彼を弟といつわって刑務所の仕事に就く。だが,その刑務所ではロボトミー手術によって囚人の人格を思うままに作り変える企みが進められていた。ある日,連続殺人犯がほかの囚人たちを扇動して暴動を起こし……というのが,前巻『ヘヴン』の第一話。
 穏やかな若者の姿をしたルークは,要人暗殺を目的として開発された殺人ロボットだった。彼は機能停止の確立が90%を越えると,今までの罪を告白するようにセットされていた。そうすれば天国に行ける,と製作者に言われたのだ。

 『ヘヴン2』は,『ヘヴン』を何十年もさかのぼって,ルーク(LU-K5)が製作される,それよりさらにずっと以前の物語である。物語は,エクソン社というシンクタンクが奨学金を提供する大学に,デイビー・トレヴァーという穏やかな若者が現れることから始まる。なかなか並みの神経では予想できない展開であり,ここにヘタクソな粗筋を並べるのはやめておこう。

 そして……これは,ひどい物語だ。
 美味しそうなバースデーケーキにナイフを入れると生臭い臓物が詰まっているような,チョコクリームと思ってほおばると胆汁の苦味に泣きたくなるような。

 どこかの雑誌に,遠藤淑子の作品に本当の悪人は出てこないとかいうことが書かれていたそうだが,それはおよそ勘違いだろう。『ヘヴン』『ヘヴン2』には,ごく自然に悪人が何人も登場する。何人かはグレイだが,何人かは真っ黒だ。『死の泉』に出てくるマッドサイエンティストなどよりよほど黒々と黒い。
 当たり前の話だが,ギャグが描けるということは,何かを切り捨てられるということだ。それが自分のプライドであるか,周囲との人間関係であるか,過去とのしがらみであるかは知らない。並みの人間が捨てられないものを切り捨て,踏みにじれるようでなければコンスタントにギャグを描くことはできない。そんなふうにギャグを描ける者にとってシリアスな話を描くことは往々にしてどうということはないのだ。

 不愉快で,いらだたしくて,黒い気分でいっぱいになって,各巻のラストに一条の光を読み取ることができるか,否か。
 楽しい読み物ではない。お奨めもしないが,読んでみる価値はある。『ヘヴン』全2巻。

2001/10/15

意匠を剥ぎ取って残るものは 『死の泉』 皆川博子 / ハヤカワ文庫

501【切断面頸動脈の一端を結紮。他方より20%F溶液を注入】

 話題の皆川博子『死の泉』をようやく読み終えることができた。少々遅くなったが,思うところを書いておこう。

「第二次大戦下のドイツ。私生児をみごもりナチの施設〈レーベンスボルン〉の参院に身をおくマルガレーテは,不老不死を研究し芸術を偏愛する医師クラウスの求婚を承諾した。が,激化する戦火のなか,次第に狂気をおびていくクラウスの言動に怯えながら,やがて,この世の地獄を見ることに……。双頭の去勢歌手,古城に眠る名画,人体実験など,さまざまな題材が織りなす美と悪と愛の黙示録。吉川栄治文学賞受賞の奇跡の大作!」

 ……これがカバーの惹句である。すでにどことなくおかしい。「双頭の去勢歌手」なんて登場人物の夢に出てくるだけだし,クラウスが「次第に狂気をおびていく」というのもそぐわない。
 逆にいえば,編集者がアオリをまとめるのもやっかいなほど,複雑で怪奇な意匠の本では,ある。

 全体は,ギュンター・フォン・フュルステンベルクの著した『Die spiralige Burgruine』を野上晶という日本人が翻訳した,という構成になっている。つまり,1冊の本の中に表紙や奥付,目次が二重に収まっていて,ハヤカワ文庫ではおなじみの「日本語版翻訳権独占 早川書房」のCopyrightページまで用意されているという凝りようだ。

 紹介は,ここまで。

 以下は,ネタばらしこそ極力控えるが,今後本書を読んでみようと思われる方にはお奨めしかねる感想のたぐいである。あらゆる論評のお約束とはいえ,余計な,しかもマイナスの先入観を与えかねない内容であることを前もってお断りしておく。

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 さて,その『死の泉』だが,これでもかとばかりに面白そうな素材をかき集めたわりには,個人的には今ひとつだった。

 最たる理由は,作者との感性の違いである。そもそも本書は,第二次大戦下のナチによる人体実験というこれ以上ない重い素材を選びながら,あまりにも情緒的に過ぎるように思われる。ストーリーそのもの,つまり登場人物の設定,行動についてはあれこれ計算がなされているにもかかわらず,その背景にあるのは単なる情動に過ぎない。だから,きわめて悪魔的に描かれているはずの登場人物も,およそドストエフスキー的な存在感を持ち得ない。

(本書では去勢することによって声変わりを抑え,ソプラノの声域まで達する男性歌手「カストラート」が大きな意味を持っている。しかし,皆川博子の音楽に対する感性は,以前紹介した『猟奇文学館2 人獣怪婚』収録「獣舎のスキャット」でピンク・フロイドの(あの牧歌的でナイーブな)「Fat Old Sun」を「ぶよぶよで皺だらけの赤黒い太陽」と訳してブタとの獣姦のBGMとしてしまうなど,どうも信頼できないのである。)

 しかし,情緒的な作品に対して「感性が合わない」では子どものケンカのようなもので,何も書いたことにならない。
 本書が近年にない労作(これは本当)であることは評価したうえで,なぜその情緒がこちらの胸に届かないのか,その理由をいくつか検討してみよう。

 本書は,前半をマルガレーテ,後半をマルガレーテの元恋人ギュンターが記し,ギュンターが出版し,野上晶がそれを翻訳した,という体裁になっている。しかも野上晶による「あとがき」によって,実はこれを執筆,出版したのは他の登場人物であり,さらにおぞましいことに……と全体を覆すオチ付きである。
 皆川博子はどうもこういう「誰それの正体は実は誰それで,それを(作品中で)記した作家は実は登場人物の誰それで」という入れ子構造が好きなようで,最近扶桑社から文庫化された『花の旅・夜の旅』収録の「花の旅・夜の旅」「聖女の島」なる2作品でも似たような目くらましが用意されている。
 そういう構成上の意匠は決して嫌いではないが,『死の泉』では必ずしも成功しているようには思えない。

 その第一の理由は,後半をギュンターが書いたと言われても,まるでそう見えないことだ。ギュンターは貴族の末裔で,戦争中に友人を密告するなど,純文学向けの背景もそこそこ持ち合わせてはいるが,どちらかといえば体育会系の純朴兄ちゃんで,小説をしたためるタイプには思えない。また,後半は三人称,つまり神の視点から書かれているが,ギュンターが知り得たはずのない他の登場人物の言動,思索(たとえばクラウスがゲルトに言った言葉など)が詳細に書かれているのがどうにも説明できない。
 そして,読み手が理屈でも感覚でもギュンターが書いたとはとうてい思えないものを「実は書いたのはギュンターではなかった!」と言われても,驚くはずがない。

 もう1つ,文庫で600ページ以上,ナチ支配下の1943年から1970年にいたる長大で複雑な物語が,実のところ非常に狭隘な,なんというか,1つの舞台の板の上で展開する程度にしか見えないことも気にかかる。
 本来なら物語が大きく動いているはずの後半に登場する主な人物が,実はことごとく前半に登場した人物の名や前歴を隠したものであるため,非常に複雑なはずの物語が実はとても単純な,ちょっと思い込みの強い数人の身勝手なお話に折りたためてしまうのである。

 実際,登場人物たちの言動は少々明快というか一辺倒に過ぎ,ペンキで描かれた映画のポスターのように濃いが奥行きのない存在感しか感じられない。たとえばマルガレーテは,息子ミヒャエルを守ることばかりに汲々とする。戦時下,身寄りのない彼女がお腹に私生児を抱えてそう考えるのは不思議はない。だが,ミヒャエルが生まれる前も生まれた後も,成長したのちも,彼女のそのフォームがまるで変わらないのは不思議なほどだ。彼女は何人かの男を愛するが,その愛の色合いと濃さは二種類しかない。つまり,息子への愛と,若い男への愛だけだ。相手は誰でもよいのである。ギュンターの単細胞ぶりは先に指摘したとおりだし,フランツの怒りの向かう先も実は誰でもよい。ちんぴらゲルトは最後までちんぴらだ。

 実は本書のキモというか実の主人公たる人物の魔王ぶりも感心できない。芸術を偏愛する彼は芸術のために他者を犠牲にすることをいとわないが,それは偏愛の度合いが強いからではなく,サディスティックですらなく,単に他者の傷みに無頓着なだけなのである。要するに彼は周囲の人間をネズミやカエルと大差なく見ているだけで,そこに読み手の人生を狂わせかねない重力があるようには思われない。
 彼の芸術への偏執がいい加減なことは,たとえば貴重なクラシックのレコードを大量に所有しながら,何をかけるかを妻任せにすること,フェルメールの真作を所有しながら城の地下にしまい込んでおいて平気なことなどに現れている。
 要するに彼は,オタクやマニアよりランクの低い,迷惑なコレクターに過ぎないのである。

 結局,この作品は,じっくりと短編に練り上げるべきものだったのではないか。崩城を描く場面を読み返しながら,ポーの「アッシャー家の崩壊」ほどにも衝撃は受けなかったことに思い至った次第である。
 逆に,似た素材を扱ったエンターテイメントとしてみれば,島田荘司『暗闇坂の人喰いの木』のほうが格段に面白く読めた。

 なお,「あとがき」の謎かけについては,ここで直接明記するのはいくらなんでもネタバレが過ぎるので,別の機会に。

2001/10/12

時について 二題

 
  昔は
  風が私を吹き上げた
  私は葦のように弱かったけれど
  葦笛のように風を歌うことができた

  夕暮れにはブヨの柱が立ち
  蝙蝠が帰り道の空に柔らかな弧をかいた

  昔
  あなたは今ほど美しくはなかった
  子どもっぽく
  いつも笑っていた
  愛することはできなかったけれど
  誰よりも好きだった

               (光る風)

    その庭に出て
    ほかにすることもなく
    午後は本を読んで過ごした

    疲れた目を閉ざしながら
    いい本だと心から思った
    いい本だとは思ったけれど
    二度と読むことはあるまいとも思った

    実際その本は二度と開かれなかった
    私は黒土の下に静かにうずめられ
    白い本が墓標のようにそっと重ねられた

                 (閉ざされた庭)

2001/10/08

怪力乱神入り乱れて 『鬼趣談義 中国幽鬼の世界』 澤田瑞穂 / 中公文庫

81【書庫いっぱいの霊魂幽鬼妖怪】

 厚いオークの扉に手をかけ,埃っぽいが明るい書庫に踏み入ると,思いがけず広々として奥が知れず,整然と棚が続いている。棚に積まれた書類を取り上げてみると中国の古今の怪異譚を短く簡潔にまとめたもので,それがさまざまな分野に几帳面に分類され,民俗学的な比較検討と若干のユーモアを加えてさっぱりした文章で綴られている……。

 孔子が「怪力乱神を語らず」と指摘したのは,そう言わざるを得ないほど当時の世に怪異があふれていたため,とする説がある。また,怪異を話題にすることは,君子が君子然とすましていられないほど楽しく,中毒になりかねないものだということも示している。当節ふうに言えば,マンガやゲームもほどほどに,といったところか。

 中国の怪異譚といえば,人気の高いのが蒲松齡の『聊斎志異』だが,『聊斎志異』は人間洞察や表現技法に溢れ,ある意味「出来すぎ」の面もある。要するに近代的な意味での「小説」に近すぎるのである。

 もっとあるがまま,美文に練られる前の,いわばシードとしての怪異譚はないか。そんなニーズに応えてくれるのが本書『鬼趣談義』一巻である。
 文庫かとあなどってはいけない。定価1,143円(税別),数行からせいぜい数十行の怪異譚でぎっちりと幽冥界のことがつぶさに記された494ページ。なにしろカバーの惹句に曰く,「筆記・随筆・地誌類など汗牛充棟の文献世界を渉猟し、中国の幽鬼妖怪の種々相を暢達な筆致で説き明かす。“怪力乱神”を語り、中国古来の霊魂観、幽鬼妖怪観を探究する、碩学による博引旁証の大著。巻末に事項・書名索引を付す」。恥ずかしながら,読めない熟語が一杯だ。

 やはり読み方のわからない言葉の連発する,しかしなんとも魅力的な目次を開いてみよう。
   鬼趣談義
   墓中育児譚
   亡霊嫉妬の事
   髪梳き幽霊
   鬼卜 ──亡霊の助言によって吉凶を占う事──
   再説・借屍還魂
   鬼求代
   鬼索債
   泡と蝦蟇
   関羽に扮して亡霊の訴えを聞く話
   柩の宿
   鬼買棺異聞
   産婆・狐・幽霊
   墓畔の楽人
   鬼市考
   偽幽霊出現
   僵屍変
   棺蓋鬼話
   旱魃とミイラ
   野ざらし物語
   石の妖怪
   土偶妖異記
   芭蕉の葉と美女

 「借屍還魂」(しゃくしかんこん)とはいったん絶命した男あるいは女が蘇生するが,意識・記憶が別の人物のものというもの。当人の家への帰属は肉体で決めるのか,人格で決めるのか。財産や配偶者をめぐり訴訟が起こることもあったという。
 冥土の人口を維持するためには,亡者が別の人間に転生するより前に,後任の亡者,つまり事故死や自殺死の人を物色しなければならない。場合によっては積極的に事故や自殺を幇助することもあるという。この亡者の代替を求めることを「鬼求代」あるいは「鬼求替」「鬼討替」「鬼索替」「替身」などという。
 また,他人に金を貸したまま死んだ者があると,その執念が祟り,借りた者の家中から狂人が出て「金を返せ」とわめき,相当額の紙銭(葬式などで使う紙で作った偽の金)を焼かねば治まらない。これを「鬼索債」(きさくさい)または「鬼討債」という。
 冥界における物資の交易には,現世と同様に市が立つ。これを「鬼市」(きし)という。多くは荒廃した郊外の共同墓地など,幽鬼に縁の深い場所に現れる。諸星大二郎『諸怪志異』第3巻「鬼市」のタイトルがこれである。
 硬直したまま皮肉ともに腐爛しない屍体,または久しい歳月を経ても朽ちず枯骨にならない屍体,これを「僵屍」(きょうし)という。いわば天然のミイラである。
 などなど。

 澤田瑞穂氏は1912(明治45)年生まれ,国学院大学高等師範部卒業。天理大学,早稲田大学教授を歴任。文学博士。専攻は中国文学。国学院大学時代には折口信夫に師事したという。
 巻末の書名索引だけで7ページ。いかなる情熱か,しかしその文体はあくまで淡々。濃い茶を片手に頭から読んでもよし,饅頭くわえてつまみ読んでもよし。陶然として秋の夜の更けるを知らず。

2001/10/07

中国三千年のとっぴんしゃん 『仙人の壺』 南 伸坊 / 新潮文庫

Photo_4【巻物は白紙であった】

 己とはどこから来て,どこへ行こうとする者なのか。
 ……とかいう問いに浸ってみるのもたまにならよいが,そうそう何度も,長々とやるべきことではない。くたびれるか,虚しくなるのがオチだ。
 そこで,たとえば近所の土手にザリガニを釣りにいく。青空の下,2つのハサミで糸の先のスルメをつかむ,つかまない,ソリッドでディジタルな世界。
 あるいは,『今昔物語』や『聊斎志異』のように,短い,原石のような文章に気の向くままあたるのもよい。

 『仙人の壺』は,中国古典の怪異譚(志怪とか伝奇とか称されるらしい)のいくつかをイラストレーターが本職(だったと思われる)の南伸坊が絵物語に仕立て,それに簡単な文章を添えたもの。
(1990年に潮出版社から発行され現在絶版になっている『チャイナ・ファンタジー』から9編,単行本未収録作7編が収められている。残る作品はマガジンハウス社から『李白の月』というタイトルでこの秋に発行されるらしい。)

 中国古典に着想を得て,といえば芥川龍之介『杜子春』,中島敦『山月記』,太宰治『竹青』など枚挙にいとまがないが,本書のイラストは,それらに比べると原作の捻じ曲げはさほどない。少なくともイラストに添えられたテキストは原作にかなり忠実なように思われる。ただし,イラストレーションとしてはたいへん凄い。シンプルで白っぽい画像なのだが,(今どき珍しいほどに)前衛的,実験的なテクニックが大胆に割り振られ,イラストレーターとしての南伸坊の面目躍如,といったところだろうか。
 イラストの部分は各編8ページに過ぎないので,書店で見かけたら1つ2つ目を通してみていただきたいと思う。

 それぞれのストーリーは,怪異といっても決して怖いようなものではなく,素っ頓狂であっけらかんと説明のつかないようなものばかりだ。
 たとえば,ある人が山に入って大蛇を撃ち殺したところ,それに足があるので持ち帰ったところ,役人が「その蛇はどこにあるのだ」と問う。その人が蛇を地面に投げ下ろすと,蛇は見えるようになったが,今度はその人の姿が見えなくなった,とか。
 鼠が衣冠をつけて現れて「お前は正午に死ぬ」と繰り返し語り,無視していると正午にその鼠がひっくり返って死んでしまった,とか。

 怪異を無視する話や,怪異を無視できない話が多いような気がするが,それが中国古典の特徴なのか南伸坊の趣味なのかはよくわからない。

 ただ,各編に添えられた作者による解説文はくきりとしたグラフィックに比べると冗漫で,いかにも蛇足といった感じがする。
 また,巻末の解説がミステリ作家の北村薫なのも,なんとなく鬱陶しい感じだ。最近,なんだかやたらあちこちでこの人の文庫解説を見るような気がする。あの手この手を駆使して作家を褒める,その手腕を買われてのことだろうが,あまり頻繁に目にするとその手腕があざとく見えてしまうのである。

2001/10/02

[雑感] さらば長嶋

 長嶋監督,最後の試合が終わった。

 0-5で阪神の完勝。
 これで讀賣は4連敗。東京ドーム最終戦といい,星野監督の辞任発表後の中日の7連敗といい,東尾西武の連敗といい,監督が辞めるというのは,そんなに士気にかかわるものなのか。
 個々の選手にしてみれば,監督が代わろうが,個人の成績というものがあるだろうに。

 東京ドームでの最終戦,日本テレビは自局で放送できる讀賣主催試合が最後なので「最後,最後,最後」と連呼。その気配りを息子の一茂が「あと阪神戦が1試合ありますが」と無頓着に踏みにじったのが笑えた。
 9回表,引退の決まった槙原の登板に長嶋監督がマウンドに向かい,ゲスト(?)の徳光アナが泣き崩れる。ジャイアンツファンであることが職業のアイデンティティであるだけに,イジワルな見方だがここで泣かない手はない。

 もう1点,ほとんどの解説者が長嶋万歳を繰り返す中で,一茂だけが「すべてを犠牲にして今まで」と口にしたのが興味深かった。深夜のスポーツ番組では長嶋監督自身も「すべてを犠牲に」と発言。
 つまり,「長嶋ジャイアンツ」は長嶋本人,および長嶋家をすべて犠牲にした上に成り立っていたものだった,少なくとも,長嶋家の人間はずっとそういう意識を持ってきたということだ。犠牲。軽い言葉ではないと思うが。

 セレモニーでの長嶋の挨拶は,現役引退時の「巨人軍は永久に不滅です!」に比べると,とくに決めゼリフもなく,穏やかで地味なものだった。
 すでに引退を表明している槙原,村田真,斎藤もセレモニーに並ぶ。考えてみれば今年引退する讀賣の選手はこの3人だけではないはずで,この後引退を表明する選手,あるいは表明したくなくとも契約してもらえない選手は結果的に可哀想な気がする。同じ引退するなら,この日,この場に並べばよかったと後悔しないだろうか。
 しかし,記者会見に並ぶ槙原,村田真,斎藤の3人を見て,しみじみ,ジャイアンツという球団は戦闘する男の顔,プロの顔を作れないアイドルタレント集団なのだなと思う。いずれもしまりのない,にやついた頬,そして目。20年間一流として活躍,ファンの目にさらされてこんなものか。

 個人的には,テレビ東京のスポーツ番組で,キャスターの定岡が長嶋にインタビュー,「監督,最後に握手してください」と握手した後,万感迫って泣き出してしまい,しばらくどうにも声が出なくなった場面のほうがよほど好感がもてた。
 定岡は,ピッチャーとしてそう好きな選手ではなかったし,キャスターとしてもそういい印象はないが,いろいろ抱えていたものが一気に噴き出たのだろう,キャスターとしては問題かもしれないが,よほど長嶋の引退を(損得抜きに)素直に泣いている感じがして,よかった。
 これは勝手な推測だが,定岡が在籍した第一期長嶋監督時代には,現役時の威光と監督としての溌剌とした言動があって,選手たちへのインパクトも強かったのではないか。第二期は,選手自身には神々しく見えるわけでもないのにただ不可侵,反論できない存在として,煙たいばかりだったのではなかったろうか。
 所詮,昭和のヒーローなのである。とっとと引退して,別所のように外から笑ったり怒ったりしていてくれればよほど好感をもって見られたのに,とも思う。

 これで,讀賣は長嶋監督から原監督に。
 中日は星野監督から山田監督に。
 西武は東尾監督から現役キャッチャーの伊東か。
 オリックスは仰木監督から元西武・ダイエーの石毛か。

 顔ぶれは変わるが,フレッシュとは言えまい。昨今の10代,20代の若者にこれらの名前が伝わるとは思えない(悪い冗談だが,新庄が来年いきなり讀賣の監督をやったほうが,よほど客を呼べるかもしれない)。
 視聴率は長嶋ドーム最終戦(平均26.5%,瞬間最高39.5%)を女子マラソン高橋尚子のまったく面白味のないレース(平均36.4%,瞬間最高53.5%)が圧倒。

 プロ野球はこのまま,能,狂言のような,一部高齢ファンにしか通じない伝統芸能になってしまうのか。それでも生き残るならまだマシで,記録を目指すローズにボールばっかり投げているようでは……。

2001/10/01

[雑感] 中島みゆき「船を出すのなら九月」

 中島みゆきの7枚めのアルバム『生きていてもいいですか』は1980年4月5日発売,

   うらみ・ます
   泣きたい夜に
   キツネ狩りの歌
   蕎麦屋
   船を出すのなら九月
   (インストゥルメンタル)
   エレーン
   異国

とい内容で,黒ベタにアルバム名だけのジャケットや,冒頭の「うらみ・ます」の印象のあまりの暗さゆえか,その前後のアルバムの中でも最も重苦しい印象が強い。彼女の(一見明るい)曲に見え隠れする,切なさや悲惨さを外から笑い飛ばそうとするようなメロディ,フレーズにも乏しい。

 その中で,「船を出すのなら九月」はタイトルからして見事な,稀代の佳曲ではあるのだが,残念なことに主旋律が往年の名曲と瓜二つだ。盗作かどうかは別として,どう聞いてもまったく同じなのである。

 その曲とは「小さな木の実」,1971年にNHKみんなのうたで取り上げられたもので,海野洋司作詞・ビゼー作曲(「美しいパースの娘」から)。
 歌ったのは「詩人が死んだとき」「こわれそうな微笑」の大庭照子,映像は草原の実写に赤や茶色の紅葉をあしらったカットの組み合わせだったように記憶している。ビゼーの原曲をはなれ,秋の木の実,つまり父親の死と少年の成長をうたった,心に染みる美しい曲である(のちに,ほかの歌い手によって何度かリメイクされているし,みんなのうた名曲集といったたぐいの楽譜やアルバムにもよく収録されているようなので気になる方,興味のある方はどうぞ。

 もちろん,ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)の作曲したメロディについてはすでに著作権は切れており,最近DA PUMPが同じくビゼーの「アルルの女」を利用したのと同様,今さら責められる筋合いはない。だが,80年当時すでに大ヒットメーカーだった(桜田淳子らが歌ったヒット曲を自分で歌い直した『おかえりなさい』が『生きていてもいいですか』の前年)中島みゆきが,わざわざ盗作,パクリと指摘されるような危ない橋を渡るわけもない。
 おそらく,たまたまNHKみんなのうたを小耳にしたものが意識の奥底に潜り,それが「船を出すのなら九月」という歌詞のフィルターを通して噴き出てきた,といったところではないか。

 ここではこれが盗作であるかどうかを問いたいわけではない。
 「小さな木の実」も,「船を出すのなら九月」も,ナイーブなナイフが胸を刺す佳曲であることにはかわりはないのである(要するに,ビゼーがすごい,ということかもしれない。このビゼーが生前はほとんど評価されず,無理解な妻のために作品が散逸しかかったとは信じがたい)。

 そして,ここで本当に書きたかったことといえば……。

 だが,もう九月は過ぎてしまった。
 今はただ茫洋と船の上から過ぎ去った夏を振り返るばかり。
 ただ舳先を打つ波の音にあてどない旅を思うばかり。

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