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2001年9月の15件の記事

2001/09/29

独身者の機械 その七 ピュグマリオーンと象牙の乙女

【けれどもピュグマリオーンはどうしても、どうしても、どうしても、】

 泉木修の「百物語」には,ギリシア神話に題材をとった「ピュグマリオーン」(第六十五夜)という,もともとのギリシア神話をご存知ないとおそらく意味のよくわからないであろう短章がある。

 詳しくは後でそちらを直接読んでいただくとして,そのピュグマリオーン神話を簡単に紹介しておこう。このような話だ。
「愛しい女性がついには自分のものにならないことを悟り,女性を忌み嫌うようになった彫刻家のピュグマリオーンは,象牙の乙女の像を作り,それを飾り立て,ついにはアプロディーテーにその象牙の乙女を妻にしたいと祈る。願いは聞き届けられ,象牙の乙女は人間となり,ピュグマリオーンと結ばれる」

 だが,この話は,どこか辻褄が合わない。
 そもそも,冒頭であっさりと話題から消えてしまうピュグマリオーンが愛した女性。彼女はいったい誰だったのだろう。神話はその氏素性には一切触れていない。しかし,アプロディーテーに祈るなら,まずはその女性と結ばれるように願うのが先ではないか。つまりそれは,愛が成就することが困難なのではなく,女神の介在によっても愛が成就することそのものがはばかられるような相手だったのではないか。そして,だからこそピュグマリオーンは女性を忌み嫌い,独身を誓うことになったのではないか。ならば,彼がこしらえた象牙の乙女もまた,結ばれてはならない相手に瓜二つだったのではないか……。

 「百物語」の「ピュグマリオーン」は,トマス・ブルフィンチ版『ギリシア・ローマ神話』の同章の結末の数行だけを書き換え,ピュグマリオーン神話の意味をがらりと変えたものである。ピュグマリオーンの愛してしまった女性が,もし,彼の……ならば。そしてピュグマリオーンの愛が女性に似て女性にあらざる象牙の乙女に向かうとき,彼はスウィフトやキャロル,ポーと同じ意味での独身者だったのではないか。

 なお,「百物語」中でギリシア神話を扱った短章には第二十八夜「スピンクス」,第三十八夜「ペーネロペー!」があり,前者には近親相姦の禁忌(タブー),後者には到達し得ないものを求める旅がそれぞれ描かれている。同一主題のヴァリエーションというべきだろう。
 だろう,などとまるで人ごとのようだが,本人がそのつもりで書いたのだから間違いない。
 泉木修は体調がよいときの烏丸なのだから。

 さて,ピュグマリオーン神話の忘れてならないもう1つのポイントは,その愛の対象が象牙の乙女,すなわち「人形」だったという点だ。
 ここで私たちは,たとえば屈曲反転する少女人形を作り続けたシュルレアリスト,ハンス・ベルメールを,あるいは遺作として少女の裸体を古びた木製の開かずの扉の向こうに封じ込めた芸術家を思い起こすべきだろう。その芸術家の名は……。

2001/09/28

独身者の機械 その六 永遠の回転運動

【42.195のフロイト】 ← 意味なし

 同じ「少女愛」でも『ロリータ』のハンバート・ハンバートの場合と,ルイス・キャロル,ジョナサン・スウィフト,エドガー・アラン・ポーらの場合とでは何かが決定的に異なって見える,ということを前回指摘した。

 なぜ,ハンバート・ハンバートはロリータと肉体関係を結ぶことができ,残る3人ではセックス,あるいはそもそも乳房,初潮といった第二次性徴そのものまで忌避したように見えるのか。

 まず,後者,たとえばスウィフトやポーには,そもそも肉体的に性的不能だったのではないか,とする説がある。性的快楽を享受できないがゆえに性の脅威を感じさせない少女,幼女に情愛を傾け,現実の肉体関係の代償として言葉遊びや論理遊びにいそしむ。
 これはそれなりに説得力のある説だ。ことにスウィフトの場合など,その高いプライド,聖職界での政治的成功の代替として風刺小説を書いたことと透かせ合わせても,十分納得できるものである。

 もう1つの,さらにうがった説として,彼らの少女愛の背景に近親相姦に対する禁忌(タブー)の気配を見るというものがある。近親相姦の衝動が「罪」の意識から去勢コンプレックスに結びつき,ナルシシスム,あるいはオナニスムとなって現れる……とかいう,例のフロイトのアレである。

 たとえば,先にあげたジョナサン・スウィフトには2歳違いの姉ジェインがいたが,彼がステラ,ヴァネッサとの三角関係のさなかに突然奇妙かつ実現不可能な条件をつけて結婚を申し込み,苦心惨憺の末に相手が了解したら,姉が結婚すると同時にスウィフトのほうから断ってしまった相手の名前がその姉と同じジェインだったこと。ステラとの(擬似)結婚の折りに「スウィフトとステラは実の兄妹だ」という噂を流したのが当のスウィフトではないかと思われるふしがあること。
 エドガー・アラン・ポーが叔母のクレム夫人を「母親」としての思慕を抱き,姪のヴァージニアへの手紙の中で彼女を「妹」と呼んだこと。ポーの代表作の1つにおいて,「アッシャー家」は濃密な近親相姦の禁忌のもとに崩壊していくこと。
 キャロルのアクロバティックな詩や童話は,そもそも妹たちのために作った家庭誌"Mischmasch"(ごたまぜ,の意)が発端だったこと。人間嫌いで通したキャロルが,晩年まで妹たちとは親しかったこと。

 もちろん,家族のためにお話を作っただけで近親相姦を疑われたのではかなわない。独身男が妹の家で死んだからといって,何の不思議があるわけもない。
 またジェインはありふれた名前だし,姉の結婚に寂しさを覚えた弟が身近な女に走るのもありそうなことだ。

 だが,それでも,(当人がそう書き残すわけはないから証拠がないとはいえ)この設定は魅力的だ。母親や姉妹への絶望的にかなわぬ愛慕を自分の中で折り返すうちにその愛の矢印は性的に未成熟な少女に向かい,精神の中の内燃機関は言葉遊び,論理遊びを執拗に繰り返す。達成できないことの代償であるこの遊びは,コミュニケーションという実用性を失い,とことんノンセンスの領域にはまり込んでいく。

 つまり,ロリータの肉体を抱けてしまったハンバート・ハンバートと異なり,スウィフトやキャロルやポーにとっては,愛の対象とは愛が成就できないことそのものであり,愛の成就とは肉体的接触のともなわぬ,ただ精神の機械的な回転運動なのである。
 もしそうならば,the winged seraphs of HeavenがAnnabel Leeと私をうらやむのも当然だったろう。その愛は,地上の肉の上にもったりと成就した愛ではなく,形而上の,いわば虚数空間にまっすぐに張り渡された太さを持たぬガラスの直線なのだから。

 実は,インターネットの片隅では,ちょうど1年前に,このような精神のあり方について描いた作品(?)が提示されていた。それは……。

2001/09/26

語られないことで語られる真実 『警察署長(4)』 原案 たかもちげん,脚本 高原泉,漫画 やぶうちゆうき / 講談社モーニングKC

Photo_3【何も言うな】

 『代打屋トーゴー』,『祝福王』の作者たかもちげんが癌で亡くなったのは昨年7月5日のことだった。
 当時モーニングに連載されていた『警察署長』が絶筆となったわけだが,週刊誌の刊行スケジュールを考えるに,亡くなる直前まで作品を描いていたのではないかと想像され,切なさと羨ましさに胸が痛む。
 もし病で倒れるとして,己は死の床でまで何かに熱中,没頭できるだろうか。

 『警察署長』の主人公は,警視庁本池上署署長・椎名啓介(警視正,38歳)。彼は異例の出身地勤務,さらに異例の在任10年目,さらにキャリアとは思えない昼行灯……。
 もちろんマンガであるから,昼行灯に見えて実は,という話ではあるのだが,この読み切り連載には連載開始当時から,たかもちらしからぬというか,微妙な苛立ちを覚えた記憶がある。

 たかもち作品では,本業公務員の代打屋であれ,新興宗教の教祖であれ,つまり謎にあふれた設定でも,1つ1つのコマでは隠し事のない,一人称の展開が常だった。しかし『警察署長』は読者に対してペルソナ(仮面)を被り通す。椎名の人間洞察にあふれた推理,地元に密着した知識から事件が解決するのはこういったマンガのお作法通りなのだが,そのくせ妙にベールの厚い,すっきりしない印象が強かったように記憶している。
 それが,警察関係に詳しい原案者の存在によるものか,自らの闘病を隠そうとした結果だったのかはわからないが,作者の訃報に接したとき,ああこのままベールは開かれないのかと脱力したことは確かだ。

 その,『警察署長』がモーニング誌で復活している。作画はやぶうちゆうきという若手(といっても年齢はわからないのだが),画風からみてたかもちのアシスタントの1人ではないか。
 メジャー誌での作者を代えての連載継続には,あまりよい印象がない(といってもすぐには『柔道一直線』に『空手バカ一代』程度しか思い浮かばないが)。だが,今回に限って,そう悪いことではないように思われる。まず,新しく登場したノンキャリアの前田吾郎,キャリアの相馬俊彦が警察システムの仕組みを描く上で巧い役割を果たしていること。もう1つ,椎名啓介が警察システムの中でタブーとなるいきさつの描き方が,巧い。原案者が当分隠すつもりなのか,実は(亡くなったたかもちの胸にあって)正解がないのか,椎名の同期の高杉という警察官が死に,その真相を椎名だけが知っているらしい,ということだけが明らかになるというなかなか力のこもったタネ明かし(正確にはタネ明かさず)が,初めて椎名の生の声を描いて見事だ。その生の声が,もう1人の同僚(のちに警察官僚として出世する)堂上を巻き込むまいとする「何も言うな」という台詞であることで,この『警察署長』第4巻は,たかもちの遺作であることを越えて新しい局面に到達したと見てよいだろう。つまりここにいたって,なにやら主人公の声が聞こえないくぐもった作品は,「語らない」ことでより大きな何かを語るという構造を獲得したのである。

 たかもち同様決して旨い絵ではないし,物語の展開も極上とはいえないが,一部の脇役のごつごつした存在感といい,要チェック作品だと思う。
 いずれこの作品を最初からきちんと読んで,「相手を読み切る」ことについて考えてみたい。この作品は相手を読んで読んで読み切る,将棋や囲碁のようなミステリを狙ったものだが,その作品そのものに隠された意図を読み取るのは,残された読み手の今後の務めであるように思われる。

2001/09/25

強い女といえば 『紅一点論 -アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』 斎藤美奈子 / ちくま文庫

851【森雪は高校野球部の女子マネジャーである】

 気分転換のつもりが,毎度のごとく1冊では片付かないのが悪い癖だ。
 だがひとたび「強い女」を話題にして,最近文庫化されたばかりのこの本を取り上げずにいられるだろうか。いや,いられない(反語)。

 斎藤美奈子『紅一点論』はアニメや特撮,伝記本の中に登場するさまざまなヒロインを取り上げ,男性社会の閉鎖性を斬り,返す刀で新しい女性の生き方を模索する……ような本では,少なくともない。
 どちらかといえば,アニメ・特撮おたくが過去の名作にメガネを寄せ,「あのシーン,オレはこう見たね」とうそぶく薀蓄本のほうがよほど近い。

 たとえば本書では,『ウルトラマン』や『マジンガーZ』の男の子の国のチームは親方日の丸の軍隊であると指摘し,そこで働く紅一点,つまり二十歳前後のセクシーな若い女は,父親の威光をカサに着た「七光娘」であり,公の仕事は通信係=電話番であり,陰の仕事は雑用とお色気サービスであると喝破する(『ドラえもん』のしずかちゃんさえ,シャワーシーンがお約束だ。しかも,しずかちゃんにはなぜか女の子の友だちがいない)。
 もしくは本書は,魔法少女の変身が体のいいコスプレであり,セーラー服,スチュワーデス,看護婦,パッツパツの水着状レオタードといった服装と大人の女の肉体への変身は,少女の夢の実現以上に,おやじ好みのイメクラ遊びに近いと言い当てる。

 ナイチンゲールはセカンドネーム,ヘレン・ケラーはフルネーム,そして何故かキュリー夫人には「夫人」という肩書きがつく。その理由についても筆者は十分納得のいく答えを用意しているのだが,「こうあるべき」「今後はかくあるべき」ということまで示すわけではない。
 本書はあくまで「アニメや特撮や伝記はこうで,こうで,こうだ」と伏せられたカードを順にめくって見せるだけ,その巧みな手さばきと綿密な調査に感心させ,笑わせるばかりである。

 本書はつまり,ジェンダー(性差)にとことんこだわった本ではあるが,フェミニズムの今後について,なんらかの明確な解答を提示しようとするものではない。
 だから面白い。だから可能性がある(かもしれない)。
 必要なのは,誰も正面から反論を口にできないようなお綺麗な(だが現実にはとうてい実現不可能な)模範解答や,逆に読み手が思わず引いてしまうような強固で狭い思い込みではない。目の前で事実をひらひらと揺さぶり,クラブのジャックと思っていたところにダイヤのクィーンがあって,確かに見えていたことが実は薄ぼんやりとした思い込みでしかないことを思い知ることである。それだけでよいわけではないが,それなしには何も始まらない。

 ……と,前向きに締められればよいのだが,女権論についての筆者の思いはひょっとすると正面から論じられないほどに絶望的なのかもしれない。
 解説の姫野カオルコは本書を「性差にこだわった本ではない」とし,エンタテインメント性を強調するが,それでは片付かない苦いものが残る。たとえば次の一節など,アニメの製作者が男だから,となじるわけでないだけ,余計に筆者の絶望の深さを感じるのだが,いかがだろうか。

  『エヴァンゲリオン』が図らずも残したのは,「チームの男女比が逆転すると組織は内側から崩壊する」という事例であった。『もののけ姫』が残す印象は,以下のようなものだ。女のけんかは限度を知らない。女はふところが狭いので,敵の論理を認められない。女同士の間では話し合いが成立しない。(「第四章*紅の勇者の三十年」より)

2001/09/24

ちょっと気分転換 『塀内夏子短編集2 ~いつも心に筋肉を~』 講談社マガジンKC

031【今の・・・・だめだったんでしょうかっ】

 少年マガジンという雑誌は,同じ水曜日発売の少年サンデーに比べて硬派というかヤンキーな登場人物が多いように見えて,その実,女流作家による細やかな素材や恋愛感情の扱いがページの厚みを支えている,という構図がある。
 きちんと調べたわけではないが,この10年ほどの長期連載を見ても『おがみ松吾郎』の伊藤実,『シュート!』大島司,『Tenka fubu信長』ながてゆか,そして『Jドリーム』の塀内夏子らが女性である。こうしてみると,女流作家による連載の比率はけっこう高い。

 塀内夏子は,デビュー当時は塀内真人というペンネームで描いていた。真人というのは弟さんの名前だそうで,『おれたちの頂』,『フィフティーン・ラブ』,『涙のバレーボール』などを「真人」名義で発表したのち,高校サッカーを描いた長編『オフサイド』の11巻以降は本名の塀内夏子で上梓している。作者名が変わったと読者が動揺したふしもないので,少年マガジンの読者にとってはたいした問題ではなかったのだろう(欄外の落書きなどからなんとなく作者が女性であることがうかがえたし)。

 だが,女流だから女性的,というわけではない。むしろ,これ以上ないくらい正当派の少年マンガだといえる。
 塀内作品では,さまざまなスポーツをテーマに,やんちゃな主人公が,そのスポーツに打ち込むうちに真摯な姿勢を身につけ,仲間や周囲とのいさかいを突破して最後には本当の勝利を得る……ベタといえばベタ,ワンパターンといえばワンパターンなのだが,ツボにはまると泣ける。いやもう,実に泣ける。

 この9月,その塀内夏子の短編集が2巻,同時に発売されるという情報を得た。彼女の短編集といえば,デビュー当時の『ダイヤモンド芸夢』『サーカス・ドリーム』などが絶版になっている。そのあたりの再販だろうか。
 では,なかった。

 『塀内夏子短編集1 ~天国への階段~』は,表題作こそ始まったばかりで打ち切りになった(ほかの連載とのスケジュールの兼ね合いからか?)ボクシングマンガだが,実質は女子マラソンを描いた「42.195のダフネ」がメイン,それに女子プロレスの北斗晶,神取忍やマラソンの有森裕子へのインタビューが巻末に掲載されている。「42.195のダフネ」は,美貌と素質を鼻にかけた,少々性格に問題のありそうな女の子が,ブランクののちに日本最高記録を塗り替える話。もちろん,塀内作品であるから,彼女は実はピュアな心の持ち主だし,石部金吉のコーチも心の奥底では彼女のことを憎からず,なんて説明するほうがヤボであろう。

 『塀内夏子短編集2 ~いつも心に筋肉を~』では,女子プロレスを描いた表題作が秀逸。空手が得意で乱暴な少女紫(ゆかり)は,高校を退学して女子プロレスの世界に入門する。無口で無愛想なゆかりは,チャンピオンの陽子と闘うことになって……。こちらはゆかりの同級生の心臓の悪い青年との交際が彼女の闘争心を止揚する。これに平泳ぎの選手の引退を描いた「水の子」,さらに棒高跳びを題材にした掌編「谷川高校へっぽこ陸上部」が添えられている。

 いずれもこの10年以内に,主に青年誌で発表されたもの。代表作の長編連載のように個性的な登場人物が次々に登場して青春群像を形作るというわけではないが,逆にいえば主人公の苦闘と異性へのほのかな思いがくっきりと描かれて好感が持てる。これで1冊390円(税別),お買い得だ。

 それにしても……強い女は美しい。

2001/09/23

独身者の機械 その五 アナベル・リー

571【海のほとりの王国で】

 彼がボルチモアの叔母,クレム夫人の元に身を寄せたのは,彼が22歳,従妹のヴァージニアが8歳のときだった。
 彼はその数年後,周囲の反対を押し切ってヴァージニアと結婚する。彼女が14歳のときだ。

 彼,エドガー・アラン・ポーは,陰影の深い詩作によってフランスのボードレールやランボー,ヴァレリーらに影響を与え,いうなれば象徴主義の祖となり,一方でイギリスのドイルに影響を与えて探偵小説,推理小説の祖となった。ディレッタントで鋭敏な偏屈探偵(デュパン)とその友人で凡庸だが実直な語り手の組み合わせ,密室トリック,暗号など,現代のミステリの多くの手法が彼の手によってすでに提示されている。また,ホラーやSFは太古の神話から脈々と築き上げられた文化であろうから,彼一人を祖とするのは無理があるだろうが,それでも「黒猫」や「アッシャー家の崩壊」が近代ホラーに与えた影響,「アーサー・ゴードン・ピムの物語」や「アルンハイムの地所」がのちのSFに与えた影響は決して小さなものとは思えない。
 彼の生涯は短く,残された作品は大半が短編でその数も決して多くはないが,天才の名はエドガー・アラン・ポーのような者にこそふさわしいといえるだろう。

 さて,今回の主題に戻る。
 ポーのヴァージニアに対する愛情は,残された手紙を読んでこちらが赤面しそうなほどのもので,彼らはともに愛しあい,むつまじい結婚生活を送る。だが,極貧の中でヴァージニアは胸を病み,彼女の死後,ポーは浴びるように酒を飲んで2年後に死んでしまう。
 だが,問題は,少女に対する恋愛感情,あるいは妻に対する情愛ではない。
 ボードレールはポーの評伝において,「ポオの小説には恋愛は出てこない。少なくとも,『リジーア』とか『エレオノーラ』とかは厳密にいって恋愛物語ではない,作品を旋転させる中心思想は,全く別種のものである」と述べている(小林秀雄訳)。ポーの作品には,一見恋愛感情に見えるものが何度も描かれている。だが,そこでは几帳面なまでに肉体的接触が避けられている。愛する者の肉体は天使によって奪われ,蛆に食われるものとして描かれる。そして,幼な妻ヴァージニアは,まるでそんなポーの心持ちをわかっていたかのように,死の直前に彼にこう告げたという。
「私が死んだら,あなたを守る天使になってあげる。あなたが悪いことをしそうになったら,その時は両手で頭を抱えるの。私が守ってあげるから」
 アーサー・G・ラーニドの描くヴァージニアの肖像はほっそりと清楚で,およそグラマラスなエロティシズムとは無縁な存在に見える。

 ポーの死後に発表された詩,「アナベル・リー」は,このヴァージニアへの思いを綴ったものと思われる。最初の二節をここに掲載しておこう。
(Poeの'ANNABEL LEE'と'TO HELEN'はいうなれば烏丸の永年の愛唱詩であり,学生時代には意味もなくそらんじたものだ)
 さほど難しい言葉も出てこないので,どうか小さくとも声に出してお読みいただきたい。

      ANNABEL LEE

              Edgar Allan Poe

   It was many and many a year ago,
     In a kingdom by the sea,
   That a maiden there lived whom you may know
     By the name of Annabel Lee;
   And the maiden she lived with no other thought
     Than to love and be loved by me.

   I was a child and she was a child,
     In this kingdom by the sea,
   But we loved with a love that was more than love ──
     I and my Annabel Lee ──
   With a love that the winged seraphs of Heaven
     Coveted her and me.

 ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』は,この詩の引用から始まるといってよい。つまり,主人公ハンバート・ハンバートは,幼なじみのアナベルを亡くし,その面影にこがれるある日,ロリータと出会うのである。
 しかし,ハンバート・ハンバートをポーの直系の子孫と見なすことには抵抗を感じる。
 第一に,ポーやスウィフトやキャロルが現実に性的不能者であったか否かは別として,ハンバート・ハンバートはロリータの母親,そしてロリータ当人と肉体的関係を持つことができた,ということ。そして肉体関係そのものにはなんら嫌悪を感じていないように読めること。そしてもう1つ,ハンバート・ハンバートには決定的に欠ける(いや,満たされた?)要素があるように思われる。

 それは……。

2001/09/22

独身者の機械 その四 ジョナサン・スウィフトの結婚

Photo_2【「スウィフトとヘスタは実の兄妹だ」という噂を流したのはスウィフト当人だ,という噂】

 『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルは,少女たちとのリアルなセックスの代わりに,言葉遊びや論理のアクロバットに没頭したのではないか,ということを述べた。もちろん証拠があるわけではない。邪推と言われればそれまでである。
 だが,文学史のところどころには,これとどこか似た匂いのする,奇妙な記録が散見する。

 今夜取り上げるのは,『ガリバー旅行記』の作者ジョナサン・スウィフト。そう,あの,小人の国(リリパット国),巨人の国(ブロブディンナグ国)を訪ねた船乗りの物語の作者だ。ラピュタ,ヤフーという言葉の発明者もこのスウィフトである。

 前もってお断りしておくが,烏丸は『ガリバー旅行記』を(ジュブナイルを除いて)きちんと読んだことがない。完訳本はぱらぱらめくったところで,放り投げてしまった。さらに,これからご紹介する逸話も,あちらこちらで「~と言われる」「~という説もある」と書かれたものから適当に抜粋したもので,根拠があるのかと聞かれればきっぱり「知らない!」とお答えするしかない,そんな程度の話である。

 ジョナサン・スウィフトは,1667年にイギリス,ダブリンで生まれた。父親は彼が生まれる前に死に,母親にも見捨てられて乳母の故郷で孤児同然に育つ。のちのロンドンで学んで聖職者となり,一方で風刺的な作品を発表し始める。司教になることかなわず,ダブリンに引きこもって『ガリバー旅行記』(1726年)などを執筆,1745年,精神を病んで死去。

 彼は29歳のとき,生涯愛し続けるヘスタ・ジョンソン(愛称ステラ)と知り合う。このとき,ステラは15歳(別の資料によると,スウィフト20歳,ステラ8歳のとき,とある)。
 スウィフトは,ステラと相思相愛の仲にありながら,決して手を触れず,彼女と会うときは必ずステラの乳母を同座させたという。のちにステラの精神を安定させるために,名目だけの結婚式を挙げたとされるが,それにもかかわらずステラは死ぬまで自分のことを「老処女」と呼んだ。

 かと思えば,ステラと出会ったのとほぼ同じころ,スウィフトはジェイン・ウェアリングという女性に求婚している。そして,4年後にやっとジェインが同意したとき,彼は「君に僕との結婚生活が耐えられるものか」と絶縁状を送りつけている。

 のちには,エスタ・ヴァナムリー(愛称ヴァネッサ)という女性と知り合っている。ヴァネッサはスウィフトに一途な愛を訴えるが,ステラとの三角関係に心身ともに消耗し,胸を病み,スウィフトがステラと結婚式を挙げると力尽きて死んでしまう。
 スウィフトは手紙の中でステラを少年のようにYoung Sirと呼び,ヴァネッサを両性具有者(ヘルマフロデイトス)のごとく描いている。

 ……くどいようだが,どこまで本当のことだかはわからない。
 ただ,ここに見受けられるのは,異様なばかりに女性を意識し,そのくせ,肉体的接触を極端に嫌悪する精神だ。「フロイト風にいえば,異性との肉体関係によるエロティシズムの成就に対する根深い抑圧,つまり強烈なナルシシスムの傾向があったことが,そこに暗示される」(高橋康也)。

 スウィフトの書いたものとキャロルの書いたものとの間に見受けられる共通点についても,少しだけおさえておこう。
・ガリバーは訪ねる国によって巨人扱いされたり小人扱いされたりし,アリスは飲む薬によって巨大になったり小さくなったりする
・スウィフトがステラに宛てた手紙,キャロルが少女たちに宛てた手紙の中には,アルファベットを重ねたりはぶいたりした一種の幼児語が用いられている

 そして,スウィフトもキャロルも異常なばかりの潔癖症,整理好きだった。これは,肉体的,性的なものへの嫌悪と結びついていたのかもしれない。

 そして,少女との結婚といえば……。

2001/09/19

独身者の機械 その三 ルイス・キャロルの言葉遊び

54【木(TREE)から森(WOOD)を得よ】

 Googleなど,インターネットの検索エンジンで「聖書」「次いで」「世界」「読まれる」といったキーワードで検索を実行してみると,聖書に次いで世界で最もよく読まれている本は,たとえばドイルのシャーロック・ホームズ譚であったり,アラビアン・ナイトであったり,グリム童話であったりすることがわかる。けっこういい加減だ。コーランは候補にあがっていない。聖書に次いでコーラン,では剣呑にすぎるためだろう。
 『不思議の国のアリス』は,そんな,聖書に次いで世界で二番目によく読まれている書物の1冊である。

 というわけで,テロ事件についての考察から一転,再びルイス・キャロルの話に戻ろう。
 ずいぶん極端な,と思う方もおられるかもしれないが,実は頭の中ではそんなに離れた場所にあるわけではない。
 たとえば,こういうことだ。
 今回,ハイジャックされた旅客機は,2機が世界貿易センタービルへ,1機が国防総省へ,残る1機は墜落した。いずれも訓練されたテロリストが自ら操縦したものだという。自爆テロである。
 信じられない,と我々は簡単に口にするが,その我々の父親,あるいは祖父の世代,ほんの50数年前にカミカゼアタック,特攻を敢行したのは日本であって……という方向に話を進めるのが今日の目的ではない。少しだけ文章を巻き戻そう,自爆テロは信じられない,オーケイ,その通りだ。
 では,我々,ないし我々の周辺の者が,ときに舞い上がって(もしくは追い詰められて)口にする,「死んでも離さない」「死んでも許さない」「死んでも守る」,これらの言葉は一体何なのだろうか。
 ただの形容詞,ただの嘘八百,ただの勘違い,もちろんそれはそうなのだけれど,それを口にするほうも耳にするほうもかぁっと舞い上がるのなら,それはリアルとは別の次元で言葉が勝手に躍動するということではないか。言葉は本来リアルな事象と1対1,いわばリアルの影であったはずなのに,どこかで突然リアルな事象以上にリアルなものとして機能してしまうのではないだろうか。

 ルイス・キャロルが少女たちをこよなく愛し,コスチュームプレイ,あるいはヌード写真を撮影し,詩や物語を捧げ,やがて少女たちが大人の兆候を呈するやきっぱりと別れを告げた……ということは先にも簡単に紹介した。
 彼が金色の昼下がり,ピクニックのボートの上でアリス・リデルに語った物語をのちにまとめたもの,それが『不思議の国のアリス』だが,一読すれば明らかなように,この物語の面白さ,複雑さは,同じ子供向けロングセラーでも,たとえばグリム童話収録の物語などとはまるで次元が異なる。それは,単に登場人物の設定や置かれた状況,それに対するアクションや結果といったものではなく,それが書かれた言葉,つまり物語を物語る行為そのものの問題なのである。

 『アリス』に限らない。ルイス・キャロルが少女たちに書き送った詩や手紙には,たとえば次のような言葉遊びが含まれている。

○アクロスティック
 「折り句」ともいう。各行の頭の文字に人名や言葉を配置すること。たとえば,詩の各行の最初の1文字を続けて読むと少女のファーストネーム,最後の1文字を続けて読むとセカンドネームになる。

 日本でいえば,在原業平の
  からころも 着つつ馴れにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
に「かきつばた」が折り込まれている,そんな感じだろうか。

○タブレット
 キャロルが少女たちのために考案した言葉遊びで,ロンドンの女性週刊誌「ヴァニティ・フェア」に懸賞クイズとして掲載されて話題になったもの。ある単語の綴りを1文字ずつ変えて所定の別の単語に到達させる。たとえば,

  お茶を熱くせよ
    TEA
    sea
    set
    sot
    HOT

  涙を微笑みに変えよ
    TEARS
    sears
    stars
    stare
    stale
    stile
    SMILE

 ほかにも「ライオン(LION)から子羊(LAMB)を救え」「うなぎ(EEL)をパイ(PIE)にせよ」「4(FOUR)を5(FIVE)にふやせ」などなど。

○アナグラム
 キャロルの作品には,言葉や文章の文字を並べ替えてほかの言葉に変えるアナグラムが頻繁に登場する。たとえば

  WHERE MABEL?(メイベルはいかが?)
    ↓
  WE BLAME HER.(どうも感心しない)

といった具合。
 ミステリ作家「泡坂妻夫」のペンネームは本名の「厚川昌男」のアナグラムだし,今回のテロ事件の黒幕とも言われるオサマ・ビン・ラディン氏の名前Osama Bin Ladenを並べ替えると「a lebanon midas」(レバノンのミダス王)にして「abased lion mam」(失墜した獅子)になるのだそうだ。
 本や人の話からの引用ばかりでは説得力に欠けるだろうから,日本語のアナグラムといえばやっぱりアレだよアレ,ということでおなじみ「いろは歌」を1つ即興でひねってみよう。

  アリス お茶会へ
  笑え 猫を
  ほっとけ そんな暇 無駄さ
  見ろよ 夢も 失せて
  不思議の国は 濡れる

 ほかにも,キーワードを利用したアルファベット暗号や,絵文字を組み込んだ手紙(dearの代わりに鹿,Iの代わりに目の絵が書かれる,など),文字で形を描いたアポリネールばりのカリグラフ,ダ・ヴィンチふうの鏡文字など,キャロルの言葉遊びはその執拗さにおいて少々常軌を逸している。まるで文章や単語をアルファベットレベルまで解剖し,切り刻み,手足を入れ替え,陵辱しつくすような……。

 もちろん,ルイス・キャロル,というよりチャールズ・ラトウィジ・ドジソンは,ビクトリア朝期の極めて冷静な常識人であり,少女たちとのお付き合いにはきちんとその両親の了解を得,ヌードを撮影するときにも必ず母親を同伴させている。
 つまり,ナボコフの『ロリータ』のハンバート・ハンバートや埼玉の幼女誘拐殺害事件のM君や最近のレイプビデオ好き手錠教師らと明らかに異なるのは,チャールズ・ラトウィジ・ドジソンは決して少女たちとのリアルなセックスをもくろんだのではなく,そういったリアルな行為の代わりに,言葉遊びや論理のアクロバットがあったのではないか,ということである。

 結論を急ぎすぎている? そうかもしれない。しかし,まだ旅は続く。

2001/09/14

[考察] アメリカ同時多発テロ事件によせて - 2

 たとえば,大半の方が言葉としてしか記憶していないかもしれない「ユーゴ空爆」は,NATO軍(といいつつ,実質大半が米軍)によって,国連安保理事会の召集も,経済制裁という通常の手口も踏まずに行われ,民間人を多数含む数千人の死者を出した。NATO軍側の死者は,ゼロである(*1)。
 ユーゴスラビアの内紛が捨て置いてよいものだったかどうかは別として,この手続きのすっ飛ばし加減,この数字は国際紛争のあり方としてどう考えても尋常でない。

 いや,それなら,過去のさまざまな紛争へのアメリカの介入は尋常だったのか。正しい情報の収集と公開,戦闘を避けるための最大限の努力を経たものだったのか。
 そもそもそれは,本当にその誰かの平和と独立のためだったのか。

 先のニューヨーク,ワシントンへのテロ攻撃は,数日経ってオサマ・ビン・ラディン氏が関与した,ということにほぼ確定した(らしい)。それは事実なのかもしれない。間接的な証拠は少なからずあるのだろう。しかし,では,なぜ彼らが生命を賭して反米テロに邁進することになったのか,それについて十分納得のいく説明をしてくれた報道はあったか。
 今日の夕刊紙の見出しを見ても「悪魔の軍隊」「狂信的」「テロ支援 悪のネットワーク」……まるで魔女狩りの標語である。よしんば彼らが狂信的なテロ集団だとしても,レッテルを貼る前になぜそのようなテロ集団が登場したかについての歴史を(たかだか数十年程度)さかのぼる必要はないだろうか。

 言うまでもないが,テロは絶対に許されるべきでない。ことに一般市民を巻き込んでの無差別テロは,無法,論外と口にするのもいまいましい。
 しかし,過去の多くの戦争において,勝者は常に敵を「超一級の悪」呼ばわりしてきたこともまた忘れてはいけない。
 大辞林によれば,テロルとは「あらゆる暴力的手段を行使し、またその脅威に訴えることによって、政治的に対立するものを威嚇すること」とある。だとするなら,たとえば冒頭で紹介したNATO軍による空爆は,はたしてテロでなかったと言い切れるのだろうか。

 ジェット機がビルに追突する瞬間や倒壊するビル,逃げ惑う人々,たむけられた花束……これらの目にインパクトの強い報道ももちろん大切だが,アメリカが今回「何をされた」かだけでなく,事件(戦争)に至った過程,正確な経緯を明らかにする努力も大切だ。
 まず,情動に流されず,何が真実かを見極める努力をしたい。簡単に真実が明らかになるなんて甘いことを期待しているつもりはない。正解に見えた答えが狂信に結びつく可能性だってある。だが,テロリストにとってコロンブスの卵と言えるだろう今回の大成功は,今後,さらなるテロルと報復の連鎖を生み続けるに違いない。そんな連鎖は,どこかで断たれねばならない。

 さて,案の定というか,ブッシュ大統領の「報復」宣言に対し,小泉首相の「対米支持」意思表示が英仏独3か国に比べて後手後手に回ったという批判がなされているらしい。判断,意思表示に遅れるのは為政者としては確かに問題だが……。
 かつて「パールハーバー」「カミカゼアタック」を実践したのが日本なら,「戦争を終わらせるため」という名目の元に2度にわたる原爆投下を経験したのもまた日本だ。戦争の矛盾,悲劇を経て平和憲法を掲げる日本には,日本にしかできない平和へのアプローチがあるのではないか。単に「報復」に賛成するだけが同盟国の務めではないように思われるのだが,どうだろう(*2)。

*1……コソボに駐屯する兵士に白血病や癌が多発して話題になった。これはNATO軍が対戦車で大量に使用した劣化ウラン弾のせいではないかという指摘がある。だとすると,それが投下されたイラク,ボスニア,コソボの住民の健康ははたしてどうなっているのか。これが,「人道のため」の「正義の戦争」の実態である。

*2……どうだろう,とカッコつけたところで,簡単に代案が出るなら誰も苦労はしない。とりあえず手元にある情報についてだけでもない知恵絞り,マスコミ報道に流されるのだけは避けたい。

2001/09/12

[考察] アメリカ同時多発テロ事件によせて

 一般市民を巻き添えにするテロが許しがたい行為であること。
 今回の事件で犠牲になった方々に深く哀悼の意を表すること。
 事件がこれ以上拡散しないこと,世界の恒久的な平和を心から願うこと。

 これらについてはすでに多くの会員の方々も書かれているとおり,いわば自明の理であり,全く,何1つ異論はない。
 ここでは少し別の視点から,2,3指摘しておきたい。

 第一に,今回の事件を「思いがけない」「まるで戦争」と表現するのはどうかという点だ。
 第二次世界大戦後のアメリカ合衆国の外交を俯瞰すると,実は再三にわたってどこかの紛争に加担してきたことがわかる。朝鮮戦争,ベトナム戦争,湾岸戦争などなどなど。この10年間に限ってもイラク,スーダン,アフガニスタン,ユーゴスラビア,要するにひっきりなしにどこかに爆撃を繰り返してきたわけだ。
 これらの多くは国連軍として,あるいはNATOとの合同爆撃で,その都度アメリカ側は「紛争調停」「民族独立」「国際平和」を名目としてきたわけだが,逆に近代以降,「平和」あるいは「民族独立」を旗印としない戦争など存在しない。
 要するに,この50年間に限っても,世界中のあらゆるいざこざに口をはさみ,圧倒的な兵力をもってそれを制圧しようとしてきたのがアメリカという国なのである。
(前もってお断りしておくが,その是非や責任を問いたいわけではない。)
 つまり,アメリカ国民がどう認識していたにせよ,アメリカという国はほとんど常にどこかと紛争状態にあったのであり,アメリカ本土が攻撃を受けなかったのは1に攻撃力,防衛力に差があったこと,2に東西冷戦が世界規模の紛争を抑止する構図があったためである。
 単純な話,アメリカ軍がイラクやユーゴスラビアを空爆した際に報復としてワシントンやニューヨークが空爆されなかったのは,イラクやユーゴ側にそれだけの力がなかったためにすぎない。

 昨日の攻撃に対してアメリカ当局が非常事態宣言を発令し,内外のアメリカ軍が最厳戒態勢に入ったという報道があったが,アメリカが継続的に紛争の当時者であったとみれば当然のことだろう。また,パールハーバー以来の奇襲,という認識もおかしい。奇襲ではない。単に,これまでたまたま戦闘の現場がアメリカの外にあっただけなのだ。

 第二に,宗教のからむ紛争には,第三者の理屈は一切通用しない。
 アメリカは「世界のリーダー」を自称し,他国の紛争において自らの立場を「正義」と公言する。だが,別の宗教,別のイデオロギー上に成り立つ国家,集団にとって,それが同様に「正義」である保証などまるでない。
 中近東,アフガニスタン,東欧等に派兵し,爆撃をした,ということは,少なくとも紛争当事者のどちらか一方にケンカを売った,ということだ。ケンカを売っておいて,相手がいつまでも殴ってこないと思うなら,それはそう期待するほうがおかしい。
 保安官を自認するなら,相手が撃ち返してくること,背後から撃たれる可能性だってあること,そのくらいの想像力は必要だろう。ましてや,相手も常に自分が保安官のつもりなのだ。

 宗教がらみの紛争には,もう1つの大きな問題がある。
 たとえば経済が焦点であるなら,損得の限界点を越えた時点で紛争はゲームセットである。しかし,宗教は現世の利益,いや生存すら超越する。信長が一向宗に手を焼いたのは彼らが死を恐れないためだし,今回の自爆攻撃も退路を想定しないからこそ防ぎがたかったといえる。
 塩野七生が語っているが,外交戦術にたけたヴェネチアが失敗したのは,必ず,相手国が自分たちと同程度に外交を深読みするだろうと勘違いしたときだったという。アメリカの腕力は認めるが,相手のことをどれだけ正確に把握しているかといえば,ときに疑問だ。

 第三に,今後の推移は全くのところ見当がつかないが,日本はアメリカの同盟国である,ということだ。日本側の意識がどうであれ,周囲は連帯保証人のハンコを押した国,とみなす可能性が高い。
 テロ許しがたしという道義的な問題は別として,反米テロが日本国政府あるいは日本国民に向かっても,それはテロリストからみてそれほど筋違いではない。そもそもテロというのは,必ずしもターゲットのダメージを正面から狙うものではない。それは今回,民間機で民間ビルを攻撃した事実からも明らかだろう。

 とりあえず,しばらくは(日本国内においてさえ)何が起こっても驚かない程度の覚悟はしておいたほうがよさそうだ。

 一夜が明け,14時間の時差があるニューヨークは朝を迎えたころだろうか。
 事件がこれ以上広がらず,1人でも多くの方の命が助かることを心から祈りたい。

2001/09/10

独身者の機械 そのニ 『少女アリス』 沢渡 朔 / 河出書房新社

68【あなたにも,チェルシー】

 というわけで話題がたとえばミリオン出版『リトル・プリテンダー』,石川洋司のソフィー,清岡純子のプチ・トマト,SCORPIONSのVIRGIN KILLERジャケ写……と続けば,一部の方々にはさぞや喜んでいただけるのだろうが,あいにくロリータヌード写真集について書くほどの知識もストックもない。ソフィーは新書サイズのを購入した覚えがあるな,とか,せいぜいそんな程度。

 そもそも,1980年頃に全盛を誇ったロリータヌード写真集の大半は,所持することが剣呑なわりにはどうも焦点が定まらず,楽しくない。もともとは剣持加津夫あたりがヌード写真の可能性を拡大しようと始めたものらしいが,のちに性器が無修正で見られると舞い上がった買い手によってブームに,が実情だったのではないか。要するに,ヘアさえ写っていれば○○や**の裸でも喜ぶかこのオヤジ,と似たり寄ったり。
 もちろん,買い手には真性の幼女フェチも含まれていたのだろうが,このロリータコンプレックスとか幼女嗜好とかいうものの正体がはっきりしない。「大人の女ではもう全然ダメ」なのか「小さくて可愛いのがタマラナイ」程度なのか,そのあたりが判然としないし,ロリコンという言葉のもととなったウラジミール・ナボコフの『ロリータ』を読み返しても,主人公ハンバート・ハンバートは当のロリータと再三セックスを営み,妊娠さえさせてしまう。幼女というよりたまたま年齢の低いマノン・レスコーといった感じだし,ハンバート・ハンバートにも病的な印象は希薄である。
 ましてやここ数年のいくつかの事件のように,単に大人の女性とコミュニケートできない,社会性に未成熟ないし欠損があるとしか思えない輩が自分より弱い相手として少女,幼女を弄ぶ,というのにいたっては最低かつ論外である。

 露出度を競い,法令改正とともに消えていったロリータヌード写真集群の中で,他と一線を画す『少女アリス』は,写真家の沢渡朔がイギリスで出会った8歳のモデル,サマンサをフューチャーし,『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』に重ねた幻想的な世界を展開したもの。ヌード写真は数葉にすぎず(現行の法令下ではそれでも十分問題になりそうだが),全体としては「アリス」へのオマージュ,工芸品の色合いが強い。
 サマンサ=アリスが日本で最初に公開されたのは,1973年10月の西武百貨店「不思議の国のアリス」キャンペーン。週刊ポスト誌(1973年47号)がそれを受けて巻末グラビアに写真を掲載した。
 同年12月に河出書房新社から発行された写真集には滝口修造と谷川俊太郎が詩を贈り,ルイス・キャロルの断章や手紙を高橋康也が訳し,帯には種村季弘が献辞を添えている。
 さらには青土社「ユリイカ」誌がサマンサを表紙に登用し,ことに1974年7月臨時増刊「オカルティズム」はその内容とあいまって独特の雰囲気を醸し出した。
(のちにサマンサは日本のお菓子のテレビCMにも登場した。「あなたにも,チェルシー」というのがそれである。)

 要するにサマンサは,1970年代のある時期(それはたまたま何度目かのシュルレアリスムブーム,ルイス・キャロルブームと期を一にしていたのだが),この国のシュルレアリストや文学的オカルトファンの間で由緒正しき彼らの「アリス」として扱われたのである。それはつまり,彼らがビクトリア朝期の一数学者の残した作品を,単なる子供向けの童話でなく,自らと同じベクトル,同じ臭いを発する装置として捉えていたことの証しにほかならない。

 では,ルイス・キャロルが彼らを引き寄せた要素とは,いったい何だったのだろうか。

2001/09/09

独身者の機械 その一 『謎の怪奇現象を追う 科学を超えた世にも不思議な事件ファイル』 北岡 敬 / 河出書房新社 KAWADE夢文庫

211【ロリコンヌードとコスプレの大先輩の話】

 赤坂の小さな書店の地下に向かう階段には,この夏ささやかなホラー文庫コーナーが設けられた。心霊体験,霊の世界,呪いと怪奇……聞いたことのないライターが書き散らしたような,稲川本が権威に見えるような,いかにものB級本ばかりだ。
 夏の初めからずっと気になっていた1冊があった。
 新刊というわけでもない,本の作り,タイトルからしていかにもチープで,ぱらぱら開いた限りでもとくに必要とは思えない気配だった……が,7月,8月,そして9月とその書店に足を向けるたびにその本は存在を主張し,手に取って,レジに運んで,と購入をせがむのだった。

 その誘惑に抗しがたく,結局購入してしまったのだが,電車の片道で読み終えてしまいそうなその内容は他愛ないと指摘するも虚しい,根拠の怪しい伝聞情報ばかりだ。3冊挙げられた参考資料の1冊がリーダーズダイジェスト社の『世界不思議物語』というだけでご想像いただけるのではないか。
 たとえば,こんな具合。
・1950年10月,ロンドンのディスコで突然19歳の女性が炎を噴き出して燃え上がった
・北大西洋,激しい嵐が吹き荒れる中,定期客船シティ・オブ・リマリック号の乗客のもとに自宅にいるはずの妻が訪れた(年代不明)
・アボリジニーの間では,死の歌を歌いながら人間かカンガルーの骨を敵に向けて指すと,見えない矢で人を殺すことができると伝えられている
・1889年,万国博覧会に沸くパリで,病気で倒れた母親の薬を取りに病院に向かった娘が戻ってみると母親の姿はなく,ホテルの支配人も医者もそんな女性は最初からいなかったと言った
・1945年,チャールズ・ウォルトンという老人が熊手で首を刺されて殺されたが,これはおそらくイギリスで行われた最後の魔術の儀式による犠牲と思われた
などといった2,3ページの記載が全79話。オーストリア皇太子が暗殺時に乗っていた呪われたオープンカー,ケネディ暗殺の予言など,有名な史実にかかわる話もある。いずれも怖くもなんともない,眉唾もいいところで,たとえば1845年,ロシアのリボニアで女教師が同時に二箇所に存在したという話で,その証人は「決して嘘を言ったりすることはない」「しごくまじめな生徒たち」なのだが,その女教師の名前も不詳,「マダム・ザーゲ」と呼ばれていたが結婚していたのかどうかもわからない。従兄妹の友達にでも聞いたのか?

 話を戻そう。
 では,なぜそんな本が気になったのか。
 表紙の怪しい少女の顔の由来を知っていたからだ。

 この本のどこにも表紙の少女について触れていないが(カバーイラスト担当者がどこかからコピーしてきて黙って使ったのだろう),この写真の少女の名はモード・コンスタンス・マルベリー。
 元の全身像写真の中で彼女は幼い胸をさらし,裸足の両足をこちらに投げ出している。インターネット上で公開したら少々物議をかもしそうな幼女ヌード写真だ。
 撮影者は幼い少女たちを愛し,ともにピクニックに出かけ,手紙を書き,詩を送り,少女が大人に近づくと決然と別れを告げる。
 彼が撮影した少女たちの写真は多数残っているが,それらの写真の中で少女たちのある者は憂いをふくんだ目で遠くを見やり,ある者は赤頭巾や中国娘や「聖ジョージと竜」に扮し,ある者は裸体をさらして撮影者をじっと見つめている。

 撮影者は牧師の家に生まれオクスフォードに数学を教え,家中に温度計を吊るして均一な温度が保たれるように暖炉の火を調節した。
 その撮影者の名はチャールズ・ラトウィジ・ドジソン,またの名をルイス・キャロル。

2001/09/05

[回顧] ホームランバッターについて

 今度はホームランバッターの話。

 ところで烏丸の言うホームランバッター,それはたとえばシーズン40本以上のホームランを打つこと5回を数えた全盛期の山本浩二,申しわけないがああいったものではない。
 叱られることを覚悟であえて言おう,ホームランバッターは,ジャストミートしたなら間違ってもファーストに向けて慌ただしく走り出したりしてはいけない。ましてや,振り切ったはずのバットが走り出すときに体の前に戻る原辰徳などもってのほか。

 そうした中距離ヒッターの打球がたまたまフェンスを越えるのではない,本当のホームランバッターの,本当のホームランというものが,ある。

 たとえば,ロッテで実働11年,通算283本のホームランをかっ飛ばしたレロン・リー。彼のバックスクリーンに叩き込むホームランをご記憶だろうか。
 ピッチャーの指からボールが離れる。バットが始動,ヘビーな体重がバットにかぶさるようにぐんとやや下に移動する。
 ぶ。ごん。
 彼は走らない。なぜなら,自分のバットがその角度,そのタイミングでボールをとらえたなら,スタンドに届かないはずはないのだ。しかも打球の方向はセンター正面。ファールはない。だから,もう,バッターボックスでの彼の仕事は終わっているのである。彼はボタンもちぎれよとばかりに胸を張る。それだけのことをなしとげたのだから。後は仕上げとしてゆっくりとバットを置き,ただ声援を受けるためにダイヤモンドを一周する。

 これこそがホームランバッターの仕事ではないか。

 たとえば,いしいひさいちの四コママンガですっかりコミカルなキャラクターとされてしまった田渕幸一。彼のホームランは,夢のように美しかった。打球は重力を無視するかのように高く舞い上がり,彼の左手を離れたバットはバッターボックス左後ろに軽やかな弧を描く(近鉄の中村紀洋がやはりホームランの直後にバットを高く飛ばすが,あれはスウィングの結果としてバットが飛ぶわけではない。一種のパフォーマンス,いうなればガッツポーズと同じ次元のもの)。
 田淵は阪神時代に一度ホームランキングとなり,王の連続記録を阻んでいるが,ホームランとしての美しさは,多少太り気味で体のキレが悪くなった西武時代のほうが,手や足が無用に動かないだけさらに極まったような気がする。

 あるいは,門田博光。
 決して上背はないが腰を据え,バットは高く構え,スイングに入るや重い鉄独楽が高速に回転するごとく腰から上を回し,さらにその外に大きな弧を描くバットは球場で遠く見ていても空気を焦がすようだった。
 たとえば近鉄の左腕エース鈴木啓示との対戦。鈴木のピッチングフォームは,テレビで正面や真後ろから見るのと違って,球場で見ると腕が前後に実にゆったりとした大きな軌跡を描くのだが,その軌跡からムチの先が飛ぶように放たれたストレートを,また大きな弧,高速回転する円形ノコギリのような門田のバットが切る瞬間。高い音を残すファウルチップに対してすら金を払う価値があったように思う。ことに,アキレス腱の怪我から復帰した1980年,大阪球場でのオールスター戦で福士敬章から打ったホームランは圧巻だった。

 また,実働16年で278本と,通算のホームラン数ではさほどでもないが,強烈に記憶に残っているホームランバッターの一人,それが大洋の田代富雄である。全盛期の田代は,日本人としては数少ない,本当に胸を張って打球の行方を見送ることの出来る選手だった。あの横浜球場の青く高いフェンスを悠々と超えていった打球。彼のホームランシーンだけを集めたビデオが手に入らないものか。

 一方,いまだにうまく説明がつかないのが落合博満だ。彼はホームランバッターではない。少なくとも,全打席,より遠くへボールを飛ばすことだけを考えているわけではない。
 彼が,遅い入団の数年後,オールスター初出場ながらパの4番に抜擢されたとき,烏丸はやはりビールを飲みながらテレビを見ていたのだが,重いゴムの固まりで後頭部を殴られたような気がしたものだ。
 そのときの彼の打席がどういう結果に終わったのかは記憶にない。しかし,バットを立てた彼は,ブラウン管の中に自分のストライクゾーンを四角く描いてみせた。そこは明らかに空気の厚みが違い,ボールがその中を通過するとき,彼の強力なリストは,あたかもそのストライクゾーンそのものが巨大なラケットであるかのように,そのボールをぐいんと弾き返すのである。右方向へのホームランも打てる,と当時の新聞は評価していた。当然だろう。巨大なラケット面を作り,角度を調節しながらそれを強く振り抜くことができるのなら,打球の飛ぶ方向や角度など自由自在である。

 その後,西武球場で生の落合の打席を見たときに,その衝撃はより大きなものに変わった。その日の彼は,西武の,誰だったかいわゆるローテの谷間のピッチャーの継投に,結局4タコ,つまり4打数ノーヒットに終わった。しかし。
 その日の最後の打席,彼は初球のストライクを見逃し,外角に逃げるボールを見逃し,それから,3球目の内角球にためらいなくバットを出した。
 決して強い振りではなかった。王や門田のそれのように,「何々大学工学部で調べたところ,スウィングのスピードはこれこれこんな」というような振りではないように思われた。しかし,そのスウィングは明らかに「このあたりに来るボールをこのタイミングでこう払えば,レフトスタンドのあのあたりに入るな」という振りだった。1塁側の内野席から見ていた烏丸には,その瞬間,落合のイメージ通りの軌跡を描く打球,そしてそれを避ける者,追う者で揺らぐレフトスタンドの一角が見えたような気がした。
 実際には,落合のバットの上をかすめた球は高く舞い上がったファールフライで,キャッチャーは苦もなくそれを捕球した。苦笑いを浮かべ,バッターボックスを去る落合が最後にピッチャーに見せた目は,遠くからでも「ちゃんとお前さんが自分で狙ったところに投げてくれないと,困るな」と読めた。

2001/09/03

[紹介] 『プロ野球不滅のヒーローたち 豪打列伝』ほか 文春文庫ビジュアル版

351 野球に限ったことではないが,「楽しむ」と一口に言っても,その楽しみ方はいろいろだ。
 よく,テレビ観戦では駄目,野球場に行かなければ,というようなことが言われるが,それを言うなら見ているだけなんて最低だ,ライトの8番でもプレイしてこそ楽しい,という考え方だってある。元地区大会準優勝ピッチャーにカーブ抜きで4タコ食らうも(うっきーっ!),居酒屋で記録博士を気取るも,楽しければそれで善哉。

 さて,同じ野球観戦にも,1球の投球,打球を見つめる,2~3時間の試合展開に手に汗握る,1年間のペナントレースに一喜一憂する,そして数十年にわたるチームや選手の浮沈に祇園精舎の鐘の音,などなど,さまざまな切り口がある。

 そして膨大な数の投球,打球の中には,ペナントレースの流れに大きく棹をさす一瞬,一人の選手の人生を変える1プレイ,というものが必ずある。そして,それを発見するのがテレビ桟敷の野球ファンの大きな楽しみの1つだ。
 そういった勝負の分かれ目,人生の分かれ目に着目するスポーツジャーナリズムは決して多数派ではない。だがそれは,少なくとも,ただ勝ち負けにこだわり,(現場の前向きな姿勢としてならともかく)現状を把握せずにメイクドラマ,ミラクルアゲインとのべつ騒ぎ立てるよりはずっとよい。

 というわけで,そういった一瞬,1プレイにこだわって,鋭いカメラアングルと丁寧な取材を元にさまざまな選手を取り上げたのが,文春文庫ビジュアル版の一連の野球シリーズである。なにしろ山際淳司の「江夏の21球」でも知られる雑誌Numberのスタッフによるものだから(*印は文藝春秋編),内容の濃さはたいへんなものだ。また,スポンサーや視聴率に気を遣うテレビ,新聞と違って,讀賣やセ・リーグ偏重の気配が(逆に言えば妙な平等主義も)ないのが嬉しい。
 この15年間に発行されたラインナップは以下の通り。

『プロ野球不滅のヒーローたち 豪打列伝』(1986/05発行)
 長島茂雄,王貞治,田淵幸一,藤村富美男,野村克也,大杉勝男,長池徳士,張本勲,中西太,マニエル ほか全37人

『プロ野球不滅のヒーローたち 豪球列伝』(1986/10発行)
 稲尾和久,平松政次,村山実,金田正一,足立光宏,尾崎行雄,山口高志,沢村栄治,外木場義郎,江夏豊 ほか全30人

『スーパーグラフ 清原和博VS桑田真澄』(1987/05発行)

『プロ野球意外史 助っ人列伝』(1987/10発行)*
 バース,リー,マルカーノ,スペンサー,ブーマー,トマソン,ソレイタ,シピン,ライト,郭泰源 ほか全28人

『プロ野球乱闘史 暴れん坊列伝』(1988/04発行)*
 東尾修,別所毅彦,クロマティ,江本孟紀,江藤慎一,アニマル,大沢啓二,星野仙一,バッキー,スペンサー ほか全24人

『プロ野球不滅のヒーローたち 功守功走列伝』(1989/03発行)
 吉田義男,高木守道,広岡達朗,山下大輔,柴田勲,広瀬叔,辻恭彦,大矢明彦,福本豊,藤瀬史朗 ほか全37人

『プロ野球不滅のヒーローたち 魔球伝説』(1989/09発行)
 村田兆治,山田久志,西本聖,松本幸行,藤沢公也,小林繁,安田猛,高橋一三,永射保,杉浦忠 ほか全36人

『熱闘!プロ野球三十番勝負』(1990/08発行)
 天覧ホーマー,長嶋デビュー,王756号,阪神のバックスクリーン3連発,ブライアント4連発,王が山田からサヨナラ3ラン,上田抗議に大杉2発,江夏9連続奪三振 ほか全30試合

『さまざまなヒーロー伝説 豪打列伝2』(1991/08発行)
 矢沢健一,有藤通世,若松勉,水谷実雄,落合博満,加藤英司,山本浩二,衣笠祥雄,門田博光,掛布雅之 ほか全29人

『プロ野球ヒーロー伝説 みじかくも美しく燃え』(1992/03発行)
 権藤博,三井雅晴,新美敏,木田勇,塩瀬盛道,安藤元博,久保征弘,堀本律雄,佐々木信也,木暮力三(色川武大のエッセイより) ほか全28人

『野茂&イチロー』(1996/04発行)

 超一流を集めた『豪打列伝』『豪球列伝』は逆にいえばおなじみのエピソードが少なくなく,なんといっても読み応えがあるのは『暴れん坊列伝』『功守功走列伝』『魔球伝説』『豪打列伝2』あたりだろうか。
 文春文庫ビジュアル版の多くは残念ながら現在新刊としてはなかなか入手できないようだが,もし手にする機会があったらぜひご覧いただきたい。プロ野球ファンなら,絶対損はしない。

2001/09/01

使用権フリー短編集? 『天狗の落し文』 筒井康隆 / 新潮社

581【ありがたく思え。】

 添付画像にご注目いただきたい。「盗用御自由」なのだそうだ。
 その上は「アイディアが溢れすぎる天才作家はついに決意した」,下には「前代未聞の新形式文学か? 絢爛豪華なネタの玉手箱か? 全356編+∞、文学史上初の使用権フリー短編集!」。

 では,本書収録の掌編を自作と偽ってWeb上で配ってもかまわないのだろうか。全ページ取り込んで本の形にして売ってもかまわないのだろうか。
 わからない。「盗用御自由」「使用権フリー」とあるのは帯だけで,本の中には二次利用についてなどどこにも書かれていない。ちなみにアイディアやトリック,標語の類については,著作権法は保護の対象としておらず,つまりこの惹句はあってもなくても結果は同じ,夢日記や思いつきのダジャレといったちゃっこい掌編を1冊にまとめる際の,テイのいい煽り文句に過ぎない。

 さて,肝心の内容だが……二重の意味でがっかり,というか物悲しい気分に陥ってしまった。

 まず,フリーデータ集として。データ集の質とは,もちろん,文例なりイラストなり写真なりのクオリティが高いほうがよいのは言うまでもないが,高ければよいというわけではない。汎用性とでも言おうか,1つ1つのデータの用途がなるべく広いことがポイントだ。さまざまな人がさまざまに流用できるようでないと,フリーの意味はないのだ。しかし,本書収録作の多くは,あまりにも「筒井」個人と密着しすぎ,要するに神戸在住の大物小説家で役者もやっていて,というもので,盗用しようにも誰がどう利用するのか,見当がつかない。少なくとも書いている時点では,データ集という意識はなかったのだろうと思う。

 第二に,では,フリーとかデータ集とかいったことを抜きに,純粋に掌編集としてみてどうか。残念ながらそう面白いものではない。なにか,ぼそぼそ雑感を記したもの,オヤジギャグのレベルにすら達しないダジャレ,ショートショートとして熟す前の段階で,練り込んでいない断章,そんな印象のものが多いのである。

 そもそも登場時の筒井康隆は,SF作家の中でも,ロケットやタイムマシンといったハードウェアでなく,トリッキーな言葉遣いや展開で社会や個人の既成概念を覆す,そんな作家だった。さらに,攻撃対象そのものや,武器としての文体を次々に切り替える,作家としての変容が魅力だった。

 しかし,本書に見られる筒井康隆は,「大家」扱いされることに慣れた傲慢で保守的な老人に過ぎない。傲慢はともかく,保守的なところが気にかかる。社会のほうが音を立てて変わってきているのに,当人は同じところで同じ槍を振り回しているようにしか見えないのだ。個人的な日記でも20年前30年前のもののほうがずっと面白かったし,ショートショートについては比較する気にもなれない。かつて世界を「時間」と「情報」の2軸に分け,縦横にスラップスティックな哄笑を撒き散らしてくれた天才はどこに行ってしまったのだろうか。

 少なくとも,一度でもSF作家として鳴らした以上,新しい技術や風俗について,独自の取り込み,解釈,発案をしてほしいものだ。携帯電話文化が気にさわるらしく再三取り上げているのだが,「うるさい」「そんなものより本を読もう」「バイクの運転しながら携帯電話を使って事故」……これではそこらの小言オヤジだ。
 がっかりだな。天狗になってんじゃないの。

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