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2001年8月の15件の記事

2001/08/31

ピッチングの真髄をアンダースローに読む 『野球花伝書VOL2 山田久志 投げる』 矢島裕紀彦 / 小学館文庫

041【そういうのはね,生きない。そういう野球やってるうちは,絶対駄目ですよ。】

 最近,形態模写が宴会芸になるプロ野球選手が希少価値となってしまったのは大変残念なことだ。
 たとえば今日の時点で勝ち星の多いピッチャーはセが藤井,野口,入来(巨),石井一,入来(ヤ),上原,メイ,パが西口,松坂,星野,黒木,ミンチー,前川といった面々だが,ピッチングフォームのシルエットから名前が当てられる選手は何人いるだろう。少なくとも村田(兆)や野茂,小林(繁)のようなわけにはいかないだろう。
 また,最近はオーソドックスなオーバースローが大半で,サイドスローやアンダースローのピッチャーがほとんどいない。確かにまっこうから投げ下ろしたストレートがずばり決まるのもよいが,サイドやアンダーから繰り出される生きた球も野球の魅力の1つだ。たとえ130kmのストレートであっても,ジャストミートできないなら魔球に等しいのである。

 そういうことをきちんと書いた本は,意外とない。野球本の多くは勝ち負けをベースにした懐古本であり,せいぜい記録集であり,ときにはビジネスマン向け精神論,組織論だったりする。いかに打つか,いかに打ち取るかについてプロの技術を詳解した本はめったにない。

 『山田久志 投げる』は,プロ生活20年で284勝をあげた山田久志がインタビューに答える形でピッチングの極意を語った1冊。ビジネスマン,組織論,全然関係なし,バッターについてさえ「自分はピッチャーなので」扱い。ただもうピッチングについて語り尽くした印象である。8章からなる章立てが「アンダースロー」「ボール」「ストレート」「変化球」「配球〈I〉(データ)」「配球〈II〉(投球術)」「体」「打たれる」であることからもご想像いただけるのではないか。

 その語りが,またいい。
「ピッチャーのフォームっていうのは(中略)楽ならいかんのですよ。あんまり楽したら体が開いてしまったり,フォームに軽さというものを感じてしまう」
「勝負してるふりして,四球で歩いてもらう。で,次のバッターでゲッツーだと。よくやりましたよ。ほんと,マウンド上でげらげら笑いたいくらいですよ」
「(野球のカウントは)ゼロ・ゼロから始まって,ツー・スリーまで。12種類しかない。ところが,それぞれの状況によって全部違うんです。同じゼロ・ゼロでも,『プレーボール』で始まったばかりのそのゼロ・ゼロと,次の打者のゼロ・ゼロと,まったく違う。(中略)野球は,結論は出ないです」
 キャンプ期の肩作り,爪の管理,ボールの感触,コーチとしての若手の育て方。もう全部,ピッチャーの話。

 ことに,全盛期のシンカーをまじえての配球論は実に面白い。
 シンカーというのはコースを狙うのではなく,真ん中に投げ込んでいくものだというのだ。バッターが待ってましたとがっと振ったら,ぴゅっと落ちる。で,ボテボテのゴロ。
 そのシンカーを下からすくうのでなく,上から叩いた落合との闘いは,今こうして本を読んでも背筋が冷える思いだ。さらに,そんな山田が挑戦して,最後まで満足に使えるにいたらなかったスライダーの話。

 奥が深い。
 矢島裕紀彦にはほかに掛布や大矢,桑田を扱った著書があるが,ぜひとも落合に打撃論を語ってもらいたい。最も「頭で」打ったように思われたのは落合だったからだ。なにしろ2度目に三冠王を取った年,西武球場で見た彼は4タコ,4打席目にキャッチャーフライに倒れてベンチに戻った,あのときの彼の背中は「このピッチャーは狙ったコースに投げる技術がないからほんとに打ちにくいわい」と悠然と語っていたものなあ。

2001/08/29

[異説] 野球こそ個人主義な球技である

59  ロバート・ホワイティングの『和をもって日本となす』やボブ・ホーナー(元ヤクルト)の「地球の裏側に別のベースボールがあった」という言葉が物語るように,日本野球は,チームへの滅私奉公が絶対優先すると指摘されることが多い。そして,それが日本野球のつまらなさであると。

 確かに欧米人から見れば,日本野球はチーム重視に見えるかもしれない。しかし,ここでは異議をとなえてみよう。本当にそうなのだろうか?

 たとえば日本野球史上最高のスター,長嶋,王は,はたして本当にフォア・ザ・チームな存在だったろうか? 彼らこそは誰よりも初回の送りバントやランナーを進める流し打ちから解き放たれた存在だったではないか。
 ピッチャーはどうか。金田,村山,江夏,堀内,鈴木,東尾,江川。ざっと見渡しても,ぎらぎらとキャラの立った輩ばかりではないか。

 実際,あらゆる集団球技の中で,野球ほど個人のプレイが優先されるゲームはない。
 ピッチャーがストレートでバッターをなで切るとき,実は内野手も外野手も必要ない。バッターがスタンドに打球を叩き込むとき,チームの残り8人はどこにいても関係ない。内野手がゴロに横っ飛びに飛びつく瞬間,そのプレイは彼一人の責任だし,ノーステップでそれをファーストに投げ終わった後はもう彼の知ったことではない。
 バックアップ,フォア・ザ・チームの大切さを強調する向きもあるだろうが,それらは勝率を高める要素であってプレイの絶対条件ではない。一瞬一瞬を見れば,1個のボールにからむ敵味方2人さえいれば成り立つ,それが野球なのである。

 つまり。
 組織に埋没してきたきたはずの日本人が,幕末の開国,明治の文明開化,昭和民主主義という歴史の中で自らがなかなか成し遂げられぬ「個人主義への夢」をゆだねたものこそプロ野球や大相撲という個人競技だったのではないか。地域や会社,家族というがんじがらめの組織の中で,湯上がりのビールと枝豆を前に身勝手な開放を夢見る,それがプロ野球や大相撲の意味だったのではないか。

 実際,管理野球をうたわれた讀賣ジャイアンツの全盛期より,昨今の各チームのほうがよほどバントが多い。犠打の記録は,最近になって何度も更新されている。プロ野球にはかつては野武士,要するに身勝手な個人主義者がうようよいたのであり,それこそがプロの魅力だったのだ。
 託すべき夢の枯れた今,プロ野球はただ勝ち数を競うつまらない1競技になり下がった。もはやオリンピックや日本人の参加したメジャーリーグのほうがナショナリズムという付加価値があるだけ,よほど楽しめる。地域ナショナリズムが発揚する高校野球のほうがまだしも面白い。
 「午後8時の男」なるつまらぬクイズや,他番組の出演者を呼んで騒がせるテレビ局の発想は,だから必ずしも間違いではない。欠けているのは付加価値なのだから。間違っているのは,発想ではなく,その付加価値の中身なのである(うざいからやめてほしい。 > 日テレ)。

 自由が夢でしかなかった団塊の世代までは,選択の余地なく切実な野球ファンたらざるを得なかった。「会社ぁ? 家族ぅ? いいじゃんそんなの」とのびのび口にできるようになった若い世代は,まっすぐな目でサッカーの組織プレーを評価,賛美できるようになった。水泳,陸上,F1,いずれも楽しい。
 それでいい。それがいい。広い選択肢の中からそのときどきに自由に選べるということは,それだけで幸福なことなのだから。

2001/08/26

クトゥルー神話と隣のお姉さんへのノスタルジーのへろへろな結合 『栞と紙魚子と 夜の魚』 諸星大二郎 / 朝日ソノラマ

Photo【あなたたち 二人とも 死んでるのよ】

 「ネムキ(眠れぬ夜の奇妙な話)」に連載されていた『栞と紙魚子』シリーズが終わってしまった。この「終わってしまった」のあたりにソコハカトナイ詠嘆のニュアンスを読み取っていただけると嬉しい。諸星大二郎にはほかに長いのや重いのや暗いのがいっぱいあるが,実はこの『栞と紙魚子』が一番のお気に入りだったからだ。

 『栞と紙魚子』は,胃の頭町を舞台に,ごく普通の(そうか?)女子高生である栞と紙魚子が次々と摩訶不思議な事件に遭遇するという短編集である。

 日常の中に異界がはまり込み,主人公たちがそれに巻き込まれること,アクロバティックな事態にも主人公たちの生命に危険はなさそうに見えること,巻き込まれるのは実は主人公たちにもそれなりに理由があること,こう見ると坂田靖子の『浸透圧』ほかに似ているようにも思われる(無事に戻ったこちら側の世界に異界の断片や小生物が散見するあたりも似ている)。
 ただ,ライトなセンス,言い換えれば「すり抜け方」に特徴のある坂田靖子と違い,諸星大二郎の本領はなんといっても『暗黒神話』や『稗田礼二郎のフィールド・ノート』など古代神話をダイナミックにこね合わせた黒っぽい伝奇&ホラーである。そのためパロディッシュな『栞と紙魚子』シリーズも個々の事件にクトゥルー神話体系や……おっと,今回はそういう方面ではなく,本シリーズ,というより主人公の栞がなぜ好もしいかについて考えてみようと思ったのだった。

 諸星作品には女性ももちろん登場するが,ハリウッド映画や少女マンガにおけるようなヒロインはほとんどいない。どちらかといえばバケモノが多いし,被害者側であっても霊能者であったり,おどろおどろしく描かれることが少なくない。
 ところが,栞にはそういった気配はほとんどない。もちろん,怪奇に巻き込まれても平然としていたり,生首が落ちていたら拾ってペットにするなど,素っ頓狂な面もあるにはあるのだが,胃の頭町ではそれが日常なのであり,平凡な女子高生として描かれていることは間違いない。逆に,スタイルがよいとかファッショナブルであるとかエロティックであるとか,そういった要素は一切ない。

 少々無理押しだが,栞の魅力は,少年の目から見た年上の少女の魅力の類ではないだろうか。無造作なロングヘア,冬はセーターにコート,夏はノースリーブ。胴長ずん胴の日本的体系で通学や散歩や部屋飾りに明け暮れる彼女は実に「隣のお姉さん」「従姉のお姉さん」的だ。
 作者がそのあたりどのように意識しているかはもちろんわからない。ただ,今回全4冊を読み返して,少なくとも同年代の恋愛の対象,あるいは年下の可愛い娘,さらには自分自身の娘として描いた印象は得られなかった。栞たちは作者からみればずいぶん年下のはずだが,にもかかわらず「よくわからない大人」として描かれているように思う。胃の頭町とは,子供の目から見た「大人の世界」の得体の知れなさの代替ではないか。

 現実の女子高生に「お姉さん」として憧憬の念を向けることはもはやあり得ない,だからこそ栞には恋愛未満の甘酸っぱいノスタルジーがこめられることになる。
 これ以上連載が続くと,栞や紙魚子はふくよかな大人の女になってしまう,そんな予感もする。だから作者は連載を終わらせたのだ,というのはさすがにうがちすぎだろうか。

2001/08/24

知能犯志望者は必携? 『文書鑑定人 事件ファイル』 吉田公一 / 新潮OH!文庫

432【犯人は,犯行現場に名刺代わりの誤字を置いていった】

 (昨日の続き)かくしてセクシャルハラスメント防止条例違反の疑いで訴えられた烏丸三郎(44歳,仮名)であるが,容疑に対して「それは自分が書いたものではない」と言い張ったものであった。

 ……といった場合,インターネット上の書き込みなら問題になるのはパスワードの管理やその書き込みがなされた際のアクセスログ等であるが,書面,すなわち手紙や契約書の直筆文書であった場合,筆跡や印章の真贋が問題となる。科学警察研究所出身で,これら筆跡,印章,印字,印刷物,複製文書,不明文字等の文書鑑定に長年従事した著者がさまざまな経験を文庫に書き下ろしたものが本書である。
 実に面白い。

 たとえば,一家の主人が亡くなり,未亡人(後妻)がすべての財産を自分に残すと書き記した遺言書を持ち出す。実子がその内容を疑問に思い,弁護士を通じて鑑定に持ち込まれる。ところが,故人は,常日ごろ自分の名前の「隆行」の「隆」の字を,「生」の上に「一」を加えた旧字体,息子の「隆夫」は新字体で書き分けていたにもかかわらず,その遺言書では自分の名前も含めすべて新字体で書かれている。また,故人の手紙と比べ,「産・富・田」の文字も書き順や「産」の字の上部が「メ」となっていない点などが異なる。そして逆に,「遺言書」の「遺」の第三画の欠損など,未亡人の筆跡と似た点が多々見られ……。

 100,000円の領収書の「1」に加筆して「4」としたものを赤外線画像で見破る話,小切手の数字部分を凹むまで削り,そこに別の数字が印刷された紙の裏側を削ったものを張り込んだ例,さらには日本赤軍の菊村憂や大韓航空機爆破事件の蜂谷真由美(金賢姫)の偽造旅券の鑑定,返す刀で(真保裕一『奪取』でとことん詳しく扱われている)贋札のテクニックなど,文書鑑定に関する話題は多岐に上り,それぞれ読み応えがある。

 手間ヒマかけた高度な偽造から,逆にすぐバレそうな言い訳や情けない書き損じまで(「死体」を「死休」,「反省」を「反生」と書くなど),偽造,偽証する側のレベルもさまざまだが,逆に読んでいて不安になるのが,どうも実際の裁判の現場でとんちんかんな鑑定が提出されることも決して少なくなさそうなことである。
 コピーをもとに鑑定しているのに筆圧やいつ書かれたかまで言明している鑑定,同じくコピーをもとにしながら「黒色のペンで書かれている」と言ってのける鑑定,「鳥」の第七画の最後をはねているのを筆跡の特徴とする鑑定,さらには鑑定のノウハウもないのに引き受ける大学教授などなど。著者にすれば「とほほ」な例,反面教師として挙げているつもりかもしれないが,読むほうにしてみれば「実際の裁判でそんな鑑定がまかり通っているのか」と不安になってしまうこと請け合いだ。実際,著者がクロと鑑定したものに対し,弁護側の鑑定ではシロという例が,この1冊の中でも2か所や3か所ではない。
 真実は常に1つ,ただし落ちているのは藪の中,といったところか。

 というわけで,偽造,贋札作りに走るなら必ず先に目を通しておきたい1冊である。くれぐれも「征服」と「制服」を書き間違えたりしないように(自戒)。

2001/08/23

タイトルには文句ないのになぁ 『美奈子さんの世界征服ファイル』 千葉秀作 / ワニブックス

012【美奈子 じょおーさまがいいっ!】

 2001年8月某日。私(コードネーム:闇夜のカラス)のもとに,本部から極秘の資料が送られてきた。
 南半球で進行する不穏な動向についての調査ファイルである。オンライン書店からの荷物を装った資料は宅急便の配達員のユニフォームで身をかためた若いエージェントによってもたらされた。合言葉はいつものように「ハンコお願いします」に対し「えーと,ここにかな。はーっ,ポン」である。間違っても「ハンコが見当たらないんでサインでいいですか」などと口にしてはいけない。国際紛争のもとだ。
 通りがかったご近所の婆さま(おそらく某国のスパイだろう)にひとしきり台風の話などしてエージェントとのやり取りを怪しまれなかったことを確認したうえで,私はごく普通の民家に見せかけたアジトの通信室に戻り,ディスプレイの前で慎重に荷物を開いた。そして思わず声を上げた。

 「ちゅ,注文してよかったー。この表紙は,本屋ではちょっと……」

 世界的原子物理学者・好妙寺十蔵は自ら発案した反陽子融合論に基づいた反陽子爆弾によって世界制服を計画する。
 志なかばで教授が亡くなり,その娘・美奈子は教授の弟子,北海工業大学の工藤助教授を訪ね,父のささやかな夢を実現したいと願う。しかし,ああしてこうしてこうなって,工藤は美奈子の持ち込んだ超小型反陽子爆弾(表紙の美奈子がくわえている小魚みたいなやつ)をうっかり飲み込んでしまう……。

 と,あらすじを紹介したからってどーなるのだとふてくされたくなるようなB級ドタバタ艶笑コメディ。表紙がこれだからといって,とくにエロマンガというわけではない。少年マガジンの『ラブひな』(赤松健)あたりと考えれば,当たらずとも遠からずといったところだろうか。『ラブひな』読んでないけど。
 あとはだいたいあらすじと表紙からの想像の範囲内で,主人公・美奈子は素直な性格で人を疑うことを知らず,素朴な思い込みから再三事態をややこしくする。工藤は人並みの常識を持ち合わせた青年だが,中途半端な正義感と不器用さゆえ事態を余計にややこしくする。そこに事態を重くみた国際警察機構のサラ=ハミルトン刑事とやらが現れて当然事態をさらにややこしくし,死んだはずの好妙寺教授ももちろん復活して事態を果てしなくややこしくする。

 というわけで……ああっ,もう書くことがない。SF論持ち出すほどのものでもないしなぁ。
 結論としては,えー,まー,つまりその。こういった絵柄の,こういったドタバタギャグマンガが好きな方にはオススメ。ギャグといっても……たとえばハミルトン刑事がドアを蹴破って登場し,銃を構えて「さあっもう一人はどこ!?」というシーンで,「もう一人」の工藤はドアの下敷きになっているとか,その程度のものなのだが。

 一番興味深かったのは,あとがきによると,作者の副業はミシンでプロレスのマスクを作ることらしい点だ。そのあたりを詳しく書いてもらったほうが作品そのものよりよほど面白くなりそうなのに,と考えてしまうのはプロのマンガ家に対して失礼なことだろうか(答え:失礼に決まってます)。

 ともかく,南半球は今冬のはずで,美奈子さん,世界制服もよいけれど,そんなかっこうして風邪などひきませんように(完全ニ何カ勘違イシテルラシイ烏丸)。

2001/08/19

消えたマンガ家 その七 『君を待つ千夜』 笈川かおる / 秋田書店Candle Comics

01【…だから何があっても見つけてやんな おまえの嫁さんだろ】

 21世紀後半,北米大陸・西海岸。
 "10年ガール" つかさは無事に目を覚ました。彼女は人工冬眠(コールドスリープ)第一号にしてキャンペーンガールなのだ。

 実は彼女は男に騙され,金で売られていた。落ち込み,荒れるつかさ。彼女は8歳のときにテロリストに両親を殺され,施設からその男・ユーダに誘い出されるままに詐欺の道に入る。だが,ユーダが結婚を言い出したことで,やっと家族ができると喜んでいたのだ。しかし,結婚式の前日,眠くなって,気がついたらそこは10年後の世界だった。
 ストーリーは入り組んで,少々ややこしい。SFマンガのお約束どおりユーダは実は生きており,顔かたちを変えてつかさの動向を見守っている。
 つかさは面倒見役の通訳クロゥ・ル・ノワと新しい恋に落ち,だがまたしても結婚式直前,クロゥが仕事で火星に行っている間に地下核実験のやりすぎからか地殻変動が起こり,つかさは生き残るために地下の人工冬眠センターに向かう(つかさの出番はここまで)。
 荒廃した地上に降り立ったクロゥは,体内を500年は生きられるという人工臓器に変え,どこに眠るかわからないつかさを探し続けることに決める。

 笈川かおるはりぼんでデビューし,ぶーけに移り,その後いくつかの雑誌で散発的に作品を発表したのち,ここ数年はとんと噂も聞かない。「消えたマンガ家」というより「売れないマンガ家」といったほうがよいのかもしれない。
 しかし,それはなぜなのだろう。
 少々ハスにかまえたところはあるが,キャラ立てはオーソドックスな少女マンガであり,絵柄が悪いとは思えない。セリフはシャレているし,たとえばぶーけで作品を発表している当時は『へ・へ・への方程式』など,そんなに人気がないようには見えなかった。

 意識してかどうかはわからないが,メジャーになることを拒んでいるのは作者当人ではないか。
 たとえばこの『君を待つ千夜』,コールドスリープをテーマに報われない想いを描くことでは清原なつのの『真珠とり』に似ている。しかし,『真珠とり』が宇宙開発時代の待たせる(しかも事故で肉体を失った)男と待たされる女という過酷な愛を描きながら,どこかでその世界を甘やかに許しているのに比べ,笈川作品は根っこのところで世界を,愛を拒否,拒絶しているように見える。クロゥのつかさへの想いは本物だが,それがこの世で成就するとはとても思えない。単にすれ違いの甚だしいメロドラマ,とかいう次元ではないのだ。
 あるいは、同時期の笈川の『羽衣一景』シリーズでは,単行本2冊分の読み切り短編を重ねて主人公の青年をいじめにいじめたあげく,最後にはあっさり死なせてしまっている。

 ファンとして哀しいことではあるが,おそらく笈川かおるは読み手が描き手に期待するような意味ではマンガが好きではないのだ。おそらく彼女にとって,この世はマンガに描くにはあまりに曲がりくねり,苦いのだ。さりとて,アバンギャルドな,あるいは人生論的な作風に走るには,彼女はあまりに適度なセンスと社会感覚に満ち,言ってみれば都会的なのだ。作品の中で人生を説いてどうなる,という地平に,彼女はいるのではないか。
 夜毎の苦い酒が必要な大人が,甘いケーキを売っている,そんな感じか。

 だからこそ,笈川かおるの作品にごくまれに顕れる「救い」は,心を洗うのかもしれない。
 本人は楽しくもないのかもしれないが,単行本未収録作品まで切り取って置いてある昔からのファンとしては、どうかまたメジャー誌で活躍してほしいと願っているのだが……。

2001/08/17

科学戦隊トクレンジャー 『ST 警視庁科学特捜班』 今野 敏 / 講談社文庫

Photo_7【ねえ,僕,帰っていい?】

 今野敏にはすでに100冊以上の著作があるというが,購入したのは今回が初めてだと思う。
 「警視庁科学特捜班が解明する連続猟奇殺人事件」とかいう惹句におどろおどろした猟奇サスペンスと勝手に思い込んで「お,読んでみよう」と購入し,いざ購入はしたものの「こうも暑いとぬたぬたどろどろの猟奇殺人の話を読むのもなぁ,なんか匂いそうだしなぁ」と勝手に思い込んで敬遠していたのだ。いやいやとんでもはっぷんであった。やはり本は読んでみなければわからない。

 本書はパトリシア・コーンウェルの『検屍官』シリーズなどに比べれば……はっきり言えばよほど「秘密戦隊ゴレンジャー」に近い。それも,シリーズの中でも,ちょっと頓狂なギャグ色の強いオーレンジャーやカーレンジャーあたりだろうか。
 いや,実際,解説でも触れられているように,主人公たる科学特捜班の面々の名前たるや城左門,崎勇治,山翔,結城山吹才蔵と,それぞれ色も織り込まれ,もはやトクレンジャーと呼びたいほどだ(リーダーはお約束どおりレッドだし。ただ,翠がピンクでもイエローでもないのは……戦隊シリーズでグリーンが女性だったケースはあるのだろうか)。
 個々のキャラクターの性格付けもなかなか秀逸で,一匹狼を理想とするも人望があって周囲に人が集まってしまうリーダー・赤城(法医学担当),無口な武道の達人・黒崎(第一化学担当),おそろしく美麗な外見のくせに極端な秩序恐怖症,要するに整理整頓が大嫌いな青山(文書鑑定,すわなち筆跡鑑定やポリグラフ,プロファイリングなどの担当),グラビアアイドルも色あせるプロポーションを挑発的な服装で覆う,もとい,あまり覆ってない紅一点の翠(物理担当),そして得度して僧籍を持つ山吹(第二化学担当)。

 さて,本書は,彼らトクレンジャーの面々が,特技があるゆえに身勝手で,捜査偏重のベテラン刑事たちといがみ合いつつ補い合って犯人の正体を暴いていく,そんな構造である。
 要するに,これはマンガだ。たとえば超人的な聴覚を持つ翠は,峰不二子とサイボーグ003を足して割った,とみてあながち間違いではないだろう。

 従って,健全な男子たるもの,ここはミニスカートの翠に「ふーじこちゃんたらふーじこちゃん」状態になるが務めかとも思われるのだが……翠は処女だと自分で公言しており,正直言って外見だけ挑発的,なおかつ数十メートル離れたところのひそひそ話まで聞こえてしまう生娘のお相手は面倒くさい。……いや,別に本の中のキャラのお相手をする必要はないのだが,どちらかというとこの第1作では青山君がポイントだ。なにしろ,彼は殺人事件の現場に行こうが捜査本部の会議に呼び出されようが,すぐに口をついて出る言葉が
 「ねえ,僕,帰っていい?」
そのくせ,実際に犯人像をプロファイリングしていくのは彼の役割なのである。
 いいなぁ,このキャラ。映像化するなら,俳優は誰がいいだろう?

2001/08/15

3匹めのどぜう 『超・殺人事件 推理作家の苦悩』 東野圭吾 / 新潮エンターテインメント倶楽部

131【読者に読ませるには,とにかく大長編でなきゃならんのです。分厚い本でなきゃいけないんです】

 東野圭吾はどちらかといえば好きなミステリ作家ではあるが,単行本を買う機会はめったにない。たいていしばらく待てば文庫化されるし,それを待てないほど鮮度が必須とも思えないためである。
 しかし,本作はつい腹帯の惹句につられて買ってしまった。なにしろ「日本推理作家協会、除名覚悟!」である。商売巧いぞ,新潮社(フォーカスではしくじったみたいだけど)。

 で,読んでみてどうだったかといえば,まー,その。決してつまらないわけではなかったが……どうだろう,文庫化を待ってもよかったかな。

 東野にはすでに『名探偵の掟』と『名探偵の呪縛』という,ミステリというジャンルそのものをおちょくった作品(メタ・フィクションというのかな?)がある。
 とくに『名探偵の掟』は,E・A・ポー以来のあらゆるミステリに通底する「お約束」をぐるりと裏返ししてみせた袋小路のどんづまりのような短編集で,ある程度ミステリにはまった読み手なら必ず拍手喝采大爆笑,かんらからからと笑う大声がそのうち乾く,クールといえばクール,シビアといえばシビアな作品である(ただ,東野という作家は決して学究肌でもおたっきーでもないため,締め付けが少し甘いといえば甘い。そのため,どこか救いが残るのである)。

 さて,本作でそういった楽屋落ちも3冊め,当然当初の目新しさも失せ,それなりに目先を変えないと待ち受けるのはマンネリの濁った沼。ということで今回作者がチャレンジしているのは推理作家当人の楽屋,すなわち編集者との関係や出版業界そのものである。たとえば……と短編のあらすじを紹介したのではネタばれになってしまうため詳細は避けるが,「超税金対策殺人事件」あるいは「超高齢化社会殺人事件」といった収録作のタイトルで,どのあたりを狙っているのか,だいたいのところをご想像願いたい。そして,それらは「ほぼ」成功している,ように思われる。

 しかし。
 巻末の「超長編小説殺人事件」と「超読書機械殺人事件」の2編は,さすがに笑うことができなかった。なぜなら,前半の数編が,売れない推理作家が編集者の言を真に受けるうちに素っ頓狂な苦境に陥ってしまう,といった程度のお話であるのに対し,この2編は,出版業界の抱えた問題を,うっかり正面から扱ってしまっているのである。
 登場人物の一人の独白,「本を読んでいないということに罪悪感を覚える者,本好きであったという過去に縛られている者,自分を少々知的に見せたい者などが,書店に足を運ぶにすぎない。彼らが求めているのは,本を読んだ,という実績だけなのだ」……これはパロディでもなんでもない。ただの現実である。しかも,実際には,いまや「罪悪感を覚える者」「過去に縛られている者」「知的に見せたい者」すら少数派ではないか。

 腹帯の裏表紙側には「もう二度とこんな小説は書けない!」とある。書けるも書けないも,そも大丈夫か,出版界。

2001/08/13

科学者も人の子 『科学史の事件簿』 「科学朝日」編 / 朝日選書

25【自分の科学者生命を賭け,そして賭けに負けた】

 出先の病院で思ったより待たされ,手持ちの文庫2冊を読み終えてしまった。活字中毒の発作が出るとまずい。小雨の中,私鉄駅ビルの小さな書店に駆け込み,著者名も確認せずにレジに運んだのがこの本である。

 本書は近代から現代にかけての著名科学者24人を取り上げ,その業績ではなく,スキャンダルな面にスポットを当てる。
 巻頭を飾るのはクローンマウス発生の成功で脚光を浴びたカール・イルメンゼー。しかし,彼はのちにデータ偽造の疑いがかけられ,研究助成が取り消された。このあたり,昨年の東北旧石器文化研究所副理事長による旧石器捏造事件を思わせるが,事件としてのメリハリは旧石器捏造事件のほうが格段に上だ。なんといっても現場をビデオで押さえられたのだから。イルメンゼーのほうは,証言は多々あるが,グレーのまま黙殺といった感じだろうか。
 考古学からは,この旧石器捏造事件の折りにも新聞等で引き合いに出されたピルトダウン人事件(人間の頭骨とオランウータンの下顎骨,歯を組み合わせた偽造品だった)が紹介されている。しかし,ピルドダウン事件は容疑者ばかりが多くて真相はいまだ明らかではない。この意味でも旧石器捏造事件はスキャンダルとして一流なのである。褒められたものではないが。

 そのほか,ダーウィン,パスツール,アインシュタインといった無差別級の大物も扱われているが,当然ながら彼らについてのスキャンダルはさほど面白くはない。驚くような事件があったなら,とっくに津々浦々で話題になっていたはずである。だから,むしろ読んで面白いのは,体重別の世界選手権でメダルに手が届くか届かないかくらいの選手,もとい科学者たちであろうか。
 共同研究したつもりでいたのにほかの2人と違ってノーベル賞をもらえず,選考委員会に公開質問状を送りつけた医学博士。占星術は非科学的だ,と宣言したために喧喧囂囂酷いめに遭った天文学者。新しい放射線(N線)の発見で脚光を浴びながら,どうしてもそれが立証できなかった物理学者。桁はずれに性欲が強くて,科学と共産主義が結びつく未来のユートピアではそのへんもうまく鎮静されるに違いないと夢見た物理学者。and so on...

 本書のもう1つの特徴は,科学という実証主義的なジャンルを得意とする記者ライター諸氏の文体の切れ味である。事実を克明に表現しようとする試みは,結果として現代の文学的文体が失ってしまったキレのよさを示す(よい意味での紋切り型とでも言おうか)。たとえば以下のとおり。

 マジャンディはベルの説が正しいことを証明するために四〇〇〇頭の犬を殺し,ベルの説の誤りも証明するために,さらに四〇〇〇頭の犬を殺したといわれたのだった。(渋谷章)

 (ユングとフロイトは)初めのうちはお互いに手紙で相手を褒め合っていたが,そのうちにこのような間接的な方法では我慢できなくなり,やがて直接会って褒め合うことになったのだった。(渋谷章)

 彼の上司となったのが,ほとんどの伝記や研究所が一致して無能の烙印を押しているヨハン・クライン教授であった。いつの世にも悪玉役のボス教授はいるものだ。(井山弘行)

 こうして,ダーウィンを巻き込む「いざこざ」の舞台が出来上がるのである。あとはダーウィン自身の不注意を待つばかりだ。(斎藤光)

 ……と,読んでいるうちに雨もあがったようだ。
 さあ,本屋に行こうか。

2001/08/09

[鎮魂] 原爆の日によせて 『いしぶみ』 ポプラ社文庫,『チョウのいる丘』 那須田稔 / 講談社青い鳥文庫

 今日9日は長崎原爆忌。
 6日の広島原爆忌に,クローズドな掲示板で次のようなことを書いた。

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「語り継ぐ」という言葉はよく聞くが,以前に比べると原爆体験者の言葉や写真がメディアに載る機会がなんとなく少ないような気がする。
パッと思い浮かぶのは中沢啓治『はだしのゲン』だが,あれはとっくに連載が終わっているし,絵にクセがあってちょっとツラい。
ごく普通のドラマの中などで,登場人物が被爆体験者,といった設定も見かけない(たとえば,刑事モノで犯人が被爆者というのは今ではもう難しい)。
56年も前の話だから,やむをえないことなのかもしれないけど。

また,8月になるとお約束のようにテレビで関連ニュースが流れるが,これも昔に比べるとその酷い状況をリアルに語る,という感じではない。
沢山の人が死んだという設定だけ語られて黙祷してオシマイ,な印象。

昔,多分1968年か69年,広島の爆心地の小学校の生徒全員がどうなったかを1人1人追う,というテレビ番組があって,当時の写真を背景に女性ナレーターが淡々と読み上げる,という構成だったのだけれど,これはキツかった。
「6年4組,木村静江。2年前に家族で大阪から疎開。祖母の実家から学校に通う。6日は校庭で被爆。右半身に一面のやけどを負い,担任の藤田先生が抱きかかえて校舎の中に運びこむが,『お母ちゃん』とだけ言い残し,30分後に死亡。藤田先生も3時間後には死亡」
みたいなのを,何百人分も静かに読み上げていくのだ。
小学生だった僕は,チャンネル変えることもできず,呆然と見入っていた。
最後のシーンは,それら読み上げられた膨大な紙の1枚1枚に火がともり,ぱあっと燃え上がる。
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 すると,これに小学校教師のA氏からコメントが付いた。それは「いしぶみ」という番組ではないか,というのだ。本も出ていると。
 以下,A氏のコメントを一部引用させていただく。

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小学校三年生のときに担任の先生が、夏休み前にこの本を朗読し、あまりの内容に胸がしめつけられました。子ども心にも感じるものがあったのか、親に頼んで近所の本屋で取り寄せてもらいました。

現在は私が教える側になり、毎年、学級文庫には必ずこの本を入れ、夏休み前には読み聞かせております。
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 驚いた。30年以上前にたまたま見たテレビ番組のタイトルが,今になってわかるとは。

 Webで「いしぶみ 原爆」で検索すると,1968(昭和43)年に広島テレビで放映されていることがわかる。出演(ナレーション)は杉村春子。
 昭和20年8月6日午前8時15分,広島二中(当時)の生徒たちは広島市本川の土手(現平和公園の近く)で作業従事中に被爆した。1年生322人と4人の教師は全滅。番組は,全員の顔写真とともに死に至る過程を淡々と,克明に,読み上げる。

 本はポプラ社文庫で手に入る。正直,記憶が強烈にすぎて,今読めるとは思えない。
 だが,子供たちには必ず読ませたい。いや,読ませなくてはならない。Aさん,感謝。

 それにしても,細かな記憶違いはともかく「1968年か69年」とはよく覚えていたものだ。
 調べてみると,当時の課題図書にやはり小学生向けの『チョウのいる丘』(那須田稔)というのがあり,その発刊が1968年。こちらは被爆二世の少女が白血病で死んでいく話なのだが,おそらく夏休みに『チョウのいる丘』を読み,さらにテレビで『いしぶみ』を見て,原爆の恐ろしさ,悲しさが意識に焼きついたのだろう。
 『チョウのいる丘』は講談社青い鳥文庫で再販されている。現在は絶版。

2001/08/08

[雑談] アルバムのお遊びあれこれ

 古いCDを取り出してとっかえひっかえ聴いているうちに思ったこと。
 なんとなくだけれど,昔のレコードのほうが,遊び心があったのではないか。

 レコードジャケットにジッパーつけてみたり,ブリキの缶にしたり,ジャケットの一部がくるくる回って窓から絵や写真が覗いたり,ジャケットを紙ヤスリにしてみたり(極悪)。ジャケットをばかばか開くと横尾忠則の大きなイラストが描かれている,というのもあった。

 こうしたジャケット遊びは,LPレコードの大きさがあってはじめて成立するようで,音楽CDでも一時豪華な箱入りが流行ったことがあるが,どうもあれはCDのコンパクトさ,整理整頓しやすさと相容れないらしく,ブームはすぐに去った。

 アルバムの中身では,たとえばPINK FLOYDの『原子心母』(ATOM HEART MOTHERの直訳)はA面(CDでは単に1曲目なのだが)の最後にRemergenceという曲が収録されていて,これは何かといえば要するにそこまでの組曲の一部を再現したもの。mergeが「合併する,合流する」といった意味だから,「最合併,再構成」といった程度の意味か。
 同じ手法は,エルトン・ジョンのファーストアルバムEmpty Sky(邦題『エルトン・ジョンの肖像』)でも用いられている。9曲目にクレジットされたGulliver/It's Hay Chewed/RepriseのRepriseのところがそうで,8曲目までのサビをメドレーでががっと再演してくれると,つまらない曲までなかなかシブい出来に聞こえるあたりが不思議だ。
 和モノでは何故か小椋佳の『残された憧憬~落書き~』というアルバムでこのRepriseが採用されていた。「白い一日」などを含む,まだ小椋佳の顔が知れ渡る前の作品だが,このアルバムではメインの曲の間に「落書」(I~VIII)と題された短い曲のピースというか詩の朗読のようなものがはさまれ,なかなか凝ったアルバムである。まぁ,凝ってみても小椋佳は小椋佳なのだが。

 凝ったアルバムといえば,岩崎宏美の初期のアルバム『ファンタジー』がなかなか楽しい。全体が,オールナイトニッポンで知られる故・糸居五郎がDJをつとめるディスコ仕様なのである。
 (1)パピヨン (2)キャンパス・ガール (3)ファンタジー (4)愛よ、おやすみ (5)感傷的 (6)おしゃれな感情 (7)ひとりぼっちの部屋 (8)グッド・ナイト (9)月のしずくで (10)センチメンタル,と選曲もなかなかで,機会があればぜひ一度お聞きください。
 ちなみに岩崎宏美で一番好きなのは『ウィズ・ベスト・フレンズ』に収録された「わたしの1095日」。地味だけれど,潤います。

2001/08/07

すべての子供たちと子供の心をもった大人たちに,この夏の一番星 『なつのロケット』 あさりよしとお / 白泉社JETS COMICS

56【待てよ! 違うんだ こんな事 言うつもりじゃ なかったんだ】

 教育,などというと大げさだが,まぁ子供たちにメシを食わせて育てる途中で多少なりとも意識するのは,第一に読書の習慣を身につけさせること,第二に「技術」とそれによる達成感を楽しみとして経験させること,この2つだろうか。

 技術というのは,知識をカタチに変えるワザのことである。
 お絵描きでも工作でもサッカーでも鉄棒でも歌でもピアノでも料理でもテーブルマジックでも泥団子作りでも,素材や目的はなんでもいい。この世には技術によって構築される(逆にいえば技術がないとどうしても実現できない)ものがあるということ,その達成感を体で経験してほしいと願う。
 裏返していえば,PCや携帯電話,あるいは高層ビルのようにいかにも技術技術したものだけでなく,公園のブランコも割り箸もパイプ椅子も綿のシャツもアルマイトの鍋もポケモンのぬいぐるみも,あらゆるものが大小の技術の積み重ねの上に成り立っているという認識,手応えを持ってほしい。それは先人たちがこつこつと日夜積み重ねた工夫の結晶だということ,小さな,あるいは大きなブレークスルーを繰り返してはじめて当たり前のような顔をして僕たちの手元に届けられたものだということを。

 あさりよしとお『なつのロケット』は,1999年,白泉社「ヤングアニマル」に集中連載された作品。「ヤングアニマル」は水着アイドルのグラビアと『ベルセルク』,『ふたりエッチ』が売りという,どうにも小学生にはお奨めしづらい雑誌だが,この夏,ようやく単行本が発売された。

 作品中に登場する理科教師は,教育の壁に苦しんでいる。偏差値偏重の時代に,カリキュラムに添うだけではどうしても教えられないことがあるからだ。彼女の教え子たちもまた,見えない壁の中にいる。自分たちが何をなすべきか,どうやってなすべきかわからないためだ。
 だが,夏休みも終わりに近い夕暮れ,彼らはそれを突破する。
 『なつのロケット』はそんな子供たちの堂々たる成功を謳い上げる,同時にこの上なくいたましい物語である(123ページの三浦少年の笑顔には泣かずにいられない)。

 小学校高学年以上のすべての子供たちには,どうかこの作品を手に取ってほしい。
 そしてほんの少し,勉強や遊びの時間をふりわけて読んでもらえると嬉しい。
 『なつのロケット』はとてもささやかな,短いお話だけれど,その中にこめられた大切なものをどうか汲み取ってほしい。
 そして,これからの人生のいつか,どこかで,この作品に出てくる子供たちのように自分たちの作ったロケットを追って,夕暮れの空を見上げてほしい。

 今 真上……

 なお,「あとがき」によれば本作は第15回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞作『夏のロケット』に触発されて描かれたとのことだが,これは作者の謙遜が過ぎるように思う。川端裕人『夏のロケット』は1998年刊だが,あさりよしとおが小学生を主人公にロケット開発の歴史を描いた大傑作『まんがサイエンスII ロケットの作り方おしえます』は1992年の刊行なのだから。

2001/08/04

インテリ農民の陵辱的ヰタ・セクスアリス? 『赤目のジャック』 佐藤賢一 / 集英社文庫

332【ひひ,まずは奥方さまを優先して】

 相次ぐリストラに倒産,雇用不安の高まる昨今だが,そんな中でもなり手が少なくて求められている職業がある。その1つが時代小説家だ。
 池波,司馬遼といった大物が去り,残るおばさまがたもこの暑さではいつ風太郎に続いて,コホン,いや失礼。ともかく力のある時代小説家の登場が強く望まれ続けてきたにもかかわらずなかなか現れない最大の理由は,創作にともなう時代考証の面倒くささだろう。しかも時代小説の熱心な読み手は歴史や風俗にうるさ,ゴホゴホゴホ,いやつまり,文芸の徒たるもの,常に資料にあたり,正確な表記をむねとするのは最低のつとめであって。

 まあそのくらい大変なのが時代小説家なのだが,よその国の昔の話ともなるとその谷はさらに深く険しい。
 衣食住から言語,役職,宗教,交通,性生活,その他風俗習慣あらゆる項目について詳細な資料をしかも外国語であたらねばならず,その困難たるや想像を絶するものがある。
 ところが,だ。数年前にひょいと登場したこの佐藤賢一,なんと異国の歴史モノを得手とする。しかも,日本人でも多少は人物,ファッションについて知らないでもないフランス革命やルネッサンス期でさえなく,得意な時代が中世,英仏百年戦争期という珍しさである。14世紀ですぞ,14世紀(もっとも中世人が徹底的に暗愚だったとはルネッサンスを贔屓しすぎで,すでに英知の萌芽はあったというのが最近の説らしいが)。

 本書は,裏表紙の惹句によれば「十四世紀半ばの北フランス。百年戦争の果てない戦乱に蹂躙され,疲弊しきった農村に一人の男が現れた。人身を惑わす赤い目を持ったその男・ジャックに扇動された農民たちは理性を失い,領主の城館を襲撃,略奪と殺戮の饗宴に酔いしれる。燎原の火のように広がった叛乱はやがて背徳と残虐の極みに達し…。中世最大の農民暴動『ジャックリーの乱』を独自の視点で濃密に描く,西洋歴史小説の傑作。」

 ……百年戦争で日本人の耳に唯一馴染んでいる名前がジャンヌ・ダルクと思われるが(続いて青ひげ公ジル・ドゥ・レかな),ジャンヌ・ダルクが登場するのは同じ佐藤賢一の作品でも『傭兵ピエール』のほう。こちらは,農民暴動「ジャックリーの乱」……。うーむむむ。

 と肩に力入れて読み始めたが,別に歴史の知識を要求されるわけでもなくすたすた読めて(極論すれば,イギリスとフランスの場所を知らなくても読める。どちらかといえば,イタリアの歴史を多少知っていたほうがよいかも),まぁ面白かったし,登場人物もなかなか個性豊か,最後のオチも,オチとは言わないかもしれないが,まあなかなかうまくまとめているし。

 でも,一番の印象は,なんといっても────いやぁ,こんなえっちな小説とは思ってもみませんでした。勝目梓ほどではないが,花村萬月くらいにはえっちですねー。青少年諸君,電車の中で読むのはやめたまいよ。

 ちなみに,本文庫を手にするのなら,絶対に巻末の作者による「あとがき」や細谷正充の「解説」を先に読んだりしないこと。とくに「解説」。ミステリでいえば犯人とトリックを書いてあるようなものです。まったく何考えてんだか,最低。

2001/08/02

もう1つの経済戦争 『マンガ 世界戦略 カモネギ化するマンガ産業』 夏目房之介 / 小学館

441【日本経済同様,構造改革は痛みを伴う】

 2001年7月,教科書問題,首相の靖国参拝問題に際して,韓国は日本との文化交流,軍交流などを制限する措置を発表した。

 だが,隣国同士,鎖国でもしない限り,政治がらみでは止められない流れもある。サッカーW杯はなんとか協力し合って無事成功させてほしいものだし,文化面ではこの夏,予定通りスタジオジブリの映画が韓国でも放映される。
 一方,日本国内ではこの夏,韓国の出版社・大明鍾(デミョンジョン)の日本法人「タイガーブックス」から,韓国の人気コミックスが単行本の形で発行される。8月6日には第1弾の8冊(価格は各600円),その後も順次発行される予定である。
 予定されているのは韓国で人気の少女マンガ,サッカーマンガなどだが,とくに期待されるのが「Hなナンセンスマンガなのだが,日本でいえば初期大友克洋や鳥山明のようなテイストのうまい絵で,かつ小林まことの絶妙な間を感じさせる」,梁栄淳(ヤンヨンスン)の『NUDL NUDE(ヌードルヌード)』……。

 おっと,ご紹介が遅れたが,この「 」内の評が,今夜ご紹介する『マンガ 世界戦略 カモネギ化するマンガ産業』からの引用である。
 本書は,夏目漱石の孫で(という紹介はもういい加減失礼だな)マンガ家,マンガ評論家として知られる夏目房之介が,海外の作家,評論家たちとのマンガ交流に巻き込まれ,あちらの勉強をしたり,こちらのことを伝えたりしているうちにさまざまな問題に直面し,危機感をもってそれを伝えようとした啓蒙書である。

 確かに,私たちは,日本のマンガやアニメが海外で高い評価を得ている,とは聞いているものの,実際にどの作品がどのような層に,どのような受け止め方をもって評価されているのか,具体的にはあまり知らない。高い評価といっても,夏目漱石のように評価されているのか,宮部みゆきのように評価されているのか,それとも館淳一のように評価されているのか,そのあたりは質的にも量的にも把握できているとは言いがたい。
 また,欧米,アジアの各国でマンガは描かれているのか,描かれているならどのように描かれ,どのように評価されているのか。講談社のモーニングは以前より比較的熱心に韓国,台湾の作家を取り上げてきたが,あれにしても本国で人気の高い作家なのか,それとも登呂遺跡の売店で売られている宮崎産の埴輪(本当)のようなものなのか,実はよくわからない。

 本書はそのあたりの事情をつぶさに伝え,また一方,マンガ,アニメに国際化の波が押し寄せているにもかかわらず,そのあたりにうとい出版者,マンガ家に対し注意を喚起するものである。版権や契約の問題にうといと,海外で大ヒットしたアニメの権料が入らない,作品を切り張りされ,スタッフクレジットを書き換えられるといったことさえ起こるようである。

 マンガの一読者が,はたして国際的なビジネスとしてのマンガ,アニメの有り様まで知る必要があるのかどうか,また海外のマンガ,アニメを知ることによって相対的に日本のマンガ,アニメの質,傾向を考えるという行為がはたして必要なのか,そのあたりはなんともいえないが,ただブームに流されるだけでなく「考えてみたい」方には非常によい体験になりそうな1冊である。

 たとえば,アメコミを読みなれたアメリカ人読者には,デフォルメされた(マンガチックな)人物とリアルな背景が共存する『釣りバカ日誌』はとても奇妙に見える,なんてことがわかるだけでも十分面白いのではないだろうか。

2001/08/01

お盆の帰省列車にこの1冊 『茄子 1』 黒田硫黄 / 講談社アフタヌーンKC

Photo_2【あんた茄子嫌いじゃない】

 2001年7月,小泉首相はその改革へのパフォーマンスで参議院選挙を圧勝し,ヒットラーとの類似を指摘する夕刊紙さえ現れた。

 その同じ7月。
 こちらはナチ,ではなくて茄子。『大日本天狗党絵詞』,『大王』の黒田硫黄の新刊,連作短編集である。

 最初の話は,読書好きの中年オヤジが野良仕事を終え,納屋を開けて若い男女を発見するシーンから始まる。無気力な高校生・まるかは18,少年は5歳年下。家出らしいが,年下の少年のほうが仕切り屋で,オヤジは2人に茄子を食わせ,風呂を使わせる。
 なるほど,この3人が登場人物で? と思っていると,2人はあっさりと物語から消え,代わりにワケありな雰囲気の中年女がオヤジのもとを訪れる。ふうむなかなかこのオヤジもワケありそうな,と思っていると,その次はぜんぜん関係なさそうな高校の屋上の空中菜園が舞台で,その次にいたってはスペインの自転車レースがメインテーマだ。ほかのも面白いが,この「アンダルシアの夏」という中篇がなんとも凄い。ほんの50ページで,シブい映画をじっくり見たような気分になれるのだ。
 と余韻にひたっていると,やや,次の短編では,また最初のオヤジが登場する。それから,最後の短編には,また別の若い男女。
 いずれも,古い,上質な映画を思わせる。ということは,何気ないようで,アングルや台詞にいろいろなものがこもっているということか。とにかく50歳と45歳の添わぬ男女を描けるマンガというのはただ事ではない。

 いずれの作品にも,小道具として茄子が登場する。あの,紫色の,焼いて熱いのを皮むいて醤油かけたり,じっくりヌカに漬けこんだり,それから中華味で炒めたり味噌汁に入れても旨い,あの茄子だ。スペインのアサディジョ漬けは5日目が一番旨いのだそうだ(巻末にはちゃんと漬け方が載っている)。ワインと食え! ビールで食う奴は死刑だ! そうだ。

 これら脈絡のあるようなないような短編群に登場する茄子は,いったい何の象徴なのか……などと問うのはヤボの極みだろう。しいていえば,作者の太いペンタッチは,焼き茄子の皮のあたりのイメージにちょっと似てる。巻末のオマケの4コマが,また笑える。「夏はビールに限るなあ なすでも焼くか」という作者を台所で茄子たちがつるし上げ,「何がなすでも焼くかだっ!!」「なすのマンガ描いてわれわれをメジャーにしろ」「タマネギよりもメジャーにしろ」「大ブレイクしろ」……。

 さて,これが第1巻,大ブレイクは果たせるだろうか。

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