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2001年7月の22件の記事

2001/07/31

[補遺] ヤング・ミュージック・ショーについて ほか

○エルトン・ジョン
 『イエス・イッツ・ミー~レア・トラックス』などが発売されたおかげで,エルトン・ジョンについては初期のCD化されてなかったマイナー曲も大半が手に入るようになっています。しかし,いまだブートレッグでさえ見かけないのが,かつて(1973年10月28日)NHKがヤング・ミュージック・ショー(*1)で放映した音源です。
 その内容ですが,まずは来日コンサートからJerry Lee Lewis「Whole Lotta Shakin' Goin' On」を一発(画質は悪いのですが,ピアノの前での飛び跳ねロックンロールで,まさに「一発」),そしてメインはロンドン・ロイヤル・フィル(ポール・バックマスター指揮)をバックに,「僕の歌は君の歌」「パイロットにつれていって」「60才のとき」「可愛いダンサー」「王は死ぬものだ」「黄昏のインディアン」「マッドマン」「布教本部を焼きおとせ」そして「グッドバイ」という,2nd,4thアルバムからのメロディアスなバラード中心に全体で約60分。
 実は,1993年に発売された『エルトン・ジョン/エルトン・スーパー・ライブ~栄光のモニュメント~』が,ストリングスをバックにオーストラリアで録音されたもので,明らかにヤング・ミュージック・ショー当時を意識した初期のメロディアスな曲中心の選曲なのですが,いかんせんこの時期のエルトン・ジョンは喉のポリープで高音が乱れ,曲によってはかなり聞き苦しい。
 やはり,若くはつらつとした時代のヤング・ミュージック・ショーのナイーブかつテレビ放映用とは思えないほどクリアな音源のCD化を期待したいのですが……。

*1「ヤング・ミュージック・ショー」……NHKが1971年~1981年の約10年間にわたって,散発的に海外のミュージシャンのライブ映像を放映したもの。エマーソン・レイク&パーマー,ローリング・ストーンズ,ピンク・フロイド(ライブ・アット・ポンペイ!),スリー・ドッグ・ナイト,ロキシー・ミュージック,サンタナ,ポリスなど,プロモーションビデオがブームになる以前の貴重な洋楽ビデオクリップ,ライブ放映だった。

○カーペンターズ
 カーペンターズについて,デビュー当時から気になっていたのは,ともかくバックミュージシャンの写真がレコードジャケットに一切掲載されないこと。ライブコンサートのもようでも,カレンとリチャードだけを写すか,写っていても,ピンボケで顔も楽器の詳細もわからないようになっているのです。
 もちろん,ポップミュージシャンのバックバンドなんて今も昔も写真が載らないのが普通かもしれませんが(たとえば松田聖子のシングルのバックミュージシャンなんてぜんぜんわかりません),さわやか,和気あいあいなイメージで売っているわりには冷たいよなぁ,という気がしたものです。
 「愛にさよならを」のギターなど,いかにもカーペンターズふうの音がある以上,同じスタジオミュージシャンが参加していたに違いないのですが。

 なお,カーペンターズの怪しさについては,山岸凉子が1987年9月号11月号のASUKAに「グリーン・フーズ」という作品を掲載しています。兄妹のポップグループで,兄がキーボード,妹がヴォーカル担当,妹が拒食症で死ぬ,という以外は別にカーペンターズでなくともよい設定(兄が名子役だった栄光から才能ある妹を抑圧する,というストーリーになっている)ではありますが,山岸凉子もなにか気になるものがあったのかな,という気はします。

2001/07/30

知ってるつもり?! 『キャラバンサライ』 サンタナ

Photo_6【「着くまでもつか?」「ああ血がとまったから」】

 もとやま礼子というマンガ家がいる。いた,と書くべきだろうか。久しく作品を見かけないし,単行本もこの20年,出していない。
 手塚治虫が『火の鳥』を掲載した「COM」の月例新人賞でデビュー,70年代後半,つまり萩尾望都,大島弓子,樹村みのり,名香智子,伊東愛子,岸裕子,倉田江美らが描いていた頃の別冊少女コミックで異彩を放ち,その後ふっつりと消えてしまった。

 光をたたえた大きな目,長い髪がたなびく,要するに一見オーソドックスな少女マンガふうの絵柄なのだが,ストーリーに目をやるとこれが骨太というか,若者の感情を大胆に描く作品が少なくない。恋愛が成就するか否かにはほとんど力点をおかず,日々の出会いから湧き出る感情のダイナミズムを太い線で描く,そんな趣。高校生の青年の,姉に対する恋慕を描く作品などにその傾向が顕著だ。タブーを描くというより,成就のあてのない,出口のない思いが素材として好まれたのではないか。また神社仏閣,紅白饅頭等といった,少々古風かつ和風の小道具も,もとやま作品の特徴の1つだろう。
 決してメジャーな作家ではなかったし,活動期間も長くないので代表作と言えるほどのものはないが,単行本化された作品の1つに『やったぜ!墓場グループ』という連作がある。高校の近くの墓場にたむろする不良たちと,それにかかわってしまった少女・差久楽(さくら)の青春群像,といった趣のコメディ。もちろん四半世紀も前の少女コミックに登場する「不良」など,せいぜい学校の外でタバコを吸って酒飲んで殴り合いのケンカをする程度で,進学校に通っているぶん今どきなら模範的高校生といってよいほどなのだが。

 と,前ふりが少々長くなったが,この墓場グループの最初の作品「墓場グループの誕生日」で,生徒会長の吉川にあこがれる差久楽が彼の部屋で聞かされ,ステレオもプレイヤーもないのに思わず買い求めるレコード,それがサンタナの『キャラバンサライ』である。
 サンタナといえばカルロス・サンタナの泣きのギター,ラテンの情熱的なリズム,と,まあ,説明する必要もない,現役のメジャーバンドだが,この4thアルバム『キャラバンサライ』は,ウッドストックで名をあげ,「ブラック・マジック・ウーマン」等で功をなしたサンタナが,どんどん精神的な世界に傾倒していき,バンドとして方向性を見失う直前の,綱渡りというか神業のようなアルバムである。
 「キャラバンサライ」すなわち砂漠の「隊商」をテーマにしたこのコンセプトアルバムで描かれた精神性というのは,キリスト教の教条主義とは少々色合いの異なる,砂漠の夜明けに立ち会ったら人は誰しも敬虔な気持ちになるとかいったそういうものだろうか。ラテン,官能的,エキゾチズムに加えて敬虔な精神性,という,言葉の上では並存できそうもないものが一つの夜の焚き木の中で燃え盛り,そのくせ全体には涼しい風が吹き抜けるようにクール,そんなアルバムだ。

 もとやま礼子は,ほかの短編では,やはり不良少年たちのたまり場でポール・サイモンの「アイ・アム・ア・ロック」を小道具に使っている。これがまた,巧い。
 揺らぐもの,揺らがないものがロックやマンガの切実なテーマとなる時代……そういうことだろうか。

2001/07/29

知ってるつもり?! 『遥かなる影』 カーペンターズ

Photo_3【They long to be...】

 カーペンターズといえば「さわやか」「美しいコーラス」「バカラックの秘蔵っ子」それにせいぜい「多重録音」といったところで,硬派な議論はあまり見かけない。というより,カーペンターズがヒットチャートを彩った当時,カーペンターズのシングルを買い求める男は,プログレファン,ヘビメタファン,いや四畳半フォークな連中にさえ軟弱者扱いされたのではないか。
 だが,ときどきふと,「さわやか」だけで語り終えてよいのか? という気にならないでもない。実は何か裏にどろどろしたものはないのか,という疑念である。そしてそのどろどろのカケラでも発見できないかとCDを皿受けに乗せてみる。何もない。いや,逆にこの,どろどろしたものの徹底した欠落は,それはそれで何か怖いものなのではないのか。

 カーペンターズのデビューシングルは1969年の暮れに発売された「涙の乗車券」。言うまでもなくレノン&マッカートニーの作品のカバー(歌詞の"she"が"he"に置き換えられている)。翌年,2枚目のシングル「遥かなる影(Close to you)」が全米1位になり,あとはスター街道まっしぐら,といった感じだった(ちょうどジャクソンファイブと同時期で,シングル発売のたびにビルボードホット100を争っていたような記憶がある)。
 1970年といえば,日本では三島割腹,よど号ハイジャック,マンガを見ても「アシュラ」に「ファイヤー!」に「光る風」。アメリカでもベトナム戦争,ヒッピー,ドラッグなど,何か世界中が問題意識で煮詰まっていたようなころ。ロックシーンでもビートルズが解散,ハードロック,プログレッシブロックが頭角を現していた。
 そんな中,カーペンターズは登場し,出来すぎた御伽噺のような清潔でさわやかな愛の歌を連発する。

 何も,おかしくはない。いや,どこか,へんだ。
 もちろん,当時,ほかにポップミュージシャンがいなかったわけではない。たとえばやはりさわやかなイメージやオーケストレーションで日本でも人気のあったオズモンズやポール・モーリアも高い人気を誇ったころだ。
 しかし,ヒットチャートをにぎわすポップミュージシャンは,通常,ポップミュージックという箱の中での存在に過ぎない。カーペンターズは,それに比べると妙に浸透しているようにも見えた。明らかにビートルズのような精神性,革新性はないはずなのに,ビートルズのような受け入れられ方とでもいうか。うまく言えないが。
 うがった見方をすれば,ぎとぎとした時代へのカウンターとでも言うか。CDのライナーノーツによれば,日本でカーペンターズ人気が沸騰するのは石油ショックとほぼ同時期だったようだし,さらに後にイギリスで人気が出たときには,不況と失業でパンク全盛のころだったようである。カウンターというよりは,ヤシガラ活性炭的とでも言おうか。社会の問題意識が煮詰まった時代に,それを吸収するうつろな箱としての機能。

 だが,それを吸収したヤシガラはどうなるのか。
 そう思うと,あれほどのクリーンな印象でありながら,「カーペンターズ,兄弟で結婚?」と音楽雑誌に報道されたり,カレンが拒食症による心不全で亡くなる(32歳),というかなり悲劇的な終末を迎えることになったりしたこともわからないではない。ジュリー・アンドリュースではなく,ジャニス・ジョプリンの側にいた,とでも言うか。
 今,「遥かなる影」を聞きながら考える。カレン・カーペンターは,うまくすれば幸福な老後にたどり着けたのだろうか。それとも……。

2001/07/28

知ってるつもり?! 『マッドマン』 エルトン・ジョン

Photo【世界の森繁久彌】

 もう何年も前だが,ロッキングオンか何かに「エルトン・ジョンのファンっていったいどんな人なんだか」という記事が載って,苦笑いして読んだ記憶がある。とても有名なのはわかるけど,心からのファンがいるとはとても思えない,そんな書き方だった。
 確かに,最近のエルトン・ジョンは,ベルサーチやダイアナ元皇太子妃の葬儀で泣き崩れて「あたしなんかがねえ,生き残ってねえ」と森繁久彌やってる姿くらいしか思い浮かばない。

 だが,テレビCMやドラマの主題歌として2,3年に一度はリバイバルヒットする「僕の歌は君の歌(Your Song)」(2ndアルバム『エルトン・ジョン(Elton John)』収録)の作られた1960年代後半から70年代前半にかけてのエルトン・ジョンは,叙情味あふれるピアノの吟遊詩人というイメージと天才的な作曲の才能で,それはもうカルトな人気を誇ったものだ。たとえば「僕の歌は君の歌」はバーニー・トーピンから詩を渡され,ピアノの前に座って15分でできた,と言われている。
 『ホンキー・シャトー(Honky Chateau)』から7作連続全米No.1を獲得し,バラエティあふれるエンターテイナーエルトン・ジョンの最高傑作は『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード(Goodbye Yellow Brick Road)』,というのがロック雑誌などでよく言われる定説だが,どうもばたばたした印象,おまけに2枚組と長すぎて(最近はCD 1枚にまとめられている)あまり好みではない。というか,エルトン自身が言うところの初期の"strings period"好きとしては,(セカンドアルバムは多少聞き飽きたこともあって)ここは一つ4thの『マッドマン(Madman Across The Water)』を押したい。
 夜の高速をドライブするような切なさに満ちた「可愛いダンサー(マキシンに捧ぐ)(Tiny Dancer)」,ポール・バックマスターのアレンジが異様な高揚を誘う「マッドマン(Madman Across The Water)」,インディアン一族の悲劇的な最後を描く「黄昏のインディアン(Indian Sunset)」,アルバムの最後を締める小曲「グッドバイ(Goodbye)」などフェーバリットソングが並ぶが,中でも金儲けにしか興味のない小市民の死を歌う「リーヴォンの生涯(Levon)」は凄い。なめし皮のムチを振るうようなエルトン・ジョンならではの屈折したメロディ展開。アクの利いたヴォーカル,ピアノのタッチも彼らしい。

 エルトン・ジョンはよく知らないが「僕の歌は君の歌」は好き,という方には,同様のメロディアスなチューンとして,2nd『エルトン・ジョン』の「ハイアントンの思い出(First Episode At Hienton)」,3rd『エルトン・ジョン3(Tumbleweed Connection)』の「遅れないでいらっしゃい(Come Down In Time)」,さらには出来が悪いからとずっとCD化されなかった映画「フレンズ」のサウンドトラックほか初期の佳曲がようやく2枚組CDにまとめられた『イエス・イッツ・ミー~レア・トラックス』から「四季のテーマ(Seasons)」あたりをお奨めしたい。恋や愛を歌うには,泣いたり叫んだりする必要はないのだ。

 『マッドマン』といい,最後に並べた曲目といい,エルトン・ジョンのオーソドックスな評価としては癖がある選択とは思うが,エルトン・ジョンのヒット曲を他のミュージシャンが歌ったトリビュートアルバムで元ポリスのスティングが「遅れないでいらっしゃい」を選んでいたのには驚き,また嬉しく思った。考えてみれば,この,世にも難しい愛の歌(なのか?)を胸張って歌えるのは世界でもスティングくらいなのかもしれない。

2001/07/27

[ぜんっぜん 書評ぢゃない] 消えたマンガ家 その六 『信長君日記』 佐々木けいこ / 白泉社

 このところ重い本(内容が,ではなくて物理的に)や怖い本が続いたので……ふと,気分転換に佐々木けいこ『信長君日記』が読みたくなった。掲載誌は「LaLa」だったかな。

 ところが,ずっと昔に単行本を買ったような記憶はあるのだけれど,どうも本棚には見当たらない。雑誌からの切り抜きの箱にも,ない。……ないの(©チビ猫)。

 作者も最近見かけないような気がする。
 読めないとなると,気になって気になって,もう。

2001/07/26

悪夢のように静止する時間 『エイリアン9』(全3巻) 富沢ひとし / 秋田書店ヤングチャンピオン・コミックス

9【ねェ先生…………あたし人間なのかな】

 『未来のアトム』では,ベルグソンの言う「真の時間」や茂木健一郎の著書における「物理的時間」と「心理的時間」など,人間の「知能」や「意識」がとらえる時間についてもいくたびか取り上げられている。
 静止画像でストーリーを描くマンガは,実はテクニック的にも本質的にも大いにこの「時間」とかかわるメディアで,たとえば『エイリアン9』の異様な怖さはそのあたりと無縁ではないように思われる。

  ↑ ちょっと気取りすぎ。

 6年椿組の大谷ゆりは,クラスの係を決める投票の結果,絶対なりたくない「エイリアン対策係」に選ばれてしまった。ゆりと桃組の遠峰かすみ,藤組の川村くみは,共生型エイリアン「ボウグ」を頭に被り,次々と学校に飛来するエイリアンたちを倒さなければならない。
 エイリアンが地球に現れたのは1998年10月,だとか,キノコ型の宇宙船がときどき学校の校庭に落ちてくるとか,学校ではウサギを飼育するように一部のエイリアンを飼っているとか,断片的な情報はあるものの,「なぜ」「どうして」はなかなか明らかにされない。エイリアンはボッシュの絵画作品の夢魔たちのようにさまざまな形をし,人間を脅かす。

 これだけならよくある近未来SFのように思われるし,主人公が小学6年の少女たちというのもいかにもロリコンオタク向けに思われる。
 しかしこの作品は,先にも述べたように妙に怖い。読んでいるうちに世界の中心がゆらぐような,そんな感じがするのだ。
 それはたとえば,凶悪なエイリアンが生活の中に侵食してきた世界という設定,また,明るく活発なかすみが内面的にあるエイリアンに共生されてしまう,学級委員長タイプのくみが別の凶悪なエイリアンに腹部を食い破られて死に,ボウグとの共生によって再生されている,など,ほのぼのした絵柄に似合わず容赦のない展開のせいもあるだろう。

 しかし,本作品の怖さは,そういった文章で書き表せるところにはない。コマに流れる時間が,どうも普通のマンガ作品と様子が違うのだ。
 多くのマンガ作品では,読み手をストーリーに同調させるため,効果線や擬音などさまざまなテクニックが用いられる。たとえばキャラクターの表情は,通常,作者によって,そのコマのシーンで最も読み手に対して効果的な表情が選ばれるのが普通だ。
 ところが本作では,1つのコマの中にまるで「前のコマと次のコマの間の時間全部」がこもっているように見える。効果線や擬音のあまりない1つ1つのコマやキャラクターの表情はあたかも静止しているように見えるのである(普通,これはヘタクソという)。たとえば2巻,くみが岩型のエイリアンの嘴に右腕を噛み切られるシーンで,くみは悲鳴を上げず,呆然とした表情で正面を向く。そのコマの事象が起こった際の,1つのコマ内で流れる時間の平均的な表情が常に描かれる,とでも言おうか。ゆりを襲うエイリアンに共生された少年たちの貼りついたような笑顔も同様。

 マンガという,書き手によってコントロールされているはずなのに,恣意的には見えない表情。なんのことはない,これは怖い夢とそっくりなのだ。「悪夢のような」ではなく,「悪夢そのもの」と言えば,この作品の怖さがお分かりいただけるのではないか。

 読み手を選ぶし,終わり方にも疑問がなくはないが,富沢ひとし『エイリアン9』,お奨めである(月刊アフタヌーンに現在連載中の『ミルククローゼット』では,作者が自作の特異性に気がついてしまったようなところがあって,それがよいことなのかどうか……)。

2001/07/24

メタファー(暗喩)としての 『未来のアトム』(その三) 田近伸和 / アスキー

65【神の領域に近づく】

 「カオス」だの「不完全性定理」だのの理論,思想,哲学,宗教(?)についてはキリがないのでここでは取り上げない。
 要するに著者の主張は,知能の発現には身体が不可欠であるということ,そして人間の知能や意識はそれが果たして人間の中のどこのどのような働きによって存在するか,現代科学ではほとんどといってよいほど解明されていない,また従来の科学的手法によってはおそらく解明できないだろう,ということだ。
 たとえば,科学は水を水素と酸素の化合物として明示的に規定するが,人間にとっての水は,暑い日差しの元で喉を潤す一杯の水であったり,心地よい風呂の水であったり,山をも崩す濁流であったりする。これは身体,五感を通して記憶された水であって,いかなる辞書もこれらを包含することはできない。そして,身体的な認識を得られない限り,いかなるAI(人工知能)も,このような認識を持つことはできない。
 だから,少なくともよほどのブレークスルーがなければ「超機械」としてのアトムは実現不可能だろう。……

 結論だけ見れば,何を当たり前なことを,という気もする。
 ヒューマノイドの開発が「人間とは何か」と密接に関係するのは間違いないが,イコールではない。まず,この著者は機械の開発における「模倣」という概念を(意図的かもしれないが)除外している。また,機械というものは目的に応じて開発されるものであり,人間の行為はその目的について十全に理解していなくても果たされる場合があることが失念されている。たとえば国家とは何か,政治とは何かの完全正答はなくとも国家・政治は営まれる。
 その意味で,本書は,ヒューマノイドについてのノンフィクションの体裁を借りながら,ベルグソンに感動したという著者の人間観,科学観を総覧的に述べたもの,ととらえるべきかもしれない。
 しかし,科学の現状と科学観(メタ科学)を同一水平面で論じるのは,それこそフレーム違いではないか。

 添付画像は我が家のペットのザリガニである。この夏,我が家に来たときには触角を半分失い,少々元気がなかったが,一度脱皮して以来なくした触角も多少は伸び,ずいぶんと快活になった。
 彼の目に,夜になると水を替え,餌を投げ入れる私はいかに見えているのか。彼のハサミや足の動きはいかなる仕組みで動いているのか。彼の意識,恐怖,痛み,記憶,生への執着はどのように把握されているのか。眺めているだけで興味は尽きない。

 知能が身体と密接にかかわるなら,人間とザリガニの意識は永遠に一致することはないだろう。左右で十本の指を持つ人間の知能と,0,1のデジタルの組み合わせで思考するコンピュータはどこまでいっても不完全な翻訳機能を介してしか会話できないだろう。それは当然のことだ。

 『未来のアトム』の著者は,現在の科学の限界を気にするあまり,いたずらに限界をあげつらっているようにも見える。それは,未来が予測不可能であるとする著者の指摘からしても明らかに矛盾する。不可能なはずのことを(予想と違う形であれ)次々に実現してきたのが人間の意識,心ではなかったのか。
 だからといって,全く人間と同じように認識し,同じように意識,心を持つヒューマノイドを期待するのも無茶というものだろう。ヒューマノイドには,ヒューマノイドとしてのアイデンティティ,そしてレゾンデートル(存在意義)が発現するに違いない。それを人間が理解できるとは限らない。

 ザリガニはザリガニであって,人間より偉くもなければ偉くなくもない。そんなものである。

科学は意識や心を扱えない 『未来のアトム』(その二) 田近伸和 / アスキー

【AI研究の出発点にはデカルトの心身二元論があった】

 知能は極めて身体的なものである。たとえば人間の二足歩行の理論については,実はいまだ誰も理論化できてないにもかかわらず,ホンダのヒューマノイド開発チームが,ロボットが倒れないように人間が横で支え,その感触,直感に基づいて歩き方のプログラミングを変えていったという挿話は興味深い。
 また,早稲田大学理工学部等で進められている,モデル・ベースでない,ビヘイビア・ベースのロボットの開発についての話もなるほどと感心させられる。これは事前にすべてのプログラムを組み込むのでなく,基本的なプログラムだけ与え,行動と学習によってロボットに自ら知識を獲得させようとする試みである。
 さらに,ロボットが周囲を認識するための視野についての考察も面白い。たとえば認識における「フレーム」の問題がある。ロボットに,時限爆弾が仕掛けられた部屋に行き,予備バッテリーを取って来いと命令したとき,ロボットはバッテリーと時限爆弾が同じワゴンに乗っていてもそのまま持って出てしまう。さりとてあまり細かく命令を与えると,今度は少しでも状況が異なると計算の要素が膨らみすぎてやはり吹き飛ばされてしまう……(AI(人工知能)が,チェスでは人間のチャンピオンに勝てても囲碁ではいまだ勝負にならないのは,このフレームの問題が大きい)。

 このように,さまざまなロボット,ヒューマノイドの開発,研究元を訪ね歩き,それぞれの考え方や開発の現状をレポートする前半部はまことに面白い。手に汗握る面白さ,と言ってもよい。しかし,そのうちに著者は大きな疑問とぶつかり,記述の方向を変えていく。よく言えば深化,悪く言えば逸脱である。
 著者は,ヒューマノイドの開発,研究が人間の本質に深くかかわるという自覚から,「人間とは何か」にばかりひたすらこだわってしまうのである。

 確かに,人間がどのようにモノを見,それを認識し,さらにはどのような意識から行動を起こすのか,これは汲めども尽きぬ思索の対象であり,しかも現代までの科学,学問が実はほとんど手も足もでない領域でもある。

 たとえば,最近テレビで放映されている,サッカーの中田選手をフューチャリングしたCMの1つを思い起こしてみよう。彼は広い部屋の縦横に置かれたさまざまな椅子の中から,自分の好みの椅子を発見し,それにゆったりと腰掛ける。CMはこれに「自分らしさ……」といったナレーションがかぶさるのだが,この短いCMには実は科学的にはいまだ説明できないさまざまな要素が含まれている。

 たとえば,人間は,さまざまな大きさ,鉄・木・革といったあらゆる素材で組み合わさったモノを,どうやって(机でも犬でも自動車でもパンでもなく)「椅子」と認識できるのか。
 また,離れたところから,鉄や木や革といった素材感を見抜き,さらに実際に座ってその滑らかさ,硬さ,柔軟性などを認識できるのだろう(こういった質感や色彩,香り,味わいなどを脳科学では「クオリア」と称し,その物理的,化学的なメカニズムは今もって謎とされている)。

 著者は,こういった人間の「知能」,ひいては「意識」や「心」の問題にとらわれ,プラトン,デカルトから最近の「自己組織化」「総発」「非線形ダイナミクス」「カオス」「オートポイエーシス」「アフォーダンス」,さらにはゲーデルの「不完全性定理」,ペンローズによる「量子重力理論」といった最新の科学理論,さらにはベルグソン哲学まで持ち出して生命と非生命の間の深遠な溝を指摘することに奔走する。

(つづく)

2001/07/23

ヒューマノイドの現在と,そして未来 『未来のアトム』(その一) 田近伸和 / アスキー

95【BGMは山下達郎「アトムの子」】

 ホンダの二足歩行ヒューマノイド「ASIMO」,SONYのペットロボット「AIBO」など,今,ロボットがちょっとしたブームだ。では,近い,あるいは遠い将来,「鉄腕アトム」は本当に実現するのだろうか?
 本書『未来のアトム』は,ノンフィクションライター田近伸和がそのテーマを追ってロボットにかかわる古今の著作,思想,そしてホンダや早稲田大学,大阪大学,東京大学,経済産業省,SONY,NECなど実際にロボットの研究,開発に携わった人々にインタビューを重ねて練り上げた力作である。A5判ハードカバー,600ページ余,900グラム。あの京極夏彦『絡新婦の理』が600グラムといえば,どれほどの重みかご理解いただけるだろうか。……もちろん書物の価値が実際の重量に左右されるなどということはないのだが,サブノートPC並みの重量を鞄に入れて持ち歩くだけの価値のある1冊であることは主張したい。

 ヒューマノイド(人間型ロボット)の研究,開発においては,日本は群を抜いて進んでいる。
 というより,ほとんど唯一の開発国かもしれない。その背景には,モノ造りに強い,機械に強いという伝統もあるだろうが,手塚治虫原作の「鉄腕アトム」の影響があるに違いないというのが著者の主張である。国産初のアニメであり,またテレビの普及期の青少年に大きなインパクトを与えたアニメ「鉄腕アトム」は,確かにその世代の人生観に少なからぬ影響を残しているに違いない。
 また,思想的にも万物に神が宿る,と考える日本的な考え方は,神を唯一絶対とし,「人間を造る」行為を不遜とするキリスト教社会よりはヒューマノイドの開発を受け入れやすいのかもしれない。

 「鉄腕アトム」は,10万馬力(のちに100万馬力)の力,ジェットあるいはロケットによる飛翔,前向きな精神で「正義の味方」「明るい未来の象徴」の印象が強いが,実は「ロボットは心を持てない」という精神的な足かせと闘う,極めて内省的なドラマだった。原作かビデオをご覧になっていただけるとおわかりいただけると思うが,決して爽快な物語ではない。いや,ある意味ビョーキな設定と言えるかもしれない。なにしろ,先ほど「精神的な足かせ」という言葉を使ったが,ロボットにはそもそも「精神」というものがあるのか否か。「意識」「心」というものがあるのか否か。それなのに,それがないことに悩むなら,それは全く矛盾というか,実に人間的な悩みである,という実に奇妙かつ複雑な構造に基づくドラマなのである。

 さて,ところが「精神」とか「意識」「心」といっても,それはどこに,どのような形であるものなのか。近代科学は,それが「脳」の中に,なんらかの機械的,あるいは化学的に存在するもの,と(さしたる根拠もなく)みなしてきた。しかし,本当にそうだろうか? それならコンピュータが十分な速さとボリュームを持ったとき,AI(人工知能)は人間に迫れるはずだが,それは不可能ではないか,とするのが著者の主張である。
 まず,第一に,人間の知能は「脳」の中にあるだけでなく,極めて身体的なものではないか,ということ。つまり,二足で歩き,両手で物を持ち,視覚でものをとらえることと密接にかかわりあって発達してきたものではないか。だとするなら,コンピュータの中でAIをいくらこねくりまわしても,人間的な知能にはいたらないのではないか。
 だからこそ,人間とは何か,人間の知能とは何かを考えるとき,ヒューマノイドの研究は必須なのではないか。

(つづく)

2001/07/21

寡黙で骨太なもう1つの昭和史 『スカウト』 後藤正治 / 講談社文庫

231【背筋をきちんと伸ばして生きてきた】

 今年ほどプロ野球の人気凋落が話題にされた年があったろうか。財力にあかして有名選手をかき集める一部球団の体質が問題とされることが多いが,それはプロ野球の人気が好調であった頃から実は変わっていない。同じ方法論ではもう通用しなくなった,とみるべきだろう。
 それも道理で,なにしろ昔の子供はほかに楽しみがなかった。革のグローブ,木のバットなど持っているだけで空き地でのレギュラーが保証され,ピッチャーで4番でホームランを打つことはほかの何にも代えがたい夢だった。

 本書『スカウト』は広島カープ(のち大洋ホエールズ,オリックスブルーウェーブ,日本ハムファイターズ)で辣腕スカウトとしてならし,数々の名選手を発掘した木庭教(きにわさとし)に数年間密着取材し,スカウトという仕事を通してプロ野球を,より正確には「昭和」という時代の1つの側面を克明に描き上げた「作品」である。

 木庭がカープのスカウトであったという設定は,それだけで重い意味を持つ。
 彼は被爆者であり,九死に一生を得たものの,今も甲子園大会初日の国旗掲揚と君が代の斉唱の折りにはそれが過ぎ去るのを球場スタンド下の通路で待ち,それから席に向かう。また往年のカープは人ぞ知る貧乏球団であり,高い契約金が用意できないため,無名の,しかし将来性のある選手を発掘する必要があった(だからこそ赤ヘル軍団の初めての優勝は,カープファンならずとも胸にこみあげるものがあった)。カープ時代に木庭が手がけた選手には衣笠祥雄,三村敏之,金城基泰,池谷公二郎,木下富雄,高橋慶彦,山崎隆造,大野豊,達川光男,長嶋清幸,川口和久,紀藤真琴,正田耕三らがいる。野球に詳しい方なら「なるほど」と通じるものがあるのではないか。
(ちなみに本書でも詳しく紹介されているアンダースローの金城は,烏丸がプロ野球史上でも最も好きなフォームの持ち主の1人だ。肩から後ろに思い切り伸ばした腕の振りには,線でなく面の球威を感じたものだ)

 本書を読み進むうちに,アマチュア野球選手に対する著者の評価の目がだんだん木庭に似てくるのが面白い。さらにページを繰るうちに,読み手の目まで影響を受けるのだ。すなわち,ある程度の身長があり,痩せていてもバネがあり,ピッチャーならキレ,バッターならスイングに見るべき点があるかどうか。もちろんプロの目は厳しい。その厳しい目をもってしても見逃しや,期待通りにいかない選手がいる。
 (どこまでが本音かはわからないが),昨今はなかなかよい選手がいないという。しゃかりきに野球漬けでなくとも,という環境のせいだろうか。

 本書終盤において,夏のアマチュア大会や地方の高校を尋ね歩く木庭は顔が土気色となり,老いや病を感じさせる。それはまるでプロ野球,いや野球に代表される1つの時代の終焉を感じさせるようだ。
 ところがプロ野球界は逆指名や契約金の高騰など,ごく一部の球団にのみ都合よく,ファンや子供たちから見ればごり押しの姑息な色合いをますます強めていく。
 今さらその是非は問うまい。ただ記憶のスポーツと呼ばれるプロ野球や甲子園の高校野球の魅力が色あせていくことを心から惜しみたい。この国は,何か大切なものを喪いつつあるのではないか。

 最後にもう1節だけ,この木綿でしっかり編まれたような気持ちのよい本から引用しよう。
 「どのような仕事であれ,仕事は,それをやり遂げた当人に無形の報酬を付与するものだ。淡雪のごとく,たちまち消え去っていくものであれ,至上のときといっていい時間がある」

2001/07/18

[書評以前] 『新耳袋 現代百物語 第六夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー

Photo_3【うわっ,人にはでけん】

 実録怪談モノとして独自の地位を築いた『新耳袋』第六夜。新刊発行に併せ第一夜から平積みにしている書店が少なくないようだ。ご覧になってない方はぜひ手にとっていただきたい。
 本書は怪異蒐集家の木原浩勝・中山市朗両氏がこつこつ集めた怪異譚集だが,他の怪談集との違いは,死体や墓地,血まみれの顔が,といったいかにもの怪談や因縁話を極力排し,市井の素朴な体験をそのまま掲載したことにある。そのため,たとえば一連の稲川淳二本がそうであるように,悲鳴を上げるような効果こそないが,逆になんとも説明のつかない不安感,突拍子のなさが残る。
 ただ,何冊か出版されるうちに,蒐集側にそのつもりがなくとも,話を持ち込む側が似た話を持ち出す傾向が強くなるのは否定できないだろう。そのため,第五夜,第六夜ともなると,「前に似た話が出てこなかったかな」という話も少なくない。
 ただ今回は京都にある「因縁」系のマンションについて小特集が組まれており(カバーの内側の本の表紙もそのマンションの写真だ)……いや,詳しくは直接お読みいただくのがよいだろう。ただしその結果,あなたの背後に

 失礼,回線が落ちてしまった。これ以上そのマンションについて書くのは剣呑なので,ここでは烏丸が親しい者から聞いた話を紹介してみよう。

 ずいぶん以前のことだが,烏丸の縁戚で,たて続けに不幸が続いたことがある。それぞれはとくにおかしな死に方ではないのだが,少々続き過ぎる。そのうち,伯母の葬儀から帰った別の伯母が,亡くなった伯母から分けてもらった十姉妹が鳥篭の中でそろって死んでいるのを発見して,これは何かおかしいということになり,祈祷師というか,そういう人に見てもらったのだという。するとその祈祷師はその縁戚の者の育ちや生業を見抜き,「山のほうにある,一族のお墓が荒れている。五輪の塔が崩れ,お地蔵さんも倒れている」と言ったというのである。一族のといってもいわゆる「本家筋」の墓であって,新しくて明治のもの,かかわる者は誰一人その墓がそこにあることさえ知らなかった墓地なのだが,車でそこを訪ねてみると,墓守の家があるような立派な墓地でありながら,荒れ果てて五輪の塔が崩れ,地蔵が倒れていたのだそうだ。

 さて,慎重な方なら,ここまでいくつか気になる点があったのではないか。十姉妹が死んだのは姉の死に慌てた伯母が水や餌を忘れたせいだろうし,祈祷師は裏で依頼主の氏素性を調べたのではないか,などなど……。
 そもそもこれは伝聞の話だし,今となっては確認のしようもない。ともかくその御祓いを境に縁戚の葬式はしばらくはおさまったのだからよしとすべきだろう。

 烏丸自身の経験はそれから10年以上経ってのこと。仕事で知り合った若者が,家族や親戚に不幸が続き,かなり厳しい状況に陥った。それも,穏やかな病死とかいった様子ではなく,幼い子供まで含めてかなり異様な感じである。慰めるすべもなく,烏丸は大昔の祈祷師の言葉から,先祖の墓が荒れてないか,という意味の言葉を彼に告げた。若干の演出のために五輪の塔,地蔵のことまで含めて。すると彼は,週に何度も郷里と東京を往復したため,睡眠不足で黒ずんだ目を見開いて,こう言うのだった。
「この夏に田舎の……五輪の塔だの地蔵だの……どうしてそんなことまで知ってるんです」

2001/07/17

かつて,美術館へ

 そのころの二か月に一度か二度,たいていは水曜日の午後,ぼくは誘われるままにその女性とどこか都内の美術館に出かけた。晴れた日もあれば,雨の日もあった。彼女は気にいった絵があると,バレリーナのように背筋を伸ばしてその前に立ち,風にあらがうように,あるいは癒されるのを拒むようにその絵を見つめるのだった。
「あなたは,わたしが絵を見るときに邪魔にならない,珍しい人なの」
「ほかのことでは,こんなにうとましいのに。うとましくて,ねたましいのに」

 ……美術館では音がやむ。時間の意味が変わり,きしんだ胸が安らぎ,あるいは白い心に傷が走る。
 だから,火曜日の電話は嫌い。雨の日の美術館は嫌い。

2001/07/16

本の中の名画たち その十ニ 『名画 裸婦感応術』 横尾忠則 / 光文社知恵の森文庫

66【あんまり上手い絵にはどことなく抵抗がある】

 横尾忠則の本では以前『名画感応術 神の贈り物を歓ぶ』を取り上げた。
 絵画は「感覚」「感性」で見るものだという考え方の是非はともかく「自分が考える意味,自分が感じる感性はおっけーで,他者が意味や感覚について述べたらイマイチ,それだけのことなのかも」と身も蓋もない酷評をしてしまったわけだが,それは構造的な問題だからしょうがない。「こちらも感覚,感性で読ませていただいて,美味しいところ興味深いところだけ味わおう」といったところか。

 『名画 裸婦感応術』では,教科書級の巨匠からダダ・シュルレアリスト,ポップアート,さらには現時点ではまだメジャーといえないあたりまで計36人の画家の作品が紹介されている。裸婦に限定したためかめったに見られない作品も少なくなく,目を通すだけでも楽しい。

 ヴィレム・デ・クーニングについての,上手く描けないから人物の手首の描写を極力避けているように思われるという記述は面白い。実作者でなければ出てこない読みではないか。しかし傑作(には見えないのだが)「女」シリーズを捨てた結果,ほとんどチンパンジーの描く絵画と区別できない領域に至るって,大丈夫かクーニング。
 クロビス・トルイユは本書の見ものの1人。血と薔薇と骨牌の大正猟奇というか,懐かしいタッチ。ただ,この手の絵が知れわたるにはきっかけが必要。ベストセラーの表紙に使われるとか。
 ローランサンはあまり好きでなかったが,本書のように過剰な自己主張の中に収まると心地よさが許せる気がするのは身勝手か。
 どうも横尾はシュルレアリスム周辺について評価が辛い。「この程度で大家扱いされている,もっとほかに魅力的なアウトサイダーが」といった感じか。そう指摘する横尾当人がデュシャンに対して「感覚」「感性」でなくコンセプトでしか見ていないのは不快。
 一方,横尾が大事にするウェッセルマンやウォーホル,リンドナーらのポップアートはどうも好きになれない。同じロックでもブリティッシュのファンはアメリカの音を好きになれない,そんな具合。
 エリック・フィッシュルも好きになれない画家の一人で……ああ,これもアメリカの人。病的なエロティシズムとエロティシズムがア・プリオリに持つ危うさは別なのではないか。脱ぐものが違う。
 フランチェスコ・クレメンテの「はさみと蝶」について,横尾は「三つの女性器(一つは隠されているが)と三つのはさみ,三つの蝶が乱舞している」「三人の女性の長い長い目尻,それともつけ睫毛なのか」「魂の象徴でもある蝶」などと書いているが,この三つの蝶には陰毛もクリトリスもくっきりと書き込まれ,象徴というも悲しいほどリアルな(おそらく画面中のはさみで切り取られた)女性器ではないか。女性の長い目尻は逆転して,蝶の触角のメタファーだろう。画家のつもりは何か知らないが,横尾はちゃんと絵を見ているのか?

 などなどの細かい点以上に気になったのは,本書中で何度も登場する「ぼくがグラフィックデザイナーから画家に転向した」「当時の美術界はぼくの作品は絵画ではなくイラストであるという判定を下した」等々の表記。他の世界なら「フリーライターから小説家に転向した」「ミュージシャンからアーティストに転向した」?
 肩書きで作品の評価が変わるとは,つまらぬことだ。ダ・ヴィンチやミケランジェロは教会のポスター描き。ゴヤやマネは写真館の親爺,ジェリコーは報道写真家。ロートレックにいたっては飲み屋の看板描きだったのに。否,だったからこそ!

2001/07/13

ベイカー街は霧の彼方に 『シャーロック・ホームズの功績』 アドリアン・コナン・ドイル,ジョン・ディクスン・カー,大久保康雄 訳 / ハヤカワ・ミステリ

47【私はドヴァートン夫人を目の前にして,彼の顔が不気味なほど冷酷になるのを見た】

 先週はシャーロック・ホームズのパスティーシュを2冊取り上げたが,やはりホームズ贋作の老舗というか本舗というか,カステラ一番電話は二番,三時のおやつはこの『シャーロック・ホームズの功績』だろう。
 著者名にご注目いただきたい。アドリアンはホームズの生みの親アーサー・コナン・ドイルの実子。一方,ジョン・ディクスン・カー(=カーター・ディクスン)といえば『三つの棺』『火刑法廷』『皇帝のかぎ煙草入れ』などで知られるエラリー・クイーン,アガサ・クリスティーと並ぶミステリ界の重鎮である。

 本書には12編の短編が収録されているが,そのうち前半の6編は2人の競作,後半の6編はアドリアンの手による。大半はドイルの作品中にちらりと触れられつつ,さまざまな理由からワトスンが公開しなかったいわゆる「幻の事件」を書き起こしたものだ。
 競作の6編はさすが密室・不可能犯罪の大家カーが監修しただけあって,どちらかといえばひねりの利いた展開が楽しめる。一方,アドリアン単独作のほうは,犯罪の方法や推理の根拠はやや単純かもしれないが,逆にホームズの性格のアクの強さ,女性に対する不信,ワトスンの朴訥さとそれゆえの強さ,ロンドンの夜の霧の深さなど情緒面でなかなか陰影深い。とくに事件解決に向けてのホームズの演出が鮮やかな「アバス・ルビーの事件」,捜査・推理は快刀乱麻を断つごとくでありながら随所に色濃い寂寥感の漂う「赤い寡婦の事件」などは原典以上に暗く苦い味が印象深い。要するに本書後半の短編群において,ホームズはなにかと疲れ果て,不機嫌なのである。

 贋作ゆえ,原典以上にホームズやワトスンの性格付けが強調されているせいもあるには違いないが,それだけでは説明がつかないような気もする。
 思うに,ドイルにとってホームズはほぼ同世代の人物だった。したがって,ホームズをモリアーティ教授とともにライヘンバッハの滝壺に落として死なせたり(無論,読者からの強い要望で復活させることになるのだが),引退してサセックスで養蜂家にしたりは,作家としての判断で自在にできることだった。
 しかし,1950年代に本書を上梓したアドリアンらにとって,(同じ架空の人物ではあっても)ホームズはすでに過去の,確定した存在であり,どのような終焉かはともかくどこかでなんらかの理由で亡くなっているはずの人物である。作家の方針や気分で引退させたり復活させたりできるようなものではない。架空の歴史とはいえ,ある一筋の歴史の中で克明に生き,死んでいったはずの探偵なのである。本書にはそんなアドリアンのいかんともしがたい思いが強く現れている……そんな気がしてならない。

 最後の「赤い寡婦の事件」では,事件解決ののちホームズがヴァイオリンで「蛍の光」を奏でる姿を窓に映し,さらにはそれから何十年かしてサセックスの丘陵で白髪の老人としてワトスンと穏やかな日々を送る姿が描かれている。
 それらはドイルによって創造されながら,ドイルには描くことのできなかったものではないか。
 名探偵もスーパーマンも,時の流れにはあらがうことができないのだ。

2001/07/12

[時事] インターネットと公職選挙法

 第19回参議院通常選挙が本日公示され,29日(日)の投票に向けて17日間の選挙戦がいよいよ始まりました。
 各政党や候補者について,烏丸の出入りする掲示板でも連日熱い議論が……といきたいところですが,実はネット上のオープンなスペースで特定の候補者について有利な書き込みをするのは公職選挙法では違反とされているのだそうです。インターネット上の掲示板や日記サイト,メーリングリストなどでの政治活動が「文書図画」の「頒布」にあたるとみなされてしまうためなんですね。

 これは,候補者本人や選挙事務所など,直接選挙にかかわる者だけでなく,「○○候補の考え方はいいと思う」といった個人の発言でも問題とされる可能性があります。
 しかも,やっかいなのは,過去のパソコン通信やインターネット関連事件において,発言やデータに問題があった場合,フォーラムのシスオペやインターネットサービスプロバイダに責任がある,という判断が下されたケースも少なくないということです。つまり,その掲示板で公職選挙法に抵触する書き込みがなされた場合,掲示板の管理者にまで迷惑が及ぶ可能性があるということです。

 もちろん,現行の公職選挙法はインターネットの普及以前に定められたものですから,WWW,iモードなどが普及した時点でその内容を改正すべしという声もあるかとは思いますが,逆にいえば従来から選挙運動として配布できるビラ,はがき,ポスターなどの枚数に厳密にこだわってきた選挙制度をかんがみるに,今後とも,インターネット上での不特定多数に対する発言がそう甘く許されるとは思えません。
 ということで,これから17日間,選挙に関する書き込みにはお互い注意したいものです。

 ちなみに規制されているのは「特定の候補者を有利に」する行為であって,実は「特定の候補者についての落選運動」はおっけーなんだそうです。そういえば確かにそういうサイトが話題になったこともあったような。
 なんだそっか,じゃあ○泉の悪口書いてもいいのか(←特定政党にくみしているわけではありません,念のため)。

2001/07/11

悠久の時を超え… 『「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』 サマンサ・ワインバーグ,戸根由紀恵 訳 / 文春文庫

531【寝てもさめてもこの魚のことしか】

 海の底で静かに生きながらえてきたシーラカンスと,その研究に人生を賭した人々の時間がゆっくりと交差するドキュメント。

 私たちは「生きた化石」シーラカンスについて,いったいどれほど知っているだろう。四肢とみまがうような太いヒレ,大きなウロコ。アフリカのどこで,いつ発見されたのか。これまでどのくらい捕獲されたのか,残存する個体総数,その生態は,陸上の生物との進化の関連は?

 1938年,南アフリカ共和国,イースト・ロンドンの博物館の若い学芸員マージョリー・コートネイ-ラティマーはクリスマスを直前に忙しく働いていた。恐竜の化石を組み立てていた彼女を,一昨日設置されたばかりの電話が呼ぶ。標本のためにいつも魚を持ち帰ってくれるグーセン船長のトロール船が港に入ったのだ。かけつけた彼女は,魚の山の中から見慣れない青いヒレを見つける。それはどんな魚とも似てはいなかった……。
 彼女は魚類学に詳しいJ・L・B・スミス博士に指示を仰ぐが連絡がとれず,遺体保安所も冷凍倉庫も1.5メートルもの魚を置かせてくれない。彼女はやむなく魚を剥製にし,内臓を捨ててしまう。

 一方,マージョリーからの手紙をようやく手にしたスミス博士は大きな衝撃を受ける。彼女の指摘するとおりそのスケッチは七千万年前に絶滅し,化石でしか見られない硬鱗類に思われた。スミス博士は電報を打った,「サカナノホネトエラハ カナラズホゾンサレタシ」

 それが世界を興奮の坩堝に陥れたシーラカンス(ラティメリア・カルムナエ・JLBスミス)の発見だった。その後,スミス博士とマーガレット夫人は第二のシーラカンスを求めて研究と努力を重ね,14年後,インド洋マダガスカル島の北に位置するコモロ諸島(フランス領)でそれは発見される。

 シーラカンスはかかわる人々の人生を大きく変えた。
 政府を動かし,苦心の末にシーラカンスを持ち帰ったスミス博士は世界的な栄誉を手に入れるとともに,進化論を認めないキリスト教根本主義者から攻撃され,シーラカンスを持ち帰ったことでフランスから非難を受ける。
 コモロ諸島でシーラカンス発見の労を担った交易用帆船の船長エリック・ハント(学名に名前を残すことを辞退)はフランスとの板ばさみに悩みながら非業の死をとげる。
 1967年,少々偏屈ながら学問一筋に生きたスミス博士,知力と健康の衰えを苦に自殺。
 1977年,東ドイツから来たハンス・フリッケは潜水艇を工夫し,苦心の末に生きたシーラカンスの姿を写真におさめる。マーガレット・スミス夫人は,夫の死後研究を受け継いで信望を集めるが,亡くなる直前フリッケにシーラカンスの泳ぐ姿をビデオで見せてもらい,「これで自分の人生はきちんと輪を閉じたようなものだ,もういつ死んでもいい」と言い残す。
 1997年,アメリカ人マーク・アードマンがインドネシアで初めてシーラカンスを発見。など,など。

 いくつか国どうしのいさかいや貧しさによる混乱,研究成果の捏造事件などもあるが(残念ながら日本人は金にあかしてシーラカンスを乱獲しようとする者としてしか登場しない。フリッケをいらだたせた鳥羽水族館一行の撤退は「天皇からの直々の,そして緊急の命によるものと思われた」だってさ),本書に登場するのはシーラカンスを心から愛し,そのために自分の人生を捧げ尽くして後悔しないような,そんな人々ばかり。
 海の生物が地上に出る「失われた輪」にあたるものでないかとも考えれるシーラカンス。さまざまな説があり,さまざまな人々がそれにかかわる。

 シーラカンス,永遠に生きよと願う。

2001/07/09

淡々と描かれる底知れぬ悪夢 『舞姫(テレプシコーラ) <1>』 山岸凉子 / メディアファクトリー(MFコミックス)

602【アティテュードのバランスだ すごい 何秒!?】

 山岸凉子を読んでいて,ときどきひやりとするのは「ああ,この作者の制限(リミット),普通の作家と違う」ということです。

 彼女の出世作『アラベスク』は,姉に比べて不器用なバレエ少女ノンナ・ペトロワが優れた師ユーリ・ミノロフに見出されるといういかにも少女マンガ然とした始まり方をし,第1部4巻の間はライバルとの競争,挫折,復活,といった,いわゆるスポ根マンガふうの展開です。ところが第2部ではユーリのライバルとしてエドゥアルド・ルキン(エーディク),さらにバレエピアニストに同性愛の気味のあるカリン・ルービツを配し,ノンナをそして読者を混乱に陥れます。物語の後半でノンナはチャイコフスキー国際コンクールのグランプリという栄誉を得,さらにユーリとの恋の成就が暗示されますが,読者はまるで安心できません。なぜなら第2部が描いてみせたのは,瞬間的な栄誉など周囲からの評価であり,この物語はノンナらがより高いところを目指して踊り続ける過程に過ぎないのですから。それは明らかに,当時のバレエマンガのリミットを越えていました。

 山岸凉子がリミッターをはずす(腕を振るう)のは主に霊界モノ,心理モノの短編ですが,少し前に紹介した『白眼子』ではどこか新しい視点を得たような気がします。同じ霊界や人間心理を扱いつつ,その先に「許し」「救い」を描いたとでもいうか。もちろんそれは,並みのホラー作家よりよほど恐ろしい崖っぷちまで登場人物をきりきり追い詰めて平気な作者だからこそできるワザなのですが。

 さて,早くも届いた新刊の『舞姫(テレプシコーラ)』。
 山岸凉子は『アラベスク』以降も『牧神の午後』『黒鳥(ブラック・スワン)』などバレエ界を描いた作品をいくつか発表していますが,本作は『アラベスク』以来,久しぶりにいかにもバレリーナマンガ風に始まります。
 小学5年生の篠原六花はバレエ教室を開く母のもと,姉の千花とバレエを習っています。姉に比べてバレエも勉強も今ひとつの六花。そんなある日,六花のクラスに痩せた,貧しい転校生・須藤空美が現れます。彼女もまたバレエを練習しているようですが……。
 この粗筋,そして少女マンガ顔の六花を見ると,まるで40年前のバレリーナマンガ,ライバルのお嬢さんとその取り巻き,トゥシューズに画鋲……読み始めて数分は「『アラベスク』の焼き直しを今さらなんで」「ネタに苦しんで手馴れたバレエを取り上げたのかな?」と思ってしまったのですが,とんでもない。およそこれほど情け容赦ないマンガはそうはないのではないかしらん。

 なんといっても須藤空美の家庭環境が半端ではありません。父親は飲んだくれて自己破産寸前,母親は元バレエダンサーの義姉・須藤美智子に屈服し,プライドばかり高い美智子は自分の状況がまるで見えていない。生活に苦しむ母親が空美にあてがう仕事は……。
 空美がチャイルドポルノの撮影で大股を開く,その次の見開きでは六花が病院で股関節のソケットが深いため180度の開脚ができないことを告げられる……ちょっと絶句してしまう展開です。
 そして,恐ろしいことに,空美には自分の窮状に対する自覚がほどんどないのです。

 先は読めません。六花と空美のどちらが本当の主人公かもわかりません。凄いことになるかもしれませんが,追いかけるのが怖いような,そんな気もします。

2001/07/08

さらに世界観の領域へ 『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』 士郎正宗 / 講談社

Photo_2【何だこの連中 薬物の影響が強すぎる…! 全覚投入は危険だな… 人間やめてる脳自動化率ね】

 人々はサイボーグに自身のアイデンティティを埋め込み,ネットワークにつながって情報を……この設定そのものは別に目新しいものではなく,SFやアニメでは定番といってよいほどです。しかし『攻殻機動隊』のキモは,そのような在り方が当たり前になった時代には,人権や個人のアイデンティティ,他者との関係などが,従来のものとは全く別モノになってしまうことでしょう。

 ですから,読んでいない方に『攻殻機動隊』の粗筋や雰囲気を伝えるのはとても難しい。江戸時代人にコギャルにとってのプリクラの価値を説くのと似たようなところがあります。たとえば『攻殻1』の公安9課の主たる活動はカウンターテロですが,従来の文脈なら「悪のテロリストに対する善玉の活躍」となるはずが,いきなり暗殺者として登場し,「やなこった へへーーん」とうそぶく主人公・草薙素子のモノの観方,考え方,行動原理などはかなり説明しづらいものとなっています。少なくとも正義の味方ではない。さりとて報酬主義とか殺戮趣味というわけでもない。

 そして『攻殻2』,これがもう前作を上回って難しい。ふう。
 前作はまだ個々のストーリーの中で公安9課が敵の正体を暴き,それを制圧する(叩きつぶす,といったほうがいいかも)という枠組みがあったのですが,『攻殻2』にいたっては「その」世界をより濃密に描くこと以外に興味がないとしか思えないほど「主人公が何を求め,何をしようとするか」など後回し。その瞬間その瞬間に登場人物が口にした言葉(その多くは支援AIに対するコマンド),そして電脳世界における思考が描かれるばかりです。そして例によってページからあふれんばかりの情報,情報,情報。
 『攻殻2』の主人公は,『攻殻1』で「人形使い」と融合して「殻」を変えた草薙素子でなく,既知限定サイボーグである荒巻素子部長なのですが,荒巻素子と草薙素子の関係はよくわかりません(初めのほうと終わりのほうにそれらしいことは書かれてはいるのですが,うまく説明できません)。しかも荒巻素子の姿は義体で,顔も作ったもの。それなのに,さらに再三電脳空間や他のデコイ(デコット)に入りまくるため,登場人物の顔がもうぜんぜんわけがわかりません。彼女は会社の部長であり,いちおうジョブに対する報酬は受け取っているもようですが,それは主人公のネットの一部に過ぎません。まるでネット上のデータ群のクールな観察記録,女王蜂の研究日誌に蜂蜜の商品価値など関係ないようなものです。
 ラフな絵柄やキャラクターの造詣に大友克洋の影響が強くうかがえた前作に比べ,キャラクターの顔や衣服は妙にツルツルテカテカ,顔は不二家のペコちゃん,肉体はリカちゃん人形みたい。あたかも作品世界の事象の説明という最大のサービスの欠落の埋め合わせをするかのようです(もちろん,成功していません)。

 そのほか細かい点としては,アームスーツAI搭載型思考戦車「フチコマ」は残念ながら登場しません。その代わり荒巻素子の部下として,支援AIが集団で出てきます。こいつらが律儀で構造解析好きでご挨拶がなかなかかわゆい。公安9課はほとんど登場しません(バトーはほとんど顔出しだけ。トグサも(一部で人気の?)トグサの奥さんも登場しません)。

 僕に今書けるのはこの程度でしょうか……そうそう,初版にはマウスパッドが添付されています。
 ともかく『攻殻1』『攻殻2』とも必携,必読,熟読,再読。好き嫌いはともかく,これは次代に向けて避けて通れない作品なのです。なにしろ,ネットは広大なのですから。

2001/07/07

物理も情報も共に現実 『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』 士郎正宗 / 講談社

Photo【よし義体(カラダ)を預ける TPE到着後指示アレイ2実行・第20ベッドへ 退路(ヘリ)と足を偽名Kで確保】

 こち亀,ときメモ,ガラかめ……これらの例をひくまでもなく,ファンの間で略称が伝播するようになったら作家や作品としてもう一人前。ファン以外にまで通じるようになったらメジャー級。

 今回取り上げたいのは,シロマサの『攻殻2』こと『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』です。
 前作『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』が1991年10月の発行ですから,ざっと10年振りの続刊ですね。実は昨年暮れに13,333円で発売された『攻殻SOLID BOX』にフチコマのフィギュアとともに『攻殻機動隊2』の単行本(SHORT CUT VERSION)が収録されているのですが,ここではおきます。以降,1冊めを『攻殻1』,2冊めを『攻殻2』と表すことにしましょうか。

 SFという決してメジャーとは言い難いジャンルの中の,さらにローカルな「ニューウェイブ」や「サイバーパンク」というムーブメントをどう説明すればよいかというと,正直,自分でもちゃんとわかっとらんものを人さまに説明なんぞできるかぁ! ってのがとりあえずのところ。ですから,サイバーパンクについては,「ウィリアム・ギブスンの作品みたいな,ほらね,あんな感じ」としか言いようがないのですけれど──しかも,ギブスンそのものは,一番メジャーでありながら実は決してサイバーパンクの典型ではない,というややこしさ──こういったムーブメントの興味深い点は,十年くらい経つと,そのうざったい脂肪細胞はどっかにおいといて,残ったカッコよさげな面だけがゲームやハリウッド映画にちゃっかり取り込まれるということですね。
 サイバーパンクの場合,要するに映画「マトリックス」がそれ。あれなど,出生の秘密,虐げられた仲間,成長とリベンジなどなど,まったく香港のカンフー映画のヴァリエーションでしかないくせに,映像としてはあたかも前衛的であるかのような。そんな御大層なもんじゃないでしょうに,ねぇ(もちろん今どきゼンエイやってたんじゃ客が入らないのはわかっちゃいるんですが)。

 「マトリックス」が根っこのところでなぜつまらないかといえば,テクノロジーが生活を変える時代には生活者のアイデンティティもまた変わるはずなのに,あの映画における登場人物の価値観や人生観はカンフー映画や西部劇から何一つ変わっていないことです。

 一方,『攻殻機動隊』。こちらはネットワークテクノロジーが,登場人物のキャラクターどころか,それを描くという行為の意味すら変えてしまった,とても紹介しづらい作品の1つ。
 『攻殻1』は「ネットが星を被い,電子や光が駆け巡っても,国家や民族がなくなるほど情報化されていない」時代を背景に,首相直属の特殊部隊たる公安9課を,というより彼らを素材にその時代のカウンターテロのアクションを描く作品でした(アクションてのは文字どおりアクションであって,たとえば相手を蹴るときはどこをどう蹴るか,武器を操作するときは何をどう操作するか,ということです)。
 その世界では,現実の腕を破壊されることよりも,情報を混乱させられることのほうが致命的。要するに,現在のPCとインターネットの世界でなら,コンピュータウイルスが入り込んでシステムを破壊したり,トロイの木馬型プログラムが勝手によそのサーバーにちょっかい出したり,というようなことを,士郎正宗はカウンターテロを素材に,1990年当時に壮絶なリアリズムをもって描き上げていたということになります。

(つづく)

2001/07/04

正統派パスティーシュ短編集 『シャーロック・ホームズのドキュメント』 ジューン・トムスン,押田由起 訳 / 創元推理文庫

Photo【この事件は解決したよ】

 昨夜は文字制限もあってきちんと触れられなかったが,「パスティーシュ」とは文学における「模倣」「模写」のことである(ちなみに,日本では清水義範がパスティーシュの名手ということになっているがどうだろう。単にヌルいパロディと思うのだが)。
 ではパロディとパスティーシュはどう違うのか。広辞苑によれば「パロディー」は「文学作品の一形式。よく知られた文学作品の文体や韻律を模し、内容を変えて滑稽化・諷刺化した文学。わが国の替え歌・狂歌などもこの類。また、広く絵画・写真などを題材としたものにもいう」とある。気になるのが,滑稽化・風刺化されるのは模された原典なのか,それともそれ以外の特定の人物や社会通念なのかということ。自由の女神を題材にアメリカ大統領をからかった絵コンテは,自由の女神のパロディなのか大統領のパロディなのか。どちらでもよさそうなものだが,原典の尊重度合いがまるで異なる。
 たとえば白川義員氏の山岳写真を無断で用いたマッド・アマノ氏の作品をめぐるパロディ裁判が有名だが,あれはどう見ても白川作品を滑稽化・風刺化する意図が感じとれない。だからあれをパロディ裁判と称して話題にすること自体がパロディの定義をよけいややこしくしているように思われてならない。単に作品の二次使用について,でよかったのではないか。

 非常に抽象的だが,パロディは原典に対して鏡のように相対し,パスティーシュは同じ方向を向いて立つ,と言う気がする。パスティーシュは尊重を旨とし,パロディは尊重しつつ正面あるいは斜めから闘いを挑むとでも言うか。

 ……さて,ホームズもののパロディ,パスティーシュは星の数ほどある。比喩でなく,本当に多いのである。ルパンと対決するもの,火星人と対決するもの,ドラキュラと対決するもの。ホームズは実は女だった,ホームズとワトスンは同性愛だった。ワトスンやレストレイド警部,宿敵モリアーティらが単独で活躍する作品もある。未読だが下宿屋のハドスン夫人を主人公にした作品さえあるそうだ。

 そして,それらパロディ,パスティーシュの中で,まるでドイルが続編を書いたかのように古風でビターな味わいを見せるのが,ジューン・トムスンの一連の短編集だ。
 本シリーズは『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』『シャーロック・ホームズのクロニクル』『シャーロック・ホームズのジャーナル』『シャーロック・ホームズのドキュメント』とすでに4冊を数え,それぞれドイルの原典中にちらりと触れられ,ワトスンの手によってまとめられつつも諸般の事情から「コックス銀行の金庫室におさめられたブリキの文書箱」に封印された,いわば幻の事件を短編に仕立て上げた作品群である。
 つまり,ホームズやワトスンのキャラクター,時代背景,事件タイトルなどは極力原典のまま,さらに当時発表することのできなかった事情まで含めるという非常に厳しいしばりの中で書き上げられたわけで,にもかかわらず作品のクオリティは非常に高く,一読者としてのんびり読む限りはドイルの未発表原稿と見まがうほどの出来栄えである。しいていえば全体に事件が苦いこと,また原典に比べて後日談が少々くどい印象はあるが,それは設定上やむを得ないだろう。
 事件や推理の古臭さゆえ,ミステリ短編集として大傑作といえるかどうかは微妙だが,ホームズの冒険に郷愁を覚えるミステリファン(とくに熱狂的なファンである必要はない)にはぜひお奨めしたい。紅茶と椅子を用意して,ちょっと物憂い午後にいかがだろうか。

2001/07/03

偏屈,変人の矜持はどこへ(嘆息) 『シャーロック・ホームズの愛弟子』 ローリー・キング,山田久美子 訳 / 集英社文庫

971【強くて勇敢,わたしみたいに】

 世の中には「シャーロッキアン」すなわちシャーロック・ホームズの熱狂的なファンがいて,寄り集まってはホームズやワトスンについてあだこだ口角泡を飛ばしている。ドイルの著した長編4編と短編56編は「聖典」または「正典」と呼ばれ,国内では唯一全作取り揃えられた新潮文庫版(延原謙訳)を基本とし,ホームズの台詞や作品タイトルはここから引用するのが正しいとされている。
 シャーロッキアンの集まりにはさまざまあるが,ロンドンを本部とする「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」(ホームズが組織した不良少年団の名称)にいたっては,入会に厳格な資格を必要とし,その資格とはホームズ聖典からなんらかの新事実(ワトスンの結婚時期の矛盾だの,下宿の女将の名前の入れ違いだの,怪我をしたのはどちらの足かだの)を論文として提出しなくてはならないそうである。
 宗教的帰依心にも学問的探究心にも欠ける烏丸にはとうてい窺い知れぬ情熱だが,とにもかくにも世界中でホームズファンが再帰的発生を繰り返し,その結果当然のごとく世界中にホームズの研究書,パロディ,パスティーシュ,類似品があふれるにいたった。
 と,わかったような書き方をしたものの,この場合のパロディとパスティーシュ,類似品の違いについてきちんと区別がついているわけではない。いしいひさいち『コミカル・ミステリー・ツアー』は,パスティーシュなのかパロディなのか。ホームズの名を借りながらミステリである以外とくに類似点のない『三毛猫ホームズ』シリーズもあれば,ホームズの名はなくとも偏屈な探偵と正直だが鈍な記述者の掛け合いでファンを沸かせる作品群もある。いやむしろ,「探偵」を正面に立ててホームズの直系でない作品のほうが稀有かもしれない。

 『シャーロック・ホームズの愛弟子』は『捜査官ケイト』などで知られる女流ミステリ作家ローリー・キングの作品で,主人公はロンドンを離れ,サセックスで養蜂家を営んでいたホームズと知り合ったメアリ・ラッセル,当時15歳である。事故で家族を亡くし,読書と思索だけを心の慰めとした彼女は本を読みながらサセックスの丘陵をがむしゃらに歩いてホームズを踏みそうになる(川原泉『ゲートボール殺人事件』みたいだ)。ホームズはすぐに彼女の優れた資質を見抜き,その後数年にわたって探偵に必要な技術や心構えを教え込む。
 危険を考慮して彼女を置き去りにして出かけようとしたホームズに対する彼女の台詞はなかなか峻烈だ。
「ホームズ,いまの言葉は聞かなかったことにする。いまから十分間ほど,あなたのお庭を散歩して,花を眺めてくる。もどってきたら,あらためてこの会話をやり直しましょ,そしてわたしときっぱり縁を切りたいのでなかったら,二度と小さなメアリ・ラッセルちゃんを護ってあげようなんて考えないことね」

 そして2人は互いを尊重,信頼し合って(あのホームズが!)大きな事件を解決する。敵役も長編にするだけのことはある,強大で,優れた頭脳と忍耐力を持ち合わせた強敵だ。2人はその後も協力して事件に向かい,続巻の巻末ではなんと……。

 しかし,続巻『女たちの闇』,3巻めの『マリアの手紙』では,(作者と同じく)神学を研究するメアリの成長や第一次世界大戦後の時代の女性の地位などが大きなテーマとなり,ホームズ譚の色合いは薄れていく。それはそれで読み物としてつまらないわけではないが,とりあえずおさえておくべきは最初の1冊だろう。
「初歩だよ,ワトスン君」

2001/07/01

ロジックのテトリス,薀蓄の上海 『九つの殺人メルヘン』 鯨 統一郎 / 光文社カッパ・ノベルス

051【赤ずきんちゃんには気をつけて】

 『邪馬台国はどこですか?』,『隕石誘拐 宮澤賢治の迷宮』,『とんち探偵一休さん 金閣寺に密室』等で知られる鯨統一郎の,またしても新作である。作者は保険関係の本職があるはずで,下調べに労力をかけそうな作風のわりにはさくさくと新刊が出てくる。怪しさのきわみである。
 それでも発売と同時につい手に取ってしまったのは,あの『邪馬台国はどこですか?』以来のバー・ミステリ連作とあるからだった。

 『邪馬台国はどこですか?』は,まれに見るユニークな作品である。カウンターだけの小さなバーで数人の登場人物が夜な夜な歴史談義を繰り広げ,結局はフリーライター宮田六郎の解釈が他を圧倒する。それだけのお話なのだが,「邪馬台国は東北にあった」「聖徳太子の正体は推古天皇」など,従来の教科書的知識では「まさか」と思われるような説が「なるほどそうだったのか!」と思えてしまうのである。もちろん歴史的資料をことごとく都合よく読みたがえた結果ではあるのだが,あれだけスジが通ればハンペンも引っ込むというものだ。何がすごいって,宮田の弁はそれぞれほんの数~数十ページにすぎないことである。教科書的認識なぞその程度で揺らいでしまうものなのだ。

 『九つの殺人メルヘン』は,『邪馬台国はどこですか?』同様小さなバーのカウンターが舞台となる。登場人物は渋谷区にある日本酒バーのマスター・島,常連の刑事・工藤,犯罪心理学者・山内(ちなみにこの3人はいずれも42歳で,山内のヤ,工藤のクド,島のシを併せると〈ヤクドシ〉トリオとなる),そしてグリム童話を研究する女子学生・桜川東子の4人。
 9つの短編は,いずれもまず日本酒の薀蓄に始まり,そこから回顧的な薀蓄合戦が展開し,そこから工藤の抱える難事件の話題が提供され,そのアリバイトリックを桜川が自分の研究するメルヘンの真相とからめてあっさりと解き放つ,という構成である。
 日本酒の薀蓄は,銘酒の名前や産地はもちろん,日本酒にはどんな米が使われているか,吟醸酒とは,といった話題。回顧的な薀蓄とは,42歳の厄年トリオらしく昭和30年代,40年代の遊びやヒット曲,CM,クイズ番組など。そしてメルヘンの真相とは,たとえば「ヘンゼルとグレーテル」や「ブレーメンの音楽隊」が実は……いや,これを書いてしまってはネタバレになってしまう。

 そんな短編が9つ。それぞれのアリバイトリックは,ミステリ作家有栖川有栖がある作品で登場人物に語らせたアリバイトリックの9つの分類を全部並べようとしたものだそうで,その意味でも凝った構成となっている。その割に「大変な作品を読んだ!」という気分にならないのは,いかんせん短い作品にあれこれ要素を詰め込みすぎて,まるで箇条書きになってしまったせいだろう。どちらかというと,文芸作品を読み終えたカタルシスよりは,コンピュータゲームの「テトリス」や「上海」を遊んだ手応えに近いのである。
 探偵役の桜川東子にしても,美人で明晰でと描かれてはいるものの,現実の女子大生,あるいは探偵としての手応えは希薄だ。逆にいえば,余計な要素抜きに薀蓄や推理を楽しめるということではある。しかも『邪馬台国はどこですか?』と違い,連作としての全体のオチも付いて作品集としてのサービスも改善されている。

 とか言いながら,実は一番ウケたのは次の一節なんだけどね。
「そう。犯人は疋田だ。」
「ファイナルアンサー?」
「ファイナルアンサー」

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