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2001/04/08

マスコミの誤報について その二 報道の本質について少し考えてみる

 『誤報 ─新聞報道の死角─』(後藤文康)については,しかし,著者が大手新聞OBであるだけに,誤報についての反省も対策もどこか業界の囲いのうちにあり,極限すればそらぞらしさも否めない。

 第一に,反省の対策のといっても,精神論に過ぎないこと。また,誤報について「おわび」「訂正」がなされたらそれで済むのか,ということもある。やらせが明らかになって謝罪したといってもせいぜい担当者の首のすげかえ,外的には売り上げに多少影響する程度で,「おわび」される側のダメージに見合うものとはとても思えない。そもそも大手新聞は「おわび」を掲載するのに想像を絶するほどの抵抗を示すが,毎度の訂正記事の目立たなさといえばこれまた想像を絶するレベルである。ほんとに謝意があるなら号外ぐらい出しなさい。それがスジというものだ。

 そもそも犯罪報道とは何か,という問題もある。
 「松戸OL殺人事件」で,冤罪とされた時点で各社はこぞって謝意を明らかにして世論におもねた。では冤罪でなかった(有罪と確定した)なら,何を書いてもよかったのだろうか。少なくとも松本サリン事件の河野さんについては,オウム真理教が加担していることが明らかにならなければいつまでも「おわび」「訂正」が載ることはなかったろう(この点は著者も明記している)。だいたい,マスコミはいかなる権利があって犯罪の容疑者,被害者についてあんなふうに鬼の首をとったように書き立てることができるのか。国民の知る権利は,関係者の人権よりも重いのか。

 念のため書いておくが,別にマスコミによる犯罪報道そのものを否定するつもりはない。しかし,マスコミ各社の報道行為は,国民の知る権利に答えること,再犯を防ぐこと,など,さまざまなプラスの面があることは確かながら,一方で関係者の人権,プライバシーを踏みにじることで成立するビジネス(=金儲け)であるとの自覚を最低でも持ってほしいということだ。
 ちなみに,テレビ局内部では「報道」とエンターテインメントたる「ワイドショー」は別ものという認識はあるそうだ。しかし,それなら「ワイドショー」はオープニングで「本番組は報道ではございません」と明言すべきだし,そもそも,「報道」と「ワイドショー」が違うというのも内部の人間の勝手な思い込みであって,視聴者から見ればテレビ局のチャンネルが同じなら同一の情報ソースにしか見えはしない。

 つまり,いかに国民の権利を守るため等々綺麗事を並べようと,マスコミ報道とは情報ころがしによる利益追求である。これは,そういう報道とそうでない報道があるということでなく,あらゆる報道がそうだ,という意味である。

 1970年代,毎日新聞が小・中学生の教育問題を取り上げ,「乱塾時代」と命名して大々的にキャンペーンを行った。その結果起こったのは「よそが塾に行かせているのなら」という,さらなる塾通いの加熱,公立学校の空洞化だった。
 しかし,当たり前だが毎日新聞がこの件について「おわび」「訂正」を掲載したという話は聞かない。

(つづく)

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