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2001年4月の17件の記事

2001/04/23

本の中の強い女,弱い女 その十五 『巴里・妖都変 薬師寺涼子の怪奇事件簿』 田中芳樹 / 光文社カッパ・ノベルス

Nimg7080【あたしは,あたし以外の女が世界を支配するなんて,ガマンできないの!】

 ナンシー関と町山広美の対談『隣家全焼』を読んでいたら,「胸や乳首を見せるのが仕事で,しゃべるのは仕事じゃない」セクシータレント反町隆史という話が出てきた。「見映えのする男は今は,とりあえず乳首を出してぶすっとしていれば,女にウケておこづかいすらもらえる」,この手の男女の役割逆転の話題は当節あちこちでお目にかかる。
 だが,実際のところ,弱い男は確かにボウフラ同様どこにでも沸いてくるが,本当に強い,とため息の出るような女にはなかなかお目にかかれない。そもそも強い弱い,偉い偉くないという価値観そのものが細分化,相対化してしまい,「強いってなんですか」(©幕之内一歩)なご時世ではある。

 そしてそうなると「強さ」の1つの側面はいかに我儘であるか,その我儘をどれほど押し通せるかがバロメーターとならざるを得ない。強いことは必ずしもプラスの価値とは言えないのだ。その結果,強くてなおかつ魅力的なヒーロー,ヒロインは,荒唐無稽な本やマンガの中でしか成立しなくなる。いや,マンガの中ですらなかなか成立しない。

 というわけで,めっぽう強い女を描く本シリーズはそれはもう,十分に馬鹿馬鹿しい。
 主人公・薬師寺涼子は二十七歳,警視庁刑事部参事官を務め,階級は警視。東大法学部をオール優で卒業したいわゆるキャリア官僚,しかもアジア最大の警備会社JACESの社長令嬢であることを悪用して官僚や政治家の弱みを握り,権力を欲しいがままにしている。絶世の美女でスタイルも抜群だがその性格は傍若無人かつ傲岸不遜,天衣無縫にして唯我独尊,ドラキュラもよけて通る最強にして最凶の女性官僚「ドラよけお涼」,ついでに「桜田門の黒バラ」「霞が関の人間原子炉」とは彼女のことだ。

 今回舞台は冬のパリ。もちろん“私”こと泉田準一郎警部補もいやいやつき従い,二人がパリに舞い降りるやいなや人の脳ミソを吸い取る奇怪な獣が現れて涼子の目が光る。あとはいつものように室町由紀子警視,岸本明警部補らも巻き込んで,一気呵成。情報通信産業だとかネオナチだとか錬金術とかの文字が通り過ぎたような気がしないでもないが,細かいことはどうでもよろしい,要はドラよけお涼が気がすむまで暴れた,日誌に書くのはそれで十分。読み手は泉田警部補と供にお涼の罵詈雑言のシャワーを浴びて真っ白に燃え尽きる。
曰く「よろしい,さすがにあたしの忠臣ね。あたしが不愉快になったときには,君も不愉快になって,あたしが行けと命じたら突進するのよ」
曰く「そう,だからあたしがパリに行くときには,君もパリに行くの。あたしが冥王星に行くときには,君も冥王星に行くの。あたしが地底王国に行くときには,君も地底王国に行くのよ」
曰く「常識の通じない日本人のオソロシサを、たっぷり思い知らせてやるから覚悟おし!」
 これらの言葉に淡々と「ごもっともです」と答えられるようになったらあなたも立派な忠臣である。「田中芳樹のほかの作品に比べてまるで」とか「錬金術といってもこれでは」「前作の敵のほうがまだ」などとは間違っても口にしてはいけない。そんな口は,JACES開発の特製スカーフ兵器で,こうだ。べしべし。

 ちなみに,本薬師寺涼子シリーズは,第1作『摩天楼』が講談社文庫,のちに書き下ろし短編を加えて講談社ノベルス,第2作『東京ナイトメア』が講談社ノベルス,この第3作『巴里・妖都変』がカッパ・ノベルスと,発行元,版形からしてやりたい放題。次はそろそろハードカバーか。それも日経BPなんてどうよ。

2001/04/20

マッドサイエンティストは永遠の夢 『空想科学エジソン(1)』 立案 柳田理科雄,画 カサハラテツロー / ソニー・マガジンズ

Photo_3【ザットンの言う通り 頭の回転が早く 猛々しい娘じゃ】

 素晴らしい夏だった。もう30年以上前のことだ。
 小学校の理科実験室の主として君臨して2年目の夏,鏡とレンズを利用した距離計(1人で対象物までの距離を3~40メートルまで測れるもの)に続いて着手したのは,3つのスイッチで7つの動作をリモートコントロールできる手製の戦車だった。糸ノコで切り出した板の上にマブチ15モーターやら豆電球やらを所狭しと並べ,キャタピラー前進,ドリル回転,ブザー,左ランプ点灯,中央ランプ点灯,右ランプ点灯,ミニプロペラ発射を操作。
 設計図だけで2か月かかった。それから製作に1か月。楽しかった。本当に,夢のように楽しかった。
 それから灰色の雨が降って,あの設計図,糸ノコ,テスター,ハンダゴテ,水中モーター,「科学」の付録,2号とジェットモグラ,それら全部がおさまった工具箱はどこに消えたのだろう。

 マッドサイエンティストは永遠の夢だ。秘密兵器を満載した水陸両用車,湖底の秘密基地,暗号と地図,言葉を解する愛犬,謎の敵に幽閉されたテレパシー少女。

 ……目が覚めると,水陸両用車はトランクに子供のローラーブレードを積んだファミリアだし,秘密基地は郊外のありふれた一戸建て,謎の敵はどこかで道くさをくっていまだ現れない。
 だから,今日も元マッドサイエンティスト志願者はため息をつきながら本を開くのだ,そこにいたはずの自分,自分の手によって作られたはずの機械。機械。大量生産でなく,手作りの,機械。

 そんな気分を久々に楽しめたのが今年3月末に発売されたばかりのコミック『空想科学エジソン』。
 ノストラジアは四方を高さ500メートルの断崖に囲われた聖なる楽園。主人公の田中麗奈,ぢゃなくて少女ミロは父ドクトル・ロマンの残した万能工具バルカンを手に,今日も大水車の支柱傾斜調整の仕事に励む職工だ。そんなある日,ミロは滝壷で発見された不思議な球体エジソン=シュタインと出会う。そして滝の上から落ちてきた自動戦車。世界は動き始めた,滝の上,外の世界へ。

 鶴田謙二の弟子が『風の谷のナウシカ』を描こうとしたら『未来少年コナン』になってしまった,そんな感じだろうか。立案は『空想科学読本』の柳田理科雄,絵も話も荒っぽいが,まだ1巻,これからの展開を楽しみにしよう。万能工具とはいわないまでも,プラスドライバー片手に。

2001/04/16

[続報] マスコミのインターネット報道

 先のマスコミの誤報についての一連の書き込みの中で,朝日新聞のインターネット報道に漂う悪意について簡単に取り上げたが,14日朝刊にその典型的な例を見かけたので簡単に紹介したい。

 まず,1面にいきなり「くらし ネット常時接続の落とし穴」。常時インターネット接続された自分のパソコンを経由して,誰かが米国海軍のネットワークに侵入しようとしていた,というものである。
 常時接続の無防備なシステムが不正アクセスの温床になるというこの記事の指摘そのものは間違いではない。しかし,「攻撃先に被害が出た場合は損害賠償を請求される可能性もある」という一種の脅し(まぁでもそのくらいの認識はあったほうがよいが)や「記者も不正侵入された……見覚えのない検索ソフトが走っていた。……その後パソコンの動作は次第に緩慢になり,壊れてしまった」という意味不明な一節(侵入してきたソフトが「検索ソフト」であると識別できて,壊れてしまう(何が?)まで放っておくとは?)など,インターネット初心者に対し「インターネットは怖そう」としり込みさせかねない書き方ではないか。

 政治面(4面),自民党総裁選についての記事で,「小泉氏,ネット使い対話も」。
 インターネットが浮動票と結びついているという認識に基づいた記事で,とくに異論なし。

 経済面(11面),「『パソコン拝借』新商売 何万台もつなげばスパコン級」。インターネットを用いて何万台というパソコンに分散処理をさせ新薬開発などに利用する,という内容。「スパコン」という略語が不快だが,内容に異論なし。
(ちなみに,朝日新聞の科学欄担当者は「分散処理」というキーワードが大好きらしい。なぜこんなに似たような内容の記事を何度も,というほど紹介されている。)

 同じく経済面(12面),「携帯メール一発OK ジャストシステムがソフト開発」,見ての通りの内容で異論なし。ただ,「こんな超ムカツク変換なくしました」という写真キャプションは少々悪ノリ。

 さて,問題の社会面(39面),「ネット掲示板 日生,管理者に削除要求 東京地裁に仮処分申請『社員を中傷』」。
 匿名掲示板「2ちゃんねる」の内容に対し,日本生命が記載の削除を求める仮処分を東京地裁に申請した,というもので,管理者のひろゆき氏の対応が注目されている一件だが,記事は「匿名性が強いネット上の書き込みには……一定の規制を求める声が出ているが,表現の自由との関係もあって,書かれた側がとれる有効な対抗手段は現在少ない」と,ニュートラルから微妙に日生寄りである。
 ところが,まったく偶然,社会面(37面)の特集は,自民党のメディア規制に対するアンチ記事で,「『有害番組」法規制狙う自民 『子ども』旗印に攻勢」「矢面の民法連懸念『ヒトラーのよう』」「文科相,PTAに『広告主不買の勧め』」と法規制に対するアレルギー剥き出しだ(さらに偶然だが,25面の天野祐吉の連載コラム「CM天気図」も自民党の報道番組検証委員会に対する揶揄がメインとなっている)。
 つまり,これらからうかがえる朝日新聞の表現の自由についてのスタンスはこうだ,「新聞やテレビ局に対する法規制は止めるべきだが,インターネット上の匿名発言は法で取り仕切れ」……。ちょっと手前勝手が過ぎないか。

 なんてね,しゃっちょこばって書いているが,実のところこの日の朝日新聞朝刊の最大ヒットは社会面(39面)トップの「『日本の顔』何点? 自民総裁選,専門家が採点」だろう。
 4候補の採点表に並ぶ「専門家」のトップ,誰かと思えば漫画家のやくみつる(=はた山ハッチ)氏だ。専門家? なんの?

2001/04/15

最近読んだ本 その三 『新・本格推理01 モルグ街の住人たち』『絹の変容』『オウムガイの謎』

Photo_3『新・本格推理01 モルグ街の住人たち』 監修 鮎川哲也,編集長 二階堂黎人 / 光文社文庫
 編集長が『本格推理1 新しい挑戦者たち』以来の鮎川哲也から二階堂黎人に変わって第1冊目。掲載された作品はいずれもまぁまぁの出来で,たとえば20世紀初頭のロシア革命を背景にした「暗号名『マトリョーシュカ』 ─ウリャーノフ暗殺指令─」など,アマチュアの手による本格ミステリとしてはこれ以上望むべくもない労作。しかし,応募原稿の枚数の上限が増えたことにもよるのか,全体に「労作」志向が強いこともまた確かで,小粒でぴりり,という手応えはなかった。
 それ以上にうんざりするのは,二階堂黎人の解説というか,お説教。ミステリを読みたいのであって,新興宗教のお勉強会に参加したいわけではないのだが。

『絹の変容』 篠田節子 / 集英社文庫
 寄生虫の本を何冊か紹介したら,どうやらそういうモノが好きと思われたらしい(好きなわけではない,と思うよ……多分),「この本は知ってた?」と知人が勧めてくれたのが本書である。レーザーディスクのように輝く絹織物,それは蚕の野種によるものだった……。バイオテクノロジー,アレルギーなど,当節風味を加味したパニックものだが,急いで書いたのか,なんだかさまざまな要素があわただしく駆け足でかき混ぜられた印象。この虫がなぜ怖いかも,ちょっとあれこれありすぎる。
 烏丸は大昔,貰い受けた蚕を育てたことがあるが,わしわしと桑をはむその底知れぬ食欲,成長,そして繭から出て飛ぶこともできずただまぐわって卵を産んで死んでいく虫の一生……本書の虫は危険,かつグロテスクだが,本当の恐怖とは,それが危険なのだからではなく,それが存在するからなのではないか。
 などとぶつぶつ言いつつも,なかなか面白い1冊であった。感謝。

『オウムガイの謎』 小畠郁夫・加藤 秀 / ちくまプリマーブックス
 オウムガイの本がそうそうあるとも思えないのに,ピーター・D・ウォード『オウムガイの謎』と同じタイトル。これは筑摩書房でなく,後から出した河出書房新社が悪い(しかも,同じ小畠郁夫監訳。なにやってんだか)。
 筑摩書房版は中・高校生向けに日本でのオウムガイの飼育の苦労をまとめたもの。ウォードの説と噛み合わない部分もあって興味深いが,青少年向けということを抜きにしても,ドキュメンタリーとしては圧倒的にウォード版のが上。

 ところで,オウムガイは鳥羽水族館(三重)での飼育が有名だが,池袋のサンシャイン国際水族館では先月来シーラカンスの標本が公開されている。これは,『寄生虫館物語 可愛く奇妙な虫たちの暮らし』の亀谷了先生が解剖に立ち合い,エラで手に裂傷を負いながらも新種の寄生虫を発見した標本が,よみうりランド海水水族館の閉館にともなってサンシャイン国際水族館に譲渡されたもの。
 家庭サービスかねて,明日はそのシーラカンスを見にいく予定。サンシャイン国際水族館は入り口のところに4.8メートルのリュウグウノツカイの標本もあって,それと再会できるのもまた楽しみ楽しみ。

最近読んだ本 その二 『エラン』『バカのための読書術』『辺境警備』ほか

Photo_2『エラン』全2巻 新谷かおる / メディアファクトリー
 1989年,つまりバブルがはじける直前に連載された,「貿易」を題材にした作品である。「夢の独立国家をつくるため,少年少女が設立した世界最小の貿易商社」という設定が窮屈すぎたせいか,本格的に話が転がりだす前に終わってしまうが,新谷らしい大手商社との知恵合戦は見もの。
 以前,『砂の薔薇』の解説に宮嶋茂樹が登用されたという話を紹介したが,この『エラン』2巻の木原浩勝(怪異蒐集家)の解説がまた秀逸。その切れ味にはさっと鳥肌が立った。新谷という作家,一見,豪快な勝ち負けテーマの少年マンガに見えるが,実のところは掘り下げ可能な,複合的な作風なのだろう。とりあえず『クレオパトラD.C.』は必読。

『バカのための読書術』 小谷野 敦 / ちくま新書
 難しい本をどう読むか,どう選ぶか,といったテーマについてまとめた本である。とりあえず,この本に「バカ」にされる領域にいたるまでが大変だ。普通は,この本を読んでも,何を言われているかわからないだろう。
 本邦初「読んではいけない本」ブックガイドには爆笑。小林秀雄のほとんどすべて,とか,バタイユ,ブランショなんて確かに読みたがる時期があったよな,と顔が赤らむ(ただし,ここで「読んではいけない」とされているバタイユの『エロティシズム』は,中国人の処刑(広場で阿片をかがせてからよってたかって足をもぎ,胸をそぐ)の写真がそのまま掲載されていて,立ち読みする価値はあると思う)。『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』も「読んではいけない」そうだ。まぁ,先に読んでおくべき本は多いかな。
 とりあえず,読書家を自認する人は読んでみるとよいだろう。ただし,これを読んだバカの一部が,自分をバカと思わなかった場合は問題だ。こじれたバカは無敵。

『辺境警備』 紫堂恭子 / 角川書店あすかコミックス
 先の『バカのための読書術』で大島弓子,山岸凉子と並んでお奨めされていたので買って読んでみた。悪くはないが,これに「しびれる」には少し年をとりすぎたか,あるいは逆にまだ若すぎるようだ。

『なんでもツルカメ(上・下)』 犬丸りん / 幻冬舎文庫
 いわずとしれたおじゃる丸の作者のデビュー当時の作品。しかし,烏丸の好みはおじゃる丸よりむしろこの『なんでもツルカメ』のりんちゃんだ。連載当時のことがあれこれ思い起こされて懐かしい。

『写真美術館へようこそ』 飯沢耕太郎 / 講談社現代新書
 中断している「本の中の名画たち」のための資料,あるいは紹介する本の候補として選んだもの。悪い本ではないが,内容をだらだら紹介する以外に,取り上げる切り口見つからず。

『活字でみるオルセー美術館 近代美の回廊をゆく』 小島英熙 / 丸善ライブラリー
 同上。

『フローラ逍遥』 澁澤龍彦 / 平凡社ライブラリー
 同上,なのだけれど,ただもううっとり。著者晩年の作業,古今東西の花の図版75点を取り上げ,それぞれに典雅な文章を付したもの。

最近読んだ本 その一 『九マイルは遠すぎる』『ストーカーの心理』『春の高瀬舟 御宿かわせみ24』『私たちは繁殖しているピンク』

Photo 新聞報道について寄り道したりしているうちに,取り上げるタイミングを逃した本がたまってしまった。いずれ機会をあらためてきちんと紹介したい本(およびイナズマ落としでゴミ箱に投げ捨てた本)を除いて,ざざざっと駆け足で紹介しておこう。

『九マイルは遠すぎる』 ハリイ・ケメルマン,永井 淳・深町真理子 訳 / ハヤカワ文庫
 ふと耳にした「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない,まして雨の中となるとなおさらだ」という言葉から推論を展開し,なんと前夜起きた殺人事件の真相を暴き出す……という表題作でかねて有名な短編集なのだが,どういうわけか読もうと思い立つと書店店頭にない,そのうち失念する,ということの繰り返しでこの十数年すれ違いが続いていた。
 場末の小さな書店でようやくお目にかかれたのだが……。なァんだ,その短文だけじゃなくていろいろ推論の材料があったのね。おまけにその材料たるや,極東の島国の読み手にはまずわからないであろうシロモノ。
 まぁ,これは長年の期待が勝手に膨れ上がったせいだろう,アシモフ『黒後家蜘蛛の会』にも匹敵する佳編ぞろいではある。

『ストーカーの心理』 荒木創造 / 講談社+α新書
 腹帯の惹句(添付画像参照)が,「ストーカー自身が告白した赤裸々な深層心理!!」。……当人が自覚しているなら,すでにそれは深層心理とは言わないのでは?
 それはともかく,男性ストーカー2人,女性ストーカー2人との対話を詳細に紹介した本書,岩下久美子『人はなぜストーカーになるのか』,福島章『ストーカーの心理学』に比べるとストーカー心理の分類,抽出が荒っぽく,しかもどうも被害者よりストーカー寄りというか,どこかその言動を容認している気配があって少々ひっかかる。
 この3冊の中では『ストーカーの心理学』が一番お奨め。

『春の高瀬舟 御宿かわせみ24』 平岩弓枝 / 文春文庫
 神林東吾がうっかり外にこしらえてしまった(らしい)隠し子・麻太郎と再会し,その事件で母・琴江を亡くした麻太郎は後継ぎを得られない兄・神林通之進の養子となる……四方八方まるくおさまってご都合主義としても少々やりすぎではないか。あのご都合主義の権化,島耕作ですら隠し子ナンシーに自分が父であると告白しなかったというのに。
 とかいいながらはらはらお付き合いしてこれで24冊目,あと何冊読めるのやら。

『私たちは繁殖しているピンク』 内田春菊 / 角川文庫
 子育ては百人百色,細かいことにこだわらない親にはあれこれ参考になったりリフレッシュになったり。こだわる人は……お好きなように。
 食後すぐに濃いコーヒーや緑茶を飲むのは鉄分が破壊されてよくないのだそうだ。麦茶,ほうじ茶,番茶ならOKとのこと。なるほどね。

2001/04/14

マスコミの誤報について 最終回 報道という名のバラエティショウ

 このほか,コンピュータを扱った報道を見渡すと,実際,明らかな誤報,首を傾げざるを得ない記事が少なくない。というより,専門家が直接ペンを執った文章は別にして,ある程度突っ込んだ内容を記者がまとめた記事を見た場合,かなりの確立で奇妙な誤解や微妙なズレ,さらにいえばほのかな毒を感じることが少なくない(とくに,朝日新聞の「ネット」に対する悪意はかなり露骨だ)。

 気になるのは,コンピュータを扱った記事の場合,比較的オープンな業界ゆえ事件の結果がしばらくして明らかになることが多く,そのために読み手から記事の内容チェックがしやすいのではないか,ということである。
 そして,もし大手新聞社の記者の水準がコンピュータ関連記事にうかがえる程度のものしかないとしたら,それ以外の,記事の是非が明らかになりにくいジャンルの記事の内容の水準は果たしてどうなのか。たとえば,経済,金融,政治,外交……。

 衰えたといえども大部数を誇る新聞の影響力はいまだ大きい。駆け出しの記者でも取材相手に「公器」として恫喝まがいのことを口にできるほどその権力は小さくない。ワイドショーや週刊誌とは次元の異なる,何かきちんとしたもの,確かなスジによる情報,といったものを想像する読み手もいまだ少なくないに違いない。
 しかし,本当にワイドショーや週刊誌,スポーツ新聞とは違うのだろうか?

 とりあえず,我々読み手は,インターネットという複合的な情報源を得た。従来は時間的にも金銭的にも容易でなかった複数の新聞の記事,通信社のナマの情報,場合によっては事件の当事者のナマの声に触れることすら可能になった。

 2つの新聞の記事を読んで,もしその内容に違いがあるなら,どちらかは(あるいは両方とも)事実と異なっている可能性があるということだ。逆に,内容が全く同じなら,どこかからの,同じニュースソースからの(なんらかの意図のこもった)情報を引き写しただけかもしれない。

 見抜くのは読み手側の義務なのである。

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 ……と書いて〆られるとなかなかカッコよかったのだが,知人から,昨日の書き込みの,顧客データをプリントアウトした銀行についてのご指摘をいただいた。
 曰く,「プリントアウトは結果的にムダにはなったが,保険金と同じく万一に備えたリスクヘッジであり,ムダになるよう努力し,その努力がうまくいったということではないか。そもそも派手にプリントアウトを積み上げても預金全額から見ればたいしたコストではない。銀行の取り組み姿勢のパフォーマンスだったのではないか」(要約,烏丸)
 うーん,磁気ディスク等への保存で十分なところを,紙に印字しないとアピールにならないという構造自体が前近代的な印象だったのだが,こうして指摘をいただくとどうも反論できない。

 というわけで,新潮社から函入り著作集全35巻を発行する折には,昨日の書き込みの最後の段落は削除することにしたい……って,こらっ。

(本シリーズ,これでオシマイ)

2001/04/13

マスコミの誤報について その六 蓼喰うバグも好き好き

 以下,朝日新聞のコンピュータ関連報道をざっと駆け足で見ていこう。

 1987年9月,「日本IBM,一般家庭向けパソコンから撤退 日電などに押され」。
 何かといえば,あの,IBM5550の家庭向けとして森進一まで使って発売された,上にバカが付くほど価格が高くて,遅くて,ソフトがなくて,販売チャネルもないためさっぱり売れなくて,倉庫に余りに余って,数度にわたって社員に押し付けたがそれでも処理しきれなかった16ビット機「JX」の撤退記事である。撤退もなにも,コンシューマ市場では参入できてない次元だったと思うが。
 ……過去,ほとんどのパソコン,家電製品の製造終了を記事にしなかった朝日新聞,なにもよりによってそんなものの撤退記事を載せることもあるまいに,やはりIBMの名前に「ゆゆしきことらしい」と反応してしまうのだろうか。しかも記事をよく読むと,「家庭向けの中でも教育用としては,上位機種を中心に販売を続ける意向」,なんだ撤退ですらない。在庫を処理したいので,もう一度だけ記事にしてくれないかと頼まれでもしたのかしらん。
(仕事でしばらく5550を使っていた烏丸,JX発売当時,個人で購入しないかとIBMの営業マンに持ちかけられたが,今思うと断ってまことに惜しいことをした。インターネットを探しても,個人でJXを購入した経験談などほとんどないのである。)

 1996年12月,科学欄のJPEG技術を紹介する記事。
 「JPEGは,画像の細かい部分が少しぐらい変化しても人間の目が気づかないことを利用する。画像に離散コサイン変換(DCT)という細工をし、大きな構造と細かい構造に分解し、画像の全体にあまり関係がない細かい構造は捨てる。」
 ふむふむ,なるほど。問題はその続き。
 「顔の画像なら,顔の輪郭や髪形などの情報は間違いなく残し,細かいニキビや髪の毛一本ずつの情報は,思い切って減らす。」
 思い切っても,離散コサイン変換ではニキビは減らないと思うが。傍には牛の図があって,DCT変換をすると地面の情報,空の情報が「粗い」,牛の情報,雲の情報,牧草の情報が「細かい」。……いや,あの,その。
 画像変換についての知識のない文系の記者が,専門家に説明を仰いだ際に説明のための比喩を真に受けた,といったあたりか。
 ちなみに,なぜすでに技術として(よい意味で)枯れたJPEGを取り上げたかいえば,NTT情報通信研究所の所長安田浩氏がエミー賞の科学技術賞を受賞したため。記事にするのはともかく,1996年にもなって「画像圧縮に熱い視線」の記事タイトルはいかがなものか。

 これは比較的最近の記事。1999年10月の夕刊,社会面トップ。
 「ソフト『一太郎10』成人の日はいつ? 祝日改正知らず」,つまりジャストシステムが祝日の改正を知らないで,2000年の成人の日を15日にしたままだった……そりゃ,障害といえば障害だが,ワープロソフトのカレンダー出力機能なんていったい誰が使うんだか。コンピュータの「2000年問題」関連の話題を探していた記者の目にたまたまとまったのだろうが,オマケソフトに社会面のトップ費やして「ユーザーの1人は『欠陥があるのに,修正はおろか問題点を知らせもしないのは不親切』」ではさすがにジャストシステムがお気の毒。

 そんなことより,2000年問題に怯えて「データが読めなくなるといけないから」と数万枚の紙に預金データをプリントアウトしたどこかの銀行のおまぬーを指摘するほうがまだ有意義だったと思うのだけれど。2000年になってコンピュータが壊れたら,プリントアウトからデータを入力し直すつもりだったんでしょうか。

(つづく)

2001/04/12

マスコミの誤報について その五 舶来パソコン好み

 朝日新聞のコンピュータ報道の大きな特徴の1つは,まず,そのくどいまでの略語好きである。
 スーパーコンピュータは「スパコン」,インターネットは「ネット」,最近では米Microsoft社を「マ社」「マ社」と連呼した記事が印象に残る。
 スパコンという言葉からは大らかな愚かしさしか感じないし,インターネットはインターネットであってネットではない(第一,ローカルエリアネットワークやパソコン通信ネットワーク等との違いをどうするつもりだ)。「マ社」にいたっては……ただもう気持ちが悪い(*1)。
 略語の多用は一定のスペースに情報をおさめるため,という理屈はわからないでもないが,それならそれぞれの対象について標準的な略語を調査するべきではないか。

 もう1つの特徴に,舶来パソコン好き,ということがある。企業でいえばIBM,機種でいえばMacintoshの話題がお好みのようだ。
 その最たるものが,1992年後半から1993年にかけての,IBM PC/AT互換機万歳記事である。
 たとえば1993年1月の「10万円切るパソコン 米社,春にも日本で発売」,この「米社」というのはデルコンピュータ社のことだが,要するにアメリカで4番目のコンピュータ会社が日本で少し旧いスペックのパソコンを投げ売りするぞという報道が一面扱いである。前年秋にコンパックが12万円パソコンを出した際にも一面で報道された。
 しかし,これらの廉価機は,実際にはほとんど売れなかった。当時国内でPC/AT互換機を購入していたのはまだマニアと呼ばれる層で,売れ線は20万円以上,いや30万円台のハイスペック機だったのである。

 もっとも,これらの報道は,国内メーカーのパソコンの低価格化とPC/AT互換機化については大きな影響を及ぼしたといえるだろう。それがその後のWindows95ブーム,インターネットブームに結びついたことを思えば,ユーザーにとって非常に有意義な記事だった,という見方もできる。
 気になるのは,これらの記事を担当した人物が,のちに,コンパックやデルの廉価パソコンが売れそうもないのに一面で報じたことについて「国内メーカーの奮起をうながすためだった」と述べていることだ。これは明らかに経済報道に「恣意」を込めたということであって,大部数の新聞の一面でそれが許されることなのかどうか,少々疑問が残る。
 また,世界標準ともいえるPC/AT化が進んだ,ということは,裏返せばそれまで各メーカーが競い合っていた日本独自の仕様を壊滅的に滅ぼしたということでもある。チップや基板の大半をアジア諸国から安く輸入し,筐体におさめて販売する,それが現在の国内大手パソコンメーカーのビジネスであり,そのため日本語入力に適したキーボードの開発などはほぼ完全に放棄された。国内の技術者たちの意欲も高いとは思えない。

 PC/AT化,Windows,インターネットの普及は世界規模の趨勢であり,朝日新聞がどう書こうがその流れは変わらなかったかもしれない。しかし,少なくとも大部数を背景に歴史に竿をさすのなら,パーソナルコンピュータについて十分な調査を重ねたうえで記事を起こすのが当然だろう。
 残念ながら,先に紹介した誤報以外でも,朝日新聞のコンピュータ関連記事には,とても十分な調査に基づいたとは思えない記事が少なくないのである。

*1……これほど略語が好きなくせに,少し前まで「CD-ROM」という用語が出てくると必ず(読み出し専用メモリ)とかいうカッコ書きが付いていたりした。語源的には間違いではないが,CD-ROMはいまや配布メディアであってメモリではない。

(つづく)

2001/04/11

マスコミの誤報について その四 朝日新聞一面を飾ったハードウェアたち

 一昨日の「くるくる」を読んだ知人から,昨年の『正論』に朝日新聞紙上の考古学上の誤報をレポートした記事があったようだ,と連絡あり。あいにく手元に該当の『正論』がないのでその件はまたの機会に譲るとして,本日は当初の予定通り朝日新聞の一面を飾ったパーソナルコンピュータ関連の記事を追ってみよう。

 1990年5月の「高校生コンピューター・ウイルス事件」以外で,朝日新聞がパーソナルコンピュータについて一面で報道した記事にはどのようなものがあったか。

 たとえば,1993年1月には「プリンター内蔵のノート型パソコン,2月発売」という記事がある。
 日本アイ・ビー・エムのThinkPadとキヤノンのバブルジェットプリンタを1つの筐体におさめたというものだが……どうもこれを一面で紹介する根拠がわからない。バランスを考慮しながら機能を絞って携帯性を保持することこそがノート型パソコンのレゾンデートルだろう。それにプリンタを合体させて一昔前のポータブルワープロのような重い筐体にしてどうする。出先でプリントアウトしたいなら,当時それなりの廉価さでヒットしていた携帯用バブルジェットプリンタと組み合わせれば十分。
 というわけでこのIBM ThinkPad 550BJは朝日新聞渾身の提灯記事(?)の甲斐なく,登場と同時にあっさり歴史の彼方に消えた。

 ハードウェアそのもの以上に「朝日新聞が一面で取り上げた」ことが話題になったのが,1988年2月の「機種の枠なくすパソコン,今月発売 IBM・日電と互換」という記事である。
 見出しだけ見れば当時全盛のPC-9801とIBM PC/AT,東西の膨大なアプリケーションをすべて使える素晴らしい規格に見える。しかし,実際のところは,PC/ATの基盤にPC-9801の差分を加えたような無理やりなハードウェアにそれぞれのBIOSをファームで載せたキメラである。技術的な面白さがないわけではないが,エプソンの98互換機と違い,機構上,どうしても同性能のPC-9801,PC/AT単体より安くは作れない。記事中では「BIOSさえ用意すれば,東芝J3100,富士通FMR,日立B16,さらにIBM PC/ATの日本語仕様のAXなどのソフトも使えるようになる」と夢とロマンを掻き立てるが,考えるまでもなくいずれもPC/ATライクなMS-DOSマシン,それぞれのアプリケーションがほかの機種で動作しない悪習は問題としても,たとえばさまざまな機種用の「一太郎」を持って困っているユーザーがどれほどいたか。この「標準機」とやらが売れないのは当然だった(*1)。実際,多数のメーカーの参入を期待した日本パソコンソフトウエア協会の野望むなしく,それまで聞いたこともなかったトムキャットコンピュータ一社のみの参入,販売チャンネルもヨドバシカメラだけという惨状だった(*2)。
 ちなみに,この「標準機」は,Windows3.0登場以前のハードウェアの違いを吸収しようとする技術的な試みの1つとして,それなりに評価すべきものではあった……ただし,ビジネスとしてはまがいもなく無謀な企てであり,大手新聞一面で紹介するのが妥当かと言われれば(誤報とまではいわないものの)「苦笑い」としか言いようのないものだった。

*1……たとえば本体3万円,5千円のアダプタを買えばPS,ドリキャス,64のゲームがいずれも遊べる,というゲーム機ならそれなりに売れそうに思えるかもしれないが,残念ながらMS-DOS用のアプリケーションは,そういった共有ハードが必要なほどにはバラエティがなかった。

*2……真偽は知らないが,40台しか売れなかった,との噂あり。

(つづく)

2001/04/09

マスコミの誤報について その三 専門家という情報源

 昔のことだが,考古学の研究を専門とする知人が
「考古学については,新聞の派手な記事なんかあてにしてはダメだよ。どこの新聞も自分たちが親しい一部のセンセイの言うことばかり取り上げて,実証できてないようなことまで平気で載せてしまうのだから」
と苦い顔をしていたことを思い出す。どの新聞がどの大学のどの研究室の,ということまで詳しく説明していただいたのだが,申し訳ないことに詳細までは記憶がない。知人の懸念は,最近の旧石器発掘捏造事件でも明らかになった。
 もちろんこの捏造事件の「犯人」はマスコミではない。また,以前から一部で指摘されていたと言われる旧石器の発見に対する疑問を取り上げていないことを後から責めるのも酷というものだろう。しかし,論文にすらまとめられていない発見を再三持ち上げるマスコミの煽りが,事件の当事者をますますのっぴきならない立場にまで押し上げていったであろうこともまた否めない。

 この事件は,マスコミ報道についてさまざまな教訓を示しているように思われる。その一つ,「専門家の言うことは正しいのか」という点について少し考えてみよう。

 『誤報 ─新聞報道の死角─』には,1990年5月の朝日新聞夕刊トップの「高校生コンピューター・ウイルス事件」が取り上げられている。
 その年の4月,S社製のパソコン用のゲームソフトにコンピュータウイルスが発見され,話題になったのだが,この誤報は,「香川県丸亀市に住む高校生がパソコン通信を通じて大手コンピュータメーカーの社員を名乗る人物からコンピュータウイルスの開発を持ちかけられ,金銭と引き換えにそれを渡した」というものだった。朝日新聞はスクープとして夕刊1面トップに掲載したが,記事を読んだだけで首をかしげるような奇妙な内容である。

 まず,従業員4万人の大手コンピュータメーカー(暗にF社を示している)の社員が名刺を渡して一介の高校生にコンピュータウイルスの開発を依頼した……この時点でもう目にハテナマークが湧く。悪巧みをするのにわざわざ名刺を出すのも妙な話だし,そもそも4万人をかかえるコンピュータメーカーの技術力をかんがみれば,地方の高校生にウイルス開発を依頼する説明がつかない。ウイルス開発に40人がかりというのもプログラミングの工程について「わかっていない」印象である。
 さらに,その事実を突き止めたというのが,大阪のコンピュータ連盟の会長ということになっていたが……この人物がパーソナルコンピュータ業界でどういう位置付けにあるかは,詳しい者数人に尋ねればすぐにわかったはずなのである。

 詳しくは触れないが,結局,この報道は以前から虚言癖のあった高校生の言葉を新聞社が真に受けたための失態として決着を見る。果たしてそれだけだったろうか。
 『誤報 ─新聞報道の死角─』は誤報の原因として記者のあせりや判断ミスをあれこれ挙げているが,先の人物からの情報を真に受けた段階ですでに敗北は決まっていたのである。おそらく「コンピュータ」「連盟」「会長」といった肩書きに目をくらまされたのだろうが,この人物の情報に基づいて記事を作成するのは,小泉純一郎の出馬の意思を確認するのに小泉今日子に電話するくらい(馬鹿馬鹿しい例で申し訳ないが本当にそのくらい)頓珍漢なのだ。

 そんな剣呑なことをしてしまうほど朝日新聞はパーソナルコンピュータ業界に疎いのだろうか。どうも,少々疎いようなのである。

(つづく)

2001/04/08

マスコミの誤報について その二 報道の本質について少し考えてみる

 『誤報 ─新聞報道の死角─』(後藤文康)については,しかし,著者が大手新聞OBであるだけに,誤報についての反省も対策もどこか業界の囲いのうちにあり,極限すればそらぞらしさも否めない。

 第一に,反省の対策のといっても,精神論に過ぎないこと。また,誤報について「おわび」「訂正」がなされたらそれで済むのか,ということもある。やらせが明らかになって謝罪したといってもせいぜい担当者の首のすげかえ,外的には売り上げに多少影響する程度で,「おわび」される側のダメージに見合うものとはとても思えない。そもそも大手新聞は「おわび」を掲載するのに想像を絶するほどの抵抗を示すが,毎度の訂正記事の目立たなさといえばこれまた想像を絶するレベルである。ほんとに謝意があるなら号外ぐらい出しなさい。それがスジというものだ。

 そもそも犯罪報道とは何か,という問題もある。
 「松戸OL殺人事件」で,冤罪とされた時点で各社はこぞって謝意を明らかにして世論におもねた。では冤罪でなかった(有罪と確定した)なら,何を書いてもよかったのだろうか。少なくとも松本サリン事件の河野さんについては,オウム真理教が加担していることが明らかにならなければいつまでも「おわび」「訂正」が載ることはなかったろう(この点は著者も明記している)。だいたい,マスコミはいかなる権利があって犯罪の容疑者,被害者についてあんなふうに鬼の首をとったように書き立てることができるのか。国民の知る権利は,関係者の人権よりも重いのか。

 念のため書いておくが,別にマスコミによる犯罪報道そのものを否定するつもりはない。しかし,マスコミ各社の報道行為は,国民の知る権利に答えること,再犯を防ぐこと,など,さまざまなプラスの面があることは確かながら,一方で関係者の人権,プライバシーを踏みにじることで成立するビジネス(=金儲け)であるとの自覚を最低でも持ってほしいということだ。
 ちなみに,テレビ局内部では「報道」とエンターテインメントたる「ワイドショー」は別ものという認識はあるそうだ。しかし,それなら「ワイドショー」はオープニングで「本番組は報道ではございません」と明言すべきだし,そもそも,「報道」と「ワイドショー」が違うというのも内部の人間の勝手な思い込みであって,視聴者から見ればテレビ局のチャンネルが同じなら同一の情報ソースにしか見えはしない。

 つまり,いかに国民の権利を守るため等々綺麗事を並べようと,マスコミ報道とは情報ころがしによる利益追求である。これは,そういう報道とそうでない報道があるということでなく,あらゆる報道がそうだ,という意味である。

 1970年代,毎日新聞が小・中学生の教育問題を取り上げ,「乱塾時代」と命名して大々的にキャンペーンを行った。その結果起こったのは「よそが塾に行かせているのなら」という,さらなる塾通いの加熱,公立学校の空洞化だった。
 しかし,当たり前だが毎日新聞がこの件について「おわび」「訂正」を掲載したという話は聞かない。

(つづく)

2001/04/07

マスコミの誤報について その一 『誤報 ─新聞報道の死角─』 後藤文康 / 岩波新書

Photo_2【サンゴ汚したK・Yってだれだ】

 関東大震災下の「朝鮮人暴動」(1923年)
 元号「光文」事件(1926年)
 林彪事件(1971年)
 国際産業スパイ事件(1972年)
 ロス疑惑(1981年~)
 教科書検定事件(1982年)
 大韓航空機爆破事件(1987年)
 「なだしお」事故(1988年)
 グリコ・森永事件(1989年)
 幼女連続誘拐殺人事件(1989年)
 サンゴ損傷事件(1989年)
 湾岸戦争(1991年)
 松本サリン事件(1994年) ……

 本書は,元新聞記者・紙面審議会委員の著者が,あるときは市民の人権を侵し,あるときは世論を誤らせてきたマスコミの「誤報」の数々を紹介し,それぞれの原因と経緯,さらにその防止策,善後策を考えるものである。

 「誤報」はなぜ起こるか。
 第一に,マスコミが,犯罪事件では捜査当局を最大かつ最重要な情報源にしていること。第二に,記者が時間に追われ,確認を怠る場合。第三に,ほかの記者,新聞,テレビなどとの過剰な競争心理がチェックの甘さに結びつく場合。極端なケースでは,「サンゴ損傷事件」のようにでっちあげ,捏造にいたることさえある。
 「誤報」をなくすには,ともかくほかの情報源によるクロスチェックを重ねる以外にない。もちろん個々の記者が,報道というものがいかに大きな影響を与えるかについて自覚し,その一方で社のシステムとしてのチェック機構を整備することだろう。

 一方,「誤報」が明らかになった場合の後始末もまた重要である。いかに速やかに適切な「おわび」「訂正」を掲載するか,そこにマスコミ各社の姿勢,誠意が問われるのは言うまでもない。

 本書は1996年の発行だが,その後も「誤報」は相次いでいる。
 たとえば朝日新聞が1999年12月,雅子妃の懐妊について朝刊で華々しく報道しておきながら,翌日,急にトーンダウンした件。この報道は「誤報」とまではいえないものだったかもしれないが,少なくともスクープ報道の直後,朝日新聞は何かに気がつき,口を閉ざしたに違いない。3日後の「(懐妊は)明確に断言できる段階ではない」との宮内庁の発表まで,誤報の可能性があること,現在詳細を確認中との旨を明確にすべきだったのではないだろうか。

 また,本書でも取り上げられている「松戸OL殺人事件」とは,19歳の信用組合職員の殺害事件(1974年)で容疑者として逮捕された小野悦男が,一審の無期懲役の判決から,1991年4月のニ審では人権派の弁護士の活躍などで無罪を勝ち取り,「冤罪のヒーロー」として祭り上げられ,各マスコミが大々的に「おわび」「訂正」したことを示す。ところが,小野容疑者は,後日,幼女誘拐殺人未遂,また首なし女性の焼死体についても殺人容疑で逮捕され,無期懲役が確定している。
 当初の松戸OL殺人事件について,人権派弁護士は「冤罪だったのだから誤報」という指摘を未だに繰り返しているようだが,この事件はむしろ裁判,報道の限界を示しているようで興味深い。

 昨今,インターネット上のニュースサイトで通信社の生の報道に触れられるようになったため,ときに大手新聞の記事がそれに“妙に”手を加えていることがわかるようにもなった。たとえば,ごくまれながら,生の報道では
 「○○の○○がいついつ,AはBであると語った」
だったものが,前半が消え,
 「いついつ,AはBであることが明らかになった」
に書き換わっているということがある。よしんば前者が事実であっても,後者は事実とは限らない。のちにAはBでないことが明らかになったとき,前者は(報道において全く責任がないわけではないものの)誤報ではないが,後者は明らかに誤報となる。

(つづく)

2001/04/06

[書評未満] 『多重人格探偵サイコ』大塚英志 原作,田島昭宇 作画 / 角川コミックス・エース

Nimg7079 コミックから小説,DVDとメディアミックスで展開される『多重人格探偵サイコ』,コミック版をやっと1巻だけ手にしました。
 前々から売れているのはわかっていたけど,どうも……信頼できるマンガ評サイトなんかではあまり正面から取り上げられてなかったので,なんとなく後回しにしてきたのです。

 感想は,一言でいえば「おやまぁ,エグい」。死体や殺し方の表現が,かなりきています。というか,1巻については,とにもかくにもインパクトのある殺し方とそれを平気でしてしまうヤツを描きたかった,という感じでしょうか。
 で,世評によると,1巻をピークにどんどんつまらなくなる,猟奇殺人を犯す犯人の左目に黄色いバーコードがあるというネタはSF的に処理されるもよう,ということで,なーんだそういうことならあわてて読まなくてもよいのかなといった感じ。「巻を重ねるごとに,だんだん殺し方が極まってきましたね!」というのならまた別の楽しみもあるというものだけど。

 大塚英志が1巻の巻末に「死体を描くのは作品を書くうえでの思想的なもんだから文句は後で言えよな」みたいな宣言をしているのですが,そりゃ,すごい作品なら「必然性」があると認められるってなもんで,そうでないならただの思い上がり。
 で,結局,残念ながら2巻以降を急いで読みたい気持ちにはならなかった。漫画喫茶に通う習慣はないのだけど,通うならそのうち続きを読んでもよいか,あんまり話を広げないでちゃんと落とし前つけてくださいね,くらいでしょうか……。

 それにしても,これがX指定もなくどこの本屋さんにも当たり前で並ぶなんて,昨今のPTAも大人しいんだねえ。スカートめくりで大騒ぎになった時代を思うと,隔世の感あり。

2001/04/03

[雑談] ホラー小説と映像

 昨今の作家は,作品をものする際にはたしてどれほど映像化(映画化)を意識しているのか……。そういう問題について,ホラー作家の多くにとって,彼らが怖がり,熱狂した「ホラー」の原体験はいずれも映像だったのではないか,ということを考えてみた。

 誰かが「東京湾に巨大恐竜が出現して暴れるが,天才科学者が苦悶の末,彼の研究成果を……」とかいう小説を書こうとしたとき,いかに内容に純文学的な表現やテーマを盛り込もうとしても,東宝怪獣映画的な描き方にしかならないのではないか,いってみればそういうことである(たとえば,フランスの心理小説や中国の歴史モノのような書き方は不可能ではないはずなのに,誰もそうは書かない,書けないだろう)。

※そもそも,東宝怪獣映画は,スタッフがその少し前に手がけていた戦争映画のノウハウ,セリフ回しを抜きには語れない。

※逆に,原民喜の『夏の花』『心願の国』や井伏鱒二『黒い雨』のようなゴジラ小説もまた魅力的かもしれない。

 トマス・ハリスも,映像について,出世作『ブラック・サンデー』当時から多少その気味はあったような気はする。彼は綿密な調査と硬派の文章力を持ち合わせた小説家ではあるけれど,それと同時にかなりの映画好きなのではないだろうか。
 彼の作品には,映像化できない場面というのはあまりない……というより,『ハンニバル』にいたっては映画用の絵コンテをテキスト化したような感さえある。少なくとも,彼がモノカキになりたい,と思うにいたった最初の一撃は,ゲーテとかボードレールとかではなかっただろう。また,彼にとってのフィレンツェは,いかに登場人物に薀蓄を語らせようと,古典の中の花と権謀術数の都市ではなく,いかにもなアクション映画の舞台にしか見えない。

 「ホラー」に限定すれば,どれほど映像的でも別にかまわないのだが,個人的な好みでいえば,「本」で読むならば,食人鬼が出てきてがつがつ死体を食べるシーンの連続するホラー小説より,「死体の一部が損傷していた。いったい,誰が何のために……」という謎が提示されたまま,登場人物が(誰のしわざ?)(まさか,この傷は……)と惑ううちに幕,といった薄ら寒い作品を読みたい気がする。もちろん,よい出来で,という前提はあるのだが。

 また,20年後のわが国の作家の傾向を想像すると,無意識に格闘ゲームやRPG,コロコロコミックの影響が現れるのではないだろうか(角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫,徳間デュアル文庫等収録の作品のことではない。それらは,自覚しつつRPGを取り入れて書かれている。ここで言うのは,純文学っぽい恋愛小説や,シリアスな経済小説に,ドラクエやFF,ミニ四駆,遊戯王カードの影響が……という話である)。

2001/04/02

『ハンニバル(上・下)』 トマス・ハリス,高見 浩 訳 / 新潮文庫

Photo【ポップ】

 平積みのベストセラーを読むのは好きではない。夾雑物が多すぎる。
 だから,濁り水の沈殿を待つように,しばらく,余計な惹句の萎えるのを待つことが多いのだが,今回のように映画化の話題が進むとそういうわけにもいかない。キャラクターの顔やイメージをテレビCFや雑誌上で連発されてしまうからだ。

 もちろん,映画が嫌いなわけではない。小説を原作にした映画がみなだめ,というわけでもない。
 ただ,アンソニー・ホプキンスでは顔の脂肪が厚すぎる。もっと枯れて,痙攣的な,そう,何を隠そう僕の頭の中のハンニバル・レクターの顔や表情,ハープシコードに向かう姿はマルセル・デュシャンなのである。

 『ハンニバル』はとてもポップだ。
 よくもあしくもサービス過剰で,一種マンガ的でさえある(*1)。
 問題は,訳者の高見浩が「脇役クラスに至るまで,実に濃厚に個性が書き込まれていたから,それぞれのイメージを明瞭に把握することができた。その面での苦労はほとんどなかった」と述べているように,レクター博士,メイスン・ヴァージャーはじめ,あらゆる登場人物が説明しつくされ,その言動に意外性のかけらも残されていないことだ(*2)。

 それでは闇の跳梁する余地がない。

*1……マーゴ・ヴァージャーの描き方にいたっては,ハリスも寺沢武一の『コブラ』を読んでいるとしか思えないほどだ。

*2……とくに,ポール・クレンドラーがいけない。敵に加担する姑息な上官が,最後に主人公たちにやっつけられる。まるで水戸黄門ではないか。

2001/04/01

『イチジクを喰った女』 ジョディ・シールズ,奥村章子 訳 / ハヤカワ・ミステリ文庫

Nimg6018【部屋はさらに暗さを増した】

 本書の腹帯には「フロイトが書いたミステリ、と言っても疑う者はいまい」とある。これには二重の意味で疑問がある。
 第一に,登場人物(殺された若い女,ドラ)は実在したフロイトの患者をモデルにしているそうだが,この作品そのものは心理学者に書かれたようにはまったく見えない。第二に,よしんばフロイトが書いたミステリがあったとしても,それが傑作である保証などまるでない。他人の夢に出てくるあれこれをやたら性的な意味に結びつけようとするオヤジの書いた犯罪小説が,冴えたミステリになるわけがないではないか。

 舞台は20世紀初頭のウィーン。
 ある夏の夜,公園で若い女性の絞殺死体が発見され,解剖の結果胃の中から未消化のイチジクが検出される。担当の警部は部下とともに捜査を進め,一方,死体の化粧に招かれた警部の妻もまた独自に犯人を追い始める。

 物語は最後まで名の明かされない警部と,その妻のエルスゼーベ,さらにエルスゼーベの友人の若い子守り女ウォリーの視点を,鋏で切ったように数ページで切り替え,張り替え,やがて少しずつ事件の真相が明らかになっていく。
 警部の背景には解剖や写真技術,指紋の鑑定を取り込んだ当時最新の犯罪科学,心理学があり,ハンガリー出身のエルスゼーベの背景にはマジャール人やジプシーたちの迷信,まじないがある。そして舞台は,芸術と科学と退廃の都。若い女たちがカフェで煙草を吸いながらケーキを食べ,出会った男とタロットゲームや占いを繰り返し,年末には仮面舞踏会に汗を流すあのウィーンである。
 過激な連続殺人があるわけではないし,露骨なセックスシーンがあるわけでもないのだが,熱中しているのか上の空なのかよくわからないエルスゼーベのなまめかしさはじめ,全編を覆うのは濃密な猟奇色と官能性だ。犯人が明らかになる最後の数十ページにいたっては,登場人物たちは誰もがみな熱病におかされたかのような(いかにも欧文)意識の高揚,混濁に陥っている。

 というわけで,本書はミステリとして論理的なカタルシスを求めるより,ウィーンを舞台にしたニューシネマを見るようなつもりで読み進めるべきだろう。要するに文芸作品に近いのである。
 そういえば,この空気というか雰囲気に限定するなら,リルケの『マルテの手記』に似ているところがないわけでもない。『マルテの手記』は,若い詩人が20世紀初頭のパリに滞在した日々に書き溜めた手記,という体裁の一種の知的な長編散文詩。ウィーンとパリ,都市は違うし,描かれた内容もおよそ異なるものではあるが,絢爛たる文化の花開く新世紀の都市を舞台に東欧出身者(リルケはプラハ出身)の濃密な想念が五月雨式に描かれるという点,もっと言えばマルテの見る事象,エルスゼーベの見る事件が,見たままでなく,なんらかの精神や霊のありようを投影したものであるという点で,そう見当違いな指摘でもないような気がするのだが,どうだろう。

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