本の中の名画たち その七 『怖い絵』 久世光彦 / 文春文庫
【絵というものは,たいてい怖い。】
小学館のプチフラワー昭和55年(1980年)春の号から連載された佐藤史生の『夢見る惑星』に登場する「竜の谷」の盲目の神官エル・ライジアは,翼竜の子を助けようとして墜死する前に,主人公イリスにこう語る。
……わたしは
わたしには 動物はすこし 苦痛なのです
生き物よりはモノが モノよりは観念が わたしには ありがたい
後になって,この言葉を何度思い出したことだろう。
それから数年後,この言葉に癒された者がどれほどいただろう,まだ,1980年。エル・ライジアは,作中の役柄そのままに,この国にあふれるある種の若者たちの痛みを幻視したのか。
稀有なSFコミック『夢見る惑星』についてはいずれきっちりとカタをつけるとして(無論,自信はない),エル・ライジアほど極端ではないにせよ,烏丸も少しばかりナマの人間は苦手だ。それを押し隠して口に糊する程度の小才は心得ているが,できるなら私小説は読まずにすませたい。同じ小説なら私小説的な要素は少ないほうがよい。濃すぎる人間味に対しては,体中の浸透圧が反発するのだ。
それでも,ときには著者の幼年時代,青年時代の実像を色濃ゆく反映した本に出会ってしまう。取り込まれてしまう。
『怖い絵』は,TBS「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などの演出で知られる久世光彦(くぜ・てるひこ)が,学生だった昭和20年代を舞台に久世風「ヰタ・セクスアリス」を展開した,私小説。あるいは,全く逆に,昭和20年代を舞台にした「ヰタ・セクスアリス」を装った,幻想小説集である。
収録された9つの短編はいずれも主人公が出会った「怖い絵」にからむ物語として提供される。
全編,全ページ,死と精液がタールのようにねばついて,一気に読むのはためらわれる。実のところ私小説と言ってしまうにはあまりに技巧的で,各編のタイトルが古今の名句,名詞のパロディだったり,取り上げられる「怖い絵」がバラエティに富んでいるなど,含みの多い構造になっている。
取り上げられた絵画作品は,ロシアのイコン,ベックリンの「死の島」,生涯にわたって蝋燭ばかり描き続けた高島野十郎の蝋燭(添付画像参照),〈穢い絵を描く〉という理由で大正画壇を追放された甲斐庄楠音の「二人道成寺」,竹中英太郎が乱歩の「陰獣」に描いた挿し絵,オーブリー・ビアズリーの〈サロメ〉,少年倶楽部の伊藤彦造の挿し絵……。
それぞれの作品の中で〈私〉は女や友人と知り合い,別れる。かなり苛烈な事件も,「怖い絵」に対する鑑賞を交え,感情を抑えた文体で淡々と語り,その分,全体が低周波でブウウウンと厚く揺れるようだ。昭和20年代の死は,平成10年代の死より熱っぽく,重い。なぜだかよくわからないが,そういうことだ。
烏丸が手にしたのは文春文庫版だが,文庫としては紙質もよく,挿入されたカラーの口絵が美しい。
その中で,「怖さ」が明確な形で濃密に匂うベックリンや甲斐庄楠音(最近では岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』のあの表紙がその作品なのだそうである)以上に心引かれたのは巻末の「ブリュージュへの誘い」で取り上げられたフェルナン・クノップフによるベルギーの廃れた都市ブリュージュの光景だった。水にけぶっていながら潤いに欠ける素っ気ない都市,過去への郷愁に見えながらまぎれもない衰退を描くその画風を好もしく思う己れはすでに4分の1ばかり死んでいるのかもしれない,などとも思う。
ビアズレーやルドンを怖いと騒ぐほうがよほどよい,そういう不健全さもあるのだ。
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