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2001年2月の14件の記事

2001/02/24

『サトラレ』 佐藤マコト / 講談社モーニングKC

Nimg4743【だめだったんだよ ありがとうなんて 言うなよ】

 日清サラドレではない。いわんやハドソンのサラトマでもない(古いぞ烏丸)。

 「サトラレ」とは,先天性R型脳梁変性症,柳田國男が採取した「サトリの妖怪」の逆……わかりやすく言えば「口に出さなくとも思ったことが周囲約50mに筒抜けになってしまう」先天性の奇病である。1千万人に1人の確立で生まれてくると言われている。彼らは例外なく天才であり,あらゆる分野で素晴らしい業績を残している。
 政府はサトラレの能力が人類共有の財産であるとし,発見され次第,将来の方向性がある程度決まるまで科学技術庁直属のサトラレ対策機関の管轄保護下に入れ,進路が決まり次第,文化科学厚生など関係省庁に引き継ぐ。

 しかし,サトラレ保護法が整備される前,最初のサトラレは,堪えられなくなって死んでしまった。だから,サトラレには自分がサトラレであることを知らせてはならない。そのため,サトラレには常に数人のシークレットサービスが警護につく。このあたり……作者は日本テレビの「はじめてのおつかい」からヒントを得たに違いない。

 第1話「西山くんの恋」は,そんなサトラレで量子物理学者の卵,西山幸夫くんの恋の物語である。
 なにしろ彼の考えることは,周囲50mの人に筒抜けなのである。道を歩いていて「わっ おっきな おっぱい」と喜んだり,好きな女性を見かけて「川上さんだっ! スタミナ定食食べてるっっ」と思ったり,「はァ─────っ スタミナ定食になりたい……」と恋煩いしたりしても,それが全部が全部川上さん含む周囲の人々にまるごと筒抜けなのである。科学技術庁は官房長官を招いて会議を開き,西山くんの恋を早期解決しようとはかる。それに対し,西山くんの警護にあたっていた小松洋子は……。

 素晴らしい。本当に素晴らしい。シャンペン抜いて乾杯だ。読書家冥利につきるというか,マンガ&SF好き至福の時というか。
 この設定だけで,もう勝負は見えたようなものだ(なんの勝負?)。よしんば一発屋で終わったとしても,パッと咲いた見事な花火と言えるだろう。

 特筆すべきは,この秀逸な設定のみならず,アシスタント歴15年という作者の視線がしみじみと優しいことだ。
 サトラレの家族はもちろん,警護にあたる者たち,ただ袖すり合うだけの人々。誰もが皆,サトラレの心がもれていることを一生懸命知らないフリをし,サトラレを思いやる。もちろん,サトラレに対して知らないフリをするのは国民の義務であり,それを破れば懲役刑が待っているわけだが,そんなこと以前に一人一人一人一人が優しい。優しくならざるを得ない。ここしばらく相次ぐ少年犯罪と対極の心遣りがここにはある,そんな気がする。
 そして,そんなサトラレだからこそ,どんなに優秀でも絶対に就業させてはいけない職業がある。周囲がそれを推し留め,なおかつそれを突破せんとするサトラレを描く第4話,第5話,これは泣ける(それぞれなんの職業かはナイショ。ぜひ単行本を手にして読んでください)。
 本当に,泣ける。

 本書は講談社の「モーニング新マグナム増刊」に掲載。モーニング,アフタヌーン系は,本当にこういう作品を世に出すのが上手い。見事。

 なお,『サトラレ』は,安藤政信,鈴木京香出演で映画化が進められているそうである。『踊る大捜査線』の本広克行監督とのことなので,つまらない映画ではないと思うが,おそらくこの素朴な,すみずみまで満たされるような優しさは映像にはならないだろう。原作を先に読んでおくことをお奨めしたい。

2001/02/23

本の中の名画たち その十一 『モンガイカンの美術館』 南 伸坊 / 朝日文庫

Photo_7【私が一貫していいつのっているのはこのことだ。】

 取り上げておいて失礼な話だが,とくに南伸坊のイラストや文体が好き,と思ったことはない。そのくせここで紹介するのが3冊め,うーん,なんていうんでしょう,ポジショニングが巧いというか,角を曲がるとそこにいるのだ。やはりアナドレナイ人である。

 さて,『モンガイカンの美術館』が連載されたのはなんとあの「みづゑ」。「おいつめてわるかった。かえってきてくれみつえちゃん」……ではなくて,美術出版社の,ほらあの美術界の「ユリイカ」と呼ばれる……呼ばれてないか。まあ,なんにしても新刊書店に雑誌「みづゑ」は今はもうない。おいつめられて休刊になってしまった。最後のほうは,読めるところなかったし。

 本書は南伸坊がその「みづゑ」で「門外漢」として自由に美術,芸術を語る,という企画だったが,やはり雑誌が雑誌だけに,人選にワイルドにはなりきれなかったようだ。美術史,美術批評のプロではないにしても,イラストを学び,美術全般への素養をにじませる著者の筆に破綻はない。
 なにせ,初手からマルセル・デュシャンのレディ・メイド(既成の日常品などをそのまま作品として美術展に提出するというアレ)がテーマである。気がつけば,文庫の腹帯のモナ・リザにヒゲが描いてあるあたりもデュシャンである。なんだかいかにも掲載誌の読者層に趣味嗜好が合わせてあって,商業誌としては当然ながら,少々あざとささえ感じてしまう。
 その後もピカソ,マン・レイ,ポール・デルボー,ハンス・ベルメール,モンドリアン,カンディンスキー,リキテンスタイン,ウォーホールなどなど,なーんだ20世紀美術の缶詰セットみたいなラインナップ。いや,もちろん,もっとマイナーな画家だとか,南伸坊当人のまじめ/おふざけ作品だとかがあれこれちりばめてはいるのだけれど,「ふうん,なんだかマジメなラインナップ……」と流し読んでいるうちに,1晩で読み終わってしまった。断っておくが薄い本ではない。立てて置いても倒れない,400ページ,厚さ3cmは下らない文庫である。

 本書に熱中できない原因は,要するに,1人の作家,1つの作品についての好み,評価が,著者と自分とであれこれ違うためだろう……と思ったが,もう一度ぱらぱら見てみると,どうもそうではない。
 先の森村氏も書いていたが,現代の美術というのは,作者によるコンセプトの文化なので,その作品のコンセプト,要するに「理屈」が必ず問われる。それは魅力的な世界で,美術作品の「意味」を掘り下げる本は実際確かに面白い。しかし,本書は「モンガイカンの」と銘打っているのだ。作品へのアプローチはもっといろいろあってよいと思うのだが,作品のコンセプトを読むという姿勢は,400ページ,のっぺりとほとんど変わらなかった。
 その意味で,著者は「モンガイカン」ではなくどっぷり「アチラ」の住民に思えてならない。400ページ破綻なく同じテンポを刻み続けられるというのは,立派なプロのワザである。そのプロに,コンセプトを読むというフォームは変えずに「面白主義で自分のアングルから」と言われても困ってしまうのである。

 たとえば……と,例をあげたいが手頃な例がない。1つ1つが悪いわけではないのだから。で,どうでもいいようなツッコミを1つだけ。
 エロという名のパロディ作家のある作品について,「性器マル出しの枕絵と,ドリル付きの戦車のようなものが並置された絵」と著者は書く。それはどう見てもサンダーバードのジェットモグラであり,そのわきには1号も飛んでいるのだが,シンボーさん,サンダーバードご存知ない?

2001/02/20

本の中の名画たち その十 『美術の解剖学講義』 森村泰昌 / ちくま学芸文庫

Nimg4630【美とは未来に向かって振り返ること】

 書店店頭で『チーズはどこへ消えた?』の「全米で2年間にわたってベストセラー・トップを独走!」という腹帯の惹句を見かけるたび,少々物悲しい思いにかられてしまう。そんなものか,アメリカ。

 迷路の中に住み,チーズを探して生活するネズミのスニッフとスカリー,小人のヘムとホー。
 「『チーズ』とは,私たちが人生で求めるもの,つまり,仕事,家族,財産,健康,精神的な安定……等々の象徴」と明記してしまう表紙カバーにまず天を仰ぐ。つまりこれは,その程度の読解力も持ち合わせない者を対象にした寓話ということか。
 そんなものに目くじら立てるほうが愚かというものだが,それにしても,自分をどのキャラクターに当てはめて読めばよいのか。
 本書では,チーズは迷路のどこかに,誰かが置いてあるもので,2匹と2人は単にそれを見つけ出して食うだけである。それで原題が「Who Moved My Cheese?」。つまり,「私たちが人生で求めるもの」とやらは,どこかに誰かに置いてもらうもの。また,登場人物たちの反応はさまざまだが,いずれにしても変化はあくまで外的,受動的な問題であって,誰一人迷路そのものについて疑問を持たないし,迷路を破壊しようともしない。
 つまり,ここに書かれているのは,檻の中でちょこまかと働く,有能な飼いネズミの育て方。それとも従順な信徒か。冗談としてもつまらない。

 是非はともかく,神道の生地の上に仏教的無常感と儒教道教をトッピング,赤い左翼思想振りかけ,なおかつSFやロックといった西洋ドリンクをサービスで付けた日本人の「変化」観のほうが総じて多彩で複雑だ。複雑ならよいってものでもないが。

 たとえば『美術の解剖学講義』。本書は必ずしも最良とは言い切れないが,それでも「変化」,正確には「変容」についてのアグレッシブさの十分感じられる1冊だ。
 本書はレオナルドの「モナ・リザ」やレンブラントの「トゥルプ博士の解剖学講義」などの名画やヘップバーン,モンローなど女優を模したセルフポートレイトで知られる森村泰昌が,そのコンセプトとセルフポートレイトに出会うまでを語る美術レクチャーの書籍化である。
 マネの「フォリー・ベルジェールの酒場」の解釈,レンブラントの自画像論など,セルフポートレイト化,つまり名画をながめるだけでなく,洋服から化粧,背景の小物まで模倣しようとしないと気がつかないのではないかと思われるさまざまな指摘にあふれ,論理ゲームとして非常にスリリングだ。
 もちろん,彼のセルフポートレイトには,当人ですらまだ語り尽くせない意味合いが込められているのだろう。
 その解法,少なくとも模索として書かれた,ルネサンスや20世紀の映画を,「堕天使」による「まがいもの」として過去の美を模倣し,それが新しい美を生んだとする一種の芸術永久革命論はよく出来ているし,また,モノの観方,とらえ方の例として提出された,人生の行く手をはばむ「壁」に対する方程式も面白い。

 いわく,「よじのぼったり,こわそうと努力したりする。これが初級」。
 「次にトンチをきかす」。壁を置物とみなしたり,散歩がてら迂回路を見つけたりする,こういうのが中級。
 上級ともなれば,「壁がある。その壁をじーっと見つめるんですね。すると壁が半透明になっていったり,お豆腐のように柔らかくなっていったりする。そして上級者は水に浸かるようにこともなげに壁の中に入っていって通過してしまう」。

 迷路はチーズならぬ豆腐でできているのである。

2001/02/15

『寄生虫館物語 可愛く奇妙な虫たちの暮らし』 亀谷 了 / 文春文庫PLUS

Photo_6【寄生虫はとてもおだやかに生きている】

 「センセイ」にもいろいろあって,学校の教師には総じて世間知らずが多いし,一部の業種ではなぜか客のほうから「センセイ」と呼ばないと店主に相手にしてもらえない。
 最近,高校生の乗る実習船が他国の潜水艦に追突されて沈没,9名の行方不明者が出た折にもゴルフを続け,「どうして危機管理なのか。事故でしょ」と言ってのけてまたしても不評をかった某人物。彼は孫娘にも自分のことを常時「センセイ」と呼ばせるそうだ。
 烏丸も以前あるところでセンセイセンセイと連発されたことがあり,そのときは「この連中,こんなに俺のことを疎ましがっているのか」と悲しく思ったものだ。

 ……それでも世の中には,学究のジャンル,年齢,性別を問わず,直接教えを受けたわけでもないのに思わず「先生」と敬称を付けたくなるような人物がときどきいる。それは確かなことだ。
 目黒寄生虫館(目黒駅西口,徒歩15分)の創立者,亀谷了(かめがい・さとる)現名誉館長は,そんな人物の一人である。

 本書は1994年に発行された亀谷先生の名著の,待望の文庫本化だ。
 ここには骨太な,根っからの「おたく」がいる。「おたく」といっても亀谷先生は世界を閉ざさず,時間も私財もすべて寄生虫館創立のために捧げ尽くした。苦行ではない。心からわくわく楽しんで,である。

 そうでなくてあたりかまわず動物の死体をもらって歩くとか,開業医でありながら,リンゴ箱をテーブルがわりにしたら畳の上に新聞を敷いて食べるのよりおいしい,などという生活が果たして可能だろうか。目黒寄生虫館の標本5万点はそうやって集められたものだ。ムササビの大腸につまった無数の蟯虫,オカモノアラガイの触覚(カタツムリでいえばツノの部分)に寄生して赤と緑の縞模様でうごめくレウコクロリディウム。少女の口から飛び出したニホンザラハリガネムシ。赤道あたりで鯨の体表に食いこみ,南氷洋に達すると海の底に沈んでいくオス,メスのペンネラ。
 亀谷先生の文章は寄生虫たちに対する,それこそ目の中に入れても痛くないような愛にあふれている(ただし,有棘顎口虫やイヌ回虫の幼虫が人に迷入した場合は目に入って失明する可能性あり。川魚の生食やペットの糞には注意)。寄生虫なんて気持ち悪い,と言う方に問いたい。あなたは誰かにこれほど愛される自信はあるだろうか。

 その一方,風土病の原因究明のために自ら死後に解剖して欲しいと願い出た女性,自分の体を水につけてその日本住血吸虫の感染を確認しようとする医師,厳寒の地で炭酸ガス中毒と腐臭に苦しみながら何百匹というイヌやネズミの死体を切り裂き,顕微鏡でエキノコックスの成虫を追い求めた医師たち。
 本書はそんな医師たちの過酷な病との闘いの記録でもある。

 しかるに,どうも,文藝春秋の編集者は本書についてそのような評価はしていないようだ。腹帯の惹句は「怖いもの見たさ!?」だし,解説(と言えるようなものではない)に呼んだのは『富江』の伊藤潤二である。
 一読すればおわかりのように,本書は,決してそのようなキワモノではない。

 ……と,断言したいのだけど,なにしろなあ,女子高生の出したサナダムシ,8匹の長さを足すと合計で45メートル,という話題のイラストカットは『東京女子高制服図鑑』の森伸之だし。

 亀谷先生,御年90歳。自由闊達。ヘム君もホー君も,迷路の壁にくだくだ格言書いて迷ってる暇があったら本書を読むべし。
 チーズまでの道のりに,迷路などない。

2001/02/12

『オウムガイの謎』 ピーター・D・ウォード,小畠郁生 監訳 / 河出書房新社

Nimg4419【隔壁のイニシエーション】

 映画『ゴジラ』(1954年)の前半,大戸島に赴いた古生物学者の山根博士(志村喬)がジュラ紀の巨大生物の足跡とおぼしき窪みで「ご覧,トリロバイトだ」と三葉虫をつまみ上げるシーンがある。何か由々しきことが起こりつつあることを暗示して,のちのお子様ランチ化したゴジラシリーズには見られない名シーンの1つだ。

 けだし昭和の少年・少女の胸をこがし,ときめかした古生物の三種の神器といえば,恐竜,三葉虫,そしてアンモナイト,これにつきるのではないか。
 アンモナイトは軟体動物頭足類,要するにイカやタコの仲間である。ちなみに軟体動物にはほかに腹足類(巻貝,ウミウシ,ナメクジ等),二枚貝類等があり,容姿や生態はてんでバラバラである。イカとサザエが仲間と言われても寿司の素材としてくらいしか共通点が思い浮かばない。しかし,これらが縁戚であることをビジュアルに示してくれる生物がいる。それが「生きた化石」,オウムガイ(Nautilus)だ……やっと本題にたどり着いた。

 オウムガイはオウムの嘴に似た美しい石灰質の殻を持つ。漏斗から水を吐き出して南洋の深い海をふよふよ泳ぎ,多数の触手を持ち合わせた軟体部はイカに似ているといえば似ている。ただし,目には穴が開いているだけで,イカ,タコのようなレンズはない(イカの目は非常に発達しており,人間の目の仕組みを研究するために用いられる)。
 なんとなくアンモナイトが先祖,というイメージがあるが,起源は実はオウムガイのほうが古い。アンモナイトはその亜種として繁栄し,滅びたらしい。もっとも種レベルでは現生オウムガイの化石はなく,「生きた化石」という表現には問題がある。

 本書は,自身オウムガイの研究家として知られるウォードが,この100年間にわたる生物学者たちのオウムガイ研究の成果をドキュメントしたもの。正直,オウムガイの生態への興味だけで手にしたのだが,これほどよい本だとは予想もしていなかった

 添付画像でもご覧いただけるように,オウムガイの殻にはアンモナイト同様,普通の巻貝にはない「隔壁」がある。それが浮力の獲得とどうかかわっているのか(重い殻があっても泳げるということは,魚の浮き袋にあたるなんらかの工夫があるはず),そもそも隔壁はどのように形成されるのか,というのが本書の大きなテーマとなっている。
 研究者たちが次々とその謎に挑んでいくさまは圧巻だ。単身太平洋の島々に渡り,苦心の果てに初めてオウムガイについての詳細な論文をまとめたアーサー・ウィリー。オウムガイのX線写真撮影に荷担し,新しい研究の端緒を開いたアンナ・ビダー。オウムガイの浮力について長年の定説を覆したエリック・デントンとジョン・ギルピン-ブラウン。ニューカレドニアに海水循環型の画期的な水族館を設けたルネ・カタラ。そこでオウムガイの寿命について研究を進めたアーサー・マーティン。そして著者自身,さらに若手の研究家たち……。

 いずれも,研究設備の伴わない政情不安な南の島々に滞在し,貿易風吹き荒れる海に漕ぎ出してわなをしかけ(サメに襲われて死んだ研究者もいる),工夫を重ね,努力を重ね……しかしある者はオウムガイの生態を勘違いしたまま死に,ある者は精魂つめて設営した水族館を奪われる。著者はそれらの事実をことさら悲劇的にあおるわけでもなく,淡々と記述し,オウムガイの生態を読み手に伝える。
 そして研究の積み重ねの上にやがて明らかになる奇跡のような隔壁の働き。これで中島みゆきのエンディングテーマが重なったら,まんま「プロジェクトX」である。

2001/02/11

『最新恐竜学』 平山 廉,復元画・小田 隆 / 平凡社新書

Photo_5【どうせ恐竜なんだし,こうしたほうが客は喜ぶだろうからかまわない】

 『世界恐竜図鑑』では,ティラノサウルスは脊柱から尾にかけてを地面に水平に,ピンと張った形で描かれている。背中を急角度で立て,尾を地面に引きずる,従来のカンガルー状の想像図は最近では否定されているのだ。しかし同書においても,ブラキオサウルスなど竜脚類の多くはキリンのように長い首を高く掲げ,バロサウルスにいたっては(アメリカ自然史博物館の復元骨格を参照したものか)後肢で立って高い木の葉を食べようとしている。
 それに対し,本書『最新恐竜学』ではすべての竜脚類が首を地面にほぼ平行に真っ直ぐ伸ばしていたと説く。

 著者・平山廉氏の現在の研究テーマはカメ類など恐竜以外の爬虫類の進化だそうである。彼は,化石と現生の両方の生物を客観的に観察・比較するという古生物学者として当然の態度で恐竜学に対したとき,「頭骨や背骨,あるいは足跡の形態の本質さえきちんと理解されてこなかった」と驚く。
 なにしろ著者の見る博物館の竜脚類の復元骨格模型は,首の折り曲げたところで関節が脱臼しているというのだから。

 著者はさらに,1975年にロバート・バッカーが発表して恐竜ブームのきっかけとなった「恐竜温血説」,ジョン・ホーナーらによるマイアサウラの「恐竜子育て説」,1980年にルイ・アルバレスらが発表して注目を集めた「小惑星衝突による絶滅説」等を1つ1つ検証していく。
 そのほか,恐竜と鳥類の関係,竜脚類の群棲,肉食恐竜との関係(ほとんどの肉食恐竜にとって成体の健全な竜脚類を襲うのは,ライオンがゾウやキリンを襲うようなもの。竜脚類の四肢の関節の可動性は非常に小さく,足を滑らせて横倒しになったり,ぬかるみに足をとられて転んだりするのを待っていたのではないか)など,従来の説を否定する著者の指摘は新鮮かつ論理性,説得力にあふれている。
 もちろん,本書1冊をもって,しかも恐竜の専門家でない平山氏の説を全面的に支持することはできないかもしれない。それでも読み応えは十分。

 いや,そもそも,中途半端な説を唱えた従来の恐竜学者たちの姿勢を問うべきかもしれない。著者は若干の怒りを込めて次のように述べている。
「恐竜を異常なまでに特別視する人びとにとって,恐竜は空想の世界に存在する,いわば一種の“キャラクター商品”であり,テレビ・アニメの『ポケット・モンスター』と何ら変わるところはないのであろう」
「彼らにとって,恐竜の大きさやプロポーション,名前が問題なのであり,個々の骨格の正確な観察などどうでもよいのかもしれないが,形態の観察さえまともにできない人びとに,恐竜の生態や絶滅を云々する資格や能力があるようには思われない」

 ……つまり,著者は,ロバート・バッカーやグレゴリー・ポールら,名だたる恐竜学者をつかまえて,「とんでも」「ちょー」扱いしているわけである。面白くないわけがないではないか。
 ちなみに,日本の恐竜研究については「世界的なレベルで議論できるような論文が(とくに英文では)ほとんど公表されていない」のが現状だという。どこかで聞いたような話である。町興しにセメントの恐竜造っている場合ではないと思うが。

 なお,論理性は本書ほどではないが,最近の恐竜学の動向については『新恐竜伝説』(金子隆一,ハヤカワ文庫)もなかなか面白い。プシッタコサウルスの復元骨格の前肢に指1本を余計にくわえて平気な中国恐竜学者,日本の古生物学会屈指の「とんでも」さん,岡村長之助についての記述など,キッチュな話題満載である。

2001/02/10

本の中の名画たち その九 『世界恐竜図鑑』 ヒサ クニヒコ / 新潮文庫

Photo_4【最近の獣脚類の前肢はお岩さんふう】

 ひまだのお。しりとりでもしますか。うむ……ポケモンしばりはどうかな。了解,最初はグー,ジャンケン,ポン。

リザード,ドガース,ストライク,クサイハナ,ナゾノクサ,サワムラー,ライチュウ,ウツボット,トサキント,トゲピー,ピカチュウ,ウインディ,ディグダ,ダグトリオ,オニスズメ,メノクラゲ,ゲンガー,ガラガラ,ラフレシア,アーボック,クラブ,ブースター,タマタマ,マンキー,キャタピー,ピッピ,ピジョット,トランセル,ルージュラ,ラプラス,スリーパー,パラセクト……

 ぜーぜー。初期のポケモン151匹だけでもなかなか勝負がつかない(嘘。トゲピーはNo.175)。

 では,恐竜しばりのしりとりはどうか。
 これは難しい。なにしろ,ご存知の通り恐竜の名前は「アロサウルス」「マメンチサウルス」「パキケファロサウルス」といった具合にたいがい「~ス」で終わるし,そうでなければ「イグアノドン」「プテラノドン」である(これも嘘。翼竜「プテラノドン」は恐竜ではない)。
 要するに,恐竜しばりのしりとりは,「ス」で始まる恐竜の名前をいくつ言えるかが勝負だ。「ステゴサウルス」「スティラコサウルス」「スピノサウルス」……。

 そんな恐竜しりとりの強い味方がこの『世界恐竜図鑑』である。って,別にしりとりのために作られたわけではないが。マンガ家,恐竜研究家として知られるヒサクニヒコ氏が,最新の恐竜学を基に,現在までに約350種類命名されている恐竜のうち,200種類以上の恐竜を図版で紹介してくれる心強い1冊なのだ。

 本書は1997年発行だが,実は新潮文庫には同じヒサクニヒコ氏による『恐竜図鑑』(1985年発行)があった。これは,1970年代に登場した「恐竜温血説」をきっかけに「恐竜は爬虫類でありながら敏捷な動きをし,群れで行動したり,子育てをするものもあったのでは」という議論が世界中に沸き起こったのだが,その影響下に作られた本である。しかし,それからさらに研究が進み,新説が頻出し,著者としては新版で訂正せざるを得なくなったのだろう。

 ただ,初版の『恐竜図鑑』が,初期の恐竜,竜脚類(ブラキオサウルス等),大型獣脚類(ティラノサウルス等),小型獣脚類(ドロマエオサウルス等),鳥脚類(イグアノドン等),剣竜(ステゴサウルス等),曲竜(アンキロサウルス等),角竜(トリケラトプス等),カモノハシ竜(マイアサウラ,パラサウロロフス等)といった具合に恐竜を分類してそれぞれ古い順に掲載してくれたのに対し,新版の『世界恐竜図鑑』は北アメリカ,アジア,ヨーロッパ,南アメリカ……と,発掘された地域別に分類している。これは,正直,把握しづらい。何億年という時間軸と,地域軸,さらに恐竜の種類を頭の中で並べ替え,把握するのは至難のワザだ。
 もちろん,地域別に分類されたメリットもある。トリケラトプス,カスモサウルス,スティラコサウルスなど,頭の後ろに盾状のフリルを発達させた,いわゆる角竜は北アメリカに多かったことがうかがえるし,最近発掘調査が進むアルゼンチンでは,全長60mとも言われるアルゼンチノサウルス,同じ竜脚類だが頚椎から脊椎にかけての上側に神経棘が長く伸び,いわば首から背中にかけて帆を張っているようなアマルガサウルス,両目の上に牛の角のような突起があるカルノタウルスなど,魅力的な新(?)恐竜が目白押しである。

 しかし,中には,ヒサクニヒコ氏にしてこれは……と思われる図版もある。それほど最近の恐竜学は音を立てて動いているらしい。詳しくは,次回。

2001/02/08

降りてゆく悲しみ 『クレメンテ商会』 かまたきみこ / 朝日ソノラマ

Photo_3【こんなネアカな人と… 私はやっていけるのかしら?】

 2010年のパソコン大絶滅事件以後,安全かつ確実に情報を伝達するために「コピー機」で「複写」,「FAX」で「複写」「転送」することがOA法案で定められた。国家指定の完全保護企業「ギャノン」はコピー機,FAXの独占製造・販売・メンテナンス権をもち,修理費がバカ高い(しかも現金一括払い)のに堪えかねて零細事業者がコピー機のフタを開けただけで国連保護企業法にふれ,その機器はその場でぶち壊され,新規製品を購入させられ(ローンは10回が限度,年率30%,一回でも滞納すると全額返済!),その上で逮捕される。
 主人公・修子はそんな時代にフリーのOAメンテナンスを請け負う「クレメンテ商会」を営む。もちろん違法だが,彼女はまだ十分に使えるOA機器が廃棄されるのを見捨てることはできない。なぜなら彼女はOA機器と同調してその世界に入り込み,コピー機やFAXと会話できるからだ。その世界はゴシック,ロマネスク,いろいろな様式の装飾的な建築パーツにあふれ,OA機器たちは人間の姿をしてオールドファッションに身をつつみ,通電されてないものは目をつぶっている……。

 さて,ここまで読んだなら,最初からもう一度,できれば声に出してお読みいただきたい。「2010年のパソコン大絶滅事件以降,」……
 おーけい,だいたいの設定はわかっていただけただろうか。ヘンな話? その通り,とってもヘンな話だ。SFとも言い切れない,ホラーでもない。雑誌「ネムキ」(眠れぬ夜の奇妙な話)の本領発揮といったところか。

 「異質な目」(ストレンジ・アイ)を持つ修子は幼い頃にOA機器が人間の姿で見えるようになり,そこで出会った,実体がどこにあるとも知れない古いコピー機「GPL-Z10」(彼女の世界ではロンゲの渋いおっさんだ)に恋心を抱く。彼女はGPL-Z10の本体を見つけ出し,手に入れたいと思っている。
 そうしてギャノンのメンテ部を敵に回して立ち回るうちに,修子にはますますそちらの世界がリアルに,魅力的になっていく。そこに転属されてくる,ギャノンの若いやり手セールスマン,瓜上優。彼はまだ使える機器の廃棄に胸を痛める,ギャノンらしからぬ好青年だった。一方,瓜上の上司・須藤はメンテ部を武装化して,クレメンテ捕縛をはかる。……

 かまたきみこは波津彬子のアシスタントをしているそうだが,奇妙な筋立て,登場人物のどこか希薄な生命感などから,波津彬子よりその姉の花郁悠紀子により近しく思われる。
 描かれたコマには,ベランダやバルコニー,橋の欄干など,高さを表す構造物があふれている。OA機器の世界は古代ギリシア風の柱が立ち並び,登場人物は階段を走り,コピー機は階上のフロアから蹴り落とされる。そして多くの場合,登場人物はその高いところに「登る」のではなく「降りる」姿として描かれる。
 OA機器の世界は,とても静かで,穏やかで,諦観に満ちた空間だ。そちらからリアルな人間世界に立ち戻ることは,作者にとってつまりスピリチュアルな高みから降りる行為なのか。物語はいちおうハッピーエンドで終わる。しかし,それは得恋というよりは,とても切ない卒業だ。

 それにしても……ギャノンに瓜上優(うりあげ・すぐる)に修子。おまけにこの表紙。こんな泣けるお話に,あんた。

 なお,同時収録された,冷凍保存から60年ぶりに目覚めた少女を描く『雲を見る人』でも,木登りや屋根の上が何度も描かれる。こちらも,とても奇妙でとても切ないお話だ。『雲を見る人』については,いつかまた,別の形で。

2001/02/07

『ふしぎだいすき! マジックえほん』 作・上口龍生,絵・こやまけいこ / 晩成書房

Nimg4305【あのね あのね】

 左手の親指を「く」の字に曲げ,同じく「く」の字に曲げた右手の親指を曲げたところでくっつけ,くっつけたところを右手の人差し指で隠して右手をスライドし,「わぁ! 親指が切れちゃった!」。
 手品と言うも恥ずかしい,文字通りの子どもだましだが,当時5歳と4歳の息子たちには風呂の中でウケにウケた。そしてその翌日,ちょっとした事件が起こった。下の子が,「パパのまじっくをぼくもやりたい」とカッターで親指を切ろうとしたのだ。
 幸い怪我はなかったが,今さらながら子育ての怖さ,責任の重さにズシンとやられた気分だった。
 他愛ない手品でそれだ。子どもの本を1冊選ぶのも神経を遣う。妙な本は読ませたくない。かといって,雑菌を知らない心身は弱い。

 今日ご紹介するのは,それからほんの少し大きくなった我が家の子どもたちへのお土産である。
 本書『ふしぎだいすき!』は,プロマジシャン・上口龍生氏が原作,パソコン誌の連載マンガやWebサイトのイラストで知られるイラストレーターのこやまけいこさんがマンガを担当したマジックえほん。
 主人公の「しんちゃん」がマジックショーをきっかけにふしぎな世界に迷い込む「ふしぎのくに」と,身近なものを使ってできる手品の数々を紹介した「ふしぎのもと」の二部構成になっている。「ふしぎのくに」で出会ったさまざまなふしぎが,「ふしぎのもと」で子どもたちにも体験できる手品として紹介され,その手品を知って「ふしぎのくに」を読み返すとまた「ふしぎのもと」を試したくなり……。
 子どもたちだけでない。大人にとっても「ふしぎのくに」の最後の1コマは,とても大切なものだ。忘れがちだけれど,忘れてはいけないものがそこにはある。

 「ふしぎのもと」で紹介されるのは,10円玉やひもを使って行う簡単な手品や,1枚の絵が若い淑女にも老女にも見えるとか,
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のどちらが長いか,といった,目の錯覚の引き起こすふしぎのあれこれ。知っているのもあったが,知らないものもあれこれあった。また,子どものころに親や友だちから教わり,友だちを驚かせた,ちょっとした手品のいくつかを何十年ぶりかに思い出したりもした。

 表紙回りをはじめ,あちこちに工夫がこらされていて,楽しい。
 巻末には付録として,切り取って使える実践用のカードも付いている。子育て真っ最中の方はもちろん,子ども会の担当の方などにもお奨めしたい。
 とりあえず,この週末,父はヒーローである。

 ちなみに,イラストレーターのこやまさんのホームページ「こぐま工房」はこちら

2001/02/06

本の中の名画たち その八 『近代絵画の暗号』 若林直樹 / 文春新書

Photo_2【美術評論家たち美術史家たちがひた隠しにしてきた事実。それは……】

 新書というのは,総じてなんらかの専門家が長年研究,調査してきたことを,それなりに広くわかりやすく伝えようとするものが多い。そのため,目覚しい主張もないが,それほど大はずしもしない……。
 本書はそんな中にあって久々の大ヒット。即刻ゴミ箱に叩き捨てようと思ったが,これほどの迷著はそうそうない。酒の肴にするため取っておこう。

 あとがきによれば本書は「誰でもが知っている作品」で「美術作品に隠された暗号を解読する」アプローチによって「美術の新たな枠組みを模索する」のだそうな。けっこうなことだ。「一般人が見慣れているほどの作品だからといって,美術の専門家たちが広く研究している作品であるわけではない」「美術の研究者には,作家や作品の格付け機関として美術市場と共存している一面があるために,価値が定まり美術館に収蔵されれば,すくなくとも市場との関係での研究者の仕事は終わってしまうからだ」,まあね。

 問題はその後。
 「いったいいつからこの領域の情報は更新されなかったのだろうか。それは,本書で“美術評論家たち美術史家たち”の見解とした作品解説や作家解説が書かれた時期を調べればすぐにわかる。参考にした資料の出版時期は一九七〇年代前半に集中している。これより多少古いものもあるが,新しいものはない」
 引用が長くなるのでまとめると,要するに著者は本書で取り上げたフェルメールやアングル,モネ,ゴーギャンらについて,美術全集華やかなりし1970年代以降,専門家は誰も評論を書かなかった,出版されなかったというのだ。

 それが大嘘だということは,オンライン書店で画家の名前で検索してみただけでわかる。豪華函入り美術全集こそ減ったが,お馴染みの大家を扱った薄い大判の美術冊子だって毎年のように発行されている。

 要するに,貧弱な解説をものした一部の評論家を美術評論家のすべてと勝手にみなし,それをコキおろそうとしているのか? まさか……と本文を読んでみれば,まさにそうなのである。

 たとえば,ジェリコー「メデューズ号の筏」について,著者は「美術評論家たち美術史家たちは,この絵の構成画面から文学としての芸術を語ってきた」が,実はこの絵はギリシァ神話を描いた古典主義作品ではなく,実際の事件を描いたものだと指摘する。しかし,これが実際に難破した船の生き残りを描いた作品だなんて,ロマン派に詳しくない烏丸でも知っていたことだ。
 あるいはマネの「草上の昼食」は当時流行した写真の影響を受けている,「オランピア」について美術評論家はひた隠すがなんとこれは娼婦を描いたものだとこれまた大騒ぎ。再三書かれてきたことで,誰も隠してません。ちなみに,引き合いに出されたティツィアーノも,ヴェネツィアの娼婦をモデルに宗教画を描いた。
 マグリットの項では,「美術評論家たち美術史家たち」はシュルレアリスムを「人類の明るい未来を夢見る発明発見」ととらえていることにされてしまい,ダダイスムやシュルレアリスムは第一次大戦に起因する「近代文明に対する深い疑いと,人間が作る社会への絶望的な不信と共にあったのだ」と鬼の首でも取ったかのように宣言する。……これもお約束もいいところで,「現代用語の基礎知識」にだって載っている。

 などなど。ほかにも頓狂な説がいっぱいだ。
 著者が勝手に「知ってるつもり?!」やるのはしょうがないとして,編集者は何をしていたのか。少なくともここまで他の美術評論家をコケにするなら,出典は明らかにすべきだろう。

2001/02/05

本の中の名画たち その七 『怖い絵』 久世光彦 / 文春文庫

Photo【絵というものは,たいてい怖い。】

 小学館のプチフラワー昭和55年(1980年)春の号から連載された佐藤史生の『夢見る惑星』に登場する「竜の谷」の盲目の神官エル・ライジアは,翼竜の子を助けようとして墜死する前に,主人公イリスにこう語る。

   ……わたしは
   わたしには 動物はすこし 苦痛なのです
   生き物よりはモノが モノよりは観念が わたしには ありがたい

 後になって,この言葉を何度思い出したことだろう。
 それから数年後,この言葉に癒された者がどれほどいただろう,まだ,1980年。エル・ライジアは,作中の役柄そのままに,この国にあふれるある種の若者たちの痛みを幻視したのか。

 稀有なSFコミック『夢見る惑星』についてはいずれきっちりとカタをつけるとして(無論,自信はない),エル・ライジアほど極端ではないにせよ,烏丸も少しばかりナマの人間は苦手だ。それを押し隠して口に糊する程度の小才は心得ているが,できるなら私小説は読まずにすませたい。同じ小説なら私小説的な要素は少ないほうがよい。濃すぎる人間味に対しては,体中の浸透圧が反発するのだ。

 それでも,ときには著者の幼年時代,青年時代の実像を色濃ゆく反映した本に出会ってしまう。取り込まれてしまう。
 『怖い絵』は,TBS「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などの演出で知られる久世光彦(くぜ・てるひこ)が,学生だった昭和20年代を舞台に久世風「ヰタ・セクスアリス」を展開した,私小説。あるいは,全く逆に,昭和20年代を舞台にした「ヰタ・セクスアリス」を装った,幻想小説集である。

 収録された9つの短編はいずれも主人公が出会った「怖い絵」にからむ物語として提供される。
 全編,全ページ,死と精液がタールのようにねばついて,一気に読むのはためらわれる。実のところ私小説と言ってしまうにはあまりに技巧的で,各編のタイトルが古今の名句,名詞のパロディだったり,取り上げられる「怖い絵」がバラエティに富んでいるなど,含みの多い構造になっている。
 取り上げられた絵画作品は,ロシアのイコン,ベックリンの「死の島」,生涯にわたって蝋燭ばかり描き続けた高島野十郎の蝋燭(添付画像参照),〈穢い絵を描く〉という理由で大正画壇を追放された甲斐庄楠音の「二人道成寺」,竹中英太郎が乱歩の「陰獣」に描いた挿し絵,オーブリー・ビアズリーの〈サロメ〉,少年倶楽部の伊藤彦造の挿し絵……。
 それぞれの作品の中で〈私〉は女や友人と知り合い,別れる。かなり苛烈な事件も,「怖い絵」に対する鑑賞を交え,感情を抑えた文体で淡々と語り,その分,全体が低周波でブウウウンと厚く揺れるようだ。昭和20年代の死は,平成10年代の死より熱っぽく,重い。なぜだかよくわからないが,そういうことだ。

 烏丸が手にしたのは文春文庫版だが,文庫としては紙質もよく,挿入されたカラーの口絵が美しい。
 その中で,「怖さ」が明確な形で濃密に匂うベックリンや甲斐庄楠音(最近では岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』のあの表紙がその作品なのだそうである)以上に心引かれたのは巻末の「ブリュージュへの誘い」で取り上げられたフェルナン・クノップフによるベルギーの廃れた都市ブリュージュの光景だった。水にけぶっていながら潤いに欠ける素っ気ない都市,過去への郷愁に見えながらまぎれもない衰退を描くその画風を好もしく思う己れはすでに4分の1ばかり死んでいるのかもしれない,などとも思う。

 ビアズレーやルドンを怖いと騒ぐほうがよほどよい,そういう不健全さもあるのだ。

2001/02/04

『時の果てのフェブラリー ──赤色偏移世界──』 山本 弘 / 徳間デュアル文庫

Photo_2【私はお前を本当の娘と思って育ててきた】

 ここしばらく探していた本である。
 もともとは1990年に角川スニーカー文庫から発行された作品だが,そちら方面にあまりアンテナを張っていなかったため,気がつく前に絶版になっていた。神田の古書街で本腰を入れて探すかと思っていたところに今回の徳間デュアル文庫からの再発,正直言って助かった。もっとも,アニメーター・後藤圭二によるこの表紙はあんまりじゃないか,とは思うのだが。

 さて,本書を探していた理由だが,ハードSFとして近年にない秀作であるとファンの間でささやかれていた……なーんてことより,なんといっても『トンデモ本の世界』で一世を風靡した“と学会”会長の代表作だからである。『史上最強のオタク座談会 封印』の参加者でもある山本弘,他人にそんなにつっこむなら,自作はどうよ……ノンノン,この烏丸がそんなイヂワル言うわけないでしょ。現代SFの旗手として期待してのことですわ。おほほ。

 さて一読,感想である。トータルとしては,「うむ,おぬしのSFスピリット,しかと拝見した」感じであろうか。
 2013年,地球上に突如として発現した異常地帯〈スポット〉。周辺は暴風雨が吹き荒れ,その中心に近づくほど重力が小さくなり,金属は発熱し,さらに時間の流れが何倍にも早くなって,スペクトルが赤方に偏移して太陽や空の色が変わる。6か所の〈スポット〉は,北緯35度と南緯35度線上にきっちり経度60度ずつずれ,地球に内接する正八面体の頂点を形成する(びゅーてほー)。軍はあらゆる科学的調査を拒むこの〈スポット〉を解明するため,直観的認識の超能力者たる11歳の少女をセラミックエンジンの特殊車両で〈スポット〉内部に送り込む。
 眼や耳から入力された大量の情報をチョムスキー文法に変換する段階で切り捨てる脳の認識の仕方が人知の枷となっている,というオムニパシー理論もなかなか秀逸だ。

 しかし,小説としては,絶賛するにはいたらなかった。
 まず,フェブラリーの父親,バートがうるさい。娘を心配する気持ちはわからないではないが,最初から最後まで感情たれ流しなのはさすがに鼻につく。こういった,宮部みゆきの作品にもよく登場する直情型,端的に言えば感情ラウドスピーカーは苦手だ。
 第二に,主人公・フェブラリーについて。超越的な情報処理能力オムニパシー,つまり世界の認識の仕方が特異な者が,人間関係や人類への責任について,通常の小説内少女と似たり寄ったりの反応をするのはどうか。生まれながらに他者の心を読める少女は,他者と交わるために演ずることはできても,常にアウトサイドにはみ出していくのが自然ではないのか。
 萩尾望都が火星生まれの超能力者を描いた『スター・レッド』では,主人公の透視能力について,「第一に視点が固定されてない 第ニにこの構図には消失点がない 第三に多数のベクトルで物をとらえている」「なまじ視力がないから視覚に制限がないのだ」と分析した研究者が「視覚がそうなら意識も変わってくる」「怪物的な異常の域に入ってしまう」と恐怖にかられるシーンがある。
 SFならではの想像力,そして物語作家としての厳しさは明らかに萩尾望都のほうが上だろう。

 結局,ハードSFとしての骨格は見事だが,その周辺の脂肪はやや甘,といったところか。
 それでも,こんな表紙のわりには(くどい),お奨めである。アニメやゲームとの間の境界線を喪いつつある時代のSFを考えるには格好のテキストといってよいかもしれない。

2001/02/03

『日本経済に起きている本当のこと』 糸瀬 茂 / 日本経済新聞社

Nimg4207【健全な淘汰への道】

 テクニカルライター・駒沢丈治氏ご推奨の1冊である。
 著者・糸瀬茂氏は1953年福岡県生まれ。上智大学外国語学部卒業後,第一勧業銀行(その間,スタンフォード大学経営大学院にてMBA取得),ソロモン・ブラザーズアジア証券ディレクター,ドイチェ・モルガン・グレンフェル証券東京副支店長,長銀総合研究所客員研究員などを経て現在は宮城大学事業構想学部教授(担当は金融論,会計学,ビジネス英語)。
 本書はテレビ東京の報道番組「ニュース・モーニング・サテライト」のインターネット版に1999年10月以来毎週連載されている「糸瀬茂の経済コラム」の1年分,48話を単行本化したもの。

 扱われた話題からその1年を振り返ると,商工ローン事件,ペイオフ全面延期,東京都の外形標準課税導入,ネットバブル,小渕総理逝去,日債銀譲渡,そごう民事再生法申請,沖縄サミット……など,経済・金融については(たとえば三洋証券,北海道拓殖銀行,山一証券等がばたばたとつぶれた1997年秋に比べれば)おしなべて平穏だったように見える。しかし,それは財政赤字など重要な問題を先送りしたことによる穏やかさでしかないと著者は指摘する。

 たとえば,商工ローン事件の背景として,本来市場から退出すべき中小業者が(このゼロ金利時代に)40%の金利を支払ってまで生き延びようとすることの意味合いを認識すべきと本書は説く。つまり,政府は,実質的に破綻している中小企業をバラマキ政策でやみくもに延命させるのではなく,破産法制の整備等によって市場からの退出,再編入を容易にし,一方で雇用の流動性を高めるべきだというのである。なるほど,弱者救済という耳ざわりのよい理由付けでなんとなく保護政策を容認してしまってきたが,ことはそう簡単ではない。

 また,個人的には,今後の人材の時価評価について,たとえば銀行員を時価評価していった場合,現在より収入が大幅に改善する者,なんとか現状の給与水準を維持できる者,収入が下がる者,雇用そのものが維持できなくなる者がそれぞれ10%,20%,50%,20%ぐらいになると予想されるのに対し,主観的な比率,すなわちもし従業員に対してアンケートを取るとその結果がそれぞれ10%,80%,10%,0%になる,という話が面白かった。烏丸はもともと比較的実力主義,流動性あり,契約社員率高しの業界を志向してきたし,勤めた会社もたまたまいずれも外資系みたいなところばかり(笑)だったのだが,銀行,生保など,従来絶対的な安定,保証を約束されてきた従業員の心持ちはいかばかりか,想像するだに興味深い。

 結局,著者の主張は,情報開示とフェアな淘汰に基づく健全な金融,雇用ということに尽きるのではないかと思う。
 個々の指摘については反論の余地もあるかもしれないが,全体には実に面白いコラムだった。このような問題で最も危険なのは危機に対する「不感症」であり,本書は神経細胞を鋭く刺激してくれるからである。
 ただ,それほどの著者にして,堺屋経済企画庁長官(元)を批判することに遠慮があるような書き方だったのは残念。あの景気天気予報は,子供たちに聞かせたくない平成の悪文の1つである。もし国民の意欲と景気浮上のためにあえて,というなら,それは大本営発表とどこが違うのか。

 なお,著者は昨夏に食道癌であることが判明し,現在は治療のためにコラムを休載しているとのこと。1日も早い快癒と復帰を祈りたい。

2001/02/02

[雑談] マンガにおける触媒的主人公について(『観用少女』(朝日ソノラマ),『バジル氏の優雅な生活』(白泉社),『おかみさん』(小学館))

Nimg4184 化学反応に際し,それ自身は変化しないが,他の物質の化学反応の仲立ちとなって反応の速度を速めたり遅らせたりする物質のことを触媒という。アンモニア合成の際の鉄化合物,油脂に水素を添加する際のニッケル,体内の加水分解を促進する酵素(アミラーゼ,リパーゼ等)などがそれにあたる。

 たとえば。
 川原由美子『観用少女』におけるプランツ・ドールたちはまさしく触媒のような働きをする。愛に惑い,欲にかられ,夢に振り回されるのは彼女と出会った人間たちのほうで,彼女はただ静かに見つめられ,フワフワしているだけだ。

 もしくは。
 坂田靖子の代表作の1つ,『バジル氏の優雅な生活』を見てみよう。この作品中,化学反応,すなわちリアルな人間社会の中で生きているのはフランスから来た孤児ルイであり画家ハリーであり議員ウォールスワースであり詐欺師アーサーであり……ディレッタントたるバジル卿は彼らにかかわり彼らの人生を変化させるが自らは変わらない。いや,そんなバジルがより強力な触媒的存在に振り回されるからこそエジプト編は全編の中でよく言えばアクティブ,悪く言えば浮いた印象が強いわけだが。
 触媒という観点を用いれば,坂田靖子の作品の魅力はもっといろいろな角度から語れそうな気がする。「エレファントマン・ライフ」における隣人,「タマリンド水」の村,「浸透圧」の異界,そのほか竜の研究家,わらわ,闇月王,叔父様などなど。対象が触媒であることによって保証される突飛で素っ頓狂だが安全なストーリー。そして,対象が触媒でしかないことによってもたらされる永遠の喪失感。「砂浜の家」など,坂田靖子の夫婦モノ,恋愛モノがときに異様なまでにうら寂しいのはそのせいではないか。

 あるいは。
 残念ながら相撲マンガとしてちばてつや『のたり松太郎』ほど世評は高くないが,一丸の『新米内儀相撲部屋奮闘記 おかみさん』(全17巻)。
 主人公・山咲はつ子は,新興相撲部屋のおかみさん。そのはつ子が,夫の山咲一夫(春日親方),その弟子の夏木(のち花嵐),高田(のち逆波),咸臨丸,桜丸,堂々力,真弓,初音,道灌山,高崎山,玉置らとともに送る日々を一話完結でほのぼのと描く……世評ではそういうことになっている作品である。
 少し,違わないか。

 はつ子は弟子たち一人一人の出世,苦戦,引退に泣き,笑い,怒る。しかし,「底抜けにドジだが明るくはつらつ,いざとなるときりりと強い」彼女のキャラクターは実は連載開始時点で(春日親方との結婚にいたる経緯の中で)ほぼ完成している。彼女はなるほど魅力的ではあるが,彼女を化学反応の軸として見るならこの設定は17巻も続くほどのものではない。では,これはいったい誰の物語なのか。
 『おかみさん』は,実のところ,高田(のち逆波)という,無骨で無口で性格的にもやや難のある力士の物語なのだ。おそらく,作者も当初はそのつもりはなかったに違いない。連載開始当初,高田は弟子のその他大勢の1人でしかなかった。
 しかし,脇役としてしか描かれてなかった彼が3巻めで十両に上がるときについあふれさせた涙,ここでこの作品は初めて相撲マンガとしての骨格を持つ。相撲ファンの老人の話,ライバル喜屋武,その妹との不器用なロマンスなど,彼を主人公に置いた挿話には味わい深いものが少なくないが,それだけではない。結局のところ,この17巻の中で純粋に強さを求めた力士は彼一人であり,『おかみさん』ははつ子を触媒に欠損,欠落だらけの高田が力士としての人生を手に入れるまでの物語なのである。

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