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2001年1月の14件の記事

2001/01/31

『何もそこまで』 ナンシー関 / 角川文庫

Nimg4138【そこは私も大人になるが】

 1996年に世界文化社から刊行された単行本の文庫化である。
 収録された消しゴム版画とコラムはいずれも1995~1996年にかけて発表されたもので,初出はざっと4分の1が「噂の真相」,4分の1が「広告批評」,残りの2分の1が「週刊文春」(1996年3月7日号まで)。
 おや。文藝春秋社からは『テレビ消灯時間』なる単行本が3冊発売されているのだが(うち2冊は文庫化済み),その1冊目の初出は,週刊文春の1996年3月14日号から,となっている。
 つまり,『何もそこまで』には『テレビ消灯時間』にまとめられるより以前の週刊文春掲載約1年分が収録されているということであり……文春は,自社の週刊誌の連載記事を他社に取られたということか。それとも,ナンシー関なんぞ単行本化するほどのことはあるまいと当時は軽んじていたのか。
 いい度胸じゃないか。

 それにしても1995年当時ともなると,さすがに内容が古い。
 藤田朋子のヌード写真集トラブルなんてあぁそういえばと温泉の湯気の彼方だし,貴乃花と河野惠子の結婚に日本中が沸いたと言われても,それからの花田家のあれこれを思い起こせば奈良時代のスキャンダルのようなものだ。

 それにもかかわらず,読み応えがあるのは,なぜか。
 ごく単純な話として,ナンシー関の読みの確かさがある。山口美江について「ある種のステージから完全撤退したのである……もっと注意深く見つめていたなら,『○年○月○日をもって撤退』というところまで確認できたかもしれない」,ぎりぎり好感度1位を保った山田邦子について「振り向けば,誰もついて来ちゃいないのである」,田原俊彦について「トシちゃんは,『いいとも』のレギュラーになってしまった事で,『いいとも!』と許可・許諾を発令する権利を失ってしまったのである。これが哀しさの原因かも」。彼らののちの推移を思い起こせば,著者の指摘がいかに的確だったかわかる。
 和久井映美主演のドラマ『ピュア』について「障害者を扱うことは,もうリスクではないのか。きれいに描きさえすればリスク無しのハイリターンか」,これも最近のいくつかのドラマのヒットの裏表を言い当てて凄い。

 しかし,それだけではない。
 扱われているタレントや話題が古いからこそ,見えてくることもある。
 ナンシー関はタレントにこだわっているようで,実はタレント当人にこだわっているわけではない。彼女はタレントの言動,テレビ局の姿勢から何かを抽出し,蒸留する。彼女が最も得意とするのはタレント当人,その周辺のテレビ関係者,そして視聴者が順に何かを「容認」していく不愉快さの構図である。母であるから,障害者であるから,一生懸命であるから,ベテランであるから,等々,なにかと適当な理由をつけてはテレビの中で無頓着に「たたえて」しまうシステムへの疑念である。そして,裕木奈江で立てられた仮説が藤田朋子で立証されるなら,それは再現性があるということであり,それはすなわち論理科学の領域だ。

 もっとも,本書ではナンシー関の攻撃はまだまだ甘い。この時点では,消しゴム版画のほうが本文より格段に能弁であり,エッセイ本文は力学が理論として構築されつつあるといった時期で,文体が完成し,ピンポイントなミサイル爆撃にいたるのは少し後の『テレビ消灯時間』の1を待たなければならない。
 ……待てよ。すると,単行本化についての文春の判断は正しかったということか。

 それにしてもアメリカに皿洗い充電に消えた吉田栄作,今どこでどうしてるんだ。どうでもいいが。

2001/01/29

[雑談] マンガの中の人肉食

Photo さて,せっかくだから人肉食を扱ったマンガをニ,三紹介してみよう。
 ……と調べてみたところ,そのいくつかはすでにここでも話題にしていたのであった。人肉食をテーマにするのはぎりぎりのタブーを扱うことであり,自然テンションの高い作品が多いということか。

 たとえば,生きることをとことん否定し,それでも否定しきれないものを抽出しようとした,いわば人生へのジャンプボードのような(その意味ではPTAが拒絶反応を示したのは逆。むしろ夏休みの課題図書に毎年選びたい)ジョージ秋山『アシュラ』は,やはり飢饉と人肉食をテーマにした山岸凉子『鬼』の紹介文の中で話題にした。
 ホラーの装いを借りて心の闇にナタを入れる楳図かずおは,当然のように人肉食を何度か話題にしている。『漂流教室』もよいが,ここはガダルカナルで人肉を食べて生き延びた父親とその息子の相克を描く『おろち』の「戦闘」を強く推したい。1960年代後半の中編だが,父子が互いに激しい思いを抱きつつ雪山に消える最終シーンまで間断なく人の優しさと暴力を問うこのような作品に対しマンガだからと素通りせざるを得なかった芥川賞等がのちに権威を喪うのは当然であった。
 そういう重ったるいのはいや,ただ悪趣味な本が読みたいの,という向きには黙って唐沢俊一,ソルボンヌK子『大猟奇』。ぬたぬたの死体とウジで溢れたこの1冊,朝昼晩の食事前に読み返せばそうー奥さん,ダイエット効果だって(みのもんた調)。

 最近の作品では,たとえば軽部華子『くみちゃんのおつかい』,諸星大二郎『栞と紙魚子』がお奨めだ。とくに後者に登場し,包丁を持つと「こ…こうなりましたら…じ…じ…人肉ですわ! 人肉でバーベキューパーティーですわ!」と暴れ出す鴻鳥友子は生唾が沸くほどらぶりー。

 ここに週刊ヤングサンデーの1996年9月26日号(No.41)がある。小学館が自主回収に走った1冊である。問題になったのは沖さやか『マイナス』,キレた女教師・恩田さゆりを描く作品で,この号では生徒の別荘に向かうハイキングの途中,主人公たちが遭難。出会った迷い子の少女が崖から落ちて死んだのを,さゆりが食べる。
 凄いのは,猟奇性も相克も何もないことだ。さゆりは一瞬のためらいもなく少女の死体を焼き,食べてしまう。なにしろもともとが目先のトラブル回避のために生徒を殺してしまう主人公だ。そのあまりにからっとした展開に,編集者も虚をつかれたのか。後で騒ぎにはなったが,どうとらえてよいのか未だによくわからない作品ではある。作者は,自分が描いているものをよほどよくわかっているか,まるでわかっていないか,どちらだろう。

 最後に人肉食そのものはソフティケイトされているが,内容としてはディープな作品を1つ。
 樹村みのりが1974年に少女コミック増刊フラワーコミック冬の号に発表した『ヒューバートおじさんの優しい愛情』は,その少し前に虫プロ商事の雑誌ファニーの次号予告に掲載が予告されながら雑誌休刊のため宙に浮いていた問題作。小学館に拾われ,目に触れることになったのだが,これが凄い。主人公の叔父が愛する妻を本当に食べたかどうかは最後までわからないが,主人公の少年の成長物語として,全編名シーン名セリフの塊のような逸品である。

2001/01/28

『猟奇文学館3 人肉嗜食』 七北数人 編 / ちくま文庫

Nimg4039【うもうござった。】

 ヌルいのシュミが悪いのとぶつくさこぼしながら,発行されるたびに読んでは紹介してしまう「猟奇文学館」シリーズ,『猟奇文学館1 監禁淫楽』,『猟奇文学館2 人獣怪婚』に続く3冊めにして完結編。
 仕方がない。死体と寄生虫には勝てない私である。

 今回の収録作品は
  村山槐多「悪魔の舌」
  中島敦「狐憑」
  生島治郎「香肉(シャンロウ)」
  小松左京「秘密(タプ)」
  杉本苑子「夜叉神堂の男」
  高橋克彦「子をとろ子とろ」
  夢枕獏「ことろの首」
  牧逸馬「肉屋に化けた人鬼」
  筒井康隆「血と肉の愛情」
  山田正紀「薫煙肉(ハム)のなかの鉄」
  宇能鴻一郎「姫君を喰う話」
の11編。
 やはりどことなく甘い印象があるのは,1つにはSFをどう位置づけるかについての明確な意識なしに漫然と小松や筒井から作品を選んでいるように見えること。村山槐多と中島敦と生島治郎と小松左京と杉本苑子をこの順に並べるなら,なんらかの覚悟がいるだろう。最近はいらないのか。
 次に,3冊めにいたって突然実在の食人鬼についてのノンフィクション(「肉屋に化けた人鬼」)を混入させたこと。ルール違反というわけではないが,なんとなく「ずるい!」ような気がする。それなら逆に,1冊めの『監禁淫楽』に最近の監禁事件を詳細に載せる手もあっただろうに。
 もう1点,3冊いずれにも宇能鴻一郎の作品を選んでいること。宇能は「課長さんたら,ひどいんです」文体でエロ小説を量産する前は,いわばストロングスタイルの本格派小説家だった。が,今回収録された3作はいずれも聞き書きの形をとり,巧緻ではあるがこと猟奇に限定すればやや情緒に流れるというか,穏やかさ,上品さが目立つ。

 もちろん,再三書いた通り,本シリーズに収録された作品群は,1つ1つ文学作品としてみればいずれ劣らぬ傑作揃いで,このような文句を言われる筋合いはない。
 結局のところ,解説に「(インターネットで「カニバリズム」「人肉嗜食」という語を含むサイトを検索したところ)猟奇アンソロジストの私でさえ目をそむけたくなるような過激なものから」とあるように,編者の七北数人が根っから猟奇趣味ではないということが問題なのかもしれない。
 猟奇アンソロジストを自称するなら,そのようなサイトにも目をそむけず,いやむしろ舌なめずりして見入るのが妥当と思われるが,如何。

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 ところで,こういうところで夭逝詩人・村山槐多(1896-1919)の名前が出てくるのは嬉しいようなくすぐったいような気分である。槐多の詩のいくつかは,遠い昔,テロリストになることを夢見つつ日々口ずさんだ,いわば心のテーマソングであった。

   四月短章(第四章)

 血染めのラッパ吹き鳴らせ
 耽美の風は濃く薄く
 われらが胸にせまるなり
 五月末日日は赤く
 焦げてめぐれりなつかしく

 ああされば
 血染めのラッパ吹き鳴らせ
 われらは武装を終へたれば。

   血に染みて

 血に染みて君を思ふ
 五月の昼過ぎ
 赤き心ぞ震ふ
 あはれなるわが身に

 はてしらぬ廃園に
 豪奢なる五月に
 君が姿立てる時
 われはなくひたすらに

 わが血は尽きたり
 われは死なむと思ふ
 豪華なる残忍なる君をすてゝ
 血に染みて死なん。

2001/01/27

『鳥 デュ・モーリア傑作集』 ダフネ・デュ・モーリア,務台夏子 訳 / 創元推理文庫

Nimg4001【見て,父さん。ほら,あそこ。カモメがいっぱい】

 「本の中の名画たち」は少しお休みさせていただき,このところ読んだ本について,何冊か紹介を済ませておきたい。

 本書は,ヒッチコックの映画『レベッカ』『鳥』の原作者,ダフネ・デュ・モーリア(1907-1989)の作品集である。
 ……と書いて,我ながら愕然としてしまう。『レベッカ』と『鳥』の原作者が同じ人物であることはなんとなく知っていたのだが,いつごろの,どのような作家なのか,全く意識したことがなかった。『レベッカ』はなんとなく『嵐が丘』や『ジェイン・エア』と同時期の小説のような気がしていたし,『レベッカ』が女流作家の手によるものであることを知っていながら,同一人物であるはずの『鳥』の作者が女性であると意識したことはなかった。

 デュ・モーリアは,代表作の大半を邦訳,紹介されていながら,そのように,全体像のはっきりしない作家の1人のようである。というわけで東京創元社ではデュ・モーリア復興というか,主だった作品を復刊,あるいは改訳し,創元推理文庫で再度世に問う予定のようだ。今回,この短編集『鳥』を手にして,十分それだけの価値があるように思われた。
 『鳥』は小説8編からなるのだが,ずっしり厚くて総ページ約550。1編あたり70ページ弱ということで,短編集というよりは中編が束ねられた印象である。しかも,そのそれぞれが実に巧い。
 哀切な青春サスペンス『恋人』,鳥たちが突然人間を襲い出す『鳥』,フランス心理小説風の『写真家』,とくに霊や悪魔が登場するわけではないが静かな苛立ちと恐れに満ちたホラー『林檎の木』,ショートショート『番』,ある日外出から帰ってみるとヒロインの家は見知らぬ連中に占拠されていた……不条理な事件の真相がなんとも切ないサスペンスホラー『裂けた時間』,幸福な妊婦の突然の自殺の原因を追う『動機』と,ジャンル的にもバラエティに富む。ことに,山の神秘と山頂の僧院の謎を描いた『モンテ・ヴェリタ』の尋常ならざる迫力は,なんと言い表せばよいのか。
 それぞれの物語は,最後まで読むと事件の全貌が明らかになり,再度初めから読み直すと,作者がいかに周到に細部を構築してきたかがよくわかる,そんな仕組みになっている。いずれの作品もテーマを無理やり言葉にすれば「愛と死」ということになるのだろうが,言葉にしてしまうとありきたりなそのテーマがひとたび物語に乗ったとき,その味わいは苦く,哀しい。

 もちろん,50年も前に書かれたサスペンスがすべて素晴らしいというわけではない。『写真家』など,いまや昼メロの粗筋としても陳腐な感じだし,『林檎の木』や『裂けた時間』も昨今なら別の書きようがあるだろう。しかし,それでも,(『レベッカ』『鳥』の原作者,ということもあるのだろうが)彼女の作品群を読むと,映画と小説の,まことに幸福な蜜月時代がそこにあったことがうかがえる。小説は映画のように読み手の目前に世界がダイナミックに展開することを目指し,映画は小説の与えてくれる豊饒な感動を目指す。
 小説家を映画を意識することは,現在も変わりない。しかし,現在の小説の多くは(無意識にせよ)「映画のよう」ではなく,「映画になる」ことを目指して書かれているように思われてならない。それは表現でなく産業の問題だ。
 デュ・モーリアの作品は,数十ページで,よい映画をじっくり堪能したような,腰の強い,歯応えのある,そのくせ小難しいところの皆無,そんな印象である。次回配本にも期待したい。

2001/01/26

本の中の名画たち 番外編 「新日曜美術館 ロートレック・一瞬の美をとらえる」(NHK教育)

 日曜日の夜のこと,家人の母が午前中に見たところたいへんよかったと電話で連絡してくれたので,普段つけないテレビの電源を入れてみました。NHK教育の「新日曜美術館」です。

 テーマは「ロートレック・一瞬の美をとらえる」,ゲストに鹿島茂,石井好子両氏を招いて,それは切ない内容のものでした。

 トゥールーズ・ロートレックは南フランス,アルビの伯爵家に生まれ,家族の寵愛を受けて育つのですが,青年期に事故で両足を骨折。そこで成長が止まり,思いきりイ走ったり馬に乗ったりのかなわぬ体になります。「馬に乗って息子と狩りを楽しむことだけ,本当にそれだけを夢見ていた」(鹿島茂氏・談)父親に見放され,彼は絵の世界に進みます。彼は,幼いころから愛してきた馬の絵を描いて父親に見せますが,父親の目には息子はもういないも同然だというのです(父親は伯爵の位さえ返上してしまったそうな。なんなんだ,こいつあ)。
 やがてロートレックはパリ,モンマルトルに出,夜な夜なキャバレーで酒を浴びるように飲みながら,軽妙洒脱な作風でスケッチに,ポスターにその才能を発揮していきます。このあたりの作品の横顔のいくつかは,ぞっとするような切れ味で,烏丸も昔から大好きでした。
 やがて,アルコール中毒で家族の手によって精神病院に入れられ,彼は正気であることを示すために記憶だけを頼りに克明なサーカスの絵を描き,シャバに出た後は娼婦の館に寝泊まりして彼女たちの姿を描き続けます。
 その胸のうちやいかに。都内の盛り場であてのない思いに荒れた時代のことを思い出し,烏丸も思わず涙ぐんでしまいましたが,並んで見ていた家人に気づかれたかどうか。穏やかな生活のロンドの中で,ときどき自分が永い永い闘いの中にあることを忘れてしまいます。血にまみれて求め続けなければ得られないものを追う身だったはずなのに。

 ロートレックは36歳の若さで死にました。彼はあざらかで残虐な作品を残しましたが,烏丸は,さて。……

 ところでこの「新日曜美術館」,紹介される美術作品や画家の来歴には文句はないのですが,以前から,作品そのものに対する評価の,あの救いようのない「ありきたり」さはなんとかならないかと不愉快でなりませんでした。ロートレックの若描きについて何度も「繊細」と繰り返したり(どう見てもそれは「繊細」でなく「闊達」なタッチなのです),シャガール展を紹介するのに緒川たまきという見かけない女優さんに絵空ごとのような「愛と希望」をうっとり語らせたり。夏の終わりの祭りのニュースに必ず「ゆく夏を惜しんでいました」と付けてしまうNHKのおばかさ加減,そのまんまです。
 絵が十ニ分に語るのなら,あとは事実を列挙してくれれば十分。愚鈍な,あるいは見当違いの誉め言葉はいっそ邪魔だということをキモに命じて欲しいものです。

2001/01/25

本の中の名画たち その六 『ゼロ THE MAN OF THE CREATION(34)』 原作:愛英史,漫画:里見桂 / 集英社(ジャンプ・コミックス デラックス)

Nimg4101【いや 私はニセモノは 作らない】

 美術の世界を扱うマンガ作品は少なくないが,現在連載中でいずれ劣らぬ博学とアイデアの妙を楽しめるのは
  細野不二彦『ギャラリーフェイク』
  愛英史,里見桂『ゼロ』
  小池一夫,叶精作『オークション・ハウス』
の3長編だろう。この3作,発表の場がそれぞれビッグコミックスピリッツ,スーパージャンプ,ビジネスジャンプと中堅青年誌(対象年齢がやや高め)であること,実在の画家や美術作品についての薀蓄がふんだんに盛り込まれていること,主人公が贋作にかかわっていること,清濁併せ呑む度量の持ち主(ダーティヒーロー)であること,芸術に尽くした父親が汚名を着せられ失意の中に死んでいること,などなど,実に共通点が多い。
 連載開始時期も近く,単行本1冊めの発行は『オークション・ハウス』1991年1月,『ゼロ』1991年9月,『ギャラリーフェイク』が1992年8月である(これだけ見ると『ギャラリーフェイク』が再後発に見えるが,不定期連載だったことを思うと実際の発表順は微妙なところだ)。

 では,3作中,いずれを推すか。掲載誌のメジャー度合いもあって世間一般では『ギャラリーフェイク』の評価が高く,叶精作の絵柄,小池一夫のセリフ回しのくどさから『オークション・ハウス』はやや敬遠されがちのようだ。細野作品のノリに今一つ没頭できない烏丸としては,ここは『ゼロ』をお奨めしたい。

 主人公・ゼロは神の手(どこかで聞いたな……)を持つと呼ばれる究極至高の贋作者である。陶器・絵画・彫刻は言うに及ばすアンティーク・ドール,ムー大陸の肉面,ダイヤの原石,生身の人間にいたるまで,この地球に存在するありとあらゆる物を複製し,報酬をスイス銀行の「オールゼロ」の口座に振り込ませる。彼はこの世にただ1つしかないかけがえなき物の復元を願う人々の心を癒し,諫め,時に裁く……。というわけで,ともかくダ・ヴィンチだろうがフェルメールだろうがチンギス・ハンだろうがオルメカのインディオだろうが,真作者の気持ちになりきったゼロは一度目にした物なら完璧に複製を作ってしまう。なにしろ,X線で調べなければわからないような下絵もきちんと描いてあるし,美術館のガラスケースに置かれた(つまり,一方向からしか見えない)陶器でも彼が作れば専門家は真贋がわからない(笑)。

 素晴らしいのはその二律背反性である。彼は法外な報酬を求めることもあれば侮蔑を込めて1$,1元しか請求しないこともある。また贋作家でありながら「私は本物を作り 本物しか評価しない 何よりも本物を作る人間を尊ぶ」と高言する。

 1冊につき数話,それがすでに34巻。原作者の美術,歴史の知識は大変なものだ。
 いろいろな設定があるが,烏丸としてはトリノの聖骸布(キリストの亡骸を被ったとされる布。その姿が浮き出ているという)の正体,タイタニック号沈没の謎についての仮説,などの話がとくにお気に入りだ。ただ,中には既出のアイデアもあり,エンターテイメントとして楽しんでいる分には問題ないが,美術,歴史についての奇抜な発想のオリジナリティ度が確認できないのは残念なところである。

 なお,里見桂と言えば少年サンデー誌上で『なんか妖かい!?』『スマイルfor美衣』を長年連載したマンガ家だ。決して抜群に巧いわけではないが,性善説に立脚した,穏やかで愛嬌のある,文字通りの「少年マンガ」だった。ゼロもまた,いくら冷酷非情を気取ろうにも里見らしい人のよさが随所に透けてしまう。それがこの作品の魅力でもあり,逆に凄みに欠ける理由でもある。

2001/01/23

本の中の名画たち その五 『押絵の奇蹟』 夢野久作 / 角川文庫

Nimg3867【ええもう,絶版とはくちおしや】

 夢野久作は1889年(明治22年)生まれ。昭和初期の探偵文壇にひぃゆるると彗星の如く現れ,また彗星の如く消えてしまった作家である。「夢野久作」とは彼が最後まで過ごした郷里・福岡地方の方言で,夢想にうつつを抜かす者といった意味らしい。
 1926年(大正15年),雑誌「新青年」に投稿した「あやかしの鼓」でデビュー。1936年(昭和11年)に脳溢血で亡くなるまで,活動は僅か10年余りだが,土俗的な狂気とモダニズムみなぎるその作品群は近年再評価され,ことに長編『ドグラ・マグラ』は小栗虫太郎『黒死館殺人事件』,中井英夫『虚無への供物』と並んで「アンチミステリー」の傑作とされている。
 もっともこのアンチミステリーなる言葉は内実があってないようなもので,粗筋はオーソドックスな推理小説ながら史学,神学,魔学,犯罪学等へのペダンチックな薀蓄が底なしにくだくだしい『黒死館』,全編生乾きの血樽の底で記憶喪失者がもがくような,どちらかといえばグロテスクなサイコホラーと言うべき『ドグラ・マグラ』,そして明晰な密室トリックと丁丁発止の探偵議論を展開して一見最も現代的な本格パズラーに見えながら,スピリチュアルな面で唯一ピュアにアンチミステリーたる『虚無への供物』,と,実はこの3作にも(分厚さ以外)共通項はほとんどないに等しい。その分厚さにしても,最近はめったやたら長いミステリが少なくなく,3作ともさほど目立つものではなくなってしまった。

 夢野久作の作品群は,葦書房,三一書房からの作品集のほか,最近築摩書房から文庫でも全集が刊行され,また社会思想社の現代教養文庫にも何冊か既刊がある。
 また,角川書店は『押絵の奇蹟』『犬神博士』『ドグラ・マグラ(上・下)』『少女地獄』『瓶詰の地獄』『狂人は笑う』『人間腸詰』『空を飛ぶパラソル』『骸骨の黒穂』と代表作を一揃い文庫化していたが,現在は『ドグラ・マグラ(上・下)』『少女地獄』を除いて絶版。
 実は,今回,「本の中の名画たち」として取り上げるのが,この,絶版の角川文庫群である。以下,ようやく本文。

 本の表紙に名画が用いられることは少なくない。古今の名画を流用したもの,書物として有名になるとともにその装丁が記憶に残るもの。もちろん,内容に分不相応な名画を冠した書物は不愉快だが,それは早晩淘汰される。最近では小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第1巻がモローの「オイディプスとスフィンクス」の構図を模しており,小林の画は好みではないものの頬笑ましく思われた。

 さて,角川文庫の夢野作品の表紙は,これが俳優・米倉斉加年(よねくら・まさかね)の手によるものなのである。
 米倉は劇団民芸出身の顎の長い(失礼)性格俳優だが,その絵の才能も大変なもので,ボローニア国際児童図書展グラフィック賞グランプリを受賞した『多毛留』など凄みのある絵本,画集も何冊か上梓している。正直言って,ニ科展に入選したと文化人面する○○○や○○のごとき水準ではない。
 そのぶっ飛んだ線の冴え。この目はどうだ。この首はいかが。そして夢野作品にあつらえたような色遣い。もう少し可憐な乙女を描いた表紙もなくはないのだが,ここではこの『押絵の奇蹟』を添付画像とした。

 幸い夢野を未読の方は,古書店でかき集めてでも角川文庫版を入手することをお奨めしたい。そのとき,ギラギラした眼の男があなたの前にたちまち朱い大きな口を開いてカラカラと笑い,下唇を血だらけにした女の苦悶の表情がツイ鼻の先に現れ,あとは時計の音ばかりがブウウウ──ンン──ンンン…………。

2001/01/18

本の中の名画たち その四 『本格推理1 新しい挑戦者たち』 鮎川哲也 編 / 光文社文庫

Nimg3750【赤い決意】

 『本格推理』は文庫の体裁をまとった雑誌であり,推理小説家の鮎川哲也を編集長に,広く一般から推理小説の短編(400字詰め換算で50枚以内)を募集し,まとめるというものである。
 第1巻「新しい挑戦者たち」が発行されたのは1993年4月20日,現在までに15巻が発行され,投稿者はのべ100人以上。作品のレベルは高く,二階堂黎人,北森鴻,村瀬継弥,津島誠司,柄刀一,光原百合らの作家も輩出している。

 さて,今回「本の中の名画」として取り上げるのは,その第1巻に収録された北森鴻の「仮面の遺書」に登場する壁画である。
 「仮面の遺書」は,画家・城島真一の生涯とその作品を,その絵画作品を主軸に描き上げ,しかもそれに犯罪とその暴露をからませる,投稿作品とは思えない密度の高い佳編である。ことに,画家の遺作として紹介される赤の色だけを使って描かれたアブストラクト(抽象)絵画「赤い決意」,そしてそれを4倍に拡大し,モザイクで構成した縦4メートル,横8メートルの壁画の存在感は圧倒的だ。
「数十種類の赤が乱舞し,うねりをあげて画面から飛び出そうとしている。それは,一度キャンバスに降ろした筆を,勢いとは反対方向にわずかに返すことを繰り返して実現されていた……。」
 ミステリ作品中で描かれるアブストラクト絵画といえば,最近では法月綸太郎の短編「カット・アウト」(集英社『パズル崩壊』収録)のそれが有名だが,架空の絵画作品としての「凄み」はポロックについての薀蓄が煩わしい法月よりむしろこちらを推したい。

 『本格推理1』にはこのほかにも,小学児童のプールでの消失を泰然たる筆致で描いた村瀬継弥「藤田先生と人間消失」など好編が並び,ミステリファンの間でもかなり好意的に受け止められたように思う(だからこそ,その後何年にもわたって発行され続けたわけだ)。

 しかし,初期に掲載された作品のいくつかは,いわゆる「本格推理」としては難があったかもしれない。「仮面の遺書」にしても,その壁画が図版として提供されない以上,読者が小説の結末を完璧に推理することはあり得ないし,また,画家の死についても推理の入り込む余地はない。
 それはそれで犯罪小説としては成立しているのだが,本格ものの信奉者にしてみれば看板に偽りありということになるのかもしれない。実際,当初は「本格推理」の規範を理解しない投稿作が相次いだそうで,やがて編者の嗜好,他の掲載作の傾向が明らかになったのだろう,同シリーズはアマチュアの投稿ならではの伸びやかさを喪い,『本格推理』第3巻「迷宮の殺人者たち」ではすでに13編の掲載作のうち7編のタイトルが
  日下隆思郎「葵荘事件」
  佐々木幸哉「狼どもの密室」
  杉野舞人「嵐の後の山荘」
  由比敬介「嵐の山荘」
  三津田信三「霧の館」
  柄刀 一「密室の矢」
  犬家有隆「時空館の殺人」
と,山荘だの密室だの,いかにも「本格推理」っぽいものばかりになってしまう。
 それが編者が当初より期待する世界ではあったのだろうが,なにか硬直した,狭量な印象もぬぐい得ない。投稿作品を中心に編まれる「雑誌」ならば,クオリティよりもアマチュアならではの発想の広がり,ある種の「とんでもなさ」を求めたい,よしんば本格推理としては破綻していても,「素っ頓狂」な味わいを期待したい,と思うのだが……。

 なお,『本格推理』シリーズは,16巻から編集長を二階堂黎人に変えてリニューアルするとのこと。同氏の日頃の言動からしてますます収録作の傾向が限定されそうな気もしないではないが,とりあえずはお手並み拝見。

2001/01/16

本の中の名画たち その三 『[35]モロー』 竹本忠雄 解説 / 新潮美術文庫

Nimg3684【もし踊らば,なんなりと望みのものを遣わそう】

 本好きの間でも意外と知られていないように思われるのが,昭和49年(1974年)に最初の1冊『[45]モディリアーニ』が発行された新潮美術文庫だ。

 このシリーズは全50巻で,[4]レオナルド・ダ・ヴィンチ,[9]レンブラント,[26]モネ,[27]ルノワール,[28]セザンヌ,[29]ゴッホなど,日本でも人気の高い,いわばスーパーメジャーな画家だけでなく,[1]ジオット,[7]ボス,[8]ブリューゲル,[35]モロー,[36]ルドン,[37]クリムト,[49]デュシャンといったやや通好みというかビッグマイナーなあたりまで1人1冊で発行されている点に特徴がある。
 しかも,写真がよい。堂々たる箱入りでありながらなんとなく写真の甘い美術本がまれにあるのに比べ,本シリーズは全般にかなり細部までしっかり判別できる写真が用いられている。発色もよい。印刷が「こってり」濃い感じで,メリハリがはっきりし,ほぼ同時期に発行されていたポケットサイズの鶴書房ART LIBRARY(全30巻,すべて絶版)とは比較にならないほど図版が明確だ。カラー図版がいずれも奇数ページに置かれ,裏面の写り込みを気にせずにすむのもよい。最高の発色とは言わないが,高価な画集に勝るとも劣らない水準である。さすがは毎年のカレンダーに無名近代画家を発掘し続ける大日本印刷,といったところか。

 もう1つの特徴として,1冊1冊に選者(解説者)がつき,図版の選択にその個性が発揮されているということがある。
 たとえば[4]レオナルド・ダ・ヴィンチを担当した東野芳明は例によって牽強付会,解説ではルイス・キャロルからアントナン・アルトー,ジャスパー・ジョーンズ,マルセル・デュシャンまで引き合いに出し,[3]ラファエルロを担当した若桑みどりは従来のマドンナ至上のラファエルロ観を嫌い,バロックに至るマニエリズモの徒として「小椅子の聖母」や「フォルナリーナ」を排している。[16]ゴヤの阿部良雄は巻末に「ボルドーの乳売り娘」を,[38]ムンクの野村太郎は巻頭に「芸術家の妹の肖像」を配し,いずれも暗い画風で知られる画家の作品群に一条のあざらかな光を差し込ませている。

 もちろん,個性があるということは,何かを排斥していることでもある。
 無骨な肖像画と巨大壁画に重点を置いた[3]ラファエルロは頬の赤いマドンナ像を求めるファンには物足りないかもしれないし,[4]レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」,[2]ボッティチェルリの「春(ラ・プリマヴェーラ)」「ヴィーナスの誕生」などの大作がいずれも部分画像となっているのはポケット版ゆえの限界だろう。また,[6]デューラーで千足伸行が選択したのは油彩,水彩だけで,「メランコリア」「書斎の聖ヒエロニムス」等の版画作品は解説の中に小さくモノクロで掲載されているだけである。デューラーの特徴を最もよく表すと言われる木版,銅版の版画を排し,絵画作品に限定する必要がどこにあったのだろうか。

 いずれにしても,得がたい図版が廉価に手に入るのは嬉しい。添付画像の[35]モローは「600円」という発行当時(昭和50年)の帯が付いたままだが,昨今は各巻とも1,100円で発売されているようだ。この[35]モローの場合,ヘロデ王の前で踊るサロメを描いた作品だけでも4点が収録されており,その発色,からみつくアラベスク紋様の素晴らしさには声も出ない。内容を鑑みて,決して高価な買い物ではない。

 新潮美術文庫は,今でもある程度大きな書店なら数冊ずつは置いてあるようだ。ぜひ一度好きな画家のものを手に取って収録作品やクオリティをチェックしてみてはいかがだろうか。

2001/01/15

本の中の名画たち そのニ 『名画感応術 神の贈り物を歓ぶ』 横尾忠則 / 光文社知恵の森文庫

Nimg3659【言葉を超えた力だ。その力はスピリチュアルでさえある。】

 絵画作品に向かう折り,描かれた事象の1つ1つに「意味」を見出すべきか否か。これは小さな問題でない。

 ……と,先日と同じ1行で書き始めたのは,高階秀爾 の『ルネッサンスの光と闇』が徹底した「意味」追求の立場に立って書かれたのに対し,そうでない本ももちろんあるからである。
 しかし,画集ならともかく,文章で築かれた本で「感覚」「感性」の側に立ちつつ面白いというのはなかなか難しい。当たり前のことだが,文章が言葉の「意味」の積み重ねで成り立つものだからだ。

 『名画感応術』は雑誌「CLASSY」に'92年4月から'95年3月にかけて連載された「日本に来る名画」なるアート・エッセイ(なんとも軽薄なジャンル分けだが,本書の惹句に書かれたものだ)をまとめたもので,その,ハズレのほうの1冊。著者は,表向きは何度も「何が描かれているのかとか,何を意味しているのかとか,考える必要はない」「意味がわからなくても,作品の持つ本来のパワーやエネルギーはちっとも変わらない」と言いながら,エッセイとしてはついつい「何が」「何を」と「意味」を追ってしまう。まことに徹底さに欠け,だらしない印象である。
 これはもちろん,「日本に来る名画」というテーマが,著者に作品を選ぶ権利を与えなかった──その折々に展示会が催され,話題となった作品を選ばざるを得なかった──ことにもよるのだろう。リナールの「五感」のように,意味を追う以外に紹介しようのない作品もあったに違いない。しかし,それにしても,自身がさまざまな画家,作品について細部の意味や主題の解題を書きつらねながら,一方でキーファーの作品の分析を重ねる美術評論家のレクチャーを「退屈」「絵画作品は感応するものではなく理解するものであるといわんばかり」と切り捨てているのは不愉快であった。

 そもそも,感覚,感性をもって絵画を見ることと,その評が感覚的であることは別の次元のことだ。著者の感覚的な文章は,ときによると,言葉に対する不誠実ささえ感じられる。
 たとえば「スーチンは夢や直観を信じて制作したという。そういう意味では,本格的な芸術家であったと思うが,彼が影響を受けたと思われるゴッホと同じように,美術の伝統が皆無であった。だから彼を思想的な表現主義と呼ぶのは間違いだ」という一節など,ほとんど意味不明である。絵画を見る行為が直観によるべきなのに,画家の評価が画家自身の言葉で左右してよいのか。夢や直観を信じて制作すれば本格的な芸術家とはいかなる論拠によるのか。ゴッホの影響を受けながら美術の伝統が皆無とは。
 結局,自分が考える意味,自分が感じる感性はおっけーで,他者が意味や感覚について述べたらイマイチ,それだけのことなのかもしれない。それは,個人あるいは実作者として絵画作品に対するならかまやしないが,文責者としては問題がありはしないか。

 ついでにいえば著者本人のデザインという文庫の表紙も疑問で,これ(添付画像参照)は本文中に紹介されたマグリットの「透視」という絵の一部なのだが,この作品は画家がテーブルの上の卵を見ながら鳥の絵を描いているその構図が面白いのであって,このように卵が切り離されては何がなんだかわからない。なぜ表紙にこの絵を,しかもこのように用いたのか,謎である。この絵を評する著者の「卵の形を見るのではなく,卵から想像される暗示をテーマにしているのだろう。この絵はマグリットの思想をなかなかよく表現した作品であると思う」なる一節同様,何も考えていないとしか思えない。

2001/01/13

本の中の名画たち その一 『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土』 高階秀爾 / 中公文庫

Nimg3592【現実の世界と理想の世界のこの特異な融合】

 絵画作品に向かう折り,描かれた事象の1つ1つに「意味」を見出すべきか否か。これは小さな問題でない。
 印象派全盛のパリで神話的世界を描き続けたモローは「文学的」と排斥され,現代の批評家の一部は「絵は目と心で見るもの,意味を見出すような見方はいかん」とのたまう。
 しかし一方,あふれんばかりの「意味」が立ち上り,こと細かにはわからないまでもその意味のヴォリュームが前に立つ者を圧倒する作品もある。たとえば,ピカソの「ゲルニカ」を作者,作成経緯を知らずに初めて見たなら,どのように見えるだろう。また,現在の我々はシュルレアリスムやキュービスム作品の数々をすでに目にし,少なくともそのような作品が芸術として高く評価されていることを知っている。それを知らず,たとえば19世紀までの絵画の経験しかない目でピカソを見たなら,はたしてどう見えるのか。

 著者・高階秀爾は,絵画作品に対し,徹底して「感覚」でなく「意味」の側に立つ。著者の言葉によればその作業は「美術作品を時代の精神的風土のなかにおいて読み解こうというもの」であり,「今では西欧においてすら忘れられてしまっている古い,しかし豊かな言葉を語っている」ルネッサンス期の美術から「その忘れられた言葉を改めて解読し,その意味内容を明らかにすることによって作品を歴史のなかに位置づけようとする」ものである(このような学問を「イコノロジー」(図像解釈学)と言うそうである)。

 だから本書は,一種の絵解き「本格推理」作品なのである。

 1つの絵画作品に描かれた神話的,宗教的な人物の人選,そのポーズ,その構図,その服装,髪型,背景のアーチ,足元の花,それらはすべて「古代あるいは中世の造形上の先例を借りてきながら,それに新しい意味内容をつけ加え」た画家たちの「言葉」であった。
 たとえば,さまざまな絵画作品に描かれた「頬杖をついた」ポーズが,人間の4つの性質のうち「憂鬱質」を表すものであり,その4つの性質はアリストテレスのいう4つの物質の本性(冷と熱,乾と湿)や物質のありかた(大地,水,火,空気),春夏秋冬の四季,東西南北の四方……などと結びつくこと。また,ボッティチェルリの「春」に描かれた三美神はいったい何を象徴するのか。同じくボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」の構図は,いかなる作品にならったものなのか。さらには,その作品にならったことからうかがえる隠された意味とは。

 驚くべきは,意味のこもらない事象がほとんど何1つない,意味によるがんじがらめとしかいいようのないそれらルネッサンス期の作品が,また同時に,いかに生き生きと「人間」を描き上げていることか。それゆえそれらの作品は,人間が人間であることの輝きと同時に,時代の闇も同時に内包することになる。

 本書では,自然,宗教的情熱に走りがちなヴェネツィア等より,理屈,技術好きなフィレンツェが再三話題になる。しかしそのフィレンツェは,イタリアのどの都市より先に豊かな芸術の花を咲かせてルネッサンスの夜明けを告げ,豪華王ロレンツォ・デ・メディチという芸術に理解のある指導者を擁しながら,ヴェロッキオ,レオナルド,ミケランジェロ,ラファエルロらに相次いで去られ,ルネッサンス盛期にはほとんど見るべき成果を上げられない。
 ちなみに,黒澤明監督「生きる」で,余命いくばくもない志村喬が雪の夜の公園のブランコで歌う「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞・中山晋平作曲)は,このロレンツォの詩を翻案したものとも言われている。

2001/01/08

本の中の名画たち

Nimg3473【メランコリアへの旅】

 1960年代の後半,イギリスのテレビドラマに「スーツケースの男」(ITC作品。リチャード・ブラッドフォード主演)というのがあった。のちに「銀髪の狼」とタイトルを変えたが(逆だったかもしれない),CIAの諜報員が裏切り者の烙印を押され,仲間から追われつつその容疑をはらさんとイギリスに渡り,スパイの7つ道具を収めたスーツケースを片手に賞金稼ぎの私立探偵を営むというもの。言ってしまえば「逃亡者」や「FBI」などの傍流であり,暗い話が多くて,大きな話題にはならなかったようだ。しかし,ブラスサウンドが躍動するテーマ曲ともども,烏丸の記憶に強く残っているのが,贋作事件を描いたその中の1挿話である。(今から考えれば非常に奇妙なことだが)その事件の贋作画家はボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスの顔のあたりだけの贋作をキャンバスにしたため,主人公の銀髪の狼マッギールはその事件の解決に奔走する。結局,主人公の活躍もあって真作はしかるべく持ち主の手に,贋作が贋作画家の手元に残った……ように見えて,実は贋作画家の手元に残ったキャンバスのほうが本物で,そのキャンバスの前で贋作画家が「永遠を得たり」とばかりにうっとりと頬を緩めるシーンで番組は終わる。
 なにぶん30年以上昔,一度見ただけのテレビドラマゆえ,ストーリーも設定もなにもかも心もとないのだが,その回の最後のシーンだけは妙に心に焼き付いている。それはまた,私にとって,この世には冬休みの宿題の,金賞銀賞の折り紙貼られた作品とは別の絵画世界というものがあり,そしてそれに大の大人が何もかも打ち捨てて陶然とする場合があることを知った,最初の機会の1つでもあった。

 その作品がボッティチェルリであったのは我ながら上出来だ。その後も私がドイツ表現主義,シュルレアリスム絵画と並んで最も愛好するのはそのフィレンツェの画家のどこか焦点の合わないメランコリックな目であり,その思いは長年くすぶってのちにその目に遭うためにのちにフィレンツェ,ウフィツィ美術館に直接尋ねることにもなるのだから。

 というわけで,次回からしばらく,何度かに分けて,本の中の名画についてつらつら綴ってみたい。
 絵画作品について語るのか,本について語るのかは,その折々の気分に任せよう。また,数千,数万円するような画集,美術全集には極力触れず,文庫や新書,せいぜい千円程度で入手できる書物に限定して取り上げてみたい。言葉だけで絵画作品に触れることの難しさはもとより覚悟の上だが,まあ,いつものように,気の向くまま,ときどきほかの本もはさんで,のんびりやってみることにしよう。

2001/01/06

こジャレたかけあいとペーソス 『マローン殺し マローン弁護士の事件簿I』 クレイグ・ライス,山田順子 訳 / 創元推理文庫

Nimg3403【マローンにとって人生はすばらしいものなのだ】

「午後のくるくるカラスマルアワー,本日は……実はまたしてもミステリの短編集なんですね」
「担当者が創元から短編集が出たと聞くとすきっぷすきっぷで買ってきてしまうタイプですから,それはもうしかたございませんかしらねえ」
「もう若くはないのですから,周囲に迷惑だけはかけないよう心がけてほしいものです。さて,それはともかく,本日ご紹介いただくクレイグ・ライスという作家は……」
「はい,1908年シカゴ生まれの女流作家で,広報係・新聞記者・ラジオ脚本家・プロデューサーなどの職業を経て,女性ならではの都会的センス,軽妙なユーモアあふれる長編の数々で知られておりますね」
「ヒット作,酔いどれ弁護士マローン物の第1作『時計は三時に止まる』が1939年,亡くなったのが1957年ですから,テレビの黄金時代のほんの少し前」
「そうですね,テレビでヒットした探偵物,弁護士物,その基本となるイメージをこしらえた作家という位置付けでしょうか」
「なるほど,わかります。資料によりますと主人公マローンは,背の低い,少しはげかかった小太りの弁護士,ネクタイはいつも耳の下,ときどき誰かに殴られたアザがあり,靴紐はほどけている。お酒とポーカーが大好きで,ブロンド美人が大好きで,ポケットにはいつも5ドルあるかないか。でも弁護の腕は最高で,法廷で負けたことがない……」
「お調子者,楽天的,でもいざとなると頼りになる……わたくし,映画『ゴーストバスターズ』のビル・マーレーを少しイメージしてしまいましたのよ」
「よくわかります。気が強くてしたたかなシガニー・ウィーバーがトラブルに巻き込まれ,最初は彼をうとましく思っても,最後には見事に事件を解決してくれるわけですね」
「それでマローンが彼女たちの愛を手に入れられるかといえば,なかなかそうはいきませんの」
「とても懐かしい,しかし魅力的なアメリカテレビドラマ,そのような感じです」
「この『マローン殺し』は作者の死後にまとめられた短編集で,そんなマローンの魅力がつまった,とても楽しい1冊。親しいバーテンダーやぼやいてばかりいる警官,ギャング,ブロンドの美女と,脇役たちもとっても素敵です」
「ところで,アメリカのミステリを読んで,彼我の違いに不思議に思うのは,あちらの探偵や弁護士が,昼日中からいつも飲んでいることなんですが」
「アルコールへの耐性が違うのでしょうか,マローンも四六時中飲んでおりますね。好みはジンかライウィスキーをダブルで,ビールをチェイサーに。来客があれば飲む,事件が起こると飲む,片付いたら飲む。『不運なブラッドリー』という短編の冒頭に,マローンが酒場でグラスを手にしながら『マイ・ワイルド・アイリッシュ・ローズ』という歌を歌うシーンはことに素敵です。彼は,低く歌いながら,店内のほかの客がそれに唱和するのを待つ……そんな習慣があるようですわね」
「ほかに,この『マローン殺し』で印象に残った作品といいますと」
「そうですわねえ,お気に入りの連続ドラマと同じでどのお話も素敵なんですが,『邪悪の涙』という作品の哀切さ,これがもう。マローンの親しい人妻が殺されるのですけれど,マローンが,殺された女性にも,犯人にも,それはそれは穏やかで優しいのですね。人の本当の優しさはつらいときにわかる,とでもいうのかしら」
「しかし,本当の優しさがわかったときはtoo late,そのような感じでしょうか……本日はありがとうございました」
「またお呼びくださいませ……それでね,今日のギャラのことなんだけど」

2001/01/04

21世紀の書評初め,少々ネクラなこの1冊 『39【刑法第三十九条】』 永井泰宇 / 角川文庫

Nimg3354【刑法第三十九条】

  心神喪失者の行為はこれを罰しない。
  2心神耗弱者の行為は,その刑を減軽する。

 21世紀になったからといって,読書の趣味が変わるわけでもない。年明け早々,暗い本である。が,暗い中にもねごねごした手応えがあり,なかなか悪くなかった。

 先日の『免疫学個人授業』と『体にいい寄生虫 ダイエットから花粉症まで』に出てきた「IgE抗体」のように,比較的短いスパンに読んだ複数の本に共通の言葉やイメージを発見するのは楽しいものである。もちろん本の選び方には読み手の嗜好が影響するし,昭和の歴史を振り返る本とスポーツ本の両方に力道山や長嶋茂雄の名前が出てきても当然にすぎて別に面白くもなんともないのだが。
 永井泰宇『39【刑法第三十九条】』では,主人公が殺人事件の被告の精神鑑定人であることを知って,少し楽しくなった。その仕事の困難さについて,最近,『サイエンス・サイトーク ウソの科学 騙しの技術』で読んだところだったからである。

 事件は東京・豊島区の雑司が谷,鬼子母神にほど近いアパートで起こる。妊娠7か月の妊婦とその夫が切り裂かれて殺されていたのだ。警察はいくつかの手掛かりから劇団員・柴田真樹を逮捕。しかし,公判で奇妙な態度を見せる柴田について,国選弁護人は司法精神鑑定を請求する。
 物語は,柴田を解離性同一性障害(いわゆる多重人格障害,つまり刑事責任能力はない)とする精神医学者・藤代と,柴田の態度を詐病(病気のふり)でないかと疑うその教え子・小川香深,そしてそれぞれの立場に立つ刑事,検事,弁護士らをからめて展開していく。
 名前に負けない暗い過去を持つ主人公の香深はいうにおよばず,藤代教授,柴田を逮捕した名越刑事,草間検事,長村弁護士ら,脇役陣の存在感がなかなかけぶった感じでよい。安易に類型におしはめず,本音のわからないまま描いているところが,人間としての翳りにつながっているようにも思われる。

 ネタバレを避けるとこれ以上何を書いてもまずいのだが,小説として冷静に考えれば,綺麗な落としどころは1つしかない。作者は,うっかりすると凡庸に陥りかねないその結末を,自らの刑法第三十九条や精神鑑定,解離性同一性障害についての資料集め,学習行為を,そのままパラレルに作品中に持ち込んでいる……それが見事な展開として生きてくる。
 つまり,この作品の面白さは,虚構としてのストーリーのみならず,その虚構を構築する作者の行為の面白さでもあるのである(と,なんだか前衛作品を紹介するような書き方になってしまっているが,作品そのものは十全たるエンターテイメントである)。

 そのエンターテイメント性に加え,刑法第三十九条の是非という極めて重い問題が背景に横たわっているのは事実だが,法の精神は体系の把握なしに語っても仕方ない。とりあえず本作,あるいは本作の続編をテレビ化したドラマによって刑法第三十九条なるものがあることを啓蒙できればそれでよしとすべきだろう。

 そういえば,このような作品は以前なら「社会派推理小説」と呼ばれたものだった。烏丸は,松本清張ら社会派が全盛のころには「推理小説は本格でなくては」とうそぶき,島田荘司,綾辻行人ら以降,新本格派がわらわら出てくると「人間や社会が描かれてないと」とぶつくさ言っているわけで,我ながら身勝手極まりない。ま,そのあたり,本読みなんて,わかっちゃいるけどやめられない,あそれ……。
(最後だけ,ちょっとお屠蘇気分)

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