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2000/11/02

本の中の強い女,弱い女 その九 『虐げられた人びと』 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー,小笠原豊樹 訳 / 新潮文庫

Nimg2140【気違いだっていいわ】

 物語の語り手は若い小説家ワーニャ(イワン・ペトローヴィチ)。彼の幼なじみナターシャは,軽薄で世間知らずの美青年アリョーシャと恋に落ちる。頑固だが善良なナターシャの父ニコライ・イフメーネフはアリョーシャの父ヴァルコフスキー公爵に泥棒呼ばわりされ,蔑まれ,領地を奪われるが,ナターシャはアリョーシャとの恋のために家を出る。一方,ワーニャは街でたまたま貧しい老人の死に立ち会うが,彼が老人の部屋に引き移るとそこに痩せた少女が現れた……。

 『貧しき人びと』で新進作家として成功したものの,その後批評家にそっぽを向かれたドストエフスキーは,1849年,空想的社会主義者ペトラシェフスキー主催の会合に参加,当局に捕えられ,処刑寸前に許されてシベリアに流刑の身となった(流刑地での体験は『死の家の記録』に詳しい)。
 『虐げられた人びと』は,首都ペテルブルグに帰還を許された彼が作家として復活を遂げた長編で,自ら認めるように通俗的で甘い面もあるものの,メロドラマと切り捨てることのできない奥行きの深い人物造型で読み応えがある。
 ことにほとんど表だって出てこないが悪意の権化のようなヴァルコフスキー伯爵は『罪と罰』のスヴィドリガイロフ,『悪霊』のスタヴローギンを,言動が善意に過ぎてその善意が人々を不幸に陥れるアリョーシャは『白痴』のムイシュキンを思わせる。

 そして,主人公や彼ら以上に心に焼きつくのは,ヴァルコフスキー伯爵の実の娘でありながら,ただ貶められ,病に死んでいく少女ネリー(エレーナ)の存在である。彼女は「十二か十三の発育の悪い小娘で,おまけに大わずらいのあとのように貧弱で顔色もよくはない。そのせいか,大きな黒い眸はかえってきらきらと光っている」。
 彼女は顔をまっさおにして倒れ,熱を出し,うわごとをもらし,何を尋ねても黙り込むかと思えば,洋服が汚れると言われて「こんなのびりびりに破っちゃうわ」と引きちぎり,「ここにはいたくない,あたし意地悪よ」と茶碗を床にたたきつけて「ほら,こんなにこわれちゃったわ」と叫び,泣きすぎてヒステリーを起こしたあげくワーニャにしがみついて「あんたならネリーと呼んでもらいたい」と訴え,最後まで自分と母を捨てた父親を許さずに死んでいく。

 烏丸はかつて『罪と罰』の巧みさ,重さに驚き,続いてこの作品に触れてネリーに文字通り夢中になった。書物における烏丸の女性の趣味がいまだ病的,エキセントリック,ヒステリックにやや偏っているのは,その当時,寝ても覚めてもネリーの面影を追い,その死を悔いたためである。その後,彼女に代わるものを求めてドストエフスキーの作品を読み漁ったが,病的な女性は再三現れるものの,ネリーの暗い眸,崩れた黒い髪には二度と出会えなかった。ずっとのちに,ネリーと見まがう危うさを撒き散らす現実の女性と知り合ったが,数年がかりで自分がワーニャでないことを思い知らされただけだった。

 ちなみに,ネリーに思い入れるのは,烏丸一人の話ではない。新婚の妻を残して車ごと水に沈んだ烏丸の高校の数学教師も本作を熱く語っていたし,太宰の習作『葉』には貧しいロシア人の娘を見て「ドストエフスキイを覗きはじめた学生ならば,おや,ネルリ!と声を出して叫んで,あわてて外套の襟を掻きたてるかも知れない」という一節がある。また,黒澤の『赤ひげ』に出てくる薄幸の少女・おとよもこのネリーがモデルとされている。
 だが,本作のネリーを上回るほどにエキセントリックな魅力に満ちた少女をいまだ烏丸は知らない。また,今はもう,知りたいとも思わない。

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