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2000年11月の37件の記事

2000/11/30

妻は夫の奴隷か!?(←ちょっと大げさ) 『ミミズクとオリーブ』 芦原すなお / 東京創元社(創元推理文庫)

Nimg2631【中年夫婦デンデケデケデケ】

 創元推理文庫だからといってゆめゆめ推理小説だと考えてはいけない。せいぜい亜・推理小説,セミ・ミステリとみなすべきだろう。ちなみに「亜」は「あるものの次に位置する」,「semi」は「半分」といった意味であって,実際のミステリ度はさらに低い。

 内容は作家たる語り手の妻が縫い物,洗濯,料理の合間に難事件を説く,という趣向の短編集。ミステリでいうところの安楽椅子探偵モノなのだが,いずれも勘で言い当てているだけで,とても推理といえるようなものではない。というより,こんなものが創元推理文庫に収録されるのでは,プロ目指して日夜犯罪やトリックに思いをめぐらせている本格ミステリ作家のタマゴ諸氏が気の毒でならない。
 語り手の家の庭のオリーブの木も,そこに訪れるミミズクもただの飾りであって(ギリシア神話の知恵の女神アテナがフクロウを愛好したことによるにせよ),推理の展開にとくに関連はない。さらに随所に登場する「焼いたマテ貝の入った『分葱和え』,南瓜のきんとん。讃岐名物の『醤油豆』。焼いたカマスのすり身と味噌をこね合わせた『さつま』,黒砂糖と醤油で煮つけた豆腐と揚げの煮物。カラ付きの小海老と拍子木に切った大根の煮しめ。新ジャガと小ぶりの目板ガレイ(ぼくらの郷里ではこれをメダカと呼ぶ)の唐揚げ」といった田舎料理の数々も事件とはなんら関係ない。
 つまりこれは讃岐の高校生たちの恋と青春を描いた『青春デンデケデケデケ』の作者によるほのぼの夫婦小説なのであって,それ以外のものを期待してはならない。

 ということで読み終えたら本棚のコヤシにするか♪本を売るならBOOK・OFFに「お代はいらねえ」と叩き捨てればよいのだが,なぜわざわざ取り上げるかといえば加納朋子の解説が不愉快,というか不可解だったからである。

 『ななつのこ』などの作者たる加納朋子は,いわゆる「日常の謎」系の若手ミステリ作家の類である。それは別によい。彼女が解説で本『ミミズクとオリーブ』をベタボメしているのも,まあしかたない。探偵役の妻を「私なんかよりずっと心が広くて優しくて感受性も豊か」と言うのも(なんで「私」が出てくるのかひっかからんでもないが),ほっとけばよいだろう。
 しかし,そこから「確かに女性が男性を知っているほどには,男性は女性を知らない,という気もします。ということはすなわち,人間をもっとも知っているのは女,ということになるのでしょうか」と導くのはいくらなんでも牽強付会が過ぎるというものだ。
 本書の妻は本の中の架空の存在で(当たり前だ),その妻の言動を描いた芦原すなおは男性だ。勘違いを差っ引けば,この一節は「女である私は人間をよく知っている」としか読めないのである。
 ちなみに男であれ女であれ,「人間をよく知っている」などと平気で口にする輩は信用しないし,できない。傲慢か馬鹿か,あるいはその両方だからである。

 さらにいえば,この黙々と夫にかしずき,掃除や洗濯,料理や縫い物ばかり受け持たされる妻,そして主婦をそう描いてしまう作者が,烏丸には不快でならない。語り手の友人が手土産に持ってきたオコゼ4匹を,唐揚げにしてビール,薄造りにしてポン酢と浅葱をそえて日本酒,さらに鍋になったところでようやく妻が座って晩餐に参加する……ここに描かれているのは,まるで男に尽くす召し使いのような主婦の姿であり,そんな姿を無条件にほめちぎる加納朋子もどうかしているのではないか。
 妻は夫の母親ではない。

 と,日記には書いておこう。

2000/11/29

作家が選んだ第2位 『サム・ホーソーンの事件簿I』 エドワード・D・ホック / 東京創元社(創元推理文庫)

Nimg2617【古き良き時代の犯罪】

 腰巻きの「IN★POCKET 文庫翻訳ミステリーベスト10 作家が選んだ第2位 不可能犯罪愛好家必読!」の惹句も目に鮮やかな,エドワード・D・ホック(1930~)の短編集。今年5月の発行。

 映画化を意識してか単にウケの問題か,昨今の欧米ミステリといえばサスペンス&長編が主流。そんな中,ホックは現役では非常に珍しい短編のスペシャリスト,しかも不可能犯罪パズラーが得意という,本格ファンには得がたい作家である。
 サム・ホーソーンシリーズは禁酒法のさなかの1922年を端緒に,医師が,自らかかわった事件を現在から振り返って語るという体裁のもの。舞台はアメリカ,ニューイングランドの田舎町ノースモント。『事件簿I』には初期のサム・ホーソーンもの12編と短編「長い墜落」が収録されているが,いずれもトリッキーな不可能犯罪が描かれている。

 たとえばシリーズ第1作の「有蓋橋の謎」(1974年発表)では,雪の降り積もった道を2台の馬車が走り,後からきた2台目の馬車が有蓋橋の入り口に到着してみると,轍の跡は残っているのに1台目の馬車が橋の中にいない,出口のほうにも出た形跡がない。馬車を操っていた若者は離れた場所で死体で発見される。
 続く「水車小屋の謎」では,水車小屋に住みついた男がボストンに宛てて送った頑丈な手提げ金庫から膨大な本や書類が消失し,男は水車小屋の火事跡から頭を殴られた死体として発見される。
 「投票ブースの謎」はさらにすごい。選挙当日の衆人環視の中,3方を堅い木で囲まれ,入口がカーテンで仕切られた投票ブースの中で立候補者の1人が刺され,死んでしまう。はたして殺害方法は。また,凶器はどこに。
 ノンシリーズの「長い墜落」では,会社社長が21階の窓ガラスを割って飛び降りたのに,地上では誰も落ちてきた気配がなく,途中に引っかかるような場所もない。そして4時間後,そこに墜落死した社長が発見される。短編ながら,張り巡らされた伏線が見事。

 そのほか,ブランコに乗っていて先生がちょっと目を離したすきに誘拐されてしまった少年,「エルフ」と書き残して密室で殺されていた車掌,行き止まりの廊下から消え去った覆面強盗,観衆の目前で閉じられ埋められたタイムカプセルの中に転がっていた死体,パラシュートで降下中に絞殺されたスタントマン……。

 いずれもなかなか魅力的な不可能犯罪であり,ホーソーン医師による謎解きも面白い。もちろん,指紋や解剖といった科学捜査の発達していない1920年代だからまかり通る,という話もあるし,無理押しな謎解きもなくはない。しかし,全体的にはホームズ譚を読むような,ノスタルジックで手応え豊かな時間を過ごすことができる。
 サム・ホーソーンシリーズはすでに59話まで書かれているそうで,『事件簿II』以降の発売が待たれるところである。

 ところで,「作家が選んだ第2位」とあるからには「第1位」もあるはずだ。しかし,創元推理文庫の棚を探しても見当たらない。考えてみれば当然で,「IN★POCKET」は講談社の小冊子,ベスト10は東京創元社の文庫に限定されるわけではない。
 調べたところ,2000年文庫翻訳ミステリの第1位は「読者が選んだ」「作家が選んだ」ともにトマス・ハリスの『ハンニバル』(新潮文庫)であった。なるほど。

2000/11/28

烏丸のそれはちょっといやだ その10 『不肖・宮嶋の一見必撮!』 宮嶋茂樹 / 文藝春秋

Nimg2597【破滅に向かってまっしぐら,写真界の横山やすし】

 『不肖・宮嶋の ネェちゃん撮らせんかい!』に続いての宮嶋本ご紹介である。しかし……「それはちょっといやだ」シリーズ最終回で,よもや不肖・宮嶋を取り上げることになるとは。この烏丸,涙でディスプレイもにじもうかというものである。

 思えばこれまで,週刊文春のグラビア担当でありながら,クレスト新社,太田出版,新潮社,祥伝社,ザ・マサダなど他の版社を転戦してきた不肖・宮嶋,ついに大本営,芥川賞・直木賞の文藝春秋からの単行本化である。紅白饅頭に注連縄(しめなわ)を副えておごそかに書評したいものだ……が。残念ながらヌルい。これまでの彼の全著作中で最もヌルい。無残なまでに,ヌルい。

 理由の一,文字量が少ない。
 各ページ,縦36文字×横12行である。活字の詰まった文庫本が43文字×20行であることを思えば,隙間だらけである。しかも,ただでさえ文字の少ない割組みに加え,26ある各章すべてに宮嶋のおちゃらけ写真,おちゃらけ川柳がだっふり幅をきかせているのである。

 理由のニ,もちろん宮嶋茂樹はカメラマンであって,文字が少なくとも写真が語れば善哉。しかし,その写真がヌルい。
 以前も述べたが,ノルマンディー上陸作戦50周年記念式典でドイツ軍の制服を着て日章旗を振り,金日成の像の前では同じポーズをとって撮影されるなど,「そこまでやるんかいな」と伊勢エビも直立不動するような,そんなミッションがない。
 もちろん,戦火のチェチェンに赴く,水中に落ちていく航空機のコックピットから脱出するディッチング・トレーニングなど,宮嶋が今もスクープに生命を張っていることは否定しない。しかし,法の華の取材撮影,輸送艦「みうら」の退役式典,ローラーゲーム,エアロビ大会,林眞須美宅解体現場……通して読めば,どうにもヌルいのである。文章の突っ込みも甘いのである。

 理由の三,編集方針がなんか違う。
 先にも述べた通り,各章の頭には不肖・宮嶋のおちゃらけ写真が並んでいる。本文内写真にも宮嶋は頻出する。表回り含めれば,ざっと数えて40枚以上,宮嶋当人の写真が載っているわけである。
 これではもはやお笑いタレント本ではないか。

 不肖・宮嶋ファンは,静止映像としての宮嶋当人のファンではない。
 自衛隊,オウム,北朝鮮,戦場,動乱,容疑者,きれいなネェちゃん,そういったターゲットにくらいつき,糞をたらし,はいつくばってでもスクープを狙う,その「矢印」が興奮を呼び,笑いを誘うのである。だから文章はノリのよい現在進行形でないといかんのである。各章におちゃらけ写真と川柳を付けるのは,サービスのつもりかもしれんが,それはそのスクープ写真を狙う宮嶋を過去のある時点に追いやるだけであって,「矢印」本来の魅力は失われてしまうのである。これではオートバイの名車を博物館のガラスの中に置いて,ほらえーやろ,とゾクのニィちゃんから拝観料取るようなもんである。なんでそれがわからん。

 実は,今回唯一嬉しかったのは,紀伊国屋BookWebが「裏カバーに若干のキズがあるので1割引きにいたします」と言ってくれたことであった。見れば爪でひっかいた程度。携帯電話,ボールペンと一緒にカバンに入れればすぐつくような,書店店頭でも気にしない程の些細なキズである。再手配などお願いせずありがたく1割引きでお支払いさせていただいたが……待望の不肖・宮嶋の新刊でこんなことが一番ありがたいとは。……それはすごくいやだ。

2000/11/27

烏丸のそれはちょっといやだ その9 『魔術師さがし』 佐藤史生 / 小学館(プチフラワーコミックス)

Nimg2575【もどすって? だから“竜”に】

 新刊情報に注意はしているが,無論チェック漏れもよくある。書店でたまたま佐藤史生の『魔術師さがし』を見つけたときは本当に嬉しかった。

 なにしろ前作『心臓のない巨人』が99年1月。2年ぶりというのはそれでもましなほうでその前の『鬼追うもの』が95年6月,その前の『精霊王』が89年11月と,寡作と言うも虚しい竜舌蘭のようなマンガ家なのである。
 それでも,幸い,遠過去ファンタジーの傑作『夢みる惑星』全3巻,華厳的世界観とコンピュータを扱った怪作『ワン・ゼロ』全4巻は小学館から文庫化されて現在も入手可能だ。絵に対する好みはさておき,SFファン,コンピュータ技術者の方々はぜひ手に取ってご覧いただきたい。とくに後者について,コンピュータを扱ったマンガでこれほどバイナリという概念をバイナリに溶かしたものは見たことがない。しかもテーマはサイバーパンクよりディーバで切実。これに比べれば理系ミステリ作家とやらの作品など入学前の数のおけいこのようなものだ。

 紹介の順が逆になったが,佐藤史生(ペンネームは砂糖と塩から)は少女マンガに革命をもたらしたと言われる24年組・ポスト24年組の1人で,竹宮恵子,萩尾望都らのアシスタントを経てデビュー,坂田靖子,花郁悠紀子,山岸凉子らと親交がある(あった)らしい。問題は『金星樹』『春を夢みし』など70年代後半の初期作品は別にして,その後不親切極まりない作家になってしまったことである。
 不親切とは,要するに,難しいのだ。テーマの多くは(恋愛を扱う際でさえ)およそ通俗的でなく,ある種の状況や感情を描くのに多くの読者に理解しやすい従来の方法を決して用いず,徹底的に異様な設定構築に突っ走っていく。その結果,読者は突き放され,頑張って一字一句読み込んで頑張らないとついていけないということが起こる。その代わり,ひとたび懸命に頭と感性を駆使して読んだなら……佐藤史生的としか表現しようのない,えも言われぬ独特な彩り,手応えが得られるのである。

 本作『魔術師さがし』はこんな始まり方をする。
 大魔法使い(グラン・メール)パングロスが,彼が封印されていたパンタレイ島で行方不明になり,彼をさがすためにマスターチャリスの依頼で名だたる魔術師達が召還される。彼らはまず竜穴のあるエニグマ・ピークに向かい,事態の把握に努めるが……。ここまで読むと剣と魔法のファンタジーと思われそうだが,実際はまるっきり違う。これは,ある種の知性の誕生物語なのだ(これ以上書くとネタバレになるのでこんな妙な書き方しかできないが)。

 それにしても,難しい。コムズカシイのではなく,本気でムズカシイ。
 単行本のために描かれた番外編では,たとえば次のようなやり取りがなされる(作者の一種の悪戯だろう)。

  ベビー「彼らが世界をみる そのみえ方が彼らの言語系だよ パングロス!」
  パングロス「人間の数だけ視点がある──?」

  パングロス「しかし……わたしは本質を理解したい」
  ベビー「人間は趣味をもつ 偽装人格(ペルソナ)も然りだ」

 必死で追いかけようとしている,というのが実情で,今のところなんとか面白がっていられるが,これ以上作者が読み手レベルを「高い」に設定してしまったら……それはちょっといやだ。

 しかし,これほど「おどし」た後では信用されないかもしれないが,面白いことは保証する。併録の短編「マルタの女」(マルタは○の中にひらがなの「た」)においても,四国松山へのデパート進出の話がよもやこんな高爽で愉快なオチにいたるとは。

烏丸のそれはちょっといやだ その8 『猟奇文学館1 監禁淫楽』 七北数人 編 / ちくま文庫

Nimg2564【その前に体を拭きましょうね】

 1989年1月,19歳のホステスを足立区内のホテルに連れ込み乱暴したとして逮捕された少年達を追及したところ,アルバイト先から自転車に乗って帰宅する途中だった女子高生(17歳)を別の少年の家に拉致監禁,暴行を加えて殺害し,死体をドラム缶にコンクリート詰めして放置したことが明らかになった。

 2000年1月,新潟県内で1990年11月に行方不明になった少女(当時9歳)が19歳になって保護された。彼女は男性(逮捕時37歳)に無理やり連れ去られ,怖くて逃げられなかった,家の外に出たのは今日が初めてと答えた。

 これらの事件が他の営利誘拐や殺人事件に比べても記憶に生々しいのは,少年犯罪,犯行を知りつつ放置した親の責任,警察の不手際などだけでなく,「監禁」という事件そのものの構図が多くの男達の心の闇の琴線に触れたからではないか。
 誰にも渡したくない,触れさせたくない少女を疾風のようにさらい,無垢なまま閉じこめる。食事も洋服も言葉も性も,すべて閉じた函の中で……。
 そんな「監禁」をめぐる古今の短編を集めたのが本書である。収録作は以下の通り。

  皆川博子「朱の檻」
  連城三紀彦「選ばれた女」
  小池真理子「囚われて」
  宇能鴻一郎「ズロース挽歌」
  式 貴士「おれの人形」
  篠田節子「柔らかい手」
  赤江 瀑「女形の橋」
  谷崎潤一郎「天鵞絨の夢」

 大家からミステリ,ホラー,SFとなかなか強烈なラインナップだ。
 だが,読後感は残念ながら今一つ。理由は明らかで,先に挙げた事件が示すように「監禁したいほど恋しい」ことと現実の「監禁」との間には,無関係と言えるほど距離があるからだ。
 それは愛のようで愛ではない。「監禁」による愛の成就など御伽噺に過ぎず,相手に対する不断の思いやりなしにはただの人形遊びに過ぎない。もし「監禁」を描いて何か新しい感動を与える文学があり得るなら,それは山のようなエログロB級作品の中から僥倖のように立ち上るだろう。だが,本集に納められた作品の多くは,時代柄ただ耽美に走った谷崎は別として,書かれた段階ですでになにかしら人間を描こうとする意識が強すぎ,「監禁」の持つ本質的な暴力や「監禁」される者の恐怖,崩壊が描ききれていないような気がする。
 要するに,現実の事件記事のほうがよほど心に深く陰を残すのだ。

 なお,式貴士について少し説明しておこう。おぞおぞするようなグロテスクな刑罰を描いた『カンタン刑』,グロテスクなエロスとSFの結婚『連想トンネル』『吸魂鬼』などの作品は70年代の末から80年代半ばにかけてソニー・マガジンズおよび角川文庫から発行された。SFといっても未来のメカやネットワークが描かれるわけでなく,しいていえば人魚姫を描いてその食事や主人公とのセックスが描かれる,そんな感じだろうか。
 1991年に亡くなった彼にはもう1つの顔がある。ハードレイプ,凌辱を得意とした官能作家,蘭光生である。二見書房の『女教師・犯す』は当時「本の雑誌」で最も過激なアダルト小説とされたように記憶している。現在駅の売店などで売られる(なじみの本屋では買えない)黒い表紙のフランス書院文庫を館淳一とともに初期のころ支えた作家の1人である。
 本集におさめられた「おれの人形」は,式貴士ならではの超能力を持った主人公による拉致監禁レイプ譚。しかし,式作品の淫靡さ,蘭名義のハードさいずれにも欠け,お文学臭の強い本書の1つの限界を示しているようにも思われる。

 ここは1つ自分で監禁文学の傑作を……なんてことを目論んでいると,家人が(また)実家に帰ってしまいそうで,それはちょっといやだ。

2000/11/26

烏丸のそれはちょっといやだ その7 『女(わたし)には向かない職業2 なんとかなるわよ』 いしいひさいち / 東京創元社

Nimg2549【ま,ねかせておいてあげなさい】

 11月30日,つまり今から4日後に発行される予定の新刊である。本屋に積んであったのだからよしとしよう。
 野暮を承知で内容紹介するなら,朝日新聞朝刊掲載『ののちゃん』のクラス担任でおなじみ藤原瞳先生が推理小説の新人賞を受賞し,豪放な女流作家として活躍するというもので,タイトルはイギリスの女流作家P・D・ジェイムズの『女(おんな)には向かない職業』(ハヤカワ書房)のパロディである。ああ,野暮でいやだ。

 第1巻では「27の瞳」と称して瞳が学校の先生をしながら市民講座で推理小説を学び,新人賞に入選するまでの話がプロローグとして挿入されているが,今回はなんと17歳でソフトボール部に所属する(可憐だ)瞳のノンシャランな日々を描く「17の瞳」(中学時代はアルゼンチンの山奥にいたとは),地元の小学校に赴任する「でもしかの瞳」,『ののちゃん』と同時期の「27の瞳」,そしてミステリ作家としてデビュー後の「34の瞳」という構成になっている。肝心の瞳のノンシャランさ,作家業界の内幕暴露色は残念ながら第1巻に比べるとやや弱いかもしれない。
 ……それにしても,なぜ2巻になってこういう構成なのか。釈然としないので初出一覧を見て,驚いた。小説現代(講談社),朝日新聞,オール讀物(文藝春秋),週刊文春(同),小学四年生(小学館),パロル(パロル舎),小説宝石(光文社),おそい・はやい・ひくい・たかい(ジャパンマシニスト社),おりがみ(清興建設),創元推理(東京創元社)。どんな雑誌かまるでわからないのまで混じっているが,ともかくこれだけバラバラな発表先に4コママンガを書きまくり,集めてみれば大河ドラマとまでは言わないまでも,全体を通してスジの通る一人の作家の人生が描かれているわけである。

 どうもこのいしいひさいち,底が読めない。やくみつる(=はた山ハッチ)らのスポーツ4コマの先鞭を切ったのは当人だし,秋月りすのOL4コマに対しては『ノンキャリウーマン』,植田まさし『コボちゃん』等に対しては『となりの山田くん』があり,業田良家『自虐の詩』が4コマで大河ドラマを!? と言えば,しれっとこういうことをしてみせる(もちろん,『女には向かない職業』と『自虐の詩』を同次元で語るのは双方のファンにとって無理があるとは思うのが)。
 4コマでどうしてこんなことができるのか,と思っているうちにいつの間にか単行本も100冊を越え,とどまるところを知らない。ドーナツブックスの4コマだけでもすでに4483作品。貧相な自画像の下に,どれほどの余力が残されているのか。ときどき,いしいひさいちの本当の姿を知らないまま,釈迦の掌の上を飛んでいる猿のような気分にさえなってしまう。いしい家の金庫には25年前に描かれた全シリーズの最終回がしまわれているとか,著者の死後全作品をグラウンドに並べてヘリコプターから見たら新たな4コマ作品が浮かび上がるとか……それはちょっといやだ。

 なお,東京創元社からはほぼ同時に『大問題2000』も発売されている。これは自自公,セクハラ知事,日の丸・君が代,地域振興券,ブッチホン,フリューゲルス,脳死移植,臨界事故,てるくはのる……といった1999年の出来事を峯正澄の文と合わせて振り返る「いしい版・現代用語の糞知識」である。峯正澄の文はともかく,必携であること言うまでもない。

2000/11/24

烏丸のそれはちょっといやだ その6 『三毛猫ホームズの推理』 赤川次郎 / 光文社文庫

Nimg2537【犯人……見た……】

 グイン・サーガの75冊というのも凄いが,こちらの赤川次郎も凄い。すでに著書の数300冊以上,三毛猫ホームズシリーズだけでも30冊以上あるという話だ。普段の烏丸なら紀伊国屋BookWebに駆け込んでちゃっちゃっと正確な数字を調べるところだが,正直言ってこの場合,300が500,30が50でも大勢に影響なさそうなのでそのまま話を進めよう。

 赤川次郎のデビューは1976年,女子大生・永井夕子とくたびれた中年警部・宇野のコンビの活躍する短編『幽霊列車』(第15回オール読物推理小説新人賞受賞)だったが,実質的な出世作はカッパノベルスから発売された長編『三毛猫ホームズの推理』である。

 「お嬢さん」とあだ名される主人公・片山は警視庁捜査一課に勤めながら血を見ただけで貧血を起こすほど気が弱く,おまけに女性恐怖症。そんな彼がこともあろうに女子大生殺害事件を担当して女子大寮に張り込むことになってしまった……。
 驚いたことに,本作には,本格推理とまで言わないものの,ちゃんとした推理小説としての,しかもかなりトリッキーなトリックが用意されている。片山と女子大生・雪子とのドラマは意外やシリアスだし,妹・晴美の言動もヘヴィだ。何より,前半にはいくつか伏線があり,最後にはそれが解きほぐされる。三毛猫ホームズの関与も,のちのようにこじれた糸を全部無造作にほぐす神の手でなく,多少は偶然っぽく描かれているし,晴美に恋する食いしん坊の石津刑事が登場してドタバタ色が強まるのは第2作の『三毛猫ホームズの追跡』から。
 ……要するに本作は赤川次郎作品としては「人間を描けている」とまでは言わないものの,立派なミステリ長編としての骨格を保持しているのである。セリフ,改行も,最近の作品に比べればずっと,もう全然少ない。

 で,あるからして,赤川作品としては,よろしくないわけである。

 産業の理想の形態は,市場を囲い込み,占有してしまうことである。独禁法が存在するのは,私的独占(トラスト・コンツェルン)や不当な取引制限(各種のカルテル)が行われると,一部の企業に有利に過ぎるからだ。つまり,小説の世界でいえば,他の小説家の小説を一切読まさず,自分の新作が出たら必ず買わせることができるなら,それに勝る売り方はない。
 赤川次郎の作品は,見事にそれを実現している。論より証拠,『三毛猫ホームズの推理』が(つまらない,本文スカスカという赤川評に反して)そこそこ読めたため,うっかり『三毛猫ホームズの追跡』『三毛猫ホームズの怪談』……と20冊ばかり続けて読んでしまった烏丸は,気がつけば立派な依存症状態,どうしてもほかの作家の文章が読めなくて困ったものである。なにしろ,ほかの作家ときたら,普通の文体だし,漢字が多く,改行が少なく,内容が詰まっていて,数ページ読むのに普通の労力が。しかたないので,今度は『幽霊列車』『幽霊候補生』『幽霊愛好会』……幽霊シリーズが片付いたら,次は……。

 赤川やめますか,それとも読書家やめますか,とAC公告機構の声が耳元で鳴り響き,血液から赤川を抜くために山にこもり,片方の眉毛を剃り落として阿刀田高からゆっくりとリハビリを始め,なんとか澁澤龍彦まで戻ったのはその年の暮れのことだった。
 しかし,安心はできない。回復したように見えて,ときどきフラッシュバックして改行の少ない普通の文章に向かうとまるきり意味がつかめなくなることもあり……それはちょっといやだ。

烏丸のそれはちょっといやだ その5 『グイン・サーガ(75) 大導師アグリッパ』 栗本薫 / ハヤカワ文庫

Nimg2530【ヤオイ,ヤオイとはしゃいで】

 最近,親しい者の集う掲示板では,栗本薫(中島梓)周辺のどたばたについての報告があった。

 栗本薫はヒロイックファンタジーの長編「グイン・サーガ」シリーズを発表し続けており(一昨年には32冊書いたそうだ),それなりに売れているようなのだが,最近は作風が「お耽美」「やおい」に傾き,しかも本人が同人誌として「グイン・サーガやおい小説」を個人販売し,一部のファンを呆然とさせいるというのである。
 最新刊のあとがきでは,作者本人がニフティの会議室やどこかのHPについて「書かれたものはともかく著者の人間性についてまでバリザンボウをあびせてよいのか,オフで栗本薫の前で同じことが言えるのか。匿名だからと何でも言っていいという態度は許せない」とケンカを売っているらしい(と聞いて,あとがきだけ見るために最新刊買ってくる烏丸の野次馬根性もどうかとは思うが)。

 知人が教えてくれた彼女の個人サイトは全文太字指定,しかも左右めいっぱいに表示されて実に読みづらいのだが,ざっとスクロールしてみたところ「自分はまだまだ老大家ではなく若者のつもりで,だから攻撃的に書いていくぞ」というような部分に少しだけ笑ってしまった。自分が老大家として若者から攻撃されるのは許せないわけである。
 読者が身勝手なのはある程度しようがないと思うし,マスに作品を販売するなら匿名か否かを問わず多少の個人攻撃を受ける覚悟も必要なのではないか。お耽美というのがどれほど高尚な趣味か知らないが,「レズビアンのアダルトビデオが好きだ」と公言する男の世間ウケがよいとも思えないし。

 栗本薫は,デビュー当時のシリアスなミステリやSFはそれなりに楽しみに読んだものだが(というより,本格ミステリが壊滅的に枯れた時期だったので,それっぽいものならなんでもよかったのだ),どんどん趣味と違うほうに行ってしまい最近は全く手にしていない。デビュー長編ミステリ『ぼくらの時代』の主人公の組むロックバンド名が「ポーの一族」という無神経さには少し引けてしまった。また,主人公が作家名と同じ薫クンというのも,『赤頭巾ちゃん気をつけて』の庄司薫の老後の貯えを削ってしまったわけで,結果的にひどいことをしたものだ。
 当初は心理ミステリだった伊集院大介モノも後半は催眠術使いまくり,明智探偵と怪人20面相との戦いみたいになってしまった。
 
 問題は,少女マンガについて,評論の権威がほかにあまりいないということである。評論家は数いても,誰か一人,といったときにこの人を思い出すメディアの担当者はいまだ少なくないのではないか。しかし,この人のマンガについての物言いがかなり偏っているのは明らかで(橋本治に比べれば内容がないも同然),栗本薫がある世代や層を代表するような書き方されても困ってしまうのだけれど,今後とも大物マンガ家の再版とかいうことになるとこの人が担ぎ出されることになるんだろうなあ。
 それはちょっといやだ。

 なお,本気の同性愛の人はやおいを許せるのかという疑問もあるが,真実を追求したい気持ちはちーともわかないのであった。
 別の知人によると,グイン・サーガはタイトルで大体どの国がその巻のメインなのかがわかり,パロのクリスタル公がらみ,モンゴールのイシュトヴァーンがらみのタイトルの場合はお耽美ないしほもネタなので×。ボーダーライン上のは中身をパラパラとめくってから買うとのことである。なるほど。

2000/11/23

烏丸のそれはちょっといやだ その4 『悪魔学大全』 酒井 潔 / 桃源社

Nimg2503【我国魔道研究の先達】

 唐沢俊一『トンデモ美少年の世界』において「昭和50年代に復刊されたらしいが、澁澤龍彦が解説を書いているおかげでめちゃくちゃ高いらしい」と紹介された問題の1冊,それが添付画像の『悪魔学大全』である。
 なぜそんな本が烏丸の本棚にあったかは聞かないでほしい……実はどこで手に入れたか覚えていないのだ。

 ともかく物凄い本であることは確かだ。本書は昭和4年発行の『愛の魔術』第六部と昭和6年の『降霊魔術』全章,さらに著者の個人雑誌「談奇」から4篇を加えてまとめたものである。つまりざっと70年前に書かれたものだ。その博覧強記ぶりには恐れ入るばかり。しかもこのような本を書いているだけで警察にマークされた時代である。

 目次に目を通してみよう。
  淫魔
  黒弥撒
  Sabbat(悪魔の夜宴)
  魔術に対する処刑
  奢覇都 黒弥撒 淫鬼魔
  降霊魔術
  妖幻夜譚
  天狗雑考
  草木 動物 金石の魔法
  護符呪法
  占星術
  聖天秘話
  錬金術
  論考集(沙翁劇に現れた魔薬毒薬の研究・人造人間第一世ドロズの自動人形・ラヴァル元帥嬰児の血を持って淫惨なる悪魔の弥撒を修する事・南方先生訪問記)

 黒弥撒は黒ミサ,奢覇都はサバト,ラヴァル元帥とはジル・ド・レー候,南方先生は言うまでもなく南方熊楠である。
 解説で澁澤龍彦も書いているが「天狗雑考」が含まれているのがなんとも言えない。第一章「淫魔」を見ても,インキュブス(女性のベッドに現れ夜な夜な悪さをする悪魔)だけでなく,もちろんその例も多々紹介されているが,中国の『聊斎志異』から読み下し文を延々と引用したりと,それは素晴らしい素材の厚み,衒学の極みといった感触である。ただ,著者が猟奇的ディレッタンティズムに満足しているところを澁澤は「あえて酷なことを言えば,この書物の時代的限界があったのであろう」と書いている。まったく,あのディレッタント澁澤にそう言われてはかたなしだ。

 少し詳しく内容を見てみよう。
 たとえば基督に対して普通のミサがあるように,悪魔に対しては黒ミサを行う。通常のミサの裏返しだから,若く美しい女が聖壇に全裸で横たわり,その腹の上に聖餐杯を置き,胸に十字架を置き,その上で子供の喉を掻き切ってほとばしる血潮を聖餐杯にそそぎ悪魔の名を唱える。後は黒司祭が壇上の女性と×××……無茶苦茶である。
 こういったいかにも悪魔学な内容が(実際はもっとずっと詳細に)紹介される一方,古今東西の様々な妖術についても紹介される。たとえば,

  駱駝の血を呑んだ人は狂人になり,ランプの火にその血を注ぐと,其の場に居合せた全部の人の頭が,皆駱駝の頭に見える。

  水晶は,太陽の光線を取って,物を焼く事が出来る。其の粉末を蜜と共に呑めば,乳がよく出る様になる。

 他の章では,聖天(ガネーシャ。オウム真理教が冠った象の帽子でも知られている)の像を作る際に注意すべきことが細かく紹介されている。

  四,鼻はフクフクと大きく作ること。貧相に作ってはならぬ。
  七,牙は短いのがよろしい。長いと物にかかるおそれがある。

ご親切なことだ。

 さすが,唐沢俊一が「めちゃくちゃ高い」と書いただけあるまことに重厚な書物ではあるが,新妻千秋とチリ鍋をつつき合うために稀覯本を売っ払うのもまた一興。さっそく古本屋サイトで本書の実売価格を調べてみた。何万円,いや何十万か……わくわく。

  4,000円

 ……それはちょっといやだ。

2000/11/22

烏丸のそれはちょっといやだ その3 『SpaceAdventure コブラ』 寺沢武一 / 集英社

Nimg2489【今日は最高潮なのさ 惑星でも砕いてみせるぜ──────っ】

 相棒のアーマロイド・レディと高速宇宙船タートル号で宇宙をかけめぐる正統派の海賊,コブラ。彼は鋼の肉体と不屈の精神力で「不死身の男」と呼ばれている。しかし残虐非道な海賊ギルドとの闘いに明け暮れ,銀河パトロールに追われる日々にいやけがさした彼は,3年前,顔を変え,記憶を消してしがない貿易会社のサラリーマンに身をやつしていた。ふとしたきっかけで記憶を取り戻したコブラは,レディとともに再び危険な世界に旅立っていく。左腕のサイコ・ガンとともに──。

 『SpaceAdventure コブラ』,驚いたことにこれは寺沢武一のデビュー作だ。
 第1話には,すでに彼の作品のあらゆる特長が表れている。バタくさいSFスピリッツ,キザでお調子者だが陽気なタフガイとグラマラスな美女,命をかけた闘いと冒険。
 コブラと浅からぬ因縁を持つ,特殊偏向ガラスのボディーがあらゆる光線銃を素通りさせる暗殺者,クリスタル・ボーイの存在感も素晴らしい。そして,物語は宇宙の破滅と誕生をからめて大きく動いていく。コブラはアーマゲドンを防げるのか……。

 異論もあるだろうが,『SpaceAdventure コブラ』こそ和製スペースオペラの最高傑作と烏丸は考える。のちに同じ作者から『Blackknight バット』『鴉天狗カブト』『MidnightEye ゴクウ』『武 TAKERU』などの作品が発表されるが,コブラを上回るヒーローはいない。

 しかし,問題はある。
 作中の女性がみんなお尻丸出しで風邪をひくのではないかと心配,いやいやそこではない。寺沢武一は1980年代よりMacintoshを利用したマンガ制作に着手,デジタルマンガ制作スタイルを確立してオールカラーコンピュータグラフィックスコミックスを制作するにいたった。『武 TAKERU』はその最初の作品だが,これは彼の全作品の中でもっとも出来が悪い。
 コンピュータグラフィックスは図形を切ったり貼ったりゆがめたり伸ばしたり色を変えたり特殊効果を加えたりするのにはとても便利だが,マンガに必要なセンスの中には白いケント紙にフリーハンドで向かって初めて発揮されるものもある。慣れの問題もあったのだろうが,『武 TAKERU』は多くのコマでキャラクターの顔が真中に置かれ,似たような画像効果が繰り返され,全体がのっぺりした悪い意味でのMacデザインマンガになってしまった。
 そして,「コブラ」も最近はオールカラースタイルで発表されるようになってしまったのだ。レオナルドがモナリザを主人公にマンガを描いたからといって,別に傑作マンガができるわけではない。絢爛たるカラーエフェクトより大切なものが初期のモノクロコブラにはあったように思うのだが。
 ちなみに,それは,彼の主人公・コブラが大切にしたものと同じものだ。

 結局,今や当初単行本1冊300円代で購入できた程度のボリュームの作品が,Jump comics deluxeという名のもとに雑誌サイズの豪華版オールカラーで1,456円。しかも今のところ,新作より従来の単行本で発表済みの作品をオールカラーに書き換えたもののほうが多いのだ(書店店頭ではビニールパックされていて,内容を確認できない場合が多い)。
 オールカラー版はすでに9巻,今後いったい何冊お付き合いするハメになるのか。大好きな作品だっただけに,それはちょっといやだ。

2000/11/21

烏丸のそれはちょっといやだ その2 『諸怪志異』シリーズ 諸星大二郎 / 双葉社

Nimg2475【魑魅魍魎を遍く探ね回り】

 「アクションレボリューション」なる言葉をご存知だろうか。「行動革命」,直訳するとまことに物々しいが,なんということはない,双葉社の週刊誌「漫画アクション」のこの秋のイメチェンのことである。

 漫画アクションは1967年創刊の老舗青年誌で,『ルパン三世』『同棲時代』『子連れ狼』『嗚呼!!花の応援団』『がんばれ!!タブチくん!!』『じゃりン子チエ』『気分はもう戦争』など一斉を風靡したヒット作も少なくない。
 しかし,最近は部数的に低迷していたのか,9月5日号で「アクションは真のヤング誌になります」と誌面刷新をはたした。どう変わったかといえば,エロ路線に走ったのである。

 そのため,
  『ほっといてちょうだい』いしいひさいち
  『トトの世界』さそうあきら
  『キャラ者』江口寿史
  『鎌倉ものがたり』西岸良平
  『元祖Dr.タイフーン』かざま鋭ニ
  『CURA』六田登
  『ガダラの豚』阿萬和俊
などの連載マンガは休載をやむなくされ,目玉商品の
  『クレヨンしんちゃん』臼井義人
も他誌に移った。

 休載された作品で追いかけていたものはとくにないのだが,困ってしまうのが諸星大二郎の『諸怪志異』シリーズである。

 『諸怪志異』は中国・宋時代を舞台に,道士の五行先生とその弟子の燕見鬼(阿鬼)を中心として,さまざまな怪異を描いた作品群。
 『聊斎志異』(蒲松齢が収集した中国の妖怪談義)などに見られる中国の怪異譚というのは,日本のそれがはかなくセンシティブなのに比べ,土俗的,土着的というか,妖怪幽霊ともに色濃くずっしりと重みがある。諸星大二郎の黒々とした描線は(もちろん意図的だろうが)その重みによく合い,非常に魅力的だ。この絵柄を中国の読者が見たらどう見えるのかはそれはそれで興味深いが……。

 本シリーズは1巻めの「異界録」が1989年5月,2巻め「壺中天」が1991年2月,3巻め「鬼市」が1999年10月。非常にゆったりしたペースで漫画アクション誌上に発表され,単行本化されてきたわけだが,漫画アクションがエロ路線に走った今,掲載の先行きは不明だ。一部にエロティックなシーンがないわけではなかったが,エロを売り物にする雑誌のカラーとは違うように思う。

 このままお話がうやむやになってしまったら,それはちょっと(かなり)いやだ。

烏丸のそれはちょっといやだ その1 『ドロファイター』 村上もとか / マインドカルチャーセンター(MCCコミックス)

Nimg2464【泥の中から金を,生活を築いていくレースを……】

 村上もとかといえば,F1を舞台にした『赤いペガサス』,山男の苦闘を描いた『岳人列伝』,剣道を歌い上げた『六三四の剣』など,骨太なストーリー,力強いデッサン,細緻な描線で知られる小学館系の大家である。個々の作品の設定だけ見るとB級といえばB級なのだが,これだけ堂々と描かれてしまうと黙るしかない。要するに大デュマやバルザックをB級とは誰も言わない,その領域である。
 一時,バイクマンガ『風を抜け!』やボクシングマンガ『ヘヴィ』で少々タッチが衰え,『六三四の剣』で燃え尽きたかと心配されたものだが,なんのその,昭和史を描いた長編『龍-RON-』,タイの犯罪を描いた『水に犬』,検事を主人公にした『検事犬神』など,地味な題材を取材を重ねてじっくり描き,最近さらに凄みが増したような次第である。

 添付画像の『ドロファイター』は『赤いペガサス』の直後(1979年~),少年サンデーに連載された作品。主人公は身長6フィート9インチ(2メートル6センチ)の日系アメリカ人ノブ・トクガワとその妹サキ。賞金目当てにアメリカ各地を戦線する金も学もない無名レーサーが不屈のガッツとタフな肉体を武器にスプリントからドラッグレース,ストックカー,そしてインディとだんだん大きな舞台で活躍していく文字通りのアメリカン・ドリームを描いたものだ。
 ヨーロッパを舞台に精密機械のような天才F1ドライバーを描いた『赤いペガサス』がレッド・ツェッペリンなら,アメリカのパワーレースを描いた『ドロファイター』はグランド・ファンク・レイルロード,といった感じだったろうか(ジミー・ペイジが精密機械? というつっこみはこの際なし)。

 村上もとかという人は単行本の再版に無頓着なのか,この『ドロファイター』は1981年に単行本が完結して以来ずっと再版されず,古本市場でも割合高額だった。元気は出るがドタバタしたB級アクション,に,大枚はたくべきかどうか迷っているうちに買い逃す,そんなことが何度かあった。それが今回,マインドカルチャーセンターなる聞いたことのない出版社からめでたく再版され始めたわけである。喜びいさんで1冊めを買ったのはよいのだが……実は,1999年12月に第1巻が出て以来,1年近く音沙汰がない。すでに一度単行本となったマンガの再版に,それほど手間がかかるとは思えない。あまり間があくのは営業的に不利なはず。いったいどうなっているのか。

 このまま沙汰止みになってしまうのは……それはちょっといやだ。

2000/11/20

北村薫「日常の謎」について 追捕 『覆面作家の夢の家』 北村 薫 / 角川文庫

Nimg2451【天津風雲の通路ふきとぢよ】

 先の「北村薫『日常の謎』について」の考察ではあるが,あの一連の書評には実は意図的に触れていない大きな穴があった。それを埋めておきたい。

 大きな穴とは何か。自明である。
 誠実な読み手,書き手がハシカのように一度は虚構と現実の壁に悩むのなら,〈私〉と同じ大学,同じ学部に学んだ現実の作者・北村薫もまた,そのジレンマに悩んだはずだということである。

 すなわち,「円紫師匠と私」シリーズを覆う〈私〉のジレンマについてなど,あの長いスロープに通った北村薫はとうに気がついていたはずだ。
 だから,1作め『空飛ぶ馬』は〈私〉が「聡明な少女」でいられるぎりぎりの大学2年生で始まり,2作め『夜の蝉』では〈私〉がそこに永遠には安住できないことが示唆される。3作め『秋の花』で実際に「そんなにもろいもの」として作中に生き,死に,苦しむのは〈私〉でなく後輩の女子高生達であり,残された理恵をしっかりと抱きとめたのが誰だったかを見れば,作者にとっても〈私〉が重い手応えのない虚構の側にいることなど明らかだったのである。

 しかし,作者は「円紫師匠と私」シリーズを止めることができなかった。〈私〉という,おそらく作者にとって理想の乙女の姿をもうしばしこの世にとどめたいと思ったのか,それとも作者本人の芥川についての未完の卒論に未練があったのか,実際のところはわからない。ただ,4作めの素材として芥川の『六の宮の姫君』論が選ばれたのは,〈私〉を現実の世界に引き寄せるべきかどうか悩む作者の逡巡が感じられ,野次馬にすれば興味深い(いっそその逡巡をそのまま〈私〉に渡してしまえばよかったのだ。就職をあのように安直に決めさせたのはやはり甘すぎる)。
 しかし,円紫が〈私〉をどろどろした現実に引きずり込むという展開があり得ない以上,このシリーズはもうそっと蓋をしておくしかないのだろう。これを揺するには,たとえば円紫と〈私〉が不倫関係に陥るとか,〈私〉か円紫が殺人を犯すとか,そういった極端な手以外にないようにさえ思われる。

 だからこそ『覆面作家』シリーズは書かれたのだ,と考えたい。

 詳細を明かすのは興趣をそぐが,天国的美貌の持ち主で,大邸宅の内においては清楚なお嬢様,一歩外に出れば外弁慶アクションバリバリの新妻千秋こと覆面作家のフクちゃんは,〈私〉と同じ年齢でありながら,この手のシリーズ探偵コメディとしては珍しく少しずつ現実の世界に足を踏み出し,珍しくたった3巻(『覆面作家の夢の家』)できっぱりと幕をおろす。
 第1巻『覆面作家は二人いる』では子供の成長についての重い言葉が語られ,第2巻『覆面作家の愛の歌』の最後では〈私〉ならあり得ない,思いがけない展開が待っている。宮部みゆきや有栖川有栖が解説に「本格原理主義者」と連呼するほどには「謎」の面白くないこのシリーズ,やはり「謎解き」よりは「物語」として書かれる必然性があったと見るのが妥当だろう。

 〈私〉というストーリーの中でがんじがらめになった「陰」があって,そこから生まれた「光」。それが『覆面作家』なのではないか。フクちゃんの説明されない二重人格は,新妻千秋と〈私〉の交錯であると見るのも面白い。また,フクちゃんの強さ,明るさ,幸福は,本来〈私〉が得るはずだったものかもしれないとも思う。

 フクちゃん,そして〈私〉に祝福を。

400円文庫特別書下ろし作品をチェック! 『puzzle(パズル)』 恩田 陸 / 祥伝社文庫

Nimg2441【中編小説のよしあし】

 「光文社知恵の森文庫」「ハルキ・ホラー文庫」「学研M文庫」「新潮OH!文庫」「日経ビジネス人文庫」など,出版不況を反映してか,このところ文庫本の新規参入やお色直しが目につく。各社の台所を覗いたわけではないが,雑誌や新刊書籍が売れないので,廉価な文庫で勝負をかけざるを得ないといったところだろうか。
 本好きとしては望むところ……ではない。文庫の新刊ラッシュは書下ろし作品の比率が高まり,ハズレをつかまされる可能性が高まる。また,新刊ラッシュは絶版ラッシュと表裏一体で,魅力的な1冊と回り逢う機会を永遠に失うことにもなりかねない。もっとも,本との出会いは一期一会,そんなことを気にしていたら本など読んでいられないのだが。

 さて,今回注目したのは「祥伝社文庫15周年記念特別書下ろし 400円文庫」なる中編小説のラインナップ。全21冊を「鬼」「無人島」といったテーマ競作,「恋愛&心理サスペンス」「SF奇想&ホラー」「ミステリー&ハードボイルド」「歴史&時代小説」と分類して提供するあたりがなかなか中間小説に手馴れた同社らしい。
 まずは雑誌の書評(確か週刊文春)で好評だった『0番目の男』(山之口洋),『puzzle』(恩田陸)から読んでみることにした。
 前者はクローン人間をテーマにしたSFで,内容は……大昔の小松左京の短編を読み返したほうがいいかな。目的が読者を不安にすることなのか感動させることなのか文明について何か指摘することなのか,よくわからないのだ。とりあえず置いて,「無人島」をテーマにしたミステリ作品『puzzle』のほうをもう少し詳しく紹介することにしよう。作者の恩田陸は,最近NHKで少年ドラマシリーズテイストで話題になった『六番目の小夜子』の作者である。

 『puzzle』の舞台はコンクリートの堤防に囲まれた,今は廃墟マニアが訪れるばかりの無人島。名前は変えてあるが,長崎の端島(軍艦島)のことだろう。海底炭坑とともに発展したこの島には,昭和30年代の最盛期にはわずか7ヘクタールの土地にコンクリートによる高層建築が積み重ねられ,約5000人が生活していた(横山博人の映画『純』は電車内で痴漢を働く主人公の精神的荒廃を出身地のこの島に投影して見事だった)。
 その島で,学校の体育館で餓死した死体,高層アパートの屋上に墜落したとしか思えない全身打撲死体,映画館の座席に腰掛けていた感電死体が発見される。3人とも身元を示す持ち物はなく,遺品は「さまよえるオランダ人」「スタンリー・キューブリックの新作発表」「元号制定」「料理のレシピ」「地形図の作られ方」といった,脈絡のないコピーだけ。島を訪れた2人の検事が暴く真相とは……。

 一見バラバラな謎だが,ジグソーパズルのように最後には全体像が明らかになる。しかし……逆に言えば,ジグソーパズルと同じで,なぜこのようにバラバラにしなければならなかったかとなるとよくわからない。
 よくできたパズルだが,もう少しなんとかなったのではと思われ,それが惜しい。

 もう1点抑えておきたいのは,『puzzle』は縦35文字×横13行だということ。手元の文庫本何冊かを調べてみたところ,44文字×18行,40文字×17行,なかには43文字×20行というものもあった。『puzzle』を1ページあたり400字詰め原稿用紙に換算すると1.14枚。詰まった文庫本なら2.15枚だから,文字量は半分強ということになる。『puzzle』は150ページ程度だが,実際の読み応えはずっと薄いので,400円文庫を購入する場合はそのあたりも要注意だ。つまり,400円は決して安いわけではないのである。

2000/11/18

曲がるスプーンのイマイチ 『超心理学読本』 笠原敏雄 / 講談社+α文庫

Nimg2425【科学的事実とは何か】

 最近は連日数冊の本を並列に読んでいる。通勤の行き帰りには比較的新しい本,ここで書評を書くために読み返す本,夜,音楽を聴きながらゆったり読む本,そして寝室で寝転がって就眠儀式として読む本。
 寝室用の本の選択は少し難しい。面白すぎて眠れないのも困るし,難しくてあっという間に寝てしまうのも同じページを行ったり来たりして困る。それなりに興味深く,章立てが分かれたノンフィクション,小説なら短編集が望ましい。

 というわけで,最近寝室で読了したのが菊池聡『超常現象の心理学』である。オカルトや血液型性格判断を題材に,人がつい陥りがちな「思い込み」「錯覚」に注意を喚起してくれる,実にわかりやすくよい本であった。ナナメに受けたのが,各章の見出しや本文中に銀英伝,ウルトラセブン,ガンダムなどのSF,アニメ作品からの引用が散見されること。自称霊能者とテレビ対決した顛末を紹介する章のサブが
 「またつまらぬものを斬ってしまった」(十三代目 石川五右ヱ門)
だったのには,深夜,爆笑が止まらず困った。

 勢いで次に読み始めたのが表題の『超心理学読本』なのだが……驚いたことに,こちらは超心理学,つまり超能力(ESP)や死後生存を肯定する本であった。たま書房でなく講談社,しかも著者が大まじめだけにどっひゃーである。

 内容はESPの分類に始まり,念力(PK),死後生存などについて歴史的経緯を挙げ,実験を紹介し,科学的に証明せんとする。心理療法実践中に患者がPKを発揮した(録音テープにノイズが入った)と思われるケースや,清田益章のスプーン曲げなど,著者が直接検証を試みる項もある。

 しかし,著者がいくら一生懸命誤謬や不正行為を排除したつもりでも,説得力は弱い。そもそも,他者の悪意についての想像力があるように見えないのだ。たとえばタレントの松尾貴史(キッチュ)らは,アンチオカルトとして「手品」としてのスプーン曲げを実践している。しかし,本書に清田益章のスプーン曲げを疑う気配はない。実験に協力してくれるのだからちゃんとやってくれているのだろうし,自分達が見ているのだから大丈夫,程度の気構え。録音テープにノイズが入った場合も,その場に居合わせた自分やその患者が恣意的にそうする理由がないというだけで,トリックや悪戯の可能性が消去されてしまう。

 だから,1610年代の初めから1970年代半ばまでの360年ほどの間に報告されたポルターガイストの事例116例のうち,24例ではRSPKの焦点となる生者の中心人物の存在がつきとめられなかった……という情報から,死後生存があるという結論が導き出されたりする。「1610年には教会のキリスト像が血を流した。だから奇蹟はある」というのと変わらないことが,どうもわからないらしい。
 それなのに著者は,「超心理学の門外漢」による論文が「専門家である超心理学者」の審査を経ることなく科学雑誌に掲載されると憤る。認知されてない側によるお墨付きが必要という,この1点をもってすでに論理の外とみなしてよい。

 想像力に乏しい学者が赤恥をかくのは当人の勝手だ。しかし,思い込みと批評の甘さが,血液型性格判断のような人権侵害,あるいはオウム真理教のようなカルト事件に発展するのをどう圧し留めればよいのか。
 疑いを知らないことは,決して純朴で美しいこととイコールではない。私達は,つい最近も検証を怠った呑気な学者達による,旧石器発掘捏造という悲劇を知ったばかりではないか。

2000/11/17

理屈抜きイチオシ 『不肖・宮嶋の ネェちゃん撮らせんかい!』 宮嶋茂樹 / ザ・マサダ

Nimg2416【死ぬほどのキスを】

 思えば烏丸幼少のみぎり,世界にはまだハードボイルドなスーパーヒーローがあふれていた。ジェームス・ボンドしかり,ナポレオン・ソロしかり,マイク・ハマー,プロ・スパイしかり。彼らが後年のタフガイ達と大きく違うのは,たまたま事件に巻き込まれるのではなく,「危険」と「女」に自分から好き好んでダイブしていくことだった。
 子供心にも,あれは作り話,あんなヒーローはいないのだと思い諦めて幾星霜……ふと気がつけば,本物がいた。どちらかといえば007,0011より「それゆけスマート」に近かったが。それが不肖・宮嶋,宮嶋茂樹である。

 彼の行動原理は,ジャーナリストや雇われカメラマンとしての金や名誉欲では説明がつかない。ともかくキナ臭い騒ぎがあれば,きれいなネェちゃんがいれば,そっちめがけて頭から突っ込んでいってしまう。

 そうでなくて,いったい誰がカンボジアのPKOに同行するだろう。取材などという甘っちゃんちゃこりんなシロモノではない。文字通り体を張っての同行である。江川紹子女史と石垣島にシロクロはっきりする前のオウムを追い追われ,湾岸戦争の折りには自衛隊の機雷除去に同行し,和歌山に赴いては林真須美に水かけられる。シブい。
 桜散る小菅は東京拘置所に麻原彰晃をスクープし,ハマコーの刺青を撮っては追いかけられ,極寒の南極でドラム缶にウンコをさらす。ごっついもんである。
 ノルマンディー上陸作戦50周年記念式典でドイツ軍の制服を着て日章旗を振り,金日成の像の前では同じポーズをとって撮影される。シャレんならん。

 彼の言動は過分に右翼的であり,理性的というには問題発言多く,思想は関西弁とギャグに埋没する。しかし,ここには世界に体当たりする行動がある。おきれいな本社ビルと首相官邸との間を黒塗りのハイヤーで行ったり来たりで片付く大手新聞の記者仕事とはわけが違うのだ。

 本書は副題を「『ボスニア原色美女図鑑』撮影記」という。紛争中のボスニアに赴き,ラダ・ニーバに乗り,イグマン山の峠を越え,戦争で親兄弟や恋人を失った女に化粧品を渡し,爆撃跡に立たせてカメラを向け,真冬の湖で水着撮影までしてしまうという,作者自らが「あんまりにもアブナイ」「こりゃ,アカンわ」と封印していた原稿が日の目を見たものである。
 発行は今年6月で,この取材潜入はクレスト新社から発行されている『空爆されたらサヨウナラ』(1999年7月発行)よりも先である。週刊文春のグラビアに届いたクレームを知って出版の引き受け手がなかったのだろうか。

 掲載されたボスニアネェちゃんどもの写真はどれもこれも知的な色気に満ちて後ろめたいほどけっこうなものだし(モノクロなのが泣きだ。豪華天然色写真集が出るなら片手までは出す),文章は毎度の不肖・宮嶋ノリだし,文庫になる保証はない。

 とりあえず,戦うことの意味を知りたい男は本書を手にせよ。そしてまずまえがきの
「私をハイエナだと嘲笑う人たちこそ,羊の群れにだけよく吠える無関心で無責任な飼い犬ではないのか」
に吠え返してみよ。
「この宮嶋や戦争一本で食っているカメラマンを失業させてみい!」
に応えてみよ。……いかん,ちょっと櫻井よしこさん入ってしまった。

 『六の宮の姫君』の書評と似たような結論になってしまうが,世界はおっとり眺めてどうなるものではない。叩き割って首つっこんでゲロ吐いてそれでやっとなんぼかのもんである。

 フォトグラファー宮嶋氏のご武運を祈る。

2000/11/16

ハートウォームなマンガのイチオシ 『ハムスターの研究レポート(5)』 大雪師走 / 偕成社ファンタジーコミックス

Nimg2397【チビっち母になる】

 北村薫について短時間で書き上げたため,頭の中ではまだあちこちプスプス,ヂヂヂとショートした回路が煙を上げている。書き足りないこともいくつかあるのだが,ここはいったんクールダウンに励もう。

 さて,実のところ,烏丸は人間が苦手だ。手間がかかるし,壊れやすい。とくにここしばらくは身近でインフルエンザのように癌が流行り,こんなことなら親兄弟なんて縁日で飼うのではなかったと……なんか,違うな。

 冗談はさておき,動物は大好きだが,実際に飼うのは苦手だ。無視されると寂しいし,好かれるのもまた困る。すがるような目ですり寄られるともうどうしてよいのかわからない。ましてや死なれでもしたら。
 だから,若気のいたりでうっかりもらってしまったのを除いて,極力新しい動物は飼わないように心がけている。

 ……しかしハムスターは,飼ってみたいかな。

 と烏丸を動揺させるのが,大雪師走の『ハムスターの研究レポート』だ。
 内容は4コママンガで,爆笑するようなギャグではないし,克明な記録というふうでもない。ハムスターを散歩に出したらタンスと壁のすきまにはまり込んでしまった,とか,お見合いさせたらメスがオスをいじめるとか,そういった小さなエピソードが丁寧に描かれるだけだ。
 飼い主(作者)は後ろ姿や首から下しか描かれない。あくまで主人公はハムスターなのだ。しかし,だからといって動物マンガによくある擬人化,記号化はほとんどなされない。ハムスターが何かに焦ったときに飛ぶ汗が少々描き込まれる程度で,全体としては飼育日記をちょきちょき切り取って並べたような印象だ。
 しかしそれが,もうなんともいえずかわいい。ハムスターの腰のあたりの力感や,頬袋にエサを溜め込む動作が見えるような気がする。とことん無表情なハムスターの絵柄がこれだけ生き生きと見えるのは,作者のハムスターに対する,過剰ではないが確かな愛情のなせるわざだろうか。

 ここ数年,ペット業界ではハムスターがブームらしく,書店の一角を関連本が占めている。ハムスター専門のマンガ誌さえあるようだ。『ハム研』はそのブームのきっかけと言われており(確認できたわけではないが,発行年月日などを調べた限りではそうなのだろう),確かにこれ読めばハマるよねという力を感じる作品である。また,類似品,便乗本のたぐいはさほど面白くないのだから,『ハム研』は相当特殊な領域にあるのだろう。

 もっとも,烏丸は,今のところハムスターとモルモット,ハツカネズミ,あるいは(二階堂が苦手な)スナネズミの区別もつかない。また,それでいいと思っている。近所のホームショップ屋外のペットコーナーは鬼門とみなし,イモリやカメの水槽を除いては近寄らないようにしている。だって,ハムスターの本物を見てしまったら即手を出してしまいそうじゃないですか。くわばらくわばら桑原茂一。

2000/11/15

北村薫「日常の謎」について 最終回 『夜の蝉』 そして再び『六の宮の姫君』 北村 薫 / 東京創元社(創元推理文庫)

Nimg2380【NIGHT CICADA 1990,A GATEWAY TO LIFE 1992】

 北村薫は,最初の短編「織部の霊」でいきなり〈私〉に「昭和四年版新潮社の世界文学全集。フランソワ・コッペの『獅子の爪』」を読ませて読者の度肝を抜く。
 北村暁子の「解説」から表記を借りれば,3作め『秋の花』で〈私〉が手にした本は「『フロベールの鸚鵡』(ジュリアン・バーンズ),『ボヴァリー夫人』『感情教育』『聖ジュリヤン伝』『ブヴァールとペキュシェ』(フロベール),『奉教人の死』『或阿呆の一生』(芥川龍之介),『ドン・キホーテ』(セルバンテス),『アンチゴーヌ』『ひばり』(アヌイ),『鳴海仙吉』(伊藤整),『八犬伝の世界』(高田衛)──そして《私》にまだ読まれていない『野菊の墓』(伊藤左千夫)」
 4作めの『六の宮K』では,菊池寛の長編小説『真珠夫人』を読んだという〈私〉に,文芸出版社の編集者が「今時,千人に聞いても読んでないわよ。あなたって面白い子ね」と評価する。

 しかし,それだけの本を手にしながら,3年めの〈私〉は3年前の〈私〉と大切な部分で何も変わらない。変われない。

 『六の宮K』には,〈私〉がバイト先でたまたまベルリオーズの『レクイエム』のチケットをもらい,それを聞きに赤坂のホールに向かうという話がある。全体の中でどの話題とも関連のないエピソードであり,作者北村薫が今後のための伏線として置いたものと考えられる。
 そのエピソード内で,〈私〉は,ホールへの道すがら「玩具のお城めいた屋根の建物」に入ろうと誘う男と女のやり取りに「どきどきした。バッグのバンドをきつく握り,足早に通り過ぎ」る。
 同じ本の第一章の三で「何事かを追求するのは,人である証に違いない」と言い切った,その同じ〈私〉の「性」「愛」に対する答えが,ただ逃げるように通り過ぎることなのか。
 セックスにもマスターベーションにも目をつむる一方で先に挙げたような本を読みふけり,大学2年の春には近世文学概論の教授と「辰巳芸者とは深川の芸者」と隠微なやり取りをしてみせた“聡明な”〈私〉。

 片や,山岸凉子「朱雀門」の春秋子は「他人を許す 他人を引き受ける それができなくて何が愛よね」「お見合いなんて何度やっても同じよ」と,遅ればせながら『六の宮A』の言葉を自らに取り込み,「あきらめません 今度はいい人を自分で探すわ」と世界への参加を高らかに宣言する。さらに姪の千夏はそんな春秋子を受け「傷つくのをさけて生きてなんになるのでしょう」と勇気をもって電話を手にする。

 〈私〉の姉も,アクティブな友人たちも,自分の手はずは自分自身できちんと整える。2作めの『夜の蝉』ではずいぶんと露骨に〈私〉をいざなう事件も起こった。だからこそ『夜の蝉』1巻はおそらく本シリーズ中最もスリリングで魅力的だったのだ。
 しかし……。

 3作め『秋の花』,そして4作め『六の宮K』にいたって,〈私〉はこう述懐するにいたる。(円紫が謎を解いてしまうのを)「それを見ることが重なるうちに,私は,自分のぶつかる謎の殆どは解決がつくような気になっていたのだ」
 そんなことはない。人生には,解決のつかない謎のほうが多いし,ましてや他人の手で解決のつく謎などなにほどのこともない

 円紫は,相手を──あるいは対応を間違えた。
 結局のところ北村薫の「日常の謎」とは,〈私〉が勇気をもつ機会を奪い続ける,青臭い円紫の愚話にすぎないのである。

北村薫「日常の謎」について その4 『秋の花』 北村 薫 / 東京創元社(創元推理文庫)

Nimg2379【AUTUMN FLOWER 1991】

 〈私〉は,人生の闇を,闇として体験すべきだった。

 理路整然とした言葉で語られる世界ではなく,肉体的な痛みや不快感,不透明感の積み重ねとしての世界。闇は闇のまま身体の中に取り込むか,もし明らかにするなら他者の言葉によってでなく,自らの経験,聡明さ,あるいは汚れた泥にまみれることで解明しなければならなかった。

 繰り返される機会を,〈私〉はことごとく円紫の言葉の橇(そり)に乗って通過してしまう。
 あらゆる経験は〈私〉の前で本の中の言葉と同じ重みしか持たない。円紫と〈私〉は,ミステリ作品の中ではなかなかよき「コンビ」だが,実生活のコンビではない。恋人であれ夫婦であれ,実生活のコンビなら,まだよかった。言葉だけで通過できないことは実生活にはいくらでもあり,現実の恋人や夫は〈私〉を言葉の皮膜では覆いきれず,それどころかその存在そのものが〈私〉に重くのしかかるだろう。

 しかし,円紫は偶発的にしか現れず,そのくせその都度つるりとした論理と言葉で〈私〉をリアルな穢れから護る。

 そして,円紫とは関係のない,就職という数少ない人生のビッグイベントさえ,〈私〉は教授推薦の出版社アルバイトからなし崩しに入社,という具合に,自ら悩み,挑戦し,選ぶことなくすり抜けてしまう。通過儀礼たり得ない。

 そろそろおわかりだろう。
 「琴を引いたり歌を詠んだり,単調な遊びを繰返す」ばかりの六の宮の姫君,「極楽も地獄も知らぬ,腑甲斐ない女」とはまさしく〈私〉のことではないか。

 ネタバレになるため詳しくは書けないが,古今のミステリのシリーズ探偵には,自らが殺人を犯すことでシリーズを閉ざす者も少なくない。
 その状況,理由はさまざまだが,彼らの優れた頭脳と,誰のために推理するか,というテーマを作者が編み上げていくうちに,ある瞬間,探偵(作者)の中でリアルな行為が裏返るのではないか。確かな手応えの世界に復帰するためには殺人という大罪を犯す以外なくなるのではないか。

 3作めの『秋の花』で,〈私〉はそれまでの短編集2作以上に重い現実に遭遇する。
 幼い頃から大の仲良しだった理恵と真理子。しかし,文化祭を間近に控えたある夜,真理子は高校の屋上から墜落死してしまう。事件は事故として処理されるが,残された理恵は憔悴の度を加えていく。2人の先輩にあたる〈私〉は事件の真相を求めるものの……。

 事件の全貌が明らかになった終盤,〈私〉がもらす「私達って,そんなにもろいんでしょうか」という問いかけはまことに秀逸だ(角川が映画にしたなら,このコピーは1日中テレビで流されるだろう)。
 しかし,〈私〉は,そんなことを円紫に聞いてはいけなかった。円紫もまた,それに言葉で応えてはいけなかった。それは六の宮の姫君が往生するためには自身で阿弥陀仏の名を唱えなければならなかったように,自らに対し常に問いかけ,何年かかろうが自らの力で答えるべき問題だったのだ。
 だから,これほどの事件を得ながら〈私〉は結局,円紫の言葉を通してしか事件,そして世界を把握できない。そんな〈私〉に,世界の誰かが救えるだろうか。誰も救えはしない。

 だから,3作めの〈私〉はまことに貧相で,彼女の持つ知識との落差が不快をさそうのだ。

(つづく)

北村薫「日常の謎」について その3 『空飛ぶ馬』 北村 薫 / 東京創元社(創元推理文庫)

Nimg2378【FLYING HORSE 1989】
 
 「円紫師匠と私」シリーズの1作め,つまり『空飛ぶ馬』の最初の短編「織部の霊」では,掲示板の休講の告知に「こんちくしょうゆ」とつぶやく〈私〉は読書好きな文学部の大学2年生だった。
 その後,彼女は噺家の春桜亭円紫と知り合い,日常のちょっとした事件の中にさまざまな人生の秘密がひそむことを教えられる。

 従来のミステリの枠組みにならうなら,円紫がホームズ,〈私〉がワトスン役と言っていいだろう。
 しかし,この配役には大きな問題がある。〈私〉は大学の教授や円紫には及ばないものの,古今の文芸作品について相当の読書家であり,古典芸能に通じ,極めて聡明な女性である。
 人がよいばかりで機微にうとい,逆に壮年で自分の食い扶持は稼げるワトスンやヘイスティングスと同列に語ることはできない。

 そして,もし〈私〉が本当に聡明な読書家であったなら……優秀な文学部学生ならではのジレンマがあったはずだ。
 〈私〉は,穏やかな家庭,アクティブな友人,よき教師,明哲な知人に恵まれ,その一方で恋愛を,男女の営みを,本の中の知識としてしか知らない。

 たとえば,芥川のちょっとした表現のよどみに,同時代の作家の作品の数々,遺された手紙や弔辞まで掘り起こそうというほどの読み手が,小説中の男女の営みのありようについてのみ「こう書いてあるのだからそうなのだろう」ですませられるものだろうか。

 文学部や文芸サークルに多少なり出入りしていればわかることだが,誠実な読み手,書き手であればこそ,一度は悩む壁がある。
 一般的に,優秀な女子大生の小説の読み方,書き方には,モズがトカゲやカエルをハヤニエにするようなところがある。刺は鋭いが,人生にはかかわらない。リアルな手応えのない空間では,小説の言葉など小手先の慰みに過ぎない。そして聡明な読み手であればあるほどその構造に気がつき,虚構と現実の壁はなかなか抜けられないジレンマとなる。極端な場合,ある種の作品を十全に読み,あるいは書くために無理やり肉体関係を含む擬似恋愛に陥り,それが擬似恋愛であることにますます自家撞着が深まる,そんな例すらないわけではない。
 もちろんこれは大学生に限ったことではない。ある広さ,深さ以上に小説世界に親しむ者の,ハシカのような,しかし逃れられない病なのである。

 繰り返すが,〈私〉は最初の短編ではまだ大学2年生だった。
 彼女が,人生の闇に出会うチャンスは目の前に広がっていた。たとえばこすもぽたりん氏が「喫茶店の片隅のテーブルに陣取った3人の少女らは、順繰りに紅茶に砂糖を入れては味を確かめるかのようにそれを啜る。それが終わると、また一巡。それが7巡目、8巡目と続いていく。彼女達は一体何が楽しくて紅茶に砂糖を入れつづけるのか」と紹介した「砂糖合戦」だってそう,彼女が剥き身で他者の悪意と向き合うきっかけはいくらでもあったのだ。

 それをことごとく邪魔したのが,円紫である。

(つづく)

北村薫「日常の謎」について その2 『六の宮の姫君』 北村 薫 / 東京創元社(創元推理文庫)

Nimg2374【ATTENTION!】

 先に,本書を未読の方に注意しておきたい。
 創元推理文庫版『六の宮の姫君』(『六の宮K』)には佐藤夕子による14ページにも及ぶ長い「解説」が付いているが,その終盤にはこの書 誌学的なミステリの結論,普通のミステリで言うところの「犯人」が明記されている。なぜそんなことをしてしまったのか,容認した担当編集者を含め,理解に苦しむ。
 とりあえず本書については,内容を読了しないうちは解説のページを開かないことをお奨めしたい。

【朝霧の前に】

 さて,本書『六の宮K』は,先にも書いた通り,『今昔物語』巻十九第五を原典とする芥川龍之介の短編『六の宮の姫君』(『六の宮A』),それがいかなる意図のもとに書かれたかを女子大生の〈私〉がさまざまな書物をひもといて探る,そういう内容である。
 具体的には,芥川を文学部の卒論のテーマに選んだ〈私〉が,たまたまアルバイト先の出版社で文壇の長老に話を伺う機会を得,その長老が昭和の初めに芥川と直接会った折りに『六の宮A』について「あれは玉突きだね。……いや,というよりはキャッチボールだ」と言われたという,その意味するところを探るわけである。

 ところで,作者の北村薫は,佐藤夕子の解説によればW大学第一文学部に在学したとのことである。したがって,作品中の〈私〉が在籍する大学とはW大学であり(第1短編「織部の霊」に「文学部の長いスロープ」とあることなどからも推察される),本作冒頭で〈私〉が友人と一緒に行き付けの店で食事をともにする寺尾が「政経の四年,政治の方」というのは同じくW大学の政治経済学部の政治学科のことであろう。

 ……などと書くと,北村薫ファンの多くは「何を馬鹿な」とお怒りになるのではないかと思う。
「作者北村薫は〈私〉の在籍する大学名はおろか,氏名すら明らかにしていない。作者の学歴からそれを押しはめるのは,作品世界について正しい読み方ではない」
 全く,その通りである。

 だが,〈私〉が『六の宮A』に対してしてみせるのは,まさしくそういう行為だ。
 ミステリ作品としてのネタバレになってしまうため詳しくは控えるが,〈私〉が芥川や同期の作家たちの他の作品,手紙,それらの書かれた年月日を調べ上げて小説の意味を探るのは……文学作品の「研究」としては理解できるが,はたして小説として正しい読み方なのだろうか。
 「玉突き,というよりキャッチボール」という,作家がプライベートにもらした言葉があるのとないのとで意味が違ってくるような,あるいは作家当人の手紙や同時代の他の作家の作品まで目を通さねば意図が理解できないような,そんな小説を,1篇の,自立した文学作品と言えるのだろうか。

 繰り返しお断りするが,学問としての,文学作品の書誌学的な研究そのものを否定しようというのではない。〈私〉の小説の読み方がそういう具合だ,ということを,先に明確にしておきたいのである。

(つづく)

2000/11/14

北村薫「日常の謎」について その1 『笛吹き童子』より「朱雀門」 山岸凉子 / 秋田書店(プリンセスコミックス)

Nimg2353【極楽も地獄も知らぬ,腑甲斐ない女の魂】

 ミステリ作家・北村薫には,「日常の謎」というミステリの新ジャンルを確立した「円紫師匠と私」と呼ばれる作品群がある。
 これから数回に分けて,『今昔物語』巻十九第五を原典として換骨奪胎した芥川龍之介の短編『六の宮の姫君』(以下『六の宮A』と表記),これがいかなる意図のもとに書かれたかを女子大生の〈私〉がさまざまな書物をひもといて探っていく……という内容の北村薫のミステリ作品『六の宮の姫君』(以下『六の宮K』)について考えてみたい。
 端的に言えば,「円紫師匠と私」シリーズ1作め『空飛ぶ馬』,2作め『夜の蝉』ではあれほど好もしく思われた〈私〉が,3作め『秋の花』以降であれほど嫌な感じがするのはなぜか,という問題である。

 ……と,前ふりしておきながら,本日の書き込みのタイトルや添付画像は山岸凉子の単行本である。「はて?」と思われた方も少なくないだろう。
 実は,山岸凉子の「朱雀門」なる短編は,まさしく『六の宮A』に題材を借り,現在に生きる女性の生き方を語ったものなのだ。

 先に,『六の宮A』について,簡単に粗筋を紹介しておこう。

 六の宮の姫君の父は古い宮腹の生まれだったが,時勢にも遅れがちな昔気質の人だった。寵愛してくれた父母があいついで亡くなり,姫は途方にくれたが,乳母以外に頼りにできる人もいなかった。姫は朝夕を琴を弾いたり歌を詠んだりして憂さを晴らすばかり,乳母の努力にもかかわらず暮らし向きはどんどん苦しくなっていく。やがて姫はいやいやながらある男の世話になることになった。会ってみれば男はよい男ではあったが,そのうちに父親について任地に赴くことになった。九年経って男が京に戻ってみると,六の宮の家は荒れはて,姫は朱雀門で痩せ枯れた姿で発見される。病で死にかけた姫に,近くにいた乞食坊主が阿弥陀仏の名を唱えろと勧めるのだけれど,姫は念仏を続けることができず,「あれ,あそこに火の燃える車が」「何も,――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり,――冷たい風ばかり吹いて参りまする」と言って死んでいく。何日かのち,ある侍が大路を歩いていると女の嘆きが聞こえる。そこには例の法師がいて,「あれは極楽も地獄も知らぬ,腑甲斐ない女の魂でござる」と言う。

 山岸は,芥川の作品を忠実に描写しつつ,現在に生きる,イラストレーターとして自由に生きているように見える32歳の聡明な春秋子(すずこ)に姫君の生きざまをオーバーラップさせる。芥川の作品を「怖い話」とみなす彼女は,その意味を「ただ襲ってくる運命を甘んじて受け,自分の『生』を満足に生きていない女には『死』をも死ねない」と読む。
 見合いを繰り返しても成就しない春秋子は自らのヌクヌクとした生きざまに思い至り,姪の千夏(ちか)に,傷つくことを恐れず,前向きに生きることを説く。最後のページは,千夏が憧れの先輩に思い切って電話を掛けるシーンで終わり,山岸作品としては穏やかで前向きな結末となっている。

 ちなみに「朱雀門」の初出は「別冊プリンセス」1991年2月25日号。北村薫が創元クライム・クラブで『六の宮K』を発表するおよそ1年前である。

(つづく)

ちょっと情けないCD 第5皿 「ザ・一発屋 われらが青春の日々」 東芝EMI

Nimg2319【君はいつも心にネバー男のフィーリング悲しく】

 堂々たる過去の洋楽ヒットメーカーを「一発屋」扱いして並べたもので,大胆といえば大胆,非道いといえば非道い,東芝EMIの企画CDである。

 収録曲は,

  1 マイ・シャローナ/ザ・ナック
  2 君はTOO SHY/カジャグーグー
  3 ネバーエンディング・ストーリーのテーマ/リマール
  4 ハート悲しく/マーティ・バリン
  5 エボニー・アイズ/ボブ・ウェルチ
  6 アメリカン・パイ/ドン・マクリーン
  7 ヤング・ラヴ/ソニー・ジェイムズ
  8 悲しき少年兵/ジョニー・ディアフィールド
  9 ジョージー・ガール/シーカーズ
  10 いつも心に太陽を/ルル
  11 ノー・ノー・ノー/ヒューマン・ベインズ
  12 ビリージョーの唄/ボビー・ジェントリー
  13 孤独の影/ジョー・サウス
  14 男の世界/ジェリー・ウォーレス
  15 雨のフィーリング/フォーチュンズ
  16 ワイルドフラワー/スカイラーク
  17 ザッツ・ザ・ウェイ/K.C.&サンシャイン・バンド
  18 愛のディスコティック/タバレス
  19 今夜はブギ・ウギ・ウギ/テイスト・オブ・ハニー
  20 ダンシング・アメリカン/シェリル・ラッド

の20曲。
 もっと対象を絞りたくとも,版権の問題があったのだろう,時代もジャンルもはっきり言って無茶苦茶である。一番古い7は57年,新しいほうでは3が84年。パンク,ファンク期の1,2から始まってモノラル録音のナツメロが続き,最後の数曲は70年代後半を彩るディスコサウンド。市販CDとは思えないバタついた選曲だ。また,長期にわたって活躍した一流ミュージシャンも含まれ,そもそも2のカジャグーグーの当時のヴォーカルは3のリマールだったのだから,すでに「一発屋」という表記は破綻している。

 それでも,確かにザ・ナックやドン・マクリーンは永遠の一発屋(?)といった印象だし,他者の趣味を知るのはそれなりに楽しい。興味のない曲,どうでもいい曲は飛ばしてMDなどに自分なりのベストヒットアルバムを作る手もある。というわけでこのCDはそれなりにヒットし,類似品もいくつか後を追った。

 烏丸的にはこの中では1,6,9,15あたりがキモだろうか。この時代中心に自分で選曲するならこのほか

  ミスター・マンデー/ザ・オリジナル・キャスト
  霧の中の二人/マッシュ・マッカーン
  夜明けのヒッチハイク/バニティ・フェア
  魔法/ルー・クリスティー
  シーズン/アース&ファイアー
  ウィズアウト・ユー/ニルソン
  アローン・アゲイン/ギルバート・オサリバン
  名前のない馬/アメリカ

あたりもぜひともそろえたい。また,一発屋でこそないが,同じ雰囲気をただよわせるものとしてジェームス・テイラー「ファイアー・アンド・レイン」,ショッキング・ブルー「ヴィーナス」「悲しき鉄道員」,キャロル・キング「イッツ・トゥ・レイト」あたりもぜひともおさえておきたいところだ。
 念のためにお断りしておくが,その場合,あくまでポップスのシングルヒットでなければならず,したがってヘビメタやプログレは含まれない。また,ビートルズ,カーペンターズ,エルトン・ジョン,クイーンなど,長年にわたってヒットを量産した大物は外すべきだろう。

 また,邦楽でこういう「一発屋」アルバムを組むとどうなるか。

  異邦人/久保田早紀
  大都会/クリスタルキング
  あなた/小坂明子
  夢想花/円広志

このへんは外せないように思うのだが……。

2000/11/13

ちょっと情けない(実は絶賛)CD 第4皿 「内容の無い音楽会」 生福 / CBS Sony

Nimg2305【宇宙にゃあ 空気もねぇが なァに 度胸ひとつでなんとかなるさ】

 「生福」というお饅頭テイストなユニット名は「SHOW-FOOK」と読み,アレンジャー兼シンセミュージシャンの生方則孝と福田裕彦,それぞれの名前の最初の1文字を足したものである。
 お饅頭の「生」のほう,生方則孝は,ライナーノーツによれば「我が国の音楽屋にはよくありがちな,美術大学中退の8割がた禁治産者」であり,「福」の福田裕彦も,「大変よくありがちな,早稲田大学出身のオポンチ野郎」と紹介されている。CDジャケットの中でこれだけ「バガヤロ様」扱いされたユニットが過去あっただろうか。

 しかし。情けないのはここまでで,本CDは,シンセミュージシャン,J-POPファン,音楽の先生,特撮オタク,その他もろもろ良い子の皆様にぜひとも聞いていただきたい,極上のパロディ怪作なのである。

 もちろん,ギャグ,パロディ作品として知られる邦楽も過去,なかったわけではない。
 「X∞増殖」はイエローマジックオーケストラ(細野晴臣,坂本龍一,高橋幸宏)とスネークマンショー(桑原茂一,小林克也,伊武雅刀)とのコラボレーションアルバムで,YMOの曲の合間にスネークマンショーによるギャグが挿入された構成で話題をさらった。しかし,「X∞増殖」にしてもその後のスネークマンショー名義のヒットアルバムにしても,楽曲そのものは(「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」などを除けば)YMOやシーナ・アンド・ロケッツ,加藤和彦らのオーソドックスなポップスだった。

 ところが,この「内容の無い音楽会」は,テレ朝「題名のない音楽会」等をパクったコントもさりながら,収録されるすべての曲が,既存のさまざまな歌謡曲,フォーク,ロック,ポップス等のパロディとなっているのである。

 たとえば,1曲めの「軍艦行進曲」はまったくとある著名バンドのフュージョンっぽいし,「うっちゃれYOUR LIFE」は文字通りヘビーメタルなスモーソングである。叙事詩的SF作品「FLY AWAY SPACE SHUTTLE」は……音質的にも内容的にも,ここでネタ明かしをしてしまうのは惜しいほどの大傑作であり,アイドル系ユーロビートポップ「酸素でルルル」は,後に架空アイドル・芳賀ゆいの歌う「星空のパスポート」として再リリースされているが(本当。作詞は奥田民生),アイドルポップのパロディとしてのインパクトは「酸素でルルル」のほうが格段に凄い。なにしろサビが「酸素ってルルルル 水素ってシュルルル 塩素ってグモモモ いつかきっとひとつになれる」なのだ。
 さらに,特撮映画のパロディドラマ「うまかろう君」は「ゴジラ」「モスラ」から「ブレードランナー」まで美味しいところ取りで,特撮ファン必聴である。

 「父」と題されたおやじを哄う寒いギャグに続く「47才の地図」は,言うまでもなく尾崎豊のパロディだが,「20歳の頃は ゲバルトもした 機動隊に負けた訳じゃない 夜明けは近いそんな時代に抱かれ 資本論を枕にお前を抱いた」「この国の繁栄は俺達が作った ワキ目振らず働いて だけど何が残った」と歌われる中年サラリーマンの悲哀は,しばしこれがパロディであることを忘れさせ,涙をさそう。

 そして,最後の「戦場の盆踊り」。お盆を迎え,南の島の戦闘音を背景にやけくそになって盆踊りに興じる兵士たち。その楽曲のパクり元がよく聞けば世界のアカデミー賞受賞某教授のアレだと気がついたときの,背筋が冷え冷えするような可笑しさ。

 清水義範などこれに比べればパロディと口にするも虚しい。ぜひ中古CD屋などで探してほしい,烏丸絶賛,イチオシの1皿である。

2000/11/12

ちょっと情けないCD 第3皿 「アウト・オブ・ザ・ミスト+イリュージョン」 イリュージョン / MSI/TOKYO

Nimg2296【成功をついに手にすることが出来なかったレルフの無常感が横たわって】

 元ヤードバーズのジム・マッカーシーとキース・レルフ,そしてキースの妹ジェーン・レルフらによって結成されたイリュージョンのファーストアルバム「アウト・オブ・ザ・ミスト」(1977年)とセカンドアルバム「イリュージョン」(1978年)の2イン1によるCD化。

 ヤードバーズというのはブリティッシュロック名門中の名門で,なにしろエリック・クラプトン,ジェフ・ベック,ジミー・ペイジという3大人格破綻者,じゃなくて3大ギタリストを輩出したことで知られる。そのくせ,どんな曲をどんなふうに演っていたのか,ほかのメンバーはその後どうしたのか,ということは案外知られていない。その理由の1つに音源管理の杜撰さがあり,最近になってようやく過去の作品がCD化され,再評価が進められているようだ。

 ここでご紹介するイリュージョンも,ヤードバーズ再評価の一連の動きと……実はぜんぜん関係ない。
 「キース・レルフ,ジム・マッカーシーという63年のヤードバーズ結成当初からのメンバーが深くかかわっているにもかかわらず,イリュージョンの音楽はヤードバーズのそれとはおよそ掛け離れており,叙情的なメロディをクラシカルなアレンジで包み込んだ,いわゆるプログレッシブ・ロックの範疇に位置づけられるものである」と小山哲人によるライナーノーツにも書いてある。
 つまりイリュージョンとは,1970年代後半,パンクやニューウェイブ,テクノが世界中でもてはやされた時期に,時代遅れのプログレを演ってさっぱり売れなかった,そんなバンドの1つである。それゆえ,メンバーの1人ジム・マッカーシーによる解説も含めたライナーノーツには随所に「情けなさ」「わびしさ」が漂い,その意味で稀有なCDであるともいえる。

 たとえばこんな具合だ。「ヤードバーズ解散のすぐ後,68年7月にレルフとマッカーシーはフォーク・デュオ,トゥゲザーを結成した。ヤードバーズ時代にはベースのクリス・ドレヤとともに,ベックやペイジと比較されて演奏技術の不足ばかり槍玉に上げられていた二人である。」
 彼らはやがてレルフの妹ジェーンらを加えてルネッサンス(オリジナル)というバンドを結成するが,ソフトで内省的,要するに地味なサウンドは当時のティーンエイジャーに受け入れられず,彼らは2枚のアルバムを残してルネッサンスを去り,新しくイリュージョンを結成する。
 ところが皮肉なことにそのころから一方でソフトでクラシカルなサウンドに人気が集まるようになり,アニー・ハズラム(ヴォーカル)らが加わってデビューし直された新ルネッサンス(3枚めのアルバム以降)はアメリカで人気を博すようになる。

 イリュージョンが結成されて以降のことはマッカーシーの解説に詳しいが,ルネッサンス(オリジナル)の印税がまだもらえていたんだから,自分たちのサウンドがまだウケるに違いないと思ったという一節や,レルフが感電死してしまったおかげで自分が自由にヴォーカルをとれるようになったという独白,セカンドアルバムの「マドンナ・ブルー」は名曲なのにアメリカではなぜか発売されずがっかりしたともらすくだりなど,しみじみと貧乏臭が漂って味わい深い。解説の日付が「1944年2月」と誤植なのも物悲しい。

 そんな情けないCDではあるが,それなのにというか,だからこそというか,ジェーン・レルフが昨日の面影を追う彫刻家を歌う「フェイス・オブ・イエスタディ」は比類なき美しさで,この1曲のためにこのCDを買い求めて悔いがないほどだ。

2000/11/11

ちょっと(これはかなり)情けないCD 第2皿 「飛行夢」 Zabadak / 販売元:ワーナー・パイオニア

55【空飛ぶ嫁】

 「飛行夢」と書いて「そら とぶ ゆめ(sora tobu yume)」と読みます。CDのジャケットのあちこちに,ひらがな,ローマ字でそう書いてあります。
 ただ1か所を除いて……。

 気の毒なので,ミュージシャン,アルバムについては,さらりと。
 Zabadakは吉良知彦,上野洋子,松田克志の3人でスタートしたユニット。のちにドラムの松田が抜け,ずっと後にはヴォーカル,アコーディオンの上野も抜けました。
 「飛行夢」は3枚めのフルアルバム。楽器はアコースティック,曲調はプログレ,上野のヴォーカルは高く金属質,と独特なタッチで話題となりました。

 なお,初期の「水のソルティレージュ」という曲は,ノルウェーのグループ,フラ・リッポ・リッピのほろ苦い佳曲「Shouldn't Have To Be Like That」の翻案。マイク・オールドフィールドの影響を受けるなど,アイリッシュ,ケルト志向の強い吉良ですが,この曲に目をつけるとは,むむやるな,という感じでした。

2000/11/10

ちょっと情けないCD 第1皿 「スクイーズ・グレイテスト・ヒッツ」 スクイーズ / 発売:ポリドール

Nimg2278【ヘヴィ・メタルもロックもだめだけど】

 スクイーズはイギリスのポップバンド。
 1974年結成,1977年レコードデビュー。当初はビートを刻んだテクノっぽいサウンドで,XTCなどとともにニューウェイブ系のバンドとして紹介されています。日本では「テンプテッド」や「アワーグラス」がヒット。1981年にはソングライター,ディフォード&ティルブルックの2人がレノン&マッカートニーに匹敵すると米ローリング・ストーン誌に絶賛されています……ほんとかな。

 烏丸がこのアルバムを購入したのは,久々に見た「ラスト・タイム・フォーエバー」という曲のプロモーションビデオがけっこう胸に染みたせいですが,これは,花畑で笑いころげる若い女のフィルムを年老いた男が見つめ,そのうちだんだん激昂して,最後には手にしたグラスを割ってしまう……という映像に,スクイーズの演奏風景がはさまれるというもの。白いピアノがだんだんぶっ壊されていくところなど,印象的といえば印象的,よくあるといえばよくある造りです。
 歌詞は「終わった恋に今夜は眠れない,永遠に最後さ」とかいった,中身があるんだかないんだか,な内容で,メロディや曲の雰囲気はほぼ同時期にヒットした,クラウデッド・ハウスの「ドント・ドリーム・イッツ・オーバー」に似ているような気もします(クラウデッド・ハウスをご存知ない方は,こんなこと言われても困っちゃいますね)。

 さて。
 ではこのCDのどこが「ちょっと情けない」か。それは,ライナーノーツです。たとえば,次のようなあんばい。

 1982年。
 秋,スクイーズ,突然の解散。
 バンド内部がバラバラだったのが原因でしたが,レイヴィスを含む何人かがアルコール中毒にかかっていたのもひとつの要因となったとか。

 1983年。
 アル中のギルソン・レイヴィスは酒を断ち,ドラマーからタクシーの運転手に転身しました。

 1985年。
 8月,『Cosi Fan Tutti Frutti』,発表。
 セールス的には“おしゃか”。

 1986年。
 「次がダメだったら,さよならだ」とじっくり時間をかけてニューアルバムの制作に取りかかりますが,ミキシングを終える前に予算オーバー。
 かくて,アメリカのカレッジとクラブで集金ツアーを敢行するハメに。

 ……などなど。
 もちろん,結成して25年,思い立って買いにいけば極東の島国の小さなCD屋でもベストアルバムが見つかるほどのバンドです。これはライナーノーツの担当者,サマタマサト氏の諧謔と見るべきでしょう。
 しかし,ギャグやユーモアではすまない本当に情けないCDも,世の中にはあります。それについては,明日。

新コーナー 「ちょっと情けないCD」 第0皿

【今度は音楽ものでぃ!】

 10月6日にこの「くるくる」では「[雑談] Carsのメンバー,Benjamin Orr死去」という話を書き,その夜,ベンジャミン・オールが歌う古いビデオ(もちろんβ)を取り出して見たのですが,そのビデオは思った以上になかなか心地よい内容だったのでした。

 主に1985年当時放送されていた,ピーター・バラカンの「ポッパーズMTV」というミュージックプロモーションビデオを紹介する番組から録画したものですが,カーズのほか,たとえば

  デヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイドのギタリストのライブ。珍しい)
  トーキング・ヘッズ(映画になったライブ)
  ハニー・ドリッパーズ(Zepのロバート・プラントがヴォーカル)
  ティアーズ・フォー・フィアーズ(なんちゅう濃い顔)
  アート・オブ・ノイズ(もううっとり)
  スクリッティ・ポリッティ(しゃんとせんかい,あんちゃん)
  ブライアン・フェリー(当時,ソロアルバムで絶好調)
  ニュー・オーダー(ああ,このヘタクソさがたまりません)
  ケイト・ブッシュ(心の愛人。ちなみに心の妻はパティ・スミス)
  ジェリー・グッドマン(鳥の飛翔が美しい)
  トム・ウェイツ(しぶい)
  キング・クリムゾン(別格)
  ドリーム・アカデミー(消えてしまったなあ)

などなど,2時間にわたってさまざまな烏丸好みの音と映像が詰まっています。

 さて,その中に,スクイーズというバンドのプロモーションビデオがありまして,当時は「まぁ,いい曲なんじゃない」程度でテープには残したものの,CDを急いで買おうというほどではなかったものです。しかし,15年経って聞くとこれが懐かしくも胸に迫るものがあり,ベストアルバムくらい聞いてみようか,という気になりました。

 職場の近所に新しくできたCD屋でベストアルバムはあっさり見つかり……そうして,新コーナーのお題が得られたのでした。
 そのお題とは,「ちょっと情けないCD」。

 いえ,決してスクイーズのベスト・アルバムが,音楽的に情けないというのではありません。ではどこが情けないのか。それは明日より,おいおいご説明することにいたしましょう。

2000/11/09

本の中の強い女,弱い女 その十ニ 『ダイジョ~ブよ』 もりたじゅん / 集英社

Nimg2259【『未亡人道』が手に入らない……痛恨のスコラ倒産】

 もりたじゅんのデビューは1968年。「りぼん」誌上である。まったくこの雑誌はわきが甘いんだか堅いんだか,底のないバケツのような鉄壁の編集方針で,方向違いの作家が次々と現れては巣立っていく。

 もりたじゅんはデビュー当時,高橋真琴の原画を見せられ,(その扱いの丁寧さを含めて)あまりの美麗さに悶絶したそうだ。さもありなん。当時のもりたじゅんの作風を一言で表すなら「ダイナミック」,これにつきる。現在ではそう珍しくないが「性」まで込みにした激情,それが基本路線だった。兄妹の心中や不治の病をおしての結婚など,ヘヴィな設定も少なくない。
 1971年には同じくマンガ家で『男一匹ガキ大将』『俺の空』『サラリーマン金太郎』等で知られる本宮ひろ志と結婚。その後出産・育児のために一時活動を休眠するも,復帰,レディスコミックに場を変え,コンスタントに作品を発表して現在にいたる。さすがに初期の「激情」志向はやわらぎ,大人のラブコメが基調である。

 とくに1980年代後半,つまりバブル期に,雑誌編集部,総合商社,デパート,アパレル関係,病院など,当時華やかあるいはリッチとされた職場を舞台にした,働く主人公と中年男の関係を描いた作品群には読み応えがある。
 興味深いのは,主人公の女性が,仕事においても男女の関係においても,実に男に都合よく描かれていることだ。もりもり働き,有能で,遊んでいるように見えるが実は純情,好きな男の前でだけセクシーで素直な顔を見せる。これが男性誌に載っているならわからんでもないが,いいのかレディス。
 もりたじゅんは男性読者にもウケがよいそうだが,これは主人公の魅力以上に,男の職場が「よく」描かれているからだろう。「よく」というのは「現実に即して」という意味ではない。こういう上司,こういう職場だといいかも,と男性も思うような描き方なのである。このへんも不思議といえば不思議だ。なぜ女性に男好みの男が描ける。
 追求しようにも材料がないので,これ以上推論のしようはない。夫の本宮ひろ志が硬派なマンガ家であることはさほど関係ないだろう。男性的な視線による男性的な作風,と読むだけである。だから,「ヤングジャンプ」のような青年誌に作品を発表しても,本宮ひろ志の作品中で女性キャラだけ手伝っても,とくに違和感がない。男性誌向けに画風を調整する必要がないのである。里中満智子が水島新司の『野球狂の詩』を手伝ったのとはえらい違いだ。

 ところで,もりたじゅんを取り上げるにあたって,烏丸の頭の中では「バブル期には華やかでリッチとされる職場を舞台とした作者だが,最近は農場,水族館,遺跡発掘など,地味ながら手応えのある仕事を題材にすることが多い。時代の反映だろうか」という展開がほぼ出来上がっていた。
 しかし。最新刊『ダイジョ~ブよ』収録の3作は,獣医,下町のくまで屋,アダルト雑誌編集者。同じ作者ですでにどこかで見たような設定ばかり。要するに見知った職業を順繰りに描いているだけなのか。

 もう一点,身長が高すぎることに悩む女性も実は少なくないようだが,作者には『性(格)の一致』収録の「ウドの大木が倒れた日」はじめ背の高い女性が幸せになる設定の作品がいくつかあり,そういう悩みを持つ女性には非常によい癒しになるそうだ。ただし『性(格)の一致』もスコラ倒産のため,入手は難しい。

2000/11/08

[雑談] レディスコミックについて

 ある作品を取り上げるのにそのマンガ家のポジションをまとめようとしたら,レディスコミックについて二,三書いておかないと進めなくなってしまった。
 さりとて「レディスコミックにはちょっとうるさいわよ」と教えてくれる知人もおらず,どうも全貌も詳細もよくわからないのだ。烏丸にとって未開の大陸である。したがって以下に述べることは,非常に少ないデータに基づいた,一種,情報の捏造にあたるかもしれない。前もってお断りしておく。

 さて。いくら未開のレディスコミックとはいえ,コンビニの店頭でながめれば,2つの大陸があることくらいはすぐわかる。すなわち,「エロ」主流と,そうでないものだ(正しくは「ミステリー,ホラー」系との3つに分けるべきかもしれないが,「ミステリー,ホラー」系も「エロ」ありとなしに分かれてややこしいのでとりあえずおく)。
 そもそもは「エロ」なしのものが先行し,少女マンガを卒業した女性マンガファンを取り込もうとした,それがレディスコミックの起源である。集英社の「YOU」や講談社の「BE・LOVE」などがこれにあたる。これらのヒロインはOLあるいは主婦,つまりは読者の投影で,彼女たちは仕事や男性との交際の中でこつこつ自分なりの道を求め,最後には自信に満ちた明るい笑顔にいたる。深見じゅん『悪女(わる)』はその典型といえるだろう。
 もう一方,「エロ」のほうだが,よく言われるのが「外人カップルの写真が表紙のものは,エグい」ということである。確かにエグい。男性誌ならマニア誌と呼ばれ,通常の書店では扱ってないか,ビニール掛けされておかしくないような,SM,レイプ,3P,スワップ,器物,獣姦,なんでもありである。女性に対して夢見がちな独身男性諸氏は,手にとらないほうが身のためだろう。ぐろい。
 また,「エロ」系のチープな雑誌では,一度掲載された作品をそのまま再掲載し,新作のように表紙にうたうことが少なくない。雑誌にこだわる定期購読者はいないのだろうか。いずれにしても,恐るべき世界ではある。

 レディスコミックの作家は,もともと少女マンガの作家だったものがシフトして量産するケースが多い。
 たとえば井出知香恵。「エロ」系,非「エロ」系,何でもこいの凄い作家だが,もともとは1960年代に「りぼん」の『ビバ!バレーボール』でデビューした作家である。そのときから絵柄が変わっていないのが凄い。今にして思えば,(以前にも書いたようにボーイフレンドが死に,自身も子宮を摘出されるなど,女性であることを捨てて名選手になっていく)『アタックno.1』,少女の次に女になることをすっとばしておばさん的雰囲気だった『サインはV!』の2作のブームを受けて現れながら,『ビバ!』には,どこか隠微な,女の匂いのようなものが感じられた。身長や筋肉まかせでない,ねっとりしたきしみのようなものがあの作品にはあった。今,「エロ」系としては逆に淡白な彼女の絵柄を見ると,作家の変遷の不思議を感じないでもない。

 ところで,レディスコミックのエグさについては,駅売りの夕刊紙がときどき話題にして教えてくれる。しかし,そりゃあ凄そうだと単行本を手にして,得した気分になることはまずない。所詮,男子禁制の世界,ということだろうか。

2000/11/07

[詠嘆] 旧石器発掘捏造

 毎日新聞というところは,大手紙の中ではいまだブン屋意識が強いというか,たまに他紙が歯噛みするような大スクープをものにしてみせる。今回も,疑念を持たれていた人物の怪しい行動をチェック,ビデオ撮影してそれを突きつけ,「自白」まで持ち込んだのだから,見事なまでの単独スクープである。
 もちろん,メディアにこのような形で人を裁く権利はあるか,という議論は必要だろう。今回も一歩間違えれば松本サリン事件の際の河野さん同様,罪なき研究者を貶める可能性は十分にあった。しかし,今回はある世界での権威とされる公人の行為,言葉のチェックの範疇だったと考えてよいように思う。

 チェックメイトを食らったのは東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長(50歳)。彼は180か所以上の遺跡発掘にかかわり,発掘団が総出で発掘にあたっても何も出てこない現場の片隅から石器を発見する手腕から「神の手」とまで称された人物である。
 捏造を見破られた現場は宮城県築館町の上高森遺跡。今年10月,約60万年以上前のものとみられる旧石器などが見つかったとして注目されていたのだが,それは彼が自分のコレクションから持ち込んだ石器を埋め,それを独特の経験と勘に従って発見したかのように偽ったものだった。
 藤村副理事長は毎日新聞の問いに,今年9月,北海道十津川町の総進不動坂遺跡で見つかった旧石器も自分の捏造であることを認めている。

 しかし,そもそも毎日新聞が藤村氏をマークし,ビデオ撮影したのは,彼の「神の手」があまりにあざやかにすぎ,さらに掘り起こされた石器そのものに対してすでに何人かの研究者から疑念が噴出していたためである(たとえば藤村氏発掘の前期・中期旧石器が往々にして発掘面に平らに出土することなどが問題にされていた)。これらの疑義がかなり前からある以上,藤村氏がいかに否定しようと,捏造が上高森遺跡と総進不動坂遺跡の2か所だけとみなすのは早計だろう。
 彼の業績が全否定された場合,「70万年以上前」とされつつあった旧石器文化の起源が「3万年前」まで逆戻りする可能性があり,また最古の埋葬が原人の手によるという世界規模のテーマも揺らぐことになる。とりあえず彼の全業績をいったんゼロに戻し,確証が得られたもののみ再評価するくらいの厳しい姿勢が必要ではないだろうか。遺跡によっては彼以外の者も石器を発見したのだからすべてが捏造ではないはず,という声もあるが,報道によるとなかなか石器が出ない現場で彼が「このあたりに出そうだ」と指さした場所から他のスタッフが石器を掘り出す,といった情況もあったらしい。

 考古学は,進化についての議論と並んで立証の難しい学問の1つではある。検証,反論がシステム化されておらず,大学の派閥,研究室のうち発言力の強いところの声が通る,という面も否定できない。また,ある大手紙と親しい研究者の論説なら大見出し,他紙は無視,ということも少なくない世界である。
 烏丸は考古学は知人の勧めに従ってたまに本を読む程度,全くの素人に過ぎないが(本文もすべての文末に「そうだ」「らしい」を付加して読んでいただければ幸いである),今回の事件がただスキャンダルとして立ち消えになるのでなく,考古学のフェアな研究,発表の1つの道標となってくれれば,と切に願う。

 それにしても,ねえ。なんてこった。

2000/11/05

本の中の強い女,弱い女 その十一 『谷仮面』 柴田ヨクサル / 白泉社

Nimg2191【とんとんのぼっていきたいのにな!!!】

 『エアマスター』のカバーには,「柴田ヨクサルのコミックス」として『谷仮面』なる作品が同じ白泉社から全12巻で好評発売中と記されています。サイズがA5版。これは文庫の倍の大きさで,マンガの単行本としては高価なほうと予測されます。しかも,12冊。
 烏丸は『エアマスター』すら親しい知人に教えてもらったくらいで,『谷仮面』は一度も見たことがありません。ぜひとも読んでみたい。しかし高そう。知人もこちらは知らないと言う。気になる。

 ところが,柴田ヨクサルのファンサイトなどを見てみても,この『谷仮面』の正体がよくわからないのです。ジャンルすら,はっきりしない。「エアマスターと谷仮面,どっちが強いかな」というファンの発言からすると,やはり格闘モノなんでしょうか。しかも困ったことに,そもそもそれほどたくさん印刷されなかったため,ほとんど本屋で見られない,古本屋でも見かけない,というのです。

 そんなある日,烏丸が都内の書店を散策していると……なんということでしょう,そこにはファンすらなかなか見つけられないと嘆く『谷仮面』全12巻がそろっているではありませんか。やるな,秋葉原書泉ブックタワー。
 ところで,この烏丸とて普通は,そんな得体の知れないマンガを一気買いしたりしません。とりあえず1,2冊買って様子を見るのが常道でしょう。しかし,問題は,それが入手困難という噂。もしここで1冊買って,面白くて,続きを買おうとしてもう二度と手に入らなかったら……マイナーコミック作品にはそういうことが少なくないのです。えーいっ。書泉ブックタワーの屋上から飛び降りるつもりで,12巻をどんとレジに運んだ烏丸。吉と出るか凶と出るか。
 ちなみに,その次の週,別の用事で書泉ブックタワーにおもむくと,そこには烏丸が全部買ったはずの12巻がそろって……入手困難の噂は何だったのか。

 さて,作品です。1巻読んで,「はてな?」
 主人公は,鳥山高校に通う高校生,谷。彼はなぜか添付画像のような仮面をかぶっています。が,その理由は別に説明されず,周囲も別に彼を特殊扱いせず,淡々と彼をめぐる高校生活が描かれます。彼は細身ながら,腕力は非常に強いようです。が,その理由もとくに説明されません。彼は島リホコというバレー部の女の子が大好きなのですが,とても口に出して言えません。
 2巻読んで,「それで?」
 作者はギャグを書いているつもりなんでしょうか。カバーの惹句は「超過激アクションギャグ」ですが,よくわからない。とくに笑うような内容ではないのです。授業中にいびきが聞こえるので先生がチョークを投げたら,寝ているのは谷の後ろの生徒だった,とか,リホコさんの気をひくために不良たちをぶっとばしたけどリホコさんは気がつかずに向こうに行ってしまったとか,そんな話ばかり。
 3巻読んで,「8,000円。いい勉強だったぜ」

 しかし,5巻で登場した中岡という鳥山高校伝説の不良とやらが休学から復帰してきて仲間を集め,不良校統一をはかろうと言い出し,まずはレスリング大会に出場しようというあたりから俄然話が動き出し……。

 ……気がつけば11巻,12巻では最初はキツネのようにとんがってぎくしゃくしていたリホコの顔もふっくら豊かになり,物語はコミック史上『めぞん一刻』以上のスーパーデリシャス遊星ゴールデンスペシャルリザーブゴージャスパワフル純愛ラブストーリーになってしまうのでした。ああ,びっくりした。

2000/11/04

本の中の強い女,弱い女 その十 『エアマスター』 柴田ヨクサル / 白泉社

Nimg2172【でも… マキは俺を蹴っ飛ばす事ができるんだ】

 「ヤングアニマル」という白泉社の青年コミック誌をご存知だろうか。『ベルセルク』という病的にアクの強い戦闘ファンタジーが多少知られている程度で,それ以外は水着グラビアといい『ふたりエッチ』などの連載マンガといい,男でもキオスクで買うのは少々抵抗がある,その手の隔週誌だ。
 しかし,実はそういう雑誌にも,いや,そういう雑誌だからこそ,時代の様相は如実に表れる。一見,昔ふう男尊女卑な青年誌でありながら,実は大半の作品の中で,強くみずみずしく描かれているのは女性キャラのほうなのである。1996年の秋から連載されている『エアマスター』も,その1つだ。

 多少マンガを読み慣れていても『エアマスター』の設定になじむのは,ちょっとツラいかもしれない。ストリートファイトって何だ,どこでやってるんだ,という説明は一切ない。展開にどれだけついてこられるか。この作品はかなり読者を絞るのだ。

 ミニスカート,ルーズソックスにスニーカー,長身で無口な女子高生相川摩季は,かつて日本女子体操の頂点に立った選手。彼女はコーチである母親が死んで以来心の支えを喪っていたが,ストリートファイトに挑むうちに体操選手として活躍したころの「目の前がどんどん暗くなるような緊張感」がよみがえるのを知る。
 「次はあたしね」と名乗りをあげ,ブンっと宙に舞ってサングラスにだぼだぼズボンのファイターを蹴り倒す。“エアマスター”と呼ばれるようになった彼女の前には次々と強敵が現れる。摩季の父親は「軟派な精密機械」と呼ばれるプロの格闘家佐伯四郎で,摩季は強敵との決闘前に父親のジムを訪ね,ヒントを得るためリングで父を挑発する。プロの威圧感に圧倒た摩季は,とっさに超至近高速ソバットを返す。「スゲッ…おどろいた そんなことできんだ」「あんたのペースだったからね ちょっと……」。

 狭い路地で左右に飛んで闘いながらビルの屋上まで駆け登り,「よし…ケリつけるか」「さあ行きましょう」と重力にまかせて落ちながらさらに蹴り合う。闘いの瞬間を本作のように3次元的に描いた作品があっただろうか。明らかに格闘アクションゲームから影響を受けてはいるのだが,これだけ独特な世界に翻案した作品は記憶にない。これはまさに新しい格闘マンガの表現である。
 もっとも,絵は巧いとは言えないしパースは狂っているし,ストーリーもときどき破綻する。それでも,次々現れるキャラはとことん立っている。コートのポケットに手を突っ込んだまま沢田研二の歌を口ずさみ,いきなり強烈な蹴りを繰り出す坂本ジュリエッタは,強さといいエキセントリックさといい,敵役の中でも強烈に魅力的だ。また,摩季に優るとも劣らない空中殺法と折々の人生訓がありがたいルチャマスター。そして,未来のスーパーモデル(笑)崎山香織。

 さらにポイントが高いのは,摩季との決着がついた後,坂本ジュリエッタと摩季の父佐伯四郎らが顔中にバンソーコー貼りなりながらビールを酌み交わすシーンだ。
  出遭う! → 闘う! → みんなでメシを喰う
  出遭う! → 闘う! → みんなでメシを喰う
 実はこれが『エアマスター』の基本展開なのである。よーわからん。わからんながら,少なくとも烏丸には『ドラゴンボール』より面白い。なにしろ『ドラゴンボール』で電車を乗り過ごしたことはないが,『エアマスター』では2回,やってしまった。
 エビシューマイは俺の夢だからな!

2000/11/03

[雑談] 人権尊重と教育の行く末

 『死刑執行人の苦悩』(大塚公子),『日本の危機』(櫻井よしこ)の書評において,人権尊重がすぎるとそれはそれで問題がある,ということを扱った。

 たとえば,暴力がいけない,幼児虐待はいけない。これは正しい。しかし,では,幼年期に尻をぶったりおもちゃを取り上げたりしないで,どうやってこの世にはやってはいけないことがあるということを学習するのか。中学生に話し合いをしてみせるためには,その前の段階で互いの言葉にコンセンサスがなければならない。尻をぶたれずにどうやって他人の尻をぶたないよう指導できるか,あるいは成人になって尻をぶたれたとき,どう対応するのか。残念ながら社会は学校のようにぬくぬくと優しいところではない。
 また,選挙権に年齢制限があるように,少年であるということは,人権とは別の次元で抑制され,学ぶべき時期であるということは自明である。成人と同じ,無制限の権利を与えることは,人権とは関係ない。

 そういう意味で,少々面白い(不愉快な?)報道を昨日見た。
 労組・日本プロ野球選手会(ヤクルト古田敦也会長)が,西武球団に対し,書面で「松坂選手野球活動再開へ向けてのお願い」届けたらしい。それによると,「プロ野球選手にとって野球活動は人格の中心部分であり,償いはグラウンドでファンを魅了するように練習を重ねるしかない」ので,松坂の早期野球活動の許可,処分の解除を嘆願したというのである。

 古田の表現に,間違いは何ひとつない。しかし,グラウンドでファンを魅了することは,罪の償いとはなんら関係ない。というか,ここには「処罰」という発想が欠落している。
 自分のしてしまった行為の責任を問われ,したいことを抑制されるのが社会的処罰というものではないのか。逆にいえば,プロ野球人格に対してゴルフやテレビ出演を謹慎させることはなんら処罰にはあたらない,ということである。

 極端な例として,そごう水島元会長が「会長職は自分の人格の中心部分。償いはリストラ,再建を自ら担当することで」と言ったら,さてどうか。笑い話ではない。少なくとも,小中高校の教育の現場では,これと遜色ないやり取りが今日もまかり通っているのである。

2000/11/02

本の中の強い女,弱い女 その九 『虐げられた人びと』 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー,小笠原豊樹 訳 / 新潮文庫

Nimg2140【気違いだっていいわ】

 物語の語り手は若い小説家ワーニャ(イワン・ペトローヴィチ)。彼の幼なじみナターシャは,軽薄で世間知らずの美青年アリョーシャと恋に落ちる。頑固だが善良なナターシャの父ニコライ・イフメーネフはアリョーシャの父ヴァルコフスキー公爵に泥棒呼ばわりされ,蔑まれ,領地を奪われるが,ナターシャはアリョーシャとの恋のために家を出る。一方,ワーニャは街でたまたま貧しい老人の死に立ち会うが,彼が老人の部屋に引き移るとそこに痩せた少女が現れた……。

 『貧しき人びと』で新進作家として成功したものの,その後批評家にそっぽを向かれたドストエフスキーは,1849年,空想的社会主義者ペトラシェフスキー主催の会合に参加,当局に捕えられ,処刑寸前に許されてシベリアに流刑の身となった(流刑地での体験は『死の家の記録』に詳しい)。
 『虐げられた人びと』は,首都ペテルブルグに帰還を許された彼が作家として復活を遂げた長編で,自ら認めるように通俗的で甘い面もあるものの,メロドラマと切り捨てることのできない奥行きの深い人物造型で読み応えがある。
 ことにほとんど表だって出てこないが悪意の権化のようなヴァルコフスキー伯爵は『罪と罰』のスヴィドリガイロフ,『悪霊』のスタヴローギンを,言動が善意に過ぎてその善意が人々を不幸に陥れるアリョーシャは『白痴』のムイシュキンを思わせる。

 そして,主人公や彼ら以上に心に焼きつくのは,ヴァルコフスキー伯爵の実の娘でありながら,ただ貶められ,病に死んでいく少女ネリー(エレーナ)の存在である。彼女は「十二か十三の発育の悪い小娘で,おまけに大わずらいのあとのように貧弱で顔色もよくはない。そのせいか,大きな黒い眸はかえってきらきらと光っている」。
 彼女は顔をまっさおにして倒れ,熱を出し,うわごとをもらし,何を尋ねても黙り込むかと思えば,洋服が汚れると言われて「こんなのびりびりに破っちゃうわ」と引きちぎり,「ここにはいたくない,あたし意地悪よ」と茶碗を床にたたきつけて「ほら,こんなにこわれちゃったわ」と叫び,泣きすぎてヒステリーを起こしたあげくワーニャにしがみついて「あんたならネリーと呼んでもらいたい」と訴え,最後まで自分と母を捨てた父親を許さずに死んでいく。

 烏丸はかつて『罪と罰』の巧みさ,重さに驚き,続いてこの作品に触れてネリーに文字通り夢中になった。書物における烏丸の女性の趣味がいまだ病的,エキセントリック,ヒステリックにやや偏っているのは,その当時,寝ても覚めてもネリーの面影を追い,その死を悔いたためである。その後,彼女に代わるものを求めてドストエフスキーの作品を読み漁ったが,病的な女性は再三現れるものの,ネリーの暗い眸,崩れた黒い髪には二度と出会えなかった。ずっとのちに,ネリーと見まがう危うさを撒き散らす現実の女性と知り合ったが,数年がかりで自分がワーニャでないことを思い知らされただけだった。

 ちなみに,ネリーに思い入れるのは,烏丸一人の話ではない。新婚の妻を残して車ごと水に沈んだ烏丸の高校の数学教師も本作を熱く語っていたし,太宰の習作『葉』には貧しいロシア人の娘を見て「ドストエフスキイを覗きはじめた学生ならば,おや,ネルリ!と声を出して叫んで,あわてて外套の襟を掻きたてるかも知れない」という一節がある。また,黒澤の『赤ひげ』に出てくる薄幸の少女・おとよもこのネリーがモデルとされている。
 だが,本作のネリーを上回るほどにエキセントリックな魅力に満ちた少女をいまだ烏丸は知らない。また,今はもう,知りたいとも思わない。

本の中の強い女,弱い女 その八 『大人になったのび太少年』より「キャンディ(はあと)キャンディ」 木全公彦,林公一 / 宝島社文庫

Nimg2121【笑ってられない キャンディ~】

 本書は昭和30~40年代に描かれたマンガの主人公8人を取り上げ,精神分析を援用してその後の彼・彼女らがどんな職業に就き,どんな人生を歩いていくかを想像したものである。
 各主人公について,精神分析的解説は林公一,「大人になったら…」の部分は木全公彦が担当したとのことだが,この2人,妙によく似た名前である。関係ないけど。

 取り上げられた主人公には『ドラえもん』野比のび太,『巨人の星』星飛雄馬,『鉄人28号』金田正太郎らがいるが,今回は「本の中の女」シリーズということで『キャンディ(はあと)キャンディ』のキャンディのその後について紹介しよう。

 念のためおことわりしておくが,のび太がベンチャー企業の開発部長としてしずかちゃんのマネージメントのもと第二のビル・ゲイツのようになるかも,という例を除くと,ほぼ全員,相当に陰惨な人生を送りそうな気配である。なにしろ道徳的マゾヒズムから共依存,自己敗北型人格にいたる早乙女愛の行く末たるや,(1)飲んだくれ亭主のアル中を促進してしまう妻,(2)赤羽の安キャバレーから大蔵官僚・岩清水の手をふりきってピンサロ,ソープに落ちていくホステス,(3)集団自殺を図る信仰宗教信者,というくらいなのだ。わからんでもないけど。
 したがって,キャンディのファンで夢は破られたくないという方は,この後を読まないことをお奨めしたい。

 さて,孤児院“ポニーの家”に育ったキャンディの人生は,次々にふりかかってくる困難の連続だが,それを突破するためにキャンディが選択するのは,「躁的防衛」という防衛機制である。つまり,自分が困ったり苦しんだりしていることを否認し,強く明るい自分を無理やり作り出すことによって苦難を克服する心の働きだ。もちろんこの防衛機制には限界があるが,それが破綻する寸前で,毎回,彼女は自分の笑顔が“可愛い”という条件によって誰か(アンソニー,ステア,アーニー,アルバートなど)に助けられるという経験を重ねる。そのためキャンディはやがて常に依存対象を求める「依存型性格」に陥っていく。そして,生きていくためには自分にとってよい人か悪い人かだけで相手を判断する「二分法的思考」も強まることだろう。
 以上のような経緯から,30代のキャンディは,たとえば,(1)いつも明るく朗らかな看護婦さん,しかし,その笑顔は常に「自分は見捨てられるのではないか」という不安に裏打ちされたもので,ある意味笑顔の押し付けにすぎない。そんなキャンディが患者に取り返しのつかない失敗をしたとしても,きっと彼女は明るく笑って♪看護ミスなんて 気にしないわ~……。(2)経済的に不自由なく,子供も手のかからなくなったお気楽専業主婦キャンディ。彼女は依存する相手を求めてテレクラに走り,最後にはセックス依存症にいたる。(3)明るい笑顔でみんなに好かれることから人気タレントとなったキャンディ。彼女は惚れっぽいが相手に不信感を抱いた時点ですぐ嫌いになる性格から,大物タレントやプロデューサー相手に不倫騒ぎを繰り返す。……

 これはもちろん極端な想像ではある。しかし,幼年期にまことちゃんのように厳しい処罰を与え続けられたらどうなるのか。ひみつのアッコちゃんのように「人のためによかれ」ばかり考えているとどうなってしまうのか。正太郎少年のように世界が思うままだとどう育つのか。
 本書は誰にでもお奨めといえる本ではないが,親が子供を抑制しすぎてもいけない,放任すぎてもいけないという,子育てのバランスの難しさを示す1つの例として一読の価値はあるだろう。

2000/11/01

本の中の強い女,弱い女 その七 『めぞん一刻』 高橋留美子 / 小学館

Nimg2100【私のことだけ考えて…】

 次に述べるのは,ある若者のエピソードである。名前をK青年とでもしておこう。
 ここでことわっておかねばならないのは,このK青年というのは,断じて僕,烏丸のことではないということだ。K青年はごく普通の会社員だった。独身で,しかもカノジョってのはどんな食べ物のことかいなという枯れた状態がもう何年も続いていた。しかし僕には,じゃなくてK青年には,心に決めた恋人がいた。その女性は一刻館という古アパートの管理人で,やきもち焼きで,早とちりで,泣いたり怒ったりだけど,その若き未亡人が微笑うとK青年は最高にしあわせなのだった。
 当時,K青年は一刻館に負けないくらい古い木造アパートの2階に暮らしていたが,あまりに本が多いため,真下の部屋に住んでいた管理人家族は危険を感じてそこを物置にし,大家は会うたび出ていってほしいと強く目で訴えるのだった。しかし,本があまりに多くて引っ越し作業そのものが想像できなかった僕は,じゃなくてK青年は,しかたなく今日も天井まで積み重なった本からその女性が登場する作品を探し出し,読み返すのだった。
 K青年がそのアパートを引き払い,通販で手に入れていたPIYO PIYOエプロン(添付画像参照)を何も知らない新妻に着せ,心の中で響子さんにさよならを言うのはそれからまだ何年も後のことであった。

 ……ま,これはかなり作っているが(本気にしないように),響子さんにこんな思いを抱いていた若者は当時日本中に少なくなかったのではないだろうか。

 以前ここで紹介した四方田犬彦『漫画原論』は『めぞん一刻』連載中に書かれたものらしく,本作の五代君と響子さんについて非常に面白い解析をしている。少し引用してみよう。

「奇妙なことに,永遠に擽ったげな擦れ違いを演ずるこのカップルは瓜二つの顔をしている。いや,そればかりではない。彼らの恋愛の成就にとって障害物である二人の好敵手(三鷹,こずえ)もまた酷似した顔の所有者なのだ」
「根本的なところで時間は少しも進展していない。誰もが大いなる停滞感覚のなかで,いつまでも同じ遊戯の反復に終始している」
「『めぞん一刻』が本質的に完結するとすれば,それは忌避されてきた惣一郎(響子さんの死んだ夫)の顔が公開される瞬間である」

 しかし,『めぞん一刻』は全15巻中,13巻の後半あたりから突然サザエさん的永劫停滞から抜け出し,終結へ向けて怒涛の寄り身を見せる。『漫画原論』は外したわけだが,予想としては外れでも,分析としては正解だったと思う。
 五代君と響子さんが結ばれると同時に,輪郭や髪型を同じくするあらゆる登場人物がトランプの一人遊びでいう「あがり」目指して綺麗に並んでいく。文字通り誰もが「かたづいて」いったわけで,それはそれまでの数年間,本作をちょっと大人向けのギャグと油断して漫然と感情移入してきた若者たちを一気に「自分は五代であり響子であり自分は自分を愛しており自分が自分を愛することが許される」状態にしてしまったということである。これではうろたえないほうがおかしい。
 それが,当時のマンガファンを毎週熱狂させ,胸をしめつけた『めぞん一刻』の結末であった。
 作者は,連載開始時,はたしてこれほどの幕閉じを考えていたのかどうか。語られることはないだろうが,気になるところだ。

 それにしても響子さんというのは,顔はともかく性格は決してよくないのである。金こそかからないが扱いづらいタイプだし,嫉妬深いし,怒りっぽいし……もう一回,最初から読も。

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