科学と文学について考える 素材その一 『パラサイト・イヴ』 瀬名秀明 / 角川ホラー文庫
【ミトコンドリア10億年の野望】
表紙の画像データはない。本を誰かに貸すかあげるかしてしまったためである。
「永島利明は大学の薬学部に勤務する気鋭の生化学者で,ミトコンドリアの研究で実績をあげていた。ある日,その妻の聖美が,不可解な交通事故をおこし脳死してしまう。聖美は腎バンクに登録していたため,腎不全患者の中から適合者が検索され,安斉麻理子という14歳の少女が選び出される。利明は聖美の突然の死を受け入れることができず,腎の摘出の時に聖美の肝細胞を採取し,培養することを思いつく。しかし,“Eve 1”と名づけられたその細胞は,しだいに特異な性質を露わにしていった……」
これは単行本の惹句からだが,この後,柳生一族の,じゃなくてミトコンドリア10億年の野望が次第に明らかに……と物語は動く。しかし,研究室の蛍光灯がじじっと音を立てるのが聞こえそうな緊張感が続くのは実はせいぜいそのあたりまで。1冊の半分弱くらいだろうか。
DNA解析などの生化学研究が進む中,明らかになってきたアミノ酸結合や生物の進化についてのさまざまなロジックは,これまでのあらゆる世界観,宗教観を覆しかねない。たとえば細胞内のミトコンドリアが実は別の生物が寄生したものであったという事実は,十分に刺激的である。そしてそのミトコンドリアが独自の意識を持つにいたる,という作者の着眼点は面白い。
一方,SFの世界では,「異質なもの」についてのさまざまなアプローチがなされてきた。たとえば,惑星の海がまるごと知性を持つとどれほど人間の理解を超えてしまうか(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』)とか,考え方や外見のみならず侵略の意味すらとんとわけのわからないエイリアンとの戦闘(神林長平『戦闘妖精・雪風』)などのハードな思考実験が再三提示されている。
ところが,『パラサイト・イヴ』では,意識を持ったミトコンドリアについてそのような「異質なもの」扱いは一切せず,絵に描いたようなオバケで押し通す。なにしろこのイヴ嬢の思考や行動たるや,まるっきりどこかの性悪女レベル。ただ惚れた主人公の男を求めて人間の女の姿で追いかけ,後はどたばた大暴れなのだ。
これが,『パラサイト・イヴ』が「ホラー」であって「SF」と言われない所以だろう。従来のSFなら,いくらなんでもこれはない。ミトコンドリアが意識を持つというなら,どのような化学反応を意識と呼ぶのか。視覚・聴覚などの五感が人間とはまるで異なるわけだから,どんな認識,行動パターンがあり得るのか。当然,そのあたりがキモ,というかセメドコロになるはず。主人公の男を追うのにしても,惚れたはれたでない,なんらかの科学的説明が考案されるべきだったろう。
しかし,現役の生化学者である作者はそれらを全部パスして,まっしぐらにオバケ屋敷に走っていってしまった。これはいったいどういうことなのだろう。作者がSF的な思考実験について,まるきり知らなかったとは思えない。単なる好み,あるいは映像化しやすい(金もうけしやすい)構成にした,とかいう判断もしたくない。
最近の科学と文学,いったいどうなっているのやら。
ちょっといくつか手元の素材をたどってみよう。
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