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2000年10月の54件の記事

2000/10/31

本の中の強い女,弱い女 その六 『ルネサンスの女たち』 塩野七生 / 中公文庫

Nimg2089【困難,困難,悲劇,困難】

 たとえば,「曲がった線は面白く,真っ直ぐな線は美しい」という視線なしにカンディンスキーの絵を見ても,何かを得るのは難しい。順位だけにこだわって路上のアスリートを見ても,その躍動を感じとることはできない。
 同様に,塩野七生のイタリア本が面白いのは,そこに塩野ならではの歴史上の人物たちへの視線が生きているからだ。では,その視線をプリズムで分解したら,何が見えてくるだろう。

 たとえば,ルネサンス期に,古代ローマの真・善・美の復興を求める人々の心。それは,若い枝が水と光の力で伸びるように,強く高みを目指す。
 あるいは,権力。それを得るためにあらゆる権謀術数が張り巡らされ,武力,経済力が培われ,いっそすがすがしいばかりに闘いが展開される。
 領土を守ることと至高の芸術家を招くことが不可分な,夢のような,栄光の時代。

 そして,分解された塩野の視線が再び像を形造るとき,我々はそこに法王アレッサンドロ六世の息子にしてマキャベリが絶賛したチェーザレ・ボルジアという,突き抜けて生臭く,生臭さが英雄の領域にいたる稀有な人物を見る。
 塩野のチェーザレへの賛辞は,たとえばこんな一節に垣間見ることができる。
「人々は,彼らの中に,永遠の青春を見出すのだから。青春は美しい。とくにそれが,むやみと感傷的に浪費されるのとは違い,現実に足をふまえ,冷静な精神とともに大胆に発揮されたときにはなおのこと。」
 彼女の初期の作品は,常にこのチェーザレからスタートし,チェーザレに戻る。

 『ルネサンスの女たち』はそんな塩野七生の最初の著作で,チェーザレとほぼ同時代に生き,マントヴァ,フェラーラという小国を再三脅かす危機と闘う「ライオンと狐の結合」イザベッラ・デステ,チェーザレの妹で,兄の政略の道具とされながらそれなりに悠々と生きたルクレツィア・ボルジア,チェーザレと闘って敗れたもののラ・ヴイラーゴ・デイターリア(イタリアの女傑)と称えられた美しくも残忍なカテリーナ・スフォルツァ,キプロス王妃となり,ヴェネチアの崇高ともいえる偽善の中に超然と生きたカテリーナ・コルネール,この4人の女を描き上げる。

 塩野の筆はそこいらの男性よりよほど合理主義的,現実的で,ルネサンス期の書物のみならず,手紙,外交文書などの原史料の詳細な調査の積み重ねの上に築き上げられていく。その作品の手応えは,温もりある肌や血よりは大理石の彫刻のようにソリッドで,「物語」「小説」という言葉ではくくりがたい人間の確かな姿が浮かび上がる。下世話だが崇高,残虐だが美麗,明晰にして誇り高い人生の数々。

 ちなみに,著者が「ビスケットだって箱の上に明記してあるではないか」とあとがきに用意してくれた『ルネサンスの女たち』の成分表は次のとおり。
  政略結婚 八
  戦争   二
  略奪   二
  暗殺   六
  恋    四
  牢獄   二
  強姦   一
  処刑   四
  そして,権謀術数にいたっては数知れず。

2000/10/30

本の中の強い女,弱い女 その五 『イキにやろうぜイキによ』 聖千秋 / 集英社

Nimg2072【いい男 みつけたなぁっ】

 この週末は殊能将之『ハサミ男』,東野圭吾『私が彼を殺した』と,ミステリ三昧でした。とくに後者は一種の犯人当てパズルなのですが(作者による正解が書かれていない),不肖この烏丸も乏しい脳みそをフル出動,後日拙推理をアップしますのでご笑覧くださいませ。

 なーんてくだくだ書いてしまうのも,「本の中の女」が進んでいないせい。何冊か候補は決まっているのですが,どう書くべきか見当がつかなかったり,読み返すのがキツかったり。今さら○○○○○○○○なんてー。

 というわけで,今日はからっとした少女マンガから,お気に入りを1つ。

 大昔の少女マンガでは,美人で優秀でお仲間が多くてというと,けなげで誠実な主人公をいじめるお嬢さまと相場が決まっていましたが,最近はなんでもアリ,トッピンシャンでもブンブクチャガマでもおっけーよ,てな御時世でございます。でも,画力がともなわないと,作者が主人公のことを「スタイル抜群,スポーツ万能,成績優秀で学園の人気者」などト書きに書いてやらないとそう見えないキャラが大半。逆に,お蝶夫人みたいでは読み手が引いてしまいますけどね。

 それでも,なかには人気者であることがすとーんとこちらにも伝わってくるキャラもありまして,その1人がサブタイトル「お祭りコメディシリーズ」も懐かしい『イキにやろうぜイキによ』の主人公,苫子(とまこ)さんであります。扶桑高校の象徴(シンボル)苫子さんは,ふわふわ長髪たなびかせ,長身スリムなセーラー服姿,成績優秀,スポーツ万能,祭りを仕切らせりゃ誰もがあこがれる気っぷのよさ。近隣の高校にまで知れわたる,ちゃきちゃきの下町のカリスマです。
 1巻の発行が1988年ですから,もう十年以上前の作品なのですが,これが連載されていた当時は,女の子の読者はもちろん苫子さんにあこがれ,男の読者は扶桑高校の男の子たちと一緒に「苫子さんと一緒のバスに乗りたいな」「今日は苫子さんの顔が見られて嬉しい」気分にひたっていたわけです。

 そんな苫子さんが,よりにもよって背も低くてぱっとしない(いちおう少女マンガですから,涼しげな美少年には描かれている)魚屋の息子・星野峻平に一目ぼれしてしまう。しかし,さすがは見る目のある苫子さん,俊平は苫子さんに安直になびくわけでもなく,正面向いて魚屋の仕事をこなし,弱小ボクシング部で意地を見せます。といってもいきなり日本チャンピオンとか世界戦とかになるわけではなく,強い相手には殴られ放題,あくまでごく普通の高校生の物語。
 周囲のあきれ顔にも負けず「あたしきっと魚屋さんになるんだわ うん」と必死でアタックを繰り返す苫子さん,ちょっと苦笑いしながら優しく拒絶する峻平。そうしていつか,きっと……。上滑りした疾走感に見えながら,胸を張って「あたしはえらい あんないい男 いない」と誰が言えるでしょう。これは,たぶん50年前にも,50年後にも,こうなりたい,そうあってほしい明るくてちょっとつらい若者の夢のお話であったりするのでした。

 というわけで,元気がほんの少し足りないときにはお奨め。
 人は誰しも,峻平ちゃんにも苫子さんにもなれるはず。とりあえず「あたしがなんとかしなくちゃ」から。

正解は? 『私が彼を殺した』 東野圭吾 / 講談社ノベルス

Photo さて,探偵が犯人を名指ししようとする場面で未解決のままぷつりと終わってしまう東野圭吾『私が彼を殺した』だが,真犯人はいったい誰だったのだろう。
 以下にカラスなりの推理をアップするが,いろいろ予断を与えかねないことが書かれており,未読の方は決して目を通さないようご注意願いたい。念のために文字表示を背景と同色としておく。

加賀はいった。「犯人はあなたです」……

「犯人はあなたです。駿河直之さん」

「ば,ばかな。俺はやつの前の女房の荷物なんか開けていない。調べてもらえばわかる。だ,第一,ボールペンの指紋が検出できるというなら,ペアで買った穂高のほうのピルケースに前の女房の指紋が残っていたって不思議はないだろう……俺じゃない。俺は犯人じゃない」
「では,いったい誰がどう殺したというのです」
「犯人なんて,さ,最初から,決まってるじゃないか」

駿河直之の指差す先,そこには,神林美和子がいた。

「俺がおかしいと思ったのは,まず浪岡準子が本当に自殺してしまったことだ。何もしないでただ死んだならわかる。だが,加賀さんの言うとおりなら,準子は,穂高の家に忍び込み,ピルケースに毒を仕込んだんだぜ。それを飲んだかどうか確認もしないで自分だけ死んでしまうなんて,いくらなんでもおかしいじゃないか。しかも,準子は遺書で『すぐに来てくださるもの』(71頁)と殺意をほのめかしている。いくら鈍い穂高だって,その上ピルケースにないはずのカプセルがあったら,怪しみそうなもんだ」

「つまり,準子は,穂高が自分に続いて死ぬことを確信してたってことだ。だいたい,法医学や検察関係の本を読んでみろ,普通,準子のような立場の女の殺意は,穂高じゃなくて,婚約者のほうに向かうと書いてあるもんだ。悪いのは男を誘惑した女で,その女さえいなくなれば男がまた自分のところへ戻ってくると確信してるからな。だが,準子は穂高に毒を仕込み,その効果を確認もしないで死んでしまった。なぜだ? 準子にとって美和子がすでに味方で,穂高が死ぬのを確かめてくれることまで約束してくれたから以外に考えられるか?」

「もう1つ,俺がどうしても納得できなかったのは,あの教会だ。美和子がもし自分の婚約者のきれいなところしか見てなかったなら,男が倒れたとき,誰かに毒殺されたなんて想像するだろうか? まず何か病気の発作と考え,医者に診せれば治ると考えるのが普通だ。それなのに,美和子は,穂高が倒れたのを見ただけで,その名を呼びもせずショック状態に陥っている(104頁)。それが毒殺であり,もう助からないことを確信していたからだ。もっとはっきり言おう,自分が以前に準子から受け取ったカプセルを飲ませて殺したから,驚きもしなかったわけだ」

「だいたい,結婚式の前日に邪魔しにくるような女が,顔を見せただけであっさり引き下がると思うか。準子はとっくの昔に美和子のところに押しかけ,全部喋っていたのさ。雪笹と穂高のことも,2人とももう知っていたかもしれない。結婚する相手をわざと雪笹と間違えてみせたのも,考えてみれば皮肉だったのかもしれん(31頁)。美和子のほうは準子から話を聞き,自分を騙した穂高に怒り,準子に同情するふりをして,結婚の前に準子に穂高を殺させようとしたのさ。ただの浮気じゃない。親を亡くした美和子にとって,穂高が子供をおろさせたのはどうにも許せない行為だったんだな。結婚式当日にピルケースに毒の入ったカプセルを入れたのももちろん美和子の仕業だ。俺や雪笹や貴弘がややこしい手順を踏むよりよほど簡単だ。よく考えてもみろよ。穂高が死に,美和子との結婚がキャンセルになって,誰が一番幸せになれるんだ? 少なくとも,俺じゃない」

「もう一つのヒントは,ピルケースに入ったカプセルを,わざわざ『いつの薬かわからないんなら』と捨てさせたのが美和子だったことだ(39頁)。俺はあのとき,妙だなと思ったんだ。愛用のピルケースなんだぜ。古いといっても,せいぜい1か月とかそんなもんだろう」

「それをどう説明するんだ。準子のせいにするなら絶好のチャンスじゃないか」神林貴弘がうめいた。

「早すぎたのさ。準子がまだ死んでなかったからだ。準子が穂高のあとを追わないで,自分と知り合っていることをおおっぴらにしたらややこしいからな。穂高を殺すチャンスは今後何度でもあり,それを準子の仕業にできる確証は得た。後は,順番だけだったのさ。だいたい,東野圭吾の書いた内容が細部まで正しいなら,準子の死体を彼女の部屋に運び込んで,穂高と関係ない死に見せようとしたのに,なぜ俺と雪笹は,カプセルの入った瓶を瓶ごと持ち帰らないんだ。俺は鼻炎じゃない。そんなものを置いといたら,準子が殺意を持っていた相手が穂高だってことは警察にまるわかりじゃないか。それくらいのいい加減さは推理小説だからしかたないのさ」

「し,しかし,美和子さんが犯人だとしても,証拠が……」と加賀がいった。

「証拠? たいした証拠もなしに犯人を俺たち3人にしぼり,おまけに5分間も他人が入り込めない時間があったというのに根拠なしに兄妹共犯のセンを捨てたやつが何言いやがる。じゃ言ってやろう。準子の死は確かに新聞に載ったさ。そして,誰かの口から結婚式の前日に準子が白いワンピースを着てここにやってきたことも美和子は聞いているだろう。だがな,どうしてそんな,あのときとそっくりなワンピースを買ってくることができるんだ。貴弘は量子力学と本の虫で,女の服の細かい違いなんてわかりゃしないだろう。そんなそっくりな服を選べたということは,美和子,お前は会ったこともないはずの準子の服を知っていたんだ」

「そうか,つまり281頁の『誰が犯人でもいい』というのは,美和子,『自分以外の』という意味だったんだな。たとえこの兄でも……」貴弘がゆらりと立ち上がった。

「ははははは。逆,逆だよ,神林。美和子は,しつこいお前から逃れるために穂高との結婚を急いだんだ。お前が殺人犯として目の前からいなくなるなら,結婚相手や犯人だけでなく,殺されるのだって誰でもよかったのさ。だいたい,加賀。お前も甘い。殺人事件の容疑者を訪ねるのに,1人きりってことがあるか。裁判で,言った言わないでもめるに決まってるじゃないか。今どきの推理小説では,よほどの都合がない限りちゃんと警察は2人で動いてるぞ。2人で動けば,とりあえず美和子を容疑者から無造作にはずすような間違いはせずにすんだんだ」

……加賀はのちに別の事件でも容疑者とビールを飲んだかどで,懲戒免職となった。

2000/10/29

[雑談] マキシシングルとは?

 なんだか重い本が続いています(このあとも!)。ご覧になるみなさまも鬱陶しいことでしょうが,実は読んで書くほうもしんどいのです。おまけに外は雨。そこで,ちょっと気分転換に音楽,というか音楽CDの話。

 実力派ファンク,バラードからビジュアル,フォーク系まで,なかなかバラエティに富んでにぎやかな昨今のJ-POP周辺ですが(烏丸的には70年代ロックを引き継いだような音の椎名林檎でしょうか。でも,あれは四六時中繰り返して聞くものではないなぁ),新譜紹介やヒットチャートでときどき目にする「マキシシングル」とはいったい何なのでしょう?

 メディア的には8cmシングルに収まらない長さのものを12cmで発売するもの,でよいと思うのですが,それだと「ミニアルバム」との違いがわかりません。
 かつて,ニューオーダーとかフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなど,ニューウェーブ系のバンドがどかどかリミックスバージョンを12インチシングルで出していた,そういう扱いのものだというのはわかるんですが,「マキシシングル」と「ミニアルバム」にちゃんとした区別があるのかどうか。

 気になるのでいろいろあたってみました。たまたま目にした小室哲哉によるインタビューでは,彼もマキシシングルの意味を知らないことがわかりました。「マキシシングルっていうのは,デカいようなシングルですか?」なんて言ってる。

 ……シングルとアルバムの違いは,オリコンや日本レコード協会の規定によるものらしいのですね。

 オリコンでは,データをまとめる際に,「リミックスなどを除いたオリジナル曲の数が4曲までのもの」をシングル,5曲以上だとアルバムとしているのだそうです。だから,オリジナルな曲が3,4曲入っていると,お徳でしょ,という意味合いで「マキシシングル」といって売り出す。また,その場合はシングルヒットチャートの対象となる。
 一方,日本レコード協会では3曲以内で1,600円以下のものを「シングル」と呼び,それ以外をアルバムとしているらしいのですね。不統一な話ではありますが,実際のところ,レコード会社はオリコンの規定に従って呼んでいる例が多いもようです。

 ところで,洋楽で,たとえばマイク・オールドフィールドの古いアルバムなんかは,アルバム全体で1曲(がPart1と2に分かれている)なんて例もありました。これはシングルヒットチャートにあがったのでしょうか。また,最近は「エンハンスドマキシシングル」なんて言葉まで……まったくもう,何が何やら。

[補遺] 『日本の危機』(櫻井よしこ)にみる人権派の功罪

 書評(とは言えんなあ)をアップした後,読み返してみても,まったくのところ総括的な印象しか書けておらず,本書のリアルで厳しい姿勢はとても伝わりそうもない。しかし,本書の説得力は,執拗な取材(あるいは取材拒否を受けたいきさつ)と数字の裏付けがそれを支えているのであって,すなわち本を読まないとその手応えは伝わらないということになってしまう。

 ともかく,次のような方は本書を手に取り,一読することをお奨めしたい。
一,税金や年金資金の使われ方に疑問を感じている方。
  (逆にこれまで一度も疑問を感じたことのない方。)
ニ,郵政の仕事や農協についてこれまでとくに気にしたことのない方。
三,21世紀に向けて,子供の教育に不安を感じる方。

 ここでは三つめ,子供の教育について,本書からいくつか話題をピックアップしてみよう。

 ちょっと大げさな言い方だが,現在の日本では,「人権」という名の無敵モードの怪物が教育の現場をのし歩いている。弱者(少年,非差別者など)の人権を憂慮するあまり,他者の権利まで蝕む例が少なくない。たとえば,殺人を犯した少年の人権を守らんと裁判に人権派の弁護士が何十人も集い,加害者の名前や写真を公にすることに過剰反応するあまり,結果として被害者の人権が無視される。

 極端に人権教育に突き進んだある県では,学校教育全体が「人権」という切り口で仕切られ,過剰に平等や権利を押しつける。その柱は「差別・選別をしない」ことにあり,軍隊を思わせる「起立・礼」「前へならえ・気をつけ・休め」はなし,差別になるからと運動会のリレーも行わない。学力についても結果としての平等を守るため,どんどん低い水準に足並みそろえ,進路指導でセンター試験を受けるなと言われることもある。さりとて県内外の私学や国公立付属校を志望すると,教師にどなられるだけでなく,生徒仲間でも苛められる。

 また,行きすぎた少年法の遵守,体罰への拒絶反応は,たとえばこんな事件を呼ぶ。
 ある高層マンションのおどり場を中学生がたまり場にし,喫煙,放尿のし放題。付近の住民が学校に通報し,教師4名が駆けつけたところ,過去にも喫煙と万引きの経歴があった野球部の部員がいたことから野球部顧問の教師が彼を拳で一発殴る。その場は当人,親が謝罪するものちに問題化し,教師は異動させられる。少年は罪を問われるどころか教師を「飛ばした」とヒーロー扱いされ,卒業していく。
 つまり,社会では許されない行為が学校では許され,結果的に無法地帯となっている。しかも,その責務は親や社会ではなく,常に教師や校長が負う。
 多くの中学校にはすでに教師が生徒を見下ろす「教壇」はなく,授業中の私語を注意する力が教師にはない。注意すると逆に「子供には授業を聞く権利がある」と抗議されるのだ。授業を聞く権利を放棄し,さらに他の生徒の権利を侵害していることは放任されるのである。

 今の学校では,たとえば授業中に生徒を指名し,当人が答えられないと,親から電話で「わからない問題で当てないでくれ」と抗議される。学級通信に「誰それは○○でよく頑張った」と書くと,「載らない子の気持ちを考えてやめてほしい」と注意される。その場で反論しても,すぐに教育委員会,さらに議会などに通報されて大騒ぎになるので,いずれ抵抗は無駄である。

 しかし……そんな子供たちも,いつか外の砂漠に出て,自分で水を探さなければならないと思うのだが。それともこの国では,子供が死ぬまで親が何もかも面倒みてやれるとでもいうのだろうか?

2000/10/28

本の中の強い女,弱い女 その四 『日本の危機』 櫻井よしこ / 新潮文庫

Nimg2048【豊かな隷属国・ニッポン】

 1995年のオウム・地下鉄サリン事件で最も活躍した女性といえば,坂本弁護士一家拉致事件以来ずっと,生命の危険をおしてオウム真理教を追求し続けたジャーナリスト,江川紹子の名を挙げて異論のないところだろう。
 そしてもう1人強く印象に残ったのが,当時日本テレビで報道キャスターを担当していた櫻井よしこだった。
 地下鉄サリン事件当夜,正体不明の犯人たちの足取りを最も正確に推測し,さらに霞ヶ関を狙った犯行の目的を断言したのは同局の「きょうの出来事」だった。さらに,その後しばらく,信者の青山吉伸元弁護士が報道番組の取材に応じたのだが,身勝手かつ非論理的な応酬に全国の視聴者がいらだつ中,最も常識的,最も効果的に質問を浴びせたのもまた彼女だったように思う。オウム真理教側がその後窓口をロシアから帰国した上祐史浩外報部長(当時)に切り替えたのは,その番組で青山が絶句したからでは,と一部のウォッチャーの間では有名だった。

 櫻井よしこはベトナム生まれ,ハワイ州立大学歴史学部卒。クリスチャン・サイエンス・モニター紙東京支局員,日本テレビニュースキャスターを経て,現在フリー・ジャーナリスト。彼女が週刊新潮に連載したレポートをまとめたのが本書『日本の危機』だ。

 目次を見てみよう。誰も止められない国民医療費の巨大化/年金資金を食い潰す官僚の無責任/国民の知らない地方自治体「大借金」の惨状/族議員に壟断された郵政民営化の潰滅/税制の歪みが日本人を不幸にしている/教育荒廃の元凶は親と日教組にあり/農協は農民の診方か敵か/国民の声を聞かない官僚の法律づくり/スピード裁判なぜできない/政治への無関心があなたの利益を損なう……。
 ほか,大手メディアの罪悪,人権派の弊害,少子化と母性喪失問題,女性問題,対中国外交の弱腰など,21にわたる問題が提起され,その口調は辛口と言う言葉では物足りないほど苛烈で厳しい。しかし,厳しく指摘されるだけのことをこの国はしてきており,その柱はさらに傾く一方なのである。

 カエルと水を鍋に入れ少しずつ温度をあげていくと,危機に気がついたときにはカエルはもう動けず死んでいくという話をご存知だろうか。この国はすでにかなり煮立ちつつある鍋の中で,安閑と泰平を満喫しているかのようだ。その無知を傲慢を,櫻井は厳しく叩く。責められるのは保身と利権に走る官僚,メディア,政治家,法人だけではない。知らぬまま放任する国民もまた責任を放棄していることでは同様である。

「子供じみているうえに卑怯である。」(族議員に壟断された郵政民営化の潰滅)
「少なくとも自らの誤りを認め,より広い視点でとらえた全体像を示してみよ。」(朝日新聞「人権報道」に疑義あり)
など,本書における追究の口調は厳しく,著者に対する各省庁,メディアからの反論も厳しいと聞く。
 もちろん,すべて櫻井側が正しいと考えるのは無理だろう。いくらスタッフに恵まれても,一個の人間がこれだけの領域を網羅し,すべてにおいて全体像と各論と改善案を正確に把握するのは困難に違いない。しかし,疑惑の数字,つじつまの合わない事実がこの国にあふれていることは事実であり,これに応えるのは省庁,メディアのみならず全国民の義務だろう。
 そして国民が応えるべき相手は櫻井ではない。国民である。

2000/10/27

本の中の強い女,弱い女 その三 『見守ってやって下さい』 内田春菊 / 河出書房新社(河出文庫)

Nimg2021【セミヌードな心】

 内田春菊,最初のエッセイ集です。
 数ページごとにイラストが載っていることもあって,通勤の片道で読めてしまいます。内容も,日常生活や仕事のあれこれを背伸びせずにつづったもので,他愛ないといえば他愛ない……。

 問題は,引っ込み思案な少女が書いたようで,そのくせ肌の下の血管が透けて見えてしまう,この文体です。さらけ出しているはずないのに,かなりすっぴん。媚びてるふうでないのに,若さが悩ましい。
 少し,文体というものについて考えてしまいました。

 かつて,1970年代後半から1980年ごろにかけて,若手女流作家が続けて現れ,ちょっとしたブームになったことがあります。
  『海を感じる時』(中沢けい)
  『もう頬づえはつかない』(見延典子)
  『葬儀の日』(松浦理英子)
  『ダイアモンドは傷つかない』(三石由起子)
  『1980アイコ十六歳』(堀田あけみ) などなど

 その当時感じたことですが……女性の文体には,勝てない。

 表現の力において,本来勝ち負けに性別は関係ないはず。にもかかわらず厳然と違いはあって,女性が女性であることを剥き出しにしたとき,男は絶対に勝てないのです。
 これは何故だろう,ときどき考えるのですが,そもそも論理的な命題ではないのでいくら考えても正解が出てくるはずもありません。

 ただ,『見守ってやって下さい』を読んで,電車の中で読むにはちょっとつらいえっちなイラストや,ひらがなの多い,シャワーのお湯をはじくような文体にふれて,ちょっと気がついたことがあります。
 これ,セミヌードだ。
 若い女の子がセミヌードになったら,男は勝てない。オールヌードなら,勝負にもちこめるんです。こちらも脱ぐか,逃げるかすればよい。でも,相手がセミヌードだと,逃げも脱ぐもかなわず,おじさんはもじもじと座って,白旗,振るしかないのです。

 もうひとつわからないのは,文体はナチュラルとして,どうして若い女性である作者が,男が動揺するようなえっちなイラストを描けてしまうのかということです。若い男が妄想を紙に写しても,普通はもっとヘタクソ。
 なぜ彼女は,男たちの妄想,つまりこの世にいない架空の女の子を正確にトレースできてしまうのでしょう。男性体験が豊富とか,そういった下世話な理由づけでは無理です。木の葉や枝にそっくりな虫が,自分の姿を外から見らないはずなのにそういう姿になった,それと同じくらい説明がつかないことなのです。

 けれど,内田春菊は,そのうち自分をカミングアウトしてしまい,『私たちは繁殖している』や『ファザーファッカー』の仕事でオールヌードになってしまいました。評価は得ているようだけれど,まぶたの線を最後まできちんと描いてしまう内田春菊,それはもう僕のマターではありません。

[雑談] アフターフォロー(含,ちょっと怖い話)

 ここしばらくの書き込みのアフターフォローです。

 まず,偕成社の「伝記世界の作曲家」シリーズ。
 昨日,帰りにちょっと大きめの書店に寄ることができたので見てきました。本文の文字も大きくて,そうですね,本の造りとしては小学校高学年向きといった感じなんですが……ちゃんとエルトン・ジョンの伝記には同性愛やドラッグについて普通の音楽雑誌の記事程度にはちゃんと書いてありました。立ち読みで数冊ざざざっと眺めただけですので,チャイコフスキーの場合,同性愛志向(嗜好か?)について書かれているかどうかは確認できませんでしたが,心の通わぬかなりとんでもない結婚だったことは十分うかがわせるなまぐさい内容になっていました。
 写真などもそれなりに豊富で,好きなミュージシャンの資料として持っていて悪い本ではないとは思うのですが,なぜにそれをわざわざ子供向け,それも明かに小学生向けとして販売しているのか,偕成社の本意は謎です。
 もっとも,たとえば烏丸がアウシュビッツの強制収容所について知ったのは小学校のときで,それは子供向けの本ながら山のような髪の毛や裸で追いやられる女性の写真,石鹸の話などが載っていました。「小学生だから無難にこのくらい」と考えることのほうが「子供だまし」なのかもしれません。

 続いて,岐阜県富加町,町営住宅の怪現象の件,もうあちこちのテレビ番組などでも取り上げられ,新鮮味はなくなってしまいましたが,その後もれ聞いた話では,入居時に4階建ての1階にお年寄りが振り分けられ,それで住民と町役場の間でいざこざがあった,という話です。それでなんとなくこの町営住宅に不満を抱えていた上のほうの階の住民が,建材の伸縮による音(昼と夜の温度差や乾燥の具合で家屋が鳴るのはごく普通のこと)に過剰反応し,ストレスから「何かいる!?」という気持ちが高まった,ということかな,と思われます。……もし霊の仕業でないなら。

 岐阜県富加町の話題の際にもれ聞いた,妹が嫁いだ家の近所の話。
 その話の場所というのは,小高い丘の緑の中に,ぽつんぽつんと一戸建ての家が建っているという具合なんですが,そこに「出る」そうなんです。その丘は古いお墓だったそうで,それをバブルの盛りのころに,不動産業者が十分な御祓いもしないまま,がががっと荒っぽく造成してしまったというのですね(映画「ポルターガイスト」のまんま!)。しかも,生木が生えているのをきちんと掘り起こしたりしなかったため,建てつけも非常に悪い。おまけに,そういう安造りのわりに,なにしろバブルの盛りなので,非常に高い価格帯で売られ,無理をして買った若い夫婦など,文字通り夜逃げした家が何軒もあり,夜ともなると陰陰滅滅として,余計にいけない。今でもいくつかの家で「出る」そうです。
 妹夫婦はその土地も購入の候補にしていたそうで,今はほっと胸をなでおろしているとのことでした。
 実は,その近辺のほかの,いわゆる「心霊スポット」についてもいろいろ聞いたのですが,それはまたいずれ。

2000/10/26

本の中の強い女,弱い女 その二 『一絃の琴』宮尾登美子 / 講談社

Nimg1990【無明の夢やさめぬらむ】

 『一絃の琴』は,高知出身の作家宮尾登美子が,地元に伝わる一絃琴を題材に幕末から昭和にかけて女二代の人生を克明に描き上げた小説。上梓まで17年,書き直すこと5回と言うだけあって,全編,か細くも凛とした絃の音漲る稀有な作品。作者は本作で直木賞受賞。

 一絃琴は須磨琴とも呼ばれ,在原行平(業平の兄)が須磨の浦に流された折,浜に流れ着いた舟板に冠の緒を張って葦の端を指に巻いてかき鳴らしたのが端緒とされる。ただし須磨琴は合奏が主で,土佐に伝わる一絃琴とは奏法が異なる。
 その後,一絃琴は京都をはじめ各地で盛んに演奏されるが,やがて衰退し,明治になって伊予上野村の千足神社の祠官の子に生まれ,正親町中納言家の一絃琴取締役を務めた真鍋豊平が一念発起し寂びれた一絃琴再興のため全国を行脚。郷士門田宇平が京から戻って土佐に伝えた。

 『一絃の琴』の主人公は,この豊平門下の門田宇平に学んだ沢村苗。士族の娘に生まれた苗は,年に一度沢村家を訪ねる旅絵師に琴を与えられ,のちに門田宇平に習い,さらに宇平門下の松島勇伯を師と仰ぐ。身勝手の許されない時代と女という性の故,二十有余年琴から離れるも,のちに土佐の名士市橋公一郎の後妻として市橋塾を開き,最盛期四百人とも言われる子女を集めて一絃琴を教え広める。しかし,公一郎の死とともに市橋塾は閉ざされ,苗は養女稲子の育成に没頭する。
 後半は,有り余る美貌と才能,家柄を誇り,市橋塾を継ぐ者と目された岳田蘭子が,その驕慢さゆえ苗に否定され,長い年月の果てに高知へ戻り,一絃琴を再興して人間国宝に指定され,死ぬまでを描く。

 宮尾登美子は実在した一絃琴の担い手として苗と蘭子の二人をねばり強く描き上げる。どこまでも堪える苗(吽)と華やぐ蘭子(阿),この二人の対照的な性格,一絃琴への姿勢,強さ。幕末,明治という時代の中で圧殺され圧殺されてもなお息吹く苗の個,それに対し,あらゆるものを手にしながらただ一度の敗北に狂おしく身悶えする蘭子。作者の筆は底意地が悪いほどに二人の人生を踏み躙り,斬り刻み,ただ一絃の響きのみが蕭然と漂う。
 行平,豊平,宇平,有伯,旅の絵師らに綿々と伝わる琴の音の寂寥感。それを代表するものとして,架空の登場人物,仲崎雅美と共に時の向こうに消えてしまった有伯直伝の「漁火」が心を打つ……。もっとも「漁火」は存外に華やかな曲だというが。

 『一絃の琴』は最近NHKで苗(田中美里),蘭子(吹石一恵)ほかでドラマ化された。ドラマでは,有伯の死やその娘の扱い,苗の婚家など,あれこれ原作と異なるところも少なくない。
 また,一絃琴はこの烏丸とも因縁浅からず,この正月に亡くなった家人の父親は真鍋豊平の生家と同じ伊予上野にあって一絃琴の制作で知られ,家人もまた母親より一絃琴を学んでときに廬管を両の指に嵌めて弦をかき鳴らす。琴は『一絃の琴』冒頭で旅の絵師亀岡がこしらえた通り素朴な木の造り,今週末には真鍋豊平没後100年を記念する演奏会が催される。

 伊予上野に往く風眇々,返す風蕭々。

新シリーズ 本の中の強い女,弱い女 その一 『たったひとつの冴えたやりかた』 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア / ハヤカワ文庫

Nimg1984【太陽のまっただなかに】

 新シリーズなどと銘打ちながら,ディスプレイに向かって書き始めた今にいたってもメモ1枚用意していないこの烏丸。しかもそのテーマたるや本の中の女たち!! そんな人生の大テーマなのに,手ぶらで大丈夫か!?
 答え:登場人物の半分は確率的に女性なんだから,なんとかなるでしょ。

 では,はじまりはじまり……。

 銀色の髪,フランス人形のように愛らしい姿で小象に乗る,写真の少女の名はアリス。
 幼ないころ,高名な探検家の父と同じく著名な作家である母に連れられ,世界中を旅行する。飛行機や銃に荒らされる前のアフリカで野生のマウンテン・ゴリラを実際に見た最初の白人女性となり,カルカッタでは飢えた人々の間を歩き,まだ平和だったベトナムの森で子馬に乗って駆け回る。知的でエレガントで底なしにタフな母親から自立する闘いに疲れて12歳で自殺を試み,10代の末には自分を社交界にデビューさせるために企てられたニューヨークでのパーティと英国国王謁見の予定を含む世界一周旅行を台無しにするためだけに3日前に出会った男の子と駆け落ちして結婚,すぐに離婚。
 20代前半,グラフィック・アーティストとして雑誌に寄稿する一方,アナーキストと称して左翼運動に没頭。ヨーロッパで戦線が拡大した1942年には米陸軍に入隊,女性として初めて空軍情報学校を卒業,写真解析士官としてペンタゴンで働く。1945年,ドイツにわたり,のちにアポロ計画にかかわる有能な科学者たちを合衆国に連れ帰るプロジェクトに参加。そのプロジェクトの立案者で指揮官だったハンティントン・D・シェルドン大佐と結婚。CIAの発足とともに夫婦で冷戦時代のスパイ活動に深く巻き込まれる。
 いったん辞職願いを書いて夫のもとから姿をくらますが,40代後半になって基礎科学を学びたいと大学に入り直し,実験心理学に挑戦。大学を最優秀の成績で卒業,博士号を取得,心理学の講師となる。健康上の理由で講師を辞してのち,1968年,男名で作家デビュー。実験的,野心的,サイケデリックかつ骨太い作風の短編,長編で主な賞をたて続けに受賞。
 1977年,実は女であったことが暴露され,同時にそれまでの人生を明らかにして世界中のファンを驚愕させる。
 1987年,弁護士に後事を託す電話をかけ,病気で寝たきりとなった夫を射殺,同じベッドの上で自らの頭を打ちぬく。

 ……以上は,連作短編集『たったひとつの冴えたやりかた』収録作品のあらすじではなく,その作者,J・ティプトリー・ジュニア(アリス・シェルドン夫人)その人の生涯の概略である。

 『たったひとつの冴えたやりかた』は,作者の最後の作品集で,従来の実験的な作風とは異なり,穏やかでノスタルジーあふれる連作スペース・オペラとなっている。
 大宇宙にあこがれる少女コーティー・キャスが,16歳の誕生祝いに両親から贈られたスペース・クーペをこっそり遠距離用に改造して,遠い星々をめざす冒険の旅に出る。そして彼女は偶然,希望通り未知の生物と接近遭遇する。しかし……。

 失明し,アルツハイマーに苦しむ老いた夫と,心臓疾患の悪化した自分。かねてから夫婦の間に自殺の取り決めがあったとされる彼女が,本作の明るい少女と暗い結末にこめたものは何だったのだろう。

2000/10/25

今日はビゼーの誕生日 『風車小屋だより』 ドーデ,大久保和郎 訳 / 旺文社文庫

Nimg1965【とりとめもなく……】

 今日,10月25日はワルツ王,ヨハン・シュトラウス(1825年),そしてジョルジュ・ビゼー(1838年)の誕生日。

 ビゼー作曲,クリュイタンス指揮,パリ音楽院管弦楽団の組曲『アルルの女』『カルメン』はとてもよい。カラヤンに比べてゆったりとしてつやがあり,ストコフスキーより明確。
 とくにあれだけ幅とねばりのあるクラリネットとフルート(アンリ・ルボン?)の音色は,あまり記憶にない。低いところから,こう,ひたひたと,しかし着実に満たしていくような。
 高校時代だったろうか,毎週のように縁戚の家を訪ね,応接間にこもって『アルルの女』を繰り返しかけながら,本棚のポーやユゴー,メルヴィルにふけったことを思い出す。

 シュトラウスやビゼーは,音楽の教科書や入門用名曲集に再三取り上げられた分,損をした感じがしないでもない。ツウをきどる会話では出てこないか,せいぜい『美しきパースの娘』について知ったかぶりする程度。『カルメン』(メリメ)や『アルルの女』(ドーデ)の原作まで追う者が,今,どれほどいるだろう。

 そういうわけで,今朝は,ドーデ『風車小屋だより』なんて懐かしいものを持ち出してみた。添付画像は,あの,草色の厚紙の箱に入っていたころの旺文社文庫で,これもまた懐かしい。フランシス・ジャムの『三人の少女』は当時旺文社文庫でしか読めなくて……とか言っても感傷にすぎないのはわかっているのだが。

 今ふうにいえば『カルメン』が青年将校によるストーカー殺人事件なら,『アルルの女』はストーカーにすらなれないウブな青年の物語。
 二十歳になる明るい百姓の青年ジャンが,闘技場でたった一度会ったことのあるビロードのレースずくめのアルル女に夢中になる。彼の家族は反対しつつも披露宴を催すが女は現れず,ほかの男の情婦であることが明らかになる。ジャンは陽気にふるまうが,ある朝,母親の制止をふりきって飛び降り自殺してしまう。

 その前のページの,『星』という短編が,これまたうっとりするほど美しい。
 羊飼いが番をする山の上にお嬢さんが食糧を持って現れる。ところが雷雨による増水で帰ることができなくなり,二人は並んで星を見ながら星についての言い伝えを語り合う。そのうち,お嬢さんは羊飼いにもたれるように眠ってしまう。それだけ。

 村祭り,プロヴァンスの教会,山羊,羊,星。星。

2000/10/24

科学と文学について考える 素材その十(最終回) 『すべてがFになる』 森 博嗣 / 講談社

Nimg1958【「日」でも「秒」でもなく「時」で管理。なにそれ?】

 とくにいくつという予定はなかったが,そろそろ(おそらく読み手の皆様も)飽きてきたことだし,その十とキリもよいので「科学と文学」シリーズは今回で打ち止めとしよう。ふと気がつくと『パラサイト・イヴ』に始まり,『すべてがFになる』で終わる……どよどよどよん。

 ミステリとしての『すべてがFになる』についても言いたいことのひとつふたつなくはないが,ここではコンピュータの扱いについてのみ,いくつか指摘しておきたい。

「いえ……,UNIXを介してFTPしてますから,フロッピィは使いません。大丈夫だと思いますけど……」
 いきなり,これだ。これは研究室のMacにコンピュータウイルスが,という状況で出てきたセリフだ。その前ページに
「あとはネットワークからソフトを持ってくるときだね,気をつけなくちゃいけないのは」
とあるからコンピュータウイルスがネットワークを介しても波及するという知識はあるようだが,「UNIXを介してFTP」なら大丈夫というのでは,何もわかっていないとしか思えない。

 本作に登場する某大手ソフトハウスは,離れ小島に入り口が1つしかない研究所を設け(消防法違反),有能な開発者50人をそこに閉じこめてソフトを開発させている(プログラマやオタクの生活を理解しているとは思えない設定。電気街もコンビニもないところではPCオタクの3分の2は棲息できない)。その研究所は「レッドマジック」という独自OSによって完全管理されており,レッドマジックの現バージョンは4,それを7,8年使っている。
 研究所の奥にはそのレッドマジックを開発した天才工学者が7年間幽閉されており(誰に?),彼女に食事や本や機材を渡す出入り口はすべてビデオに撮られ(なんで?),その記録が全部データとして残されている(どうして?)。もちろん,それも彼女の作ったレッドマジックとその制御下にあるロボットが管理している。

 ある日突然,レッドマジックがシステムダウンし,同時に殺人事件が起こり,電話もかけられなくなってしまうのだが,そこでスタッフが言うにことかいて,
「レッドマジックはセキュリティが完璧なんだ。どんな人為的な工作にも対処できる。…(中略)…あらゆるソフト的な破壊工作に対応している」
 複数のスタッフがいぢったOSのセキュリティが7,8年経って「完璧」なんてあるかぁ!

 そもそも,その技術者連中たるや,電話回線とPCやMacがそこにあり,パソコン通信サービスのIDを持っているにも関わらず,警察に連絡もできない。で,これまでレッドマジックがやっていた管理を徹夜でUNIXに差し換えるという。それが可能なら先にDOSのTERMでも使え。

 そもそも,幽閉者が作ったシステムに,幽閉者をチェックさせているのだ。そのへんをこれ以上つっこむとネタバレになってしまうので詳細は省くが,これだけは言っておきたい。本書の背表紙には我孫子武丸が
「ずっと8ビットだったミステリの世界もこれでようやく32ビットになった」
と賛辞を送っているが,これはコンピュータをよくご存知ないための誤りだろう……本作のレッドマジックはどう論理的に考えても16ビットだと思うぞ。

 本書は,理系人間の書いた,理系人間待望のミステリ! とよく言われる。しかし,理系,文系以前に,もう少し考えてほしい点が少なくない。某所で上記のようなことを指摘したところ,熱狂的ファンから総攻撃を受けた。ある理系大学生がメールでいわく,
「僕はコンピュータには詳しくないが,そのあたりは全然,気になりませんでした」
 ……今どきの理系の論理はそんなものなのか?

科学と文学について考える 素材その九 『地球環』 堀 晃 / 角川春樹事務所(ハルキ文庫)

Nimg1946【あなたの補助頭脳をチェックしておきたいんです】

 紡績会社社員でもある堀晃は作家としては寡作だが,わが国のハードSFの第一人者と称されることが多い。彼の『太陽風交点』は,おそらく国内で書かれたハードSFとしては最も高い評価を得た短編の1つで,1981年,第1回日本SF大賞を受賞した。
 それが,悲劇の始まりだった。

 SFというのは,マイナーな文化である。
 『日本沈没』のようにベストセラーが現れ,映画の原作として話題になることがあっても,筒井康隆のようにテレビCMにまで登場し,不気味に嗤う作家がいても,その根本にあるのは,SFファンの中から作家が登場し,SFファンのために作品を書き,それをSFファンが評価するという仕組みである。そして,この国のSF文化は,星新一,小松左京,筒井康隆,石川喬司ら,第一世代を頂点とする一種の内燃機関を構成し,新人は極力SF作家の集いにはせ参じ,ベテランからの評価を得ようとする。悪くいえば家元制度のように閉じた社会であり,別の閉じた世界を構成する純文学,大衆文学の文壇とは激しく反目し合う。その結果どういうことになるかといえば,先に述べた大物作家の誰一人として芥川賞,直木賞は受賞していないし(半村良が直木賞を受賞したのは,SFでなく中間小説),SF界側は大江健三郎の『空の怪物アグイー』を一切評価しない。

 そして,そのマイナーな文化をビジネスとして体裁づけ,長年にわたって新人作家のデビューや生計の一角を支えていたのが「SFマガジン」「ハヤカワ文庫」の早川書房である(東京創元社の創元推理文庫のSF作品はいずれも海外作品の翻訳で,国内のSF作品は収録されない)。
 そのハヤカワが,日本SF大賞受賞作『太陽風交点』文庫化の既得権でもめ,作者堀晃と徳間書店を相手に訴訟を起こしたことが,第一世代のSF作家の大半を怒らせ,彼らのハヤカワ文庫収録作品はそれ以降増刷されなくなった。もちろん,以後「SFマガジン」に第一世代の新作が発表されることもなかった(光瀬龍など,一部を除く)。
 「SFマガジン」は独自に若手を育て,大原まり子,神林長平らで生き長らえるが,ファンと作家が密着し,閉じた世界で互いを育んできたSF界にとってこの分断はあまりにも大きかったといえるだろう。

 早川書房はそれ以前から,原稿料が安い,育ててやったという顔をする,など,必ずしもSF作家から好もしく思われてはいなかった。そんな早川書房を「奢っている」「愚かな」と責めるのは簡単だが,藪の外にいる者に実際のところはよくわからない。いずれにしても,日本SFはそれ以降あっけなく求心性と継続性を見失い,失速していく。
 もっとも,1980年以降というと,海外SFも魅力を発揮できなくなるころで,単に当時はSF黄金時代の終焉,あるいはSFが映画やゲームに拡散していく時期だっただけなのかもしれない。

 さて,その堀晃の短編集が,本当に久しぶりに文庫になった。本『地球環』にはその短編うち,「情報サイボーグ」シリーズが収録されている。
 堀晃の作品は,宇宙や情報工学についての根源的な理論や世界観をベースにするため(科学雑誌などでもてはやされる,いわゆる流行の話題はあまり用いない),年月を経ても作品がそう古びない。SFは苦手,科学は苦手,という方も,ぜひ手にとって本作に目を通してみていただきたい。
 ここには,SFがまだ力を持っていた最後の時代の,上質な知的エンターテイメントがある。

科学と文学について考える 素材その八 『竜の卵』 ロバート・L.フォワード,山高 昭 訳 / 早川書房(ハヤカワ文庫)

Nimg1940【近くて遠い隣人の物語】

 ハードSFを1冊,ご紹介したい。
 ハードSFとは,端的にいえば科学をまじめに取り上げたSFのことである。科学をまじめに取り上げてないSFは,ソフトSFではなく,スペースオペラやファンタジーと呼ぶ。すわなち「サイエンス・フィクション」の略としてのSFの本領はハードSFにあるといって過言ではないだろう(では,レイ・ブラッドベリやフレドリック・ブラウンは,と問われたら,とりあえず船で逃げよう)。

 ところで,一言で科学と言ってもいささか間口が広い。航空力学と量子力学を同じ箱に入れてどうするという気はするし,最近では金融工学だって理系の学問だ。しかし,普通金融パニック小説をハードSFとは呼ばないし,バイオ,ネットワークものについてもあまり聞いたことがない。やはり,宇宙を舞台にメカががしがし活躍する,そんな固め(?)のSFをハードSFと呼ぶことが多いようだ。

 ここでイチオシしたいのはジェームズ・P.ホーガンなのだが,この作家には大きな難点がある。創元推理文庫の初期の『星を継ぐもの』『創世記機械』『ガニメデの優しい巨人』『未来の二つの顔』『未来からのホットライン』『巨人たちの星』,このあたりまでは本当に面白い。とくに月面で発見された宇宙服の死体が少なくとも5万年前のものだった,という謎に始まる『星を継ぐもの』は,デビュー長編でありながら破綻のないプロットに意外な展開で,読書の極上の楽しみを与えてくれる。しかし,ホーガンはなぜか途中から社会をテーマにしたもっちゃりした作風に変わってしまい,しかもいずれもうんざりするほど長い。いまやホーガンといえば面白くない作家の代表である。

 だから,ここではロバート・L.フォワードの『竜の卵』をプッシュすることにしよう。
 これは,太陽系から50光年離れた星域に誕生した,直径20キロにみたぬ中性子星(パルサー)に知的生命が! というかなりとんでもない設定を,最新科学を背景にとことん押し進めた長編である。
 SFには地球の700倍の重力の惑星メスクリンに棲息する生物を描いた『重力の使命』(ハル・クレメント)という名作があるが,それに正面から挑戦した力ワザが『竜の卵』である。本書に登場する生物チーラは,時間感覚が人間の百万倍であるため,地球からの探査線が中性子星に接近したわずか1か月の間に原始時代を脱し,文明を開花させ,宗教を改革し,科学を打ち立てる。本書はそのチーラの変遷を描くことで,サイエンス・フィクション(SF)が同時にスペキュレイティブ・フィクション(SF)であることを身をもって証明する……なんてカッコつける必要もない。ともかく読み応えあり。

 作者ロバート・L.フォワードはヒューズ研究所の化学者であり,デビュー以前からSF作家との交友の中で,さまざまなSF作品に貢献しているそうだ。講談社ブルーバックスには『SFはどこまで実現するか 重力波通信からブラック・ホール工学まで』という訳書もある。宇宙を舞台としたハードSFにチャレンジしたい竜の卵,もとい,作家の卵にお奨めである。

 ただ,今となっては苦笑するしかないのが作中のコンピュータの扱いである。本作が発表された1980年というと,まだパーソナルコンピュータがこの世になく,科学者たちは使用料と時間配分に気を遣いながら大型コンピュータから吐き出される紙テープ相手に格闘していた。本書に描かれたホストコンピュータは現在では小さなチップ1個で十分おつりがくる。ハードSFを書く難しさの1つの顕れだろう。

2000/10/23

科学と文学について考える 素材その七 『空想科学読本 第二版』 柳田理科雄 / メディアファクトリー

Nimg1930【柳田理科雄は本名】

 この手の書籍の嚆矢は『ウルトラマン研究序説』(中経出版)ではなかったろうか。これは科学特捜隊の組織・技術戦略や怪獣出現による経済効果を若手学者25人がまじめに(本当)分析したものである。1991年12月の発行で,1992年12月に発行されてベストセラーになった『磯野家の謎』(飛鳥新社)にも先んじる。

 『空想科学読本』もテレビ番組の重箱の隅をつっつく書籍の1冊で,怪獣が何万度という高熱の炎を吐き,正義のヒーローが一瞬にして巨大化して翼もないまま空を飛び,さらに巨大なロボットに人間が乗り込んで敵ロボットと格闘する,そういった「空想科学上の常識」に現実的な科学の面からアプローチを試みたものだ。
 その結果得られた結論は,物悲しくも爆笑ものだ。ウルトラマンはその体重を維持するために横に5倍は厚みのある肥満体でなければならないのに,空を飛ぶためにはヒラメのように平べったい形にならざるを得ず,しかも設定通りの速さで飛んだら衝撃波でずたずたになる。兜甲児はマジンガーZで船酔いし,敵とぶつかった瞬間慣性の法則で圧死する。ウルトラセブンの巨大化には最低9時間半かかり,逆に松坂慶子の肺にひそむ宇宙細菌ダリーと闘うためにミクロ化した場合は脳細胞も58億分の1の2.4個になり,記憶の大半が失われ,微生物として一生を終える。サンダーバードのジェットモグラは遠心力で非情な棺桶と化し,タケコプターをつけたドラえもんの頭はひびが入り,みかんをむいたようにめくれ返ってちぎれ飛ぶ。

 もちろん,こういった「空想科学」のウソを暴く遊びは,「巨人の星」の大リーグボールへのつっこみなど,マンガ誌の投稿欄などに古くから見られたものだ。しかし,OUTなどアニメ専門誌上での「宇宙戦艦ヤマト」に対するおちょくりを契機に,やがて様式を持った「遊び」と化し,現在ではそこそこヒットしたアニメやマンガ作品には必ず「つっこみ本」が後を追う。アマチュアによるファンジンやインターネット上のホームページでも同様のつっこみは花盛りだ。つまり,空想科学作品は,シリアスに書かれると同時にお笑いの題材となるという二重構造を背負い込むことになる。

 その結果,科学を背景にした作品は非常につらい立場に追い込まれた。
 およそ人間が人間として描かれていないミステリや,科学をまるっきり無視したホラーがベストセラーになる一方で,科学を匂わせる作品に限ってお笑いに足をひっぱられるのだ。もちろん,悪いことばかりではない。たとえばアニメ「ポケットモンスター」は,「その世界にはポケットモンスターが棲息する」という一点を除くと非常に理にかなった世界観を展開し,それが作品の魅力の1つともなっている。しかし,SFに新人が現れにくい原因の1つに,これらのつっこみ精神があるのもおそらく間違いない。

 だが,気にすることはない。第一に,ミステリやホラーはあの程度で立派に容認されているではないか。第ニに,本書の著者もそうだが,つっこみの背景にあるのは空想科学への底なし沼的愛だ。現に,本書のあらゆるつっこみは「ウルトラマン」などの空想科学番組に対する執着と,小学館などから発売された設定資料集を正しいと前提とした上でのものだ。
 といっても,昨今の怪獣映画がつっこみを恐れて大人向けドラマとしても破天荒な子供騙しとしても中途半端になってしまう気持ちはわからないでもない。ここは1つ,「どうせ昔のことだから」で押し切れる「大魔神」リメイクで気勢をあげてみるのはいかがなものであろうか。

2000/10/22

科学と文学について考える 素材その六 『生物学個人授業』 岡田節人,南伸坊 / 新潮文庫

Nimg1907【生命は絶えたことがない】

 「科学」そのものでなく「最近の科学と文学」のみだらな関係を覗き見したいという野望はすでに大幅に崩れつつあるが,それは烏丸の力不足97%,残りの3%はサイエンス・フィクション(SF)から何を紹介するかでまとまりがつなかいためである。今さら一昔前のハードSFなんか持ち出しても,何書いてよいのか正直よくわからん。
 SFについては後でなんとかするとして,今回もまた生物学関係。

 『生物学個人授業』は生物学者・岡田節人の講義をイラストレーター・南伸坊が自分なりにテキストにまとめ,イラストカットも担当した,というもの。
 テキストをまとめたのが南伸坊であることがポイント。つまり彼は,講義を聞き,理解の及んだ領域について自分なりの解釈に付加情報を加えて本にしているわけだ。清水義範と西原理恵子の『おもしろくても理科』や『もっとおもしろくても理科』とは構造的に全然違う。なにしろ『おもしろくても……』は学者でもない小説家が科学についてわかったようなことを書き並べ,その姿勢の怪しさをサイバラがナマスにする。面白くならないわけがないのである。
 で,それと構造的に違う本書がどうかといえば,こちらはもう,つまらない。講師はまじめに生物学を説き,聞き手は一生懸命それを再生産するのだから,笑いどころはない。笑いをとるための本じゃないのだから当たり前だけど。

 それでも(ってのは失礼だな),さすが専門家,たとえば『ジュラシック・パーク』ではDNAの再生の説明にずいぶんページをさきながら,DNAを被う染色体についてはまるっきりシカトを決め込んでいるとのご指摘。染色体を作るというのは今の生物学でも全く未開の領域で,ウソをつくにもタネがなかったということらしい。なるほど。
 そもそも,地球上のあらゆる生物は,もともとはたった一種類の単核生物から始まっている。では,現在,地球上に生物は何種類いるのか(答:8000万種類)。また,一番種類が多いのはどんな生物で(答:昆虫,とくに甲虫),またどうやってそういう種類を数えるのか。トキなんぞ貴重度が相当低い(絶滅しても辛抱すべき)という理屈はなかなか刺激的だ。
 あるいは,発生というお話。DNAがコピーされるだけなら,卵がオタマジャクシになり,オタマジャクシがカエルになる説明ができない。細胞がさまざまに分化するから発生は起こるのだが,その分化とは仮の姿であり,すべての細胞はそれぞれの細胞になる可能性を保有していると岡田は説く。
 では,最初は1個しかなかった細胞がいかにして成体にまで育つのか。遺伝子は個々の細胞を特徴づけるだけでなく,全体を統括してボディプランを担当する力も持っている。つまり,遺伝子を変えてもハエの頭を持ったカエルは作れないが,それでも,カエルやネズミが頭を作るために動員される遺伝子(ホメオティック遺伝子)は,ハエが頭を作るときに動員される遺伝子と似ている,ということである。このあたり,ホメオボックスについての話は面妖ながら非常に興味深い。

 しかし……指おって虫の種類を数えても,ホメオボックスに感動しても,文学への階段はいまだ遠い。やはり,文学たるもの,夢が破れるところから始めなくてはならんのか。というわけで,次に取り上げるのはとても哀しく,非道い本である。

2000/10/21

科学と文学について考える 素材その五 『アワビがねじれてサザエになった やっぱりふしぎな生物学』 奥井一満 / 光文社知恵の森文庫

Nimg1888【意思と遺伝】

 以前,『タコはいかにしてタコになったか わからないことだらけの生物学』という本を紹介したことがあるが,同じ著者によるシリーズ3冊めである。安易な文明論にはこぶしを握り,一方で正直に自らの仮説の限界を告白する。その正直さは好もしいが,さすがに3冊めともなると書きたいことが尽きてきたのか,今回は全ページの下約3分の1が空白かイラストで,あっという間に読めてしまった。さすがにこれは上げ底と言うべきか。

 それでも,昆虫など,生物の擬態というのは何故そうなっているのかさっぱりわからん,というようなことがたくさん載っていて,かつての昆虫採集少年としてはなかなか楽しい。
 たとえば,カゲロウの仲間にカマキリモドキというのがいて,前足のあたりだけカマキリそっくりなのだそうである。これが,何故そうなっっているのか,さっぱりわからない(カマキリのマネ,ということが遺伝子レベルでありうるのか。また,大きなメリットがあるのなら近いカゲロウの種がこぞってそうなりそうなものだがそうでもない)。
 アワビのような貝がやがて巻き貝になった,ということはわかっても,ホネガイの外のトゲトゲや,ナガニシのようなながーい殻,エビスガイのピラミッド型など,個々の特徴は説明できない。
 ウミウシや一部の昆虫がカラフルな模様を持っているのは,なぜか。自分でその姿が見えるわけはないのに。
 光る生物は,どうやって光る仕組みを得たのか? ホタルの場合は異性と呼び合うために用いられているが,なぜ昆虫の中でホタルだけがその機能を得たのか? それどころか,ほかの種のホタルの光りパターンを真似て,その種が近寄ってきたところを食べてしまうホタルもいるとのこと。そんなノウハウはどうやって獲得され,どうやって遺伝されるのか?
 などなど。

 そのほか,雑学として初めて知ったのは,高速道路のナトリウムランプ。これは,普通の灯かりだと虫が集まり,落ちた虫を引くとスリップしてしまう。だから,虫を寄せないナトリウムランプが開発されたのだそうだ(昆虫の可視波長の範囲がヒトに比べて紫寄りにずれており,赤寄りの長波長は見えないことによる)。

 ところで,いくら正直は美徳と言っても,こう「わからない」を連発されると物足りない思いもつのる。次はもう少し「仮説」を教えてくれる本を取り上げてみることにしたい。

2000/10/20

科学と文学について考える 素材その四 『デジタルな神様』 渡部浩弐 / 幻冬社文庫

Nimg1878【……僕は,誰かにならなければいけない。できるだけ早く。】

 芥川賞でも直木賞でもなんでもよいから,現代を舞台とする小説,数十冊にざっと目を通してみて,はたしてそのどのくらいが「テレビ」を,「少年ジャンプ」(などのマンガ誌)を,「ファミコン」(以来のいわゆるゲーム機)を正しく扱っているだろうか。テレビドラマの中の普通の家庭を描いた映像でも同様。たまにゲーム機が出てきても,背中を向けた子供が黙ってプレイする姿は「子供が親と疎遠である」ことを示すための記号でしかない。
 だが,カラーテレビの普及率,マンガ誌の部数,そしてゲーム機の販売台数を考えれば,これらが描かれない現代風俗は実は二葉亭四迷や夏目漱石以来の近代文学を縮小再生産する「時代劇」にすぎないのではないか。
 最近はテレビやゲームだけでなく,「インターネット」や「電子メール」,「携帯電話」なども加えてよいかもしれない。しかし,これらを日常の中に描き上げた作品は,小説誌から相手にされないか,せいぜいキワモノ,イロモノ扱いされるのが落ちだろう。

 ……と,極端なことを書いたが,もちろん若者の登場する作品の全部が全部「テレビ」「マンガ」「ゲーム機」「インターネット」を描く必要がある,というわけではない。星新一のように,作品が古びるのを防ぐため,できる限り時事的な話題,最新の風俗を排す,という考え方だってある。
 しかし「現在」や「人間」をつきつめて考えていくのに遺伝子やネットワークを素通りするのは,もはや作家の怠慢といえるのではないだろうか。

 さて,星新一といえばショートショートの神様だが,同じショートショート作家でも,渡部浩弐は逆に最新の技術的な情報,ゲームなどを積極的に取り込み,テーマとしている。そして,近未来を舞台に,それら(とくにネットワークとヴァーチャルリアリティ)が社会に及ぼす薄ら寒い何かを,短い落とし話として提供してくれるのである。とくに『デジタルな神様』は,オウム事件,脳死問題,電車内での携帯電話によるトラブルなどを予見した作品集として知られている。

 予見。それは素晴らしいことだ。しかし,オウム事件が実際に起こってしまった後,電車内で携帯電話の呼び出し音に顔をしかめる現在,その作品集はいかなる力を持ちうるのか。たとえば,ポケベルに奔走する少女たちを描く作品があったとして,その作品の現時点での価値とは? あるいは,誰かがオウム・サリン事件を完璧に予見して,事件の3年前に架空の教団による事件を描き上げたとして,それは本当に優れた作品だったろうか?

 結局のところ,作品の力は,時事的な情報,技術,風俗の織り込みや予見ではなく,それが読み手に何を伝えるか,読み手の何を変えるか,という,ごく当たり前のところでしか語りえない。
 渡部浩弐は,まれに見る「才」あふれるショートショート作家である。ダレることもなく一定の水準を維持し,しかも常により新しい情報の取り込みに余念がない(添付画像は最新文庫『2000年のゲームキッズ』より)。作品の「落ち」の多くはフレドリック・ブラウン風のパシっとしたアイデアに満ち,ときどきはブラッドベリのように甘酸っぱい。

 しかし,炭酸の効いた清涼飲料水以上の効果をあげるには,それでもまだ何かが足りない。それは発表の場が「週刊ファミ通」で,対象年齢が若いこととは関係ないだろう。書き手と読み手の間に,中毒ぎりぎりのバッドトリップが必要なことだって,この世にはあるのだ。多分。

科学と文学について考える 素材その三 『意識の進化とDNA』 柳澤桂子 / 集英社文庫

Nimg1856【精神は死をも超越できるということですね】

 遺伝子工学と文学,とくれば『ジュラシック・パーク』『ロスト・ワールド』のマイケル・クライトンを思い浮かべる方が少なくないだろう。なにしろ恐竜の血を吸った昆虫が押し込められた琥珀から血球成分を取り出し,その中のDNAを抽出,破損した塩基配列は現代の爬虫類のDNAから補って修復,恐竜を蘇らせるという設定である。実際,シベリアの冷凍マンモスからDNAを抽出し,遺伝子の一部を解析する実験は成功しているそうだ。
 しかし,『ジュラシック・パーク』『ロスト・ワールド』はそれ以外の部分では能天気なハリウッドアクション大作にすぎず,遺伝子工学はドラマの素材にすぎない。
 ここでは,同じDNAを扱っていても,より生命の本質に迫った,その分かなりヘンな本をご紹介しよう。

 著者の柳澤桂子は生化学者,『「いのち」とはなにか―生命科学への招待』『二重らせんの私―生命科学者の生まれるまで』『遺伝子医療への警鐘』などの著書がある。
 今回ご紹介する『意識の進化とDNA』,例によって本のカバーの惹句から紹介しよう。

「ついに私は『本来の自己』とは,三十六億年の歴史を背負ったDNAであると考えるに至った」(はじめに) 分子レベルで研究が進む生命科学の中で,“私”とは誰なのか? 愛や感動,神とは何なのか? DNAの仕組みと精神のかかわりを,ある男女の出会いと語らいを通して,いきいきと解き明かす。長く闘病生活を続ける女性科学者が見つめた,「いのち」がわかる一冊。

 どこがヘンなのか。
 まず,これが小説だということだ。二流,いや,三流と言ったほうがよいかもしれない,ヘタクソで,つまらない小説である。NHK教育の「おねえさん,こんなところに花が」「その花の仕組みをみんなで見てみよう」というやり取りを演劇,ドラマと言ってよいか。それと似たレベル。
 物語は生命科学者(M大学講師)・岩倉隆と哲学科の大学生でかけだしのピアニスト・相沢葉子がコンサートで知り合い,毎週待ち合わせては隆が葉子に生化学を説明するという形で進行する。
 男が山頭火の俳句を口ずさめば「漂白の俳人ですね」,モーツァルトのCDかければ「二十三番ですね」,壁の絵を見れば「シャガールですね」と女が対応するお文化なやり取りは全く人間臭に欠け,人気のない森林や男の部屋で暗くなるまで逢瀬を繰り返しながら手も握らず,あげくに海外で別々に勉強する道を選んで互いにたたえ合ったりする。とくに,若い女を部屋にまで呼び込みながら,室生犀星,立原道造,三好達治,さらには般若心経の翻訳を朗々と読み上げる隆くん,大丈夫か。

 内容についても,前半,人類の起源から自我意識の誕生,脳の情報伝達の仕組みなどについて説かれた部分や,DNAの4つの塩基が組み合わさって遺伝情報が,といったあたりは,小説仕立てにした甲斐もあって読みやすく,文系人間にも理解できた気分にひたりやすい。しかし,ソリッドな各論の期待される後半,意識,芸術と科学,神・愛,人生の意味がテーマとなるにいたっては……ユング,グロフ,マズロー,ケン・ウィルバーと,話題にされる名前も検証不能な「とんでも」境界領域で,さすがに身構えてしまう。

 結局,かつて宇宙飛行士の多くが宗教の世界に行ってしまったように(立花隆『宇宙からの帰還』),作者はDNAに神様を見てしまったということだろうか。
 とても軽々しく賛否を言えるような本ではないが,とりあえずお奨めはしない。

2000/10/19

[緊急雑談(?)] 町営住宅 怪現象パニック

 一部の新聞でも扱われたようですが,今夜のテレビ朝日系「ニュースステーション」,必見です。

 岐阜県富加町の町営住宅(4階建て,24世帯)で,原因不明の音がしたり,棚が勝手に開いたり皿が割れたりする怪現象が頻発。最近は「夜,階段のところに見知らぬ女の人が座っていた」とか「子供が,誰もいない場所に向かってバイバイと手を振る」「壁際を差して怖がり,泣きやまなかった」という話まであるそうです。
 一度御祓いをしてもらったものの怪現象はやまず,それどころか枕もとに女性が立った,とても住めないと出ていく家族も。さて,どう展開するのか。

 できれば宝島社文庫『伝染る「怖い話」』などをかたわらに置き,怖い土地を「洗う」とはどういうことか,など考えながら見るとさらに楽しめるのでは,と思われます。

科学と文学について考える 素材その二 『人喰い病』石黒達昌 / 角川春樹事務所(ハルキ文庫)

Nimg1845【遺伝子配列の他の生物種との相同性を塩基1000個単位で検索】

 実は,「科学と文学について考える」なんて途方もない(ちなみにハナから着地まで引っ張る自信はない。すんまそん)ことを持ち出したのは,この文庫本を手にとったためである。

 なにしろカバーの惹句によれば,

「どんな抗生物質も抗ウイルス剤も全く通用せず,数週間から二ヶ月間で確実に死に至る奇病『全身性皮膚潰瘍症』の正体に迫る表題作をはじめ,低体温症の女性とその一族に隠された謎を探る『雪女』など,最新の医学知識と遺伝子工学からつむぎ出された世にも不思議な物語。──鈴木光司『リング』『らせん』,瀬名秀明『パラサイト・イヴ』等の作品に大きな影響を与えた理系小説の旗手がおくる真実のサイエンス・フィクション!」

 なんと「理系小説の旗手」!
 よもやの「真実のサイエンス・フィクション」!!

 作者は東大病院第一外科の医者であり,今はない「海燕」という,もともとは純文系の雑誌から出てきている。
 『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』(これが作品のタイトル。念のため)や『進化』で,図版を含む学術論文のような形式での作品を発表している。つまり,ハネネズミという架空の生物についての,架空の論文である。
 ハラルト・シュテュンプケが架空の生物を紹介し,一時期大きく話題になった作品『鼻行類』の影響下に書かれたものかと思われるが,評価は「びっくり」と「ばかばかしい」の2つに分かれるような気がする。古くからSFに慣れ親しんだ者からすると……やはり「びっくり」か「ばかばかしい」だろうか。少なくとも長編でやることではないような気がする。いや,出展は長編で,のちにボルヘス『幻獣辞典』のようにまとめられるのがちょうどよい具合か。……

 さて,そこで新刊の短編集『人喰い病』(文庫書き下ろし)である。
 収録4作のうち,『雪女』『水蛇』『蜂』については,設定は面白いが,どうも中途半端な印象が強い。安部公房の初期短編のキレを少し悪くした,そんな感じだろうか。とくに『雪女』はうっすら怖くなるところで「ホラーに走るのはやーめた」印象。
 中では表題作『人喰い病』がやはり面白い。『パラサイト・イヴ』に影響を与えた,という惹句もむべなるかな。実在する「人喰いバクテリア」からとったと思われるタイトルは一見煽情的に見えるが,テキストは冷静,『パラサイト』前半の研究室の濃密な,何かが起こりそうな気配,あれである。しかも「オバケ」には一切走らない。ひたすら,主人公の医者が書きつづった過酷な(もちろん架空の)病気の記録,という体裁で押し通す。形態は学術論文やカルテの形態ではなく,しいていえば日記ないし備忘録なのだが,ここには見事なまでの「科学者の姿勢」(それが普遍的な科学者か否かは別として)が感じ取れる。
 そして,その明晰な文体や構成,意外なほどに地味な結末は,『パラサイト』と違って,爆発的には売れないであろうこともまた明確に示している。

 そういえば,本書は小松左京,豊田有恒,光瀬龍,眉村卓,平井和正,山田正紀,堀晃ら「超」の付くベテランと並んで,ハルキ文庫の「SFフェア」の一環として平積みされていた。
 本書は,ホラーで押し通した『パラサイト・イヴ』に比べれば,格段にスペキュレイティブな手応えを感じる。しかし,まだ「医者による実験的な純文学」の範疇を越えず,新時代を興す力には欠けるようにも思われる。
 ……はたしてSFの復権はあるのだろうか。

2000/10/18

科学と文学について考える 素材その一 『パラサイト・イヴ』 瀬名秀明 / 角川ホラー文庫

【ミトコンドリア10億年の野望】

 表紙の画像データはない。本を誰かに貸すかあげるかしてしまったためである。

「永島利明は大学の薬学部に勤務する気鋭の生化学者で,ミトコンドリアの研究で実績をあげていた。ある日,その妻の聖美が,不可解な交通事故をおこし脳死してしまう。聖美は腎バンクに登録していたため,腎不全患者の中から適合者が検索され,安斉麻理子という14歳の少女が選び出される。利明は聖美の突然の死を受け入れることができず,腎の摘出の時に聖美の肝細胞を採取し,培養することを思いつく。しかし,“Eve 1”と名づけられたその細胞は,しだいに特異な性質を露わにしていった……」

 これは単行本の惹句からだが,この後,柳生一族の,じゃなくてミトコンドリア10億年の野望が次第に明らかに……と物語は動く。しかし,研究室の蛍光灯がじじっと音を立てるのが聞こえそうな緊張感が続くのは実はせいぜいそのあたりまで。1冊の半分弱くらいだろうか。

 DNA解析などの生化学研究が進む中,明らかになってきたアミノ酸結合や生物の進化についてのさまざまなロジックは,これまでのあらゆる世界観,宗教観を覆しかねない。たとえば細胞内のミトコンドリアが実は別の生物が寄生したものであったという事実は,十分に刺激的である。そしてそのミトコンドリアが独自の意識を持つにいたる,という作者の着眼点は面白い。

 一方,SFの世界では,「異質なもの」についてのさまざまなアプローチがなされてきた。たとえば,惑星の海がまるごと知性を持つとどれほど人間の理解を超えてしまうか(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』)とか,考え方や外見のみならず侵略の意味すらとんとわけのわからないエイリアンとの戦闘(神林長平『戦闘妖精・雪風』)などのハードな思考実験が再三提示されている。

 ところが,『パラサイト・イヴ』では,意識を持ったミトコンドリアについてそのような「異質なもの」扱いは一切せず,絵に描いたようなオバケで押し通す。なにしろこのイヴ嬢の思考や行動たるや,まるっきりどこかの性悪女レベル。ただ惚れた主人公の男を求めて人間の女の姿で追いかけ,後はどたばた大暴れなのだ。
 これが,『パラサイト・イヴ』が「ホラー」であって「SF」と言われない所以だろう。従来のSFなら,いくらなんでもこれはない。ミトコンドリアが意識を持つというなら,どのような化学反応を意識と呼ぶのか。視覚・聴覚などの五感が人間とはまるで異なるわけだから,どんな認識,行動パターンがあり得るのか。当然,そのあたりがキモ,というかセメドコロになるはず。主人公の男を追うのにしても,惚れたはれたでない,なんらかの科学的説明が考案されるべきだったろう。

 しかし,現役の生化学者である作者はそれらを全部パスして,まっしぐらにオバケ屋敷に走っていってしまった。これはいったいどういうことなのだろう。作者がSF的な思考実験について,まるきり知らなかったとは思えない。単なる好み,あるいは映像化しやすい(金もうけしやすい)構成にした,とかいう判断もしたくない。

 最近の科学と文学,いったいどうなっているのやら。
 ちょっといくつか手元の素材をたどってみよう。

マンガ読み取りの基本に還るためのイチオシ 『漫画原論』 四方田犬彦 / 筑摩書房(ちくま学芸文庫)

Nimg1832【『がきデカ』の主人公が「コマわり君」と名付けられているのは,偶然ではない。】

 昨今はどうだか知らないが,たとえばロシアの田舎のお婆さんに初めて映画を見ると,何がなんだかわからない,ということがあるそうだ。たとえばモンタージュという概念が理解できないのだ。
 これと同じように,マンガを読みなれてない世代には,マンガを評価する,しない以前に,マンガが読めない層がいる。ページをどちらにめくるか,コマをどの順に読むか,風船(吹き出し)の文字が何を表すか,それがもうわからない。
 つまり,マンガの文法を知らないのである。

 本書は,何のケレンもないタイトルが表すとおり,決して抱腹絶倒に面白い本というわけではない。どちらかというと,古文,漢文の教科書に近いかもしれない。内容を一言でいえば,マンガを形作る文法について,古今の作品から豊富な例を挙げつつ分類,分析する,ありそうで実はあまりなかったマンガの系統立った表現論である。

 たとえば,手塚治虫作品において,「コマ」はいかなる働きをするか。また,大島弓子作品がそれを逸脱する効果は。
 動きの速さを表すために,石森章太郎はいかなる「スピード線」を用いたか。どおくまんは。永井豪は。逆に,大友克洋がスピード線を可能な限り排したのはどのような効果のためか。
 登場人物の言辞を表象する際に用いられる風船(吹き出し)はどのような役割を担い,どのように進化してきたのか。逆に,一部の作品が,この風船を利用しないことで得られた効果とは。
 登場人物の内面を表象するものとしての鼻の変遷は,目の系譜は,吐息や汗の記号としての効果は。
 などなど。

 こういった基本的な文法の解析に加え,巻末に添えられた,3つのテーマ追求型の分析がまた興味深い。
「シャアウッドはどこへ行ったか ― 漫画に見る〈原っぱ〉と路地」
  子供たちがメンコ遊びをした土の道路や土管にもぐって探検ごっこにふけった原っぱは?
「偉大なる旅行家の猿 ― 『西遊記』はどう描かれてきたか」
  マンガ史に,これほど悟空が何度もたち現れていようとは!
「カタストロフとその後 ― 廃墟としての未来社会の映像の変遷」
  手塚治虫の各作品から漂流教室,北斗の拳,ナウシカ,AKIRAまで。

 以上のように,多くのマンガファンにとって,ごく基本的でありながら,必ずしも明確な意識を持たずに読み流してきたあらゆる描画手法の意味について,本書は根源的な問いを重ね,読み手をして自覚的なマンガ読書にいざなう。

 ただ,1点,難点と思われるのは……さすが「学芸文庫」と銘打たれるだけあって,400ページの文庫本が1,200円。これは,なあ。

2000/10/17

[雑学] お試しください,数字遊び

 ちょっと紅茶を入れて,気分転換いたしましょう。電卓片手に,お験しください。

【その1】

 「999999」を7で割ります。
   999999÷7=142857

 この「142857」を,足していきます。
   142857×1=142857
   142857×2=285714
   142857×3=428571
   142857×4=571428
   142857×5=714285
   142857×6=857142

 おわかりでしょうか?
 いずれも「1→4→2→8→5→7→」のチェーンになっています。

 出典は,数学者でもあった『不思議の国のアリス』の作者,ルイス・キャロル。

【その2】

 何か,お好きな3桁の数字(111~999のうちどれか)を頭に思い描いてください。
   例:234
 それを2回繰り返した形の,6桁の数字を思い描いてください。
   例:234234

 その6桁の数字が,
   7で割り切れたら,恋愛運がたいへんラッキー
   11で割り切れたら,金運がたいへんラッキー
   13で割り切れたら,健康運がたいへんラッキー

 いかがですか?

 出典は,阿刀田高の新聞小説。

極私的マンガ評論のイマイチ 『あの頃マンガは思春期だった』 夏目房之介 / 筑摩書房(ちくま文庫)

Nimg1821【一言。ガキの使いじゃあるまいに……】

 かつて,そうですね,20年ばかり前のマンガ評論の単行本というのは,それはもう,つまらんのが多かったのですよ。もちろん全部読んだわけじゃないから例外も多々あるでしょうが,たいていマンガを読んだり考えたりするのにそれほど手助けにならなかったし,楽しくもなかった。ひどいのになると戦前から話をおこし,滅びた大人マンガについて延々と述べ,真ん中あたりでやっと手塚治虫が出てきて,当時盛り上がっていた少女マンガ,萩尾望都や大島弓子あたりにベルバラ加えてやっと1ページで「少女マンガにも新しい潮流が見える」でオシマイ。山岸凉子や山本鈴美香なんて名前も出てこない。しかも,なにしろ文藝の側からマンガを評するわけですから,なぜこんな,と思うような妙な作品を題材にする。すでに『火の鳥』が何冊も出揃っていた時代に,手塚初期の『罪と罰』がどうこうと言われても。

 そんな中,両目をぴしゃんと叩かれたような気分になったのが,駒場祭ポスターや小説『桃尻娘』シリーズ,編み物本,宗教本などで歩く一人カルチャーセンター張ってた橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』なるマンガ評論集でした。倉田江美や萩尾望都,大島弓子,大矢ちきらをプロの目から初めてきちんと評価したのがこれで,しかもこれより見事なマンガ評はいまだにあまり目にしません。
 『花咲く……』については,できれば別の機会に詳しく紹介しましょう。

 橋本治の影響下にマンガ評で出てきたのが,夏目房之介です。夏目漱石の孫で,あまり売れそうに見えないギャグマンガを発表したり週刊朝日のデキゴトロジーのページでマンガエッセイのようなものを担当したりしていた人物ですが,『花咲く……』の影響下に発表したマンガ評『消えた魔球』,これが実に面白かった。
 こちらも簡単にすませますが,要するに夏目はプロのマンガ家であることを生かして『巨人の星』や『あしたのジョー』など対象の作品を模写し,それによって作家の描線,コマ割りの分析を行う……画期的なやり方でした。

 さて,そこでちくま文庫の新刊『あの頃マンガは思春期だった』(マガジンハウス『青春マンガ列伝』改題)ですが,少なくともマンガ評に詳しくない方は,あわてて買ったり読んだりする必要はないと思います。

 これは『消えた魔球』に比べれば一種の退行で,妄想癖の強かった少年時代に読んだ作品がどう,性に目覚める頃に強い印象を受けたシーンがこう,イラストレーターしながら同棲を始めたころがああと,自分の青春遍歴とその時期その時期のマンガ作品の思い出を重ね合わせて紹介していくわけです。ところが,それがもう,つまらない。
 学生運動,フーテン,同棲ブームと,世代的には非常に濃い時期だし,マンガがどんどんメジャーになって対象年齢が広がった時期なのに,十分熟成していない世代論と中途半端なマンガ論を組み合わせた印象。個々の作品と時代背景というのは十分語るに足るテーマだと思いますが,それなら年寄りの思い出話みたいじゃなく,ちゃんと正面から語ってほしい。
 ぶっちゃけた話,夏目房之介の同棲から結婚にいたる苦労話やマンション買ったら管理会社がつぶれた話なんか読まされても,ねえ。

 というわけで,同じ夏目房之介ならぜひ『消えた魔球』を,と言いたいけど,これ,新潮文庫版が絶版なんですね。文庫が単行本より先に絶版って,珍しくないかな。ある程度版が大きくないと印刷がつぶれるからかもしれませんが,そんなこと言ってたら,マンガの文庫本のアイデンティティが……。

1970年代黄金時代少女マンガのよくもあしくもイチオシ 『花の美女姫』 名香智子 / 小学館文庫

Nimg1809【おかまバーの華やぐ哀しさ】

 『大江戸死体考』の次がなにゆえ知る人ぞ知る『花の美女姫』なのか。
 理由は単純,前者の著者が氏家幹人なのに対し,後者の主人公が氏家家の者だからである。

 その主人公とは,万葉高に通う「氏家・美女丸・ソンモール(尊猛流)・ド・ロシュフォール」,「氏家・姫丸・カーモール(華猛流)・ド・ロシュフォール」なる双子の兄弟。日仏ハーフの2人は身長は190cmを越え,黄金のロングヘアプラス青い瞳の超美形にして知力,体力,家柄などなどを兼ね備えた……要するに,『エースをねらえ!』のお蝶夫人をさらにとんでもなくしたような連中である。そして,彼らの周辺の取り巻きたちもまた,まばたきで風を起こす程度には絢爛なキャラがそろっている。

 『美女姫』シリーズは,1970年代後半の別冊少女コミックに,数か月に一度,ぽつりぽつりと発表された。この時期の別冊少女コミックといえば萩尾望都,大島弓子,竹宮恵子,倉田江美,樹村みのりら,いわゆる高踏派の台頭期であり,「男も少女マンガを読む」「少女マンガは文学を越えた」などの論調の真っ盛りであり,またその中心的位置に別冊少女コミックはあったのだった(もっとも,編集部サイドはマニアに受けることをにがにがしく見ていたらしく,たまたまその少し後に会った編集部の役職者は「おまえらみたいな読者はいらん」「いるのはベルバラやキャンディキャンディだ」とかなり厳しいモノ言いだった)。

 名香智子の作品はそんな中にあり,およそこの世のものとは思えない美形(という設定)の双子の兄弟に,レースの学生服にレースのハンカチ,大邸宅,過剰なまでのファッショナブルな設定……要するに,少女マンガの王道をちょっと通り越したタカラヅカ的世界を展開したのだった。しかし,なにしろ周囲が萩尾,大島の時代である。自然,作者,読み手ともに一筋縄では片付かないものが残る。
 この作品は目の中に星が飛び交い,背景には花や点描が乱れるいわゆる少女マンガのそれもかなり極端な絵柄で描かれている。内側に素朴でナイーブな少年少女の恋愛物語があり,けばけばしい美形(の設定)たちの荒唐無稽で様式的な会話の舞踏会がそれをくるむ入れ子構造で,結果的に極上の少女マンガとそのパロディが同時進行するような作風を持つにいたる。
 したがって,こんな美形(の設定)なのにここまで,と気の毒に思われるほど酷いギャグもあれば,大胆なまでに悲惨な物語も用意される。とくにソンモール,カーモールがほとんど登場しないSF仕立ての第3巻は陰惨だ。もともと,この『美女姫』シリーズは,主人公の双子を立てながら,実のところ周辺の若者たちを描くサイドストーリーがメインなのだが,その常連でやはり美形扱いのアーリン(アンリ・ド・シャルトル)を主人公に,彼が最後には顔を焼き,片足を失うにいたる救いのなさ。

 つまり,もともとが真っ正直なシリアス少女マンガとそのパロディの重ね着の形で成立した『美女姫』シリーズはその二重構造ゆえサザエさん化することができず,作者のサジ加減一つでどう転ぶかわからないものだったのである。それを安定してないと見るも,常連キャラたちによる一大コスプレ大会と見るも自在。
 そんな堂々たる危なっかしさの振幅が,本シリーズ最大の魅力かもしれない。

バッドテイスト本のスーパーイチオシ 『大江戸死体考 人斬り浅右衛門の時代』 氏家幹人 / 平凡社新書

Nimg1808【花のお江戸は今日も死体日和】

 法医学や警察・検察関係の書物を好むのは,この烏丸,以前より少々含むところがあって……では,ない。文学や漫画は好もしいが,それらでは得るのが難しい非デコラティブでソリッドな手応え,それが得たい夜には法医学本が最も手ごろなのだ。抽象的な言い方ではあるが,恋愛感情よりは論理,論理より鉱物,鉱物より死体について読むことが癒しになる精神状態もある。
 
 氏家幹人は上野正彦の対談集『死体を語ろう』(角川文庫)にも登場しており,本「くるくる回転図書館」でも紹介済みではある。その,歴史家・氏家幹人の,いわば本領発揮の一冊が本書であるが……。
 しかし,烏丸,修行のいたらなさをしみじみと感じ入る一冊でもあった。これは,さすがに気持ちが悪い。食事中に読めないとか,そんなレベルでなく(125文字,略)ほどの気持ち悪さであった。

 本書の目的は,江戸期の死体の扱いについてのあらゆる資料にあたり,従来我々が目をそらしてきた当時の思想,風俗,習慣に光を当てることにある。

 以下,少々気色の悪い表記が続くので,自称デリケートな方はご注意。

 まず,本書は,江戸期の水辺には水死体が決して珍しいものではなかったこと,また自殺者の死体で腐臭あふれる井戸水について語る。そして,処刑された死体の胴について,それを縛りつけ,刀で一刀両断にする様斬(ためしぎり)という風習があったことを紹介する。これを任務としてあたった一族が八代にわたる山田浅右衛門,いわゆる「人斬り浅右衛門」(朝右衛門とも)であること,そして彼らがいかにしてその任務を負うようになったか,その仕事や収入はいかなる具合であったかを詳細に説明する。

 この「詳細に」がクセモノ。
 山田家は浪人であり,浪人であるにもかかわらず諸候から多くの弟子を取り,地方に出張して処刑の任にあたることもある,いわば名誉職でもあった。つまり,様斬をみごとにしてのけ,よく切れる刀を持つことは武士の誉れでありながら,同時に泰平の世においてはそれができない武士が実は多かった,ということであり,まず死体(ときには生きた二つ重ね)を一刀両断に切って落とす技術,さらにどこをどう切ればどうなるかという経験に基づく知識,そして切った胴に手を突っ込んで肋骨のずれ具合などから切れ味をチェックして依頼主に伝え,さらに山田家が裕福だったのは処刑した罪人の死体を一括管理することで,様斬の素材を得るだけでなく,その脳や肝を薬として甕に溜め込んで薬として販売したためであり,この肝を得ることは金と名誉を得るため,処刑の折りにはむらがるようにして肝を取ろうとする輩が集う「ひえもんとり」なる一種の競技があり,しかし刑場では処刑の任にあたる者以外は刃物の携帯は許されないので,手で,しかも肝を手に入れられるのは一人だけなので,ほかの者は大変薬効のあるという踵の上部,アキレス腱のところの脂肪を,しかしそれは持ち運びの効かないものであるから,処刑と同時に走り寄って踵にかぶり付いて……。

 全編,延々とこの調子である。

 生肝を貯蔵するための蔵を用意し処刑者の胴や肝,脳を甕に溜め込み,幽霊の出る噂もあった山田家跡は,都内,K町からH町あたりで,現在は若い女性に人気のイタリア料理店になっているそうだ。気になる方は,ぜひ本書を取り寄せ,確認してはいかが。

2000/10/16

[雑談] 子供向け伝記本にボブ・マーリー,エルトン・ジョン

 週末に散策したとある本屋は,マンガ本のコーナーのすぐ隣が児童向けの本のコーナーで,マンガの棚をチェックしていると,つい勢いでエジソンだのリンカーンだのの伝記のコーナーまで目がすべってしまう。

 そこに,妙にひっかかるものがあって……。「ス,ティング?」

 映画「スティング」のジュブナイルだろうか。ところが,その隣が,やっぱり極太明朝体で「エルトン・ジョン」。

 なんと,明らかに子供向けの伝記本の中に,「スティング」や「エルトン・ジョン」の名前があるのだ。偕成社の「伝記世界の作曲家」というシリーズらしい。調べたところ,
 〈1〉ビバルディ―バロック音楽を代表するイタリアの作曲家
 〈2〉バッハ―バロック音楽を集大成した近代音楽の父
 〈3〉モーツァルト―オーストリアが生んだ古典派の天才作曲家
 〈4〉ベートーベン―古典派音楽を完成したドイツの作曲家
 〈5〉シューベルト―歌曲の王といわれるオーストリアの作曲家
 〈6〉ショパン―ピアノの詩人とよばれるポーランドの作曲家
 〈7〉チャイコフスキー―19世紀ロシアの代表的作曲家
 〈8〉ドビュッシー―印象主義音楽をつくりあげたフランスの作曲家
 〈9〉ドボルザーク―チェコが生んだ偉大な作曲家
 〈10〉グリーグ―ノルウェーを代表する民族音楽の作曲家
と,ここまではいかにもクラシックの代表的作曲家として音楽の教科書にも載ってたでしょ,なのに,この後ニューヨークフィルの
 〈11〉バーンスタイン―「ウエストサイド物語」の作曲者
をはさんで,後は一気に,
 〈12〉ジョン・レノン―永遠に語りつがれるスーパースター
 〈13〉ボブ・マーリー―レゲエを世界に広めた伝説のミュージシャン
 〈14〉エルトン・ジョン―輝き続けるポピュラー音楽のトップスター
 〈15〉スティング―熱帯雨林の保護を訴えるロックスター
なのである。

 やるなあ偕成社。しかも,ポール・マッカートニーでなくジョン・レノンというのも味があるし,その次がボブ・マーリーというのがまたシブい。スティングが出てくるのも,よくわからないが,シブい。ポール・サイモンやバート・バカラックでは,伝記的要素が足りないのだろうか。

 この15冊は1998年の春と1999年の春に分けて発売されており,これで打ち止めなのか,この後も走り続けるのかわからないが,思わず応援したくなってしまった。

2000/10/15

[雑談] ゆよーんやよーんゆやゆよん

Nimg1796 文庫化されて手に入りやすくなった渡辺多恵子『ファミリー!』(アメリカのある家族を舞台にした,ほのぼのコメディ。元気の出るアットホーム系としてはオススメ)を取り上げようかどうしようか読み返していて,その中の挿話にふと気になったことがあります。少年サンデー連載中の『からくりサーカス』でも確かそうだったし,『ブラックジャック』にもあったような気がするのだけど……。

 『ファミリー』の登場人物もそうなんですが,漫画では,サーカスの空中ブランコ乗りって,よく死にますよね。たいてい現在進行形の話でなく,「昔,父が」「かつて,恋人が」とかいう設定なんですが。

 サーカスの空中ブランコって,そんなに死ぬものなんでしょうか。

 もちろん,地上数メートルから十数メートルくらいの高さでくるくるびゅんびゅんやってるのは,地上で道化やってるのに比べれば安全なわけはないだろうけど,でも,少なくとも練習中は下にネットを張ってるし,そもそもが高いところに強く,体の柔軟な人がやっているわけで,よしんば十メートルの高さで手がすべったとしても,素人のようにまっすぐ頭から落ちるということはない,と思うわけですよ(現に,演出でネットに落ちるときは,お尻から落ちるようにコントロールできている)。

 まあ,歴史上,そんな統計データはないだろうから,確かめようはないのだけど,危険に見えるのと,プロの仕事で本当に死ぬことは,違う次元の話なんではないかなと思うわけです。

 もちろん,何十年も昔の,人権が軽んじられていた時代はわかりません。
 そのころは,たとえば鉄道員だって,車掌は走行中に落ちるわ,連結機ではさまれるわ,とけっこう死ぬ職業だったそうだし,それ以降でも,たとえばF1レーサーにいたっては,車体の安全技術が高まる前は,歴史に残る世界チャンピオンでレース中の事故で死んでないやつはいるのか,というぐらいだったし(本当。引退まで生き残れるようになったのはニキ・ラウダやジャッキー・スチュワートのころからでしょうか?)。

 ……ん? こうしてみると,空中サーカスでの事故死多発も,やっぱりありなのかな?

異種格闘技のイマイチ 『マンガは哲学する』 永井 均 / 講談社SOPHIA BOOKS

Nimg1795【さあ今日はうかうかするぞーっ!】

 『<子ども>のための哲学』『これがニーチェだ』などの著書からも明らかなように,永井均は哲学界の人である。
 永井は本書が「マンガ愛好者には,マンガによる哲学入門書」「哲学愛好者には,哲学によるマンガ入門書」の二兎を追うとしている。志はよい。しかし,二兎を追うということは異種格闘技ということであり,本書の限界もまたそこにある。早い話,マンガの選び方,読み方がフェアでないのだ。

 たとえば冒頭,藤子・F・不二雄のSF短編を例に「相対主義の原理と限界」「異文化との出会い」を述べるあたりは,作品の狙いと永井の論旨が噛み合ってなるほど力がある。吉田戦車の4コマに「この作品が,前期ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』を連想させるとすれば,次の二つの作品は,後期ウィトゲンシュタインの『哲学探求』を連想させる」と持ち出すにいたっては,ツボにはまって爆笑の感さえある。『伝染るんです。』の面白さは確かにそういう次元にあり,ウィトゲンシュタインを知る知らずにかかわらず我々は論理哲学的にそれを笑うからである。
 ところが,哲学を学んだことを公言する須賀原洋行を持ち出したところで,話はややこしくなる。永井が須賀原を「ならいおぼえた哲学の知識が,あったかもしれないこのマンガ家の哲学的感度を,すっかり鈍くしてしまっていることは疑えない」と切って捨てるとき,我々は永井が哲学的に価値のないマンガは一切評価しないことに気がつくのだ。
 『伝染るんです。』と『気分は形而上』のどちらが凄いかといえば,たいがい前者だろう。だがそれは須賀原の哲学的感度が鈍いからではなく,須賀原があんまり好きではないからである。「あんまり」「好きでない」などとおよそ論理的でない評価になるのは,須賀原の描いているのが「私マンガ」だからである。須賀原の4コマに哲学が出てくるのは,好きで哲学を学んだが目が出ず,公務員になったが場慣れせず,マンガ家になったがヒットしない,そういう著者当人の「とほほ」素材としてである。しかも,須賀原がどこまでそれを自覚して描いているのか明確でないことが,さらにとほほ感を増す。須賀原は結婚相手のOLからネタを得るなど,笑われているのが作品なのか著者なのかその後もはっきりしない。しかし,須賀原の作品はそういうものであり,それを「とっても」「好き」なファンが少なくないこともまた事実なのである。

 須賀原に行を取りすぎたが,要は,永井のマンガ評においては哲学が何より優先しているということだ。「第ニ章 私とは誰か?」において,自己同一性が混乱する状況を描いたSFやホラーがいくつかあげられているが,それは「永井がそう語るために選んだ」ものなのに「永井が高く評価する」ものと読めてしまう。哲学を語りやすいからよいマンガ,という構図である。しかし,どう考えたってそれは別次元の問題だろう。そうして見れば「なぜこのマンガ家の全作品からこのマンガが選ばれるのか」と疑問が沸くページも少なくない。
 極端な話,カーマニアが自分の好みの車をかっこよく描いたマンガだけを高く評価したなら,それは万人向けのマンガ評とは言えまい。

 逆に言えば,こだわりの強いカーマニアがそうしたマンガ評をまとめたなら,一読に値することもまた確かだ。その意味で本書の水準は相当高い。したがって,いしかわじゅん『漫画の時間』と結論は似てくる。
 本書はこれまであまりマンガ評を読んでなかった方にはぜひ一読をお奨めしたい。しかし,永井と同じように作品を評価する必要は,ない。

2000/10/14

戦前探偵小説誌アンソロジーのイチオシ 『「シュピオ」傑作選 幻の探偵雑誌[3]』 ミステリー文学資料館 編 / 光文社文庫

Nimg1753【手には敷島】

 本書は,昭和10(1935)年に同人誌「探偵文学」として創刊され,のちにロシア語で探偵を表す「シュピオン」からとって「シュピオ」と改題された戦前の探偵小説誌掲載作の一部を紹介するもの。
 ちなみに,小栗虫太郎『黒死館殺人事件』が昭和9年,夢野久作『ドグラ・マグラ』が昭和10年の作。

 「シュピオ」は,「月刊探偵」「ぷろふいる」「探偵春秋」が相次いで休刊する中,戦前最後の探偵小説専門誌となるも,昭和13(1938年)には経済的理由などからやはり廃刊に追いやられている。
 翌昭和14年には第二次世界大戦勃発,警視庁検閲課が江戸川乱歩『芋虫』の全編削除を命ずるなど,時代は軍靴の音を高めていく。木々高太郎の「終刊の辞」では「シュピオ」廃刊の理由として「思想的の弾圧か。そうではない。シュピオはその意味では軍国のお役に立っている」と記されている。この辺についての軽はずみな論評は控えたい。

 いずれにしても,今回の『幻の探偵雑誌』[1]~[3]でこれまで乱歩や小栗,木々らの小説の解説,あとがきの類で名を見るばかりだった「ぷろふいる」「探偵趣味」「シュピオ」掲載作品が読めるようになったのは望外の喜びであり,また各巻の総目次・作者別作品リストの資料的価値は高い。光文社の英断と尽力に拍手したい。

 さて,ここからは,気まぐれな一読者としての私見である。
 資料的価値は別として,これまで復刊されなかった作品にはやはりそれなりの理由があり,『「ぷろふいる」傑作選』収録作のナントナク纏まらない感じ,『「探偵趣味」傑作選』収録短編群のキレの悪さは否めなかった。この3冊の中では,今回の『「シュピオ」傑作選』が,自分には最も心地よいように思われた。
 とくに,全500ページ中300ページ近くを占める蘭郁二郎の長編『白日鬼』が妙に楽しく,歴史的価値といった六ヶ敷気(むずかしげ)な理屈はともかく,素直に好感が持てたのが大きい。理由は我ながらよくわからないが,頭をふりしぼってもナカナカ事件の真相にいたらない主人公,モダーンぶってもやがて古臭くなることを覚悟したような文体が,昔の東宝特撮映画に近く感じられたせいか。たとえば冒頭,主人公が銀座の街を闊歩する場面など,ニコニコと歩き,洋装の婦人とぶつかりそうになれば帽子をとっておじぎする主人公が目に浮かび,シネマのニギヤカな音楽が聞こえるような。犯罪トリック,犯人の意外性も,作者が大仰に自画自賛する気配なく,古臭い設定なりにすんなり呑み込めるものであった。
 また,解説の若竹七海が酷評する海野十三『街の探偵』も,賢治や朔太郎風の散文探偵ポエジイと見れば,何を意図したものか自分にはドコトナクわかる気がする。
 さらに,吉井晴一(*1)『夜と女の死』なる短編では,当時の探偵小説が,『モルグ街』『盗まれた手紙』『マリイ・ロジェ』以外,すなわち探偵の登場しないポオの散文詩の影響を大きく受けた嫡子であることをうかがわせ,別の意味で興味深かった。

 戦前の探偵小説は,文体,言葉遣いをはじめ,最新のミステリに慣れた読者にお奨めし難い面もなくはない。本シリイズを契機に,必ずしもメジャアとは言えない小栗,木々,海野らに進むのもまた楽しからずや。

*1……正しくは「晴」でなく日ヘンに「睛」のツクリ。

2000/10/13

色モノサイコ本ではない 『みんなの精神科 心とからだのカウンセリング38』 きたやまおさむ / 講談社+α文庫

Nimg1738【もう帰れない 今はもう】

 かつて,フォークシンガーがオピニオンリーダーとみなされる時代があった。
 この国では英米に比べるとロックバンドはあれどソリッドなロック史はなく,プロテストソングはフォークミュージシャンがほぼ全面的にそれを担った。フォーク史を大雑把にまとめると,カレッジフォーク → 反戦フォーク → 四畳半フォーク → ニューミュージックに融合 → 復興,という具合になるかと思われるが,そのカレッジ~反戦あたりの時代の話である。
 彼らのメッセージは新宿西口で歌われ,深夜放送で語られ,各地で野外コンサートが開かれた。岡林信康のコンサートでバックバンドのはっぴぃえんど(大滝詠一,細野晴臣ら)がエレキギター,エレキベースを持ち出すと「裏切り者!」と石が投げ入れられたとか,そういう濃い時代である。

 北山修はそんな時代に加藤和彦らとフォーク・クルセダーズを結成,「帰って来たヨッパライ」を大ヒットさせ,また作詞家として数多くの名曲を残した。
  ジローズ「戦争を知らない子供たち」
  はしだのりひことシューベルツ「風」「さすらい人の子守唄」
  はしだのりひことクライマックス「花嫁」
  加藤和彦と北山修「あの素晴らしい愛をもう一度」
  ベッツイ&クリス「白い色は恋人の色」
  トワ・エ・モア「初恋の人に似ている」
  堺正章「さらば恋人」
  酒井ゆきえ「ピンクの戦車」 ほか
 また,エッセイ集『戦争を知らない子供たち』『さすらい人の子守唄』などの著作もベストセラーとなった。
 フォーク・クルセダーズ解散(1968年)後は京都府立医科大学に戻り,ロンドン大学精神医学研究所を経て北山医院(精神科)院長に。1994年より九州大学教育学部教授。

 オピニオンリーダーの働きには,2方向ある。1つは一種カリスマとでもいうか,大衆を無自覚なままある方向にダイナミックに誘導するもの。ファッション分野などこの形で現れることが多い。それに対し,誘導する内容,方向でなく,自省する習慣を説く,そういうタイプもいる。北山修は後者だったように思う。彼の著作は彼ならではの考えを説くが,当時彼のファンだった若者の多くは,それがどんなものか具体的には何も覚えていないだろう。彼の読み手は「北山修と同じように」考えるのではなく,「北山修のようにいつも」考えることを教わった,とするのは持ち上げすぎだろうか。

 『みんなの精神科』では,精神科医としての北山修が,精神医療のマイナスイメージを払拭しようと努める。
 痩せたいと願う心,ゴキブリに恐怖する心,性的嗜好と心の問題,ジョン・レノン,尾崎豊の心の軌跡,母親の位置など,さまざまな話題が取り上げられ,阪神大震災後の子供の心のケアの問題(神戸の少年殺傷事件の遠因でもある)など興味深い話題も少なくない。大上段にかざさない,穏やかな口調の口述筆記で,その口ぶりは当人も認めているように「逃避的な心に肯定的に働きかける」ため全体的には敗北主義的で,およそ華やかなアジテーションとは言いがたい。肉体が風邪をひくように,心が心の病気にかかることは少なくない,そのために精神科医にかかることを恐れる必要はない,と北山修は繰り返し訴える。
 ただ,いかんせん話題が広いだけに個々の掘り下げは浅く,雑誌連載としてはともかく1冊の本として散漫な印象は否めない。
 結局,心が風邪をひいたら腕のいいオイシャにかかるが一番,ということか(ちなみに,心の風邪では民間療法はあてにならないので注意)。

笑えて泣けるエッセイのイチオシ 『勇気凛凛ルリの色』 浅田次郎 / 講談社文庫

Nimg1728【だがサチコ。君はもう二度と笑ってはいけない。】

 さて,当代の泣かせ名人といえば『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞を受賞した浅田次郎だろうか。しかし『自虐の詩』に次いで『鉄道員』ではさすがに湿り気が過ぎる。ここではその泣かせのテクニックの裏を垣間見せてくれるエッセイ集をご紹介しよう。

 『勇気凛凛ルリの色』は1994年9月から1995年9月にかけてのおよそ1年間,週刊現代誌に連載されたエッセイをまとめたものである。のちに続刊『勇気凛凛ルリの色2 四十肩と恋愛』『勇気凛凛ルリの色 福音について』『勇気凛凛ルリの色 満点の星』が発行されている。
 1巻めの連載当時は阪神大震災,オウム・サリン事件に日本中が沸いた時期で,自然烏丸も週刊誌を手にすることが多かった。当時,作家・浅田次郎は現在ほどは知られておらず,それにしてはえらく場慣れしたおっさんだな,と読んでいた記憶がある。
 裏社会,自衛隊,競馬,戦争史など,のちに彼のキーワードとなる体験や思想が随所に織り込まれ,「浅田次郎ができるまで」な内容になっているといえるだろう。三島由紀夫に私淑したというくだりなど,彼の小説表現の源流がおぼろげに見える気がして興味深い。

 ……などとやや重めの紹介をしてしまったが,読み物としては爆笑の連続といってよい。彼は陸上自衛隊に入隊し,裏社会で金を稼いだあげくの自称説教オヤジである。そんな人物が,自らの巨頭にうろたえ,船酔いにおののく。仕事にとまどい,耳の穴のカビに泣く。それが可笑しい。電車で周囲が怪しむほどに笑ってしまう。

 だが,もう一度読み返してみれば,それらが計算と技術のたまものだということがわかる。今笑い飛ばした数ページが,まことに重い,切実な内容を込めたものであり,笑いはその内容をこちらに伝える手段の1つであることがわかる。ことに改行が巧い。起承転結の切り替え時にキーワードをすがすがしく1行で立てる,その運びが巧い。そして当然,笑いをコントロールできるからには,泣かせることだってできるのである。
 拳銃強盗に撃たれて死んだウエイトレスの少女を語った「サチコの死について」は泣ける。作者の泣かせの技に自分がはまっていることを頭で理解していても,泣ける。
 浅田次郎,あなどりがたし。

2000/10/12

ちゃぶ台返しのイチオシ 『自虐の詩』(全2巻) 業田良家 / 竹書房文庫

Nimg1722【人生には明らかに意味がある】

 昨日紹介したいしかわじゅん『漫画の時間』はじめ,ここしばらくの漫画評に必ずといってよいほど取り上げられる作品の1つ。いわく,「4コママンガで大河ドラマを描いた」「人間賛歌」「ともかく泣ける」など,大半が諸手を挙げての大絶賛。

 さて困った。もう書くことがない。

 たとえば……『自虐の詩』は週刊宝石に連載され,それがマンガ専門誌でなかったおかげで作者が編集者の意向や既存のマンガの描き方,評価等を気にせずに書くことができた……というのは文庫の解説で「ゴー宣」小林よしのりがすでに語っているし,それ以上とくに加えることもない。
 作者は川柳も得意で,素朴に見えて実は技巧的,4コマという枠やリフレインを巧く使って……などと書いても,だから何。
 「たかが浪花節」「お涙頂戴ではないか」と指摘するのは簡単だが,これまた,だから何。浪花節はもはやB級文化の代名詞とはいえないし,B級であるからよいとかよくないとかいうわけでもない。

 「うーん,どう書けばよいのか」と昨夜,とくに評価の高い最後の数十ページをぱらぱら読んで……いやもう,またしてもぶわっ。こんなふうに人生を肯定されると。でも,これで肯定される人生って。

 主人公・幸江は,元ヤクザで遊び人のイサオに献身的につくす,美人とも若いともいえない女。イサオは気にくわないことがあるとすぐちゃぶ台をひっくり返す。ひっくり返す。畳までひっくり返す。ほとんどもうその繰り返しで,読み手が幸江に感情移入し,最初は悲痛,続いてうんざり,少し慣れ,だんだん慣れ,そのうち幸江のツラいといえばあまりにツラい過去,その幸江の同級生・熊本のこれまたキツい人生がカットバックでどんどん明らかになり,いいのか,こんなことが,こんな,なんてどよどよしているうちに最後に幸江と熊本が二十年ぶりに出会うシーンでもう,それはもう,ぱああっと,ダムが決壊して水があふれるようにぜんぶ。

 この哀しいまでに力のこもった肯定,匹敵するのは西原理恵子『ぼくんち』くらいだろうか。
 どちらも,実は,好きじゃない。というか,好きとか嫌いとか,そういう間尺で語れるものでない。お奨めもしない。こういう本は,必要な人はそのうち出会うものだろうと思う。

2000/10/11

マンガ評論のまぁ有名な本だし文庫になったし読んどいたほうがいいかも 『漫画の時間』 いしかわじゅん / 新潮OH!文庫

Nimg1708【青木光恵の結婚式でのサイバラのスピーチが,聞いてみたかった……】

 いしかわじゅんは,やな奴だ。
「ぼくの基準では,ぼくはとり・みきに負けたことはない」(えっ?)
「新人が怖いと思ったこともない。…(略)…このくらいなら俺でも描けるな,と思うのだ」(ええっ!)
「ほとんどの同業者を,ぼくは怖くない。…(略)…それはギャグだけでなく,シリアスものでも同じだ」(えええーっ!?)

 これ,作品のオリジナリティと作家について,言ってよいことではないように思う。業田良家より巧いマンガ家はいくらでもいるだろうが,『自虐の詩』は誰にも描けない。高橋陽一よりサッカーに詳しいマンガ家は少なくないに違いないが,『キャプテン翼』は彼にしか描けなかった。いしかわじゅんのこの物言いは,作家を自分だけが育てたつもりの三流編集者の傲慢さと同質だ。

 ほかにも,いしかわじゅんは何か処かエラそうな態度を見せる。何人ものマンガ家を自分が育てたかのように言い,各社の編集者が自分を頼りにしているかのように書く。確かに,一部は本当にそうだったのだろう。また,とにもかくにも60冊もの単行本を出したのだ,多少胸を張ってもよいとは思う。
 しかし……彼の作品が多くのマンガファン,マンガに詳しくない子供たち,マンガにうるさいマニアたちに,そう高い評価を得ていないことは事実だ。メジャーではないがマニアに高い評価,というわけでもない(少なくとも,烏丸が信頼するマニア,編集者の多くはとくに彼を評価していない)。また,彼が責任編集した双葉社の「アクション ラボ」も,集めたマンガ家の顔ぶれの割に評価されず,2号めは出なかった。売れなかっただけでなく「いかにも」なつまらなさで,要するに相手にされなかったのだ。
 烏丸は,どんなプロ,マニアの目より,ファン(購入層)の目をとりあえず優先したい。自分に面白くない,下手に見える作品でも,売れているものには必ず何かその作品,作家固有の魅力がある。プロ,マニアの評を気にするのは,その魅力を自分より巧く見つけ出し,より巧く語ってくれることを期待するからだ。その意味でいしかわじゅんは信用できない。

 ……それでもなお,本『漫画の時間』を,烏丸は強くお奨めする。

 なぜなら,この本に収録された約100作品のマンガ評は,ごく普通のマンガ読者に,思いがけない,新しいマンガの読み方を教えてくれるからだ。
 個々の作家について,著者と評価を同じくする必要なんかない。ただ,1つの作品について,たとえば「こんなふうに肉体を描いたのは誰それだけ」だとか「余計な線の捨て方がすごい」とか「この会社から出るマンガがこうなのは」とか「明らかに誰それの模倣として出てきたのに独自性が」とか「絵がヘタだと言われる誰それだがこれこれに着目すると」とか,そういったさまざまなマンガの見方,「目利き」とでもいうか,それがあることを知り,それを知った上でマンガを読むのは,実に面白いことなのだ。同じマンガを読んでも一段深く楽しめるのだ。
 そういう楽しみがあることを知るためだけでも,この本はお奨めなのである。

 ついでに,ある超有名な女流マンガ家,それから同じく有名なベテランマンガ家が,肝心のマンガについていかに愚かか,それが知るためだけにこの本を手にしても損はない。知ったからといってしかたないんだけどさ。

かつてイチオシマンガ,のイマイチ 『天才柳沢教授の生活 16』 山下和美 / 講談社(モーニングKC)

Nimg1701【ヒロミツが救われすぎるのも考えもの】

 『天才柳沢教授の生活』は,それまで少女マンガの世界で活躍していた山下和美の青年誌デビュー作であり,作者の父親をモデルに,神奈川の大学の経済学教授の日常を描く作品である。
 第1巻が1989年の発行。今第1巻を読み返すと(上質とは言いがたい)ギャグの色合いが強く,それ以上に教授の杓子定規さが家族からはなはだしく迷惑がられ,罵倒されていることに驚く。

 その後,このシリーズは「教育」や「老い」というマンガとしては扱いにくい問題に鋭く挑み,何度か大きな成果をあげてきた。
 たとえば8巻における柳沢教授の対戦相手(違う……)は絶妙で,父親,マフィアの友人,二重人格の天才少年などのエキセントリックさと学問を尊ぶ教授とがぶつかり合い,止揚して,このあたりが本作の最後のピークだったろうか。
 しかし,いつの間にか教授は酸いも甘いも噛み分けた,誰からも愛される人生の達人にしてスーパーマンになってしまった。あまりの厳格さ,四角四面さゆえに不器用,頓珍漢,という側面はほとんど見受けられない。たとえば15巻のモンゴル編は,作品として悪くないものの,柳沢教授が主役である必然性は何もなかった。最新の16巻も,個々の物語が悪いわけではないが,教授やそれぞれの脇役の果たす役割が全く予想の内で,著者自身表紙カバーで独白しているようにサザエさん化がはなはだしい。

 本来,このシリーズは,四角四面な教授にとっての「正しさ」が周囲と慣れ合えず,その齟齬によって可笑しさと読み手の思索を呼ぶものであった。先に述べた「教育」「老い」などの問題は,その教授が「動じる」ほどなのだからこれはよほど重大なことなのだ,という振幅で読者に伝わったわけである。
 別に初期の描き方に戻すべき,とは言わないが,さすがに最近はアットホーム,ほのぼの色が強すぎはしないか。サザエさんがいけないというわけではない。しかし,8巻あたりまでに描かれたものが「なかなか心温まるお話」の束の中で拡散してしまうこともまた事実だ。残酷でなければ伝えられないものも,この世にはある。

 したがって烏丸としては,現在の柳沢教授(9巻以降)に比べれば,10年ほど前,同じモーニング誌に連載された曽根富美子の『ファーザー』(講談社,全2巻)のほうをよほどお奨めしたい。
 こちらも実在の奇矯な人物(3人の妻に14人の子供を生ませ,現在は一番下の同名の息子と一緒に野宿をしながら,気のみ気ままに暮らしている75歳の画家,教育者)をモデルに教育や子育てをテーマにした作品。決して万人向けとは言いがたいが,衝撃は柳沢教授の比ではない。現在は絶版のようだが,もし機会があったら古本屋,マンガ喫茶などで手にとってご覧いただきたい。ただし。正面から読むと,キツいよ。

ドーナツブックスいしいひさいち選集 34『酒乱童子』・35『錯乱の園』 いしいひさいち / 双葉社

Nimg1691【35巻で計4486作品】

 いしいひさいちのドーナツブックスが2年半ぶりに発売された。問題外論シリーズが完結とされ,やや政治色に偏っているのが胸を焼くが,相変わらずどうやって情報集めてんだ,な面と,いい加減金残ったろうにどうしてこう貧乏人描けるんだ,な面を見せつけて不気味なまでに快調である。讀賣新聞社社長渡辺某,いわゆる長嶋よりエラそうなナベツネをおちょくり,返す刀で朝日新聞社長某をコケにした4コマなど,この国のマンガ史上,星一徹以来の非情さ,厳しさと言ってよい。星一徹は「獅子は我が子を」なーんて言いながら自らは崖の上にいたが,いしいひさいちは無造作に自分を崖下に突き落とす。
 この博覧強記,自分に対する非情さ,実は「いしいひさいち」は「ひさいち」「ひさじ」「ひさぞう」「ひさし」の一卵性4人兄弟のユニットと言われてもぜんぜん驚きはしない。4人がそれぞれ分身の術で4つの影を演じると,合計16人のいしいひさいち。敵忍者もむむむっと汗を飛ばそうというものである。

 ところで,なぜ2冊同時発売なのであろうか。ドーナツブックスシリーズは以前も述べたようにタイトルはいずれも古典名作文学のパロディで,内容的な統一は求められていない。政治・経済などの時事,プロ野球,バイトくん,ノンキャリウーマン,となりの山田くん,忍者シリーズなどなど,要するに,その期間のいしいひさいちの他の単行本に収録されないありったけ,というのが趣旨と言ってよい。

 ここで,ふと思い出したことがある。噂によれば,いしいひさいちがナベツネをおちょくった作品集『ワンマンマン』(文藝春秋社)が,ナベツネの秘書からのクレームによって発売が中止になった,というのである。なるほど! それなら一気に2巻発行された理由もわかる。ナベツネ本のためにまとめられていた4コマが浮き,その結果ドーナツブックス収録作が膨れ上がった,ということか。実際,第34巻『酒乱童子』は表紙はもちろん,前半,うんざりするほどナベツネのバカヤロービュンビュンビュンだらけである。

 ところが。天井裏に控える烏丸組百一匹サナダムシ忍群から極秘情報が届く。発売中止になったナベツネものは東京創元社の『大問題2000』に収録されるらしいというのだ!
 そして,さらに新たな衝撃が烏丸本部を襲う! これまで25年にわたっていしいひさいちの単行本(バイトくんシリーズ,問題外論シリーズなど)を発行し続けたチャンネルゼロが出版活動を休止した,と。そういえば,『ののちゃん』も最新8,9巻を含め双葉社から刊行され直した。
 もっとも,双葉社ドーナツブックスシリーズももともとチャンネルゼロが編集を請け負って制作されたものと聞く。だとすると,チャンネルゼロはリスクの大きい製本,販売から身を引くだけなのか。それとも『バイトくんブックス7 ばかな男』背表紙のあの名吟は,別れの挨拶だったのか。

 朝日新聞朝刊に連載を持つなどいわば公儀の側に立ちながら,実は隠密お庭番のごとく本音の読めないいしいひさいち。これが知的化け物の貌というものか。答えはドーナツの輪の真ん中に,あるような,ないような。

2000/10/10

雰囲気を剥いた後に残るもののイマイチ 『水に棲む鬼』 波津彬子 / 朝日ソノラマ,白泉社

Nimg1683【ミステリー,ホラーという名の安心装置】

 先日は花郁悠紀子をベタ誉めした烏丸だが,技術的に見れば花郁悠紀子のレベルは必ずしも高くない。絵やコマ運びはどたばたし,人物設定も詰め込みすぎでわかりにくい。いかにも「マンガ」風の記号化された描線にシリアスなストーリーが重すぎることも少なくない。
 華を背負った主人公の描画の精緻さ,ページに漂う静寂,といった点では花郁悠紀子の妹,波津彬子のほうが各段に上だろう。

 ところで,烏丸はそれなりに以前からプチフラワー等での波津彬子を知ってはいたが,彼女が花郁悠紀子の妹であることは不勉強にしてずいぶん後まで知らなかった。そして,1枚絵としてのコマに力を入れすぎ(頼りすぎ)るように思われ,物語作家としてはいくつか難点を感じていた。

 たとえば『水に棲む鬼』とはなんと素晴らしいタイトルであろうか。これは『見ずにすむ鬼』とかけ,すなわち「水」と「見る」ことに含みを持たせたお話なのであろう。……残念なことにこの作品にはそんな含みはなく,それどころか小者のワルは別にして「鬼」すら出てこない。要するにタイトルは雰囲気をかもし出すための壁紙にすぎないのだ。
 内容を見てみよう。住み込みの家政婦として萩原家を訪れた奈津子は,そこに居合わせた者たちを驚かす。彼女は死んだばかりの当家の一人娘・水緒子にそっくりだったのだ。父親の事業を継いだ貴也と結婚した水緒子が裏庭の池で死んだのは,事故か自殺か,あるいは他殺なのか……。
 通常,この設定で奈津子と水緒子について読み手がまず想像するのは「生き別れとなった双子」だろう。物語作家は,そうした定石をいかに避け,予測を裏切って新しく魅力的な設定を創造するのが仕事だといってよい。しかし……。

 本書には殺人や幽霊にからむ短編がいくつか収録されているが,どの作品もプロットは単純,一本道。現代を舞台にしながら警察の科学捜査を全く無視しているのはご愛嬌としても,結局のところいずれも予定調和の上になりたっており,読み手に安心を導くための装置になっている。なにしろ,悪人面していれば悪人,美男と美女がいれば最後には結ばれるのだ。
 姉・花郁悠紀子の作品が前人未到の4回転宙返りにひねりまで加えようとして着地に失敗し続けたのに比べれば,難度の低い,しかし優雅な舞踊,そんな感じだろうか。読み手のニーズに応えて,なら立派なプロだが(そういうプロはそれはそれで嫌いではない),物語作家としてこれでよいかとなると,さてどうだろう。

 もう1つ,別の角度から気になるのは,波津彬子の描く若い女の多くが,男にかしずき,異論をはさまず,堪えて唯々諾々を是とするような,そういう女だということだ。やはり初期の短編集『お目にかかれて』には何人か,いわゆる「はねっかえり」も出てくるが,一皮向けば「あなたに会いたくてアメリカにきたのよ」だったり「タイプだって裁縫だってキャベツ作りだってできるのよ」だったりする。一人で道も歩けない,とは中島みゆきの古い歌詞だが,今どきまずくないかそれは。少なくとも烏丸はごめんだ。

時代小説エスピオナージのイチオシ 『影武者徳川家康』 隆 慶一郎 / 新潮社

Nimg1676【それではやむをえんな】

 関ヶ原合戦の間際,徳川家康は島左近配下の刺客に殺された。徳川陣営は苦肉の策として影武者・世良田二郎三郎を家康に仕立て上げる。しかしこの二郎三郎,只の影武者ではなかった。かつて一向一揆で「信長を射った男」として知られるいくさ人であり,しかも十年の影武者生活で家康の兵法や思考法まで一切を身につけていたのだ……。

 作者の隆慶一郎は,編集者,大学助教授の職を経て,シナリオ・ライターとして活躍。60歳を過ぎて初めて小説『吉原御免状』を上梓した(一説に,恩師・小林秀雄が生きているうちは怖ろしくて小説など書けなかったためだという)。その後数年,矢継ぎ早に凄まじい量,質の時代小説を連発し,6年後には亡くなっている。まことに彗星のごとき光芒。
 戦国のかぶき者・前田慶次郎を描いて余りない『一夢庵風流記』は『北斗の拳』の原哲夫によって漫画化され(『花の慶ニ』),そちらも絶大な人気を博している。

 『影武者徳川家康』は隆慶一郎全作の中でも作者の面目躍如,気迫溢れる文字通り代表作と言ってよいだろう。実際,『影武者徳川家康』には,作者が再三扱った,いわば「お得意の主題」が目白押しに登場する。
 一つ,家康替え玉説(関ヶ原合戦の前後で家康の態度が別人のように変貌することから,別人説を取るもの。明治期の村岡素一郎著『史疑徳川家康事跡』に端を発し,南條範夫『願人坊主家康』『三百年のベール』に受け継がれる)。
 一つ,『一夢庵風流記』に通ずる,「いくさ人」の壮烈な生き様,死に様への礼賛。
 一つ,「上なし」,「道々の輩(ともがら)」と呼ばれる,荘園や武士の支配から逃れた漂白の人々,すなわち傀儡子,海民・山民,忍者らが日本の歴史を裏から支えてきたとする考え(歴史学者・網野善彦氏の所説による)。
 一つ,『吉原御免状』に通ずる,公界(自由都市)を舞台とするユートピア願望。
 一つ,秀忠の性残忍さ,柳生の陰湿な陰謀への嫌悪。

 なあんてね,こんなコウルサイ理屈をうだうだ書かずとも,兎に角痛烈で爽快で,どこから何度読み返してもついつい没頭してしまう,よくできた小説。文章も美文かどうかは別として,読みやすく,平らな中に魂魄溢れ,しかも丁丁発止の諜報戦を描いてエスピオナージとしても一流,元気出ます。

2000/10/09

サブカル本のイチオシ? イマイチ? 『隣のサイコさん 「いっちゃってる」人びとの内実』 別冊宝島編集部 編 / 宝島社文庫

Nimg1685【センセエ,あたしの脚のね,このヘンっで鳴いてるセミが五月蝿くって,もお】

 可愛いタイトルだからって,騙されちゃってはだめだめ。てゆかほら,ちょっとアブな人,ネットの掲示板にもよくいるでショ,ほらアノ「電波」な「宇宙人」,そんなカタガタを軽ぅく扱った本でしょ,だなんて油断しちゃいけないの。サブタイトルの「いっちゃってる」っていうノを見ても,まだ「ちょっと」いっちゃってるとかオートコレクトにカッコ付きで想像してるでしょあなた。ノンノン違うの。これ,レッキとした「既知外」の本なのよ。精神病院の内幕とか,壊れてプリプリ,プリズナアなお話,仕掛けられていない盗聴器探し,ストーカー,お薬,お自殺,アルコホル。宝島社はどうやってあたしのことを調べて宝島社のことをあたしの調べて絶対抗議の内容証明は講談社と小学館に許せない。ソノコトは森総理が宝島社の記者会見で繰り返しでないならこの国は全部もう,全部,この本の全部のうち半分くらいは,鬼畜な村崎サンとか書き手の方がモウ存分な既知外なのね。デ残りの半分のさらに半分くらいの書き手が,も少しで既知外。そうなると,残る全体の半分のさらに半分だって,あらあら。モチロンこんな本の中味を全部ほんとかしらって信じちゃうほど世の中に疎いわけないじゃないのよこう見えてあたくし,ええ。でも。この本の内容が7割,いえいえ,9割ウソでも,この本はエグい。どのくらいエグいかといえばここに書くのがはばかられるほど,エグい。あら声が男に戻っちゃったいやね龍角散龍角散。んもう。こほん。それでね,読書の基本は朗読,この本のとくにコワそうな章を毎日3回ずつ声を出して読んでご覧なさいな,まあ,普通な神経の方なら3週間でオカシクなるんじゃないかしら。てゆか,とりあえず○○○○○○○○○○○ようになったら要注意ね。あらあなた。何をまぁぽたぽた。ところでこの本の後ろのほうに,精神科のオイシャさまの遠山高史先生による「境界型人格障害」についてのお話があって,それはつまり海の向こうのアメリカでは1980年代の不景気に精神科のオイシャさまが食べていくため,金持ちのドラ息子やドラ娘たちを治療するシステムが作られてそこから再帰的に「境界型人格障害」という病名が発明されたということなんだけど,ふうん説得力。でもこうしてドア越しにあなたとお話してると,やっぱりそれだけじゃすまないような気がする。だってほら,デデデデ電波があたあたしにそそう言えって。

2000/10/08

喪失とそこからの回帰を願うマンガのイチオシ 『踊って死神さん』 花郁悠紀子 / 秋田書店

Nimg1629【いつ死ぬかわからない】

 1970年代の半ば,プリンセスで出てきた新人が萩尾望都のアシスタントだいうことはすぐにわかったが(○にチョンチョンの自画像が特徴),作風がどこかおかしかった。死,事故,病気が氾濫して,物語を複雑にしすぎるのだ。

 たとえば1976年に発表された「夏の風うたい」(『四季つづり』収録)のストーリーは次のような具合だ。
 主人公・功作の家は,事故で父を亡くした悠を引き取った。功作の母は悠を事故で死んだ娘・奈津子(功作の妹)と何度も間違える。功作は悠に妹への思いを語る。悠は花火がきっかけで事故のことを思い出し,過去と向かい合おうとする。功作は倒れる。春に手術した癌が転移したのだ。功作の幼なじみ・香也子はどこまでも彼についていくことを誓う。

 同じ『四季つづり』収録の「春秋姫」でも,物語は日本画家の事故死から始まり,その娘・茜が画家として成長するきっかけをなした妹(父の隠し子)・藍根もやはり事故で死ぬ。

 ……花郁悠紀子がいつ癌を病み,いつからそれを知っていたのかわからない。だが,華やかな季節と花に彩られた物語の多くは誰かの死で始まり,誰かの死で終わる。

 『踊って死神さん』はそんな中,珍しく登場人物が誰も死なず,ハッピーエンドに終わる作品が集められている(それでもお話は十分ねじまがっているのだが)。

 収録作の1つ,烏丸がとても好きな「姫君のころには」では,ジウリアという品行方正の優等生少女が階段から落ちて幼児退行を起こしてしまう。彼女の友人レオナは,幼なじみで女性恐怖症のアルフォンスにジウリアを押しつける……。
 ここまででも十分複雑な話なのだが,実はこの話,ジウリアではなく,アルフォンスの病と回復の物語なのだ。奇妙な味のギャグとドタバタのあげく,最後のコマでアルフォンスとジウリアは花をしょって胸を張る。
 ……花郁悠紀子は治ったのか,と,当時この作品を読んだ烏丸は考えた。これは,何だかわからないが病気からの浮上を描いた作品だ。よくわからないけれど多分心の病気だろう,花郁悠紀子はそれを突破したのだ。

 それが大間違いだったことは,のちにわかる。

 同時期の作家,佐藤史生は,やはり実験的かつ複雑なストーリーを狙いながら,鉱物的な魅力を示したのに対し(佐藤作品では,常にトータルのエネルギーが一定に保存される),花郁悠紀子はどこまでも植物的だ。花が滅びて実を結ぶように,あらゆる作品の中で死者が生者に影と光を落とす。
 少女マンガとしてはかなり骨太なSFを目指したこと,日本の美,植物の美をよくモチーフにした点など,この2人はもっと並べて語られてもよいように思う。

 もう,20年が過ぎてしまった。その名は快癒と読めたり逝子と読めたりする。
 有里さんという方の「花郁悠紀子ファンページ ~花に眠れ~」によれば,亡くなった1980年夏の「ペーパームーン」誌のアンケートで,「Q. 今、何でも消すことができる消しゴムがあったら何を消してみたいですか?」という問いに花郁悠紀子は「A. このおなかの痛みとしんどさ(消しゴムで消えるかどうか疑問だけど)」と答えていたという。

 花郁悠紀子。
 金沢出身。高校時代,坂田靖子主催の同人に参加。のち上京し,萩尾望都のアシスタントを務める。独立後は秋田書店「プリンセス」系で活躍。1980年胃癌のため逝去。享年26歳。

2000/10/07

[雑談] 全プレ ラヴ

Nimg1700 突然だが烏丸は全員プレゼント,いわゆる全プレが大好きである。
 もちろん宝くじもお誕生日のプレゼントも好きだが,それはそれ。定価で買うとは思えないものに一生懸命になるのが楽しいのだ。

 古くは「萩尾望都 ポーの一族サマーバッグ」(別コミ)とか,「岩館真理子のペンケース」(週マ)とか。岩館真理子は小さな赤い鍵も持っているから,ファンだったんだな。ピカチュウの腕時計やリュックサックは何種類か持っている。
 半年ほど前には,光文社文庫を2冊買うともれなくカッパ先生の携帯ストラップが,というのがあった。しかし,応募券は新刊の帯にしかついておらず,欲しい本がそうそうなくて苦労した。なんとかカッパ先生とカエル君のをもらったがカエル君は家人に取られてしまった。大人ですから,いつまでもぶつぶつ文句を言ったりはしません。
 文庫本といえば,講談社文庫のカバーの折り返しには葉っぱのようなマークが付いており,これを15枚送ると「庫之介」という文庫BOXがもらえる。CDを整理するのに便利なので,かれこれ20個はいただいた。CD専用クローゼットをこしらえたときも,棚の高さをこれに合わせたほどだ。

 全プレでなくとも,当たる確率の高いプレゼントにはよく首をつっこむ。
 「ぴあ」は東京でしか発売されてなかったため当選率がよく,しかも何に何通応募があったか表を載せてくれていたので穴を狙いやすかった。試写会の入場券など入れ食いだったし,レコード(まだCDはなかった)やTシャツ,トレーナーなどもずいぶんいただいた。当時の「ぴあ」が独特だったのは,プレゼントが当たってもモノは送ってくれず,引き換えハガキが届くだけだったこと。それを持ってプレゼント提供のレコード店や書店などに向かうのである。1,000円の写真集を当て,渋谷まで友人と受け取りにいってお茶飲んで赤字,ということもあった。当時「ぴあ」の本社は4階建てのエレベーターもないビルで,大矢ちきデザイン,マリリンモンローがスカートをひるがえした絵柄のトレーナーが当たったときは「MかなLかな」とその場で着替えさせられ,くるりとその場で回された。あのときの受け付けのお姉さまはお元気であろうか。

 全プレの醍醐味は,そのうちお金を出して買うつもりのものでなく,普通ならまず手を出さないようなものが得られることにある。「ポーの一族」はファンだったが,誰が金を出してまでビニールしなしなの小さなサマーバッグを欲しがるだろうか。「ぴあ」では朝比奈マリアのデビューアルバムが当たった。知らないだろうが雪村いづみの娘で,その後の噂も聞かない。

 継続して集めているのはチョコボールの銀のエンゼルで,先ほど数えたら18枚あった。おもちゃのかんづめに交換してもよいのだが,子供がこのありがたみを理解しないうちに交換するのはもったいないのでほったらかしている。もちろん,自分の分としては,男の子用,女の子用,もう何度も交換した。

 今,烏丸が思案中の全プレは,あれである。ある種の上場企業の株主になれば,配当のほかに一種の粗品として,さまざまな景品がもらえる。後楽園の株主になれば巨人戦の指定席がもらえるというのが昔から有名だったが,それは別に欲しくないので会社四季報をぱらぱらめくってみる。グループ会社の宿泊券だとかお食事券だとかが並ぶが,この不景気の折り,大枚はたいてまで欲しいものはなかなかない。どこか,ファイトを呼ぶ景品を出してくれないものだろうか。烏丸はきっと,投資するぞ。

2000/10/06

伝奇ホラーのイマイチ 『死国』 坂東真砂子 / 角川文庫

Img1618 【どうして,あたしが汚れた霊やの】

 言うまでもなく,映画化され,『リング2』と併映された伝奇ホラーの原作。

 烏丸は元来あまり熱心なホラーの読者でないし,詳しくもないが(怖い話は書いたり語ったりするのが好み),それにしても『死国』は怖くなかった。そもそも京極夏彦のような薀蓄に欠けるため,「四国は死の国」というスケールの大きな設定がこなされていないのである。

 たとえば本書では『古事記』冒頭の表記から古代史における四国を語るのだが,四国八十八ヶ所の霊場は空海(弘法大師)が開基したもので,真言宗との関連が深い。それなのに真言宗と神道のかかわりには詳しくは触れないため,怖いと思う前に少々途方に暮れてしまう。
 また,18年前に死んだ莎代里がよみがえるのは,その母親が八十八ヶ所を死者の歳の数だけ逆順に巡る「逆打ち」によって,と説明されるが,実際の遍路はこの順にあまりこだわらない。手近なところから参り始め,山奥など面倒なところは後回し,最終的に全部回って,お礼参りに高野山奥の院詣ででワンセットである。要するに便宜的な順番にそれほどの重みはないし,逆順に禁忌も聞かない。

 恋愛ドラマ的にも,よくわからない話ではある。
 主人公の比奈子は,東京での不毛な恋愛相手より幼なじみの文也を選ぶのだが,それが前者に倦んでモアベターな相手を選んだ,としか読めない。文也は文也で比奈子に「選ばれた」だけ,だから莎代里の誘いにも動揺する。2人の女の間で揺れるのは別によいとして,どちらに惹かれているようにも見えないのだ。要するに同窓会で異性になんとなくもやもやする,その程度の気持ちにドラマを任せた印象である。
 さらに,莎代里にしても,文也への思いが強いのか,それとも生者へのうらやみが強いのか,どうもよくわからない。怨霊が恨めしがりそうな要素は並んでいるのだが,決定打に欠ける。しかも怪しい気配がだんだん濃くなるのではなく,正面からどんっと出てきてセリフも口にする,これではいくら元死人でも(?)怪談として怖くなりようがないのである。当節流行のストーカーのほうが陰湿な分,よほど怖いかもしれない。

 映画ではNHK教育のドラマ『六番目の小夜子』で津村沙世子を演じた栗山千明が莎代里役をやっており,そのうちビデオでも見たいとは思っている。ただ,烏丸の周辺では,こちらも不評だった。

 ところで拙文を書くのに,ふと「死国」という言葉で紀伊国屋のデータベースをあたってみた。すると本書以外に,大杉博『四国は死国にされていた 大和朝廷の大秘密政策』(倭国研究所)という本があるではないか。1989年の発行で『死国』(1993年)より数年早い。だが『死国』の参考文献にこの本の名前はない。いけないなあ坂東さん,タイトルに先駆者がいたならせめて参考文献には載せなきゃ。
 ついでに調べてみるとこの倭国研究所,出版物はほかには大杉博氏の『ついに見つけた邪馬台国』『邪馬台国は四国にあった』『神代の史跡案内 日本神話の舞台は阿波だった!』の3冊しかない……。
 わーお。この大杉博って,岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』に出てきた,全国の邪馬台国研究家に無理やり自分の信念(?)送りつけ,他の説をとなえる論者は自分を論破できない限りすべて邪馬台国から手をひけと豪語し(無論たいがい無視されるし,反論されてもそれを絶対認めないのだから論破などあるわけがない),のちにはユダヤの秘宝にまで話をふくらませた,いわゆる立派な「とんでも」さんだぁ!

前向き小説のイチオシ 『催眠─hypnosis』 松岡圭祐 / 小学館文庫

3【ワタシハ友好的ナ,ミドリノ猿デゴザール】

 売れない催眠術師・実相寺則之を尋ねてきた中年女(入絵由香)は,雷鳴とどろく中,甲高い笑い声をあげて自分はファティマ第七星雲のミナクス座からやってきた友好的な宇宙人だと言い出す。そして彼女は,全身みどりいろの猿にかけられた催眠術を解いてほしいと言うのだ。
 いくつもの名を使い分け,相手の思考を読み,ジャンケンに決して負けない由香の能力に驚いた実相寺は,彼女を占いの店で売り出そうとする。そこに<東京カウンセリング心理センター>の催眠療法科長・嵯峨敏也が現れた。嵯峨は由香が解離性同一性障害(多重人格障害)であり,治療が必要だと考えたのだ……。

 ストーリーは,嵯峨が由香をカウンセリングに持ち込もうと奮闘する様を主軸に,登校拒否児童やパチンコ依存症など,カウンセリングを必要とするさまざまな症例,治療譚が絡まって展開していく。絶妙な伏線の綾に,読み手はただページをめくるしかない。

 全体的には,いたずらにホラー,サスペンスに走らず,催眠療法やカウンセリングについてこつこつと啓蒙を重ねるような印象。登場人物の多くが前向きな善人であり,とことんの悪人や悲劇,殺人は描かれない。この美点はクライマックスでのどんでん返しには向かなかった模様で,エンディングのテンションは期待したほどではない。
 それでも,冒頭の入りのよさ,1冊通しての面白さなど考えると実によくできた作品で,複数のカウンセラーを主人公とした,さわやかな青春小説の傑作と言うべきだろう。

 ……と言う書評では,『催眠』は終わらない。本書のこれらの特徴,さらに著者近影に添えられた「臨床心理士」の肩書きに,往々にして読者は「学者あるいは医者が,その専門知識をもとに余技で書いた小説だろう」などと考えてしまうが,それではアンミツにメープルシロップぶっかけるくらい甘いのである。
 作者は『催眠術バイブル 他人を操る驚異のテクニック』『松岡圭祐の催眠絵本ダイエット 眺めるだけで,やせる!』『松岡圭祐の催眠絵本・禁煙セオリー 眺めるだけで100%タバコがやめられる!』など,かなりアヤシゲな催眠術本の著者であり,さらにはフジテレビ関東圏深夜のエロ番組「A女E女」で若い女性を脱がせ,艶声をあげさせた催眠術師でもある。また,カウンセリングの実態や解離性同一性障害の症状は本書のようなものではない。つまり,本書に書かれたリアリティ溢れるあれこれは,大半が作者の「創作」であって,学者の余技などではない。つまり,作者は徹底してしたたかな(もちろんよい意味で)一人前の小説家なのである。
 <東京カウンセリング心理センター>という全く架空の組織と人間関係を描くだけでなく,その組織の限界や問題点まで読者に啓蒙してしまう才能は一種破格のものだ。まれに見る知的ゲームと言えよう。そんな作者の力量は,およそ原作と似ても似つかぬB級サイコホラー映画『催眠』のシナリオすら論理的に取り込んだ次作『千里眼』で明らかになってくる。

 ところで全くの余談だが,主人公・嵯峨敏也の持ち歩くノートパソコンがPanasonic PRONOTE FGだったのには,思わず頬がゆるんだ。70cmの高さからコンクリに落としても大丈夫という米軍お墨付きのこのFG,本体がそこまで丈夫だと販売時の段ボール箱は薄い一重で十分なのだ。また,分解してみるとハードディスクが透明なゼリー状の物質でガードされていたことなど思い出す。
 ただ,お医者の持ち歩きPCといえば,普通はPowerBookかThinkPadだと思うのだが……?

[雑談] Carsのメンバー,Benjamin Orr死去

【who's gonna come around when ...】

 アメリカのロックバンドにCarsという,パンクともちょっと違うな,エレクトロニックでクールでコマーシャルとでもいいますか,Andy Warholと組んでみたりするちょっとヒネたバンドがありまして,そのメンバーの1人,Benjamin Orrが膵臓癌で亡くなったそうです。

 この人がヴォーカルを担当したDriveというバラードがあるんですが(普段のヴォーカル担当はRic Ocasek),この曲のプロモーションビデオが実にもう,よいのですよ。

 15年くらい前,各テレビ局がポッパーズとかミュージックMTVとか,プロモーションビデオの専門番組をよく流していたころ(Michael JacksonのThrillerとかがウケにウケていた当時ですね),烏丸もわりあい熱心にチェックしてたんですが,その中でもベスト3には入れたい,というくらい好きな作品でした。

 歌詞は「誰が君を家まで送ってくれるだろう」というようなシンプルなものなんですが,そのビデオの「君」(若い女性)は,パーティがひけた後,笑って,泣いて,だんだん壊れていって,白い寝室にこもる,つまり「誰も家まで送ってくれない」,そんな感じです(多分に意訳しています。実際はそんな明確なストーリーはありません)。Benjamin Orrは,そのストーリーに直接荷担せず,淡々と歌っていました。

 帰ったら家人を起こして,久しぶりに見るとしよう。Drive...

2000/10/05

気分転換にイチオシ 『チャート式国語1・2 基礎からの漢文』 江連 隆 / 数研出版

Nimg1598【あにはからんや おとうとをや ……ん?】

 ここしばらく,春秋戦国を描いた『東周英雄伝』(鄭問),悪役扱いの多かった曹操を主に据えた『蒼天航路』(王欣太),聊齋志異風の怪異譚『諸怪志異』(諸星大二郎)など,中国古代史に立脚した骨太なコミックが続々と現れている(『西遊妖猿伝』はパス。不勉強で申しわけない)。

 とくに台湾の鄭問が史記,十八史略に材を採った『東周英雄伝』は逸品中の逸品で,水墨画と近代コミックの技術を融合させた大胆にして精緻な画面構成はただもう圧倒的。
 ……と,このまま『東周英雄伝』の紹介に入ればよいのだが,それでは芸がない──というより,烏丸の力量ではせいぜい全3巻に扱われている人物や故事を列挙するしかできそうもない──ので,ここでは少し角度を変え,別の本を紹介しよう。

 先に挙げた作品,あるいは田中芳樹らの中国史モノを読んでいると,要所だけでよいから原典にあたりたいという欲求がふつふつと沸いてくる。さりとて漢文の授業をさぼりまくったこの身には,今さら史記,三国志まるごとは荷が重い。

 たとえば漢詩なら,岩波文庫『王朝漢詩選』(小島憲之),岩波新書『新唐詩選』(吉川幸次郎,三好達治),講談社現代新書『漢詩をたのしむ』(林田慎之助)等々,そこそこ廉価,どこから読み始めどこで休憩してもそれほど後ろめたくない,そんな書籍が少なくない(1冊何万,何十万円という,恐れ多い書物も少なくないが,それはそれ)。こんな感じで漢文がダイジェストに味わえて,なおかつそれなりにお勉強になるものはないものか。

 ……お勉強? お勉強といえば学習参考書なんてどうよ。
 というわけで早速書店に赴き,コギャルに混じってぱらぱらあたってみたところ,これなどいかがであろう,『チャート式国語1・2 基礎からの漢文』。
 昔は背表紙見るのもうんざりな参考書だったが,今こうして自由な読書の対象としてみれば,その内容のなんと豊穣,懇切丁寧なこと。

 史記・十八史略に論語・孟子,道家・法家に屈原・陶潜。聖仙杜甫・李白に残った白居易。もちろんあれこれの漢文・漢詩には,返り点,送り仮名はもとよりルビ完備,語釈通釈は時代背景まで詳細。口絵,写真はおろか,巻頭には中国歴史年表,巻末には中国文学地図まで準備は万端。駅徒歩3分ビジネスホテルのお手軽さである。
 烏丸曰く,これだけ親切にしていただいて買わない手があるだろうか,いやない。一人書く世界網の上,すいすい書けざるいかんせん,具や具や今夜はカレーにしよう。

 ま,そういうわけで,久しぶりにめぐり合えたお気に入りを吟じて〆としたい。

     涼州詞  王翰

   蒲萄美酒夜光杯
   欲飲琵琶馬上催
   酔臥沙場君莫笑
   古来征戦幾人回

      蒲萄(ぶどう)の美酒 夜光の杯
      飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催(もよほ)す
      酔うて沙場(さじょう)に臥(ふ)す 君笑ふこと莫(な)かれ
      古来 征戦 幾人か回(かへ)る
 
 

2000/10/04

[雑談] 声を区別する言葉(石川セリ,ジョン・レノン,カレン・カーペンター……)

 ふと思ったこと。
 人の声の質を表現する言葉って,なぜにこれほどまでに少ないのでしょう。

 そもそもは少年ドラマシリーズに『つぶやき岩の秘密』というのがあって,このテーマソング『遠い海の記憶』を歌っているのが石川セリ。のちに井上陽水と結婚した,大好きなボーカリストなんですが,この石川セリについてなんか書けるかな,書いてみたいな,と思ったところでつまずいてしまったわけです。
 彼女の声はかなり独特な質感があって,透明というには微妙に濁っているし,高い低いでは説明がつかない,平ぺったいような,やや発音の不明瞭な,広い声。……ぜんぜん,説明できません。きっと,ご存知の方は「なんだそれ」とむっとしているに違いない。

 いや,そもそも,誰かの歌声をうまく表現できる言葉なんてあるのでしょうか。
 ジョン・レノンの声をヴェルヴェットヴォイスと称するのはなかなか巧い表現なのですが,ポール・マッカートニーとジョンの区別がつかない人が多いくらいなのに(ジョンが射殺された夜,テレビのニュースは「ではジョンの声をお聞きください」と「レット・イット・ビー」をかけた。代々木公園に集ったファンがジョンを偲んで歌った,と報道されたのが「イエスタデイ」。どっちもポールです),はたしてヴェルヴェットヴォイスという表記で何が表現できているのか。

 モータウンサウンドなどのある種の裏声(スタイリスティックスなんかそうですね)をファルセットヴォイスというのはまだ共通認識できてよいほう。
 ハスキーな声,といえば確かにハスキーな声のことなんですが,同じハスキーヴォイスでも青江三奈と八代亜紀ともんたよしのりの声質の違いをどう表現したらよいでしょう。

 ずっと以前,プロモーションビデオを紹介する番組で,「最近,アメリカでは美しい女性ヴォーカルをたたえるのに,カレン・カーペンティッシュという形容詞が使われ」と言いながら,そこで紹介された新人バンドのヴォーカルは,悪くはないのですがおよそカレン・カーペンターの声とは似てもにつかぬものでした。そもそも,カーペンターズのあの歌声は,「カーペンターズのような」という言葉以外にどんな表現で語れたというのでしょう。「美しい」「さわやか」「軽やか」……ぜんぜん特定できません。

 もちろん,言葉による表現には必ず限界があって,書き手の意図するイメージや論理がその通りに読み手に伝わるとは限らないわけだけど,たとえば「コバルトブルーの服」といえばだいたい明るい青なんだな,とか,「キリでさすように胸が痛い」といえばああぎゅうっと痛いのね,とか,それなりにわかります。そのあたりに比べて,「声」というのはその声を知らない人にはなんと伝えにくい,いや,伝えようのないものなのか。と,嘆くこの声,どんな声だかわかりますか。

野球マンガのイチオシ 『ナイン』 あだち充 / 小学館

Nimg1578【百合ちゃーん】

 『タッチ』や『H2(エイチ・ツー)』から入り,あだち充の作品を題材に近代コミックの理念と技法の限界を解明したいという方には(いるのか? そんなやつ),この『ナイン』は必読である。なぜか。
 つまり,それまでは少女コミックで,主人公が不良だの病気だの,根の暗い青春ドラマを原作付きで描いてきたB級マンガ家あだち充が,この『ナイン』で初めて

   宝箱を開けた

からである。

 ストーリーは,高校の野球部が舞台,中学時代は陸上をやっていた主人公・新見克也とマネージャーにして監督の娘・中尾百合の青秀高校入学から卒業まで……でだいたい言い尽くされてしまう。まあこの手のスポーツものの常として,太った友人唐沢進ほか,脇役たちもまずまず活躍するわけだが。

 しかし,そこには,のちに『みゆき』でブレークする,主人公をめぐって髪の長い女の子と短い女の子(名前まで安田雪美だ)が入り乱れるというおなじみの設定,『H2』まで繰り返される勝ち負けより主人公たちの心理がメインのトーナメントなど,あだちマンガのパターンの多くがすでに登場している。もちろん『巨人の星』や『ドカベン』と違って「必勝」は求められない。唯一のライバルは主人公以外の選手のホームランで沈没,甲子園に出られたのは強豪チームのエラーのおかげ,行った先でも優勝するわけでもない。

 ……いや,そもそも,そういう設定や展開の問題ではない。あだちが手に入れた宝箱に入っていたのは,

   間(ま)

なのである。
 ここで勝負! の瞬間,ピッチャーやバッターから目をそらすあの絶妙の「間」,登場人物が自分をぎりぎりまで追い詰める直前,いきなり水着のアップに切り替えてしまうあの「間」。
 『ナイン』の第1話は,のちに青秀高校のエースとして活躍する倉橋永二の苦悩を描き,まだ少女コミック時代の重さを引きずっている。話がくどいし,重い。それが,第2話以降,あれよあれよのうちにページが白っぽく乾いていくのだ。

 というわけで,作品としての完成度,感動度は『タッチ』にとうてい及ばないものの,月刊誌に読み切り形式で連載された『ナイン』にはあだち充のそのへんのテクニックが洗練されないままムキダシに転がっている。その分,何度読んでもタイクツしないのである。

宗教マンガのイチオシ 『祝福王』 たかもちげん / 講談社(モーニングKC)

Nimg1572【神は我らの内に在る】

 『百年の祭り』『リストラマン太郎』『約束の人』など,7月に亡くなったたかもちげんの作品は文庫版『代打屋トーゴー』を除き,いまや新刊書店ではほとんど手に入らないのが実情だ。もっともいくつかの作品では連載当初の設定がなし崩しで,作品としての完成度はさほど高くない。
 しかし,埋没させるにはどうにも惜しい作品が1つある。モーニングに連載された『祝福王』全8巻だ。ただ,再販はしばらく難しいかもしれない。これは吉見正平という超越的な主人公が新興宗教の教祖となり,煉獄界を経て人々を救済するという内容なのだが,発刊(1991~1992年)の数年後,日本人の多くはあのオウム・サリン事件であらゆる新興宗教に不快,不信と滑稽を感じるよう強く刷り込まれてしまったからだ。

 「宗教マンガ」の定義付けは簡単ではない。宗教を広く「人知を越えるものを信じること」とみなすと,人の生き様(死に様)を描き,宇宙や霊魂を語るあらゆる作品が宗教とかかわることになりかねない。たとえば手塚治虫『火の鳥』,日渡早紀『ぼくの地球を守って』。オカルトや神話に題材を求めたものも当然含まれるだろう。
 一方,山本鈴美香『白蘭青風』,桑田二郎『マンガエッセイでつづる般若心経』,石井いさみ『劇画人間革命』など,作者当人が宗教的高揚にかられたものや,宗派広報的な作品もある。

 『祝福王』は,宗教に正面から対峙して描き上げられた,字義通りの「宗教マンガ」である。
 ……ここで,実は信仰心なぞアライグマの小便ほども持ち合わせない烏丸は,ハタと途方に暮れてしまう。作者の意図が理解できないからだ。たかもちげんは宗教人だったのか。少なくとも,一部の作家のように「あちら」に行ってしまい,何を描いてもその教義越しという気配ではない。彼が宗教について描いたのはこの作品だけだし(怪談はいくつかあるが,オカルト盲信とは思えない),晩年の『警察署長』も穏やかな市民の日常倫理とアイデアに由来するものだった。

 しかし,かといって『祝福王』が現世の理屈の範疇に納まるようにも見えない。宗派間の闘争などにワンアイデア目的達成譚を見ることは不可能ではないが,それにしては主人公の予知能力,交霊能力,カリスマ性は催眠術等の特殊技能では説明できないし,後半,彼が母を追い求めてさまよう「煉獄」は,これまで他のマンガで見たこともないほど独特かつ壮絶だ。
 受苦を教義とする煉獄宗の本山地下の巨岩の下に展開する「煉獄」で,正平は醜悪な餓鬼,浮遊する自在神(複数の神からなる不気味な魚のような形だが,正平(絶対神?)の存在の前に自身を見失い,融解してしまう),全身「業」のウロコだらけの亡者(が見開きに何千人と折り重なって描かれ,それが正平の一喝にばっくり割れて悲鳴をあげるシーンはなんとも言いようがない),トゥーパとパーロゥという二柱の創造神らと出会うが,これらは最後まで幻想でなく「現実」として描かれる。

 最後は正平の出身地,桑折の谷に数百万の人々が集い,そこで煉獄の亡者がすべて昇天する。キリスト教の最後の審判にならったものだが,「祝福王」とは何か,最終回に3コマだけ出てくる少年「煉獄の王」との関係は,などいくつかの疑問が説明されないままだ。それでも「全てのものに従い自らを祝福せよ」という正平の教義が谷に繰り返し響き,読者は内なる神について問われる。
 ……問われても困るとは思うが,とりあえず一読をお奨め。退屈はしない。

2000/10/03

エログロのイマイチ 『中国残酷物語』 山口 椿 / 幻冬舎アウトロー文庫

Nimg1556【モアのテーマ】

 これも「イチオシ」でなく,「イマイチ」。
 「中国」「残酷」おまけに「掌編集」とくればこの烏丸,三度のメシよりウラメシヤ,まこと胸ときめく組み合わせなのだが,ダメ。萎える。

 作者は作家,画家,チェリストという多彩な顔を持つアーティスト,1931年生まれというからけっこう年配である。最近各社から文庫で再販の続くその著作,ポルノなのにポルノという言葉では語り切れない,という扱い。おお,それは凄そう! と反応するにはこちらもいい加減スレてしまった。「あー,ポルノとしてはおっ立たず,奇譚文学としてはエロがくどい,あのあたりかな?」
 あのあたりなんである。

 内容紹介は掌編がたくさんあって面倒なので,表紙カバーから。
 「秘密の花園で,美女の死体を肥やしにあでやかな百花を育てる男」「妻と弟の仲を疑い,弟の両手を切断,妻を生きながら壁にぬりこめた男」「憎い側室の手足を切り,鼻を削ぎ,耳を焼き,糞だめの中に放りこんだ皇后」……壮大な中国の歴史を舞台に語られる,この世で最も残忍残酷な拷問・復讐・惨殺・処刑の数々。人間はやはり悪魔だったのか。

 よい素材である。これだけの素材でわくわくさせないなら,それは書き手の責任だ。しかし,この山口椿の描くポルノは,描かれるセックス行為が倒錯的なわりに電車の中で読めてしまう。要するにフランス書院文庫の隠微,グリーンドア文庫の羞恥,マドンナメイトの可憐(笑),いずれにも至っていない。しいていえば富士見ロマン文庫翻訳シリーズの高踏に近い。マグネシウム成分のない食塩のように,猥雑の雑が足りないのである。
 しかも,本作は中国を舞台にしながら,漢文からゆえの重さ,キレのよさがない。和モノ,ひらがなの粘着質から逃れられないとでもいうか,たとえば『半七捕物帳』の岡本綺堂が『中国怪奇小説集』(光文社文庫)を書けば,ちゃんと中国の怪奇譚ならではの手応え読み応えがあるというのに,それがない。

 もちろん,それならそれで,山口製和モノ怪奇譚として読めばよいわけだが,掌編が35編も並ぶとそのウェットさにうんざりしてくる。多分,残虐な行為の一つひとつを書きながら,著者がビビッドに反応しすぎているのだろう。
 幼稚園年長の折りより親にせがんでヤコペッティのモンド映画を見にいっていた烏丸のワンポイントレッスン。残酷物語はリアルに淡々と書かれたほうがいいですね。

海外ミステリのイマイチ 『検屍官』 パトリシア・コーンウェル,相原真理子 訳 / 講談社文庫

Nimg1549【なにかといらだつ主人公】

 「イチオシ」ではない。「イマイチ」である。
 コーンウェルの講談社文庫のラインナップは,通算400万部以上売れているらしい。けっこうなことである。ファンの感想など聞くと,登場人物に対する愛着や誰それがこれこれの作品で死んでしまったのでショック,など,シリーズならで はの魅力が大きいらしい。だから,最初の1冊だけを云々するのは,平岩弓枝『御宿かわせみ』を最初の短編1作で批判するようなものであり,気にしていただく必要はない。
 ……が,それでも500ページになんなんとする長編ミステリとして,これはないんじゃないの,と烏丸は思ってしまった次第。

 以下,いわゆる「ネタばらし」にあたる表現あり。要注意。

 主人公ケイ・スカーペッタは女性検屍官。バージニアの州都リッチモンドでは,女性を狙う連続殺人に全市が震え上がっていた。被害者たちはいずれも残虐な姿で辱められ,締め殺されていたが,地理的にも人種的にも犯人との接点が見えない。焦燥の深まる捜査陣の中,ケイはさらなる困難に直面していた……。
 と,まあ,そんな具合。
 訳者あとがきによるとケイ・スカーペッタは「離婚暦のある四十歳の魅力的な女性」,「原書のジャケットの写真で見るコーンウェルは,ケイ・スカーペッタをほうふうさせるような知的な美人」だそうだ。知的,魅力的,である。

 しかし。たとえば彼女,学歴はなくとも誠実で有能に見える部長刑事ピート・マリーノに「彼は鈍くもないしばかでもない。以前にもまして,マリーノがいやな人物に思えた」と嫌悪感剥き出し。別にマリーノが彼女に対して仕事上,そう具体的な邪魔をしたようには思われない。粗野で口は悪いが,刑事としての経験則に基づいて推理し,仕事を進めているだけなのに。上司や前任者もひどい扱いだ。
 どうやらこの「知的な美人」,自分のことを最優先してくれない人物はすべて「いやな人物」扱いしてしまうもよう。逆に,マリーノが具体的な事例をあげて彼女と交際のあるとある人物の素行を疑うと,なんら理性的な根拠なしに頭ごなしに否定,被害者のファイルについての記憶が不確かになってしまうほど動転してしまう。……知的どころか,どちらかといえば感情的だし,身勝手だ。
 少なくとも烏丸は主人公に感情移入できなかったし,結局のところ犯人取り押さえの名誉はマリーノにあることを明記しておきたい。

 くどいようだけど,ここから下はネタばらし。後で烏丸に文句を言わないように。

 といった主人公のキャラクターもさりながら,烏丸が一番がっくりきたのは,本作では500ページのうち450ページを過ぎるまで,真犯人が話題に出てこなかったことだ。もちろん巻頭の「主な登場人物」にも含まれていない。もしかするとちょい役で出てきていたのかもしれないが,全然記憶にない。あいつが怪しい,こいつが怪しいとさんざん振り回しておいて,いざ犯人が明らかになると読者の全然知らない……って,そりゃないだろ。

 本作は,エドガー・アラン・ポー賞の新人賞をはじめ,英米の4つの主要なミステリー新人賞を総なめにしたそうだ。史上初の快挙だという。
 そんなもんなのかね。

2000/10/02

なごみマンガのイチオシ 『夢幻紳士 -怪奇編-』 高橋葉介 / 徳間書店・朝日ソノラマ

Nimg1539【奥さん あなた先年亡くなったはずでしょう】

 高橋葉介に『クレイジーピエロ』という作品がある。普段は穏やかで大人しい少年が,ピエロの扮装をしたとたん殺人鬼と化し,敵も味方もぐちゃぐちゃに殺しまくる話だ。設定だけみると先に紹介した『ゴージャス☆アイリン』に少し似ている。しかし,明らかに異なるのが「決め」ゼリフのクオリティだ。

 「そうかもしれない だが…… おれはクレイジーだからな そんな道理はわかりゃしないのさ」
 「イエース!! おたませしたな クレイジーピエロだ!!」
 「死にたい奴らはかかってこい! かたっぱしからみな殺しだ!!」

 これらはいずれも殺人鬼モード時の主人公のセリフだが,ご覧のとおりストレートに過ぎて,『アイリン』のそれとはキレが違う。コマ運び,ストーリー展開は巧みな作者だけに,作品における力点,支点が異なるのだろうと考えたい。
 そういう目で俯瞰してみると,高橋のシリアス作品には,名画面はあれど名セリフがない。セリフの吹き出しが1つもない作品すらある。
 今回お奨めする作品の主人公もどちらかというと寡黙だ。彼の名を夢幻魔実也という。

 実は,夢幻魔実也を主人公とする高橋作品には,3つの系譜がある。というか,作者の言によれば,夢幻魔実也は3人いるのだそうだ。
 すなわち,「怪奇編」や「外伝」に登場する,成人で無口で怪しい能力と独特の色気をもった魔実也(添付画像参照)。催眠術や精神感応などの特殊能力は擁するが,少年の顔をし,身勝手に猟奇的犯罪を嗤う「漫画少年版」の魔実也。体力勝負で探偵稼業にいそしむ,コメディというよりはドタバタスラップスティック,「アニメージュコミックス版」のマミヤ。

 いずれも読み物としては楽しいものだが,今回お奨めするのは「怪奇編」(「外伝」はその続編)。
 夢幻魔実也は大正から昭和初期とおぼしき日本の夜を跋扈し,たっぷりとスミを使った黒々としたタッチのコマの中で影から影へと悠然と漂う。彼は女たらしで人でなしで,その能力において超越的ではあるが無敵ではない。趣味において厳格ではあるが道徳的ではない。
 「怪奇」とはいっても,高橋作品の多くは楳図作品のような「怖さ」「気持ち悪さ」を提供してくれるわけではない。また,魔実也は事件を解決するのではなく,ただ傍観し,デカダンでディレッタントな味わいを与えてくれるだけ。この味わいを描くために大正から昭和初期を選ばざるを得なかったとしたら,現代とはなんとつまらない時代であることか。

 ところで,この『夢幻紳士 -怪奇編-』を,何マンガのイチオシと言えばよいのだろう。恐怖,不気味という点では先に述べた通り楳図にはかなわない。美麗? それもそうだが……烏丸としては,「リラクゼイション」という言葉に切り口を見出したい。日本人特有の下ぶくれの顔,和服の幽霊,メスに引き裂かれる白い首,はじき出る腸。そしてそれを前に退屈そうにマッチで煙草に火をつける。……ああ,なごむ。

2000/10/01

殺し屋マンガのイチオシ 『ゴージャス☆アイリン 荒木飛呂彦短編集』 荒木飛呂彦 / 集英社(ジャンプスーパーコミックス)

Nimg1534_2【わたし…… 残酷ですわよ】

 怖さイチオシ,笑えるイチオシ,泣けるイチオシ,期間・年齢・状況限定イチオシなど,マンガだけでもいろんなイチオシがある。
 もう1つの問題として,イチオシだからって一番と思われるモノをオススメしたってしょうがないということもある。ボクシングマンガなら『あしたのジョー』に決まってるよね,とか,お医者マンガなら『ブラック・ジャック』でしょ,とか言ったって,ソレダケではしょーもない。もちろんそれらがほんとに一番かってこともあるけど,要するにマンガ好き百人にアンケートとって,そのジャンルでベスト3に入るものをそのまま紹介してもつまらない。せめてなんらかの「読ませる」要素がほしいってことですね。そこで烏丸的には,読ませる努力より,ややマイナーな作品を選んで「知らないでしょ?」と紹介する姑息な手段に訴えたい。「知ってる」という人は,知らないフリをして読んでほしい。

 さて。今回は殺し屋マンガを考えてみた。一番有名なのは『ゴルゴ13』だろうが,さいとうたかをは漫画論の素材としてはともかく個人的にコレクションしたい作家ではない。で,迷ったあげく(ウソ。最初からこれを取り上げるためにうだうだ書いてるのね)選んだのが,この『ゴージャス☆アイリン』である。

 作者の荒木飛呂彦は言うまでもなく少年ジャンプの長期連載『ジョジョの奇妙な冒険』の作者。また,彼の初期のSFバイオレンス『バオー来訪者』はツウの間でかねて評価の高い作品だ。
 噂によると,『バオー』は不人気で打ち切りだったという。あんびりーばぼーだ。逆に『ジョジョ』は,人気連載を終わらせないでほしいと編集部が懇願したので,もともと別の作品にするつもりだったプロットをつないで連載を続けているという。そのため,連載初期の「波紋の理論」の見事さが台無しだ。

 『ゴージャス☆アイリン』は,その2つの代表作の合間に書かれた,ある暗殺者の物語。単行本1冊にも満たない短編2編だけだが,メイクによってその性格はおろか肉体まで変えてしまう(変装ではない。なりきってしまうのだ)特殊技能を父親から受け継いだ少女,アイリン・ラポーナのダイナミックな存在感,それに劣らず強烈な敵の造型,思いがけない武器,そして肉弾戦に見えて実は丁丁発止と先読みを繰り広げる頭脳戦など,見所は実に多い。
 描線はデビュー当時だけにやや柔軟性に欠け,手塚治虫と原哲夫の中間くらいの手応えだが,烏丸としてはぐにゃぐにゃしすぎの最近の絵柄よりよほど好感が持てる。そしてそれ以上に魅力的なのが,随所にちりばめられた名セリフの数々だ。

 「あなた 動きをやめなさい」
 「わたし…… 残酷ですわよ」
 「くらえ! 刺青化幻掌(ファンターミイム・タトゥー)だッ!」
 「アイリン! 殺しのメイクアップ! 見せてあげます わたしの素顔を」

 これらのセリフの扱いからは,少なくともこの当時,作者・荒木飛呂彦がマンガの魅力において,動き→決め(のポーズ+セリフ)→動き→決め……という演劇的な流れを重視していたことがわかる。この「決め」への過剰な思い入れが,くどくなるぎりぎり手前の描線とほどよくバランスがとれた感じだ。

 何はともあれ,機会があったら一度手にとって読んでみてほしい。せめてあと数話書き続けられ,単行本1冊を満たしてくれていればよかったのに! と今さらながら願うのはこの烏丸だけではないはずだ。

『東宝特撮映画ポスター全集』(全2巻) 朝日ソノラマ 宇宙船文庫

Nimg1528【男心がゴジラに燃えて】

 1960年代,当時小学生の少年にとって,東宝の怪獣映画はかけがいのない娯楽の1つだった。烏丸が生まれ育った市には映画館が4軒あったが,今では1軒も残っていない。そのくらい当時の生活に占める映画の比重は高かったのだが,その中でも男の子にとってゴジラ映画の魅力はケタ違いだった。封切り日に小遣い握りしめて東宝系の映画館に行くと,クラスの主だった顔がそろっていたものだ。いや,その前後も毎日学校帰りに映画館前に三々五々集まり,ポスターやスチール写真にうっとり見ほれたものだ。ゴジラ,ラドン,モスラ,キングコング,キングギドラ,ドゴラ,海底軍艦,バラゴン,サンダ,ガイラ,などなど。

 メカゴジラが登場したころから怪獣映画への興味はやがて薄れ,自分はそれを卒業した,と思っていた。ところが,1960年代の特撮映画は,後半の一部はともかく,けっこう大人の鑑賞にたえる出来だったのだ。
 1980年代,烏丸は毎週のように都内の映画館でオールナイト上映を楽しんだものだが,そこで久々に見る怪獣映画は予想以上によくでたものであり,見るたびに胸が熱くなった。その後平成ゴジラシリーズが新しく作られるが,そちらはどうにもおもしろくない。なにか,暗めのドラマを無理やり押し込み,特撮部分は逆にただ担当者のマニアックな技への嗜好が見えるばかりで,作品としては古いラインナップに到底及ばないのだった。
 また,古い怪獣映画を見る楽しみの1つには,1960年代,まだ「戦後」の臭いを残していた,懐かしいこの国の姿がかいま見られる,ということがあった。銀座の目抜き通りをミゼットや荷台付き自転車が走り抜け,悲鳴を上げて怪獣から逃れる市民のファッションは防空頭巾に柳行李。ギャングはピストルを手に「トランク一杯の5,000円札だぜ」とうそぶくのである。

 烏丸がオールナイトにいそしんだちょうどそのころ,普通の文庫本にまぎれて,文庫サイズの写真集やポストカード集が次々と発売され,ちょっとしたブームになっていたことがあった。篠山紀信のアイドル写真集だとか,ネコのポストカード集とか,そんなものだ。『東宝特撮映画ポスター全集』はそんな中,とくに騒がれもせずシレっと発売された。まったく,朝日ソノラマのやることはよくわからない。これだけの版権の手配をしておいて,すぐに在庫を切らしてしまうとは……。

 ともかく,このポストカード集は東宝のゴジラ映画,怪奇映画ファンにはたまらない資料である。なにしろ,戦前戦中の戦争映画から,初代ゴジラ,ラドン,モスラ,その後のお子さまランチ化した怪獣プロレス映画,一方地味ながらシブいSFホラーを描き続けた透明人間,液体人間,ガス人間,そして新しいものでは稀代のゲテモノ「ノストラダムスの大予言」,由美かおるの「エスパイ」,浅野ゆう子の「惑星大戦争」にいたる,東宝のあのラインナップのポスターが2巻で約60映画分,勢ぞろいしているのだ。巻末には簡単ながら各映画のスタッフもまとめられている。
 いずれもポストカードだから,切手を貼れば葉書になるが,誰が送ったりするものか。
 ああ,ぱらぱらとめくると,伊福部昭の音楽が心に響く。僕の中には地下から悪意をもって地上をうかがうバラゴンが,今でもうっそりと生きているのだ。

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