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2000年9月の62件の記事

2000/09/30

『ミカドの肖像』 猪瀬直樹 / 新潮文庫

Nimg1523【冬のノフラージュ】

 猪瀬直樹の著書では『日本国の研究』の不愉快さもなかなかだが,純粋な読書の楽しみとしてはむしろこちら,『ミカドの肖像』を推したい。

 丸の内のビルに高さ制限があるのはなぜか。それを規制するのは誰か。
 原宿宮廷ホームと時刻表を管理する者とは。
 西武グループはどのようにして皇族の土地にホテルを建てたのか。
 日本ではほとんど知られていないオペレッタ「ミカド」が欧米人にウケるのはなぜか。
 明治天皇の「御真影」はなぜ西洋人を思わせる風貌になったのか。

 近代日本と天皇制について,タペストリーのように仮説とドキュメントが織り重ねられ,猪瀬にとっての日本人の心象風景の中の天皇が明らかになっていく。

 本書における天皇制の把握には多々異論があるようにも聞く。そういうところもあるかもね,と思わないでもない。
 ただ,夕暮れの風の中に遠く名を呼ばれるような,本書独特の気配は捨てがたいように烏丸は思うのだが。

『日本国の研究』 猪瀬直樹 / 文春文庫

Nimg1517【「なんじゃこりゃあ?」 瀕死のニッポン】

 文部省所管の財団法人「日本母性文化協会」の理事長が,核燃料の原料となるモナザイトを大量に所有していた事件は記憶に新しい。原子炉等規制法違反容疑での立件こそ見送られたが,同省は同協会に財団としての活動実態がないと判断,同協会の設立許可を取り消している。
 インターネット掲示板の流行り言葉で言えば
  「おまえモナーザイト」
  「逝ってよし」
な事件ではあるが,ここから何トンあそこから何トンと無造作に涌いて出るモザナイトの報道が一段落したとき,私たちはふと立ち止まらざるを得ない。
 「活動実態のないまま放置された財団法人。それっていったい何なのだ?」

 本『日本国の研究』は,『ミカドの肖像』で天皇制にまつわる日本のさまざまな姿を多面的に描いたジャーナリスト猪瀬直樹が,無数の公団や法人が「財政投融資」の名のもと,国民に寄生し,税金を食い荒らすさまを克明に暴いたものである。
 ただ,本書が烏丸お奨めの1冊かと問われれば,必ずしもそうではない。
 なぜなら第一に,本書は数字の引用が多く,登場する組織の構造も複雑で,およそ読みやすい本とは言えない。第二に,ごく当たり前に税金を払い,ごく普通に行政に期待する国民にとって,これほど不愉快でいまいましい本はなく,怒りと無力感に胃を痛めかねないからである。

 冒頭,読者はさっそく我が国の森林開発と林道建設について,さまざまな矛盾,自然破壊,際限なき税金の無駄遣いを知らされる。烏丸はたまたま大阪に向かう新幹線で本書をひもといたのだが,ものの15ページでビールが欲しくなり,50ページでビールでは足らなくなった。そのくらい腹立たしい実態が綿々と続く。

 「あとがき」で著者自ら述べているように,本書は立花隆の『田中角栄研究』を念頭において書かれたものだ。金権,族議員のチャンピオンたる田中角栄が,今となってはわかりやすい勧善懲悪の悪役だったのに対し,その後の官僚国家日本は不正を構造的に隠蔽する装置を備えた……これが著者の主張である。
 筆者は道路公団・住宅公団を例に,財政投融資とそれに寄生する公団の実態を,そしてさまざまな特殊法人,認可法人,公益法人の集まる「虎ノ門」こそが不正の伏魔殿であると告発する。

 昨日はそごうが,債権放棄による自主再建を断念し,民事再生法適用を申請,すなわち法的整理の道を選んだ。私企業に過ぎないそごうへの救済が不明瞭な政治論理でなく,裁判所のもとに進められる点は素直に喜びたい。
 しかし,日本を蝕み,税金を食い荒らす魑魅魍魎は,もはやそれが不正,腐敗であることすらわかりにくい複雑怪奇なシステムをもって,さらに迷走を深めている。その闇,牛乳工場のバルブの比ではない。
 現時点ではっきりしているのは,日本が国内総生産(GDP)に匹敵する500兆円の借金をかかえていること,そして結局それを賄うのは国民だということだけである。

2000/09/29

『死刑執行人の苦悩』 大塚公子 / 角川文庫

Nimg1506【法の無情】

 最初にお断りしておくが,烏丸は死刑廃止について“ほぼ”ニュートラルな立場にいる。廃止すべきか存続すべきか,正直,判断できていない。

 本書は,実際に死刑に携わった刑務官(OB)を訪ね,その思いを問う。囚人の更生のために働いているつもりでいたのに,ある日,執行命令のもとにロープを用意し,レバーを引き,死体を片付けさせられる。家族にも言えない,そのつらい思い……。解説の佐木隆三ら,死刑廃止を唱える人々には我が意を得たりの1冊なのだろうと想像される。しかし,ニュートラルな立場の者には,ギアを変えるきっかけにはならない。
 なぜなら,執行がつらいことと,死刑はいかんということは別問題だから。自動車が交通事故の危険を供なうことと,自動車販売をやめようということは,同じ水平線にはない。矛盾やジレンマのない仕事などないのだ。まして服務規定に「死刑の執行をする」がないのにその仕事をしなければならない……などというのは,職業選択者として不勉強なだけだ。

 著者は,取材した刑務官は誰もが死刑廃止を主張した,という。当たり前だ。この国で,直接囚人をくびり殺した者が「あんな連中ばんばん死刑にしたったらええんですわ」などと口にしたら「村」でどんなめにあうか。マイクを向けられた時点で一方向の回答を強制されているようなものだ。だからこの表現はフェアではない。
 また,再三言われる,死刑囚が「死刑確定後はまるで生まれ変わったような立派な人間になって」和歌の才能を発揮したり,見事な絵を描いたり,小説を書いたりというのも,だから何,と思う。ごく普通の人間は,貧しく生まれようが障害があろうが,踏みとどまって一生を負える。和歌や絵画を楽しむ余裕のない一生だって多い。他者より我慢できなかった者が死刑が確定して初めて神妙になった……つまり,この文章こそ,彼らが生まれ変わったのは死刑という制度があったからこそ,ということを逆に示してはいるのではないか(さらに,性的暴行犯については,一見生まれ変わったように見えても再犯率が低くないという説もある)。

 死刑廃止論者の,人の命は地球より重い,とか,ヒットラーにも基本的人権はある,とかいう理屈はよくわからない。彼らに生存権があるというなら,彼らにむしられた生存権との経済バランスはどうなる。
 そもそも,人命が地球より重いなどというのは生命尊重のスーパーデフレである。それならイヌ,ネコ,ウシ,ブタの命も地球より重いし,サナダムシやエイズウイルスの命だって重い。霊長類などとエラそうにしているが,ヒトとは進化の1本の枝でしかなく(社会性のある生物は少なくないし,言葉,道具を使う生物だっている),地球規模ではほかのあらゆる生物より迷惑度が圧倒的に高い。なにを思い上がっているのか,と思う。

 本書は「生命というものは,本当に尊いものだ。どんな生命も,生きている限り生きるべきだと思う。」と記して終わる。本当にそう思うなら,牛肉,豚肉を食べるのは今すぐやめるべきだ。都合と方便だけでこんな重いことを書いてはいけない。もしくは,なんら悪いことをしていない子供たちの生命が銃火に,飢えに,病気に脅かされていることのほうを優先して騒いでほしい。

 もう一点。本書に限らないが,死刑囚だから,障害者だからとその作品(絵画,小説,作曲など)を必要以上に称えるのはいい加減やめよう。ニュートラルな目や耳で判断すれば,高い評価を得ている作品の一部には児戯に等しいものもある。作者の背景で価値を云々するのは,文学や音楽に対して失礼なだけだ。

知らないと損をする寄生虫シリーズその3 『おはよう寄生虫さん 世にも不思議な生きものの話』 亀谷 了 / 講談社+α文庫

Nimg1496【回虫はコスモポリタン】

 著者の亀谷了先生は,世界でただ1つの寄生虫専門博物館にして一部アベックのカルトなデートスポットとしても知られる(本当)「目黒寄生虫館」の館長であらせられる。1909年のお生まれだが,いつまでもお元気で,と,烏丸,心よりお祈り申し上げる次第である。
 著書にはこのほか文藝春秋から発売の『寄生虫館物語 可愛く奇妙な虫たちの暮らし』など多々が,ここでは手軽な文庫本をご紹介しよう。紳士淑女のたしなみとして,バッグにはいつも寄生虫本を持ち歩きたいものである。

 先に紹介した藤田先生の著作に比べると,『おはよう寄生虫さん』にはストレートな文明批評があるわけではない。ただ,古今東西,ヒト,イヌ,ネコ,ウシ,クジラ,サバなどにつく寄生虫を集めて集めて集めて集めて集めて集めて集めまくった話が並んでいる。文字通り博覧的である。亀谷先生の筆が寄生虫に対する愛情に満ちているため,それほど気持ちが悪いわけでは……うんにゃ,やはり読み手次第だろうか。少なくとも烏丸は「ほほうほう,ひやひや」と楽しく感動的に読めた。

 条虫(サナダムシ)の一種は,虫卵が宿主の糞便と一緒に川に流れ込み,ケンミジンコというプランクトンの一種に食われる。そしてこのケンミジンコを食ったマスに入り込んで幼虫となり,そのマスを生のまま食べたクマやヒトに侵入して腸壁に吸着し,成長して親虫になり,卵を排出する。
 一方,肝硬変を引き起こす恐ろしい肝吸虫(肝臓ジストマ)は,貝(マメダニシ),淡水産の川魚(モロコやタナゴ)を経てヒトに移る。
 また,甲府盆地のデルタ地帯や広島県の芦田川上流で腹に水がたまって死ぬ風土病があったが,その原因となった日本住血吸虫は排出された卵が水中で宮入貝に侵入,そこで形を変えて再び水中に遊出し,これにふれた宿主の皮膚から体内に侵入する。
 つまり,多くの寄生虫は,虫卵が一度は宿主の体外に排出され,一種類ないし二種類の中間宿主を経て,再び新しい宿主の体内にもぐりこむ。
 また,子供に多い蟯虫(ギョウチュウ)では,虫卵が口から入ると腸にいたって幼虫になり,盲腸の部分で成長し,夜,寝ている間に肛門から外に出て産卵する。子供が無意識に指でかくので,卵が子供の爪に入り,翌朝にはまた口に入る。幼稚園で子供のお尻にテープを貼るのは,この蟯虫の検査である。

 これら寄生虫の生態の,なんと複雑にして精妙なことか。たとえば日本住血吸虫は,宮入貝以外の貝を調べても発見できないのである。正直,うろたえてしまう。突然変異,有利なほうが生き残る,という進化論の図式でこれらが説明できるのだろうか。

 ところで,『おはよう寄生虫さん』には,科学博物館の岡田要先生がウシの胃袋に寄生する双口吸虫を指差し「コイツはうまそうだ」と言ったという話が書かれている。大豆ぐらいのクリクリした虫らしい。
 一方,藤田先生の『空飛ぶ寄生虫』では,群馬大の鈴木守先生が「藤田は教職員が帰った後に双口吸虫をそーっとビンから出してうれしそうに一人で食べている」とデマを流した,という話が載っている。
 寄生虫学者の間で,この双口吸虫がいかに美味しそうに語られているか,想像できるというものである。おそらく,実際に口にした学者も一人や二人ではないのでは……うぇ。

 というわけで今回の寄生虫談義はここまで。ごカイチュウ……もとい,ご静聴ありがとう。

2000/09/28

知らないと損をする寄生虫シリーズその2 『空飛ぶ寄生虫』 藤田紘一郎 / 講談社文庫

Nimg1484【コブが消えて,動いて,また,出現する……】

 『笑うカイチュウ』の続編である。主に国内を舞台とした前作に比べ,世界をまたに寄生虫を追い求める藤田先生のペンはさらになめらかだが,笑いの中に語られる批評は重い。

 本書では,カイチュウやサナダムシといったおなじみの寄生虫はあまり姿を現さず,おもに海外で伝染する恐ろしい病気が次々と紹介される。
 それに対する予防は難しく,治療もまた難しい。現在世界でもっとも普通の病気といわれるマラリアは,ハマダラカがヒトを吸血する際にマラリア原虫がヒトの体内に入り込む形で感染する。しかし,そこまでわかっていながら,現在の医学ではワクチンが作れない。体内に入ったマラリア原虫が,ヒトの細胞の中に入り込んでしまうからだ。世界中で莫大な費用をかけて研究されているにもかかわらず,いまだこれといった予防策はなく,藤田先生も親しい友人をマラリアで亡くして涙する。
 本書では,他の寄生虫が介在することで,マラリアに感染しない,という別の角度からの予防法の可能性が示唆される。

 あらゆる生物同様,寄生虫のレゾンデートル(存在意義)は「種の保存」にある。だから,寄生虫たちは想像を絶するあの手この手を用いて宿主の体に入り込み,その宿主の免疫防御機構をくぐりぬけて生存を続ける。その際,宿主が感染症によって急激に倒れてはもともこもないわけで,寄生虫病は慢性的に表れて進行する。そして,(ここが凄いところだが)自分より遅れて入ってくるモノには,宿主に防御反応を起こさせるように仕向けるのだそうだ。

 そして,寄生生物の進化適合は早い。だから,多くの寄生虫は宿主を殺さないよう穏やかな「共存」を目指して進化していく。藤田先生は,あのエボラ出血熱ウイルスも,ヒトに排除されるか,適合するか,どちらかの道をたどるだろう,と予言する(ただし,ヒトに排除されるとは,病原体がきわめて強い伝染力を持って宿主たるヒトをすべて殺してしまう場合も含まれる)。
 現に,ミドリザルのエイズウイルスは,適合してしまってミドリザルではエイズの症状を引き起こさないそうである。

 しかるに昨今の日本は,過剰な潔癖症ともいうべき状態にあり,抗生物質の乱用,抗菌グッズなどの氾濫などのため,本来なら穏やかに適合していったはずの一部の大腸菌が生き延びるために赤痢菌の仮面をかぶって食中毒の症状を起こすようになった……それが「O-157」だ,というのである。
 もっとも,だからといってエイズやエボラ出血熱がはびこり,進化するに任す,というわけにもいかないとは思うのだが……。

 『笑うカイチュウ』や『空飛ぶ寄生虫』は,寄生虫を題材にしたエグいお笑いエッセイとして読み飛ばすことも可能だ。しかし,文化と自然について考え,生活を省みる機会を与えてくれる1冊であることは間違いない。少なくとも本を読んで寄生虫に感染するわけではないので,食卓に1冊,いかがであろうか。

知らないと損をする寄生虫シリーズその1 『笑うカイチュウ 寄生虫博士奮闘記』 藤田紘一郎 / 講談社文庫

Nimg1476【摘出された女児の眼球を調べたところ,イヌカイチュウの幼虫が……】

 一部の読書家の間では,ここ数年,「イカ!」と呼べば「ぎっちり詰まった寄生虫!」と答えるのがツウのワザである。これは主に唐沢俊一,ソルボンヌK子『大猟奇』の画像によるが,実は『帽子男』シリーズで知られる上野顕太郎の新刊『ひまあり』でもイカの寄生虫が「うよん」とくねっている。
 このように寄生虫についての想念と現象が偶発することをユングはアニサキス・シンクロニシティと呼んでいる。本気にしないように。

 さかのぼって1960年代後半,寄生虫の「うよん」にすでに着目していた作家がいた。筒井康隆である。初期の短編集『アフリカの爆弾』に収録された「メンズ・マガジン 1977」(1977は執筆時には近未来の意)では,撮影用ライトに温められたヌードモデルの腹からサナダムシが2メートルも這い出し,悲鳴を上げてスタジオを出ると,外気の冷たさにサナダムシはふたたび彼女の暖かい直腸の中に1メートルばかり引き返す。さすが筒井御大,30数年後の寄生虫ブーム(そうか?)を予見して余裕のよっちゃんカギサナダ。

 さて,昨今の寄生虫ブーム(だから,ブームなのか?)のきっかけは『大猟奇』かもしれないが,中核にあるのは藤田紘一郎先生の『笑うカイチュウ』であると断定して異論はないだろう。
 藤田先生は西にカイチュウの卵とじありと聞けばよだれを流し,東にイヌ,ネコの寄りつく砂場ありと聞けばフンを求めて駆け参じる。本書冒頭,インドネシア在留の美人の奥さんが,駆虫剤が効いて30センチのカイチュウをヒネリ出し,トイレでそれを握ったまま失神してしまうシーンなど随所に笑いを誘う。
 しかし,忘れてはならないのは,本書『笑うカイチュウ』は一概に寄生虫を悪物として描いているだけではないということだ。

 藤田先生の指摘は,こうだ。現在の日本では,花粉症やアトピー性皮膚炎など,アレルギー性の病気が急増している。ところが,調べてみると,寄生虫感染率の高い国の在留邦人にはアレルギー症が極めて少ない。これは,寄生虫が入り込んだヒトの体内ではその排泄物が抗原になって抗体が作られ,その結果,スギ花粉やダニに対する抗体が作られなくなり,他のアレルギー症が抑えられる……というのである。
 つまり,アレルギー症の蔓延は日本人の過度の潔癖志向に要因があるとし,寄生虫の研究がアレルギー症の対策になるという可能性が示唆される。

 体内でうごめく寄生虫は,なんとも気味の悪い,怪しげな存在である。命にかかわる病疾患の原因となるものも少なくない。藤田先生はまた,日本人がどんどん海外に出ていく時代なのに,寄生虫病について十分な知識のある医者がほとんどいなくなっていることを心配する。
 我々としてはとりあえず本書によって,どのような食べ物をどう食べると危険か,という点をおおまかにでも把握しておくことが大切だろう。イヌやネコのようなペット,キタキツネやサルのような野生動物から感染する寄生虫もいる。たとえばドジョウの生飲みはガッコウチュウ(本来はブタの寄生虫)の感染の危険がある。ガッコウチュウは幼虫のまま,人体を縦横に這い回る。

 寄生虫については,過剰に反応するのも禁物だが,あまりに無用心なのもまた問題である。これは性病に対する姿勢と変わらないかもしれない。
 というわけで,寄生虫談義,もう少し続く。

2000/09/27

重いネタ続いたのでちょっと一服 『タイニーポムポム』 坂田靖子 / 小学館(プチフラワーコミックス)

Nimg1470【烏丸氏の優雅な生活】

 坂田靖子の「おっかけ」はつらい。次の単行本がどこから出るのか,見当がつかないからだ。
 彼女の単行本・文庫本は合わせると百種以上あり,最も多いのは白泉社だが,それ以外にも潮出版社,小学館,早川書房,講談社,双葉社,秋田書店,偕成社,文藝春秋,主婦と生活社,理論社,新書館,朝日ソノラマなどなどから発売されている。一部は既刊の文庫化や傑作選だが,油断しているとマンガについてメジャーとは言いがたい出版社から発売され,知らないうちに品切れ,ということもある。
 決してマイナーな作家とは思えないのだが,人がよいのか白泉社の囲い込みが甘いのか,これは脅威だ。書店店頭で新刊を発見したときはほっとして,「出すなら教えてくれよ,おーい」とへなへなしゃがみこんでしまう(今後はオンライン書店でときどき確認すればよいのだが)。

 『タイニーポムポム』はこの夏に発刊された最新オリジナル作品集。いつもより絵が粗い気もするが,もともとが少女マンガとしては緻密なほうではなく,なんともいえない。

 さて,坂田靖子の作品の基本的パターンは「異界に常識人」である。
 少し説明しよう。SFやホラーにおいて,その世界の構成をごく簡単にまとめると,
 (a) 常識的な世界に異常な人物
 (b) 異常な世界に常識的な人物
の2つに分かれる。「常識的な世界に常識的な人物」ではSFやホラーにならないし,「異常な世界に異常な人物」では前衛的すぎてわけがわからない。
 (a)の常識的な世界に異常な人物が現れてかきまぜるパターンはマンガでいえば伊藤潤二『富江』をはじめ多くのホラーコミック作品がそうだし,大島弓子の初期作品もこれに含まれるだろう。坂田靖子の作品も一部はこれに属すが,大半は(b)である。現実がある日(あるいは最初から)わけのわからない非現実的な世界に変貌し,しかも身内や友人もそれに動じない。常識的感性の持ち主である主人公だけが驚き,あせり,走り,怒る。これが坂田作品の展開である。
 イギリス貴族の日常を描いた代表作『バジル氏の優雅な生活』ではきわだって非現実的な事態は描かれないが,よく読むと状況に応じて登場人物が交代で「異常界」を演じ合っていることがわかる。ある話では主人公バジルは常識人だが,ある話では女盗っ人や孤児の少年の側が常識で彼が異界である。
 異常だの常識だのと漢字が多くて申しわけないが,「ボケとつっこみ」と言うと話が早いかもしれない。

 坂田作品のおもしろさは,その異常な世界がどれほどトンデモハップンか,常識人がどうそれに驚き,あわてるか,それがまず第一。そして第二に,常識側と思われた者が最後に実はやっぱり異常な側だったことを示されたときの世界のゆらぎ感にある。たとえば名作「トマト」における主人公夫妻のゆらぎは素晴らしいものであった。

 こうしてみると,『タイニーポムポム』に描かれた「異常」は坂田靖子にしてはそうトリッピーではない。はねっ返りのお姫様のおつきに犬を指名したというタイトル作も,異常なのが世界なのか人物なのか,支点が明らかでないまま軽くどたばたして終わってしまう。「落ち葉のロンド」も現れたモノの異常さが坂田らしいスットンキョーにいたらない。この1冊,坂田ファンが買うのには異論はないが,そうでない人にお奨めするのはどうだろう。少なくとも入門にはほかにもっとよいものがたくさんあるような気がする。

 このほか,坂田靖子とクリスマスなど,いくらでも書きたいことはあるが,今回はここまで。

言葉遊びシリーズ最終回 『いろは歌』実作に挑戦!

【Do it yourself!】

 さて,回文,いろは歌と,いくつか言葉遊びを取り上げてきたが,ただ先輩諸氏の技に「ははー,なるほどー」と口を開けて感心するばかりではつまらない,実際に挑戦してこそ楽しみがある。
 というわけで,及ばずながらこの烏丸の拙作いろは歌をいくつかお目にかけようと思う(いずれも「ゐ」「ゑ」の旧仮名を除き,「ん」を含むため46文字)。

   夢知らず
   女は怖い鵺(ぬえ)のよう
   あまたへ広がる煙もれて
   乳房や背骨に其を満つという

    僕の恋
    あなたへ告げよかメロドラマ
    日は裾をやんわり射して揺れ
    胸 見せ終えぬ気持ちに震う

     眠る被害者 背にナタぬらり
     ヘアは血まみれ 風呂の湯エステ
     ほめよワトソン 聞け考察重く

 ちなみに,いろは歌を作るときのコツだが,とにもかくにも「ぬ」「ふ」「わ」「ほ」「む」「め」「ろ」といった,日本語の語彙に頻繁には登場しない文字(JISかなキーボードでも隅のほうに追いやられている)を先に攻めること。そして「て」「に」「を」「は」「へ」「と」などのなんとでも使える助詞はできる限り使わずに最後までとっておく。この2点に尽きる。

 回文といい,いろは歌といい,時間を持て余したようなとき(いや,むしろどうしようもなく時間に追われたときかな?),これほど贅沢な遊びはないと思われる。貴方もいかが?

言葉遊びシリーズその4 『いろは歌』

【いろはのい】

   色は匂へと散りぬるを
   我か世誰れそ常ならむ
   有為の奥山今日越えて
   浅き夢見し酔ひもせす

 言うまでもなく,いろは歌である。
 仮名をすべて織り込み,なおかつ平家物語冒頭の「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり……」の一節同様,仏教の哲理をうたいあげて隙なしと言う,世界に誇るべきまこと稀有にして見事な作である。

   以呂波耳本部止
   千利奴流乎和加
   餘多連曾津禰那
   良牟有為能於久
   耶万計不己衣天
   阿佐伎瑜女美之
   恵比毛勢須

 万葉仮名で表記するとこうなるが,このように改行した場合の各行の最後の文字をつなぐと

   止加那久天之須

すなわち「とが(科)なくて死す」と読め,これは誰かが無実の罪で捕えられ,その無念を込めた歌なのではないか,そんな説もある(赤穂浪士の切腹の折りにこの歌,巷間にまま落書きされたそうである)。

 ともかく,かな47文字を一度ずつ織り込んで文を作るとどのくらいパターンがあるかといえば,47!(47×46×45×44×43……5×4×3×2×1),すなわちざっと25*10^58(25×10の58乗)ほどとのこと。

 というわけで,先に紹介した阿刀田高『頭の散歩道』に掲載されたいろは歌作例をいくつかご紹介したい。

 まず,江戸中期の国学者・本居宣長の作とされるもの。内容はともかく,七五調におさまりきらず,リズムが悪いような気がするのだがこういう歌の形式があったのだろうか。

   雨降れば
   井堰(いせき)を越ゆる水(みづ)分けて
   安く諸人(もろびと)下(お)り立ち植ゑし群苗(むらなへ)
   その稲よ
   真穂(まほ)に栄えぬ

 続いては,明治時代の新聞「万朝報」が公募した際の入選作。

   鳥啼(な)く声す夢醒ませ
   見よ明け渡たる東(ひんがし)を
   空色(そらいろ)映(は)えて沖つ辺(へ)に
   帆船(ほふね)群居(むれい)る靄(もや)の中

 後者は48文字である。明治期になると「ん」が仮名の扱いを受けるようになったということか。よくみると,「い」「え」が2度ずつ表れている。「ゐ」「ゑ」の旧仮名を数えているということだろう。

2000/09/26

言葉遊びシリーズその3 『仙界とポルノグラフィー』 中野美代子 / 河出文庫

Nimg1459【孫さま ナスダックJが くあーッ!】

 続いて紹介するのは,中野美代子『仙界とポルノグラフィー』からの長~い回文である。

 著者は,北海道大学(漆原教授のいる,ハムテルや二階堂の母校)の言語文化部教授で,『西遊記』の専門家。同書は,タイトルだけ見るとエッチな本かと勘違いされそうだが,表紙にも本文にもそんな気配は一切なく,全編これ中国の古代文化の研究から得られた森羅万象についての薀蓄,奇想のカタマリで綴られた本。
 『西遊記』に登場する白い鸚哥(インコ)のイメージが西洋の古地図の中に発見されたことを発端に,十六世紀の東西文化交流史を探り,さらに話題は古地図とパラレルな関係にあった星座図の中の鯨座へ,さらに龍,博山炉へと至り……。澁澤龍彦の古代中国版だと言うと,だいたいイメージしていただけようか。
 いかんせん,この本をたっぷり隅々まで楽しむには,烏丸の側に古代中国文化の素養が足りず,「とても面白かったです」と小学生の感想文でシメるしかない。

 さて,問題の回文だが,これは著者が,同書の中で『西遊後記』として,つまり三蔵法師や孫悟空のその後を回文で表そうとした,ということになっている。西天取経(シイテイエンチユチンとルビあり)というのが,要するに天竺までお経をとりにいく旅のこと。……とりあえず一部引用してみよう。

   孫さま 酒醒めた。
   八戒かて酒醒めた。
   桃と人参果食べろ! くあー(ッ)!
   止めだ! もー止めだ!
   西天取経は止めだ。
   日本に行こう,そして,
   美代子 どうも! 飲もう!!
   くー(ッ)! 極楽,極楽……
      (16行,略)
   悪路経た勧進に,友も駄目さ。
   今朝 でかい河童 駄目!
   酒醒まさんぞ!

 1行目の「孫さま 酒醒めた」と,最後の「駄目 酒醒まさんぞ」,という具合にすべての発音が対応しているのがおわかりいただけるだろうか。

 同書では,中野美代子氏とその弟子の武田雅哉氏の長編回文バトルが繰り広げられ,あげく,武田氏は回文詩人としてデビューすることになる(中野氏の回文は両端から発して真ん中へ攻めていき,武田氏は真ん中からスタートして前後に伸びていくのだそうだ)。

 ただ,正直言うと,こういった会話やカタカナ混じりの回文は,先の『頭の散歩道』で阿刀田高氏の推すタイトな作品に比べると,個人的にはあまり好みではない。苦しいときに,「うー」とか「ラー」とかの感嘆詞を入れられるわけだし,口語文の中に文語文(極端な場合は方言など)が混じるのもOKということになってしまう。長さではかなわなくとも,文体や内容がびしっと決まった短歌形式のほうを美しく思うのはこの烏丸だけだろうか。
 もっとも,同書のあとがきすら「悲劇のウロボロス」と題された7ページにわたる回文でシメた中野氏の底知れぬパワーには,心から敬服する。いやはや。

 というわけで,回文についてはここまで。だが,言葉遊びについては,まだ数回続くのであった。

言葉遊びシリーズその2 『頭の散歩道』 阿刀田 高 / 文春文庫

Nimg1449【波のり舟の音のよきかな】

 阿刀田高といえば,ブラックな珈琲に一匙のユーモア,それにほんの少しエッチなエッセンスを加えたようなショートストーリーテラーとして知られているが,長年の国会図書館勤務の経験を生かしたものか,パーティパズルの類のコレクションも相当なものである。本『頭の散歩道』は,その方面の傑作。文字や言葉,数字をおもちゃにした知的遊戯が詰まっていて,しかもその遊びがきちんとしたロジックに裏打ちされており,まことに面白い。
 昨今よく書店店頭に平積みされている凡百の「おもしろ」文庫の類とは一線を画す,本当にお奨めの1冊である。

 いくつか内容をアットランダムに拾ってみると,
   三権分立だってじゃんけんポンと同じ三すくみの仲間
   十字架遊び,リレー遊びなど,漢字で遊ぶ
   清少納言のタングラムなど,不思議な図形
   確立の魔術,紅白歌合戦の出場者で誕生日が一致するのは何組?
   地球を相手に推理ゲームを楽しむ
   数当てゲームや魔方陣
   起承転結,黄金分割,フィボナッチ級数など,人間が心地よいと感じる形式美の法則
   マッチ棒遊びを極める
といった具合。それぞれ,さらりと読めながら,考えれば考えるほどにパズル性,意外性が深く,なかなか一筋縄ではいかない。
 たとえば,
   ダメ×ダメ=ヤメテ
のそれぞれの文字に数字をあてはめることはできるか?
   2桁の数字をかけて3桁になるということは,「ダメ」は10から31の間(32×32は4桁になる)
   「メ」と「メ」をかけると「メ」以外になるということは,「メ」は0,1,5,6ではない
といったことを積み重ねていくと,答えは? ……といった具合。
 著者は,このように国語と算数を組み合わせた形で,さまざまな「現代の言葉遊び」の可能性を探ってみせてくれるわけである。

 さて,そういうわけで,先の『ニホンゴキトク』の紹介文でもいくつか例を挙げた「回文」である。世の中には凄い人がいることをこの『頭の散歩道』は教えてくれる。

   ここはキャバレ スタミナ満たすレバ焼きはここ
   伊予の酒めしにお煮しめ今朝の酔い
   濡らしては,初夜は,はやよし果て知らぬ
      (以上,阿刀田氏の作)

   長き夜のとをの眠(ねぶ)りのみな目醒め波のり舟の音のよきかな
      (よみ人知らず。七福神の絵にこの歌を添え,正月ニ日,布団の下に敷いて寝る)

   栃と若,組む利捨て,顔火照り,逸り立つ時,一入(ひとしお)大胆に往(い)なしては,頻(しきり)に叩(はたき)て,得た機押し込むも見切りに,膂力(りょりょく)尽きるや,と。四股(しこ)効く膝,渡し込みも逃げない。寄っては砂掃きつつ吊り,蹴りつつ突き放す。果て強い投げにも見越した業(わざ),低き腰,と遣(や)る気。突くより寄りに,力み,揉(も)む。腰を鍛えて来たは,ニ力士,果てしない忍耐だ。押しと引き,とったりや張り手,頬か手擦り剥く皮と血と。
      (島村桂一氏の怪作の1つ)

 しかも,ただ回文を列挙するだけでなく,回文作成のテクニックや,便利な回文向き用語集まで用意されて,「参加型イベント本」としても実にもう至れり尽せり。

 ということで,まだまだ続くよ回文の旅。みんなも回文,ゲットじゃぞお。なお,『頭の散歩道』はこの後,もう一度ご登場いただく予定である。

2000/09/25

言葉遊びシリーズその1 『ニホンゴキトク』 久世光彦 / 講談社(講談社文庫)

Nimg1435【宇津井健氏はドッキリアヘ】

 マンガが続いて,少し飽きてきた。マンガを読むのに,次はどんな切り口で取り上げようかとミケンにシワを刻むのもよいが,24時間天地茂ではちと疲れる。というわけで,マンガの最終回シリーズは少しお休みいただいて,今回から数回,日本語による言葉遊びをあれやこれやご紹介したい。

 「じれったい」「辛抱」「気落ち」「きまりが悪い」「冥利に尽きる」「面変わり」「できごころ」「気くたびれする」「按配がいい」……ああ,よい。こうしてキーボードから打ち並べるだけでも色香があって,指障りのよい柔らかな言葉の数々。しかし,これら艶のある日本語は,いまや気息奄々,滅びの斜面を下る一方。
 『ニホンゴキトク』は,そうした滅びる寸前の言葉を一つひとつ取り上げ,それらへの尽きぬ愛を語るエッセイ集。言葉を扱う仕事や趣味に生きる方には,ぜひともご一読をお奨めしたい。ただし,この本で取り上げられた言葉に一々反応してしまうようなら,すでに貴方が滅びかけのキトクなニホンジンであることの証しかもしれないが……。

 著者の久世光彦は,TBS『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などで知られる演出家。最近はシックな小説やエッセイ集を多数発表しており,この烏丸はベックリンの「死の島」やビアズリーの「サロメ」を扱った『怖い絵』がお気に入り。

 さて烏丸が本書を取り上げたのは,本そのものをお奨めするためだけではない。この本からいくつか「言葉遊び」を取り上げ,紹介しようという,姑息な企てゆえである。お叱りは後で承るとして,早速始めることにしたい。

 さて。皆様は

  甲州高校良し。先生,始終小さい検定模擬試験。

というのをご存知だろうか。『ニホンゴキトク』の一節に紹介されたものだが,烏丸は(文字通り)不勉強にして知らなかった。

  甲州高校良し。先生,始終小さい検定模擬試験。
  ↓↓↓↓↓  ↓↓ ↓↓↓↓ ↓↓↓↓
  家家家 綱  家家 吉家家家 家家家慶
  康秀光綱吉  宣継 宗重治斉 慶定茂喜
     忠

 (プロポーショナルフォントでは少しずれて表示されるが,下行の「忠」の字は「校」「綱」の下)

すなわち,徳川の歴代将軍名の暗記法だというのである。「一夜一夜に人見頃」「富士山麓オーム鳴く」,「水平にリーベ欲しいと農夫寝る。名前ある競輪S号縁あるか」のたぐいということか。

 一方,本書では「回文」についても幾例か紹介されている。これは,生の文章を読むと腹の中で卵が孵り,白いうにょうにょした……それは回虫。回文とは「タケヤブヤケタ」「コノコネコノコ」のように上から読んでも下から読んでも同じ文になる,というもの。

  宇津井健氏は神経痛
  ヘアリキッド,ケツニツケ,ドッキリアヘ

 美しい日本語への愛はどうした久世光彦,というツッコミはひとまずおいて,回文については次の書評に続く。

[雑談] マンガの最終回 あれこれ その4 少女マンガの最終回

【ときおーっ】

 『エースをねらえ!』の最終回について書くために,少女マンガが積んである棚を見直したのだが,最近のものは不勉強,古いものも,最終回について書くというのはなかなか難しい。
 理由はいくつかある。

 まず,そもそも,最終回が気になるようなメジャーな長編をあまり持っていない。
 『ベルサイユのばら』は,ずっと以前に漫画喫茶(という名称がまだない時代)で全巻通して読んだが,「なんだ趣味じゃないけどなかなかおもしろいじゃないか」と思ったこと以外は登場人物も覚えていない。『オルフェウスの窓』も同様。正直,池田理代子や有吉京子の絵柄は苦手なのだ。
 『キャンディキャンディ』は通して読んでさえいない。手元に資料として最終回だけはあるのだが,最後の1回分だけ見てもちんぷんかんぷんである。誰だったかがもう死んでいて,誰だったかが実は誰かさんだったらしいぞ。
 『ぼくの地球を守って』『アンジェリク』『はいからさんが通る』『あさきゆめみし』『カリフォルニア物語』等にいたっては,部分的に読んでいた,という記憶があるばかりで,ちゃんと終わったのかどうかもわからない。とくにぼく球は無事(?)なんらかの決着がついたのだろうか?

 次に,久しく新作が描かれておらず,事実上終わっているが,ストーリー的に最終回があるわけではない,というもの。
 『ポーの一族』や『綿の国星』,『バジル氏の優雅な生活』,『悪魔の花嫁』などがこれにあたる。『アラミス'78』も確かそう。多田かおる『いたずらなKiss』のように,作者が急逝し未完に終わった作品もある。
 いずれも,「最後に描かれた」作品はあれど,最終回というわけではない。

 さらに,最終回について何を語ればよいのか困ってしまう,というものもある。
 『日出処の天子』の最終巻は白泉社とこじれたのか,普通の単行本の半分くらいの厚さだった,結局出版社を変え,角川書店のASUKAに『日出処の天子』の後日談として『馬屋古女王』が描かれた,とかいうことを説明しても,知ってる人には自明のことだし,知らない人に何を説明してよいのやらよくわからない。
 くらもちふさこ作品の最終回は印象的なものが多いが,言葉に変えようとするとたいてい「それがどーした」「で,結局どーなったの」となりかねない。
 『はみだしっ子』にいたっては,烏丸は後半の展開に付き合うのに疲れて,最終巻から少しずつ捨て,今は1冊も残っていない。作者はもっと疲れ果てていたようだが……。

 やはり,最終回が話題になりやすいのは,スポーツ,勝負モノ,ということか。もう少し検討してみよう。

マンガの最終回シリーズ 『エースをねらえ!』 山本鈴美香 / 集英社

Nimg1428【どの人生も終わるさ】

 2部構成からなるテニスマンガ『エースをねらえ!』には,2つの最終回がある。
 1つは単行本10巻,岡ひろみを発掘し,育て上げた宗方コーチが悪性の貧血で倒れ,「岡 エースをねらえ!」と絶筆,米国ジュニア大会に向かう岡が空港のタラップでその声を聞くシーン。
 2つめは18巻,宗方コーチの死に慟哭する岡が,周囲のささえや宗方の遺志をついだ桂コーチの指導に復活を果たし,ウインブルドンを目指す海外転戦に出る空港のタラップで,桂コーチの「岡! エースをねらえ!!」と言う声を今度は空耳でなく聞くシーン。

 少年・少女マンガを問わず,あらゆるスポーツマンガの精神性を引き上げたのがこの作品である。この作品以降,数多くのスポーツマンガが「頑張るぞ」「負けるもんか」より数段高い領域を目指すことになる。ちなみにあまりに高い世界を望んだエースの作者は神様の領域に行ってしまった。

 さて,今回はあえて,この少女マンガ有数の感動の最終回に疑義を申し立てたい。宗方,桂両コーチの指導についてである。
 この2人について語るのは大変だ。『エースをねらえ!』はテニスマンガだが勝負モノではない。むしろ,岡が試合に負け,プレイヤーとして人間としてさらに高みを求めて鍛錬にいそしむというのが基本パターンである。従ってコーチングを語ることは全編を語ることになってしまう。
 しかし,いくつかポイントはある。4巻で,宗方が岡に教え込もうとしているものが「男子もうらやむパワーテニス」であることは岡自身によって「ああそれがわたしのめざすテニス!!」と明言されている。だから,藤堂との恋は許されないのである。しかし,この目論見はやがてなしくずしに消え,8巻の藤堂との練習試合で岡は2度エースをとるが,9巻でオーストラリアのプロ,エディによってそれが「球の心を読んでそのとおりにラケット面をつくってやったとき球はけっして人間技ではかえせぬ死角をついてとぶのだ」「コーチはそこにかけたのだ!」「奇蹟だこれは……!」と凄いことなんだよと説明される。
 この「球の心……死角」理論そのものがすでに「?」なのだが(だって,球の心と相手プレイヤーの死角は関係ないでしょ。せいぜいキレのよい球が飛ぶ程度),前述の「パワーテニス」はどこにいったのか。岡は最終巻にいたるまで,足は速いがきゃしゃで,海外選手のドライブにはスライスとプレースメントでねばるしかない。最近でいえばヒンギス,好みで言うならマヌエラ・マレーバ(古い)タイプのプレイヤーである。

 勝手な想像だが,4巻あたりでは作者は,先々岡が国際大会で通用する要因として「パワーテニス」という言葉しか用意できなかったのではないか。それなら,宗方の絶筆にはスジが通る。しかし,登場人物について人間的に深く考察を重ねるうち,そういった肉体的な優位性でなく,精神的な武器を持たせるにいたったのではないか(ちなみに,精神性を重視するあまり,岡は最終回まで竜崎(お蝶夫人)に公式には一度も勝つことができない)。
 ひざをいためていた宗方コーチの死後,引き継いだ頑強な桂コーチが岡に教えたものが「打点を変える」というフィジカルなプレイであることはその意味ではスジが通る。だが,それもまた高度な集中がなせる技だ。

 だから,2つの最終回は,やはりおかしいのである。岡ひろみというプレイヤーは,エースをねらったらフォームが崩れる。ねらっては,勝てないのである。試合にも,人生にも。

2000/09/24

『ジャッジ』 細野不二彦 / 双葉社(双葉文庫)

Nimg1419【コノママ生カシテオケバ 世ノタメニ成ラズ 人ノタメニ成ラズ】

 休日の午後,ドライブで郊外の書店を覗いたついでに細野不二彦『ジャッジ』を文庫で購入。双葉社アクションコミックス版で持っていたはずなのだが,どこを探しても出てこないため。

 『ジャッジ』の主人公・逢魔法一郎は,普段はダメサラリーマンだが,ひとたび悪事が明らかになるや闇の司法官として立ち上がる。闇の司法官とは,陰陽師一族の特殊能力をもって現行法では裁ききれない悪人を裁く霊能捜査官のこと。早い話が必殺仕置人のホラー版である。仲間の司法官や豆乳好きの「闇の弁護士」四文裕神なるライバルも配され,今日もさまざまな悪が俎上(訴上?)に上がる。
 薬物で信者をコントロールする新興宗教があったり,悪徳警官がいたり,身勝手な少年犯罪があったりと,内容的にはなかなか時代を先取りしており(アクションコミックス版は1989,1991年の発行。地下鉄サリン事件は1995年),小道具やカタキ役もバラエティに溢れ,最初の1ページ目からお色気シーンも濃厚。……なのだが。

 それにしてもこの細野不二彦という作家,あらゆる作品において,どうしてこう,なんというかガッチリした手応えがないのか。
 この『ジャッジ』でも,逢魔法一郎は四六時中感情的で,ザコキャラ相手にしても汗まみれ。闇の司法官を称するくらいなら,いったんそのコスチュームをまとったなら,怒ったり焦ったりしてはいけない。B級のお笑いタレントが自分のギャグにへらへら笑うようなもので,怒りをもって人を裁くときこそクールな表情が必要だ(スポーツ漫画でも,ここ一番のときこそ淡々とした表情,あるいは顔そのものを描かないほうが迫力が増す)。
 細野不二彦はもう相当なベテラン作家で,そういうことを知らないほど不勉強とは思えず,絵もヘタではないし,アイデアも(『ギャラリーフェイク』など見る限り)わらわら沸いてくるタイプに見える。
 それなのに,ボクシング漫画だかメロドラマだかよくわからない『太郎』だの野球漫画だかホームコメディだかよくわからない『愛しのバットマン』だのそもそもなんだかよくわからない『ママ』だの,どこか微温的な作品が続き,評判の高い『ギャラリーフェイク』にしても,週刊誌でたまに読むならともかく,単行本でまとめて読むと主人公も設定も漫然として厳しさに欠ける。

 うーん。さりとて柳沢きみおほど割り切った職人マンガ家,って感じではなく,どこか「表現者」しているわけで。
 まあ,別に世の中,誰も彼もがケンシロウのように眉間にシワ寄せなくてもよい,っちゃよいのだけど。

『数奇者やねん』 尾家行展 原作,神江里見 作画 / 講談社(モーニングKC)

Nimg1412【まるで光悦の赤楽茶碗みたいな女子(おなご)やなあ】

 ややマイナーだが,お奨めの作品。
 大阪で「ギャラリー乱」を経営する三十代の数寄者(すきもん)にして辣腕「目利き」,砧乱次郎を狂言回しに,志野茶碗・黒楽茶碗・奥高麗といった茶碗の目利き,織部の扱い,油絵の真贋と所定鑑定人,木兵衛に負けぬ童人形の製作,といったテーマのトラブル解決を描くコミック作品。
 どうも見慣れたタッチだと思ったら,神江里見は昭和平成の隠れたロングセラー,週刊ポストの『弐十手物語』の作者である。

 確か吉本隆明が言っていたことだが,漫画というメディアは,それ自身が職人の手によるものであるせいか,「特殊芸の腕前」をテーマとする作品を実に得意とする。一見B級と思われるスポーツ漫画などでも,通して読むと存外に骨太なドラマと工夫が込められているのなど,その好例だろう。
 本作『数寄者やねん』もなかなかよい出来で,読み終えた後,今日は老舗の古美術商に出掛け,織部が赤楽がと言う午後を過ごしたくなるだけの力はそなえている。ただ,原作が続かなかったのか,モーニングの客層と合わなかったのか,単行本2巻分で尻切れトンボに終わってしまったのはしごく残念。

 もう一点この作品で心地よいのは,全編これぬらぬらした関西弁で貫かれており,内容とあいまってなかなか好い味を出しているということ。
 大阪弁での文章表現というと,たとえば藤本義一などが小説の中でチャレンジしているが,どうしても地の文での思弁思索がそぐわない。しかし,漫画ならばほとんど会話だけでストーリーが進展していくため,問題ないのだろう。
 ただ,本作に登場するキャラクターたちの大阪弁と,『大阪豆ゴハン』『ナニワ金融道』の登場人物とでは,言葉遣いだけでなく人種というか文化がまるで異なり,いずれに身をゆだねるのもそれはそれでまた一興。

エロイカとくればこれでしょう 『Z -ツェット-』 青池保子 / 白泉社

Nimg1404【失恋した男は 酒でもかっくらってみじめに泣いてりゃいいんだ】

 さて,では,『エロイカより愛をこめて』の主人公はドリアン・レッド・グローリア伯爵(エロイカ)なのか。それとも,エーデルバッハ少佐(鉄のクラウス)なのか。
 これは難しい問題だ。タイトルを考えればエロイカに軍配が上がりそうだし,2巻以降の露出を見ると少佐もなかなかポイントが高い。そもそも,大半の事件は少佐の任務にたまたまエロイカの趣味がからむ,という形で展開するのだ。
 こんな考え方はどうだろう。青池保子のマンガに呼ばれるのに,ギャラが高いのははたしてどちらか。

 ……ますます,わからなくなってしまった。

 結局のところ,青池保子は主人公と脇役にわけへだてのないタイプらしく,ときどき脇役を主人公とした楽しい読み切りを提供してくれる。その中で,とくに高いクオリティで『エロイカ』を知らない人でも十分に楽しめるのが『Z -ツェット-』である。初出は懐かしい「ララ」,白泉社から発行された単行本は2巻,白泉文庫版は1巻,さらに秋田書店プリンセスコミックスデラックス版2巻があるが,いずれも「ツェット」I~Vに掌編「ツェットの幸運」までで,その後新作が発表された気配はない。

 ハノーバー出身の青年Zは,NATO情報部でエーベルバッハ少佐の部下に配属されたばかりのぺーぺーエージェント,真面目なA(アー),呑気者B(ベー),女装のオカマのG(ゲー)らの後輩にあたる。

 物語の始まりはたとえばこんな具合だ。西ドイツ有数の兵器製造会社「ハイデマン鉄鋼」の技術者クルト・ヴェルナーから,NATO情報部のエーベルバッハ少佐宛てに速達が届く。内容はボルト1本だけで,手紙はない。ヴェルナーはその朝,散歩中に転落死していた。Zはハイデマン鉄鋼のコンピュータ・センターにもぐりこんで転落死したヴェルナーの妻に接近する。ヴェルナー夫婦は東ドイツからの逃亡者だった……。

 妖怪じみた脇役たちが闊歩する『エロイカ』本編に比べ,こちらは新人エージェントの仕事とジレンマがシリアスに描かれ,セピア色の海外テレビシリーズのあの雰囲気だ。さらに,『エロイカ』本編では迷惑な存在としてしか描かれない「若く美しい女」が,Zの前ではごく普通の意味で描かれる。たいてい苦い結末を招くのだが……。

 本書評冒頭の【 】の中は,美しいノルウェイ娘アネリーゼと別れたZに対する少佐の見事なセリフで,「それが別れた女へのエチケットというもんだぞ」と続く。『エロイカ』本編では,こんなシブい少佐は描けない。

 ちなみに,こんな甘いセリフを口にする余裕もないほど,少佐が一人でスパイや殺し屋とハードに闘う話が,秋田書店からハードカバーで発売された『魔弾の射手』である。これらは少女マンガでスパイを描いた作品中,1つの頂点といえるだろう。もっとも,ほかには佐々木倫子の『ペパミントスパイ』くらいしか知らないけどさ。

2000/09/23

たまには新刊紹介もね 『エロイカより愛をこめて(26)』 青池保子 / 秋田書店(プリンセス・コミックス)

Nimg1380【見たまえ この2人はかつらだぞ】

 ご存知だろうか。青池保子『エロイカより愛をこめて』の主人公は,ロンドン大学講師 シーザー・ガブリエル(18歳),美術学生 シュガー・プラム(16歳),スタント・マン レパード・ソリッド(19歳),この3人の年若き超能力者(エスパー)たちだった。ほんとだよ。

 少なくとも第1巻の第1話,物語は彼ら3人とドリアン・レッド・グローリア伯爵(実は国際的な美術窃盗犯エロイカ),さらに国際警察のタラオ・バンナイらを軸に繰り広げられる。
 しかし,第2話の冒頭で,NATO(北大西洋条約機構)情報局のクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーデルバッハ少佐(鉄のクラウス)が登場して以来,事態は一変する。
 主人公の若者3人はエロイカや少佐と張り合うには役不足,もとい役者不足とでもいうか,2巻以降は完璧に姿を消してしまう。『ドカベン』の最初の6巻は柔道マンガだった,あれと同じくらいの一大変化である。

 しかし,変化はそれに留まらない。
 当初,エロイカは周囲がうっとりするほどの金髪の美貌の青年だったし,戦車好きの鉄のクラウスも性格は無骨ながら美しい黒髪をたなびかせる,いわば黒豹のような描かれ方だった。
 小銭集めが趣味のジェイムズ君や,KGBの「仔熊のミーシャ」ら,笑いを誘う名脇役たちを交えつつも,物語は国際情勢を交えて展開し,やがてある日,読者は愕然とするのだ。

 ……「おっさん」ばっかしやんか。

 添付画像ではわかりにくくて残念しごくだが,最新の26巻を見ればそれはもう明らかである。上司の嫌味と部下の無能に悩むエーベルバッハ少佐はさすがに腹こそ出ていないものの,いかにもサラリーマンの背広姿,当初身長の3分の2近くあった長い足も今では身長の半分以下。一方のエロイカも,金髪碧眼高い鼻という従来の少女マンガでは「美麗」を表すあらゆる記号を与えられながら,実質は美少年趣味の白人のおっさんに過ぎない。それが証拠に,26巻の中で,彼ら2人は一度として一般市民含め誰からも「美麗」扱いを受けない。
 エロイカは王立デンマークバレエ団のダンサーを追い,少佐はバルト三国のNATO加盟をめぐってロシアの機密を得ようと,さらにロシアからはそれを阻止せんと「仔熊のミーシャ」が……いつものように集う。今回の舞台はデンマークのコペンハーゲン。少佐の任務は毎度の通り重厚だが,実際の仕事はおっさんおばはん相手の添乗員に近い。エロイカにいたってはホテルのお掃除おばさんの扮装までさせられる。

 この,おっさんの群れがぼたぼた走り回る作品を少女マンガと分類することは,はたして正しいことなのだろうか。烏丸の良心はうずく。もはや西谷祥子や美内すずえらの作品よりは,源氏鶏太や山口瞳らのサラリーマン艶笑小説のほうがよほど近いのではないか。いや,正確には,わが国のマンガ史は,あらゆる文芸誌,あらゆる青年コミック誌を差し置いて,「少年マンガ」「少女マンガ」等と並ぶ新しい柱,「おっさんマンガ」を得たのではないか!

 ……書きながら,脱力してきた。

 1巻と比較すると,あらゆる登場人物のおっさん化が進む中,一人ジェイムス君だけがむしろ若返っていることを指摘して,とっとと次にいこ。

2000/09/22

マンガの最終回シリーズ 『幽☆遊☆白書』 冨樫義博 / 集英社(ジャンプコミックス)

Nimg1372【ジャンプ王国を揺るがしたハイブリッド】

 『幽☆遊☆白書』は少年ジャンプに連載された,冨樫義博の代表作。テレビアニメやゲーム化でも知られている。
 連載開始当初は,霊界の管理ミスでうっかり死んでしまった不良少年が生還するまでを読み切りでほのぼの描くというものだったが,中盤以降は『キン肉マン』(ゆでたまご)『リングにかけろ』(車田正実)『ドラゴンボール』(鳥山明)同様,ジャンプ得意のどんじゃら妖怪団体トーナメント戦と化す。

 興味深いのは,作中で,作者のアマチュアとしての顔とプロとしての顔が出たり引っ込んだりたりすることである。
 たとえばほぼ同時期の少年ジャンプの『BASTARD!!』(萩原一至)も,プロの作品でありながらアマチュアの気配を強く残していた。しかし,それはプロ7割,アマ3割といった具合に,1コマ,1ページの中で常にバランスよく配合されていたものだ。そのバランスを担ったのが,少女マンガによく見られる枠外の落書きだろう。少女マンガでの枠外の落書きはシリアス過ぎる展開を中和する働きをすることが多いが,萩原の場合は内輪のスタッフワークの大変さを語り,プロであることへの照れを解消する。ところが『幽☆遊☆白書』では,コマの外内でなく,時間軸的にアマ側とプロ側を行ったり来たりするのだ。だから,絵柄でいえばよほどテクニック的に劣る『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』(稲田浩司)のほうが,格段にプロ作品としての純度が高い。
 思うに,作者は,自分のそういう{プロ・アマ}の入り交じった状態に気がついていたのではないか。だからこそ,『幽☆遊☆白書』では時空を越えて「血がまじる」や「妖狐が人間とまじる」など,「まじる」が何度もキーワードとして出てくるのではないか。

 そして『幽☆遊☆白書』は,団体トーナメント戦の体裁を,それどころか主人公の連戦連勝さえ放棄した後,大きくアマチュア側に揺れ,そのまま「努力・友情・勝利」の方程式を放棄して勝手に連載を止めてしまう(と,外からは見えた)。それにつれ,あれほど安定して見えた少年ジャンプのスタイルもまた巻き込まれ,大きく傾いてしまった(と,外からは見えた)。

 その意味で,少年ジャンプを物理的に傾けたのは『ドラゴンボール』と『スラムダンク』(井上雄彦)の連載終了だったけれど,内側からその屋台骨をつき崩したのは『幽☆遊☆白書』だったのではないか。

 つまり『幽☆遊☆白書』とは,少年ジャンプというメジャーな場ゆえに冨樫個人の毒を毒のまま売るわけにいかず,さりとてプロとしての商品としても仕上げられなかった不幸な作品なのではないか。これほどの作品で,魔界統一トーナメントの決勝戦の結果(ちなみに優勝したのは雷禅の友人・煙鬼)を幽助の言葉を借りてしか伝えられなかった作者は,もう二度と正面から妖怪タッグマッチを描けないのではないか。

 というわけで,本作の本当の最終回は,魔界統一トーナメント後のどたばたもほぼ片付き,幻海の墓参りの帰りに幽助ら関係者たちが海で戯れる……という本編最後のイベントではなく,単行本でその後に続くおまけイラスト集の最後の1ページ,少女が何の脈絡もなく「睡眠薬と屋上 どっちにしようかな」とつぶやいているグロいカットにある,に500カノッサ。

マンガ家の最終回シリーズ 『Yasuji東京』 杉浦日向子 / 筑摩書房(ちくま文庫)

Nimg1367【「江戸」はあんただけのモノじゃない】

 出かけた先の本屋で文庫の棚を見ていたら,ちくま文庫から杉浦日向子の短編集が出ていた。3月の発行らしい。小さな本屋だけうろうろしていると,こういう見逃しがあっていけない。ちくま文庫まで常備するとなると,ある程度の広さはいるのよ。

 それはともかく,この『Yasuji東京』,江戸末から明治の画人・井上安治を題材にした連載短編を中心に,単行本未収録作品を……ちょと待てえ。

 この中に「鏡斎まいる」という江戸期の術士を描いた短編の(1)(2)(3)が収録されているのだが……そのうち,(1)と(2)は,なんと同じちくま文庫の『ニッポニア・ニッポン』という杉浦日向子の短編集にすでに収録されているのだ。なんだそりゃ。

 オムニバス(「江戸マンガコレクション」とかね)と作家別短編集の両方に収録,ってのなら,よくあることだし,まだわかる。でも,同じちくま文庫,同じ杉浦日向子の本だぞ。「単行本未収録」という帯のアオリを真に受けて買う奴なら,『ニッポニア・ニッポン』だって持っていそうなもんだろう。実際烏丸は持っている。

 百歩譲って,「鏡斎まいる」の(3)が単行本未収録だったのでぜひとも文庫収録したい,しかし(1)(2)がないと設定がわからんだろう,というサービスだとして……江戸時代の仙人みたいな術士の幻術話,それも読み切り短編マンガに,設定なんているかあ! どっちが先でもいいよな話ばかりじゃないか!
(実際,鏡斎は(1)で仕官を辞めたことになっているのに(2)(3)は仕官中の話だし,そもそも(1)(2)(3)とも初出雑誌が違い,順序は明らかにどうでもよい)

 しかも,この「鏡斎まいる」の(3),初出が「ASUKA 号数不明」となっている。
 言うにことかいて,「号数不明」とは何だ。呆けた作者が忘れていたって,編集者が角川書店に頭下げて調べてもらえばわかることだろう。角川に頼みにくければ,早稲田鶴巻町の「現代マンガ図書館」で調べる手だってある。たかがそれだけの手間を惜しんで,エラそうに初出一覧で1ページ取るんじゃない! わからんならASUKAの切り抜き持っている烏丸が教えてやろう,1986年5月号だ。

 なんにしても,マンガ家やめてから異様に傲慢,非常に不快なエッセイ仕事の多い杉浦日向子,なんなんだこいつわ。

 『合葬』や『百日紅』を烏丸は作品としていまだ高く評価しているが,杉浦がマンガを描かなくなったのをこれ以上惜しんだり謎扱いしたりしてやる必要はない。一ノ関圭『らんぷの下』『茶箱広重』の書評でも述べた通り,描かないでいられる作家には,描かないですむほどのモノしか残ってはいないのだ。

『燃える男』 A.J.クィネル 作,大熊 栄 訳 / 集英社文庫

Nimg1356【戦闘とリタイアと戦闘】

 『パイナップルARMY』で戦闘インストラクター ジェド・豪士を描き上げた浦沢直樹は,すぐさま『Masterキートン』の連載に入る。原作は工藤かずやから勝鹿北星(とぼけたペンネームだ)に変わるが,これはこれでまた一味違う素晴らしい作品である。ただ,オックスフォード大に考古学を学び,ヨーロッパ古代文明の研究に情熱を燃やす主人公が,SASのサバイバル技術教官の経歴を生かしてフリーのオプ(保険会社の調査員)を務める,という2つの顔を持つにいたる説明に最後まで説得力がなく,さらに視点がまま彼の父や娘の活躍に移って18巻が少々冗長に過ぎる。

 そこで今夜は,『砂の薔薇』や『パイナップルARMY』に見られたプロの戦闘シーンや兵士たちの苦い思いを味わいたい方のために,本を1冊ご紹介しよう。マンガでなく翻訳小説だ。烏丸は友人のゲームライター氏にぜひにと貸していただきながら足かけ3年本棚に寝かしてしまい,一度読み始めたら一晩寝食を忘れて読みふけり,まいってしまった。
 それがクィネル『燃える男』だ。

 かつては外人部隊の兵士としてディエン・ビエン・フーで勇名を馳せたアメリカ人クリーシィも今や五十歳目前,アルコールに溺れる衰えた初老の男にすぎない。そんなある日,彼は古い戦友の薦めに何の気なしにイタリア人実業家の令嬢のボディガードに雇われ,11歳の少女ピンタとの交流を通じて少しずつ人生に新しい手応えを見出していく。しかし,少女は彼の目前で何者かに誘拐され,陵辱,惨殺されてしまう。クリーシィもまた重症を追うが,怒りに燃えた彼はマフィアへの復讐に立ちあがる。やがて明らかになる真の敵の姿は……。

 ここには男が衰え,戦えなくなることの意味と,それでも戦いに向かうことの意味が書かれている。

 本作はクィネルのデビュー長編で,この後,クィネルは覆面作家としてさまざまなジャンルの冒険小説を手がけていく。いずれもハリウッドが大作映画の原作に求めそうなサスペンスあふれる長編だが,その装飾を排した文体,展開はタイトでクールだ。いずれ機会があれば他の作品もご紹介したい。

2000/09/21

マンガの最終回シリーズ 『パイナップルARMY』 工藤かずや 原作,浦沢直樹 作画 / 小学館

Nimg1335【今度の件がかたづいたら,君に話があるんだ。大切な話だ…………】

 日系,傭兵,ランチャー,爆弾解体,テロリスト……といえば,何か忘れちゃいませんか,ってんで当然のように出てくるのがこの『パイナップルARMY』だ。
 『MONSTER』『Masterキートン』『YAWARA!』等で知られる浦沢直樹の作品だが,烏丸としてはこの『パイナップルARMY』を最もよく読み返す。浦沢ならではの無骨だが誠実な主人公,繰り返し語られる戦争の愚かさ,人間の愛しさ。
 『砂の薔薇』のスピード感も捨てがたいが,作品としての重厚さは圧倒的にこちらが上だろう。

 爆破技術と作戦立案のプロとしてベトナム戦争以来世界各地を転戦してきたジェド・豪士は,現在は戦線に直接関与するのを避け,戦闘インストラクターとして生活している。
 テログループ「黒い手紙結社」は使用済み核燃料を奪取,それを爆破して,欧州数千万の命を奪おうとしていた。豪士は傭兵時代の宿敵オールビー・コーツから連絡を受け,問題のあまりの大きさに作戦に参加する決意をする。そしてかつてともに戦ったハリディ准将,ジャネット,珍,ジェフリー,戦闘インストラクター トム・ローガン,元グリーンベレー ジョー・ハイツマン(スペツナズナイフの使い手ということで素人の烏丸にもお里が知れる)らとともに核燃料の撤去に向かう。
 テログループを率いるのは,ベトナム戦争時に豪士を苦しめた謎の日本人傭兵「小東夷(ショオトンイー)」。彼はブリュッセルの建築中ビルのエレベーター孔に核燃料のコンテナをセット。次々と仲間が被弾し倒れる中,時限装置を解体しようとする豪士だが,そこに見たものはフーコーの振り子を利用した絶対に解体不可能な爆弾だった。……

 と,最後の戦いのストーリーだけ並べるとただの戦闘アクションマンガにしか見えないが,本作の魅力はそういう次元では語れない。必要以上に悲劇臭があおられるわけではないし,命を分かち合う者同士の友情,ジャネットとのつかずはなれずの関係など明るい展開やコメディもなくはないが,全編を覆うテイストは渇いた苦味である。登場する男たちは,敵も味方もアルコールに酔わない。すでに苦いものが体中に詰まっているかのようだ。

 最終回,倒壊するビルで豪士が助かったのかどうか,またジャネットとの関係がどうなったか,などは明記されない。ただ,民間企業CMAがインストラクターの依頼電話にジェド・豪士を紹介するシーンで,彼が無事だったことだけが知らされる。
 その依頼は4人姉妹がプロの殺し屋と戦うというもので,実は『パイナップルARMY』第1話の設定である。ここでストーリーは円を閉じ,ビターにしてタフなページは永遠に巡る。

マンガの最終回シリーズ 『砂の薔薇』 新谷かおる / 白泉社文庫

Nimg1329【アテンション!! オペレーション発動23・05】

 科学の次は対テロリズム。添付画像はいかにもイロモノだが,新谷かおるのお色気サービスはあだち充の水着シーン同様安全装置付き。気にする必要はない。

 主人公のマリー(真理子)・ローズバンクは,「C・A・T」(カウンター・アタック・テロリズム)という特殊部隊の女傭兵隊長。なんとこのC・A・T,民間組織という設定である。さすがアメリカ。って無論これは作り話なんだが。
 マリーは,空港爆弾テロで夫と息子を喪い,自らも胸に瀕死の重傷を負う。彼女は事件をしかけたテロリストのコードネームが「グリフォン」であることを知り,C・A・Tに入隊。熾烈な訓練を経てテロリスト壊滅に執念を燃やす。
 彼女の率いる「ディビジョンM」は,副長ヘルガ・ミッターマイヤー,ジェシカ・クレアキン,デライラ・カンクネン,アイリーン・サンダース,コリーン・アンダーソンら優秀な女傭兵たちで組織され,その能力はそこらのSWAT隊の比ではない。

 というわけで,後はもうバンバンドンガガダン,撃って守って解体して走って殺して爆破しての連発である。1話だいたい100ページのストーリーが浪花節だろうが,絵柄が松本零士譲りの武器オタクだろうが,ひるんでいる暇はない。なにしろテキはテロリスト,瞬時の判断の甘さは部隊全員のみならず一般市民多数の死を招く。

 ボードレールの詩に『巨女』といって巨きな女を象徴的に称えあげる作品があるが,ここには迷いなくM72ロケットランチャーを撃ち抜き,時限装置付き爆弾を解体できる翼ある巨きな女たちがいる。要するに峰不二子が大挙してテロリストをやっつけまくるわけで,読者烏丸はただもう口を開けてページをめくる大ガラスならぬアホウドリである。
 主人公を日系人にしたことで,この国のテロ対策意識のおそまつさを描くシーンもある。このあたり『クレオパトラD.C.』(お奨め!)でも見られた新谷かおるの得意ワザだ。

 そして最終回。8巻めでようやく姿を現した仇敵グリフォンがしかけてきたのは最もやっかいなケミカルテロ。水道管にセットされたマルチドラッグ「青い血」が各家庭に流れ込み,テレビのサブリミナルメッセージで人々は互いに殺し合う。政府からの依頼がこないことにいらだつマリーたちはC・A・Tが民間企業であることを利用し,自らの資産でカウンターテロを依頼する。その額約2000万ドル。水道管の時限装置を撤去する一方,テロリストたちとの対決の場はテレビ局。明らかになるグリフォンの正体は……。

 以上,芸も能もない紹介だが,新谷かおるといえば『エリア88』,せいぜい『ふたり鷹』と言われるのが惜しく,取り上げることにした。版の大きい白泉社のジェッツコミックス版も入手可だが,文庫版は7巻めに宮嶋茂樹の解説付き。たった4ページだが日本人の危機意識を喝破して流石である。
 なお,作品タイトルの「砂の薔薇(デザート・ローズ)」はサハラ砂漠に見られるという独特の石英の結晶。烏丸は先般,東京上野の博物館で見ることができた。

2000/09/20

『まんがサイエンス』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)

Nimg1321【教えて,ペケル博士】

 なにが霊障だ,非科学的な! とご立腹のあなた。科学といえばこちらがお奨め。掲載誌がなにしろ学習研究社の「5年の科学」。おお,学研の「科学」。懐かしい。この烏丸,あれこれの付録で遊ばせていただいた御恩は三十有余年,片時も忘れたことはない。あの付録体験なくして今日のカラスマル産業なしと言えど過言では……って全国に支店でも出してんのか烏丸。

 さてこの『まんがサイエンス』,『宇宙家族カールビンソン』でおたっきーな層に絶大な人気を誇るあさりよしとおが,最新の理論や情報,取材をふまえ子供たちの「なぜ,なに」に答えるというサイエンスリテラシーもの。彼の作品には珍しく,さほどアブなくないのでお子様どもにも安心だ。

 既刊は
 『まんがサイエンス』
 『まんがサイエンスII ロケットの作り方おしえます』
 『まんがサイエンスIII 吾輩はロボットである』
 『まんがサイエンスIV いとしのMrブルー』
 『まんがサイエンスV 内宇宙から外宇宙まで』
 『まんがサイエンスVI 力学の悪戯』
の6冊。A5サイズなので本屋さんで探すときは気をつけよう。

 基本的には小学5年生のよしおくん,あさりちゃん,あやめちゃん,まなぶくんたちが生活の中でなんらかの不思議,疑問に出会い,そこに専門家(食塩の溶解の話題なら水分子,おなかの中の細菌の話題ならビフィズス菌太郎,視線入力スイッチの話題ならMr.視線などなど)が現れ,いやがるあやめちゃんたちに無理やり回答を教えてくれるというもの。煮たり焼かれたり空に投げ上げられたりの体験担当はあやめちゃんが負うことが多い。負けるなあやめちゃん,1冊めを除いて表紙はキミのものだ。
 抗菌グッズやATMのタッチパネル,フライホイール(はずみ車)バッテリー,ラミネートフィルムのマジックカット,水の上で重い荷物を積んでもスピードを出せるテクノスーパーライナーなど,こちらが子供だった時分にはまだなかった科学の話題もふんだんに盛り込まれ,これがけっこう勉強になる。

 とくに,うっかり地球に落ちてきたロケットの神様を宇宙に戻してあげるため,ツィオルコフスキー,ゴダード,オーベルト,フォン・ブラウンら先輩科学者たちの協力をあおぐ第2巻「ロケットの作り方おしえます」はほぼ1冊分の続き物になっており,これが科学少年ゴコロをくすぐってもう絶品。これからロケット開発にたずさわってみようと考えている方には必読だ。泣けるぞお。

 あと,些細なことだが,第6巻に登場する,150℃の高音,マイナス250℃の低音,真空中,乾燥した中でも生き延びるという緩歩動物クマムシ。このクマムシ,1か月ほど前に紹介した奥井一満の『タコはいかにしてタコになったか-わからないことだらけの生物学』はじめ最近あちこちで見かけるような気がするのだが,ブームなのか?

 できればあやめちゃん主人公のアダルトサイエンスも……と,あさりファンなら誰しも考えそうなことはここではナイショにして,本稿とりあえずおしまい。

2000/09/19

『あなたの恐怖体験 読者の身近で起きた恐い体験』 大陸書房(ホラーハウスコミックス)

Nimg1308【霊障】

 マンガと出版社についての話題がいくつか続いたが,この際だから表紙を取り込んでおいたこのシリーズを紹介しておこう。

 『あなたの恐怖体験 読者の身近で起きた恐い体験』,これは読者から送られてきた恐怖体験談をもとに,新進の(つまり無名な)マンガ家がそれを書き下ろした作品集。第8集まで発行されている。

 ほぼ同時期に刊行された同様の作品集として,朝日ソノラマの『ほんとにあった怖い話・読者の恐怖体験談集』(ハロウィン少女コミック館)や,学習研究社『ほんとにあった恐怖体験』(ピチコミックス)などがある。前者は30巻にいたる堂々たるラインナップだ。

 いずれも,基本的な作り方は変わらない。
 こういった作品群の利点は,読者から広く恐怖体験談を求める結果,プロの物書きが小手先でひねったものとは手触りの違う,素朴だが,その分説明のつかない怖さがにじみ出ることにある。逆に,デメリットとして,世間に流布したオーソドックスな怪談をさも自分や知人の体験のように語る例,明らかに勘違いや夢と混同しているとしか思えない例があること,また,マンガ家のタッチがその体験にそぐわず,せっかくの恐怖がそがれることがある(たとえば大病院の看護婦が霊を見てしまう,という話でも,淡々と書かれたほうが怖いケースと,霊のアップやうめき声が強調される絶叫型が怖いケースとに分かれる)。

 そういった中でも,添付画像で紹介の『あなたの恐怖体験 読者の身近で起きた恐い体験』第1集は,とくに怖い印象がある。友人が飛び降り自殺する瞬間をたまたま写真に撮ったところ……とか,踏み切りの近くで店に現れた客が……とかいう切り口にはとりたてて新味はない,と理屈ではわかっているつもりなのに,なんともいえないひりひりした気分になってしまう。

 どの集のどの投稿作品が,ということはわからないものの,このシリーズ収録作にはいわゆる「霊障」もあったのではないか。なぜなら,朝日ソノラマは30巻続けても平気だが,大陸書房は8巻出したところで倒産してしまった。

[雑談] マンガ界の謎 その1'

【続・サンデーコミックスについて】

 「マンガ界の謎 その1」について,サンデーコミックスは「少年サンデー」(小学館)と関係ないのでは,というご指摘をいただいた。ご説ごもっとも,その通りではある。
 サンデーコミックスには『少年アトム』『鉄人28号』など,光文社の月刊マンガ誌「少年」に連載されたものも含まれているし,桑田次郎『8マン』のように「少年サンデー」のライバル誌である「少年マガジン」(講談社)連載作品も含まれている。
 ちなみに,当時「少年サンデー」の顔であった赤塚不二夫『おそ松くん』はのちに講談社から発売され,現在は手に入るのは竹書房版だ。また,サンデーコミックスの顔たる『サイボーグ009』は,「少年キング」(少年画報社)で連載が開始され,「少年マガジン」「冒険王」(秋田書店)「少女コミック」(小学館)「少年サンデー」など各誌に掲載されている。
 要するに,マンガの連載誌と単行本発行社は作家と出版社あるいは編集者との知己,契約の問題でしかなく,秋田書店に問い合わせたら「少年サンデー誌とは関係ない」と言われる可能性も高いか,とは思う。

 しかし,それにしてもサンデーコミックスにおける「少年サンデー」色は濃厚で,1970年代後半(未確認)に小学館自らが少年サンデーコミックスを発刊するまでは,「少年サンデー」掲載作品の単行本の受け皿として秋田書店のサンデーコミックスが機能していたのは間違いないと思われる。
 よくわからないのは,サンデーコミックスが,すでに休刊となっていた「少年」掲載作や当時まだマンガの単行本のラインナップを持とうとしなかった小学館系列作の“意識的な”受け皿だったのか,それともそうでもなかったのか,ということだ。要するに,なんでよりによって「サンデー」という名前が付いてるの,と言い換えてもよい。
 「謎」などというよりは,このあたりを解きほぐした資料が欲しい,と,そう書いたほうがよかったのだろう。たとえば,あの新書サイズ(縦18cm)のマンガの単行本を最初に体系づけて発行したのはいったいどこだったのだろう。

 おまけ。そういえば,そもそも,なぜウィークデーに発売される雑誌なのにサンデーなんだ「少年サンデー」。おまけのおまけ。ついでにいえばもっとわけがわからんぞ「サンデー毎日」。

[雑談] マンガ界の謎 その2

Nimg1302【朝日ソノラマ「サンコミックス」の謎】

 続けて取り上げたいマンガ界の謎,それは朝日ソノラマという会社である。

 もともとは1959年にソノシート(赤や青のビニール製の薄いアナログレコードで,アニメの主題歌などがよくこれで販売された)付きの出版物で名をあげた会社だった。「マンガ少年」「ハロウィン」「ネムキ」などの雑誌もある。
 「サンコミックス」はその朝日ソノラマのマンガ単行本のラインナップで,たとえば我が家の本棚に見つかるものだけでもざっと以下の通り。

  ジョージ秋山『アシュラ』『デロリンマン』
  あすなひろし『哀しい人々』『ぼくのとうちゃん』『白い星座』
  山上たつひこ『光る風』
  石森章太郎 『竜神沼』『佐武と市捕物控』
  楳図かずお 『紅グモ』『笑い仮面』『半魚人』『猫目小僧』
  永島慎二  『漫画家残酷物語』
  真崎守   『ジロがゆく』
  御厨さと美 『NORA』『ケンタウロスの伝説』
  矢代まさこ 『ノアとシャボン玉』『ボクはイヌになった』『シークレット・ラブ』
  水野英子  『ファイヤー!』
  山岸凉子  『ハーピー』『天人唐草』『ティンカー・ベル』『メデュウサ』
  樹村みのり 『ピクニック』『雨』『Flight』
  岡田史子  『ガラス玉』『ほんのすこしの水』『ダンス・パーティー』
  大島弓子  『誕生!』『ポーラの涙ペールの涙』『ミモザ館でつかまえて』『野イバラ荘園』『F式蘭丸』『いちご物語』
  倉田江美  『ドーバー越えて』『宇宙を作るオトコ』
  山田ミネ子 『ひとりっ子の冬』
  伊藤愛子  『ハピィ・トォク』
  坂田靖子  『闇夜の本』『星食い』
  猫十字社  『黒のもんもん組 富士山麓に玉砕編』

 先に取り上げた秋田書店のサンデーコミックスに比べればややマイナーだが,マンガ史上,強烈なインパクトを残した作品が少なくない。にもかかわらず,すべて絶版である。1冊も残っていない。
 驚くべきことは,これらの作品の掲載雑誌がまったくまちまちであること(出版社も講談社,小学館,集英社とてんでばらばら),ここに挙げた作品の大半が,サンコミックス版が絶版になって以来ずっと入手不能か,入手できるとしても朝日ソノラマ以外の出版社からの刊行であるということだ。

 つまり,朝日ソノラマは,あらゆる出版社のあらゆる雑誌に掲載された作品を単行本化するだけのとんでもないコネクションと企画力を持ち合わせながら,さほど増刷を重ねず,あっさり絶版にして省みないのである。
 これは,出版社の経営理念としては,いちおうスジの通ったことではある。あまり知られていないが,出版社の経営を最も圧迫するのは返本と在庫の管理費であり,主力雑誌の返本率が20%ならビルが建つが,50%なら会社がつぶれる,という例だってある(ちなみに,返品率が70%を越える雑誌も別に珍しくはない)。
 朝日ソノラマは,刷り部数をタイトに削ることによって返本,在庫を極力抑える,なみなみならぬ強固な保守意識を持っているということになる。そのくせ,この攻撃的なラインナップ。……なんだろう,この異様なバランス感覚。正直,よくわからん。

 朝日ソノラマの倉庫か会議室に過去の出版物がすべて置いてあるなら,有料でよいから半年ばかりこもりたい,とは,烏丸の嘘いつわりのない心からの願いの1つなのである。

2000/09/18

[雑談] マンガ界の謎 その1

Nimg1301【秋田書店「サンデーコミックス」の謎】

 実は本日,少々ダレ気味な「マンガの最終回シリーズ」はいったんお休みをいただき,眠気覚ましに,亀谷了先生,あるいは藤田紘一郎先生あたりのありがたくも微笑ましい寄生虫本をご紹介しよう……と思っていたのだ。朝のうちは。とりあえずそれは後回しにした。
 理由は簡単。不肖・烏丸,今日の昼飯は和風スパゲッティであった。

 ……スパゲッティ(*1)ついで。ここでは,マンガ界について烏丸が以前より不思議に思っていることを1つ取り上げてみよう。

 それは,「サンデーコミックス」はなぜ秋田書店から発行されているのか? ということである。

 先の手塚治虫『どろろ』もそうだが,これは小学館の少年サンデーに連載されたものでありながら,なぜか単行本は秋田書店から,サンデーコミックスと銘打って発行されている。
 秋田書店が小学館の子会社,という話も聞かない。秋田書店といえば「冒険王」「少年チャンピオン」「プレイコミック」「プリンセス」などで知られる堂々たる老舗マンガ出版社である。サンデーやビッグコミックの小学館から見れば,ことマンガに関してはライバルの1社だと思われるのだが……。

 ちなみに,サンデーコミックスに収録されている作品は『どろろ』のほか,手塚治虫『鉄腕アトム』『海のトリトン』『W3』『ビッグX』『マグマ大使』『バンパイヤ』,石森章太郎『サイボーグ009』『幻魔大戦』,横山光輝『鉄人28号』『伊賀の影丸』『仮面の忍者赤影』,楳図かずお『のろいの館』『恐怖』『怪』『おろち』『アゲイン』,一峰大二『黒い秘密兵器』,小沢さとる『サブマリン707』,桑田次郎『8マン』,水島新司『男どアホウ甲子園』,ちばてつや『ちかいの魔球』,松本零士『潜水艦スーパー99』『宇宙戦艦ヤマト』,つのだじろう『虹をよぶ拳』,貝塚ひろし『ミラクルA』,いしいいさみ『くたばれ涙くん』など数百(!)冊。
 一部は品切れ・絶版で入手できないが,現在にいたるも在庫率はかなり高く,ともかく正統派というか,大変なラインナップである。

 小学館は,これらを「マンガの単行本化なんてウチの仕事じゃないもんね」とばかりにライバルであるはずの秋田書店に任せ,放置した,ということだ。
 理解に苦しむ。

*1……コンピュータのプログラムコードがぐちゃぐちゃになってしまったものを俗に「スパゲッティ」という。

マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第3回

【されどわれらが日々】

 これは深読みだが,アニメのオープニングでどろろが手にふりあげているのがただの木の棒であることもそう考えると筋が通る。手塚は「妖刀似蛭の巻」の最後でどろろに「もう刀なんか二度と持たない」と言わせている。この「ファッション」は,60年安保闘争では素手,のちに催涙弾に対し角材(いわゆるゲバ棒)で対抗しようとした当時の新左翼デモ隊の姿勢にほぼシンクロしているのだ(*2)。
 だから,最終回で百鬼丸がどろろを村に置き去りにするのは,どろろがそういった共産主義革命の側にいることを,共闘を拒み,とことんニヒリズムの側に立つ百鬼丸が悟り,さらに旅をともにするのは無理とみなしたため,とこじつけることが可能だ。つまり『どろろ』は,主人公どろろが,単なる野盗的存在から,オープニングシーンのように農民を指揮する解放指導者に至る「前史」なのではないか。

 こうしてみると『どろろ』の結末が,白土三平の『サスケ』のアニメ版(アニメ放映は『どろろ』直前)のエンディングに実によく似ていることがわかる。妖怪と忍術,素材こそ異なるが,アニメの最終回でサスケの父は猿飛忍軍の一員として権力に挑むテロリストとして去り,サスケは村に残される。サスケが託されたのは,農民を組織することによって新しい体制を目指せ,ということではなかったのか。サスケの背中に背負わされたものは,野盗の埋蔵金の秘密とともにどろろに示された方向と全く同じものではなかったか。

 もちろん,武士の支配が続いたことは歴史が証明する通りだし,そもそも封建体制下における一揆はマルクス,エンゲルスの言う階級闘争とは別のものだ(だからこそコミック版の『サスケ』は一揆に敗れ,梅を死なせ小猿を見失ったサスケが茫洋と荒野をさまよい,背中に手裏剣を受けても反応できないという無惨極まりない終わり方をする)。それでも,常に革命運動は繰り返されるのだという当時の新左翼ないし左翼シンパの夢,言うなれば一種の「トロツキーと永久革命ブーム」が『どろろ』や『サスケ』に色濃く反映されていることは間違いない。

 ところが,現在から見ればこの通り新左翼にすり寄っているとしか見えない(*3)手塚作品が,バリバリの共産主義者だった宮崎駿から見るとこれはもう米帝ディズニーの手先,大衆に迎合した低俗なものと酷評されてしまう(岡田斗司夫『オタク学入門』による)。革マルが民青のビラ配りに突っ込むようなものか(今どき通じないって)。

 ともかく,アイデンティティ確立と革命への道は暗くて深い川の向こうにあったのである(*4)。

*2……ゲバ棒や投石だけでは勝てない,と腹をくくった極左がその後連合赤軍など組織して,よど号乗っ取り(1970年),浅間山荘事件,テルアビブ銃撃戦(1972年)と走っていったわけだが,彼らの生き残りももう50代後半から60代だとか。見る前に跳び続けるのも体力との闘いである。

*3……雑誌「COM」はなぜか日共系に支持された。では「ガロ」は右かといえばこれが反日共系。

*4……ここで「ナーンセンス!」の一声が欲しい。

2000/09/17

マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第2回

【おまえらみぃんな ほげたらだ】

 養老孟司は『涼しい脳味噌』(文春文庫)の中で「手塚治虫の生命観」として,「ヒトはしばしば,バラバラの部品に分解してしまい,それを自分で回復しなければならない。それは『どろろ』に見るとおりである」ということを述べている。しかし,ならば,バラバラにしなければ修復できないほどの手塚とは一体何だったのか。

 手塚のそのあたりの心理を追求するには現時点ではどうにも勉強不足で,このように作品に見られる現象を2,3挙げるのが精一杯なのだが,同じく妖怪漫画を描いた楳図かずおの作風と比較してみると興味深い。すなわち,手塚,楳図の2人ともその苛烈な妖怪漫画によって妖怪そのものよりは揺れ動く醜い人間の精神を描こうとした点は変わらないように見える。しかし,その精神において,楳図は明らかに医者の側にいるのに対し,手塚は患者の側にいる。
 養老孟司は「読み出したら,止められない。(中略)理屈を言う暇はない。そんなつまらないことをするのは,作品に対する残虐行為である。」「実際,こうした作家の作品を論じるのは,ある場合には,趣味が悪いのである。」と言って手塚作品の分析を停止する。アトム世代の1人として気持ちはよくわかるが,その気持ちがマンガ,アニメの世界に不可侵の巨大な聖域を作ってしまったこともまた事実である。そろそろ手塚の死体を切り刻む,悪趣味で残虐な作業が必要な時期なのではないか。もっとも,執刀できるだけの能力者は,いまや手塚を相手にしていないというのが実情かもしれないが。

 さて,一方,『どろろ』において注目されるのは,手塚作品にしては珍しい社会性である。
 アニメ版『どろろ』のオープニングをご記憶の方はおられるだろうか。百鬼丸や妖怪たちがフラッシュし,続いて搾取されて俯く農民たちの暗い顔が写り,やがて彼らは百姓一揆の標準装備である鍬,鎌,むしろを手に手に画面左から右に流れる。同じコンテが二度繰り返され,二度目の後,最後に前進する農民の背に,棒を手に,アジテーターとしてのどろろが1カット映ってそこで映像が静止する。
 これは,『どろろ』の背景に,当時の共産主義革命への夢が塗り込められている明確な証しではないか。

 『どろろ』の少年サンデーへの掲載は1968~1969年。学生運動が盛り上がり,デモに参加しない学生がノンポリとののしられた最後の時代である(*1)。少年マガジンを手に安田講堂を占拠していた東大全共闘が陥落して事実上学生運動が崩壊し,シラケ世代が始まったとされるのが1969年。
 国民栄誉賞をもらえなかったのは共産党を支持していたため,と一部でささやかれる手塚が,当時の左寄りの運動に心情的にせよ賛同していなかったはずはない。そう考えると,どろろの父が飢えて死にかけても支配階級から饅頭を恵まれることを拒否して無謀な闘いをいどみ,殺されるシーンもわかりやすい。単に支配を嫌うのではなく,彼ら(野盗)の理想を,「サムライの支配を覆し,農民を解放する」ことにあったと読み替えれば,手塚があのあたりで描きたいことがすとんと形に納まるのである。
 さらに続く。

*1……オウム真理教の早川紀代秀は,逮捕当時,テレビで何度か「学生運動にも関与し,ノンポリで恐れられていた」と報道されていた(本当)。当時恐れられ(嫌われ?)ていたのは「ノンポリ」ではなく「ノンセクトラディカル」である(早川がいずれであったかは,材料に乏しく不明)。

2000/09/16

マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第1回

Nimg1300【ほげほげ たらたら】

 ご存じない方のために,まず『どろろ』の設定をざっとご紹介しよう。
 舞台は室町~戦国時代の北陸地方。主人公の一人「百鬼丸」の父は侍大将醍醐景光。彼は天下を取るために妖怪48匹に自分の子供を差し出す。目も耳も手も足もないイモムシのようなバケモノとして産まれた百鬼丸は捨てられ,医者に拾われて義手,義眼を与えられ,長じて48匹の妖怪を倒す旅に出る。妖怪を1匹倒すたびに目や足が戻ってくるのだ。
 一方の主人公「どろろ」は野盗の子,飢えと裏切りの重なる凄惨な過去を持つ。百鬼丸の腕にしこまれた刀を盗もうと,ともに旅をすることになる。

 アニメ版『どろろ』が放映された当時は,すでにテレビもカラー放映の時代に移っていたのだが,わざわざモノクロで制作されたのはあまりに過激な殺戮シーンが続くためだったと言われるほど,血と死人だらけの映像が続く。また,義眼,義足であることを「こんなバケモノ,キモチわるいだろう」など,現在の地上波では絶対に放送できないセリフの山だ(さすがに,飢えた民が死人の肉を食べるシーンは,1960年代のテレビ放映でもカットされていた)。

 アニメについてさらに言えば,冨田勲の重厚なBGM,「ほげほげ たらたら ほげたらぽん」と藤田淑子(一休さん,キテレツ,泪姉の声優)が歌う独特の主題歌,モノクロがうまくマッチした様式美溢れる映像(アニメとしてはほめられない静止画シーンが多いが,ニヒルで居合い殺法の百鬼丸の描写にはあれでよかったようにも思われる),重厚なストーリーなど,手塚作品の中でも注目すべきものの1つと思われる。
 しかし,スポンサーの意向で『どろろと百鬼丸』とタイトルを変えた後半は妖怪とのチャンバラ主眼のお子様ランチと化し,すっかりテンションを下げてしまったのは返す返すも惜しい。

 さて,先に書いた通り『どろろ』の設定は異様に暗く,重い。その重さ以上に気になるのは,手塚は全くのところ,何が面白くて(面白くなくて)こうもハンディキャップな話ばかり書きたがるのか,ということである。
 百鬼丸はもう全身これ欠損だらけだし,野盗の首領だったどろろの父も最後は足なえとして死んでいく。思えばロボットたるアトムは「心のない人間」だったし,レオはアルビノ,ブラックジャックは満身創痍,サファイアは女の心を失った娘である。バンパイアその他の作品でも,多くの場合,主人公の肉体的特性は,利点であるよりは逃れがたいコンプレックスの要因として描かれる(逆に,そういう設定ではない『W3』や『ビッグX』『マグマ大使』などは,掲載・放送時の人気を思えば,手塚作品としては意外なほど忘れ去られているようにも見える)。

 少年マンガの主人公に設定としてのハンディキャップは常道だが,手塚作品に通底する主人公の肉体・精神的な欠損はそのようなストーリーテリングの都合とはとても思えない。
 百鬼丸は妖怪を倒すたびに少しずつ身体的には完全に近づいていく。もちろんこれを教養小説,主人公の成長譚とみなせなくはないのだが,いかんせん最終回はまるで百鬼丸の肉体の完成に興味などないかのように,百鬼丸はどろろと別れ,その方面でのカタルシスは用意されていない。
 逆に,ハッピーエンドで終わるアニメ版『リボンの騎士』では,サファイアは少女の心を取り戻してフランツ王子と結婚するが,最終回のサファイアはそれまでの精彩を失い,まるで人形のよう。つまり,手塚にとって,完璧な女と化したサファイアは,もはや魅力の対象ではなかったということではないのか。
 本稿,第2回に続く。

[雑談] マンガの最終回 あれこれ その3

【少女マンガにさよなら】

 今回はまったく個人的な想い出話。

 「ジャンルそのものには貴賎はなく,そのジャンルの中に一流とそうでないものがある」とは『私、プロレスの味方です』において村松友視が言い抜いた真実である。それでも私の中で,少女マンガはあらゆる文化の中で非常に高いポジションにあり,長い間,それはある意味生活の一部だった。
 マーガレットと少女フレンドの創刊はリアルタイムに見ている。水野英子には燃え,わたなべまさこには揺れ,楳図かずおには怯えた。『エースをねらえ!』連載中はほとんどずっとマーガレットを読み続け,その後少女コミックの興隆とともにそちらに移った。萩尾望都はデビュー作『ルルとミミ』以降,『スターレッド』より前の作品は『ケーキケーキケーキ』と『かたっぽうのふるぐつ』を除いてすべて雑誌切り抜きで持っている。大島弓子もほぼ同様。『紅あざみ』という掲載誌も作者も思い出せない怪奇サスペンスや,西谷祥子の救いのないロマンス『学生たちの道』,これらどう決着したのかは,今でも気になってしかたがない。

 しかし。当たり前のことだが,いくら少女マンガが好きと言っても,二十歳を越えると漫研にでも所属しない限りそのレベル(?)を維持するのは難しい。周囲は同年輩の女の子も少女マンガからは離れ,一人で追うにも各社から女性コミック誌がわらわらと増える時代でもあった。

 当時の私の愛読誌は「ぶーけ」だった。当時,「ぶーけ」は735ページとかいう少女マンガ誌最大のページ数をほこり,三岸せいこ,笈川かおる,清原なつの,吉野朔美,耕野裕子,上座理保,内田善美,逢坂みえこ,水樹和佳(ちなみに順不同ではない)といった濃い目の作家のオリジナル作品に加え,くらもちふさこや槙村さとる,山下和美ら,マーガレット系の連載作品の総集編が載るという実にお買い得な作りだったのだ。
 あるとき,そこに総集編掲載されたのが,紡木たく『ホットロード』である。

 こりゃダメだ,と思った。
 ぜんっぜん,感情移入できないのである。少年少女のやるせない暴走は切なく哀しく,そのくせ描線は意図的に抑えられ,なにより透明感あふれる人物の目がいい。と,頭は理屈でほめているのに,すりガラスに隔たれたかのように気持ちはそちらにのめり込めない。
 少女マンガが好きといっても,ターゲットたる女の子の気持ちが読めるなど傲慢なことを考えていたわけではない。ガラスのこちら側から観察するのが精一杯だとはわかっていた。しかし,それでも……。

 団塊の世代は『がきデカ』までは笑えても,『マカロニほうれん荘』にはついてこられないと言う。私にも,生活の柱の1本から少女マンガをはずす時がきていたのだろう。
 ふと気がつけば,それは私一人の問題でなく,それまでの少女マンガは対象をOLや主婦においたレディースコミックと,『キャンディキャンディ』のヒットに触発された低年齢層向け作品とに分かれ,マスにカウントされない男の読者の居場所はさらになくなりつつあるのだった。

2000/09/14

『愛のさかあがり』 とり・みき / 筑摩書房(ちくま文庫)

Nimg1185【いずんし らあぶり】

 人の噂によれば,某サイトのシステム管理者2号氏が,「恋を探して来ます」と夏休みをとって出かけたまま行方知れずなのだそうである。
 そこで,今回は「マンガの最終回シリーズ」を1回お休みいただき,「~を探す」本を取り上げ,2号氏の行方について考察する1つの契機としたい。「~を探す」といえばシェル・シルヴァスタイン『ぼくを探しに』か,とも考えたのだが,ここはひとつ,2号氏も愛読のとり・みきを取り上げることにしよう。

 『愛のさかあがり』は,コミックエッセイというジャンル分けがあるなら,その古典の1つ。ギャグ漫画家とり・みきが,愛を求める旅を仕事場から海外にいたるまで,あれこれ繰り広げる。

 もともとは1985年から翌年にかけて,今は亡き「平凡パンチ」に連載されたもの。角川から発売された単行本は「天の巻」「地の巻」「無用の巻」の3部構成であったのに対し,文庫版は「上巻」「下巻」の2冊となっている。2冊になっても別によいのだが,文庫版では単行本化の際に加えられた細かい注釈や諸氏からのメッセージまでとり去られており,単行本を知る者には少し残念。

 さて,その愛を求める旅だが,これがあるときはウェット,あるときはクール。
 愛はときには○○○○の形をしてドアノブからぶら下がっていたり,金縛りの最中に巨大な金色の○○○の形をしてお腹の上に乗っていたり,あるいは築地の朝の謎のあたまライスだったりと,けっこうトリッキーに姿を変える。
 とりわけ読者から題材を求めた「イタイ話」シリーズと路上観察の一環としての「オジギビト」シリーズはポイントが高く,「あれ見た?」と全国の漫画ファンをとりこにし,この後数年にわたって漫画談義のトリを飾って青い鳥を鳥捕り帰る鳥捕りの声。

 え? それで2号氏はどうなった? さて。どうなったんでしょうね。

マンガの最終回シリーズ 『キャッツ・アイ』 北条 司 / 集英社

Nimg1183【ルイルイといえば太川陽介 ……お呼びでない? こりゃまた失礼いたしました】

 放映当時から不思議だったのだが,なぜ,同じテレビアニメでも『ダーティ・ペア』はおたく色が濃厚で,『キャッツ・アイ』はそうでもなかったのだろう? 掲載の場が少年ジャンプだったから,だろうか。
 ある種のバッタは,一定面積に一定数以上増え,互いの接触頻度が高まると,急に体が細く,翅が黒っぽく変化し(群集相),性質的に荒くなって,ちょっとしたきっかけで大移動を始める。そして数千キロにも及ぶ移動の途中で落伍すべきバッタは落伍し,やがて適当な数のバッタだけが残って,元の大人しい単独相のバッタに戻る。それと同じように,ある種のアニメやコミックは,一定以上メジャーになると,急速におたく色を失ってしまうようだ。

 なんてな。とーとつに最終回のあらすじだけ書くのもなんだから,ちょっとへ理屈こねてしまった。どうでもいいの。気にしないで。

 さて,『キャッツ・アイ』最終回である。
 世間を騒がす絵画泥棒キャッツ・アイこと来生泪・瞳・愛の三姉妹の目的は,父ミケール・ハインツの絵を取り戻し,父の居所を探すことだった。ジャンプコミックス最終18巻では,彼女たちに敵対するクラナッフの正体が暴かれ,彼を中心とする絵画シンジケートの崩壊が描かれる。すべてが片付いた後,瞳はついに幼なじみで婚約者の刑事・内海俊夫の前にキャッツ・アイとしての正体を示し,三姉妹はアメリカに去る。
 さて,最終回。ロスに到着して早々,瞳はビールス性脳膜炎で記憶を喪ってしまう。刑事の職を投げ打ってかけつける俊夫。瞳は俊夫のこともキャッツ・アイのことも思い出せないが……。

 ひどい言い方だが,まあ,「上出来」である。この手のマンガにしては,連載開始当初の伏線はほぼクリアしているし,俊夫と瞳が海でたわむれるラストシーンもそこそこ感動的。まとめにくいものを巧くまとめた,という感じ。
 しいていえば,この作者の絵柄,筋運びにおけるこのあたりの「器用さ」が,おたく文化的には今ひとつ受け入れられなかったようにも思う。

 ところでマンガの世界では,「俊夫」「俊平」「トシ」といった名前は,どうも主人公の気の強い女に引っぱり回される,真面目だが朴訥,女心にうとい男という役どころが多いようだ。例外はないだろうか。あったらご連絡いただきたい。

[雑談] マンガの最終回 あれこれ その2

Nimg1181【死んでしまう,旅に出る】

 ちゃんと分類して書いているわけではないが,ある程度長い期間にわたって連載されたマンガの最終回のあり方は,たぶん,いくつかのパターンにまとめられるのだと思う。

 たとえば,最終回に向けて多少大きめの事件は用意されるが,基本的には人間関係など何も変わらず,翌日以降も似たような事件が続くだろう,とする終わり方。いわゆる「ラブコメ」はたいていこの終わり方だ。高橋留美子『うる星やつら』,椎名高志『GS美神極楽大作戦!』など典型的。
 一方,同じラブコメでも,目出度くハッピーエンド,というタイプがある。高橋留美子『めぞん一刻』はこちらに属す。今週最終回を迎えたゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』もそう。このタイプは,数年経って主人公たちが幸福に暮らしているさまをエピローグとして用意するケースも多い。

 ラブコメに限らず,冒険活劇もの,スポーツものも,このどちらかに分類できるものが多いのではないか。たとえば皆川亮二『スプリガン』は前者だし,あだち充『タッチ』は後者に属す……『タッチ』をスポーツものと言ってよいのかどうかは疑問だし,そういえば『じゃじゃ馬』も競馬の話なのに駿平とひびきがいちゃいちゃしてうざいという説を最近どこかで見かけたような気もする。それはそれ,これはこれ。

 ごくまれに,結末のわからない作品がある。キャラに感情移入してしまうと,これはキツい。
 あや秀夫の傑作野球マンガ『ヒットエンドラン』はまさしくこれ。この作品は,高校野球夏の大会の1回戦,相手は甲子園出場候補,こちらは公式戦未勝利,2対1の1点リードで9回の裏2アウト満塁,2ストライクで主人公がぎゅぅっとボールを投げて……で終わってしまう。たまらん。
 また,片山まさゆき『ぎゅわんぶらあ自己中心派』も,オーラスが微妙によくわからない。律見江ミエは「何度かのお見合いをけりつつ……3年後意中の人とゴールイン」とあるのだが,その相手が持杉ドラ夫かどうか明記されてないのである。なんだか千点棒1本行方不明,な印象。

 主人公が死んじゃったら,もう終わるしかない。先にも書いたながやす巧『愛と誠』,吉田秋生『Banana fish』。井上コオ『侍ジャイアンツ』。永井豪『デビルマン』もまあこちらだろう。情けない死に方をするのは辻なおき『タイガーマスク』だが,これはそのうちきちんと紹介したい。白土三平もときどき主人公を死なせてしまうが,この大河ドラマな作家の場合はその人物の死までで一区切りとして発表する,という印象か。

 いわゆるギャグマンガは,たいてい「明日も明後日もみんなで……」という終わり方,というよりたいていは最終回にあたる話そのものがないのだが,ギャグでありながら内奥に重いものを抱えていると登場人物がいなくなって終わることが多いような気がする。
 山上たつひこ『がきデカ』はこまわり君が僧形で旅に出て終わるし,松本零士『男おいどん』も大山登太がパンツの山やトリさん,サルマタケをほったらかして黙っていなくなる。鴨川つばめ『マカロニほうれん荘』の最終回,トシちゃんきんどーさんが海に消えた後の空虚な部屋は,なんというか,描線がうるおいを失って一種壮絶だ。

 ギャグマンガではないが,主人公が旅に出て終わるといえば佐藤史生『夢みる惑星』なんかもそう。佐藤史生は花郁悠紀子とほぼ同時期に萩尾望都寄りのSFを書いた魅力的なマンガ家の1人だが,この人についてはなにしろ作品から子供の名前をいただくほどで,かるがるしく取り上げることができないのだ。

2000/09/13

マンガの最終回シリーズ 『巨人の星』 梶原一騎 原作,川崎のぼる 作画 / 講談社

【重いコンダラ】

 『巨人の星』について「ここがおかしい」「あそこが謎」ということを言い出したら,それだけを肴に三晩は飲める。
 たとえば,

 a). バッターの動作を見切ってそのバットにボールを当てることができるほどのコントロールとスピードがあるなら,それだけでいくらでも勝てたろうに

と考えるのが初級。中級者としては,

 b). その星より活躍したエース級の堀内や高橋一は,いったいどれほどもの凄いピッチャーだったんだ?

という点にも注目したい。これは,

 a'). ホームベースの手前でUの字に変化するボール(魔送球)が投げられるなら,それが消えようが消えまいが十分活躍できたろうに

 b'). そんなすごい変化球が「消えない」だけですぐ打ち込める花形や左門が,なぜプロ野球界では並みの好打者に過ぎないのか?

という疑問とパラレルである。

 ま,そんな具合だから,最終回もまことにヘン。
 対中日戦で大リーグボール3号を投げ続け,ついにはピシッという音とともに飛雄馬の左手首は壊れてしまう。この3号がプロの強打者になぜ打てないかは省略するが,ともかく星一徹中日コーチは伴宙太に長時間の逆立ちとバット3本の素振りを命じ,へとへとになった伴はそのにぶいスイングで大リーグボール3号をはじきかえす。球はフェンス直撃,パーフェクト敗れたり!? しかし,疲れはてた伴はファーストまで走ることもできない。果たしてアウトかセーフか(この判定はコミッショナーに提訴され,現在も決着を見ない)。一徹は伴がそうなることを見越せなかった自分の負けを認め,これにて父子の死闘は終了。
 最後のシーンは,川崎の教会で挙行された左門と女番長(うぷぷっ)京子さんの結婚式。限られた近親者だけが呼ばれ,飛雄馬は窓の外からこっそり二人を祝福して去っていく。完。

 ここで「なぜ,手首を壊すまで大リーグボール3号にこだわったのか,かえってチームに迷惑だろに」とか「新郎新婦が知り合うきっかけになった飛雄馬が結婚式に出ない理由がない」などの指摘を並べても虚しい。飛雄馬は本来破滅願望型の奇人変人で,彼の交感神経が病んでいることは豆の木学園生物教諭広岡真理子も指摘する通り。今さら騒いでもしかたないのである。それより私としては,この結婚式に別の疑義をはさみたい。

 左門は無口ではあるが,本来気遣いの人だったはず。いくらジミ婚とはいえ,自分が世話になっている大洋ホエールスから誰も呼ばないというのはあんまりではないか。否,それをさておきこの出席者。幼い妹,弟たちに加えて,花形,伴,一徹,明子。左門が明子と知り合うシーンなんて記憶にないが,それも目をつむろう。最後の一人,漫画家の牧場春彦。なんで牧場がここにいるのか。

 甲子園の準決勝戦前夜に左門兄弟の不幸な生い立ちを聞かせ,飛雄馬が左親指の爪を割るきっかけを作ったのがこの牧場。誰かが伴大造に闇討ちを仕掛け,犯人をかばった飛雄馬が退学するはめに陥ったのもこの牧場のせい。プロ入りし,破竹の9連勝のさなか,スコアブックから飛雄馬の致命的な弱点(球の軽さ)を左門らに知らしめてしまったのがやっぱりこの牧場。そして最後,星が医者に手首の症状を告げられ,ムキになってしまう現場に居合わせたのもこの牧場。要するに巨人の星の疫病神,それが牧場なのである。
 なんでそんなゲンの悪い,それもたかが飛雄馬の同級生を結婚式に呼ばねばならんのだ,左門クン。京子ちゃんも,そんなやつより昔の竜巻グループのお友だちを呼びなさい,お友だちを。

マンガの最終回シリーズ 『恐怖新聞』 つのだじろう / 秋田書店

【あなたは見る,見てしまう……】

 怖い本つながりで,続いては『恐怖新聞』を取り上げよう。ただし,つのだじろうの本はあいにく今手元にない。アンチョコからのカンニング,お許しを。

 主人公の中学生・鬼形礼には,毎夜,次の日に起こる「不幸」が書かれた「恐怖新聞」が届く。そしてそれを読むとそのたびに命が100日ずつ縮んでいくのだ。鬼形は次々と起こる霊的な事件をかわしていくが,彼の寿命はいまや尽きようとしていた。
 鬼形は霊能者・小泉香具耶に除霊を求めるが,激しい霊戦の末,鬼形は紫光山の洞窟で岩に押しつぶされてしまう。しかし,彼の「魂の緒」はまだ切られておらず,悪霊たちは鬼形に,クラスメートを全員殺せば助けようと取引を求めてくる。しかし,彼は5人しか死なすことができず(笑),我が身を犠牲にクラスメートたちをバス事故から守り,その結果,主護神によって助けられ,強い光とともに幽界に送られる。

 幽界に送られたということは,地獄におとされずにすんだ,すなわち死んだということであり,最終回において鬼形は岩につぶされ折れた枝のつきささった腐乱死体というヘヴィな姿で発見される。鬼形の葬儀で,クラスメートたちは自分たちを救った鬼形のために祈る。石堂中学では,それ以来パッタリと奇怪な事件は起こらなくなった……。

 しかし,最終回が本当に怖いのはこれからだ。鬼形が死んだ日から,石堂町のとなりの坂元町中学では夜中に届く新聞が噂になる。ニ年C組の高見光子のところにそれが届き始めたのだ。そして,それを配達しているのは……この世への強い未練にかられた鬼形の霊だった。
 夜の道,ガードレールのところを,制服を着た中学生くらいの少年が走っていたら,それはあなたのところに「恐怖新聞」を届けようとする鬼形の姿かもしれない……。

 なお,作者・つのだじろうは,事故などが相次ぎ,霊魂は怖い世界,うかつに首を突っ込んではいけないと少年マガジン『うしろの百太郎』,少年チャンピオン『恐怖新聞』の人気連載2本を打ち切ったが,その後,オカルト以外の連載を始めようとするとどうしても何者かにさまたげられるのだそうだ。

2000/09/12

マンガの最終回シリーズ 『漂流教室』 楳図かずお / 小学館

Nimg1166【ぼくたちは,未来にまかれた種なんだっ!!】

 楳図かずおは怖い。楳図かずおの作品が怖いのではなくて,楳図かずおが怖いのである。
 不肖この烏丸,少女フレンドが週刊だったころから怖い怖いと悲鳴を上げながら,逃げるように単行本を買って買って買いまくって,その一角は烏丸家の「のろいの館」と呼ばれている。もちろんその壁には肉面が飾ってあるし,床には何かが這いずった後があって大きなウロコが散らばっている。紅グモは壁に巣を張り,海で拾ったペットは「ギョー」と鳴いて水を撒き散らす。ロマンスの薬で手に入れたミイラの女房は目を覚ますたびに前世を思い出して「イアラー」と叫ぶ。……ああ,なごむ。

 それはともかく,『漂流教室』は「少年サンデー」1972年23(5月28日)号~1974年27(6月30日)号にかけて連載された。主人公・高松翔(6年生)の通う大和小学校は,大地震をきっかけに,未来の地球にタイムスリップしてしまう。砂漠化した未来世界では人類はすでに滅び,得体の知れない怪虫やクモ様の未来人間がうごめいている。わずかな大人たちは狂い,死に,残った子供たちは飢えや病気(ペスト,盲腸),相互不信などあらゆる困難と闘いながら生きていかねばならない。彼らは,はたして母の待つ「現在」に戻れるのだろうか?

 ……で,問題の最終回だが,結論だけ書いてしまうと,帰れない。最終回は,翔の両親がガラス窓の外に翔たちが走る幻影を見て,頑張って翔,と祈るシーンで終わってしまう。

 考えてみれば──考えなくても,それは当たり前。足の悪い西あゆみ(5年生)の超能力によって,「現在」の母親と通信できたことのほうが異常なのである。子供が育つということは,未来の砂漠の中で生きていく(あるいは死んでいく)ことであり,親にできるのは,せいぜい「現在」に伝えたいメッセージをそっと置いたり,ガラス越しの幻影に祈ることだけなのだ。

マンガの最終回シリーズ 『ファンシィダンス』 岡野玲子 / 小学館

Nimg1148【本当に楽しいことは】

 岩田一平『縄文人は飲んべえだった』評にて,私は全国に残る丹生(にう)という地名や丹生神社という名前の神社が古代の水銀鉱床に由来するという説に触れ,さらにそれと岡野玲子『陰陽師』との関わりを指摘した。
 これに限らず,我が国の文藝作品には毒あるいは薬品としての「水銀」がイメージとして大きく通底してきたのではないかというのがかねてよりの私の持論であり……ウソ。たった今,思いついた。

 しかし,岡野玲子のファンなら,1980年代後半に書かれた『ファンシィダンス』の第1話(くどいようだけど,第1話だぜ)に,ヒロイン・真朱(まそほ)について「真朱という名には,水銀とイオウの化合物である辰砂の意味がある」と書いてあり,かたやいまや飛ぶモノノケをも落とす『陰陽師』第4巻には「水銀を含んでいる土を丹砂とか真朱とかいうのだがな」と丹生都比賣(にうつひめ)神社の起こりについて書いてあると知ったら「それって何かある!?」と思わないほうが波打ち際のリュウグウノツカイである。

 『ファンシィダンス』の主人公,塩野陽平はバンドでヴォーカルはったりおしゃべりしたり,シティボーイ(死語)を装ってはいるが,彼は田舎の禅寺の長男で,いつかはロックも遊びも振り捨ててスキンヘッドになってお山で修行しなくてはならない。じゃあ,付き合い始めた真朱をどうするの,真朱はどうするの,ということだが,そのあたりはうやむやなまま,ヨーヘーは山に向かう。
 お山から下りてパチンコにいそしむヨーヘーはパチンコ玉の描く自由曲線に「パチンコ台は宇宙への窓なんだ」「宇宙は無作為に広がった球と円運動の連続でできている」なんてこれまた安倍晴明みたいなことを言うのだが,このあたりヨーヘーが大人になった,修行の甲斐があった,と教養小説とみなすのはいかにも違う。彼の言葉は上っ面を掠めるだけで,喋ることと呼吸することはほとんど変わらない。
 というか,ヨーヘーも真朱も,その言動は実に皮相,「ちゃらちゃら」という言葉を絵に描いたような具合。だが,それは彼らが頭の中の不随意筋で思考している顕れで,だからこそ彼らは切実だ。彼らは「自分らしく」ないことについてハリネズミのようにデリケートで,「自分らしさ」から一歩でも外れるとストレスで即死んでしまうのだ。

 最終回は,ハワイおちゃらけ旅行から帰ったヨーヘーと真朱が結婚することになって終わる。もちろん,そんなハッピィエンドも上っ面で,彼らがその翌日ケンカ別れしていてもなんら不思議はない。

 ところで,今から20000年くらい経って誰かが地球にやって来て,摂氏70℃のビーチの暇つぶしに砂を掘ると埋もれた図書館が見つかり,原型を留めていた数少ない本のうち『ファンシィダンス』と『陰陽師』は同じ民族による同じ時代の宗教の経典だということになってしまう。
 こんなふうに烏丸が言い出しても,決して真に受けてはいけない。なにしろ水銀はね,通底するだけなんだ。陰と陽,Uの字にね。ヒィリラ,ヒィラハ。

*……『ファンシィダンス』は1989年に監督・周防正行で映画化されている。出演は本木雅弘,鈴木保奈美,竹中直人,大槻ケンヂ,宮本信子。

マンガの最終回シリーズ 『スーパードクターK』 真船一雄 / 講談社

Nimg1146【知っとるけぇ ドクターK】 ← 烏丸が言ったんじゃないぞ。作中に出てくるんだぞ

 何百年にもわたり一子相伝で独自の医療技術を伝え,権力に取り込まれることのないよう闇の世界に生きてきた,凄腕の医者の一族のお話。少年マガジン誌上10年にわたる長期連載で,単行本は『スーパードクターK』44巻,『Doctor K』のタイトルで10巻,これで完結。

 主人公の風貌や設定が『北斗の拳』と『ブラック・ジャック』ごちゃまぜのせいか,全54巻というボリュームの割りに今一つ評価が低い,というかほとんど話題にのぼらない。どうにも気の毒でならない。
 単行本には1冊あたりにはだいたい9話ずつ収録されているのだが,その中に必ず
  ・サスペンス,陰謀物
  ・スポーツ物
  ・ラブアフェア物
  ・警察,極道物
  ・歴史物
  ・海外派遣冒険物
  ・病院内の黒子にあたる地味な人物活躍物
  ・ギャグ物
などがちりばめられており,まことにサービス精神旺盛。もちろん,それには毎回なんらかの治療技術や医療ドラマが織り込まれており,これが週刊で連載されてきたことは賞賛に値する。
 なにしろ,週刊で毎週ワントラブルクリア物のマンガは,ありそうでこれが意外と多くないのだ。『ブラック・ジャック』や『美味しんぼ』,『代打屋トーゴー』,『親子刑事』などはそれゆえに評価されてきたわけだが,このドクターKももう少し評価されてよいのではないか。
 ああそれなのに,単行本の裏表紙がドクターKのマントひるがえして闘う姿で格闘ゲームコミックにしか見えないなど,権威に走ることもなく,作者や編集者の行き過ぎたサービス精神というかお人よしというか。

 ところで,この『ドクターK』は,ちょっと頼りない青年医師・高品の前に超絶技巧の医者K(KAZUYA)が現れ,彼の患者を救う話から始まる。
 最終回は,Kが癌の再発にもめげず最後まで医者として患者を救って死んだ数年後,大病院の院長となったこの高品が,Kとそっくりな少年とめぐり会うところで終わる。Kは誰とも結婚せずに死んだから,この少年はKのクローン。Kに惚れていた女医や許婚だった超能力看護婦がどうなったのかは全然わからない。高品の妻となった元看護婦も最終回ではぶくぶく太った毛皮と宝石亡者の老婆として描かれる。
 読者へのサービス精神の権化のような作者・真船一雄だが,高品をはじめ「男の友情」を大切にするのに比べると,どうにも女性に対してはかなり冷たいようだ。なにかよっぽどツラいことでもあったのだろうか。

[雑談] マンガの最終回 あれこれ

Nimg1182【終わった,なにもかも……】

 長谷川町子の『サザエさん』にもちゃんと最終回はあった。なにしろ新聞連載の4コママンガだから,作者が現役で亡くなりでもしない限り,いちおうご挨拶はあったはずだ。
 しかし,『サザエさん』の最終回に記憶はないし,調べてみよう,という気も起こらない。ギャグマンガや読み切り連載は,最後だからといってそう変わった話ではないだろうから。鳥山明『Dr.スランプ』の最終回で,アラレちゃんが真っ白に燃えつきたという話も聞かない。手塚治虫『Black Jack』の最終話は気になるが,たぶんそれは「最終回」ではなく「最後に掲載された話」で,父親と和解したとかピノコと結ばれたとか,そういう派手は演出はなかったのよさ。あっちょんぶりけ。

 真っ白に燃えつきたといえばちばてつや『明日のジョー』だが,この最終回がこれほどまでに有名だということは,逆にいえば多くのマンガの最終回は有名でない,ということだ。
 そもそも,最終回を迎えるということは,多くの場合,そろそろ読者に飽きられたころでもある。キャラクターへの愛着こそあれ,作者の意欲も連載開始当時ほど熱くはないだろう。目先の事件をそれなりにまとめ,「これからも皆で楽しくいこう」「明日も地球の正義のために頑張ろう」と〆られたら,最終回であったことに気づかず,さらりと忘れてしまう可能性大だ。宮腰義勝『宇宙少年ソラン』の最終回がこのタイプで,お姉さん探しはどうした,と30年以上経ってもフラストレーションが残っている。

 しかし,一方では,「記憶は曖昧だが,確認してみると,なんだこれは! というくらいとんでもない」最終回も,マンガ界には少なくない。作者が連載打ち切りにヤケになってしまったのだろうか?
 たとえば中島徳博『アストロ球団』。ようやく9人そろって,さあこれから日本プロ野球で大活躍! というところで,巨人軍川上監督らプロ野球側からそのあまりの力量,過激さに国内での試合を禁じられ,新天地求めてアフリカへ旅立つ……野球チームがアフリカに行ってどうするのか,とは思うが,ともかくそう終わったのである(ちなみに,同時期の本宮ひろし『群竜伝』は長嶋や王を含む覆面チームに勝った後,日本には敵がいないとアメリカに旅立つ。どこからどこまでそっくりなマンガであった)。
 村上もとか『赤いペガサス』では,さまざまな困難や同僚のペペの死を乗り越えてF1のワールドチャンピオンとなった主人公ケン・アカバがユキに言う,「ボクといっしょにくらそう!! そうしたら………ボクたちは夫婦だ!!」。ちょと待て。ユキは妹だろうが(のちに村上の弟子・千葉潔和によって続編が描かれたが,これはなかったことにしたい)。
 吉田秋生『Banana fish』では,せっかく日本に帰る英二と和解しながら,アッシュはナイフで刺されて死ぬ。感動的だが,よく考えたらながやす巧『愛と誠』の最終回とまるっきしそっくりである。

 などなど,マンガの最終回は,オーソドックスであったり,意外であったり。そのいくつかをこの「くるくる」で取り上げてみたい。『エースをねらえ!』の最終回は? 『シティハンター』は? 『男どアホウ!甲子園』は? ←このへんを取り上げるとは限らない。念のため。

 最終回を求めて記憶と本棚をさすらう旅は,ときに思いがけなく苦い出会いを生むだろう。
 たとえばあなたは,♪苦しくったって……の浦野千賀子『アタックNo.1』の主人公,鮎原こずえが,子宮付属器炎で子供の生めない体になったこと,ボーイフレンドの一ノ瀬努クンを交通事故で失ったことをご存知だろうか?

2000/09/11

『奥さま進化論』に見る秋月りす進化論

56【43歳で奈良県在住で】

 モーニング連載『OL進化論』で知られる秋月りすは,月々,いったいいくつくらい4コママンガを描いているのだろう? これまで発刊された単行本は,現在うちの本棚にある限りでは以下のとおり。

  『奥さま進化論』1巻
  『OL進化論』16巻
  『奥さまはインテリアデザイナー』1巻
  『あねさんBEAT! ミドリさん』2巻
  『かしましハウス』5巻
  『OLちんたらポンちゃん』1巻

 「女性自身」掲載の『ポンちゃん』までそろえているのが,我ながらシブい。

 さて,これらのうちいくつかは現在も連載継続中だし,単行本化されていない作品には朝日新聞土曜日夕刊掲載の『どーでもいいけど』,さらには小説現代増刊メフィスト掲載『中間管理職刑事』なんてものまである。
 ざっと数えてみたところ,少なく見積もっても毎月50本を下回ることはなさそうだ。これはすごい数だと思う。なにしろ,作品の舞台は普通の会社と普通の家庭だけで,図抜けて奇抜な設定のキャラクターはいない(社長,社長秘書といった少数派の登場人物すら,最近はめったに登場しなくなった)。ごく普通のちょっととぼけたOLや主婦,その家族が言いそうなこと,やってしまいそうなことだけで10年以上にわたり4コマギャグを毎月50本描き続ける……この作業の大変さは想像を絶する。

 その安定した制作ペースを支えているものの1つが,彼女のゆったり安定したペンタッチだ。OL,主婦など,いちおう人物は髪型などで描きわけられているが,目もとのタッチやそら豆型の顔の輪郭はこの10年間,ほとんど変わっていない。

 ふと気になって,デビュー作品『奥さま進化論』を調べてみた。
 添付画像の上が初掲載時(88年モーニングパーティー増刊19号),下が最終回(89年モーニング17号)のものである。初掲載時は現在の作風に比べて明らかにキャラの輪郭が荒いが,最終回の表情は近作とほとんど違いがない。つまり,このタッチはデビュー作品を描いている間に仕上がったものであり,その後はそれを変える必要がなかったということだ。

 「進化」とは,生物がそれまでの形態を捨て,なんらかの新しい形態を得ることである。『~進化論』というタイトルとは裏腹に,秋月りすは早い段階で進化を終え,そこで安定再生産に入ったということがこの添付画像からはうかがえる。その意味では,「平成のサザエさん」という呼称は,それなりに紆余曲折のある『ちびまる子ちゃん』より『OL進化論』のほうが似つかわしいのかもしれない。
 もっとも,うっかり秋月りすが進化してしまい,いしいひさいちや相原コージや吉田戦車や須賀原洋行ややくみつる(はた山ハッチ)や業田良家や中川いさみのようになってしまっても,それはそれで困ってしまうのだが。

『ちびまる子ちゃん』 さくらももこ / 集英社(りぼんマスコットコミックス )

Nimg1132【まる子とグレゴリウス暦の謎】

 『ちびまる子ちゃん』の連載が始まったのは,1986年の「りぼん」8月号。

 連載は,1学期が終わり,工作で作ったヘンな人形や観察用のヘチマを持ち帰る小学3年生のまる子の姿から始まります。7月下旬のお話ですね。
 作者自らがのちに「サザエさんをお手本に」「まるちゃんはずっと3年生だよ」と書いているように,まる子はそれから14年経った今週日曜日のアニメでも小学3年生のまま。では,まる子が小学3年生の無限ループで生きたのは,いったいいつのことだったのでしょう。
 実は,単行本の1冊めの後半に,その答えは明記されています。連載8回めでは,せっかくまる子がマラソン大会で10位に入賞したのに,この年昭和50(1975)年は石油ショックのあおりで紙の値段が高騰し,8・9・10位の生徒は賞状がもらえなかった,という逸話が書かれているのです(石油ショックそのものは,1973年10月の第4次中東戦争がきっかけ)。これが2月のことらしいので,まる子は1974年から1975年にかけて小学3年生だった,ということになります。

 ところが,ちびまる子がこれほど人気マンガになるとは作者も予想してなかったのでしょう,そのあたりにはちょっとした矛盾があります。連載第2回めでまる子は8月31日になっても夏休みの宿題が片付いていないことに苦慮するのですが,
 「わたしの日記帳は8月3日で時がとまっている……」
と開かれた絵日記は「8月3日(水) 天気はれ」。むむ? 調べた限りでは1970年代の8月3日は
  1970年 月
  1971年 火
  1972年 木 *
  1973年 金
  1974年 土
  1975年 日
  1976年 火 *
  1977年 水
  1978年 木
  1979年 金
で(*印はうるう年),水曜日なのは1977年だけ。しかも,連載5回めでは,町内のクリスマス会が12月23日の水曜日に開かれたことになっています。カレンダーをめくってみればわかりますが,8月3日と12月23日が同じ曜日になることは現在の暦では絶対にありません。

 なんてね。こういう重箱の隅つつきして楽しいマンガというわけではないですね。
「ヘチマかぁ。自分もヘチマ水って瓶に集めたなあ。美容に効くって,誰が使ったっけか?」
とか,
「ちびまる子ちゃんに出てきた『笑いぶくろ』って覚えてる?」
「覚えてる覚えてる。アメリカン・クラッカー,シーモンキー,水中モーターなんかと並ぶ定番でしょう。あの笑い声って,キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』ってアルバムのイージー・マネーに効果音として使われてるんだよね」
って言ってたりするほうがそりゃ楽しいものね。

2000/09/10

『インターネット事件簿』 別冊宝島編集部 / 宝島社(宝島社文庫)

Nimg1118【転ばぬ先の川流れ】

 東芝告発事件,レイプ共謀,アングラ販売,個人情報流出,マルチ商法,コンピュータウイルス,アダルト配信,音楽データ配信。本書はこれら,インターネットを舞台に最近話題になったさまざまな事件,トラブルをアットランダムに紹介したもの。
 宝島社には申し訳ないが,正直言って期待したほどの内容ではなかった。なにしろテーマが多岐にわたり,1つの事件にせいぜい数ページ程度しか割けていないのだ。
 たとえば東芝告発事件など,実際のサイトや雑誌の記事を時系列にウォッチしてないと,本書だけではとても全貌や雰囲気はつかめないだろう。また,トラブル現場のURLが細かく掲載されているわけでもないため,実際にインターネットにアクセスしている者にとっての資料性も薄い(もちろん,現場を自力で探せないレベルの者にトラブル現場や地下ゲームのURLを教えるくらい危険なことはないのだが)。

 しかし,インターネットで起こった,あるいはこの先起こり得るトラブルに詳しいと言う自信のある方を除き(*1),本書,あるいは類書を最低でも1冊読んでおくことは,強くお奨めしたい。
 子供が,飴玉をくれるからと見知らぬ大人についていったらどうなるか。炎天下,生モノを拾い食いしたらどうなるか。酒に強くもないのに,ミニスカートにタンクトップの小娘が三次会までついていったらどうなるか(*2)。老人が,訪問販売の甘口に金の地金を買ったらどうなるか。
 実社会でのこれらオマヌケが,ネット世界ではどのような形で展開するのか,せめてその気配,パターンを知っておくこと,そして自分だってオマヌケな地雷を踏む可能性があると言う覚悟をしておくことは,決して無意味ではない。

 ちなみに,SOHO(*3)について相談を受けている知人によれば,どんなに忠告しても,「自宅で月3万の仕事ができる,そのためにこの70万円のパソコンと教材のセットを購入」にだまされる者は後を絶たないのだそうだ。そんな連中は本書を読んでも無駄,騙されるときには騙されるのだろう。それは決してインターネットのせいではない。

 もう一点,念のため。
 本書にも再三明記してあるが,インターネット上での匿名性を過信するのは禁物だ。なんらかの被害を受けたとき,あるいは逆に法を犯したとき,いくら当人が匿名のつもりでいても,請求書と逮捕状だけは無事に届く。俗に言う後悔後の祭りである。

*1……よほど特殊なスキルを持ち合わせ,なおかつ勉強熱心な一部のベテランか,あるいはただの思い上がり野郎だろう。前者なら釈迦に説法だし,後者ならつける薬はない。本書を買っても金と時間の無駄,ヘタすれば過信に上塗りするだけ,周囲の迷惑かもしれない(ちなみにこの烏丸,どこに薬をつければよいかわからないほど何もわかっていない)。

*2……もちろんお嬢さんのほうでなく,相手をする男についての話。若気のイタリー,因果欧州。ちなみにこの烏丸,いやその。

*3……スモールオフィス,ホームオフィス。小規模オフィスや家庭で仕事をする個人事業のこと。

2000/09/09

『ガラス玉』 岡田史子/朝日ソノラマ(サンコミックス)

Nimg1105【意味の病と戦う】

 昔,池袋場末のジャズスナックで,文芸座帰りの興奮のままタルコフスキーか何かを評するのに「哲学的」と口にしたところ,大学で哲学を教えている人物から「自分に理解できないものを,軽々しく『哲学的』などと言うべきでない。それは哲学という作業から最も遠い姿勢だ」とたしなめられたことがある。おっしゃる通り。
 しかし,シュールという形容詞がシュルレアリスムと無縁なように,説明がつかないながらなにか重みのこもった作品をつい「哲学的」と評してしまうのも,まぁ,ままあることだ。
 要するに岡田史子は「シュール」で「哲学的」で,比類ないのである。

 岡田史子は,1967年に投稿者として「COM」に登場し,その強烈な絵柄,大胆な言葉遣いで伝説となった。ストーリーマンガとは言い難い作品の粗筋を取り上げても仕方ないが,いくつか簡単に紹介してみよう。

  両親がいまわのときに渡してくれたガラス玉をなくしてしまったレド・アール。彼の家に彼の死体が現れる。このまま半分死んでいるよりはと,彼は恋人リーベの制止をふりきってガラス玉をつくれるというアトラクシアに向かう。(ガラス玉)

  ママンと妹アベローネの死の際に脂肪くさい黄色いけむりを見たエドワルドは,パリの美術学校に進み,悲惨な乞食の姿だのショウフだの腐ったもののにおうような街の絵だのばかり描く。彼を想うソフィやエレンも救いにはならず,彼は家にこもって描き続ける。(赤い蔦草)

  ある日小耳にした「きのうのにおい」という言葉に,「ぼく」は昔読んだ絵本のことを思い出す。その絵本を見つけてくれた姉が首を吊って死んだことを思い出す。猫を死なせたことを思い出す。その猫の名前がママであること,姉が自分をママを二度殺したと責めたこと,自分の火遊びがママを死なせたことを思い出す。(私の絵本)

  墓地へゆく道には,刈りとった稲の陰でくすくす笑う女,叫ぶ髪の長い女,すみれを踏みにじって少年に指をかじらせている女,陽だまりにうずくまって汽車にひかれる夢をみている少女がいる。そして真冬の墓地には。(墓地へゆく道)

  気の狂った姉は発作を起こしてイリアーの目を刺し,病院に入れられる。迷ったあげく彼を訪ねた画家のエバは,今日は日曜日よと告げる。(ホリディ)

 ……これらが,「一作描いたら,その絵柄にあきてしまうから」と,あるときはマンガらしいクリアな描線,あるときはムンクを強く意識した影の多いコマ,あるいはポップでリアルなタッチで描かれる。一見「幻想的」という言葉が似合いそうだが,実は語り手が幻想を見るという状況があるだけで,作品世界が幻想に流れているわけではない。

 岡田史子を読むには,古書街で「COM」を手に入れるか(以前は全巻で20万円くらいだった),単行本を探すしかない。単行本は『ガラス玉』のほか,同じ朝日ソノラマからの『ほんのすこしの水』『ダンス・パーティー』,NTT出版の『岡田史子作品集vol.1 赤い蔓草』『vol.2 ほんのすこしの水』,この5冊だけだ。しかも『ダンス・パーティー』は10年ほどの沈黙の後,マンガ少年等に掲載されたものが中心で,かつての緊張感は見る影もない。

 ところで,朝日ソノラマの単行本『ガラス玉』は,表紙カバーの次の一節でも知られている。

  極寒の地北海道で,あふれる想像力と,とぎすまされた感受性を武器に,「意味の病」と必死に戦った表現者岡田史子。(中略)彼女の苦闘と挫折の軌跡である。

 さらに巻末の萩尾望都の解説は,以下のように書かれて閉じる。

  北海道は少なくともひとりの天才を,雪の中にかかえているのだ。

『胡桃の中の世界』 澁澤龍彦 / 河出書房新社(河出文庫)

Nimg1087【役に立たない知識はなんてカッコいいのだろう】

 出口裕弘によれば,当時の澁澤の作業はよくもあしくもフランス語の文献からの「コラージュ」だったという。確かにその通りで,彼の業績の多くは古今の文献からさまざまなイメージの宝石を切り取って羅列したことであり,翻訳者としてブルトンやサドを紹介した行為も,その延長に過ぎないのかもしれない(*1)。
 だが,この種のフレーバーに引き寄せられる傾向のある者にとって,澁澤のコラージュはネコにマタタビ,オタクにアニメビデオである。なにしろ黒魔術に錬金術,毒薬にエロティシズム。石の中に宇宙があって,ホムルンクスは白目を剥き,薔薇十字は時を越えて秘密をひさぐのである。ごろにゃんにゃん。

 そんな澁澤作品の中で,この烏丸のお気に入りは,エッセイ13作品をまとめた『胡桃の中の世界』だ。
 たとえば,その中の一編「宇宙卵について」では,澁澤はまずピエロ・デラ・フランチェスカの聖母子の頭上に描かれた駝鳥の卵が処女懐胎のシンボルであることに着目し,卵から宇宙が発生するという世界各地の神話に思いを馳せ,さらには錬金術において「賢者の石」を精製する容器たる「哲学の卵」について詳解する。まさしく「うっとりだな」((C)晴明)。

 正直に言おう,この烏丸,『胡桃の中の世界』が発刊された当時はこれらにいかなる意味があるのやら,ちっともわからなかった。今だって「わかる」などと言うつもりはない。しかし,病気の正体を知らなくともハシカには罹る。ひとたびその香味を知ってしまったなら,彼の作品のみならずシュルレアリスムや黒魔術の文献求めて東西駆けめぐったのはいつの日か。

 無論,澁澤が列挙する知識が何かの役に立つかと問われれば,大概において否と答えるほかない。しかし,役に立たない知識は,逆にいえば純粋培養された読書の,ピュアな快感を呼ぶ。のちにオウム・サリン事件に結びついたオカルトブームは,一見近しい話題を扱いながら,勘違いや思い込みの強さにおいて,澁澤のサングラスの奥のダンディーな眼差しとは無縁だ。
 何言ってるんだかさっぱりわからない? 実は,書き手もよくわかっていないのである。

*1……澁澤が翻訳したサド『悪徳の栄え 続』が猥褻罪で摘発されたのは1959(昭和34)年。三島由紀夫,遠藤周作,埴谷雄高,吉行淳之介らを証人とするなど「猥褻」の定義をめぐって文壇,社会を巻き込んだ後,十年後の1969年有罪判決。フランス書院文庫やマドンナメイトが発禁にならず,逆にインターネット上のJPEGファイルに性器が見えた見えないで摘発が完結する昨今を思うと隔世の感あり。

2000/09/08

『もの食う人びと』 辺見 庸 / 角川書店(角川文庫)

Nimg1076【食らう】

 検死だの解剖だの,烏丸ってばまったく。また少し,気分変えよう。

 『もの食う人びと』は,共同通信社の特派員だった著者が世界中の紛争地帯,飢餓地域を訪ね,ひたすら現地人とともに食って食って食らいまくるルポルタージュ。
 ダッカでの残飯を皮切りに,ベトナムのフォー,ベルリンの刑務所,ポーランドの炭坑,クロアチアの戦火の下の食事,ソマリアの炎熱,ウガンダのエイズ禍,チェルノブイリの放射能汚染スープ,自殺を図った慰安婦たちとの饗宴……。

 走り,笑い,眠り,座り,泣くことと同様に,食べることは生きることだ。人は,バットで殴られれば死に,サリンを吸えば死に,食べられなくなると死ぬ。それだけのことがわからなくなってしまったこの国では,「生きるために食べる」たったそれだけのことを確認するのに,このような書物が書かれないといけないのだ。
 なんてこった。

『法医学教室の午後』 西丸與一 / 朝日新聞社(朝日文庫) ほか

Nimg1075【まだまだ,死体がいっぱい】

 もちろん,中公文庫以外にも,魅力的な法医学本はある。

◇『法医学教室の午後』
◇『続 法医学教室の午後』
◇『法医学教室との別れ』
 西丸與一,朝日新聞社(朝日文庫)

 本文1ページ目が「夜にはいると,雨は少しおさまり,霧が出始めた。白っぽい幕が,静かに流れ動く。」で始まるように,エッセイ,ドラマ色が強く,その分,法医学の学術書,啓蒙書としての色合いは薄い(3冊目の『別れ』はとくにウェット)。死体の状態から死因を究明する,といった記述もなくはないが,大学内での法医学のあり方,残された遺族の言動に比重を置く点に他の法医学本にない特徴が見られる。
 なお,1985年には本作を題材とした2時間ドラマが日本テレビ系で放映され,その後の法医学ドラマの端緒となった。監督は大森一樹,出演:菅原文太,紺野美沙子,寺尾聰,大江千里ほか。翌年には続編『法医学教室の長い1日』も放映されている。

◇『死体は生きている』
◇『死体は知っている』
◇『死体検死医』
 上野正彦,角川書店(角川文庫)

 著者は東京都監察医務院院長を1989年に退任後,法医学評論家として活躍中。ゲーテの臨終時の言葉を取り上げたり,死と魂について述べたりするなど,同じ法医学を扱いつつも,これまで挙げた他の本に比べるとかなり情緒に流れる傾向あり。その分,読み物としては読みやすいかもしれない。
 本書を原作とするドラマ『助教授一色麗子 法医学教室の女』が,日本テレビ系で1991年の夏から秋にかけて放映されている(全10回)。出演は篠ひろ子,山下真司,大鶴義丹ほか。

◇『死体の証言―死者が語る隠されたドラマ』
 上野正彦・山村正夫,光文社(光文社文庫)

 推理作家・山村正夫との対談。対談集の限界か,やや漫然とした印象。

◇『死体を語ろう』
 上野正彦,角川書店(角川文庫)

 永六輔,阿刀田高,ひろさちや,桂文珍,山本晋也,前田あんぬら10人と死体をテーマに対談。上野はすでに著書も多く,同じ内容を繰り返しがちなので,彼が聞き手に回る対談のほうが面白い。とくに「胎盤を食べてみたい」と吼える内田春菊,淡々と「江戸の海,川は死体だらけだった」と資料を語る氏家幹人との対談はテイスティ。

◇『死にかたがわからない 法医学者の検死メモ』
 柳田純一,集英社(集英社文庫)

 法医学者,東京都監察医として10000体以上の異状死体を解剖検案したという筆者による随想。ともかく「なんとも忙しい仕事」の印象が強い。他の法医学本に比べると,実際の司法解剖作業や死体各部の形状に触れるところがかなりあり,食事中の読書はお奨めしかねる。
 法医学を扱ったテレビドラマに一言あったり,某推理小説作家からの質問電話に答えるくだりがあるあたりが当世風か。

◇『検死解剖』
 トーマス・野口 著,田中 靖 訳,講談社(講談社+α文庫)

 マリリン・モンロー、ロバート・ケネディら著名人の解剖を手がけた米国の名検死官による法医学の実態。プレスリー,サル・ミネオら著名人の死が扱われていること,ヒットラーやナポレオンの死,切り裂きジャックの正体など歴史的考察にページが割かれていること以上に印象的なのは,陪審国家アメリカでは,複数の検死官による判断が裁判の議論の材料になること。正義の国アメリカでは,「真実」もバトルでもぎとるものなのである。

 以上,ざっとではあるが法医学関係の本を何点か紹介した。ミステリやサスペンスのリアリティ欠如に食傷気味な午後にはお奨めである。

『法医学のミステリー』 渡辺 孚 / 中央公論新社(中公文庫) ほか

Nimg1072【さらに,死体がいっぱい】

 引き続き烏丸の本棚から,比較的手に入りやすい法医学関係の書物を何冊か簡単に紹介してみよう。

◇『法医学ノート』
 古畑種基,中央公論新社(中公文庫)

 著者は血液型分類研究の世界的権威。ただ,血液型についてはその後さまざまなメディアで紹介されてきたためか,本書では第一章「毒および毒殺物語」における古今東西の毒についての記述,第三章「裁判と法医学」内の絞首刑についての考察がとくに印象に残る。近いうちに夫あるいは妻に毒を盛りたい,そんな予定のある方には,目を通しておくことを強くお奨めしておきたい。
 以下に紹介する各書に比べると,内容に学術書的色彩やや強し。読みにくいというわけではないが。

◇『法医学のミステリー』
 渡辺 孚,中央公論新社(中公文庫)

 お奨めの1冊。著者は警察庁科学警察研究所の初代科学捜査部長として,白鳥事件,秋田山荘事件,梅田事件,八海事件の再度差し戻し審の最終鑑定など,数々の難事件を手がけた人物。
 その文章は,「理科系的」とでもいうか,平明かつ論理的で,検査に対しては予断を持たず,少しでも疑問の残る場合はとことん究明していく厳しい姿勢が感じられる。その「疑問」や「疑点」はときには警察組織や司法機関にまで向けられる。実に厳しい。
 だからこそ,たまに垣間見られる「自他殺の別に手を焼く場合があると,文句のひとつも言いたくなる。」といった心情の発露が心に染みるのかもしれない。

◇『完全犯罪と闘う ある検死官の記録』
 芹沢常行,中央公論新社(中公文庫)

 制度発足と同時に検死官となり,検死官室長を最後に退職するまでの18年間を警視庁検死官として活躍した著者の記録。
 「完全犯罪」と言う小説まがいのタイトルとは裏腹に,ここで取り上げられた犯罪の多くは市井の人々のやむにやまれぬ行いであり,現場に残されたホースやコップ,手拭から明らかになる事実は哀しい。

 まだまだ続くよ,法医学の旅。

『法医学の現場から』 須藤武雄 / 中央公論新社(中公文庫)

Nimg1068【現場の言葉】

 乱雑な仕事や生活を続けていると,自分の精神と肉体が微妙に噛み合わなくなってくることがある。カラー印刷でいえば,どれか1つ色の版がずれたような感じ。酒を飲んでも映画を見ても意識が上滑りし,目が冴えて眠るにも眠れない。

 そんな長い夜にぜひともお奨めしたいのが,中公文庫から何冊か発行されている法医学や警察・検察関係の随想録だ。
 そこには余計なデコレーションの施されない現場の声,それも一時の感情からでなく,何千,何万という現場での経験に裏打ちされた,確たる「事実」が淡々と積み重ねられている。死体や凶悪犯罪など,ある意味最も過激な話題を扱いながら,一字一句に事実を明らかにしていこうとする意志がこもり,それが読み手に,法医学についての啓蒙や犯罪・司法についての考察のみならず,強い鎮静作用をもたらすのである。

 『法医学の現場から』の著者須藤武雄は,大正6(1917)年,群馬県出身。警察庁科学警察研究所法医第一研究室長にして,毛髪医科学の権威。
 本書は,終戦後の30年間にわたり毛髪鑑識の仕事にたずさわった著者が,実際に起こった事件をもとに,科学的手法による物的証拠の検査についてまとめたもの。
 たとえば,「科学捜査の現場から」と題し,さまざまな科学的手法について紹介する前半の目次から,いくつか事件をひろってみよう。
   説教強盗の置きみやげ(指紋)
   化粧品セールス女性暴行殺人(血液型)
   人毛と獣毛の鑑別(毛髪)
   麻薬患者の白骨死体(スーパーインポーズ法)
   湖底の死体(復顔法)
   色魔の脅迫(声紋)
 続く「私の事件メモ」と題された後半では,著者が実際に毛髪鑑識にかかわった15の事件が詳しく紹介されている。
   陰毛に寄生する特殊なカビから,少女暴行殺人事件の犯人を特定する。
   熊を追った4人のハンターのうち1人が頭を撃ち抜かれる。脳の中に残されたフェルトの繊維から明らかになった弾丸の持ち主は……。
   暴行殺人の現場に残された毛髪の,刈られた時期,パーマネントの具合から明らかになった犯人。それは意外にも……。
   火事で焼け死んだと思われた老女は,火事の前にすでに殺されていた。凶器の手拭から発見された薄茶色の毛は,驚いたことに……。
   強姦殺人事件の現場に残されたたった1本の毛髪は,悪性の円形脱毛症を示していた。すると犯人は……。
 などなど,毛髪数本から思いがけない事実が次々に明らかになっていくさまはいっそ爽快でさえある。

 なお,そのほかの法医学関係のお奨め文庫については,次の書評に示す。……と,オチなしゴタク抜きの烏丸,シリアスモード75%であった。

2000/09/06

『中国てなもんや商社』 谷崎 光 / 文藝春秋社(文春文庫)

Nimg1043【没問題(メイウェンティ)!】

 同じアジア本でもこちらは大当たり(「旅」「紀行」モノではないが)。
 女子学生就職困難の折り,普通の会社に普通のOLのつもりで就職したら,それが中国相手の貿易商社。対中国の折衝を担当したら,首の入らないTシャツ,手の入らないポケット,ボタンより小さいボタンホール,開かぬ傘,濡れたら色落ちするトレーナー,ヤモリが丸ごと入ったジャム。次から次へとトラブルの連発。クレームつけても中国側は馬耳東風。没問題,没問題で絶対に謝罪などしない。言い訳につまると日本側の落ち度探し,さらにつまると天変地異。なにしろ工場がいきなり竜巻で吹っ飛んでしまったとFAXよこし,証拠に送ってきた新聞記事を見ればそれは遠い別の地方の竜巻というのだ。
 そんな会社で作者はひたすら上司に鍛えられ,同僚にいじめられ,中国側の担当者に責められる。トラブル,トラブル,トラブル。会話が通じない。製品が届かない。届いたら使えない。
 だけど,そうした泥沼のような仕事を繰り返すうちに,作者は少しずつ会社と仕事に慣れていく。中国人と心を交わすことに慣れていく。そうして読者にも見えてくる中国人たちのなんとも言えぬ豊かな素顔。もちろん慣れたからといってトラブルが減るわけではない。ただ,通り一遍の旅でその国のことをあだこだ言う本と違うのはここから先。
 つまり,それだけひどい目にあって,それでも好きになったのなら,本当にその仕事が好きなのだ。中国が,中国の人々が,本当に本当に好きなのだ。

 良い本については多くを語る必要なし。読むと元気が出,最後はほろりと泣ける。OLの皆さまにももちろんお奨め。
 ただし。
 これから中国とビジネス始める人は,ねえ。とりあえず,勇気と覚悟と強壮ドリンク片手にどうぞ。

『OLときどきネパール人』 瀬尾里枝 / 光文社(知恵の森文庫)

Nimg1041_2【はずれ】

 インドの北,チベットとの境界にあり,エベレストをはじめとするヒマラヤ山脈で知られる高地の立憲君主国ネパール。首都はカトマンズ。
 本書は東京で勤めるOLが何度かこのネパールを訪ね,知り合った人々との交流をまとめたもの。食文化,身分制度,観光名所などについても紹介されている。

 それにしても,「ときどきネパール人」というタイトル表現はどうか。たとえば東京出身者が京都の大学に進学し,京都の企業に勤めたとして,それを京都人と言うだろうか。まして旅行者では。
 たかが旅のエッセイ本のタイトルに,そんなむきにならなくとも,と笑われるかもしれない。それでもこだわってしまうのは,こういう本では訪れた先との「タッチ」がものを言うからだ。旅の一期一会を楽しむのか,その土地にどっぷりひたって生活するのではずいぶん違うはず。著者のネパールに対する姿勢は,どうも日本人だからと免除されていることに無頓着で,かすかな苛立ちを抑えきれない。

 ところで,ご存知の方も多いと思うが,数年前の東電OL殺人事件の容疑者は最近多いという不法就労のネパール人だった。これが『OLときどきネパール人』に語られたネパールの情報やイメージにそぐわない。要するに,この著者のネパール体験は,比較的裕福な知人グループに密着するだけに,非常に狭いのではないか。インターネットでネパール紀行をざっとあたってみたが,『OLときどきネパール人』が本流という印象は得られなかった。瀬尾里枝はどこに行ってもこういう本を書く,それだけのことなのかもしれない。

 もう1つ,ネパールについて。ミュージシャン谷山浩子が,以前ネパールの高地でコンサートを開いたのをご存知だろうか。バスに揺られて危なっかしい崖っぷちの道をスタッフ一同登ったそうなのだが,これまた違和感が強い。上海とか香港,台北ならわからんでもないが,なぜにネパール。金銀ネパールプレゼント。だめ。思考がぜんぜん進まない。

『不思議の国の悪意』 ルーファス・キング 押田由起 訳 / 東京創元社(創元推理文庫)

Nimg1031【117番目の悪意】

 少し気分を変えよう。
 不勉強にして詳しくは知らないが,エラリー・クイーンの仕事に「クイーンの定員」というものがあるらしい。クイーンお得意のアンソロジーとも,ちょっと違う。
 要するに,推理小説の元祖と言われるエドガー・アラン・ポオの『Tales』(1845年)からハリー・ケメルマンの『九マイルは遠すぎる』まで,このジャンルにおいて重要とみなされる125の短編集を年代順に選び,推理小説史を語った,というものだそうな。

 ここでご紹介する『不思議の国の悪意』(1958年)は,その「クイーンの定員」の117番目に選ばれた短編集。原題の"Malice in Wonderland"はもちろん,クイーンがキングを選んだという点でもなかなかシャレが効いている。
 収録作品の多くは,フロリダの保養・観光地を舞台に,ある程度の財産を持った人々が悪意や欲望にかられたとき……というもの。ハウダニット,フーダニットが主眼の本格推理,ではなく,なぜ事件が起きたか,いかにそれが発覚したか,という人間ドラマのほうが主体。早い話が,地名を日本の観光地に変えれば,それだけで9時からの2時間サスペンスドラマはお任せ,そんな感じ。なかなか小気味よく仕上がった個々の作品にはほどほどの謎,意外でシニカルなエンディングが用意され,いずれも楽しく読むことができる。
 ただ……さすがにポオと並び称され,と言われたら小首を傾げざるを得ない。そもそも,元祖にして様式を固めてしまったポオと誰かを比較するというのが無理な話なんだが。

 もう一点。これは全く慣れの問題とは思うが,翻訳物を普段あまり読んでないと,たまに手にしたとき,そのオイルとケチャップに胃袋が驚くということはある。たとえば次のような表現だ。
 「ヘイヴァーメイは初期ニューイングランド人の良心の乏しい残骸と格闘した。かつては基本たる美徳といやしからぬ人品という産物を生む,みごとなばかりの畑だった良心と。」
 などなど。

『レディ・プラスティック』 深谷陽/講談社(ミスターマガジンKC)

Nimg1029【……美映が 戻って来る】

「匣の中にぴったり入っている綺麗な娘とはまた」
「酷くうらやましいよねえ」
 失礼,これは某氏による『魍魎の匣』評の一節であった。こちらは,匣の中でなく,プラスティックで出来ていて,自在に目の色や表情を変えることが出来る綺麗な娘の話である。
「それはまた」
「やっぱりちょっとうらやましいよねえ」

 しつこく引っ張ってきた深谷陽だが,古巣講談社に戻り,今年3月に単行本が発売された『レディ・プラスティック』では,ようやく彼のマンガ家になる以前の職業が明らかになる。なんとそれは,ゴムやプラスティックを駆使して贋の人体を作る,映画の「特殊メイク」だった。
 『レディ・プラスティック』の単行本の表紙カバーでも,彼の作った顔型の写真が使われている。女優の顔に型取り剤を塗り,その上から石膏包帯(ギプスと同じ素材)を貼る。固まったところで顔から型をはずし,それに石膏を流し込んで「オリジナル」を作る。その細部を修正してシリコン型を起こし……等々の手順を踏んでできたFRPやウレタンの顔型に,化粧,ヘアウィッグ,目玉,表情を出す装置などを加え……。
 アマリア,ミス・アン,ユリアティ,ユキコをはじめとする彼の「美人」たちが,なぜああも,鼻スジや口もとのシワのデフォルメされない,上下の睫毛までくどい顔つきをしていたのか,少しわかったような気がする。深谷陽にとって,女の笑顔は,睫毛や頬の筋肉の動きとセットでなければならなかった,多分そういうことだ。

 『レディ・プラスティック』の舞台は珍しく日本,東京。主人公は「特殊メイク」担当のアツシ,28歳。撮影で知り合った女優のリナの顔型(オリジナル)からウレタンでライフマスクを抜こうとしたとき,そこから出来上がったのは型の本人とは全く別の顔だった。そして,その顔をめぐって,世界の赤木監督のいわくつきの映画「森の瞳」が動き始める……。
 ストーリーは重厚で,スケッチ風の短く細い線を織り重ねて描くタッチは安定感がある。しかし,主演女優の死によって製作中止になった映画,その女優そっくりの人形,ホルマリン漬けの眼球と,道具はそろっているのに震えるほど怖い印象はない。読む方がこの手の設定,映像にスレてしまったせいか。いや,問題は,これでもかこれでもかと起こる事件が「誰にとって怖いのか」,それが散漫なせいではないか。そもそも,全編を通して最も言動がリアルに見えるのが,脇役に過ぎない杉田(リナのマネージャー)というのでは弱い。モダンホラーとしても,恋愛ドラマとしても,残念ながらこうしてみると不完全燃焼としか言いようがない。

 しかし,それでも,深谷陽の引き出しは面白い。
 今のところ,バリ島での生活,「特殊メイク」としての経験という作者のリアルにおぶさったかっこうだが,それを越えられる構成力があることも『運び屋ケン』では立証済みだ。出版社を変えたり雑誌が変わったり,不安定,マイナーな印象が強いが,もう一化けして,新たな系統樹の幹となってほしいとこの烏丸,勝手に期待しているのだが……。

2000/09/05

『運び屋ケン』(全4巻) 深谷陽 / 集英社(SCオールマン)

Nimg1018【うめーな おいっ】

 講談社モーニングから,集英社のマンガオールマンに移って単行本4冊分の連載。オールマンは北条司『ファミリー・コンポ』,御厨さと美『ルサルカは還らない』など,いいスライダーは持っているんだが内角ストレートと落ちる球がなくて勝てないサイドスローのピッチャーみたいな雑誌。学生時代の同級生が編集にかんでるはずだが,そのへんどうよ,しーえーしゃのカシムラ。

 主人公ケンは貿易商,というよりは「武器と麻薬以外ならなんでも運ぶ」運び屋,29歳。舞台は台湾を皮切りにバリ,アフガニスタン,北京,カトマンドゥ,サイゴン,プノンペン,それからえーとどこだっけ,メキシコとかインドのバナラシとか。要するにアジアを中心にあちこち,行ったり来たり。
 『アキオ紀行』『アキオ無宿』と違う点は,もう殴る蹴る盗むハメる騙されるケツの穴にルビーを隠す,なんでもありのダーティーミッションインポッシブルであること。ケンは東京にオフィスを構える先輩のタカシからの連絡を受け,人や絨毯や仏像,宝石,グリーンアロワナなどを入手し,国境を越えて依頼主のところまで運ぶ。その途上,同業者や女ゲリラ,スラムの顔役などと,あるときは競い合い,あるときは共闘するのだが,往々にしてその仕事は苦い結果を招く。ことに,第4巻トルコの「ゲレネブ」をめぐる話は重すぎて「痛快アクションコミック」という範疇からはみ出し,それからしばらくして連載は終わってしまう。このへんどうなのよ,カシムラ。

 1つ1つの話は非常によく出来ていて重厚なのだが,いかんせん,モノクロの線画ではアジアのさまざまな地域を描き分けるのは難しかったのだろう。暑い国,寒い国,湿った土地,乾いた土地の違いが,少なくとも絵柄からはわかりにくい。「この作者にここまでアクションストーリーを描けるとは思えなかった」という驚きと,「この作者なら,こうしたアクション性は控えめにして,個々の話を引っ張り,その地域の食事や風習をじっくり描いてほしかった」という欲求とが入り乱れる。何人か登場するヒロインも,それぞれ役割が少しずつダブっており……。うん? これだけのシロモノに,何を贅沢言ってるんだ俺は。
 それにしても,いくら講談社からきた外様作家とはいえ,去年発売のコミックでもう品切れはないんじゃないか,どうなのよ,マンガオールマン。

2000/09/04

『アキオ無宿 ベトナム』 深谷陽 / 講談社(モーニングKC)

Nimg1008【君よ知るやアオザイの国】

 『アキオ紀行 バリ』から1年ほど経って掲載された続編。
 本職のよくわからない日本人青年アキオがバリ島に長期滞在していて,たまたま立ち寄ったサテワルン(串焼き食堂)の女性に恋をし──でも会話は通じない──プロポーズして,ところがそのアマリアには子供がいることがわかった──さりとて未亡人なのか未婚の母なのかもよくわからない──しかし自分としては! というあたりまでが前作。
 今度はそのアキオがベトナムを訪れて,食べて,バイクで走って,現地の女性と知り合い,やがてバリ島のアマリアのもとに戻り,ところが思いがけない怪我をしてバリ島から離れる,というところまでが本作。

 フォーボー,バインミー,ゴイクォン,チャーゾー,バインセオ,カフェスーダー,ケム,ホッビッロンなどの食べ物,飲み物の紹介をはじめ,シクロー(輪タク)ドライバーのオッくんをうまく配することで風光明媚アオザイ美少女添乗バイク的観光案内は前作以上に巧み。
 一方でメコンデルタやカンボジア国境など,重い風景や歴史も交え,さらには外国人による買春の実態やバッドでだらしない日本人青年像をそこそこ正直に描いて,その国の女性とレンアイカンケイに陥ることの意味と壁を切実に問う。まあ相手が年上の離婚子連れ女性なら,国内外を問わず内省的にならざるを得ないだろうが頑張れ青年。

 『アキオ紀行 バリ』にもちらっと登場した「若き貿易商」タカハシくんってのが,ベトナムでのアキオの旅の伴侶となり,生真面目さの抜けきらないアキオと対照的なノンシャランな言動でなかなか痛快。とか思っていたら,なんとこのタカハシくん,次作の『運び屋ケン』では堂々の主人公だ。

『アキオ紀行 バリ』 深谷陽 / 講談社(モーニングKC)

Nimg1002【ナシチャンプル,サテカンビン,ラワール】

 1995年のまだ寒い時期,というと,まだWindows95が発売されておらず,インターネットも今に比べればぜんぜんメジャーじゃなかったころ。そんなある日,モーニング誌上でこのマンガの連載が始まったときは,正直言ってなんだかよくわからなかった。

 マンガには,暗黙の了解というか,一種の約束ごとがある。視点を四角く線で囲まれたコマ割りで変えていくことや,普通のフキダシが実際に発音された言葉,ギザギザフキダシは叫び声,oO〇で語り手と結ばれたフキダシは心の中で考えたこと,といった具合。
 バリ島に長期滞在する日本人青年アキオの生活と恋を描くこの『アキオ紀行』は,その意味では立派に現代マンガの外見を整えてはいる。よくある海外旅行,滞在をテーマとしたコミックエッセイの類に比べれば,コマ割りは丁寧だし,バリ島の風習や食事をエッセイ風に描くのが主眼かと思いきや,ストーリーもニンゲンカンケイを綾なししっかり動いていく。……しかし,人物,とくに顔の描写がどうも違う。少なくとも,主人公が一目ボレするバリ島の美少女(?)アマリアは,従来のマンガの系統樹のどこにも類似品がない。というか,はっきり言ってゴムでできたオバサン仮面にしか見えない。アジア人の鼻をリアルに描こうとする傾向のためだとは思うのだが。

 これは,ありそうで,案外ないことなのだ。現在のマンガ家というのは,大半,誰か私淑するマンガ家のコピーからスタートし,その先の壁に当たったり破ったりする。だから,誰もが個性的でありながら,誰もが誰かとどこかで手法的に結びついている。アシスタントとして,より直接的な影響を受けることも少なくない。
 それなのに,この深谷陽は,そういった系譜のどこかに結びついているようには見えない。かといって,画学生の類が見様見真似で描いてみた,と想像するには,スクリーントーンをはじめ,マンガの表現技法に手慣れすぎている。

 とかなんとか思っているうちに,お話はどんどん進み,当初は違和感バリバリだった描線もまあこんなものかと慣れてくる。言葉の通じないアマリアとの恋は,やがて……。

 うーむ,単行本になって何度か読み返してみると,思った以上によく出来ている。トゥリマカシイ(ありがとう),スラマッ パギ(おはよー),マカン(食べる)とインドネシア語が身についたつもりになったり,主人公(アキオ)と作者(深谷陽)が全く同一人物と思い込んだりするのは読み手のカルハズミというものだが,それにしても本職不明のアキオは四捨五入すると30歳,「仮面専門の木彫り職人」イ・ワヤン・ムカが「アキオの師匠」。何者なのだ,深谷陽。

『KYO』 たかしげ宙 原作,皆川亮二 作画/小学館(少年サンデーコミックススペシャル)

Nimg1000【闇を 引き裂く 怪しい悲鳴】

 たかしげ宙原作,皆川亮二作画,要するに「スプリガン」のコンビニ寄る,じゃーなくてコンビによる(うう,ベタだ)推理短編集『KYO(キョウ)』ゲット。小学館,500円。

 30代半ばより上の方なら,タケダアワーで「ウルトラセブン」の次に放送された「怪奇大作戦」という番組をご記憶であろうか。「科学捜査研究所(S.R.I.)」という民間組織が警察の委託を受け,怪談めいた説明のつかない難事件に科学捜査と推理,起動力を働かせて立ち向かっていく,なかなかよくできた円谷プロの特撮ドラマだった。子供向きにしてはあまりにも暗く重いストーリー,映像。牧史郎役の岸田森の演技が異様にシブく,トータス号というS.R.I.の車がかわいいのもポイントだった。ちなみにこの烏丸,テーマソングのソノシートはもちろん,欠番扱い(LD-BOXも回収)になった第24話もビデオでおさえてある(問題は,アナログレコードプレイヤーが手元にないことと,βのプレイヤーがいつ動かなくなるかだが……)。
 さて,その往年の名作「怪奇大作戦」を狙ったとしか思えないコミック短編集が,この『KYO』である。主人公はIQ250(なぁんだ,烏丸のたった倍か)にして12歳で学位を3つ取っている天才少年・保科恭と,科学特捜課のお荷物刑事・久我山鏡。この2人が,次々と起こる怪事件,難事件に向かい,やがて久我山鏡の素性も少しずつ明らかになってくる……。
 『スプリガン』1~3巻あたりの「おおー,そうくるか! この手があったか!」ほどではないが,個々の犯罪がなかなかよく練られており,また,1巻で完結というのがいさぎよくてよろしい(同じ皆川の『ARMS』は長すぎてちょっと……)。

 ところで,この『KYO』,読み直して巻末の初出に驚いたのだが,なんと掲載誌は小学館の「小学六年生」! 今どきの御ガキ様ドモの読むモノはレベル高いのだなあ。をじさんにも見してくれい。

2000/09/03

『ナース』 山田正紀 / 角川春樹事務所(ハルキ・ホラー文庫)

Nimg1001【おちょくってはいけないもの】

 さて,500万部のベストセラーになった『おたんこナース』である。これは,ハムテル,二階堂らが活躍する『動物のお医者さん』で北大獣医学部の受験倍率を上げに上げたと言われる佐々木倫子が,看護婦経験をもとにしたエッセイ集で知られる小林光恵の原案を得て……おっかしいなあ。烏丸が買ったこの本,文字ばっかりで,コミックじゃないみたい。

 などという一人ボケはさておき,山田正紀『ナース』だ。

 まず,復活を果たした角川春樹に,おかえりなさいと言いたい。そうだよな。あのカドカワ映画のラインナップが,『REX』で幕ではサマにならない。そういえば,カドカワ映画のOPは,不死鳥,フェニックスのマークだった。さあ,またあの,「2回見る気にはならないが,1回見る分にはなかなか話題性に富む」作品と宣伝で,邦画界をにぎわしてほしい。詳しくは枕元に立つ信玄のお告げを待つべし。

 続いては,山田正紀。この人は,ヘンな作家。星,小松,筒井に続く世代の代表としてSF界に登場したときは,新人とは思えないストーリーテリングの巧みさと,小松作品を彷彿とさせるスケールの大きさで注目を集めたものだが,『神狩り』をはじめ,当時の代表作はいずれもなぜか日本SFのスタンダードとはならなかった。その後,冒険小説,コンゲーム,本格ミステリと,次々に挑戦し,その都度あっと驚くような作品をものするのだが,今ではそのいずれもが,忘れ去られている。「器用すぎるんだろうなぁ」,と烏丸はにらんでいるのだが。
 最近では幻冬舎文庫で手に入る『女囮捜査官』シリーズの全5巻(触覚・視覚・聴覚・嗅覚・味覚)が実によくできたミステリ・サスペンス作品としてお奨めだ。とくに4巻目『嗅覚』の二階堂黎人の解説が,なぜ新本格の連中が不快なのか,自分たちで証明してくれているという点でポイントが高い。必読ですわよ。

 さて,かんじんの『ナース』だが,おそらく,才能あふれる山田正紀,この220ページのホラーごとき,きっと一晩で書けたのだろうなあ。よくもあしくも,そういう出来である。
 カバーから,内容の一部を紹介しよう。「ジャンボ機が標高1000メートルを越す山中に墜落。日本赤十字の七人の看護婦たちが急遽現場へ向かうことになった。そこで見たものは……」
 もの書きには,通常,おちょくってはいけないものがある。15年前のあの事故や,赤十字,そして人間の死体というのが,多分それだ。しかし,山田正紀は平気。もうぶんぶん,「壮絶ノンストップホラーアクション」なのである。500人分が,ちぎれ,もぐれ,飛び,はね,ああもう! なのである。人間数百人分の死体をずたずたのぬちゃぬちゃにさばいたプールで泳ぐような話,とでもいえばよいか。

 SFやミステリには,こういうことはできない。どうしても,理屈に足をとられてしまう。だからホラーは面白い,という見方は可能だろうし,だからホラーはつまらないという言い方も,また,正しい。「それ」が何なのか,「それ」はどうしようとしたのか,どうやってナースたちは「それ」と対抗できたのか。答えなんかない。「いいじゃん」と笑う山田正紀の声が聞こえるような気がする。「ホラーなんだし」。

 ところで,烏丸はこの『ナース』を通勤の電車で読み終えた。電車を降り,家に向かいながら,自分がしきりに,早く帰って手を洗わねばと考えていることに気がつき,愕然とした。別に,何に触ったわけではない。
 そういう本なのだ。『ナース』。

『これが投手だ!』 別冊宝島編集部/宝島社(宝島社文庫)

【闇の昭和史伝】

「で,烏丸さん,次の1冊ですが」
「そうですな。これは1999年10月に宝島社から発行された『別冊宝島471号 大投手黄金伝説』の改訂版」
「ほう。黄金伝説。となると,金田,米田,稲尾,江夏,鈴木,山田,野茂……いや,楽しみですな」
「ところが,残念ながら前半は現役投手,上原(巨),石井(ヤ),黒木(ロ),斉藤(横),岩本(日)らが中心」
「やや。それでは,エースとして歴史に残るかどうかも当落線上の,ただの好投手陣ではありませんか」
「そう。最近は,先発なら『エース』,抑え役なら槙原でも『守護神』と。大バーゲンですな」
「なるほど,言葉が軽い」
「ですから,本書の場合,インタビュー内容も,まだ薄い壁を一度か二度乗り越えた程度の,若手の苦心譚に過ぎません。あるいは,後半の歴史上の名ピッチャーを扱った記事も,なにしろ書いたライターの側が若くて,実際にその投球を見てないで書いているのがもう明らか。たとえば大野豊を扱ってもあのフォームの躍動感には触れていないなど,内容的には記録とインタビューを無理に積め込んだごった煮に過ぎない」
「それでは興醒めと申しますか」
「そこで,ここでは,プロ野球に関わる,昭和史の秘話を少々ご紹介しよう」
「秘話。それは楽しみですが,いったい」
「うむ。1959(昭和34)年6月25日,巨人阪神11回戦。昭和天皇がただ一度プロ野球を観戦した,いわゆる天覧試合。昭和の英雄長島茂雄が阪神村山実からサヨナラホームランを打った,あの試合であります」
「手元の読売新聞,翌日の朝刊によれば,『両陛下ナイターご観戦 長島選手にニコニコ 五ホーマー-体を乗り出す』」
「ところが,この烏丸,この試合に重大な疑義がある」
「あのホームランはやっぱり,ファールだった,と」
「いや,そんな甘やかなものではない。昭和史の最暗部に属す,世にも恐ろしい陰謀です」
「陰謀,ですか」
「そう。話は少々飛ぶが,1989(昭和64)年1月,昭和天皇崩御」
「我々昭和人としては,天皇制の是非は別として,忘れられない出来事でありますが」
「その年,さる筋の指揮により,各界の主だった人物が昭和天皇の御供,つまり贄として暗殺された」
「なんと。それは穏やかでない」
「いやいや。昭和64年,すなわち平成元年に亡くなった顔ぶれを見てご覧。経済界からは松下幸之助,芸道から美空ひばり,漫画家では手塚治虫。いずれも昭和の時代を代表する人物ばかり。吉田茂や力道山,川端康成,湯川秀樹らはもう亡くなっておりましたし」
「おお」
「暗殺には,名前は出せませんが八瀬童子縁故のある人物があたった。相撲界からは大鵬,若乃花とどちらがという議論の末,少し遅れて栃錦清隆すなわち春日野理事長が翌1990年1月10日に亡くなって,大葬の礼に間に合わせている」
「うーむ。それは」
「しかし,ここで注目していただきたいのは,ではなぜプロ野球界から誰一人大物が選ばれなかったか。本来,昭和を代表する人物として,長島茂雄ほど御供にふさわしい人物はないはず」
「言われてみればその通りですが」
「いや,そもそも,昭和天皇が長島の天覧ホームランを本当に心からお喜びになられたのなら,なぜ天覧試合は二度と設けられなかったのか。警備が難しい,ということになっているが,相撲はあのようなオープンな場で何度もご覧になっているわけです」
「ふーむ」
「これらの事実は,すべてある1つの事実を指し示している」
「そ,それはいったい」
「昭和天皇は………実は熱烈な阪神ファンであったのです!」

2000/09/01

『Heaven?』 佐々木倫子 / 小学館(ビッグコミックス) 現在1巻

Nimg953_2【減塩30%】

 『おたんこナース』はなんと累計5000000部売れたのだそうだ。その上この5月から通常の単行本サイズで新装刊。いずれは小学館文庫にも収録されるだろう。よい商いであると認めること,やぶさかではない。
 それはともかく,この烏丸,ここ数年身内にホトケが頻発し,おまけに自らちょいと無粋な精密検査が相次いで,はっきり言って病院,看護婦モノで笑える気分ではなかった。従って,雑誌でぱらぱらとしか見ていない『おたんこナース』はパス。で,新作の『Heaven?(ヘブン)』である。

 舞台は「この世の果て(ロワン ディシー)」という名のレストラン。
 どの駅からも,繁華街からも,住宅街からも,利益からも遠く,なによりも理想のサービスから遠かった……しかし,この不景気の盛りにフレンチレストランが舞台と言われても困るが……まあ,影の薄い主人公・伊賀観をはじめ,登場人物たちも困っているようだからいいか。
 なぜ困るか。まず,先に紹介したようなロケーションである。しかも墓地の真っ只中。集められたシェフ,店長,ソムリエたちたるや……いや,そのあたりまで詳しく書いてしまっては興を削ぐことになろう。それよりトドメはオーナーである。漆原教授を若い女性にしたような。や。これも書きすぎてはまずい。

 ともかく,佐々木作品の場合,この第1巻前半のように加害者がはっきりしている話はまず間違いなく笑えてよろしい。漆原教授しかり,菱沼聖子しかり。
 もっとも烏丸が佐々木作品で最も好きなのは,加害者でなく,被害者がはっきりしている作品なのだが。たとえば『代名詞の迷宮』の山田の猫の買主であるとか……。

『縄文人は飲んべえだった』 岩田一平 / 朝日新聞社(朝日文庫)

Nimg947【ジョーモンの奇妙な冒険】

 このところ,コミックに偏りすぎたかもしれない。猿より深く反省し,少し違うジャンルの本を取り上げることにしよう。よっこらしょ。なに? 本棚の本かかえるのに声が出るようになったらもう年だ? ……ほっといてくれ。

 え,さて。
 インプリンティング(刷り込み)が起こるのは子ガモに限った話ではない。不肖この烏丸,いまだ地球の人口は36億人だし,1$は360円(だからトヨタパブリカはぴったり1000$)。イグサ日本一が岡山県なら007はショーン・コネリー。無論スリランカはセイロン,ミャンマーはビルマだし,邪馬台国は北九州にあって,縄文人は狩猟採集,コメなんて口にしたこともない,はずであった。
 ところが。近頃の縄文人は,どうもそうではないらしい。水田耕作こそしていないものの,コメを含む畑作に励み,食事は栄養的に優れ,ヤマブドウやサルナシを発酵させた酒まで飲むのだそうだ。しかも,弥生時代以降と違い,当時日本には下戸はいなかったというのである(*1)。

 岩田一平(*2)の『縄文人は飲んべえだった』は,バイオ,CGなどの最新テクノロジーが古代史研究を塗り変えていく,そのあたりの経緯を丁寧に教えてくれる。下戸(ALDH2不活性型)の遺伝子やイネの遺伝子の解析,コンピュータを活用した言語分析,水銀鉱脈の分布と邪馬台国の関係(*3),タコ壺漁の消滅からうかがえる気候の変化,あるいはクソ石にごく微量残っている脂肪酸から明らかになる食生活。これらの研究から,日本人のルーツ,古代人の食生活,日本国の推移が少しずつ明らかになっていく。読み手の古い常識が覆される楽しみと,明らかになっていない史実への尽きない興味。

 著者は,1つの説に固執するより,さまざまな説が入り混じった状態をよしとするタイプなのか,わからないことはわからないと率直に手を上げる。
 新刊の『珍説・奇説の邪馬台国』(講談社)でも,「魏志倭人伝」の表記だけでは邪馬台国の位置は特定できないと説き,70にもおよぶ邪馬台国候補地からジャワ島説,新潟説,山陰説,岡山説,四国山上説などかなりアクの強いものを取り上げ,現地を訪ね,あげく「奮起せよ,全国の邪馬台国」と呼びかける(*4)。
 つまり,社会派邪馬台国,ユーモア邪馬台国に対して新本格邪馬台国派が台頭,日常の謎邪馬台国,妖怪問答邪馬台国の一方,すべてが邪馬台国に……う,うざい。

*1……『孤独のグルメ』の井之頭五郎の先祖は,つまり弥生時代以降に大陸から渡ってきたことになる。

*2……「週刊朝日」副編集長。少し前のデキゴトロジー欄には,ゴキブリのフライを食べている氏の写真が掲載されていた。仕事とはいえ,同情を禁じえない。

*3……『縄文人は飲んべえだった』の次のような一説は,『陰陽師』の読者にも興味深いのではないか。「全国には,丹生(にう)という地名や丹生神社という名前の神社が数多く点在している。『丹生』は『丹を生ずる』という意味であり,古代に辰砂の採掘を行っていた名残と考えられる。(中略)中でも鉱脈の豊かな大和水銀鉱床にある和歌山県の丹生都比売(にうつひめ)神社には,丹生都比売のお使いのシカが,高野山の開祖の弘法大師空海を高野山に導いたという伝承がある。」

*4……鯨統一郎『邪馬台国はどこですか?』でも牽強付会ながら笑えないと紹介されている。意外にも(失礼),本格者より考古者のほうが懐が深いのか。

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