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2000/08/17

『テレビ消灯時間』 ナンシー関 / 文藝春秋(文春文庫)

Nimg882 【目は笑っていない】

 普段は無自覚に読み書きされていてつい失念してしまうが,実のところ「文体」というものは,読み手の喜怒哀楽や論理的思考を喚起(あるいは劣化)させるために存在するものである。そのために「文体」はたとえば揺れることによって読み手の感情や思考を揺さぶる。音韻や語調,倒置,反復といったテクニックの多くは,この「揺さぶり」の効果のために用いられる。
 たとえば「仕事を引き受ける午後の珈琲には,2つの味しかない。甘すぎるか,それほどでもないかだ」という文章は,読み手の内になんらかの感情,思考を喚起する。実は何も書いてないに等しいのだが。

 さて,消しゴム版画家にしてコラムニストという稀有な肩書きを持つのがナンシー関だ。僕は彼女を,当節最もチャーミングな物書きの1人として認識している。その理由は,テレビ番組批評家としての彼女が,極めて緻密で冷静な思索家であるからだ。
 たとえば,次のような文体。

  産声が「ねぇねぇ社長さん」だったという伝説もある。うそ。

  食いつなげる現実もすごいが,すごい男である。ほめちゃいな
  いが。

 彼女のコラムに再三登場するこのような「一人ボケ → 一人つっこみ」「断定 → 半疑問形」で読み手を揺さぶる文体は何を意味するのだろうか。落としてから持ち上げる。持ち上げてから,落とす。揺れるのはテレビ番組やタレントではない。読み手であり,ナンシー関当人なのだ。
 実は,彼女の作業とは赤いものを正しく「赤い」,丸いものを正確に「丸い」と表現することであり,それは本来正当な表現活動である。しかし,その対象たるテレビ番組は,最近ではゲストコメンテーターを並べ,画面下のテロップを連打して自らを「青い」「四角い」と評するワザさえ手にしている。相手はヌエのようにしたたかだ。その結果,ナンシー関は,たとえば

  タレントの価値と仕事量は反比例するという公式がある。ある,
  って私が作ったんだがな。  タレントの価値10なら仕事1で
  も「10」だが,価値が1なら仕事量10でなければ「10」になら
  ない(例・安室奈美恵×笑って手を振る=10,猿岩石×ユーラ
  シア大陸横断=10)。

といったような論理のサジまでふるってテレビ番組やタレントをさばく作業に追われる。それを単に「辛口」エッセイ,「毒舌」コラムと形容して済ませるのは愚かしいことだ。テレビ番組やタレントがその結果酷評されるなら,それは酷評される側に問題があるのだから。

 ちなみに我が家では,よほどの大事件でもなければテレビの電源は入らない。ワイドショーやバラエティ番組のレベルを云々する前に,テレビに反映される社会やそれを見ている自分を対象化する努力,誠実さを放棄してしまったと言ってよい。そんな僕にとって,

  私は中山秀征が嫌いである。何故嫌いなのか,嫌う私に問題が
  あるのか,中山秀征とは何なのか,とおそらく中山秀征のこと
  をこれほど真剣に考えた人間はいないだろうというくらい考え
  ている。

と書けるナンシー関は最高にチャーミングで知性の女神のような女性像であると言わざるを得ない。ほんとか。

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