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2000年8月の54件の記事

2000/08/31

アン・ドウ・トロワを排して 『アラベスク』 山岸凉子 / 白泉社

Nimg932 先の一ノ関圭『らんぷの下』書評にて,漫画を捨てることができたことについて,一ノ関が

 「その何かを描くために苦心惨憺するうちに,その主題がさらに深化し,あるいは変貌する,その過程を知らないということである。」

と述べた。あるいは

 「ある日巧い歌手の真似をしたら素晴らしく歌えてしまった歌姫にとって,歌を歌わないことには先に進めない切実さはあるだろうか。歌を歌えなくなることへの恐怖はあるだろうか。」

とも書いた。
 そうではない作者,作品の1つの例として,『アラベスク』を紹介しておきたい。

 『アラベスク』は山岸凉子デビュー2年目の連載であり,文字通り出世作といえる。山本鈴美香『エースをねらえ!!』と並ぶ少女漫画,スポーツ漫画の古典の1つであり,くだくだしい説明は省く。

 『アラベスク』では,それまでのバレエ漫画伝統の掛け声だった「アン・ドウ・トロワ」がついに一度も書かれなかったことを最初に指摘したのは飯田耕一郎である(「ユリイカ」臨時増刊「総特集少女マンガ」,青土社,1981年)。
 決して絵が巧いわけではなかった当時の山岸凉子は,どれだけ意識的だったかはともかく,「アン・ドウ・トロワ」という掛け声に代表されるバレエもの「っぽい」描写をすべて退け,主人公ノンナを描くにあたり,「アダージオ」「グラン・フェッテ・アン・トールナン」「ロワイヤル」「アチチュード」等々の厳密な用語,フォームをもってすることを自らに課した。それは結果的に,作者をして逃げ場のない本格的な表現者として漫画に向かわせ,『アラベスク』は連載当初には予想もできなかったあらゆる問題を内包しつつ,表現者ノンナと表現者山岸凉子を引き上げていくこととなる。

 たとえば,第1部におけるノンナの強力なライバル,天才少女ラーラは,たった一度の敗北に,ボリショイのプリマバレリーナという地位を捨ててしまう。

 「ほんとに悩み苦しんでそれこそ石にかじりつかんばかりにして地位を得たものはどんな障害があろうともその地位を決して捨てやしない」

 「彼女はいまの地位をとんとん拍子に手に入れた なにひとつ苦しむことなくそれこそ天才という名にふさわしくなんの困難もなくだ」

 そしてノンナの前に開かれたものは,

 「この道は永遠に良しということのない苦しみの道なのだが 扉を開いたからには進まなければならない」

 この言葉はそのまま表現者たる山岸凉子の宣言でもある。

 そして『アラベスク』は,あろうことか,通常のスポーツ漫画なら1幕の決着にあたるこの瞬間から,ある意味本当の物語,それも勝敗などという安直な結末では語りきれない物語をスタートさせる。そしてそれは若く健康な「女」性であるノンナの個と肉体の表現者であることの拮抗の上に止揚する,文字通りの(しかし苦々しい)成長物語なのだが,ここではその第2部について触れる余裕はない。

『らんぷの下』『茶箱広重』 一ノ関 圭 / 小学館(小学館文庫)

Nimg917 【二十九でこれだけの仕事です。実におしい…】(作中,美術商が青木繁の死を惜しんで曰く)

 この6,7月,一ノ関圭の代表作が文庫でも入手できるようになった。小学館文庫の『らんぷの下』『茶箱広重』の2冊である。

 実力派漫画家・一ノ関圭が登場したのは1975年。青木繁の存在に苦しむ売れない洋画家の苦悩を堂々たる筆致で描いた『らんぷの下』が第14回ビッグコミック賞を受賞。その後,黒田清輝率いる白馬会の裸体画モデルお百と,挫折して消えていった画家を描いた『裸のお百』をピークにいくつかの作品を発表するが,1986年の『ほっぺたの時間』を最後に漫画の新作はない。

 一ノ関圭作品の特徴は,第一に白土三平の影響を強く受けた骨太な表現力にある。そのダイナミックな筆致と確かなデッサン力は,漫画の歴史を俯瞰してもそう見受けられる水準でない。
 第ニに,『らんぷの下』『裸のお百』,さらに二代広重を描いた連載『茶箱広重』に見られる,江戸・明治期の画家の生活や風俗に対する資料の裏付け。江戸といえば『合葬』『百日紅』の杉浦日向子だが,一ノ関圭はさらに写実的な描線だけに,時代考証がさぞや大変だったろう。
 第三に,作品に登場する,しなやかな肉体と精神を併せ持つ,強い女の生き様。そしてその強さをもってしてもあがないきれぬ,時代と運命の壁。
 実際,ビッグゴールド誌に一挙100ページ掲載された『裸のお百』を見たときは,そのあまりの水準に鳥肌が立ったものだ。本作は切り抜いてカバーで覆い,20年経った今も大切に保存している。

 ではなぜそれほどの漫画家が,のちにペンを絶ってしまったのか。『らんぷの下』に寄せられた林望氏のエッセイ「三つの謎解き」に,思い当たることがあった。
 林望氏は,一ノ関圭の画力と「女」の描き方について,前者には東京芸大の油絵科の学生であったこと,後者には作者自身が女性であること指摘し,謎の解としている。だが,待て。それは逆に,一ノ関圭の漫画家としての限界を示すものではないか。デビュー時点であり余るデッサン力,表現力を持つということは無論大きな強みではあるが,同時に総合メディアである漫画において,最初から「かなりなんとか出来てしまう」ことでもある。また,林望氏は一ノ関圭が女性であることについて「なーんだ,そうだったのか。(中略)だから,これほど深いところまで血の通った『おんな』が描けたのだろう。」とする。これは一ノ関圭が,自分自身「女」であるという経験や資質のみから「女」を描いたと感じられる,ということではないか。
 それはすなわち,内なる何か不明解なものの出口として漫画を選んだのではないということである。また,その何かを描くために苦心惨憺するうちに,その主題がさらに深化し,あるいは変貌する,その過程を知らないということである。

 たとえば,ある日巧い歌手の真似をしたら素晴らしく歌えてしまった歌姫にとって,歌を歌わないことには先に進めない切実さはあるだろうか。歌を歌えなくなることへの恐怖はあるだろうか。
 もちろん,これは全くの想像に過ぎない。一ノ関圭がペンを置いたのには全く別の,明らかな理由があったのかもしれない。しかし……彼女がいくつかの作品で描いてみせた画家たちは,いずれも,自分が何を描くか,いかに描くかばかりに腐心し,最後まで,誰に何を伝えるかを考えない職人であった。それは画家としての1つの資質ではある。しかし,そういった画家がいつか絵を棄てられることは,また,一ノ関圭が描いてみせた通りなのである。

2000/08/30

『摩天楼のバーディー』(全6巻) 山下和美 / 集英社(Young you特別企画文庫)

Nimg918 【老いてなお,否,老いてこそ】

 少し前に文庫化が完了した『摩天楼のバーディー』(全6巻)。作者は『天才柳沢教授の生活』の山下和美で,こちら(バーディー)もなかなか面白い。
 古いアパートメントの最上階に住む「なんでも屋」のトキオ。長髪,タトゥー,細く鋭い目で危険な男にしか見えない彼が実は……という設定で,彼の仕事がらみでさまざまな事件が起こり,それが解決するまでの悲劇,喜劇を描く読み切り型連載。

 全体のストーリーはそのアパートメントをめぐるトキオの成長譚,恋愛譚にもなっているのだが,実のところ主人公以上に,いくつかの事件に登場する老人たちの心の問題のほうが生々しい。なにしろ事故で家族すべてを失い,今さらに記憶を混濁させた独居老人,孫にきたないと言われてしまったもと女優,そんな人々が次から次へ,しかも実に印象的に登場するのである。

 2巻以降ギャグ漫画であることから足を洗ってしまった『柳沢教授』でも「引退」や「老い」はたびたびメインテーマとして取り上げられており(モモを犬にやる先輩教授の老いっぷりはことにすさまじい),この作者が老いというテーマについて非常に強いアンテナを持つこと,またそれを十分描けるだけの筆力があることをうかがわせる。それも単に老人を引退者としていたわる話でなく,あるときは厳しく突き放し,あるときは描かれる対象が老人であることを忘れる,といった塩梅なのである。悲惨な老い,栄光の老い,ただ延長線上にある老い。老いへの抵抗,老いへの誘い,老いへの無頓着。
 人は誰しも老いる。当たり前のことなのだが,意外と少年誌,青年誌,女性誌いずれでも,老人を老人としてきちんと描ける作家は多くない(老婆を描いて抜群なのは高橋留美子だが,高橋の老婆は絵柄だけ,の場合も少なくない)。

 山下和美には,ありきたりの恋愛モノより,とりあえずこの「老い」というテーマを今後とも突き詰めていってほしい。また,このように老人を正面から描くことは,今後のコミックの1つの大きな潮流となるような予感もしないではない(たとえば老人の生計,恋愛,結婚,離婚,セックスなど)。
 なにしろ,マンガの描き手も読み手も,そこらの元気のよいおにいちゃんもおねいちゃんも,よほどの疫病の流行や戦争でもない限り,たいていはこれからただどんどん年を取っていくのだから。

2000/08/29

[非書評] Oの謎

Nimg933 【夏休みの感想文特別支援編】

 20世紀最後の夏休みも残すことほんの数日,宿題の自由研究,図画工作,感想文のでっち上げに追われる小・中・高校生の親御さんも少なくないことだろう。ここではそんなお父さんお母さんのため,1時間で仕上げられる感想文の便利な素材,O・ヘンリーをご紹介しよう。

 まず,作者の経歴から。
 O.Henry(1862~1910),アメリカの短編作家。本名はWilliam Sydney Porter。10代半ばで学校を退学,さまざまな職に就くが,オースティンの銀行勤務時に公金横領の罪で投獄され,獄中で執筆活動を始めた。出獄後はニューヨークに移り住み,「最後の一葉」「賢者の贈り物」など,13冊の短篇集,272の作品を発表した。イギリスのSaki(本名はHector Hugh Munro)とともに短編の名手として世界的に有名となったが,私生活は幸福とはいえず,高い評価を得たのも,死後,全集が刊行されてからだった。

 続いては,新潮文庫『O・ヘンリ短編集』(大久保康雄訳,全3巻)から何か適当な短編を読んでそのあらすじを書こう。「最後の一葉」「賢者の贈り物」の2作は有名に過ぎるので,できれば避けたい。新潮文庫のこの3冊は,必ずしも名訳とも思えないが,読みにくいというほどのこともないし,なにより廉価でかつ入手しやすい。
 なお,インターネットにアクセスできるなら,原文もあちこちで手に入る。英語の原文を添えれば,それだけでポイントアップ間違いなしだろう。

 さて,これだけではあまりにも安易なので,最後に以下のようなことを書き加えておこう。

「ところで,このO・ヘンリーの『O』が,なんらかのファーストネームを略したイニシャルではないのをご存知だろうか。つまり,この『O』はオニールでもオブライアンでもなく,全くの記号なのである。それは,作品だけを見てほしい,という作者のプロ意識の現れだったのだろうか,それとも……」

『怖い本<1>』 平山夢明 / 角川春樹事務所(ハルキ文庫)

Nimg930 【ああ,これは人間じゃないな】

 続けて,怖い本を1冊ご紹介。
 ハルキ文庫『怖い本』シリーズは,いわゆる「知り合いの誰それが,六本木のマンションに住んでいたんだけど,実はそこは……」の類を丁寧にまとめたもの。1巻につき全50話。

 トラックにつぶされた幼女の首,自殺名所の管理人バイト,換気扇から覗く目,廊下にうずくまる両肩が抜け頭の欠けた男,コンビニの窓ガラスを埋める血の気のない顔,事故車に相次ぐトラブル……。

 よくある怪談とわかっていながら,文章の淡白さからか,かなり怖い。部屋の空気がすうっと低くなる。しまった他の本を選ぶのだった,と後悔しつつ,つい手をとめることなく読み進んだのだが,困ったことにそれがうっかり呼んでしまったらしい。
 これ以上は,書けない。

2000/08/28

『童乱(タンキー)』(全6巻) 原作 荒井涼助,作画 石川優吾/集英社(ヤングジャンプコミックス)

Nimg888 【そして神戸】

 過日,伊豆諸島の神津島が大きな地震で被害を受けた折り,家人が珈琲を挽く手を止め,「そういえば,あなたが以前おっしゃった通りになりましたわね」と言う。「己が何かそのようなことを言ったか」と問い質すと,神戸の大地震のとき,あの地は呼び名の通り神の戸であるから,神が出入りするとき何か大きなことが起きるのだと説いたと言う。
 そのような不遜なことを口にしただろうか。口にしたとしても,それはカルト教団の誰彼がそう言ったとかいう類の話ではなかったかと反駁したが,家人の目は磁器のように青いままだった。

 オカルトに与するのは本意ではないが,それにしても,大震災,酒鬼薔薇事件と大きな災害,異様な事件が続くと,「神戸には何かあるのではないか」と考えるのも無理からぬ面がある。出入りしている掲示板でも,『新耳袋』における「くだん」の話題で兵庫が登場している。あたかもこの神戸における「あらわれ」を予見するかのようなコミックが本棚にたまたま見つかったので,ここでご報告しよう。荒井涼助原作,石川優吾作画の『童乱(タンキー)』である(「乱」の字は,正しくは左が「舌」でなく「占」)。

 タンキーというのは,マレーシア,シンガポール,台湾などにいる一種のまじない師(シャーマン)で,中国系の神を自らに「おろし」,それによって様々な力を発揮する。
 1990年からおよそ3年間にわたって描かれたこの作品は見習いタンキーの少年を主人公にしたホラーアクションで,『春ウララ』という呑気な青春コメディを描いていた石川優吾が思いがけずこの方面にも大変な画力があることを示した逸品。とくに,細かく描き込まれた蟲毒の蟲たちや斉天大聖が宙に浮くシーンの迫力は圧巻。

 さて,この『童乱(タンキー)』,第一話はシンガポールを舞台とした読み切りで,第二話以降は日本に舞台を移すばかりか登場人物や設定が少々変わってしまうのだが,その第二話に,神戸のマンションがたまたま龍の地脈の上に建てられて龍を封印,それが主人公たちの活躍で解き放たれてマンションが崩壊し,「これから騒がしくなりそう」と言う話がある。龍神を「おろし」たこの少年の名が「淳」……。

 それがどうした,といえばそれだけの話ではあるのだが。

*……作品名などの確認のため,インターネットで石川優吾氏に関するサイトを検索したところ,近作『よいこ』についてのインタビューで酒鬼薔薇事件が話題にのぼっており,偶然とはいえ往生した。

『REGGIE(レジー)』 GUY・JEANS 原作,ヒラマツ・ミノル 作画 / 講談社

Nimg887_2 【もっと胸を張れ!】

 ペナントレースも大詰めだが,セ・リーグの優勝の行方にはもとより興味がない。他チームのレギュラーを金で掻き集めた結果にいかなるアイデンティティを見いだせ,というのか。残る興味は個人タイトルだが,それだってこうまでチームバランスが乱れた後では公正さに疑問が残る。

 ところで以前から気になって仕方ないのだが,リリーフピッチャーなら3勝5セーブ程度でも「守護神」と称え奉るマスコミ,なんとかならんか。あるいはホームランを30本,40本打つからといって,その選手を無条件にホームランバッターと呼んでいいものか。否。
 ホームランバッターたる者,ジャストミートしたなら,間違ってもファーストに向かって慌ただしく走り出したりしてはいけない。それが最低条件だ。
 たとえば,ロッテで実働11年,通産283本のホームランをかっ飛ばしたレロン・リー。彼のバックスクリーンに叩き込むホームランをご記憶だろうか。
 ピッチャーの指からボールが離れる。バットが始動,ヘビーな体重がバットにかぶさるようにぐんと移動する。
 ぶ。ごん。
 彼は走らない。なぜなら,自分のバットがその角度,そのタイミングでボールをとらえたなら,スタンドに届かないはずはないのだ。しかも打球の方向はセンター。だから,もう,バッターボックスでの彼の仕事は終わっている。彼はボタンもちぎれよとばかりに胸を張る。それが許されるだけの仕事をなしとげたのだから。後は仕上げとしてゆっくりとバットを置き,ただ声援を受けるためだけにダイヤモンドを一周する。
 これが,これこそが,ホームランバッターではないか。日本人なら,たとえば田淵幸一。たとえば門田博光。田代富雄。現役では近鉄の中村紀洋。
 ピッチャーだって,実はそうだ。単に味方が相手より多く点を取って勝ち投手になること,それを1シーズンに10回か20回してのけること。球場に何度か足を運べば,そんなことは本来どうでもよいことだとすぐ思い知るはずだ。この烏丸が日本で最後に見た野茂は,フォアボールを連発,10点近く取られたが,それでも彼はエースであり,観客の誰もが彼の完投を疑わない,そんな気配があったものだ。

 そういった,ホームランやピッチングの軌跡をきちんと描くマンガ,もっと理屈っぽく言えば,スポーツ観戦の本当の楽しみが贔屓チームの勝ち負けなどではなく鍛えられた選手同士の戦いの躍動感をその瞬間瞬間に味わうことにある,そんな視点で描かれたマンガは,意外と少ない。

 『REGGIE』に描かれた選手たちは,その意味では無類に素晴らしい。ピッチャーから投じられた球は空気を裂き,バッターのスイングはとことん熱い。だから,ジャストミートした球は遠く,どこまでも飛んでいけるのだ。
 原作者の名前はガイジンをもじったもの,だからガイジンなのかもしれないし,日本人なのかもしれない。いずれにしても,『REGGIE』では,スポーツニュースで切り取られたプロ野球の「結果」に執着することへのアンチテーゼが示される。日米の野球,文化の違い,ちまちまと管理された野球の矮小さ,そういった細かい問題が順繰りに描かれていく。
 しかし,巻が進むにつれてそういった問題提起すらどんどん削ぎ落とされ,単行本の12冊目には,本当に強い奴だけが残る。舞台は日本のペナントレースだが,日本も大リーグもなく,もはや「打つか打たれるか」だけ。結果は明らかだ。キン○マの縮み上がったほうの負け。

 とか言いながら,この烏丸,ピッチャー溝口と平山監督夫人のエピソードがお気に入りなんだけどね。

『占い師はお昼寝中』 倉知 淳 / 東京創元社(創元推理文庫)

【コバルト・ブルーなわたし】

 今はもう削除されたこすもぽたりん氏の「神田マスカメ書店」で光原百合『時計を忘れて森へいこう』の書評をご覧になった方はおおよそ見当もついておられると思うが,「日常の謎」というのは,実はJ-POPならぬ最近のJミステリの専門用語の1つである。具体的には北村薫『空飛ぶ馬』『夜の蝉』をその嚆矢とし,紺の制服とタイトなソックスの似合ううら若き乙女が,きちんと毎日大学や会社に通う道すがら旅すがら,たまたま出遭ったちょっとした事件の裏に,やはりちょっとした,しかし色濃く苦い人間の真実が隠されていることを知る。設定の都合から自然と連作短編が多く,乙女というからには最近の純文学のように男と会うたび不機嫌な顔してパンツ脱いだりもしない。

 『占い師はお昼寝中』も典型的な「日常の謎」タイプで,「ミステリ連作集」とは銘打たれているものの,死体も連続殺人鬼も出てこない。語り手の美衣子は占い師・辰寅叔父のところで巫女役を勤め,なまけものの叔父がいざ占いとなると驚くべき推理力を発揮するのに目を見張る。
 「なあんだ,さわやかそうでよいじゃない」,はいその通り。そういうのが読みたい方はご自由にどうぞ。ではなぜこの烏丸,こうまで苛立つのか。
 占いを求めてきた客の持ち込む謎がいずれもトタン屋根のように薄っぺらで,謎を解くことがためらわれるほど人間の業が薄く漂う『空飛ぶ馬』『夜の蝉』に比ぶべきもないせいか。謎を解くために動因される人間洞察に深い滋味や薀蓄がまるで感じられないせいか。そもそもこの辰寅叔父とやら,夏は汗まみれ,冬は氷が張る「霊感占い所」で昼寝してばかりいる。不自然である。一般に怠け者こそそういう環境をいやがるものだ。また,いくら老朽ビルの3階とはいえ,渋谷道玄坂に部屋を借り,姪のバイト料と税金を払うためには月あたりいくら見料が必要か。……などという問題でもない。中高生向け連載小説やコバルト文庫ならそのくらいの矛盾は笑って許せる。あっ。そうか。そういうことなのだ。

 思うに親魏倭王卑弥呼の御世より,この手のモノは集英社コバルト文庫の分担と班田収授法に定められていた。新井素子が星新一引っさげて(ちょっと違うか)颯爽と登場したとき,日本中のSFファンは万歳三唱してSF界の新しい才媛に酔ったが,あれはコバルト文庫だから納得できる文体,ストーリーで,断じて創元推理文庫向けではなかったではないか。大原まり子のミーカはミーカだって,ハヤカワ文庫向けの顔とは明らかに別だったではないか。

 了見が狭い,と人は言うかもしれない。しかし,狭いからこそ得られる信頼というものがある。決してコバルト文庫を軽んじているわけではないのだ。コバルト文庫はその方面の権威だし,創元推理文庫はこの道,青木文庫はあの道の権威だったということを言っているのである。
 「日常の謎」のスレンダーな乙女たちは,すました顔してそこのところをなし崩しにしてしまった。こうなった以上,もはやどうしようもない。せめて,角川がスニーカー文庫を用意したように,東京創元社も「日常の謎」専用の箱を用意してほしい。「創元推理文庫NJ」とか。そうでないと,またいつ,うっかりこんなものを買ってしまうかと。

 えっ。それは違う? いまや,創元推理文庫の本筋はお軽い「日常の謎」のほうであって,ラインナップにそうでないものが残っていることのほうが問題? 装丁がヤオイしてなくて買いやすいからコバルト文庫より魅力? そ,そんな馬鹿な。だって創元といえば。あっ,これも。こ,これも。ああっ,これもこれもこれもこれも。

2000/08/26

『世界のあやとりがわかる あたらしいあやとり』 野口 廣 / 土屋書店

【午後のあやとり】

 「ごだんばしごは,どうするのでしたっけ」
 母親に宛てた手紙を記すペンを止め,うっすら遠い目をして家人が言う。ごだんばしご?
 「こうして……こう?」
 その細い指が見えぬ糸を操るのを見て,ようやくそれが「あやとり」の五段梯子を意味するものだと己は納得する。遠い子供時分,体の弱かった己はグラウンドでの遊びに誘ってもらえず,教室の隅のほうで女の子たちとあやとり,おはじき,折り紙に興じたものだった。目をつむって一人あやとりをやって見せる己への賛嘆の声。おかっぱ頭の,あの聡明な少女は何といったろうか。その名と一緒に,四段,五段梯子の作り方も遠く思い出せず,ただ小さく顔を寄せた放課後のチャイムが……。

 「ごだんばしごが,思い出せない。思い出せないともう,今日は何もできないような気がする」
 そんな己の想いを見透かしたかのように,家人はきっぱり立ち上がり,共に書店に行きたいとミュールとパラソルの用意をする。
 散歩がてらの書店詣でも悪くない,初夏の台風一過,秋のように空の高い休日の午後である。

 今どき,あやとりの本など店頭にあるものだろうか。そう案ずる間もなく,若やいだ銀杏並木の書店,入って左手前の趣味の棚には折り紙や金魚の飼育法と並んであやとりの本が何冊かあった。いずれも手順を図式化し,番号を付してそれぞれの形を導くような造りだが,その導き方に少しずつ癖がある。二段梯子や熊手など,覚えのある簡単な手順を見比べ見比べして,この本がよさそうと得心し,家人はようやく白い歯を薄く見せて笑う。

 野口廣編著『世界のあやとりがわかる あたらしいあやとり』は,「インディアンからイヌイットまで」と傍題にあるように,日本のあやとりのみならず,イヌイット,ナバホ・インディアン,ハワイ,オーストラリア・ニュージーランドなど,世界各地の手法も加えて紹介されている。オーソドックスな「どうぐあれこれ」「いろいろなたてもの」「むしとどうぶつ」だけでなく,人を驚かす「びっくりあやとり」「れんぞくあやとり」「ふたりであそぶ」など,いくつかの項目に分け,八十数種類のあやとりが紹介されている。難度も「やさしい」ものから「ママてつだって」まで,少女の顔を模した三段階のマーク入りだ。

 内容のみならず,巻末の著者略歴がすこぶる楽しい。
 「1925年東京生まれ。理学博士。東北大学理学部数学科卒業後,ミシガン大学に留学。イリノイ大学客員教授,早稲田大学理工学部教授を経て,現在同学名誉教授。」まではともかく,「日本あやとり協会世話人を経て,現在国際あやとり協会名誉編集員。」が何とも言えぬ妙味を醸し出す。国際あやとり協会(ISFA)の本部は,アメリカにあるという。
 また本書には,「すぐにあそべるひも」も添えられている。すべりのよさそうな編みひもで,家人のまろい指にもよく馴染みそうだ。

 「またいつか,本屋さんに連れて行ってくださいましね」
 帰路,前を向いたままそう言う家人の白い頬に,パラソルのレースを透かした陽光が踊る。数歩遅れて追いながら,あのおかっぱ頭の少女の名が偶々家人の名と同じであることを唐突に思い出し,己はわけもなく動揺する。
 少女はその数年後,夏の海で死んだのであった。

2000/08/25

『新解さんの謎』 赤瀬川原平 / 文藝春秋社(文春文庫)

Nimg884 【まれにかなえられて歓喜するいけない奴】

 三省堂の「新明解国語辞典」は辞書のくせに妙な自己主張があってどこかヘン! という,それだけといえばそれだけだが,奇妙といえば相当奇妙な事例を延々と紹介して読み手をだんだんナナメにネジマゲてしまう本。
 たとえば冒頭,作者のところに深夜電話をかけてきた知人の女性が訴える項目が,

   れんあい【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいて,二人だけで一緒に居たい,出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら,それが,常にはかなえられないで,ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態

 「できるなら~」「まれに~」のあたりが,どことなく,否,かなりおかしい。ほかにも,「こくぞく【国賊】体制に対する叛乱を企てたり国家の大方針と反対したりする,いけない奴」「いえで【家出】帰らないつもりで自分の家をそっと出て,どこかへ行ってしまうこと」といった調子で,作者とその女性と読み手はどんどん新明解のページをめくっていく。
 項目語の用例もなかなか絶妙で,

   すなわち → 「玄関わきで草をむしっていたのが─西郷隆盛であった」

   たまゆら → 「春がきたら治るだろうと信じているから嬉しい。治らなかったらどうするか,そこまでは考えていない。考えないことによって女は─の平和を得ている」

等々の事例が次々と発見される。辞書にこのような過剰なものを詰め込んでしまう精神とはいったい何なのか。

 この本は単行本が発売され,話題になった頃に書店でたまたま手に取り,立ち読みをし始めるとあまりの面白さにもうページをめくる手が止まらない。
 これはたまらんと1冊買い求め,帰路の電車で読み進み読み返し,拙宅に走り帰って家人に「見ろ見ろこんなものが」と声を裏返したところ,大島紬の家人はいつものように三つ指ついて私を迎え,慌てず騒がず背後の本棚から赤い辞書を取り出し,「今さら何を騒ぎましょう。あれこれ注文のうるさいあなたと言葉をかわすのに用いてまいりましたのは,もう十何年も前からこの新明解第三版」。

『沈黙の艦隊』 かわぐちかいじ / 講談社(モーニングKC,講談社漫画文庫) 書評後半

Nimg927 【全発射管,前部扉開け!】

 続けよう。
 最初に来る魚雷はおとりで,慌てて避けたら次の魚雷が! とか(もちろんベテランサブマリナーたちの読み合いが凄いのである),一発目は通常魚雷で,それを避けたらホーミングが! といった二段作戦は,実は35年ほど前に少年サンデーに連載された小沢さとる『サブマリン707』ですでに描かれている。
 北極海の氷山下の激闘,海底の泥にとらわれた艦が敵の攻撃の爆圧で脱出,敵味方が深潜度を競う,米軍の最新鋭艦を強奪して世界を制圧しようとする話まである。偶然だろうが全巻を通して登場する女性が艦長の妻1人というのも,『沈黙の艦隊』と同じだ。
 一方,潜水艦ではないが,ちばてつや『紫電改のタカ』には,兄弟の操るタイガー・モスキトン(ムスタング)2機が交互に回り込んで主人公を翻弄する,というシーンがある。やまととシーウルフ級の戦闘に結果までそっくりだ。

 「潜水艦を描いたマンガで戦闘シーンが似るのは当然。『沈黙の艦隊』のオリジナリティは,核や国連をテーマにした政治性にこそある」と言う方もおられるだろう。
 こちらにも実は元ネタがある。御厨さとみ『ノーラの箱船』というSF中編(1977年,ビッグコミック・オリジナル連載。単行本は奇想天外社,朝日ソノラマから)がそれだ。主人公ノーラの率いるチームがアメリカ海軍の最新鋭巨大空母をシージャック。その目的は,その空母を国連軍に編入し,核の威力によって恒久的な平和を実現することだった……。空母と潜水艦が違うだけで,『沈黙の艦隊』そのものである。
 つまり,「海,核,国連軍」すら,『沈黙の艦隊』のオリジナルではない,ということだ。

 ただし,このような流用があるからといって,『沈黙の艦隊』の魅力が減ずるわけではない。
 僕は『沈黙の艦隊』に原作者のクレジットがないことを常々不思議に思っている。かわぐちかいじの他の作品を読む限り,彼にこれだけの作品を構築できる力があるとは思えないからだ。『沈黙』以後モーニングに連載された『アララギ特急』や『瑠璃の波風 沈黙の艦隊―海江田四郎青春譜』などを見ただけで明らかだろう。
 これは勝手な推測だが,『沈黙の艦隊』には軍事や外交に相当詳しい原作ブレーンがいたのだが,その中心人物は現役の自衛官ないし外交官で,自らの存在を明らかにできなかったのではないか。逆に言えば,『沈黙の艦隊』にはそのくらい重厚な「現場意識」がこもっている。とても一人の空想で描けるレベルのものではない。
 いずれにせよ,戦闘パターンや政治的設定,さらには戦艦の図版等が既存の作品,写真集と似たものであったとしても,ソビエト連邦崩壊以前にこれだけ冷戦構造や日米安保の裏(とくにアメリカの日本に対する傲慢さ)を描き切ったフィクションはそうざらにはない。

 軍備,とくに核について否定的と言いながら,戦闘シーンをカッコよいなどと書くこともある。さりとてミリタリーファッションと軍服の区別がちゃんとつくとは言い難い。そんな烏丸でも,たまには国を守るためになすべきこと,してはならないことについては考える。アメリカによる事実上の支配について考える。
 『沈黙の艦隊』は,そんな,世界の中の「情けない日本」を再考するきっかけとなる,恰好のテキストの1つだと思う。

 ところで。
 アニメ,コミックの世界は,15年の歳月を経て,2つの巨大な「ヤマト」「やまと」を得た。次の大和は,はたしていつ,どこに浮上するのだろうか。
 ズズズ,グワアァァァ! 「ビッグバン証券 大和!!」……ち,違うって。

『沈黙の艦隊』 かわぐちかいじ / 講談社(モーニングKC,講談社漫画文庫) 書評前編

Nimg920 【アップトリム30° 機関全速!】

 乗組員118人を死にいたらしめたロシア原子力潜水艦「クルスク」の沈没事故はいまだ原因不明だが,続いては「クルスク」とほぼ同規模の潜水艦「やまと」の物語を取り上げよう。

 マンガは,言うまでもないことだが2次元の静止メディアだ。紙芝居のように声が語るわけではないし,アニメのように動くわけでもない。だから,マンガの中で,登場人物のセリフは吹き出しの中に写植文字としてセメダインで貼られ,効果音の多くはコマ中に擬音(オノマトペ)として描かれるのである。
 そして,多くのマンガ作品では,このセリフや擬音に工夫をこらし,読み手の意識をその作品世界に取り込もうとする。……仰々しく書いてはいるが,誰でも知っている当たり前のことだ。

 この音の扱いを逆手にとって,読者の集中を高めるジャンルの作品がある。それが,潜水艦マンガだ。
 最新の軍事技術はさておき,ことマンガの中では,潜水艦同士の戦闘はいまだにソナーによる機関音探知が頼りだ。敵の音が聞こえず,その居所を見失うことは,即,敗北につながる。自らの沈黙は生であり,他者の沈黙は死を招くのだ(もっとも,現在にいたるまで,潜水艦同士が魚雷で打ち合うような戦闘は実は一度も記録されていないのだが)。

 『沈黙の艦隊』は,自衛官・海江田四郎とその部下たちが,隠密裏に日米で共同開発された原子力潜水艦シーバットを操って叛乱を起こし,独立国家「やまと」を名乗り,アメリカ軍との死闘を重ねて国連に出席するまでを描いた単行本32冊(文庫版16冊)におよぶ壮大な物語である。

 ともかく面白い。どのくらい面白いかといえば,これを読み始めると,徹夜明けのベッドから起き上がるために
 「アップトリム30°」
 「艦長,浮力が得られません!」
 「この眠気を突破して,初めて世界が変わるのだ。機関全速!」
と一人で雄叫びをあげる癖がつくほど面白い。ほかにも,
 「よし,探信音波(ピンガー)打て! 敵主力を失探(ロスト)するな!!」
 「艦長! 右舷20°より魚雷4本! 距離3000!」
 「全発射管,前部扉開け! 発射!!」
 などなど,ともかくあらゆる戦闘シーンのフレーズがカッコよい。最深度での敵との探り合い,冷静沈着な防御と一気呵成の攻撃があたしもうだめ,なのである。

 しかも,物語は戦術的な勝ち負けの次元に収まらず,世界各国の首脳,マスコミを巻き込んで,核の時代の世界戦略をぐりぐり追究する(後半の主人公は,やまとによって信義を問われるアメリカ大統領ベネットだと言っても過言ではない)。個々の政治的命題にどれだけリアリティがあるかと言えば,鼻で笑ってしまうような設定,セリフも少なくない。が,それを上回って思索をうながす力がこの『沈黙の艦隊』にはある。
 なにしろ,海江田がシーバットに「やまと」と命名してから最終回まで,モーニング誌上7年5か月の連載で,作品内では実は時間が2か月程度しか経過していないのだ。立派なアストロ球団だったのである。これだけで,物語の濃密さがうかがえるというものだ。
 そして,その濃さを読者に凝縮して伝えるのが,戦闘シーンの「音」,正確には「音の欠落」,なのである。やまとや敵艦の乗務員ともども,読者は必死で海底の沈黙に耳を澄ませ,物語に魅入る。だからこそ,海の底でモーツァルトを聞かせるという海江田の戦術はショッキングなのだ。

 ただし。『沈黙の艦隊』の戦闘シーンは,必ずしもオリジナリティあふれるというわけではない。

 本稿,長くなりそうなので,後編に続く。

『陰陽師』 原作 夢枕獏,作画 岡野玲子 / 白泉社(Jets comics) 現在9巻まで

Nimg899 【だすうっっ!】

 牛車の軋み。水の涼音。殿上の管弦。羅城門にうごめく鬼どもの哭き声。さらには
  「だすっ!」(晴明が地を踏みしめる音)
  「だははははは」(雷神・菅原道真)
  「ベオン…」(唐伝来の琵琶・玄象)
  「ヒィリラ… ヒィラハ…」(三条東堀川橋の橋下にて,雅博,頭地天尾の美童より得たる笛を奏す)
  「ズズズ… ゴゴゴ…」(晴明の家に落つる雷神・道真)
など,岡野玲子の『陰陽師』各巻には瑞々しい音があふれている。以下,徒然,思いの向くままに。

 陰陽道のヒーローたる安倍晴明が今ブームだ。そこここで本や記事が目に入る。ヘタな便乗本を読むくらいなら『今昔物語』にあたったほうが,表現がさっくりしているだけ想像力をかきたてられ……などとうそぶいていたのだが,ブームのきっかけとなった夢枕獏の小説を読んでみると存外に油っ気がなくてよい。それをコミック化した岡野玲子作品もなかなか……否,とてもよい出来で,これは強くお奨めである。

 知の化け物たる安倍晴明に対し,その友人の管絃オタク・源博雅がワトスン役だが,巻が進むにつれ晴明が小賢しい苦労人(ちょっと言い過ぎ?),ピュアな博雅こそが守られた人,という構図が明らかになる。このあたりのバランスや,とぼけたギャグの風味もなかなかよい。それにしても,博雅を前にした晴明の笑顔のなんと爽やかなことか。
 晴明のライバルだったはずの葦屋道満が話に出てこないが,単なる対決譚,勧善懲悪譚にしたくなかったということか。たとえば1巻巻頭では都を呪う悪鬼として現れる菅原道真が,7巻では少女・真葛にあしらわれ,好々爺然(というほどでもないが)と描かれるなど,本作ではあらゆるものが相対的だ。雨乞いの儀式1つみても,僧と陰陽師とがさほど揉めもせず共存する(宗派の違いより個人的対立のほうがよほど大きい)。けっこう新鮮な印象だ。

 本領の陰陽道理論の美しさ,これはもう『ジョジョの奇妙な冒険』の波紋の理論以来かもしれない。「呪」(しゅ)と名をめぐるやり取りや,あやかしをあまりがんじがらめに縛ると返しが怖いので呪をわざとゆるめておくが,そのゆるみが雨漏りという形で現れる話……などなど,もう「うっとりだな」((C)晴明)。
 白と黒の勾玉形の,外側の一番大きな円が大極,中の2つの円が天の陽の気と地の陰の気の相克を表し,それが内接正五角形作図法によって木火土金水の五行の循環相生を表す五芒星に,さらには宇宙の渦に化す,という図式をぶんまわし(コンパス)と直角定規だけで証明する6巻なども圧倒的。

 また,編集者の手によるものだろうが,帯の惹句(じゃっく)がいずれも特筆モノ。
  「安倍晴明,鬼の上前はねる奴」1巻
  「黒川主,スカーフェイス」3巻
  「安倍晴明,そろりとまかりいる」5巻
  「真葛,解禁」9巻
実に素晴らしい。

 7巻の道真。コミック史上,これほど存在感が「ゴジラ」に近いキャラクタがあっただろうか。……ズズズ……。それに対する真葛,まるで宇多田ヒカルの登場を予測していたかのよう。うっきゃあだ。

 平安時代の酒や肴,菓子が再三出てくるが,小道具としてなかなか興味深い。実際は不味いのかもしれないが。

 『陰陽師』をテーマにしたCDは2枚組みで,1枚は雅楽バンド,1枚はブライアン・イーノが担当している模様。イーノといえばロキシーミュージック出身,アンビエント・ミュージック(環境音楽)の大家として知られ,最近ではWindows起動音の作曲者でもある。……ヒマなのか?

『大阪豆ゴハン』(全12巻) サラ・イイネス / 講談社(ワイドKC)

Nimg900 【あかん,て。よう知らんけど】

 コミックと音を考える,堂々連載第3回……って,誰も期待してないってば。
 今回は擬音でなく,作品中で取り上げられる音楽の話。

 大阪市内の大きな,しかしめっぽう古い屋敷に住むお気楽な家族の日常を描く,サラ・イイネスの『大阪豆ゴハン』は,僕の知る限り,ソフト・マシーンとアラン・ホールズワース(g)の名を記した唯一のコミック作品である。そしてそれは,大阪のサザエさんと呼ばれる(呼ばれてないって)同作品のオシャレ度を示す上で(*1),そのスジでは有名な欄外の「WRCの部屋」(*2)に劣らず重要なポイントなのではないか。
 ソフト・マシーンやホールズワースの音は,シカメッツラの似合うブリティッシュプログレの中でも前衛的,かつどうやって演奏してんのかようわからんほどバカテク。なのにどこか控えめで,毎日もくもく働く技術屋さんの手作り風,しかもトコロテンのように郷愁を誘う。要するに『豆ゴハン』にえらくよく似合うのである。

 それにしても,たとえば法月綸太郎がミステリ短編の中でキング・クリムゾン持ち出して雰囲気出そうとすると「ほんにこやつは虎の威を借るアライグマのような」と不愉快になるくせに,サラ・イイネスが「フグを食べるときのBGMにはREDが最適」と書いたら喜んじゃうのはなぜか。我ながらようわからん。
 ようわからんうちに,大阪のサザエさんは突然無限ループから抜け出し,ストーリーが大きく動くと同時に最終回を迎えてしまった。

 ちなみに,オシャレ度だけなら,『豆ゴハン』以前に掲載されたコミックエッセイをまとめた『水玉生活』が上。
 最近は,従来の枠組みで分類しづらいメリハリのないモノはなんでもかんでも「癒し系」のレッテルが貼られるようだが,とりあえずそこそこ元気を出したいとき,この『水玉生活』や『大阪豆ゴハン』を選択するのは悪くない。
 気がつけば,「生活」という言葉は生きるに活きると書くのであって,『水玉生活』や『大阪豆ゴハン』は,前向きでいられなければつけられないようなタイトルなのであった。ゆうてもせんないけどナ。

*1……作者の日常を描くエッセイ風小品で,自分をしれっと美人に描ける女流作家はこのサラ・イイネスと清原なつのくらい。だから? と聞かれても困るが。

*2……WRCはWorld Rally Championship(世界ラリー選手権)の略。『大阪豆ゴハン』の登場人物の多くがラリーレーサーをモデルに描かれていることは有名。湯葉さんなんて名前もユハ・カンクネンから。

2000/08/24

『孤独のグルメ』 原作 久住昌之,作画 谷口ジロー / 扶桑社

Nimg886 【はふはふ むぐむぐ】

 コミックと音と言えば,野球マンガなら「ズバン」「カキーン」,スナイパーものなら「ズギューン」,F1系なら「ブロロロロォ」,アダルトなら……と,あれこれ擬音(オノマトペ)が思い浮かぶ。この擬音も,作家によってとことん凝る人,そうでもない人,多用する人,しない人など,いろいろあるようだ。
 『4P田中くん』や『風光る』『Dreams』などの長期連載で知られる(正確には,長期連載が多いわりには知られていない)高校野球マンガのスペシャリスト,川三番地はこの擬音がことのほか好きらしく,ページからはみ出さんばかりに毎試合擬音の山だ。たとえば,ピッチャーの手からボールが離れ,バッターが見逃してキャッチャーが捕球するまでのたった一動作の間に「シピイイッ」「ギャッ」「シュッ」「スンッ」「スパアンンッ」などいくつもの擬音が描き込まれることも珍しくない。球質やコースによってこの擬音が描き分けられているわけだ(たとえば4番目の「スンッ」は低めのストレートがバッターの手前で伸びる様子)。
 同様に,細部までリアリティにこだわる村上もとかや新谷かおるのF1マンガで,エンジンのメーカーや整備の具合によってエグゾーストノートすら描き分けられていると想像するのはそう無理な話ではない。

 では,リアリティを追究した食事マンガというものがあったら,擬音はどうなるのか。
 その生真面目な回答の1つが,『孤独のグルメ』にはある。この作品は,扶桑社の月刊PANJA(篠山紀信撮影による少女,幼女の水着写真が表紙に使われ,実に買いにくかった)に連載されたもので,個人輸入業者・井之頭五郎が仕事の合間に食事をとるさまが克明に描かれる,ただそれだけの作品だ。「グルメ」とタイトルにはあるが,食事先はそのあたりの,たとえば
   東京都杉並区西荻窪のおまかせ定食
   東京都練馬区石神井公園のカレー丼とおでん
   群馬県高崎市の焼きまんじゅう
といった具合。
 事件もドラマも,何もない。ただ,「腹が減った」主人公が「ここがよさそうだ」と店に入り,「このメニューはやってないのか」などと困ったあげく何かを注文し,「思ったよりうまい」と満足,店を出て「ちょっと食べ過ぎた」と後悔する,ほとんど毎回それだけの展開である。
 しかし,その食事を描くのに費やされる労力が,並ではない。商店街の風景,店内の様子,そして何より献立そのものについての妥協なき描写。作画の谷口ジローは,格闘マンガを描いて,原作の夢枕獏から「プロボクサー,アマレスラー,プロレスラーの肉体の違いを,はっきり描きわけられる稀有な作家」と言われた人。「食事処」のぶた肉いためライスを描くにも緻密な筆がふるわれる。

 それにしても,この作品の魅力はいったい何なのか。『美味しんぼ』のように薀蓄(うんちく)や勝ち負けがあるわけではない。食事をテーマにした人生訓のようなものが添えられることもあるが,作者サイドからのメッセージであるというよりは,「井之頭五郎ならこう考える」という事実の描写でしかない。
 ただただ,旺盛な食欲のまま食べる人と,それを見る読者。その先に何かあるのか,何もないのかを見定めたいと思っていたのだが,雑誌の休刊に伴ない,連載は渋谷百軒店で大盛り焼きそばと餃子を食べるシーンで終わってしまう。

   はふ はふ ほぐ ほぐ
   むしゃ むしゃ むぐ もぐ もぐ
   はふ はふ むぐ むぐ むぐ むぐ

 とりあえず,水を一杯。

『天使な小生意気』 西森博之/小学館(少年サンデーコミックス) 現在5巻まで

Nimg889 【信じられねェ… なんで タトンなんだ。】

 確かに,信じられない。不肖この烏丸も,思わず目を疑った。
 この「タトン」というのは,ストレートヘアのキューティクルも美しい主人公・天使恵(あまつかめぐみ)が,3階の女子トイレの窓から飛び降り,きれいに着地したシーンで用いられた擬音であり,【  】内はその場に居合わせた名も知れぬチョイ役君のセリフなのである。

 『天使な小生意気』の作者は『今日から俺は!!』『スピンナウト』の西森博之。ありきたりの不良少年異界放浪譚かと思われていた『スピンナウト』が最終回で突然化け,その好調さをそのまま持ち込んだ印象で,周辺の30代,40代のオヤジが何人も「サンデーといえば,『天使な小生意気』見てる?」状態である。大丈夫か,ニッポン。

 ストーリーは,9歳のときに河原で魔法使いに出会い,魔本の呪いによっていたずら盛りの男の子から女の子に変えられてしまった主人公が……というもの。ファンタジー系のコミック作品にはさほど珍しくもない設定だが,実のところそのあたりのいきさつは追想シーンであっさり触れられるだけで,以後はもっぱら男の子の心を持ったまま高校生になった恵とその友人・花華院美木,さらに恵にベタボレ状態の伝説のワル・蘇我源造,その他藤木たちクラスメートたちによるドタバタした高校生活が展開する。
 などと,夜中に登場人物名調べてマジメに書くのも情けないような,決して絵が巧いわけでもストーリーが斬新なわけでもないお気楽マンガだと思うのだが,これがなんというか,妙によい味を出しているのである。
 で,おそらく,『からくりサーカス』や『ARMS』をお目当てに,なんとなく付き合いでページをめくっていた読者が本作の特異性に気がついたのが,冒頭に書いた「タトン」のシーンだったのではないか。ここで初めて恵は,単なる美少女ではなく,この世にあらざる何か,しなやかで見事なものとして描かれたのではないか。
 ちなみにこれに味をしめたか,作者は,少し後では走る電車の窓から恵が飛び降りるシーンを,これまた見事にカッコよく描いている。もちろん,良い子はマネをしちゃいけないのだが。

 ファンタジーの味付けのもとにギャグを詰め込んだストーリーラブコメというと少年サンデー伝統だが,それにしてもこの『天使な小生意気』,『うる星やつら』や『GS美神極楽大作戦!!』に比べても落としどころが見えない。明日もあさってもみんなで楽しくすごしました,で最終回をまとめられる設定ではないのだ。だからといって恵が男に戻ればハッピーエンドかといえば,キャラクターの組み合わせがそういう具合にはなっていない。
 作者は,そのあたりちゃんと考えてくれているのだろうか……と恵の今後に後ろ髪引かれつつ,これからいくつか「コミックと音」というテーマで書評を重ねてみようという烏丸である。

2000/08/23

『こちら葛飾区亀有公園前派出所 第98巻』 秋本 治 / 集英社(ジャンプコミックス)

Nimg890 【ムネもキュウジュハッチ,オナカもキュウジュハッチ】

 単行本120巻,テレビアニメも放映中で,もはや国民標準コミックと化した『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を今さら紹介するのもなんだが,この1冊はぜひ。

 ここまで『こち亀』では,作者・秋本治ならではの執拗なまでの取材と凝りようで,ゲームやおもちゃ,車,武器などをマニアックに取り上げてきたのはご存知の通り。1996年5月に発行されたこの第98巻では,いよいよパソコンとインターネットが本格的に登場する。

 巻頭の「電脳ラブストーリーの巻」では,美少女育成ゲームを取り上げつつ,まだパソコンの機種やOSについては不明瞭なままだが,少し後の「両さんのパソコン講座の巻」では,本格的にパソコン(Windows95)と世代論がテーマとなる。両さんの

   『スイッチを入れ
   「情報」を機会に覚え
   させる為 リモコンを
   2度押す』というのを

   『パソコンを起動させて
   アプリケーションを
   インストールするため
   マウスをダブルクリックする』
   という専門用語の
   オンパレードにするな!

という名セリフが書かれたのもこのときだ。さらに「インターネット駄菓子屋の巻」「ハイテク世代V.S.オヤジ世代!!の巻」と扱いはヒートアップ。この3編にはマンガの後に詳しい用語解説のページが用意されており,マンガと合わせて読めばそこらのパソコン雑誌の入門記事よりわかりやすいことうけあいだ(本当70%)。少なくとも,何を知らないと恥ずかしい思いをするかは,両さんの部長いぢめでちゃんと教えてくれる。仕事上の必要さえなければ(社内イントラネットの担当にされちゃったとかね),今どきのパソコンなんてだいたいそれで十分だ。
 パソコンはこの後,『こち亀』の大きな題材の1つとなる。インターネットやモバイルについてさらに詳しく知りたい方は『こち亀』要チェックである。

 なお,この第98巻は,両さんの子供時代の,潜水艦のプラモをめぐる事件を描いた名作「不忍池の思い出の巻」も収録されており,お買い得。書店店頭で,「はて,烏丸の野郎が言っていたのは何巻だったかしら」と急性健忘症にとらまえられた方は,NEC PC-98の「98」,Windows98の「98」と思い出してね。

『カスミ伝(全)』 唐沢なをき / アスキー(アスペクトコミックス)

Nimg906 【夙流変移抜刀霞切り! ……そりゃカムイ伝だって】

 唐沢商会関連では,比較的容易に入手可能ということを優先し,必ずしも万人向きとは言えない本を2冊続けてしまった。古本関係は後でまた別途紹介するとして,ここは海より深く反省し,とりあえずフォロー。

 唐沢商会の弟のほう,唐沢なをきといえば,『カスミ伝』が必携必読であろう。
 現在入手できるアスキーの『カスミ伝(全)』は,徳間書店発行の単行本『カスミ伝』に『八戒の大冒険』収録の2編を加えたもの。徳間版当時の表4~表1にまたがったダイナミックなカバーデザインが失われたのは少々残念(添付画像は徳間版)。
 内容は,飛騨忍者くのいちカスミをまな板に乗せ,タテヨコナナメ,あらゆる角度からギャグ表現に挑むというもの。「挑む」の主語は唐沢なをき。つまり,描かれたギャグの一つひとつが面白いというよりは,作者が2次元のメディアであるコミックの中で,どこまでギャグ表現技法を極められるかという,その工程そのものがギャグとなっている。したがって実験色が非常に強く,キャラクターに対する感情移入などの入り込む余地はほとんどなく,『カスミ伝』読用中にどうき,息ぎれ,頭痛,めまい,発しん,かゆみなどの異常のあった場合はただちに読用を中止し,医師の診断をあおげば尊しホタルの光。

『原子水母』 唐沢俊一,唐沢なをき / 幻冬舎(幻冬舎文庫)

Nimg878_2 【乳の叫び】

 原作が『大猟奇』の唐沢俊一,作画・唐沢なをきという兄弟ユニット「唐沢商会」による作品集。
 ともかくタイトルが素晴らしい(*1)。店頭でこのタイトルに打たれ,思わずにじり寄って手に取り,レジに走った者も少なくないのではないか。……俺だ。

 ところが文庫版の表紙は唐沢兄弟(帽子は兄,弟はクルクル目)がクラゲのかっこうしてフヨフヨしているだけ。おまけに,英米語で「THE ATOMIC JELLYFISH」とサブタイトル。なぜホルスタイン柄のクラゲでないのか。なぜせめて「ATOM WATER MOTHER」ではなかったのか! などと腹を立てながら,結局唐沢商会の本だからと単行本も文庫版も両方購入してしまった者も少なくないのではないか。……だから俺だって。

 内容はといえば,言葉で説明するとハテシナクしょーもなくなってしまうような短い下ネタギャグマンガがぎゅうぎゅう詰まっていて,ところが文庫版のほうはならやたかしのグロマンガ『ケンペーくん』(幻冬舎アウトロー文庫)と全く同時期の発売で,両方買ってしまったがため郷里を捨て,ホラの穴の刺客に命を狙われるようになった者も少なくないのではないか。……って,誰だ?

*1……知ってる人は知っている,草原で美牛がにっこり振り返るジャケットも有名な,ピンク・フロイドのアルバム『原子心母』(ATOM HEART MOTHER)からのモジリ。

[書評未満] 『土居たか子グラフィティ』 樹村みのり / スコラ(バーガーSC)

Nimg892_2 【だってわたし13歳のときから】

 スコラ社が倒産して,何冊かコミックが宙に浮いたまま手に入らなくなった。いくつかは白泉社などから再販されているようだが,手に入らないものもある。発行元がつぶれなくともよくあることなので,騒ぐほどのことではないのだが。
 さて,そのスコラ社の今では入手不能な1冊,『土居たか子グラフィティ』が最寄り駅近くの古本屋の棚にあることには,もうずいぶん前から気がついていた。作者・樹村みのりは,この烏丸がこの30年間,正確にいえば1970年の夏以来,最も信頼するコミック作家の一人だ。それでも,なんとなくこの本を手に入れるには躊躇があった。コミック作家が,実在する,それも政治家の伝記を扱うということに,生理的に納得できないものがあったからだ。理屈をニ,三でっち上げるのは簡単だが,ここは気分の問題ですませたい。
 まあ,とりあえず今夜はほかに欲しい本もあり,それを購入した。表題作の「土居たか子グラフィティ」は予想を甚だしく下回るほどではなかったが,さりとて「今日まで手にしなかった自分が愚かだった!」と天を仰ぐほどのものではやはりなかった。1冊の3分の1以上を占める4コママンガ集「となりのまあちゃん」も,とりたてて言うことはない。樹村みのりの優れた作品なら,本棚にいくらでもある。だから,『土居たか子グラフィティ』は,まあ,30年来のファンの,コレクターズアイテムの1冊として烏丸の本棚の奥に沈むだろう。

 それ以外の収録作,「駆け足東ヨーロッパ」「ジョニ・ミッチェルに会った夜の私的な夢」は実話(作者の体験)に基づいたコミックエッセイだが,これらはすでに単行本に収録されたこともあって何度も読み返した記憶があった。

 ところで,烏丸は以前よりコミックを扱う出版社全般にもどかしい思いを抱えている。理由は簡単なことだ,コミック作品を単行本に収録する際には必ず初出を明らかにしてほしい。でないと,こんなに手間がかかる。「駆け足東ヨーロッパ」は1979年プチコミック11月号に掲載された作品だ。作者が30歳前後のときの作品だったろうか。
 作品中,団体グループ旅行の一員として東ヨーロッパに出かける作者は,旅行代理店でワルシャワ滞在中の1日でその場所に行くのは無理と言われる。がっかりする作者に旅行代理店の者は尋ねる。
 「なぜそうした場所へ行きたいのですか? テレビの『ホロコースト』に影響されましたか?」
 すると作者は口にこそ出せないが,心の中で小さくこう答える。

 「だってわたし13歳のときから強制収容所のことしか考えたことがありません」

 ……やっぱり,惚れてしまうよなあ,樹村みのり。

2000/08/22

『大猟奇』 唐沢俊一,ソルボンヌK子 / 幻冬舎(幻冬舎文庫)

Nimg883_2 【でろでろでげちょげちょ】

 唐沢商会の兄のほう,「と学会」会員としても知られる読書家唐沢俊一がネタを集め,彼の妻にしてレディコミ作家であるソルボンヌK子が作画した,グロい実話,気持ち悪いカット満載のコミックエッセイ。連続殺人鬼,人肉食,寄生虫の話,イヤな死に方,男色の話などなど,悪趣味な話がたっぷり。
 いや,それはもちろん,内臓を練り刻むのが趣味だとか,回虫がかわゆくてしかたないとか,実はデブ専でとかいう方にはとても気持ちのよい本なのかもしれないが,つまり,えー,読んでいる最中に本を持つ手からぼたぼたと蛆が落ちそうというか,ともかく古今東西のずちゃずちゃでぬたぬたなお題がそれはもうにぎにぎと。
 とくにぎっちり詰まった○○の○○○のカットはあまりにも有名で,心臓の弱い方,お年を召した方,食事中の方には決してオススメしたくない1冊ではある。ただ,そういうあなたが今食べているそれだって……いや,失敬。

 なお,続編『世界の猟奇ショー』も発売されてはいるが,内容のエグさは本『大猟奇』に空より遠く及ばない。

『46番目の密室』 有栖川有栖 / 講談社(講談社文庫)

Nimg928_2 【だから新本格ってやつぁ】

 『46番目の密室』は必ずしも著者の代表作とは言い難いが,1987年の綾辻行人デビュー以来ミステリ界の一潮流となった「新本格」のエッセンスを束ねたような作品であり,新本格ファンにはぜひともお奨めしたい。

 著者・有栖川有栖は関西出身(*1),学生時代からのミステリファンにして投稿者。
 本作の舞台は軽井沢。本格推理小説の大家,真壁聖一の家に推理小説作家,編集者等が招かれ,そこで事件が起こる。真壁が密室と化した地下の書庫の暖炉に上半身を突っ込むという悲惨な姿で発見されたのだ。居合わせた犯罪社会学者,火村英生が暴いてみせるトリックとは! 文庫版での解説は綾辻行人が担当。
 ……すでにうんざりしている方もおられるかもしれない。気にせず進めよう。

 さて,「人間が描けていない」とはミステリ作品を批判する際の常套句だが,実は言葉通りに読んではいけない。これは逆さに振っても「自分には面白くなかった」という意味しかないのだ(だから意外かもしれないが○○○○や*****については,わざわざ「人間が描かれていない」とは言わない。説くまでもなく明らかだからだ)。
 もちろん,ごく普通の感性からいえば『46番目の密室』に描かれた人間模様は薄っぺらで,リアリティの欠如は明らかである(本当)。しかし,諸作家と編集者が集うということは,つまるところこの程度のことなのだ。要するに,本作の舞台こそは新本格にあって最もリアリティあふれた設定であり,それ以外の社会を描いた作品のほうが背伸びしたフィクションなのである(本当)。
 以降,人間が描けているかどうかなどほっといて,本作の密室トリックに絞って考えてみたい。

 『46番目の密室』では,動機については実に1ページしか割かれていない。ある秘密の隠蔽である。
 犯人と一緒に,冷静に考えてみよう。怒りや絶望にかられた衝動的な犯行でない限り,犯人はいくら1ページ分とはいえ,その動機から計画を起こしていくはずである。したがって彼ないし彼女は,被害者に確実に死をもたらし,それを確認できる手段を考えるに違いない。重症を負うものの意識は確か,となりかねない手段など間違っても選ばないだろう。
 さらに被害者が作家であることも無視できない。その秘密がノートや原稿用紙に書き残されていないとは限らないからだ。そういった記述があるか否かを確認し,それらすべてを消却することが殺人に次ぐ大きな目的の1つとなるはずである。

 ああ,それなのにそれなのに,探偵火村が解き明かす密室殺人の手段は,これらの要点を一顧だにしていない。試してみればすぐわかるが(試さないように)この手段で被害者が死ぬ確率は必ずしも高くない。おまけに,実行後,犯人は密室に入れないのだから,被害者が死ななかったり,日記や書き置きがあったりしても文字通り手も足も出ない。なーにが「トリックよりロジック」でぃ。

 ……などと,マジメに相手するほうが馬鹿。
 Webサイトを検索してみればすぐわかる。やれ「アリスと火村がアヤシイ。ゼッタイアレよね。きゃあ」だの「火村クンにはもっとアリスをいぢめてほしい(はあと)」だの。ああ,そう。そういう本だったの。ごめんごめん,お楽しみ中,お邪魔しました。

*1……ワトスン役の有栖川有栖が学生であるシリーズと,推理小説家になった後のシリーズに分かれる。前者では殺人事件の謎が解けた後,むさくるしい大学生が「犯人がわかったからゆうて,何がよかったというんや!」などと口走る油ぎったシチュエーションに耐えねばならない。うう。

2000/08/21

『サイドカー刑事』 小宮政志 / 講談社(モーニングKC)

Nimg893 【ある日男は 笑顔を棄てた。】

 95年から96年にかけて,モーニング増刊OPENに断続的に掲載された『サイドカー刑事』が単行本化されているのをご存知だろうか。作者の小宮政志は『世界はじめて物語』という,コーヒーやタバコなどの歴史を題材にした作品で知られる寡作な作家である。

 国際犯罪組織「マウンテン」,その真の姿は誰も知らない。暗殺,麻薬密売,重婚罪,風営法違反,建築基準法違反,神奈川県青年条例違反……あらゆる犯罪が彼らの名のもとに行われていた。
 8年前,主人公・結城がまだ新米の刑事だったころ,「マウンテン」の核心に迫った先輩の本庄部長刑事は組織の暗殺者に殺された。さらに悪の手は結城の妻・美津子,娘・多美にも及び,二人は結城の目の前で爆死してしまう。傷だらけの結城は復讐のサイドカー刑事と化し,組織への復讐を誓う。

 随所に五線譜で織り込まれたメロディが胸を打ち,妻・美津子が結城に微笑みかけながら爆死するシーン,結城を愛してしまった暗殺者の死,ロックフェスティバルにおける孤独なバンドマンたちとの友情など,涙なしには読み通せないシーンが続く。
 行く手には何の希望も幸福もない。哀しく,美しく,ただ復讐のためにサイドカーを駆使する。そしてサイドカー刑事はギャグ漫画の伝説となった。

   ロッケンン
     ロ~~オ~~
     オ~~オ~~

『バラ迷宮』 二階堂黎人 / 講談社(講談社文庫)

【「ですわ」の謎】

 女子大生二階堂蘭子を探偵とする推理短編集。
 著者はある時期の乱歩のファンらしく,「梅毒に冒されて顔がただれ,気の狂った妻が夜な夜な雪の洋館で~」といった設定を平気で書いてしまえる人。長編に手を出す前に,自分向きか否かチェックするにはまことに好都合な1冊といえるだろう。

 それはともかく少々不思議なのは,この蘭子探偵,親しい者を相手にしても「それができたのは犯人だけなのですわ」といったような口をきく。この「~ですわ」,クリスティの翻訳などでも(翻訳者が年配の場合とくに)まま目にする女性口調だが,どこの誰がこんな喋り方をするだろう(と思っていたら,少し前のモーニングでメッツ・水原勇気がインタビューに応えて「ラッキーだっただけですわ」。ありゃりゃん)。

 ついでにもう1つ,この『バラ迷宮』の時代設定は昭和44,45年当時とされているようだが,だとすると東大安田講堂陥落(44年),大阪万博,よど号ハイジャック,三島割腹(45年)の頃。東京の国立大学の女子学生が犯罪捜査でならすというのは,いかにもちぐはぐな感あり。警視総監の養女であるというだけで学内で相克があっても不思議のない時代である。
 全共闘だのノンセクトラディカルだのオルグだのといった言葉も滅びた今,昭和は遠くなりにけり,ということか。

 なお,この『バラ迷宮』新書版には新書ミステリにしては珍しく解説がついていたが,「現代純文学が近代を脱却できていないのに,二階堂黎人らは超近代」……さすがにそれは我田強引水びたしであろうよ,と思われたことだ。

『洋楽inジャパン 日本で流行ったロック&ポップス['68-'86]』 稲増龍夫&ポップス中毒の会 / 学陽書房

Nimg901 【哀愁の君はダンシング・ミスター・シーズン】

1). 「ミスター・マンデイ」をヒットさせたグループは?
2). 「悲しき天使」のフランス語盤を歌ったのは誰?
3). アース・ウインド&フィアーでなくて,アース・アンド・ファイアーとは?
4). 「雨のささやき」をヒットさせたアメリカの長谷川清とは?
5). マッシュマッカーンってどこの国のバンド?
6). 「魔法」のルー・クリスティと「イエロー・リヴァー」のクリスティの関係は?

 ポップス市場での洋楽の停滞が指摘されて久しい。国産ポップスがにぎわっているということであり,それはそれでけっこうなことなのだが,長年洋楽のエキスに漬かってきたこの体には,今さらコムロやモー娘。にひたるのはさすがにめんどくさい。というか,できない。
 さりとて洋楽の新譜にそうそうオイシイものがあるはずもなく,オジサンたちは結局まだ入手していなかった古いアルバムやベストアルバム,リメーク,リバイバル等に走ることになる。そしてそこで,呆然と立ちつくすのである。ある時期の輝かしい洋楽ヒットチューンが,CDではなかなか手に入らないことに。

 1970年前後,上のクイズ(?)に挙げたスマッシュヒットやグループに親しんだ人は決して少なくないと思う。ところがこれが,見当たらない。
 ビートルズやS&Gのような世界的大物ならオリジナルアルバムがずらりとCD化されている。50年代,60年代のものならオールディーズベストなどと銘打って案外簡単に手に入る。ところが,70年代に単発ヒットを飛ばした連中の曲が,版権の具合なのかニーズが細いのか,なかなか再発されないのである。CDがないということは,CD紹介を前提とした記事情報のたぐいも少ないということだ。八方塞がりなのである(たとえばミッシェル・ポルナレフなど,今年になってようやくオリジナルアルバムのCD化が進むまで,情報もなく,大昔のアナログレコードやカセットテープで聞くしかない状況が延々と続いていた)。

 そこでオススメなのが,この『洋楽inジャパン』だ。
 この本は,「日本だけでヒットした曲に比重をおいて,日本で流行った洋楽をまとめた本」である。つまり,世界的な大物に対象を絞ると,日本でだけヒットした一発屋のたぐいが抜け落ちる。逆に,日本のヒットチャートにのみ目を向けると,洋楽シーン全体の流れが見えにくい……という,バランスに留意したわけだ。その結果,冒頭にあげたような懐かしいヒット曲やグループにもきちんとスポットライトが当たる,ということになる。
 内容は,「第1部 日本で稼いだ洋楽スター20組」(おお)「第2部 テーマ別作品ガイド」(おおお)「第3部 B級情報図鑑」(おおおおお)に分かれ,オリコンのデータも参考に,本命,キワモノ,一発屋と,数々の情報を提供してくれている。
 さあ,この本を片手に,再度中古レコード店や輸入CD屋に向かおう。苦心の果てにめぐり合えたあの懐かしいメロディ,それはマルタ島の渚に落とした初恋の涙の味だぜ,ベイベー。

 ちなみに,冒頭のクイズに全問正解した5名様に……と思ったが,どうしようかなあ。

2000/08/19

『FBI心理分析官〈2〉 今日の異常殺人に迫る戦慄のプロファイル』 ロバート・K.レスラー,トム・シャットマン 著,田中一江 訳 / 早川書房

Nimg902 【ずっちゃずちゃのぬたぬた】

 『X-ファイル』のモデルになったとか,プロファイリングという言葉を流行らせたとか,その筋ではなかなか盛り上がった『FBI心理分析官 異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記』の続編。この2巻では,M君事件やつくばの医者による妻子殺人,地下鉄サリン事件など日本の事件もいくつか扱われている。1,900円は割高だが,早川書房もSFがぱっとしなくて苦しそうだし,これは買うしかあるまい。しかし,もう少しなんとかならなかったか,このサブタイトル。

 それにしても『FBI心理分析官〈2〉』を読んでいると,世間にはアブないサイコパスがごろごろ居るようで,けっこう怖いものがある。M君などおとなしい部類に思われるほどだ。いやほんと。とくに真ん中あたりの,20人,30人殺しては切りきざんだ犯罪者についての記述は,さすがに吉野家やケンタッキーでは読みづらい。どうも,なんというか,犯行の多くが性的なものに結びついていることと,臭いに無頓着なところが耐えがたい。オウムのサティアンもそうだったらしいが,人を人と思わなくなると臭いなどどうでもよくなるのだろうか?
 そして,読み進むうちに,金田一少年や新本格派に描かれる連続殺人事件などがいかにコシラエモノか,よーくわかる。人を殺すというのは,ハンパな精神状態ではできない,ということだ。もちろん群集心理で,とか,カッとしてワケがわからなくなって,ということはあっても,「連続」となると常人には難しい。まして,吹雪の山荘や孤島の密室で冷静かつ計画的になんてとてもとても。
 まぁ,本当の犯罪とパズルとしてのミステリは,中華街の麺料理とカップヌードルのように,比較してもしかたのないものなのだろう(当たり前だよ,ワトスン君)。

 気になったのは,この本に紹介される連続殺人犯たち,あるいはオウムの麻原やその側近,さらにはば~か~も~の~の横山弁護士など,トンデモナイ連中に限って,なぜまっとうな人々よりよほど存在感があり,ある意味「人間くさい」コク(のようなもの)をかもし出しているのか,ということだ。中身がないから演劇的に濃いキャラになれるのか,それとも本当に何かが「濃ゆい」のか?
 「個性の時代」などという大手マスコミ風キャンペーンはもともと嫌いだが,実際に「個性」なるものが剥き出しになってきたら,それはけっこうトンデモナイもの,周囲にとってただ迷惑なものでしかないのかもしれない。

 そういえば,この書評を書いていて思い出したが,この手の本のファンを喜ばせた黒い装丁の「週刊マーダー・ケースブック」(省心書房)は,神戸の酒鬼薔薇事件をきっかけに廃刊に追いやられたという噂だ。あれだけ若い女性に売れ(通勤電車で読む乙女が多いんだ,これがまた),96巻も続けば十分という気もしないではないが,いざというときの資料として入手困難というのはそれなりに困る……って,いざってなんだいざって。

2000/08/18

『トルコで私も考えた』 高橋由佳利 / 集英社(ヤングユーコミックス)1,2巻

Nimg903 【本でイスタンブール (← さ,さぶー)】

 少し前,深田祐介の本を取り上げた際に「アジア本というとお気楽バックパッキングモノが少なくないが(それはそれでアームチェアトラベルとして実に楽しいものだが)」と書いたが,本書は漫画家・高橋由佳利がトルコに旅行,翌年からは常住し,やがてトルコの男性と結婚,出産までしてしまうという海外生活密着型イラストエッセイである。

 元来,現実の旅行が苦手な分,この手の連載や本は好きで,書店でコミックの棚に見かけてすぐ購入したのだが,白っぽい淡白なイラスト,手書き文字や写真にのんびりしたギャグを散りばめた内容はなかなか楽しめた。「ヤングユー」誌に何年にもわたって掲載されてきたものの単行本化とのこと。

 ヨーロッパとアジアの境目にあるトルコは,意外や世界でも有数の日本好き国家で,イスタンブールには日露戦争の勝利を祝って命名された「東郷通り」「乃木通り」まであるらしい。本書でも尋ねる町々で著者が日本人として大切にされることが描かれているが,もちろんそれだけでなく,トルコならではの羊やトマトをメインとした食生活,結婚式をはじめとする冠婚葬祭などが細かく紹介され,実にオイシソウ&フシギブカイ。
 フィレンツェやヴェネツィア側に思い入れの強い塩野七生本を愛読する烏丸としては,トルコはなんとなく敵対国のイメージが強かったのだが,そこはコウモリ烏丸,あっさり宗旨変えもシシ・ケバブの串1本である。

 しかし,高橋由佳利……? どこかで見たような名前だ。さすがにレディースコミックまで月々チェックしておらず,そちらで見ているとは思えないのだが……。
 実は本棚に,高橋由佳利の本はちゃんとあった。集英社りぼんマスコット・コミックス『お月さま笑った?』。その中の『コットンシャツに夏の風』(りぼん53年夏の増刊号掲載)にいたっては,雑誌からの切り抜きまで所有していた。高校のふぉーくそんぐくら部の先輩,後輩の,さわやかラブストーリー,もうイカにもりぼん,まっタコ集英社の典型的な少女マンガだ。なんでそういうものを切り抜いて保存しておいたのか,今となっては自分でもよくわからないが,そうか高橋由佳利。20年以上前から目をつけていたわけで,自らの先見の明に胸を張る烏丸であった(な,なんか違わないか?)。

『お楽しみはこれもなのじゃ <漫画の名セリフ>』 みなもと太郎 / 河出書房新社(河出文庫)

Nimg929_2 【今なら『エアマスター』あたりが名セリフの宝庫か?】

 『ホモホモ7』『風雲児たち』で知られる漫画家・みなもと太郎が,さまざまな漫画の名セリフを,自ら描くカットとともに紹介するイラストエッセイ……って,こういうものも「エッセイ」と言ってよいのか,ほんとのところ。

 1970年代後半,今はなき「マンガ少年」(朝日ソノラマ刊)に連載されたもので,従来のストーリー漫画,ギャグ漫画が「ガロ」「COM」両誌によっていったん解体され,それが再構成されて大量消費になだれ込む直前の時代の漫画の絵解きになっている。後年の,夏目房之介『消えた魔球』等の原形といってよいだろう。
 ただ,貸し本時代の作品が数多く取り上げられるなど,全体を通せばやや懐古色が強く,著者の『ホモホモ7』が,発表当時,まことにアナーキーでセンセーショナルな扱いを受けたことを思えば隔世の感あり。また,萩尾望都,大島弓子,樹村みのり,倉田江美,清原なつの等,当時目覚しく活躍していた女流作家たちについても,どの程度わかって書かれているのか,正直言って疑問だ。

 時代が時代ゆえ,やむを得ないことではあるが,著者の漫画観の限界の露見する表記をいくつか拾ってみよう。

  本稿で劇画を取り上げるべきかどうか,じつは非常に悩んだのであります。

  (あすなひろしについて)だいたい,あの美しい絵と物語の作者が男性であることすらすでに驚異なのである。

  (『マカロニほうれん荘』について)ま,とにかくオモシロイと思わねばならぬのでありましょう。しかし,つかれるナァ。

  いしいひさいち氏の四コマ漫画は,従来の「起承転結」というセオリーを無視しきっていて気にならないでもないんだけど,

 ちなみに,白っぽいカットの下段に名セリフを紹介する文章を加える手法は,タバコのハイライトなどで知られるデザイナー・和田誠が映画の名セリフを紹介する『お楽しみはこれからだ』(「キネマ旬報」連載,文藝春秋社刊)という超名作シリーズのまるごとパクり。もちろん,こういうパクりならどんどんやってほしいもので,そろそろ,1980年代,1990年代コミックの『お楽しみは』がまとめられるべき時期が来ているのではないか。誰かやってたらごめん。

『あかい花』 フセ-ヴォロド・ミハイロヴィチ・ガルシン,神西 清 訳 / 岩波書店(岩波文庫)

Nimg951 【たまには露文に浸る】

 「守備範囲が広い」などとお誉めの言葉をいただくと,ついつい舞い上がってグラン・フェッテ・アン・トールナン一発決めようとするのがこの烏丸である。というわけで,今回はロシア文学,それもパラフィン紙のカバーも馨しい時代の岩波文庫だ。

 「個人の恋愛を詩にするなどということはもはや贅沢で……」というようなことを書いていたのは『荒地』のころの田村隆一だったか。気がついてみれば今やそれは詩に限らず,個人の恋愛だの絶望だの狂気だのを小説に描くのも贅沢なシュミとなり果てた。ベストセラーにも映画にもなりにくいし。
 そう思うと逆に,個人の恋愛だの絶望だの狂気だのを切々と言葉にできた時代,それも小賢しいフランス心理小説などより,不器用で土の香りもナイーブなロシアの短い作品たちが愛しいというものだ。プーシキン,ゴーゴリ,ツルゲーネフ,エセーニン(泣),マヤコフスキー,などなど(もちろん,彼らの作品が私小説的であった,なんてことを言っているわけではない)。

 というわけで,ときにはガルシンの『あかい花』なんぞ手にとってみる。100ページそこそこの薄っぺらい短編集なのだが,学生時代と違い,ストレートに1冊読み通すのがとてもつらい。長編小説を読むのに体力が要るように,こういったピュアなテキストを読むのにも,またパワーが必要なのだ。濁った海の魚が真水で生きていけないようなものか。
 表題作は,精神病院の病室の窓から見た真っ赤な花に心を乱され,それと懸命に戦う中でがちゃがちゃに壊れていく若者の話。その花が何の象徴か,とか,そんなことはもう考えない。ただ,心を半分開いて,痛々しさに身を任せる。

 ところで,ガルシンは自宅の階段から身を投げて死んだのだそうだ。死に方まで贅沢で痛々しいのである。

 もう一点,すっかり忘れていたこと。
 手元の『あかい花』は,岩波文庫の第ニ九刷(昭和四九年一月一〇日 発行)で,奥付には「定価★」とある。当時の岩波文庫はこの★の数で価格設定されており(この頃,★一つは七十円だったか?),『あかい花』や『外套・鼻』が★一つ,『ヴェニスの商人』が★二つ,『シラノ・ド・ベルジュラック』が★三つ……という具合で,間の価格はなかったのである。

2000/08/17

『テレビ消灯時間』 ナンシー関 / 文藝春秋(文春文庫)

Nimg882 【目は笑っていない】

 普段は無自覚に読み書きされていてつい失念してしまうが,実のところ「文体」というものは,読み手の喜怒哀楽や論理的思考を喚起(あるいは劣化)させるために存在するものである。そのために「文体」はたとえば揺れることによって読み手の感情や思考を揺さぶる。音韻や語調,倒置,反復といったテクニックの多くは,この「揺さぶり」の効果のために用いられる。
 たとえば「仕事を引き受ける午後の珈琲には,2つの味しかない。甘すぎるか,それほどでもないかだ」という文章は,読み手の内になんらかの感情,思考を喚起する。実は何も書いてないに等しいのだが。

 さて,消しゴム版画家にしてコラムニストという稀有な肩書きを持つのがナンシー関だ。僕は彼女を,当節最もチャーミングな物書きの1人として認識している。その理由は,テレビ番組批評家としての彼女が,極めて緻密で冷静な思索家であるからだ。
 たとえば,次のような文体。

  産声が「ねぇねぇ社長さん」だったという伝説もある。うそ。

  食いつなげる現実もすごいが,すごい男である。ほめちゃいな
  いが。

 彼女のコラムに再三登場するこのような「一人ボケ → 一人つっこみ」「断定 → 半疑問形」で読み手を揺さぶる文体は何を意味するのだろうか。落としてから持ち上げる。持ち上げてから,落とす。揺れるのはテレビ番組やタレントではない。読み手であり,ナンシー関当人なのだ。
 実は,彼女の作業とは赤いものを正しく「赤い」,丸いものを正確に「丸い」と表現することであり,それは本来正当な表現活動である。しかし,その対象たるテレビ番組は,最近ではゲストコメンテーターを並べ,画面下のテロップを連打して自らを「青い」「四角い」と評するワザさえ手にしている。相手はヌエのようにしたたかだ。その結果,ナンシー関は,たとえば

  タレントの価値と仕事量は反比例するという公式がある。ある,
  って私が作ったんだがな。  タレントの価値10なら仕事1で
  も「10」だが,価値が1なら仕事量10でなければ「10」になら
  ない(例・安室奈美恵×笑って手を振る=10,猿岩石×ユーラ
  シア大陸横断=10)。

といったような論理のサジまでふるってテレビ番組やタレントをさばく作業に追われる。それを単に「辛口」エッセイ,「毒舌」コラムと形容して済ませるのは愚かしいことだ。テレビ番組やタレントがその結果酷評されるなら,それは酷評される側に問題があるのだから。

 ちなみに我が家では,よほどの大事件でもなければテレビの電源は入らない。ワイドショーやバラエティ番組のレベルを云々する前に,テレビに反映される社会やそれを見ている自分を対象化する努力,誠実さを放棄してしまったと言ってよい。そんな僕にとって,

  私は中山秀征が嫌いである。何故嫌いなのか,嫌う私に問題が
  あるのか,中山秀征とは何なのか,とおそらく中山秀征のこと
  をこれほど真剣に考えた人間はいないだろうというくらい考え
  ている。

と書けるナンシー関は最高にチャーミングで知性の女神のような女性像であると言わざるを得ない。ほんとか。

2000/08/16

『七夕の国』(全4巻) 岩明 均 / 小学館(ビッグコミックス)

Nimg894 【窓をひらく 手がとどく】

 アフタヌーンに掲載された『寄生獣』で,人間に寄生し,人間を食べるパラサイトをテーマに人間と世界のありようをガリガリ描いた岩明均のビッグコミック スピリッツ掲載作品(よく講談社が小学館で描くことを容認したものだ)。

 お気楽大学生・南丸洋二(ナン丸)は,紙やガラスに小さな穴を空けられる超能力をウリに新技能開拓研究会というサークルを主催している。しかし,その能力が社会で役に立つとも思えず,就職や研究会存続に限界を感じるようになったある日,彼は歴史・民俗学の丸神正美教授から呼び出しを受ける。ところが教授は東北・丸神の里に歴史調査に向かったまま行方不明になっていた。どうやらナン丸は丸神教授同様,その里の血縁者らしい。彼は丸神ゼミの講師や研究生らとともに丸神の里に向かうが,その里で彼らを待ち受けていたのは,古くから続く奇妙な七夕の祭り,そしてその能力についての驚くべき事実だった……。

 という具合にあらすじを書いてみると,いかにこの『七夕の国』が説明しにくいかよくわかる。
 同じ設定で,たとえば石森章太郎(*1),永井豪,あるいは星野之宣,萩尾望都,山岸凉子など,まあ誰でもよいのだが,超能力や超常現象をテーマにしそうな作家に書かせたらどうなるかを考えてみる。どんどん考えてみる。こわい考えになってしまった……いや,その,こほん。ほかの作家が書く場合は,それなりに雰囲気というか,作家によってはキャラクターの表情まで予想できるのだが,こと,岩明均の描く人物は,どうにも予測や説明が難しい。
 つまり,『七夕の国』の登場人物たちにおいては,岩明均ならではの楽観的な人生観,言葉を変えれば「鈍感さ」が一々の行動原理にあり,そしてそのことがこの悲惨なストーリーを救いようのない悲劇に引き落とさないでいるようなのだ。

 さて,そうこうするうちに穴をえぐる(手がとどく)力や窓の外を見る(窓をひらく)能力の謎は少しずつ明らかになり(*2),最後にはアーサー・C.クラークの『地球幼年期の終わり』に勝るとも劣らない大きなテーマがパァァンと音を立てて読み手をえぐる。ちなみに,『寄生獣』でも『七夕の国』でも,「ゴミ」問題が妙に大きく扱われているのが興味深い。
 3巻後半から4巻にかけて,それまでののんびりした雰囲気から,一気に剣呑かつダイナミックな描写が続くが,1巻ではそれなりに活躍した新技能開拓研究会の女子学生・亜紀が出てこなくなるなど人物配置にややバランスを欠くこと,また結末にいたる展開がやや性急で説明的なことなどが残念といえば残念。そのため,全体としてのテンションはさすがに『寄生獣』には及ばないが(まあ,僕は,あれを今世紀のベスト5に押したい,くらいに思っていることだし),それでも本作が,映像的なセンスオブワンダー,成長ドラマとしての一貫した追求性をもって,高いクオリティを維持していることは間違いない。

 などなど,くだくだしく書いてはきたが,僕としては,岩明均はデビュー短編集『骨の音』以来,
  「なんとまぁ,壊れた人間を描くのがうまい作家なのだろう!」
と脱いだ帽子をかじってやまない。物理的にも,精神的にも,本当に見事に壊して見せてくれるのである。どうか,このまま(当人が壊れずに)新作を発表し続けていただきたいものだ。

*1……『ミュータント サブ』について語るときは,やはり「石森」でなくっちゃ。

*2……窓の外のボールに,別のボールをぶつけたら,どうなるのだろう? SF的推測では「ホワイトホール 白い明日が待ってるぜ」なんだが。

『最新東洋事情』ほか 深田祐介 / 文藝春秋社(文春文庫)

Nimg926 【インド人にはびっくり】

 深田祐介。永年にわたる日本航空海外勤務の経験から,主にアジアを舞台としたノンフィクション,小説に痛烈な作品が少なくない。「私はどじでのろまな亀!」でおなじみのTVドラマ『スチュワーデス物語』の原作者でもある(ということがプラスイメージに結びつくのかどうか,正直,わからないが)。

 この人の『新東洋事情』『新・新東洋事情』『最新東洋事情』『激震東洋事情』というシリーズは,アジア各国でいかなる産業が推進されているか,そこに進出した日本企業がいかに非道い目にあっているかが紹介されており,実におもしろい。

 風俗習慣のまるで異なる中東ならわからないでもない。ところが,近くて遠く,似て非なる近隣の国々に工場をこしらえた企業の苦労は,涙なしには読めない。
 親日の旗を振られ,安い人件費につられていざ工場を建てれば,工員の就業意識は低く,工程はアバウト,ようやくラインが稼動すると特許も商標もなく類似製品の工場が現れ,製品・工具は盗まれ,突如給料を倍にしろとストライキ,抑えようとすればいきなり法律が改正され,役場には「裁判では十年かかる」とあしらわれ,撤退しようにも勝手な解雇は違法だ失業問題のもとだと許されず,ぼろぼろになっても日本から金を運んで工場を維持せざるを得ない……。
 大手新聞があまり載せたがらない,こんな話がてんこ盛りだ。

 ところで,シリーズ3冊目『最新東洋事情』には,コンピュータ寄りで少し興味深い話が紹介されている。「裸足で人工衛星を打ち上げる国」インドでは,南部のバンガロールという高原の都市を中心に,いまや一大ソフトウェア開発地域を展開しようとしているのだそうだ。
 もちろん,ソフトウェア開発は,通信網さえあれば,交通などのインフラはとくに必要ない。しかし,なぜインドなのか。
 実は,(教育の普及率には触れていないが,教育を受けられる階級に限れば)インドは,世界的にも数学教育に力を注ぐ国の1つで,たとえば日本で九×九を暗記するところを,二十×二十までそらんじる。また,扇形の面積を求めよ,といった問題でも,単に公式をあてはめて数値が合ったらマル,ではなく,具体的,論理的に面積を求める過程まで書けて初めて満点がもらえるのだそうだ(悪しき平等主義から,円周率πを「3.14」ですらなく「3」で教えようとする日本に比べ,なんという意識の違い!)。
 これはつまり,電卓的演算能力とフローチャート的感性を幼いころから身につけざるを得ないということであり,実際,日本への留学生に見られる数学的能力は相当なものらしい。

 また,インドの次の章では,アジア諸国の寄生虫,感染症についてページが割かれている。
 たとえば,川魚を生で食うと感染する「顎口虫」。これが血液に入ると,体のあちこちにこぶやミミズ腫れができ,それが移動する。こぶを切開してもすでに虫が移動した後,だとか,背中に線状の皮膚疹が多数でき,それが縦横に移動する(!)だとか,こぶがだんだん顔を上がっていって,脳に入ると深刻な障害が起こる,だとか……。うう。エグい。

 最新巻『激震東洋事情』では,経済成長が期待されてきたアジアが,突如として「世界恐慌の発信地」と喧伝されるようになった内幕を探り,軍事大国・中国がアジアに及ぼすさまざまな悪影響を分析する。

 アジア本というとお気楽バックパッキングモノが少なくないが(それはそれでアームチェアトラベルとして実に楽しいものだが),たまにはこの手の本で自分の勤めるカイシャのアジア進出についてあれこれ考えてみるのも一興。

2000/08/15

『鬼』 山岸凉子 / 潮出版社(希望コミックス)

Nimg925 【生まれてこないほうがよかったギャァ ((C)ジョージ秋山)】

 山岸凉子の霊界モノ,心理モノは怖い(*1)。とはいえ,その怖さの核はクール,理知的で,人の心の闇をセラミック包丁でさくりと切り開いたような印象のものが多く,楳図かずおの『赤んぼ少女』タマミ(*2)や稲川淳二の怪談語りの生理的な恐ろしさとはまた違う……と,それまでは思っていたのだけれど。

 潮出版社から出ている『鬼』という中篇。これが,怖い。本当に,それはもう,怖い。
 大の男が夜中に一人で「今,階下の部屋で音がしたような……」とか「窓ガラスにマンガ読んでいるオレが映っているが,背後に何かいそうで……」みたいな,まことにヒヤヒヤした気分になってしまうのである。

 舞台は岩手の寺。歴史がらみの怪談噺というと合戦モノが多く,必然的に京都,鎌倉あたりが舞台となることが多いが,東北の怪奇譚といえばアレである。飢饉,口減らし,カンニバリズム(人肉食)。グァギ。生まれてこないほうがよかったギャァ(*3)。
 『鬼』では,天保期に滅びた村と,現在の大学生のミステリーサークル「不思議圏」の研究旅行とが交互に描かれる。天保の大飢饉の折り,その村の大人たちは口減らしのため,幼い子供らを山あいの穴に捨ててしまう。子供たちは「おっ母」「マンマー」と泣き叫びながら一人また一人と死んでいくが,何人かは先に死んだ者の肉を食って少しばかりのときを生き延びる。そして,最後に残った一人の魂が,孤独と飢えと地獄へ落ちる恐怖から「鬼」と化し,それが現在の学生たちに……。

 山岸凉子としてはかなりラフというかアバウトなストーリーで,学生たち個々のドラマも十分には描き込めていない(なにしろ,学生7人のうち5人までが「実は自分は」「自分も実は」とそれなりにドラマを背負っているので,単行本1冊弱に収めるのはとうてい無理だったろう)。しかし,ともかく,要所要所がひりひりと怖い。
 無造作に生木で蓋をした穴から這い出る痩せこけた男子の念は,自らを捨てた父母を求め,求め,結果的にその地の子供を殺し続ける鬼と化す。

 力のある少女マンガ家はついうっかり踏んでしまうのか,あちらの世界に行ってしまう例が少なくないが,山岸凉子はなんとしてでもこちら岸に踏みとどまってコワイ話を書き続けてほしいものである。

*1……前者としては『化野の…』『ある夜に』『汐の声』『青海波』『黄泉比良坂』など。後者としては『天人唐草』『ストロベリー・ナイト・ナイト』『メデュウサ』『悪夢』『夜叉御前』『常世長鳴鳥』『キメィラ』『死者の家』『蛭子』など。いずれも短編,順不同。

*2……のちに『のろいの館』と改題されるが,少女フレンド連載時は『赤んぼ少女』だったはず。リアルタイムに読んでびびりまくった読者としては初出タイトルをとりたい。

*3……飢餓と人肉食を描いたマンガの一頂点,『アシュラ』(ジョージ秋山)の舞台は都の近隣(北陸寄り?)だったが。

2000/08/14

有罪ノックの自伝ではない 『タコはいかにしてタコになったか-わからないことだらけの生物学』 奥井一満 / 光文社(光文社文庫)

Nimg881  光文社文庫『生物界ふしぎ不思議 タコはいかにしてタコになったか-わからないことだらけの生物学』(奥井一満著)読了。なかなかおもしろい。

 おもしろいというのは,新しい知識が次から次へと提供される,という感じではなく,生物の進化について,「こんなことがわかっていない」「あれもなぜだか見当がつかない」をあれこれきちんと再確認させてくれるため。
 たとえば。貝や蝶の派手な模様は,なぜそうなったのか? 敵から身を隠すため,という説明は一見正しそうでも,自分の姿は見えないはずなのに,どうやってその外見を選べたかの説明ができない(木の葉や花に似た虫についても,現在のデザインが敵から身を隠しやすいということは事実でも,進化の過程でなぜそのデザインを選べたかは説明できない)。
 あるいは。養蚕のカイコは完全に家畜化しており,自然状態では全く生きていけない。中国で発見されてほんの数千年で品種改良されたというのなら,その野性種は? クワコという近い種の蛾はいるが,かなり性質が異なり,いろいろ説明のつかない点があるらしい。
 さらに。地上動物として発達した前肢を捨てて翼に変え,歯を捨て,膀胱を捨て,鳥が飛ぶ姿を選べたのはなぜか?
 などなどなど。

 結局,個々の生物の個々の器官や生態は調べられても,進化の過程は説明がつかない,証拠もない,というのがおおかたの実情らしい。そして,進化に関する話題を扱う本は,いうならば,そのへんをぐらぐら揺すったり揺すられたりしてるわけだ。
 本書ではそのあたりを徹底して「わからない」で押し通しているので,「とんでも」にはなってない代わり,あっと驚く明快さもない,といったところか。
 こういうのを読むと,しょせん「進化論」は「学」ではなくSF(サイエンス・フィクションというより,スペキュレイティブ・フクションてやつ)の領域かな,という気がしないでもない。でもって一歩間違えると,これが「宗教」。あな,おとろしや。

2000/08/13

まやかしごまかしおためごかし 『マスコミ報道の犯罪』 浅野健一 / 講談社(講談社文庫)

Nimg924  インターネットが身近になった昨今,Yahoo!JAPANのニュース欄などでは,時事通信,ロイターなど通信社からの「なま」のニュース配信に直接触れられるようになった。悪くないことだと思う。それと見比べるうちに,朝日,讀賣などの大手新聞がいかに配信データをそのまま垂れ流しているか,あるいは逆に,いかにそのデータに根拠のない勝手な解釈を付け加えているか,ということが見えてくるからだ。
 「~が明らかになった」とだけあって,誰がいつどこでそう述べたか明記していない記事は,大手マスコミの報道であっても眉唾で対したほうがよい。

 本書『マスコミ報道の犯罪』の著者は元・共同通信の記者で,現場での体験から,日本のマスコミ報道がいかに客観報道からかけはなれたものか,またそのためにいかに多くの一般市民が事実から隔離され,あるいはより具体的に被害を被っているかを説く。5W1Hを押さえた文体は明快で,一種のカタルシスさえ与えてくれる。
 たとえばオウム事件の際,警察からのリークだけをベースに,どれほど憶測に基づく報道が繰り返されたか。松本サリン事件の河野さんに対する扱いを思い起こせば,大手マスコミ報道の矛盾点は明らかだ。

 そして本書の最後には,ブラックというか痛烈なしっぺ返しが待ち受ける。
 著者は「あとがき」として,松戸OL殺人事件の小野悦男容疑者をマスコミが最初から犯人扱いしたこと,それが結果としては冤罪だったことを,自著の論拠として掲示している。ところがその小野容疑者が,釈放後,今度は同居女性殺害,女児誘拐・殺人未遂等で再度世間を騒がせた,という揺るがせない事実。
 冤罪判決の是非についてはさておき,ここではむしろ,このアイロニーを,「報道に対しては常にニュートラルに対する必要があること」「いったん明らかになったと思われることでも,常に検証を重ねる必要があること」の好例とみなしたい。

 とにもかくにも,大手マスコミの報道なら無条件に信用してしまう傾向のある方に,ぜひともお奨めしたい一冊。

『ドーナツブックス』ほか いしいひさいち / 双葉社

Nimg923 【野菊の鼻】

 さて,そのいしいひさいちである。
 もし手元にいしいひさいちの単行本が1冊でもあるなら,手に取ってぱらぱらページをめくってみていただきたい。出てくるキャラクターの「鼻」の描き分けがすごいのである。何百というパターンがあって,それぞれリーズナブルな形をしているのがおわかりいただけるだろうか。泰然とした部長は座った高くて大きな鼻,神経質な課長はとがった細い鼻,ぼんやり部下は丸い小さな鼻,などなど。いしいひさいちが作中でおちょくりつつも決して憎からず思っているキャラと,本気で毛嫌いしているキャラの違いが,鼻の形に現われているような気さえする(たとえば,『ドーナツブックス』に何度か出てくるゴーツクバーサンは,同一人物ではないくせに横顔にタバコをくっ付けたような鼻だけは共通)。登場人物の「目」のほとんどがいわゆる点目かにこちゃん目だけに,鼻への力の入れようが目立つ。

 トルストイは『戦争と平和』で数千人の登場人物を描き分けたと言われるが,いしいひさいちは鼻で数千人を描き分けているのであった。いやほんと。

2000/08/12

[非書評?] 『腐乱! 1ダースの犬』

【ビルマのたわごと】

 『ティファニーで朝食を』(トルーマン・カポーティ)は魅力的なタイトルだ。タイトルだけである程度成功が約束されたようなものだ。
 『ライ麦畑でつかまえて』(ジェローム・デーヴィド・サリンジャー)もまた素晴らしい。原題は『CATCHER IN THE RYE』,つまり“ライ麦畑の捕まえ手”で,訳者の柔軟さも見事。
 これに対し,講談社X文庫には『ティファニーでつかまえて』(秋野ひとみ)という本がある。……タイトル文化をなめとんのか。こういう例はけっこうあって,人ごとながらムッとしてしまう。

 映画『愛人(ラマン)』の原作で知られるマルグリット・デュラスの『破壊しに,と彼女は言う』も,しびれるようなタイトル。ところが,中上健次には『破壊せよ,とアイラーは言った』という本がある。恥という言葉を知らんのか。
 小説ではないが,ポール・サイモンに『ぼくとフリオと校庭で』という佳曲がある。どういうわけかこのタイトル,作家や漫画家に「もてる」。たとえば『ぼくとフリオと校庭で』(諸星大二郎),そのまんま。『ぼくとハルヒと校庭で』(原田じゅん),何をかいわんや。『ボクとカエルと校庭で』(みうらじゅん),あーはいはいはい。
 『ゴドーを待ちながら』は,サミュエル・ベケットの不条理劇。「何が起こるのだ,いや,何も起こらないだろう。それどころかきっとゴドーは最後まで現れず,何事も説明されないに違いない。うう……」的展開の予想される,まことに前衛劇はこうでなくっちゃなタイトルである。しかして,これのパクりも腐るほど現れ,最近もひきの真二のコミックに『Todoを待ちながら』なんてのが出ている。

 念のため。
 これらのタイトルパクり作品の一部は,ちゃんと本文内で,元のタイトルの小説や歌曲を引用し,それを「分かったうえでパクっているんですよ」と説明している。たとえば笈川かおるのコミック短編『ぼくとフリオと校庭で』はポール・サイモンの歌詞を引用し,それに日本の高校生の心情をシンクロさせたストーリーだった。いとうせいこうの『ゴドーは待たれながら』も,「このくらい分かって読むように」という作者のメッセージの込められた味のあるタイトルだ。
 つまり,パクることすなわち全面的にいかーん! などと言うつもりはないのだ。「本歌取り」「パロディ」「洒落」というのは立派な技術,文化だと思う。許せないのは,「ちょっとオシャレなタイトルなのでイッタダキー。どうせ普通の読者にはわからないだろうしー」的,安直愚昧なパクりなのである。パクるならいっそ,いしいひさいちのドーナツブックスの各巻のタイトルくらいごりごりパクり通してほしいのである。
 いわく『存在と無知』『丸と罰』『健康と平和』『玉子と乞食』『老人と梅』『いかにも葡萄』『椎茸たべた人々』『垢と風呂』『ああ無精』『長距離走者の気の毒』
 いわんや『まだらの干物』『馬力の太鼓』『美女と野球』『フラダンスの犬』『かくも長き漫才』『学問のスズメ』『麦と変態』『不思議の国の空巣』『ドンブリ市民』『泥棒の石』
 あまつさえ『毛沢東双六』『とかげのアン』『伊豆のうどん粉』『公団嵐が丘』『出前とその弟子』『女の一升瓶』『任侠の家』『パリは揉めているか』『風の玉三郎』『アンタ・カレーニシナ』『テニスに死す』『お高慢と偏見』
 いやはや,出典と作者名を正確に把握するだけでもけっこう大変だ。ちなみに,これらは担当編集者が付けているのだろうが,その編集者,文学部の露文出ではないかと思われる。なんとなくだけどね。

大人の味 『象は忘れない』 アガサ・クリスティー,中村能三 訳 / 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)

Nimg922  宮部みゆきの『龍は眠る』における,登場人物の子供っぽさについてはすでに述べた。
 実際,少なからぬ(上質なものを含む)ミステリ作品で,主人公,ないし脇役の幼児性がストーリー展開のための便利な道具とされているのは明らかだ。
 この烏丸,ポーの短編におけるオーギュスト・デュパンのクールさが好きなのだが,このような描き方はなかなか長編やシリーズものでは難しいらしい。子供っぽいキャラがいないと,ストーリーが踊らない,とでも言うか。

 クリスティーのポアロものにおける愛すべき脇役,ヘイスティングスもその例にもれない。彼は決して悪人ではないが,こと複雑な犯罪に対しては無邪気で頓珍漢な推理を繰り返し,ばたばたと場をにぎわせてばかりいる。ところが,クリスティーの作品は,晩年に向けて,このヘイスティングスのような脇役を必要としなくなる。過去に起こった事件を関係者の言葉を重ねることで少しずつ明らかにしていく,そのような独特な描き方に作風が変わったためである。「回想の殺人」と称されるそれらの事件では,多くの場合,犯意は憎悪や悪意ですらない。

 『象は忘れない』は,1972年発表,著者82歳(!)のときの作品で,探偵エルキュール・ポアロが登場する最後の作品となっている(『カーテン ポアロ最後の事件』は第二次大戦中にすでに書かれていた。晩年の作品と読み比べれば,ポアロもヘイスティングスもどたばたした印象で,明らかに若書きであることがうかがえる)。『象は忘れない』に至って,「灰色の脳細胞」という決めゼリフを連発するあのキザで自己顕示欲の強いポアロは,いつの間にか静かで人の話を聞き出すのが巧い老人と化している。事件そのものも時の流れにさらされ,血や悲鳴は風化し,その分,悲しい物語がやがて明らかにされる。全体に流れる情緒は,東洋的諦念にかなり近い。

 しかし,この『象は忘れない』をクリスティーの代表作として無造作に推せないのはまたしかたがないところだ。『アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』など,初期のトリッキーなフーダニット,ハウダニットものを読み重ねて初めて,後期の静謐な境地がまた引き立つのだから。

翔ぶって,こんなことか? 『黄金を抱いて翔べ』 高村薫 / 新潮社(新潮文庫)

Nimg948  先に紹介した宮部みゆきの『龍が眠る』が日本推理作家協会賞受賞作品なら,デビュー作で日本推理サスペンス大賞を受賞したのが高村薫の『黄金を抱いて翔べ』である。

 銀行本店の地下深く眠る6トンの金塊。大阪の街でしたたかに生きる6人の男たちが,この金塊強奪計画に立ち上がった……。世評では,「圧倒的な迫力と正確無比なディテールで絶賛を浴びたサスペンス作品」ということになっている,らしい。
 ……したたか。迫力。そうか? とても,信じられない。

 確かに,設定は面白いし,デビュー作と思えない筆力は大変なものだ。しかし,一読後のイメージたるや,甘たるいイチゴジャムがねばついた中にうっかり靴を突っ込んでしまった,というようなものだった。
 なにしろ,この本に登場する男たちときたら,こぞってねちねち,なよなよとモノや過去にこだわり続け,おまけに「したたか」の対極と言ってよいくらい他者を動かせない。「女々しい」と言う言葉は今どきの女性には似合わず,使いたくないのだが,ほかに適切な言葉が思い浮かばない……ともかく,出てくる男,出てくる男,底なしに女々しくて情けない。
 だから,よしんば生き延びられたとしても,得られるモノや人生は,情けないものとなってしまう。

 ま,ハードボイルドとされている探偵など,実のところたいてい過去を引きずって酒瓶片手にべそをかいているような輩だらけではある。それにしても,これなら『ルパン三世』のほうがずっと面白いと思うぞ俺は。

2000/08/11

[非書評] 不愉快な書店

 不肖この烏丸,常々気にかけることの1つに,
  本屋では風のような,あるいは柳の枝のような存在でありたい
というのがある。

 本棚と本棚にはさまれた狭い通路で,立ち止まって本を捜す者,通り抜ける者が相次ぐのだ。背後に人の気配あらばすみやかに体の角度を変え,互いによりスムーズに通り抜けられるようはかるのが本好きのツウ,イキ,というものであろう。腰をすえての立ち読みがすべて不可,とは言わないが,立ち読みにふけるならせめて本を求める人,別のコーナーへ向かう人の邪魔にならないよう心がけたい。
 逆に言えば,最悪なのは体を強張らせ,後ろを人が通ろうが,自分の正面の本を求める者がいようが,頑として動こうとしない輩。酷いのになると,膝元の平積みの本の上に事務鞄を置いたりする。軽く押しのけたり鞄を払いのけたりしてかまわないと思われるが,そういう御仁に限って権利意識が強く,余計に体を強張らせ,むっとした顔でにらむことも少なくない。
 存外邪魔なのは,本棚や雑誌の平積みスペースの,コーナーというか,角のところに立って立ち読みする輩。女性に多い。実際はコーナーは人と人が交差する,なかなか迷惑な場所なのだ。想像だが,そういう場所に立つことによって,「あたしが一番邪魔な場所を占めているわけじゃない」「たまたま気になる記事がちょっと目についただけで,長い時間立ち読みするつもりではない」という言いわけが全身から吹き出ている感じさえする。心内にあれば色外に現る,むべなるかな。

 ここまでは客の側の話だが,書店の通路で風,柳であってほしいのは店員も同様。しかし,教育の行き届かない書店では,その店員が一番邪魔なこともある。
 のすのすと通路の真ん中を本を抱えて歩き,客に待機させる。しゃがみこんで本棚下段の文庫を出したりしまったり,ていねいに棚を掃除しようとしたりするのはよいが,その棚で本を探したい客が近づいても気づかない。
 客の動線を考えず,レジわきの最もすれ違いの多い場所にコロ付きの特設棚を設ける。よく見ればそれは特設棚ですらなく,自分たちの新刊旧刊入れ替え作業用のカートではないか。
 さらに,レジで客の本を受け取りながら店員同士で私事を喋り続け,そのあげく「カバーは要らない」などの客の声を聞きのがす。暇そうに文庫のカバーを折っている店員がいるのに,片側のレジしか使わない。レジの機械壊れればひとしきり内輪で騒ぐだけで,その間待たせた客に謝罪せず。あげく「じゃあしばらくレシートはなしでいいね」などと店員どうしで納得して,レシートの必要な客には一言の謝罪もない。仕方なく領収書を書いてもらおうとすると,露骨に面倒という顔をする。
 水○○のブッ○ス○○モの店員のみなさん。これ全部あなた方のことですよ。

静かに寝なさい 『龍は眠る』 宮部みゆき / 新潮社(新潮文庫)

Nimg879 【サスペンスの構造】

 ストーリーテリングが巧みで,ハートウォームで,はらはらしているうちに一気に読み通せる……そんな評判も高い宮部みゆきの作品だが,この烏丸,どちらかというと宮部は苦手で,少なくとも長編を続けて読みたいとは思わない。その理由が,この『龍は眠る』ではかなり明確に透けて見える。

 嵐の夜,新聞社系雑誌編集部に勤める語り手は,超常能力者を自称する少年と出遭う……。

 しかし,この後の展開が,とにもかくにも疎ましい。語り手は何かというと過敏に騒ぎたがり,目の前にあるあらゆることにシロクロをつけたがる。つまり,信用ならないただの子供なのだ。
 たとえば語り手は,超常能力が存在するか否かについて,再三,うわずった悲鳴をあげる。数分すら,ニュートラルな状態を維持できない。何年も前に別れた許婚者のことも実は許せていない。まるで遊びのないハンドルであり,はっきり言って,危険極まりない。また一方,超常能力者の少年は,人の心が読めるとは信じられないくらい人の心の読めていない言動を繰り返し,周囲にも再三迷惑を重ねる。
 ネタバレになるのでこれ以上は書けないが,それ以外の登場人物も,総じて含みのない,短絡的,衝動的な行為を繰り返す。

 これらは,構造的にはある程度しょうがないことであって,そうでなければサスペンス小説など成立しない。殺人鬼が跋扈(ばっこ)する夜に一人で湖で泳ごうという女学生の一人もいなければ,ジェイソンとて活躍の場は得られない,そういうことだ。

もひとつ 『ミステリー大全集』 赤川次郎 ほか / 新潮社(新潮文庫)

Img236256 【昭和二十六年のミステリー】

 せっかくだから,もう1冊,誤植をご紹介しよう。
 新潮文庫『ミステリー大全集』は,赤川次郎,泡坂妻夫,栗本薫,佐野洋,島田荘司,森村誠一ら,ベテラン,中堅のミステリ作家13人の短編を集めた好オムニバス。収録作品もよく練れていて,読み応えがある。……だが,問題はその奥付けだ。昭和二十六年発行って,いったいいつの話?

2000/08/10

まだまだ 『誤植読本』 高橋輝次 編著 / 東京書籍

Nimg905 【アラブゼミ】

 先ほど紹介した『蛾』は巻末の誤植がウリだが(そうか?),こちらは1冊まるごと誤植をテーマにした本……と思って買ってしまったが,あいにく「誤植」そのものについては全体の2割か3割程度で,さすが教科書会社,どちらかというとこれは出版の現場での「校正」苦労譚についての古今の随筆を集めたものという趣である。
 要するに,残念ながら帯に「ここだけの恥ずかしい話しに思わずニヤリ。失敗は成功の墓。この本でしか味わえないあの作家達の告白」とうたわれているほどには笑えない。確かに妙な誤植を出して青恥赤っ恥,という話もなくはないが,むしろ「原稿には間違いないよう書いたつもりなのにベテランの校正者に指摘され毎度赤面」「苦心の作語を校正で勝手に直されて不本意」「漱石の全集を校正したときはこんなことに苦労」といった,まあ古風というか純文学的というか。「同じトクトミ兄弟でも、兄の蘇峰は徳富と点あり、弟の蘆花は徳冨と点なし、それぐらいのことなら、たいがいのものがわきまえて」いる読者を想定しているということである。唐沢兄弟のどちらが原作でどちらが作画か,という読者はあんまりお呼びでない。
 であるから,本書を購入する際には,帯や目次で著者一覧に目を通してからのほうがよいだろう。

 と,これだけでは面白くもなんともないので,この烏丸が出合った誤植について一つだけご紹介しよう。
 以前担当したある雑誌記事に,「アブラムシと共存するアリマキ」という表現があった。どういう内容の文章だったかはもう思い出せない。ともかくその「アブラムシ」である。これが,初校のゲラ(校正刷り)では,なぜか「アブラゼミ」となっていた。活字を組んだ(正確には写植だが)者の思い込みだろう。無造作に赤を入れ,訂正した。すると,何をどう勘違いされたのか,再校では「アラブムシ」になってしまった。なんとも楽しい言葉だが,笑って通すわけにはいかない。赤を入れ,その折に訂正はほとんどそれだけだったので少し考えて責了ということにした。刷り上がったものは,「アラブゼミと共存するアリマキ」。
 ……その写植オペレーターは「アブラムシ」という言葉に,何かよっぽどつらい思い出でもあったのだろうか?

 パソコン,ワープロが普及した昨今では,手書きでは考えられない誤植も頻発する。「以外」と「意外」,「内蔵」と「内臓」の混同など,インターネットの掲示板では日常茶飯事。ついでに「敷居が高い」「役不足」なども使い方には要注意だ。

Rare! 『蛾』 ロザリンド・アッシュ,工藤政司 訳 / サンリオ(サンリオSF文庫)

Img232896 【誤爆】

 不肖この烏丸,本好きながらコレクターとうそぶけるほどでなく,珍本・稀本,初版・サイン本のたぐいを求めて神保町界隈を散策する域には至っていない。そんな烏丸の凡庸極まりない本棚だが,それでも永年本の虫をやっていれば珍本と目される本の1冊2冊は向こうからやってくる。

 ロザリンド・アッシュの『蛾』は今は亡き──もっとカゴ一杯買っておくのだったと日本中のSFファン,ミステリマニアを泣かせた──かのサンリオSF文庫中の1冊。サンリオSF文庫については書きたいことのなくもないが,今はさておき,この『蛾』である。内容そのものは,いわゆる1つのゴシックホラーとしか言いようのないもの。映画化の話は寡聞にして聞かないが,あってもなんら不思議のない。それより本書巻末に添付されている自社の文庫本を広告する解説目録,これがいやもう,もの凄い。
 そこにはモルデカイ・ロシュワルトの『レベル・セブン』,ケイト・ウイルヘルムの『カイン市』にはさまれてレイ・ブラッドベリの『万華鏡』一巻が紹介されているのだが,なんとその著者たるや

    レイ・ブラッドベリ 川本三郎=誤訳

となっているのである。「誤訳」!
 故意か偶然か小さな漢字1文字(*1)。たかが誤植,されど誤訳。このページを担当した編集者のあとさきの心持ちをおもんばかるだに,底知れず味わい深い誤植中の誤植,名品といえよう。

 ちなみにこの解説目録部,書店店頭に置かれた折りには数センチの(正しく?印刷された)紙が上からペイパアセメントで貼り付けてあった。もし古書店などで首尾よく本書を入手できた暁には無理やりはがそうとせず,ソルベックスなど用いそっと優しく引っぱがしてやることを強くお奨めしたい。

*1……版下業務にかかわった経験のある方なら,写植オペレーターがうっかり誤字を入力したことに気づいたのち,正しい文字を近隣にバラ打ちする場合があることをご存知だろう。

『図説 剣技・剣術』 牧 秀彦 / 新紀元社

【冥府魔道 修羅の道】

 この『図説 剣技・剣術』,実は大変な本なのではないかと思う。内容はタイトル通り,あらゆる「剣技・剣術」を図解して説明するというもの。A5版297ページ,1,900円。お買い得だ(多分)。
 とりあえず,帯の内容紹介から引用しよう。
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「一の太刀」(一刀で勝敗を決する豪快な示現流剣術),「惣捲・そうまくり」(5人の敵をなで斬りにする連続技),「信夫・しのぶ」(暗闇の敵を倒す技),「暇乞・いとまごい」(暗殺剣)など,剣の技を中心に長刀(薙刀,槍,棒・杖)や暗殺・護身用に使われた仕込み刀の技も紹介します。
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 むう。PCの前で曲がった背筋もピンシャンとしてくるようではないか。

 紹介されている剣技・剣術のそれぞれには,(決して巧みとは言えないが)誠実なイラストが添えられ,それがいかなる技かコマ落ちながら見て取れる。その他,剣術の歴史や作法,刀剣の形状・系譜など,テキストもいたれりつくせり。僕は軍刀を一振り所有してはいるものの,刀剣については全くの素人で,この書物の内容がこのジャンルのものとして充実しているのか否かの判断は正直つかない。しかし,コンビニエンスな品揃えへの情熱は本物であり,さらに「眠狂四郎の円月殺法」「木枯し紋次郎の長脇差剣法」「拝一刀の水〓流」(〓は「鴎」の「メ」部を「品」にしたもの)など,フィクションも並び扱うなど,その柔軟な姿勢も魅力的だ(ないものねだりだが,コミックまで扱うのなら,白土三平の剣豪マンガに出てくる剣技の数々を,コラムでもよいから取り上げて欲しかった……)。

 本誌を,たとえば「全国剣道なんとか大会」出場者や居合の有段云々な方々が参考にして,さてどうなるか……ということについては,想像の及ぶところではない。得られるものもなくはないだろうが,やはり実技としての剣技はまた別のものだろう。
 これは全くの想像だが,本誌の出現を待ち焦がれていたのは,これから時代劇をものしようとする小説家,漫画家,さらにはテレビディレクターや脚本家の卵たちではないか。その意味で,著者の「あとがき」が,また味わい深い。
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今後はマンガの殺陣に関する(絵コンテを切る)お仕事や,ポーズ写真集の刀剣インストラクターといった業務も手がけていく予定なのだが
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 なるほど……。こうなってはもはや忍術漫画に出てくる白髪白髭の服部半蔵のごとく,縁側に立って「フーム」とうなり,著者・牧氏の活躍を祈るしかあるまい。

2000/08/09

『鬼平犯科帳』 池波正太郎 / 文藝春秋社(文春文庫版は24巻まで)

Nimg950 【ごめん】

 千住大橋をすぎて上野,人形町,八丁堀とめぐる電車に揺られながら,目は左手の池波正太郎を追っている。
 火付盗賊改方の長官「鬼平」こと長谷川平蔵と配下の与力,同心,密偵たちの,あるときはサスペンス,あるときは義理人情あふれるやり取りに心を躍らせ,気がむけば女房に軍鶏鍋,柚子切り蕎麦,根深汁など用意させて酒を楽しむというのは,十代二十代のころにはなかなかわからなかった
  (これは,もう,たまらぬ)
よろこびである。

 ちなみに「火付盗賊改方」は徳川幕府,若年寄直属の一種の軍隊で,奉行所に比べて特別の機動性を許され,兇悪犯に対しては取り調べをせずとも成敗することができた。
 妾腹に生まれ,若いころには無頼に走り,火付盗賊改方の長官となった今も
  「血を流さず,女をてごめにせず,盗られて難儀する所へは入らず」
を身上として本格のつとめ(盗み)をする者には温かく,兇悪犯にはとことん厳しく向かう鬼平の姿に,平成のサラリーマンの通勤電車と池波正太郎は
  「もう切っても切れぬ間柄」
になってしまったといってよい。

 鬼平は公務によく舟を使う。毎日とは言わないまでも会社勤めもそのようにはならないものか。
  「全く人間とは奇妙なものよ」
とため息をつきつつ,文庫を片手に思いはあれこれとどまらぬ。

 たとえば,読み進めるうちに,当時の役職をまとめた表のようなものがあれば,と思う。
 吉宗はなにしろ暴れん坊とはいえ将軍である。水戸黄門も先の副将軍。田沼意次が老中,遠山の金さんは北町奉行で,奉行といえばこれはもう本来市井に姿を現さないくらい偉いお殿様である。
 長谷川平蔵は四百石の旗本。役職として火付盗賊改方の長官を務めている。だから,盗賊の一味に旗本がいても,
  「やりにくい」
程度であって,
  「手が出せぬ」
ほどではない。
 さて,与力といえば奉行や火付盗賊改方の長官にはアゴで使われる身分。ところがこの与力が,平岩弓枝『御宿かわせみ』では「殿様」扱いで,だから侍の娘とはいえ宿屋の女将るいと与力の弟たる東吾はなかなか夫婦になれない。
 さらに与力の下に,半七や銭形平次らの岡っ引き。このあたりになると,犯罪に旗本が参画していたら
  「何も見なかった」
ことにせざるを得ない。さらには八五郎ら下っ引き。
 これら役職をきちんとツリー構造にして,それぞれにテレビドラマのキャストの写真をリンクといったホームページ,誰か作ってくれぬものか。

 あるいは,「お上の御用」。考えてみれば奇妙な言葉である。「用」とは英語でいえばbusiness,あるいはmatterであろうか。別に何をさすわけでもない。「御用」のポイントは「御」のほうである。つまり,
  「上のほうの,やんごとない」
ことだから,おぬしら悪党どももここはひとつ神妙に,ということなのである。こうしたことに
  「おもしろい……」
などとまるでひとごとのように
  「溜飲を下げて」
しまうのは,読者とはいえまことに
  「盗人たけだけしい」
といえよう。

 満員電車の乗り越しついでにもうひとつ。
 『鬼平犯科帳』を読んでいると,鬼平が居酒屋や小間物屋などに入るときは,塗笠をとりながら
  「ゆるせ」
と言ってつかつかと入る。シブい。
 現代なら「失礼」「おじゃまします」「ごめんください」か。コンビニで店員が奥にいたりすると「すみませーん」。

 それにつけても,なぜ客というもの,このように謝ってばかりいなければならないのだろう。

『「巨人の星」に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ。』 堀井憲一郎 / 双葉社

【ホリイディ・オー・ホリイディ】

 週刊文春の『ホリイのずんずん調査』という1ページ連載をご存じだろうか。フリーライターの堀井憲一郎が,
   チョコボールを1000個買うと金,銀のエンゼルはいくつ当たるか
   バットを最も遠くに放り投げるプロ野球選手は誰か
   人はSMAPのメンバーをどれだけ言えるか
   覚えている語呂合わせ年号暗記
   「ジパングあさ6」と「めざましテレビ」の星占いはどちらが正しいか
   野球中継延長で一番泣いた番組は何か
   キャッシュカードの暗証番号は
   お笑いタレントでツッコミが早いのは誰か
など,どうでもよさそうな,だが気になるといえば気になるテーマを恐ろしいばかりの手間ヒマかけて調べ上げる,というものだ。
 その成果は『この役立たず! ホリイのずんずん調査』というタイトルで文藝春秋社から単行本にまとめられている。続刊も楽しみだ。

 その堀井憲一郎が,そのあくなき調査精神で,あのスポ根マンガの帝王『巨人の星』にツッコミ入れまくった本が,『「巨人の星」に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ。』である。小説推理に連載されたもので,あの星家の家計収支や,飛雄馬の住んだマンション探し,張作霖も食べていた九竜虫,巨人軍入団テスト遠投50mの謎,飛雄馬には空白の1年がある,など,執拗にツッコミを入れまくる。
 いや,そもそも,内容以前に,タイトルがすごい。なにしろ,小説推理連載時は『が~んの時代』だったものが,なんと『「巨人の星」に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ。』なのである。『「巨人の星」に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ。』。

 タイトルにこれだけウケたのは,伊藤理佐のコミック『いいようにはしないから』以来かもしれない。あ,発行はそっちが後か。

『黒後家蜘蛛の会』 アイザク・アシモフ,池 央耿 訳 / 東京創元社(創元推理文庫)

47 【心地よい椅子で読みたい】

 創元推理文庫のロングセラーの1つに,アシモフの『黒後家蜘蛛の会』というシリーズ(全5冊)がある。雑誌等の海外ミステリ人気投票の常連でもあり,ご存知の方も多いかと思う。
 『黒後家蜘蛛の会』(ブラック・ウィドワーズ)という女人禁制のクラブがあり,そこには毎月1人ゲストが呼ばれ,食後の楽しみとして,その人物がずっと昔から気になってきたことや最近出遭った他愛ない謎が提出される。その意味を解読しようと,個性的なクラブ員が侃侃諤諤(かんかんがくがく)知恵を出し合うが,最後は毎回,給仕のヘンリーが鋭い洞察力で正解を見抜くという,典型的なアームチェアディテクティブストーリー(SFではない)。

 最初に手にしたのはもう20年以上昔のことで,個々の謎や推理などすっかり忘れており,最近通勤路の読み物に久しぶりに手にしてふと気がついた。この「黒後家蜘蛛」というのは,数年前に関西で繁殖して話題になった毒グモ,セアカゴケグモの親戚ではないか! ブラック・ウィドワーズというカタカナがサブタイトルにあったため,なんとなくそういう(ちょっと悪趣味な)クラブ名,と頭の中で記号化してしまい,実在するクモの名だとは夢にも思っていなかった。赤面。

 いずれにせよ,バラエティに富んだパズル的プロット,ほどほどの人情,そしてもちろんヘンリーの快刀乱麻な推理の冴えがまことにおもしろく,気分転換には心からお奨め。アシモフ当人のシリーズへの愛着もあり,巻が進んでもクオリティがさほど落ちないところもポイントが高い。
 なお,アシモフには,本シリーズとかなり似通った設定の『ユニオン・クラブ綺談』という短編集があり,そちらもよくできている……まあ,さすがにヘンリーの魅力には及ばないのだが。

『みるなの木』 椎名 誠 / 早川書房(ハヤカワ文庫JA)

Nimg921 【SFゴコロと言葉について】

 少なくとも日本国内では,「SF」というもののスピリッツが,ゲームやアニメ作品のほうに拡散してしまい,テキストとしての力を失ってしまったかのように見えて久しい。そんな中,久しぶりに「どの1行を切ってもSFのキンタロアメ」と言うべき言葉の力と魅力を堪能させてくれる短編集がこれだ。
 とくに,どこか違う惑星,あるいはよしんば地球(日本)だとしても相当破天荒なバイオ大戦勃発後と思われるジャンキーでクラッキーな世界の生態を描く『みるなの木』『赤腹のむし』は傑作で,この2編,併せて40ページ程度を読む(それも,できれば音読をお奨めしたい)ためだけにこの1冊を買ってもまず損はない。さらに,本作で椎名SFの「性悪で放っておくと卵の殻ぐれい食い破ってしまう」が「茹でたらそのむしがうまいという」魅力に捕えられてしまったら,そのときは新潮文庫で既刊の『武装島田倉庫』にさかのぼるとよいだろう。

 ただ……,収録作の1つ,『対岸の繁栄』に見られるプロットは,明らかに筒井康隆の短編『佇む人』から想を得たものであり,さりとてかつて日本中のSFファンを泣かせた『佇む人』ほどの冷たい叙情性,寂寥感に至っていると思えないのだが,どうだろう。「あの」ハヤカワからの単行本化の折に,誰もこの点に気がつかなかったとは思えないのだが。
 あるいは,(『佇む人』未読の方のためにもここには書けない)この妻の扱いというのは,タイムマシーンやタコ足火星人の侵略同様,もはやパブリックドメインな設定と化しているということなのか。

 それにしても,巻末の初出一覧に目をやって,少々しみじみとしてしまった。全14短編のうち,5作が「海燕」,3作が「小説新潮」で「S-Fマガジン」は1作だけ。いかにもなし崩しというか,もはやSFは,文芸誌や中間小説誌からリジェクトされさえしないのか。著者のボーダーレスな人気によるものとは思うが,純文学と中間小説とSFとが互いにぎりぎり軋むように対峙していた時代を思い起こせば,若干情けない,かなたこなたの頼りなさよ。

『代打屋トーゴー』 たかもちげん / 講談社

Nimg898 【さらばトーゴー】

 先週発売されたモーニングの告知によると,『代打屋トーゴー』『祝福王』の作者・たかもちげんが7月5日,都内の病院でガンで亡くなったとのこと。享年51歳。
 千代田線の中でこの告知ページを目にし,不覚にも涙がこみ上げてしまった。

 たかもちげんは,必ずしも最上のコミック作家というわけではないかもしれない。『代打屋トーゴー』をはじめとする彼の作品が最も高い水準にある,というつもりもない。
 しかし。
 以前にもある書評で「週刊で毎週ワントラブルクリア物のマンガというのは,ありそうで案外ない。」ということを書いたが,彼の作品に共通した「ちから」は,単にそういうアイデアをひねり出す労力,あるいはそれを読むことの快感,ということだけではすまない。こういったコミック作品が,純文学の陥った安直で愚鈍なペシミスムに対する爽やかで力強いアンチテーゼとなっている,それが大切なのである。彼ら以外に,この技術や労力をとことん軽んじるようになってしまった国で,誰が「なせばなる」(かもしれない)ということを教えられるというのか。
 今や純文学が掬えるものは脆弱で,時間軸的にも情報軸的にも,世界にはからめない。優れた人材はそれ以外のメディアに流れているのだから,それは当然である。

 ……などと言う言葉も今は虚しい。
 あのころ,あのとき,殺人と営利誘拐以外のどんな依頼も完璧にこなすパーフェクト・ピンチフォロー・オフィス,略してパーピンの代打屋に救われたのは登場人物たちだけでなかった。
 それがすべてである。

2000/08/08

『頭文字D 第19巻』 しげの秀一 / 講談社(ヤングマガジンKC)

Nimg896 【いいか藤原 後ろは・・ 絶対にふりかえるな!!】

 こちらは,数日前に発売されたばかりのコミック。
 19巻は東堂塾とのダウンヒルバトルの,ほぼ全貌。あとほんの数ページで決着,なんだけど……まあ,この切れ目は納得でごんす。
 拓海がボケーッとしていられるのが1コマだけ,イツキも池谷先輩も出番なしってことから明らかなように,今回はさすがに強敵相手,緊張感あふれるバトルざんす。で,実際に走るのはハチロクの拓海(ううめんどくさい。拓海=たくみでMS-IME単語登録するざます)と東堂塾の二宮大輝(EK-9)なんざんすが,19巻の本当の主人公,これはもうプロジェクトDを率いる高橋涼介の頭脳なんざんす。なにしろ,主人公の拓海さしおいて『頭文字D 高橋涼介のタイピング最速理論』(イーフロンティア,Win&Macハイブリッド)なんてタイピングソフトが発売されてるくらいざますからして。

 ちなみに,『頭文字D』は累計2千5百万部達成,「藤原とうふ店」のステッカーも群馬県内のオートバックスなら入手可能との噂。

*……のちに,この第19巻では,ページ総数の都合からか,ヤングマガジン掲載時の原稿から4ページ分がカットされていることが判明。それも,バトル展開を登場人物たちが評する,けっこうポイントの高い4ページらしい。参った。

《甘え》に支配された幼児的な世界 『ストーカーの心理学』 福島 章 / PHP研究所(PHP新書)

Nimg895  ストーカーについて,もう1冊。
 著者は精神医学博士。東京医科歯科大学助教授を経て,現在上智大学教授。病跡学の権威として知られるほか,精神鑑定医として多くの経験を持つ。

 おりしも米俳優ブラッド・ピットの邸宅に不法侵入して有罪判決を受けた女性ストーカーが,カウンセリングの成果を報告する審理を欠席,行方をくらましたと言う。ブラッドは女優ジェニファー・アニストンと7月29日に結婚式を挙げたばかり。この女性ストーカーの次の行動が注目される。

 福島章氏によれば,ストーカーはその行為類型から5つに分類される。
1.イノセント・タイプ
2.挫折愛タイプ
3.破婚タイプ
4.スター・ストーカー
5.エグゼクティブ・ストーカー
 ブラッド・ピッドにつきまとうアシーナ・マリー・ローランド(21歳)は明らかに4.のスター・ストーカーだが,それでは彼女は精神病理的にはいかなる状態にあるのだろうか。
 福島氏は,行為類型や《加害者=被害者関係》による分類だけでなく,ストーカーの心理的状態に焦点を当てた分類を試みる。
1.精神病系
2.パラノイド系
3.ボーダーライン系
4.ナルシスト系
5.サイコパス系
(アシーナがいずれに含まれるかは,烏丸にはデータ不足で不明)

 さて,このように本『ストーカーの心理学』は,先に紹介した岩下久美子の『人はなぜストーカーになるのか』に比べても,精神医学の専門家ならではの説得力溢れる分類や例証が丁寧に重ねられる。著者本人がエロトマニア(恋愛妄想)タイプの「エグゼクティブ・ストーカー」に追われた経験があり,それが随所で説得力をいやます要因ともなっている。また,ストーキングにいたる心理の全貌は明らかになっていないものの,背景として,乳児的完全依存から相手への攻撃に至る人間としての未熟さがある,という解説もわかりやすい。

 本書を読みながら痛感したのは,いかに注意しているつもりでも,人は常に思い込みにとらわれがちだということ。
 たとえば上記の如くストーカーを行動類型から5つ,精神病理的に5つと分類されると,ついついその5つのタイプが必ずおり,それぞれそれなりに多く,しかも最初に書かれたほう(3.よりは2.,2.よりは1.)が多いようになんとなく想像してしまう。そもそも,マスコミがこれだけストーカーという言葉を連発する以上,ストーキングやストーカー殺人が増えているに違いない……。
 しかし,本書では,数字的な裏付けがないためそれらは何とも言えない,と注意を喚起している。しかもこの数十年,日本国内の殺人事件は激減し,さらに社会病理現象そのものが──終戦直後に生まれた現在50歳代の世代をピークに──減ってきていると指摘する。とかく問題にされがちな最近の若い世代が,実は「集団として見ると,社会病理現象・問題行動にあまりかかわることの少ない,《やさしい》《おとなしい》《情緒的に安定した》《非攻撃的な》世代」だというのである。

 こうして見ると「ストーカー」は,「セクシャル・ハラスメント」同様,従来から見られた行為について,社会の認識や生活パターンが変わり,大きく取り上げられるようになったという面も少なくないに違いない。
 いずれにせよ,「ストーカー行為等の規制等に関する法律」施行に伴ない,今後はストーキングについてもデータが充実してくるに違いない。その上でさらにじっくりと考えてみたいテーマではある。

『人はなぜストーカーになるのか』 岩下久美子 / 小学館

Nimg904 【悪いのはあの女のほうなんだ】

 Bは自社製品の広報に雑誌社を訪ねてAと知り合い,一度だけ昼食を一緒にしたことがある。

A「昨日は楽しかった。過去なんか振り返らず,もっと前向きに生きたほうがいいと思うよ」
B「そうですね。昨夜も一人になるとうっかり泣いてしまいました。Aさんにいろいろ聞いてもらって,ずいぶん気が楽になりました」
A「僕はAさんさえよければいい。言ってくれればいつでもどこへでも飛んでいくから」
B「お忙しいでしょうに,こんなに毎日慰めのメールをありがとう。もう当分男の人を好きになったりしないと思うけど,これからもよい友達でいてくださいね」
A「それでいつにしよう,君のご両親に挨拶にいくのは」
B「両親は,郷里で元気にしてますけど?」

 自分がどんな地雷を踏んでしまったのかにBが気がついたのは,このメールのやり取りからもう少し後のこと。これは1996年の出来事だが,AもBも勤めていた会社を辞めており,今はどこにいるのかは知らない。

 昔も,もちろん色恋にまつわる「つきまとい」行為はあった。ふられた女の家に毎晩無言電話を掛ける男はいたし,別れた男の行く先々に現れ,新しい恋や結婚を邪魔して歩いた女も知っている。しかし彼らは,相手が自分を疎ましく思っていることを知っており,その上で「いやがらせ」をしている,しかしやめられない,という自意識は持っていたように思う。
 しかし,最初に紹介したAの雰囲気は,それらとは少し違う。彼はどこまでも善意のつもりだし,自分がBを愛し,Bも自分を愛し,自分を必要としていることになんら疑いを持っていない。少なくとも彼の言動はそのような認識の上に立っており,先のメールの数々は彼が「ようやく自分にも恋人ができた」と知人に見せびらかしたものだった。ただし,Bとの付き合い(?)について彼がオープンだったのはこの頃まで,その後は自分に都合のよい偽情報ばかり撒き散らすようになり,一方,BはAからの際限ないメールや電話にどんどん追い詰められていったらしい(Bとは直接の面識がなかったため,そのあたりはつまびらかでない。僕たちが大まかないきさつを知ったのはBが退職した後、Bの仕事を引き継いだ新しい担当者からだった)。

 本書『人はなぜストーカーになるのか』は,ある種の人々が,相手に一方的かつ病的な執着を寄せて追い掛け回し,相手の気持ちを全く無視して支配しようとする行為をストーキングと定義し,それが被害者にどれほどのダメージを与えるか,どう対処すべきか,さらには現実に被害があるにもかかわらず「被害妄想だろう」「被害者の側になんらかの落ち度があったに違いない」とする考え方が被害者を余計に追い詰めることを訴える。
 1997年8月の発行ということもあり,内容は実によくまとまっているものの,3年経った現在から見れば若干穏やかという気さえする。この3年の間には,桶川の女子大生殺人事件や西尾の女子高生殺人事件など,いわゆる「ストーカー殺人事件」が相次ぎ,新潟の女児監禁のように形態こそ別ものだが,精神的に通底する事件も多発している。

 本書などによる啓蒙がきっかけとなり,1998年2月にNTTがナンバー・ディスプレイサービスを導入,また,2000年5月には「ストーカー行為等の規制等に関する法律」公布。社会はストーカーによる犯罪をそれと認識し,対処する方向に向かっている。
 しかし,「ストーカー」「アダルト・チルドレン」「平気でうそをつく人たち」「EQ」など,キーワードは異なれど,病的なまでに身勝手,自己中心的な「大人」が増えているという実情そのものにはなんら手が打てていないというのが実情だろう。そして,それ以外の面では病的でなく,むしろ頭のいいストーカーたちにとって……ああいけない,もう彼女に電話する時間だ。

本の少々

 本について,少しずつ書いてみようと思います。
 その読み方はヘン! とか,その手の本ならこれがオススメ! とか,ツッコミお待ちしています。

 ※このブログは、烏丸の「くるくる回転図書館」の拡張新店舗です。(2009/09/28記載)

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