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2018/11/12

待望の未刊行作品集 『春風コンビお手柄帳』『お下げ髪の詩人』『不思議なシマ氏』『ミス・ダニエルズの追想』 小沼 丹 / 幻戯書房

Photoあくまで個人的感慨とお断りした上で申し上げるが、この20年に限定したこの国の文学上、最上の出来事といえば、それは小沼丹(1918-1996年)の再評価だったのではないか。

作家小沼丹は、「第三の新人」の一人とみなされている。しかし、華々しく活躍し、文学の外でも名をあげられることの少なくない安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、曽野綾子らに比べ、小沼作品は晩年、1991年の講談社文芸文庫『懐中時計』まで、文庫化されることもなかった。
この一点をもってしても、小沼が戦後作家の中でいかにマイナー扱いだったかが窺える。

その後創元推理文庫から漢字遣いも魅力的な連作推理短篇集『黒いハンカチ』(2003年)、未知谷から大部の「小沼丹全集」全5巻(2004-2005年)、同じく未知谷から未刊行長編『風光る丘』(2004年)がそれぞれ発行、講談社文芸文庫からは現在まで順当に代表作の刊行が継続しており、そこに絶版・廃刊の気配もないことから、この出版不況のさなかにおいて文芸作品としてはそこそこ売れ行き好調なのではと推察される。

そしてそこに、今年2018年になって角川系列の幻戯書房(「幻戯」は角川源義氏のゲンギをなぞったものだそうだ)から生誕百年記念、未刊行作品集として

 『春風コンビお手柄帳 小沼丹未刊行少年少女小説集 推理篇』
 『お下げ髪の詩人 小沼丹未刊行少年少女小説集 青春篇』
 『不思議なシマ氏』(娯楽中短篇集)
 『ミス・ダニエルズの追想』(随筆集)

の4冊が続けて発刊された。続刊の予定もあるらしい。小沼ファンとしては望外の喜びである。
──というか、(未知谷を責めるつもりはないが)全集を経てなお、どれほど未刊行作品が野に置かれているのやら。

小沼丹といえば、(『懐中時計』がまさしくそうだが)身辺のさりげないあれこれをとぼけた文体で描くうちに人生の寂寥、哀感がしみじみと伝わる、そういった作風で知られている。
実際、今回の作品集の解説でも、以下の評価が記されている。

  今、小沼の本領とされるのは《大寺さん》ものといわれる後期の私小説だ。
   (北村 薫『お下げ髪の詩人』巻末エッセイ「春風は吹いているか」より)

  一九六三年(昭和三十八)年四月、作者四十四歳のときに妻の急死に遭ひ、心境に大きな変化が生じてのちのことである。作者の自筆年譜を見ると、「昭和三十九年五月、『黒と白の猫』を『世界』に発表。この頃よりフィクションに興味を失ふ」とある。
   (大島一彦『不思議なシマ氏』解説「小沼丹前期の作風について」より)

三行にまとめると、こうなる。

  小沼丹は飄々としたユーモアに溢れるフィクションで活躍。
  妻の急死にともない《大寺さん》を主人公とした私小説ふう作風に変貌。
  その後の人生の哀感を淡々と描く作風が高く評価されている。

2さて、ここでまたしても個人的な感想だが、小沼丹については、前期のフィクショナルな作品のほうにより原石の魅力があるのではないか。

妻の急死で作風が変わった、ということになっているが、果たしてそうだったか。たとえば前期の『黒いハンカチ』では、主人公のニシ・アヅマ女史は明朗かつたおやかに見えてそのくせどこかうら寂しい影がつきまとう。その理由は連作の終わりごろに俄然明らかになるが、ここですでに伴侶の死は作品の背中ごしに透かして重い。
今回発行された少年少女小説集、その収録作はいずれも当時の少女雑誌や学年誌の雰囲気を伝える懐かしく素朴な味わいなののだが、その作品の多くにおいても、実は死や別れは裏側にバイメタル然として静かに貼り付いている。そしてそれがストーリーの発端であったり、切ない結末であったりする。これは小沼作品全体を通して言えることである。

そもそも、後期の《大寺さん》シリーズを作者の言葉どおり「フィクションでない」とみなすことは本当に正しいのだろうか。
これらの作品の主人公がなぜ《大寺さん》であり、《僕》ではなかったのか。それは、小沼丹という語り手の「私」を描く私小説を装いながら、あくまでフィクションだったからではないだろうか。
実際、小沼にはイギリス留学時を語る『椋鳥日記』、師たる井伏鱒二の思い出を語る随想など、当人のリアルな日常を描く作品が多々あるが、これらはとぼけた語り口はさておき《大寺さん》シリーズにある滋味のようなものが決定的に欠けている。つまり、作家個人の私生活をそのまま描いたからといって、そのままでは決して《大寺さん》にはならないのである。

もちろん、初期の初期、いかにも芥川賞を狙ったような純文学作品や、登場人物を妙ちくりんなカタカナで示したユーモア作品一つひとつのレベルは必ずしも高くない。
だが、いかにも昭和、の香り漂うそれらのバタバタした作品にときどきふっと落ちる影のベール、死の匂い、そこに小沼作品の本筋がある。それは《大寺さん》以前も、以降も、一貫しているようにも思う。何を隠そう、小沼作品は、初期も後期も総じてけっこう怖いのである。

2018/11/05

メメント・モリ 『とんでもない死に方の科学 もし●●したら、あなたはこう死ぬ』 コーディー・キャシディー、ポール・ドハティー 梶山あゆみ 訳 / 河出書房新社

Photo首がなくなったら、死ぬ。でも、首がなくなったら死ぬのはなぜ?
樽の中に入ってナイアガラの滝下りをしたら、かなりの確率で死ぬ。どんなふうに?
無数の蚊に刺されつづけたら、死ぬ。どのくらいの蚊なら?

などなど、さまざまな「もし●●したら」を説き起こして
「そんなことも知らずに、やれ死なばもろともだとか、死んでお詫びなどと言っている日本人のなんと多いことか」
「今こそ全ての日本国民に問います!」
と人の死に方を苦味まじりのユーモア&スピード感あふれる文体で教えてくれるのが本書。
いちいちの死に方について
「ボーっと生きてんじゃねえよ!」
などと湯気を出すこともなくあくまで科学的に教えてくれるので滝から飛び降りるか裸で蚊の群れに飛び込むか、などなどいつか訪れる死に方の参考にしたい。
図説 死因百科』と併せて一家に一冊、常備をお奨めだ。

内容は実生活にあり得そうな「もし●●したら」から、
「コンドルに育てられたら」
「アメリカから中国まで穴を掘ってその中に飛び込んだら」
「休暇を取って金星に行ったら」
など実際には(少なくとも今後しばらくは)なさそうなものまで、シナリオは全部で45。
個人的にはほんのわずかな量でじわじわと死にいたる
「世界一有毒な物質を口に入れたら」
の章がいやもう。
もう一つ、
「『プリングルス』の工場見学をしていて機械の中に落ちたら」
も閲覧注意。
そういえば
「生贄として火山に投げこまれたら」
だって、長生きしていればそのうちないわけでもなかろう(そうか?)。

著者のコーディー・キャシディー氏はスポーツライター、ポール・ドハティー氏は物理学者。という組み合わせのせいか、いわゆる病気による死はほとんど取り上げられていない。ところがドハティー氏は本書出版後まもなく癌で亡くなった。病床で彼が考えた「死に方」はどんなものだっただろう。
合掌。

2018/10/29

〔メモ〕 『バーナード嬢曰く。』(第4巻) 施川ユウキ / 一迅社 REXコミックス

Photo_2〔短評〕でさえなくてただの〔メモ〕ですみませんね、あの『バーナード嬢曰く。』の新刊、出ていました。8月かな。
さっき本屋でたまたま見つけるまで気がついていませんでした、すみません。
作中で紹介された本のいくつかを「そんな本あったのか!」「スルーしてきたがやはり読むしかないか!」とあれこれAmazonで注文しなくちゃいけないので、今日はとりあえずひとつ前の3巻より小ネタ中心でイマイチだったかなとかでも59冊目の【渚にて】の話はよかったなとかいちいち感想書いているヒマがないのでお知らせだけ。すみませんすみません。

〔短評〕 『アレンとドラン』(現在2巻まで) 麻生みこと / 講談社 KC Kiss

Photo引き出しの多いリーガルコメディの快作『そこをなんとか』(最新は14巻)、その麻生みことの新作。

主人公はマイナー映画をこよなく愛する田舎出身サブカル女子大生の林田(リンダ)。
登場して3ページめの吹き出しが

  立川で
  爆音フランソワ・
  オゾン特集上映が
  今日までなんだよ

なんですかそれ。なので当然林田は浮いて沈んで今日もぼっち。ところが隣の部屋に──というそこは伝統の少女マンガ、お約束の展開。もちろん隣にイケメンが住んでいたからといって昨今の少女マンガはすぐに仲良くなったりはいたしません。

ただ、マイナー映画のあれやこれを香辛料にするにはいくらなんでもマンガは非力、アレンが誰でドランが何で、林田がなぜそれらに魅かれるのか、魅かれるそれらはどんなものなのか、それは『アレンとドラン』を丁寧に読んでもカケラも伝わってこない。

だからマイナー映画好みというのは周囲から引かれるマイナーな素材ならなんでもよかった、実際1巻では通常の会話の中にいきなり

  『ゴーストワールド』の
  イーニドっぽくて

とかあったものが、2巻では早くも林田がサブカル女子であるという設定などほとんどあってもなくても大差なし。
とことん弁護士という仕事、法律相談というテーマにこだわった『そこをなんとか』の求心力、その重力に対し遠心力として働く恋愛感情のあれこれに比べれば作品として弱い印象は否めない。
その分、1話完結でどこで読み終えても平気な『そこをなんとか』に比べ、登場人物たちの心理葛藤、言葉の殺陣がキレッキレで大人向け少女マンガとしての精度の高い『アレンとドラン』は主人公と隣室の青年江戸川、また大学ゼミの教官との今後がどちらにどう転がろうが楽しみ楽しみ楽しみ。

2018/10/25

出会いを逃す 『死の島』(上・下) 福永武彦 / 講談社文芸文庫

Photo本作が発表されたのが1971年。その少しあとから書店の棚の函入りハードカバー上下巻がずっと気にはかかっていた。
平成も終わりのこの年になってようやく(講談社文芸文庫版で)手に取り、読み通すことができたわけだが、学生のころに読んでいたなら、きっと、もっと──という覚めた思いは否めない。

力作である。
おそらく、戦後日本文学の頂点の一つと評して大きく間違いではないだろう。

表向きの語り手は若い編輯(編集)者にして小説家志望の相馬鼎。彼が知り合った二人の女性、広島で被曝した画家・萌木素子、そして素子と同居する清楚な相見綾子、その二人が広島で心中をはかったとの報に相馬は急ぎ東京から広島に向かう(終戦間もなく、新幹線のない時代設定である。念のため)。

『死の島』は相馬が東京を発って広島に向かうその1日の物語であり、相馬が画展で素子の絵を見、書籍の表紙画の依頼を言い訳に足しげく素子と綾子の下宿に通うようになってからの1年の物語であり、さらに相馬が彼女たちをモデルに仕立て上げた小説の草稿、素子本人や綾子を愛した男らの心象風景、これらを数ページの細かな章に切り刻み、カットバック手法で縦横に並べ立てた実験小説である。

通常の長編小説のように起承転結、序破急の構成をとらず、その上、随所に

  わたしの声はいつになくやさしかったが、やさしい声以外にどうやって死者に呼び掛けることが出来るか。本当はわたしはこう言いたかったのだ。綾ちゃんは死んでいらっしゃい、わたしもすぐに死ぬから、と。まるでわたしがまだ死んでいなかったかのように。

といった暗喩に満ちた散文詩的表現が用いられ、読み手は短い章のことごとに緊張を強いられて流し読みが許されない。

もし、この作品に、甘々と文筆家に憧れた学生のころに出会っていたなら、この密度、構成、実験性に徹底的に圧倒されてよくも悪しくもくさっていたに違いない。
ただ、今となってはこの複雑な構成は少し余計なものに思えてならない。相馬、素子、綾子の三者の心理は三面鏡を合わせたような整合性を示すわけでなく、さりとて互いに止揚し合うわけでもなく、頓狂な相馬はとことん素子、綾子の心理に遠く及ばぬ心理音痴、綾子は最後まで人物設定がぼんやり不明確なのだ。
ことに、最後まで読んでも綾子がなぜ素子と最後の行動をともにしたのかわからない。綾子は相馬から見えているほど清楚でも愛らしくもなく、かといって生命力に溢れたイメージもなく、ただ漠然と人生に飽いた程度の印象。そもそも駆け落ち、同棲に失敗したお嬢さまの問題と、20万人の死傷を目の当たりにした苦悩を同等にリンクさせるのは無茶だろう。

相馬や綾子は愚かな狂言回しに控えさせて、徹底的に素子が死を見つめる物語にしてしまえばよかったのではないか。ただ、そうしてしまうと、実は1970年当時は、平成末の現在とは桁違いに広島、長崎の原爆の悲惨を直接扱う表現作品が少なくなかった。

  「オ水要リマセンカ、オ水デス。」

とカタカナで描かれる被曝の描写は苛烈だが、ただそれを描くだけではおそらく文学にはなり得ない。福永武彦はそう考え、素子の物語をただその素材のまま提出することができなかったのではなかろうか。その屈折に、大仰とわかってはいるが文学の敗北、なんてことを考えざるを得ない。
──ああ、いやだ、いやだ。やはり学生のころに読むべきだった。

«『ハーン ─草と鉄と羊─』(現在3巻まで) 瀬下 猛 / 講談社 モーニングKC