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2019/05/06

タイトルリストラ? 『ベスト8ミステリーズ2015』 日本推理作家協会編 / 講談社文庫

8 講談社文庫の「ミステリー傑作選」は、その年度に発表されたミステリ短篇から厳選して編まれた単行本『推理小説年鑑』(現在は『ザ・・ベストミステリーズ』)からさらに抽出して文庫化したもの。1974年発行の『犯罪ロードマップ ミステリー傑作選1』を嚆矢に、一部スピンオフ的なものも含めて現在では90冊、スチール製の本棚2段以上に及ぶ長大なシリーズとなっている。

今回の『ベスト8ミステリーズ2015』の内容を見てみよう。
収録作は2015年に発表された8篇。

  大石直紀「おばあちゃんといっしょ」
  永嶋恵美「ババ抜き」
  秋吉理香子「リケジョの婚活」
  日野草「グラスタンク」
  榊林銘「十五秒」
  小林由香「サイレン」
  大沢在昌「分かれ道」
  若竹七海「静かな炎天」

推理小説界の傾向か、選者の嗜好かは知らないが、女性が活躍する作品が多い。しかも過半数が、展開はいろいろあれど女性が女性と闘うストーリーである(男性が登場しても添え物、せいぜい輪投げの的程度の扱い)。

誰かが罪を犯し、名探偵がその犯人・動機・方法を推理する、という、いわゆる「探偵小説」の体をなすものは一作もなく、「こんな設定だとなんとこんなことに!」というシチュエーションサスペンスとでも称すべきものが大半。
とたえば社員旅行で三人のオールドミスが罰ゲームを賭けてババ抜きを繰り広げる「ババ抜き」、テレビの婚活番組にリケジョがExcel片手にチャレンジする「リケジョの婚活」、復讐代行業者への依頼を描いた「グラスタンク」、銃で撃たれて死ぬまでの15秒間の錯綜を描く「十五秒」、特殊な刑罰法のもとに被害者の父親が懊悩する「サイレン」など、いずれも設定だけでごはんがごはんがススムくん。

ただ、一短篇としてみると、シチュエーションの説明までの熱量が高すぎて、起承転結の「結」にさほどインパクトがない、起承承承で終わってしまうような作品も目についた。実はいずれもそれなりに「結」には意外性もあり、品質は低くないのだが、「起」が大きすぎてややベタな「結」に驚けない、そんな印象なのである。

さらに、「探偵小説」ほど論理展開に気を遣わないシチュエーションサスペンスでは、ほんの少し冷静になってしまうと大きな穴が目についてしまうことも少なくない。
これほど理詰めでことを進めるリケジョが「彼」に走ったきっかけは? とか、「ババ抜き」や「グラスタンク」のように本人が正直に秘密を暴露することが「結」の要になっているものもある。「サイレン」の終わり方はいっけんショッキングだが、こんな法律が施行されたなら当然予測されるはずで、警察も役所も何をやっているんだか、である。

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おまけ。

最初にも書いたとおり、『ミステリー傑作選』は今回で90冊。そのサブタイトルは、『犯罪ロードマップ』『1ダースの殺意』『殺人作法』といったいかにもミステリアンソロジーめいたものから、最近はそれにさらにアルファベットのキャッチが付いて『Bluff 騙し合いの夜』『Life 人生、すなわち謎』『Acrobatic 物語の曲芸師たち』等々と続いていた。

ここにきて、今回は突然の『ベスト8ミステリーズ2015』。
サブタイトルを検討する労力も惜しんだのだろうか。表紙や帯は変わらず経費、手間をかけているように見えるので、ちょっと不思議だ。
これが今回最大のミステリー。

2019/05/02

何かをそっと囁いた 『狂気の巡礼』 ステファン・グラビンスキ、芝田文乃 訳 / 国書刊行会

Kyouki不気味な物語』(の、とくに「偶然」「和解」の連作)が思いがけずよかったので、グラビンスキをもう1冊読んでみた。

グラビンスキはポーランドの怪奇作家、『狂気の巡礼』は初期の短篇集『薔薇の丘にて』、『狂気の巡礼』から1篇を除いてまとめたもの。
ハードカバーに窓があいて、そこから表紙の不気味なイラスト(ペン画? リトグラフ?)がのぞく装丁が実に素晴らしい。

内容は、どこかの庭や部屋に赴いた主人公が何かを幻視、実はそれは死んだ……という展開が多く、ややバラエティに欠ける印象もなくはないが、それでも最後の1行であらゆる混乱に終止符を打つ「狂気の農園」、悪意が黒くよどむような「大鴉」など、それぞれ読み応えあり。
ジキルとハイドのグラビンスキ版、「チェラヴァの問題」では作者の論理的、科学的嗜好性読み取れる(ホラーとしては妻がBを撃ち殺すとAも、というほうが自然だと思われるが、そうしなかったことがかえって奇妙な読後感を残す)。

ただ、どうしても書いておきたい難点が2点。

1つは、Webの自動翻訳か、と思われるような訳のまずさ。

たとえば論理的に説明のつかない

  彼の客となって1週間、もう何年も顔を合わせていなかった。(「海辺の別荘にて」)

原書がどうなっているかは知らないが、これなど原文では「何年も顔を合わせていなかった彼のもとに客になって1週間」といった程度の意だったのではなかったか。

また、全体に、抽象的、観念的な名詞を(おそらく原文そのままに)主語、目的語に配してしまうことによる読みづらさが目につく。

  その幻影には実際あらゆる実在の基礎が欠けていることを確信して、私は目を凝らし、努めて知力の正気を保つようにした。(「薔薇の丘にて」)

  嵐になった。自然力が爆発する前に鉄道駅にたどり着こうと私は足を速め、(「夜の宿り」)

「実在の基礎が欠けている」「自然力が爆発」……。このような例は探すまでもなくどの頁にもあふれている。

もう1つは、帯やあとがきでの無理やりな「ポーランドのラヴクラフト」推し。

クラビンスキの作品の特徴は、ざっくりいえば死者、つまりは人間の強い思念が悪夢の実態となって生者を操り動かし、場合によっては死にまでいざなう展開にある。

かたやラヴクラフトの作品は時間、空間を超越した神話的存在が垣間見えたとき脆弱な人間は破滅せざるを得ない、というものであって、その恐怖、魔の存在は人智を越えているのだ。

説明のつかないウゴウゴしたお化けが出てくる、だからラヴクラフト的──などという短慮は避けたい。

2019/04/25

山川方夫『夏の葬列』(集英社文庫)、『親しい友人たち』(創元推理文庫)

Photo_6 最近、ときどき山川方夫を読んでいる。ざっくり、四十数年ぶり。

初めて手にしたのは大学に入ったばかりの頃、池袋東口にあったクラシック喫茶で本を読もうと先輩に誘われて。先輩たちと雑居していたアパートからの道すがら、西口の芳林堂2階で新潮文庫版を買った。『愛のごとく』、あるいは『海岸公園』、どちらだったかは覚えていない。
クラシック喫茶というのは、ひねもすクラシックの名盤をかける店で、その店は椅子、テーブルは一人掛けの一方通行、珈琲の注文は声をひそめ、私語をかわすと叱られる……。

なんて話はどうでもよくて。

山川方夫は幾度か芥川賞候補になった実作のほか、三田文学の編集やそれにともなう江藤淳、曽野綾子、浅利慶太、村松剛らの新人発掘で知られる。享年三十四、交通事故での早世だった。

そういうツウ好みだが地味な経歴、作風のわりに、文壇、出版人に愛好者が多いようだ。そう数字が出るとも思えないのに、文庫も切れ目ない。

なぜだろう? 山川信仰とでもいうか、なぜ山川方夫は読まれ続けるのだろう?

学生当時はともかく、今では一つの仮説を平気で口にできる。
山川方夫は、そのへんの凡庸な文学青年(壮年、老年)にとって、なんとなく、「自分もこのくらいは書けるんじゃないかな、きっと書けそうだ」と思える手頃な物差しなのだ。

Photo_7 日本画家だった父親の死に伴う実家の凋落を描く私小説的作品(「海岸公園」など)は育った環境次第に思われるし、
若者の無軌道を描くやや退廃的な作品(「安南の王子」「愛のごとく」など)は文学青年が誰でもかかる麻疹(はしか)のようなもの、
ミステリ、SFテイストの強いショートショート(「夏の葬列」「待っている女」「お守り」など)は確かにキレがよいし読後感も豊かだが、文学を志すこの身、頑張れば一つや二つくらいは書けそうではないか!

だが、結局、誰も山川方夫にはなれなかった。
山川方夫は青春小説の一つの星のまま、薄暮の空にぼんやりかかっている。今日もどこかで文学青年がそれを見て跳ねる。
ありがたいやら、迷惑やら。

2019/04/22

うちの土地 『幸せ戦争』 青木祐子 / 集英社文庫

Photo_5『これは経費で落ちません!』シリーズの青木祐子氏はもともとジュブナイルの分野に多数の作品を発表してこられたベテラン作家であり、『幸せ戦争』は氏の初めての一般小説とのこと(詳しいわけではないので、間違いがあったらごめんなさい)。

『幸せ戦争』は郊外の瀟洒な戸建て4件屋に住む家族、それぞれがかかえたねじれを描いた作品で、インターネットの有名掲示板用語でいえば「キチママ」「ウヘァ」「修羅場」案件ということになる。概ね、察してください。

素晴らしいのは──『これは経費で落ちません!』もそうだが──個々の家庭、とくに主婦当人のキャラクターが順に明らかになり、いよいよカタストロフィ! となるべき場面で、作者の木刀拳銃手榴弾が登場人物たちを吹っ飛ばす、そのはずが、意外や皮一枚だけ切って引く、悲鳴をあげる間もなく勝負が決する、その凄み。
4件屋の家族それぞれの立ち位置をバランスよく描いた構成力、そしてその凄みが、本来ならドロドロの愁嘆場となりかねない話に、青白い、凛とした清涼感を配す。

本来、イヤゲな主婦がうじゃうじゃ湧いて出る喪失不可避の物語のはずが、残るはささやかだがフリスキーな爽快感。
歴戦のプロの仕業、と感嘆する次第。

2019/04/18

ご用件は何でしょう? 『セリー』 森泉岳士 / KADOKAWA BEAM COMIX

Photo_4 SFを読む理由を見つけるのが難しい時代になった。
それでも、ときどきこんなふうなヨロコビに満ちた出会いがある。

第一に、中盤までの寂寥感、喪失感がそれはもうたまらない。
この濾過を繰り返したあげくの切なさは、おそらく上質なSFでしか得られないものだ。
作者の特殊な作画技法、朴訥なコマ運びが空気を導いた。

第二に、着眼が憎い。
SFによくある設定、展開(※)に現在の日常アイテムをマージして違和感がない。

ただ、そのアイデアにこだわったためか、114ページ以降のエピローグには余計、酷な言い方をするなら夾雑な印象があった。

この作者は喜怒哀楽を直接描くべきではない、そんなふうにも思われた。


※たとえば筒井百々子「メモリー」(1985年)

2019/04/11

真理を知りたいか──ッ! 『史上最強の哲学入門』 飲茶 / 河出文庫

先日の書き込みで「PC版でカテゴリー(たとえば「コミック(作品)」)を選んで表示される記事タイトルの上限が100件になってしまった」と愚痴ったところ、気がつけばいつの間にかきちんと直していただけていた。しかもスマホ版も同様の仕様に。たいへん助かります。どうもありがとう。 > ココログ運営の中のひと

カテゴリー別に過去の書き込みタイトルをパラパラ見返していて、ふと気がついたこと。
2000年8月以来積もりに積もった本ブログの書評数は近々1300に至るのだけれど(バカだ)、その中に宗教や哲学に関するものはほとんどない。とくに哲学についてはタイトルで検索しても1件しかない。その1件も『マンガは哲学する』(永井均)で、正しくは哲学ジャンルの本ではない。

学生のころはやれヘーゲルだ、どれニーチェだウィトゲンシュタインだと人並みに哲学の本にも手を出したのだけれど、結局身につかず、当時読んだ本の多くは手元にない。
哲学の本に馴染まなかった理由はいろいろあるが(一番は、まあ怠惰でバカだから)、その1つに、よい入門書に出会えなかったことがあったような気がする。あくまで当時、の話だが──「〇〇哲学入門」とよさげなタイトルの本を手に読み始める、最初の章は「哲学とは」から始まってふむふむと読み進む、そのうち結局著者の専門、たとえばプラトン、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーに話が収束して、それぞれがいかに素晴らしかったかと論が進む──結局、「哲学」の全貌がよくわからない!

「東横のれん街、渋谷はこちら」「リーマンインタビューのメッカ、新橋SL広場」「実はパルコのある町、錦糸町」とポイントは詳しいが俯瞰した鉄道地図がない、そんな感じ。
なので、たとえばショーペンハウエルなど、読んだことはあるのにいまだに哲学というジャンルの中で立ち位置がどのへんにあるのかよくわからない。そもそも、たとえばカントとホッブスとルソーを一包みで取り上げることに意味はあるのか、可能なのか。

哲学はそんなお気楽なダイジェスト文化ではない!と叱られればそれまでだが、いきなり「プロの哲学者に、オレはなる!!」という気構えもない初心一読者に、入口のハードルが高すぎるのだ。

Photo_3 ・・・で、ここでようやく本題だが、河出文庫の『史上最強の哲学入門』、これが面白い。
哲学の歴史を上空からフェアに俯瞰する、という意識の持ちようがすがすがしいし、板垣恵介の人気格闘マンガ『バキ』にならって哲学者同士の対戦を意図した構成も素晴らしい。ともかく読みやすい、わかりやすい。

全体は「真理」「国家」「神様」「存在」の4つの“ラウンド”に分けられ、それぞれのテーマのもと、哲学者たちが勝ち抜き戦を行う。
たとえば「神様」を扱った第三ラウンドでに登場するのは、「楽しく生きたいから哲学者になったのだ! 真の幸福を見せてやる エピクロス!!」、「信者の前でならオレはいつでもキリストだ! 燃える教祖 イエス・ベン・ヨセフ 本名で登場だ!!」、「真理を探しに宗教へ入ったッ! 教父アウグスティヌス!!」、「真理のベスト・ディフェンスは神学の中にある! スコラ哲学の神様が来たッ! トマス・アクィナス!!」、そして「神殺しは生きていた! さらなる研鑽を積み人間狂気が甦った! 超人!! ニーチェだァ────!!」・・・

もちろんこれだけではわかりにくいだろうが、要するに誰かが「真理」「国家」「神様」「存在」についてナイスアイデアを提示、しかしそれに欠陥、弱点があるなら後人がそれを指摘、反論、ないし凌駕するナイスアイデアを提示、さらにそれを上回るナイスアイデアが、といった具合に哲学の大きな流れを説明していくわけである。
第三ラウンドのラインナップだけでも、時代や派閥にこだわらず、「神」というテーマにそっての人選、格闘戦を想定していることがうかがえ、流して読むだけでも十分楽しい。
(もっとも地のテキストはオーソドックスな柔らかい紹介文で、実際に哲学者同士がリングの上でディベートするとか、そういうわけではない。そこはちょっと残念。)

こうした構成をとったことで、読み手は、ギリシア時代からのさまざまな思想への取り組み、それぞれの進歩、限界をわかりやすくとらえることができる。実際、風呂につかりながらライト小説を読む程度の労力で、すらすら頭に入るのである。

本書は、哲学を専門に勉強、研究されている方にはもしかしたら当たり前のことを薄く書き並べた程度の本なのかもしれない。そういう書評も見かけないわけではない。
しかし、その当たり前のことを1冊でわかりやすく示してくれる入門書が意外と少なかったこともまた事実なのだ。
学生時代に本書のような楽しい哲学入門書にめぐり逢えていたならば!!
──いや、やっぱり深追いはしなかったとは思いますが。

2019/03/28

モヤっと 『百鬼夜行抄(27)』 今 市子 / 朝日新聞出版

Photo_2 このブログを置いているNiftyの「ココログ」だが、最近、知れないうちに仕様がいろいろ改悪されて困っている。

その1つがPC版でカテゴリー(たとえば「コミック(作品)」)を選んで表示される記事タイトルの上限が100件になってしまったことで、つまりコミック作品を400件以上扱ってきたこのブログでは、『百鬼夜行抄』の新刊を取り上げるにあたって、過去に自分はどんなことを書いたのかな、と探そうにも古い書き込みは探せない、ないし大変な手間をかけないと見つけられない、ということだ。

ちなみに、新刊として今市子の『百鬼夜行抄』を取り上げた記事は以下のとおり。

  『百鬼夜行抄(19)
  『百鬼夜行抄(13)
  『百鬼夜行抄(12)
  『百鬼夜行抄(10)

と、これだけのピックアップ作業がほんとにもう、面倒くさい。なんとかしてください。 > ココログ運営の中のひと

さて、それはともかく『百鬼夜行抄』シリーズも27冊目、このブログで初めて取り上げてからでも16年以上の月日が経った。

にもかかわらず、作者の筆遣い、登場人物のタッチは大きくは変わらない。あやかしのゆらゆら揺れる存在感、場所や時制がとらえづらく、読み流すにはやっかいだが読み返すと味わい深いコマ割りも馴染んだ身に心地よい。

ただ、先日取り上げた『  』もそうだったが、長期化するとどうしても設定や登場人物のインフレは起こるもので、この27巻でも飯嶋家の遠縁の朝倉家とか三崎のおじさんとか言われてもなんだかよくわからない。26巻の終わりにそういう伏線があったっけか。その家系図が把握できないとこの先楽しめないのか。そうでもないのか。26巻読み返すか。いや、それより大好きだったあの話は何巻だったっけか。あれは6巻、あれは12巻。いや、それではなくて。あれでもなくて。

ああもう、道に迷ってしまった。尾黒、尾白が提灯下げて迎えに来てはくれまいか。

2019/03/24

完結 『BURN 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子(上・下)』 内藤 了 / 角川ホラー文庫

Photo_1猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』シリーズ、スピンアウト2冊含む13冊めにて完結。

ズタズタのヌッチャヌチャなスプラッタシーン満載で大好きなシリーズだったのだが、最後のほうは登場人物が多すぎてちょっと疲れた。

※バイオテクノロジーテロを目論む国際組織「CBET」のチープさや壊れた科学者集めて死体の腐敗のしかたを研究する国家機関「日本精神・神経医療研究センター」の珍妙さについては、ここでは触れない。仮面ライダーのショッカーと同じか、もう少しヘンテコリン、といったところ……。

シリーズ2冊目の『CUT』では【主な登場人物】は藤堂比奈子(新人刑事)、厚田巌夫(その上司、警部補)、東海林靖久(先輩刑事)、三木健(鑑識官)、石上妙子(検死官)、中島保(プロファイラー)の6名だった。
この顔ぶれは主人公を含む猟奇犯罪捜査班側のメンバーということで、まあ、わかる。

最終巻では【主な登場人物】が倍増の12名。ところがそこに記載されない常連として同じく警察組織に属す者、シリーズ後半で大きな役割を果たす「日本精神・神経医療研究センター」に所属する奇人変人たち、国際テロ組織の面々、などなど、増えに増えて大変なことになる。

常連が増えると、たとえば主人公の比奈子が敵に拉致された!というシーンで、敵味方、当事者・関係者、ほぼ全員の反応を書かなくてはならない。
『BURN』の下巻など、なにかとそんなモブシーンに記述が費やされ、スリルもサスペンスも半減。1冊通して比奈子個人の活躍にしぼれば「捕まった、気がついた、戦った」程度の実に内容の薄いものになってしまっている。

TVドラマの『相棒』では【主な登場人物】が増えすぎないよう、キャラクターの卒業、ないし入れ替えを行う。主人公はともかく、その相棒や鑑識官、小料理屋「花の里」の女将など、入れ替わることで登場人物のインフレは起こさせない。

『猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』でも、もう少しそのあたりの工夫があってもよかったのではないか。

方法は簡単。事件ごとにポンポコ殉職させて、センターのボディファーム(死体農場)に飾ればよいのだ。

2019/03/21

続けて、老いについて 『この道』 古井由吉 / 講談社

Photoもう5、6年前のことだが、次男が大学入試の現代国語で「さっぱりわからない」と嘆いた出題があった。プリントを見ると古井由吉の「水」だった。古井由吉は学生の頃から好きな作家の一人で、おおかたの作品は持っているというとあきれられた。

ことほどさように古井由吉の作品は難しい。言葉遣いが難しいし、文節のかかりがわかりにくい。段落としてつかみがたいと困っているうちにそもそもと全体がのしかかってくる。

初期の、芥川賞をとった『杳子』など今からみればまだ可愛らしく、愛おしい。いや、実際、『杳子・妻隠』の文庫以来ファンになってしまったのだが。
それ以来、文庫や単行本を買い求めているが、読了した、といえるのは半分くらいだろうか? 一巡読み通して、読み通せたと思えなくて未読本の棚に戻したものも……まあ、こんな話はどうでもいいですね。

『この道』はその古井由吉の新刊、2017年から2018年にかけて「群像」に発表された8篇からなる。

正直、これは小説と言えるのだろうか、と思う。巻頭の「たなごころ」など、まだ、物語の片鱗らしきものから始まり、病人との対話もある。そのうちどんどん老人の身辺雑誌のような独白が多くなり、最後の「行方知れず」にいたっては書かれた年月日を特定できそうな実際の事件、災害など盛り込み、ブログかSNSに書かれた日記のようだ。

にもかかわらず、細部、あるいは全体から吹きあがる「文学」感が凄い。
八十路の老人が持病の通院の道も怪しく今と昔をこき交ぜた感慨を段落単位でぼそぼそと吐き出している──そう見えて、何か芯のようながある。遠回しに手渡される重み。

文学のテーマの一つが「死」であるなら、『この道』には確かに「死」が語られている。
しかしそれは口やかましく騒ぎ立てられた「死」ではなく、ただおぼつかない足取りで歩いた先の道端に落ちているような「死」。執着とは別のところにある、ないし至った、人生。

ただし、老人性痴呆めいた口ぶりに騙されてはいけない。
「群像」の発表号は規則正しく2ヶ月おきだし、一篇ごとのページ数もほぼ均等。
80歳にして作者のプロとしての手腕は健在なのである。

2019/03/14

もうどこにも いかんとぞ 『老境まんが』 山田英生 編 / ちくま文庫

Photo昭和の中期、週刊プレイボーイが青少年のリビドーの吐き出し先として権威を誇っていたころ。未来世界を予測する記事には繰り返し「週刊オールドボーイが老人に人気」という(面白くもない)ジョークが書かれたものだ。
実はこの予測は当たっていて、今や紙媒体の週刊誌の多くは誌名は昔のまま老人専用誌とあいなった。試しに週刊現代なり週刊ポストなり、1冊手に取って目次を見ていただきたい。スキャンダルやスポーツ記事を飾るは昭和に活躍したご老体、ガンに血圧の健康記事、昔アイドルの復活グラビア……。

では、かつて「少年マンガ」「少女マンガ」の2枚看板のもと、少年少女の活躍、恋愛を描くを旨としたマンガ誌はどうなっているのか。

老人向けと明示された雑誌こそ不勉強にして知らないが、個別の作品ではいくつか老齢、老境をテーマとしたものが思い当たる(煩雑なので列挙はパス)。
そんな老人を描いたマンガに着目したアンソロジーがこのたびちくま文庫から発刊された『老境まんが』である。

収録作は以下のとおり。
掲載順ではなく、発表年月日順。一番古い「ざしきわらし」が1963年、「ペコロス」が2014年。60、70、80、90、00、10年代とそれぞれ1~数作ずつのバランスのとれた選択。

 「ざしきわらし」白土三平
 「生命(いのち)」永島慎二
 「なまけ武蔵 ─晩年の武蔵─」水木しげる
 「長八の宿」つげ義春
 「ふじが咲いた」楠勝平
 「武蔵」つげ忠男
 「垣根の魔女 御身大事に…」村野守美
 「ブラック・ジャック 湯治場の二人」手塚治虫
 「田辺のつる」高野文子
 「水茎」一ノ関圭
 「極楽ミシン」近藤ようこ
 「欅の木」谷口ジロー
 「五月の風の下」うらたじゅん
 「ペコロスの母に会いに行く(抄)」岡野雄一

一読、違和感を感じたのは、老人たちがいずれやたら元気なこと。どちらかといえば、いまだ元気、しかし時にはかない、が多い印象。
少年誌などで老人の徘徊を描くわけにもいかなかったろう。
足腰、会話がしっかりしているだけでなく、たとえば認知症の老婆を少女の姿で描いた高野文子「田辺のつる」も作品としては秀逸だが、認知症はこんな均等、健全なものではない。

もう一つ、そもそも実年齢が若い。
近藤ようこ「極楽ミシン」に登場する女性たちは、しわや口ぶりで老婆扱いされるものの、「平均寿命まであと二十年ちょっと」のセリフからせいぜい60歳前後。年金や施設について気にはなるが、徘徊や寝たきりがリアルとなるには多少余裕がある年齢だろう。

考えてみれば、1960、70年代には作者たちもまた若かった。若者から見た老いを描くのが精いっぱいだったに違いない。実のところ、老境というのはもっと曖昧で、混乱と後悔と愚痴と強欲が薄く濃くまだらに表れたりかすれたりよじれたりするものだ。

その意味で2000年以降に描かれたうらたじゅん「五月の風の下」、岡野雄一「ペコロスの母に会いに行く」は格段に的確に老い、認知症を描いているように思われる。

今後、マンガの読み手の高齢化に伴い、こういった作品のニーズはより多くなっていくのは間違いないだろう。
ただ、それを読んで楽しいかというと必ずしもそうでもない。つらいところではある。

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