フォト
無料ブログはココログ

2019/07/18

『短篇ベストコレクション 現代の小説2019』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo_20190715180101 「文学とは何か!」とかいったあてのないことを考えなくなって久しい。
考えてもムダ、とか、自分ごときにはロクな成果が得られそうにない、とか、いろいろ理由はあるにはあったろうが、一番大きいのは身辺にそういうことを語り合う仲間がいなくなったことだろうと思う。

このブログでも何度か取り上げてきた徳間文庫の『短篇ベストコレクション 現代の小説』シリーズ、2001年版からの発行なので、これで19冊め。

今回の収録作は18。
なんとなく小ぶり、数ばかり多いようにも思われたが、気のせいか。
作数についてはここ数年と比べて1作か2作多い程度。ただ、単著をまだ出してない作家など、若手、新人の作品が多い気味はあるようだ。

ざっくり見ていこう。

 朝井リョウ「どうしても生きてる 七分二十四秒めへ」
 朝倉かすみ「たんす、おべんと、クリスマス」
 朝倉宏景「代打、あたし。」
 藤田宜永「銀輪の秋」

上記4作は、非正規雇用や(広義の)老人問題を扱ったもの。
おそらくこういった作品は今後さらに多くなっていくように想像されるが、ゴールは励ましなのか、絶望なのか。

以前にも書いた記憶があるが、日本文藝家協会という傘の下で、

 青崎有吾「時計にまつわるいくつかの嘘」
 小池真理子「喪中の客」
 佐藤究「スマイルヘッズ」
 長岡弘樹「傷跡の行方」
 米澤穂信「守株」

のようなプロパーによるミステリ、ホラー、サスペンス、

 小川哲「魔術師」
 清水杜氏彦「エリアD」

などのSF作品が普通に選ばれていることに、隔世の感あり。
何十年か前には、通常の中間小説と推理小説、SFの間には作家、発表の場に明らかな境界線があり、ジャンル間のマウンティングのごときもあった。
たとえば、小松左京『継ぐのは誰か』、筒井康隆『家族八景』、星新一『さまざまな迷路』、荒巻義雄「柔らかい時計」、光瀬龍『喪われた都市の記録』などが発行され、SF界が問題作、ヒット作に沸いた1972年年末の朝日新聞による年間文芸評は、「今年のSFの成果は大江健三郎の『空の怪物アグイー』だけ、ほかにはロクなものがなかった」といったていのものであった。

──ただ、ジャンル間の境目が曖昧になったところで、逆に、個々の作品への厳しい批評が健全になされているか、という疑念はある。

たとえば佐藤究「スマイルヘッズ」は、あるジャンルのコレクターの陥る危機を描くものだが、連続する事件において、裕福な被害者全員が周囲に行き先を伝えずに行動するか、GPSや携帯による安全確認をまったく心がけないのか、さらに加害者側がそういったことを全く想定していないことなど、いずれもどうも納得しづらい。つまり、本作はミステリ、サスペンスの体裁を借りた(悪い意味での)ファンタジーに過ぎない。
清水杜氏彦「エリアD」も、お話としては勢いで面白く読んだが、チャレンジャーたちそれぞれがこの「エリア」の特性を把握しているのなら、もう少しは用意なり工夫なりするものではないかと思う。

この作者たちは、ミステリサークルやSFファンジンのような場で議論ないし揚げ足の取り合いに時間を費やすことはないのだろうか。それはけっこう大切なことだ。もし日常的に細かい瑕疵をつつき合っていたなら、上記のようなツッコミどころへの対処は作品冒頭なりでこなす訓練がなされるに違いない。

 呉勝浩「素的な圧迫」
 小島環「ヨイコのリズム」
 嶋津輝「一等賞」
 高橋文樹「pとqには気をつけて」

これらの作品は、方向、効果は違えどそれぞれ「実験」を志す意気込みが感じられてそれぞれ面白く読んだ。とくに「素的な圧迫」と「一等賞」の終わり方は秀逸。
ただ、それぞれの「実験」はどこに向かうのか。シュルレアリスムやSFなどは、共通の至高点を目がける意識的、集団的な運動でもあった。
目的の明確でない「実験」はただ単発の思い付きとして消費されてしまう恐れがある。どうか、これらの作家の方々に、ともに闘う仲間、あるいは罵り合う敵のあらんことを。さもなくば砂漠だろう。

残る3作品。

 帚木蓬生「胎を堕ろす」

戦争にまつわる悲劇を扱った正統派の作品。本コレクション内で別格に重厚。

 平山夢明「円周率と狂帽子」

平山夢明については、実話怪談系の若手作家に対し「幽霊」「猟奇」に次ぐ新しい第三の恐怖を編み出せと指示(無茶ぶり?)したという話を聞いた。今回の「円周率と狂帽子」や長編『ダイナー』は、個人的には好みではないが、オフロードを突っ走るようなその書きっぷりは悪くない。リスペクトを捧げたい。

 皆川博子「牧神の午後あるいは陥穽と振り子」

重々しい素材を大仰に大きな絵皿に盛りつけるわりに、味に統一感がなく、毎度妙に肌の合わない作家の一人。本作もさっぱりわからない。
ただ、この作家などもうベテランとしての評価も定まっているようなので、今さらどうこう心配することもない。

2019/07/15

滅んだら滅んだで 『ふしぎの国のバード』(6巻) 佐々大河 / KADOKAWA HARTA COMIX

Photo_20190715161901 イギリスの女流探検家イザベラ・バード(1831~1904年)が、当時まだ未開とされていた日本の東北、北海道を旅して歩いた路程記をコミック化した『ふしぎの国のバード』、第6巻。

通訳兼ガイドを務める伊藤(イト)の契約問題など、やや本筋から外れてフラストレーションの残った数冊に続く新刊は、連載開始当初の熱気を孕む読み応えのある1冊となった。

テーマは医療、火災、紙漉き、そして葬儀。
これら多岐にわたるテーマを1冊に納めるのだからそれぞれのページ数は決して多くないが、それでも体中がちりちり焙られるような焦燥感にかられる。
ここには確かに私たち日本人のルーツがある。

作中の言葉を借りるなら「文明の深淵のような 価値観の話」。
1つの紀行文の中で、数千年の西洋文化と、数千年の極東の小さな国の文化が具体的な事象で出会い、こすれ合い、小さな、だが消えない火花を散らしているのだ。

2019/07/01

夏の黒電話

また、もうすぐ夏がくる。

夏がくると、思い出す。学生の頃住んでいた木造アパートの2階の部屋、黒電話。
一年か二年に一度、夏になるとその電話はかかってくる。

まず、女性の声。
「〇〇です。あの、娘は、娘はおりますか」
たいてい晴れた朝にかかってくるので、いつもその時間こちらは寝ている。
寝ぼけまなこで受話器を手に取り、遠くの声に耳を澄ますような気分でただ
「もしもし」
と答える。
「娘は、娘は元気でおりますでしょうか」その女性の娘らしき女の名が何度か繰り返されが、不思議とその名前は思い出せない。
はっきりしないこちらの応答に少し興奮気味の女性、すると年配の男性が代わって出てくる。
しっかりした低い声、語り口で、その声は今でもはっきり思いおこせる。

「△△さん、〇〇です」

このあたりになるとさすがに相手が△△という人物に間違い電話をかけていることが理解される。
「あの、どちらにおかけでしょう、こちらは△△ではなくて」

すると、男性が落ち着いた口調で、しかし容赦なくそれにかぶせる。
「そうおっしゃるお立場はわかります。娘と代わってほしいとも申しますまい。
ただ、娘に、どうか、こちらは元気でやっていると、それだけ伝えてくれまいか。」

「いや、ですからこちらは」

「朝がたから突然の電話でたいへん失礼いたしました。娘を、どうか、娘をよろしくお願いいたします。」

電話の向こうでは、何か言い足りない女性と、それを押しとどめようとする男性とのやり取りがあるようだが、電話は唐突に切れる。

すっかり目が覚めたこちらは、呆然と黒電話を見やるしかない。
最近と違ってかけた相手の番号がわかるナンバーディスプレイなど、サービスそのものがまだなかった時代だ。

その電話は、その後、何年かにわたって、ときどき、こちらが忘れたころにかかってきた。

その都度、間違い電話であることを説こうとするが、納得してくれない。
こちらが騒いでも、余計に丁寧な口調で謝るばかり。

その後、結婚してアパートは引っ越したし、電話番号も変わった。ダイヤル式の黒電話そのものも、今ではもう見かけることがない。

電話をかけてきたあの人々はどうしているのだろう、連絡のつかない娘はどこにいるのだろう。

もうずいぶん昔の話だ。
夏が近づくと、ふと思い出す。思い出すだけで、どうもしない。どうにもできない。

2019/06/30

レディたちの心理ポルノ 『ジェイン・オースティンの読書会』 カレン・ジョイ・ファウラー、中野康司 訳 / ちくま文庫

Photo_20190630015901 Д 有名だが生涯縁はないだろう(正直にいえば、古臭くてつまらないに違いない)と遠ざけていたジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を読んでみる気になったのは、倉橋由美子の豪気な書評集『偏愛文学館』に圧倒、もとい打ちのめされたためだった。
一読後、あまりのことにオースティンの残りの長編まで順に追うことになったのは2009年から2010年にかけてのこと。
上の「あまりのこと」というのが言わば自分なりのオースティン評にあたるわけだが、19世紀初頭、イギリスの田園都市の中流家庭における結婚や身分について事細かに描いたオースティンの作品の魅力、危うさについての「正解」はごくごくシンプルに見えて、そのくせ言葉にしようとするとどんどんずれ、外れていってしまう。
──そんな情けない言い訳はともかく、今回はオースティンの6長編を読み終えた数年後に購入し、そのまま放置していた現代作家によるスピンオフ、『ジェイン・オースティンの読書会』(以下『読書会』)を最近ようやく読了したのでとりあげてみたい。

Д 『ジェイン・オースティンの読書会』(以下『読書会』)は、こんな話。
五十の坂を越えた独身女性、ジョスリンが発起人となってジェイン・オースティンの作品について語り合う読書会を開くことになった。招かれたのは以下の顔ぶれ。
ジョスリンの四十年来の親友、シルヴィア。結婚生活三十二年めにして、突然夫から離婚話を持ち出されて落ち込んでいる。
シルヴィアの娘、アレグラ。三十歳。母親譲りの表情豊かな美人で、レズビアン。活動的だが、やや感受性の強すぎるきらいあり。
バーナデットは六十七歳。6度結婚して6度離婚。外見に頓着しないが、あっと驚く意外な経歴を持つ。
プルーディーは高校のフランス語教師、二十八歳。独善的な母親のもとに育つ。
唯一の男性メンバー、グリッグは寡黙な四十代独身。ITに精通し、熱烈なSF小説ファン。
彼ら、経歴も年齢もバラバラな6人が、オースティンの長編について月一度の読書会を開くと、やがて──。

Д 登場人物の顔ぶれ、それぞれのやや奇をてらった刺激的なプロフィールに、なんとなくあざとさのようなものを感じないでもない。
テレビドラマや映画化に都合がよい、「セックス・アンド・ザ・シティ」や最近NHKで翻案された「ミストレル」、ああいったふうな。

Д ちなみに、ネットで見かける『読書会』の書評に頻発するのが、「ジェイン・オースティンの作品を読んでいなくても」云々という表記。
6人の「読書会」は『エマ』『分別と多感』『マンスフィールド・パーク』『ノーサンガー・アビー』『高慢と偏見』『説得』の順に企画されるが、確かに本書を読み通すのに、これらオースティンの作品についての知識は必ずしも必要とされていない。もちろん、議論や登場人物の役割、発言など、陰に陽ににオースティンの香辛料は効いてはいるのだが、それを理解できずとも、さほど困らない。
逆に、オースティンへのリスペクトという観点では、どうしても物足りなさが残る。もし『ゴジラの映写会』という長編小説があって、その中でゴジラ映画の扱いがこの程度の密度、ボリュームだったら──はたしてゴジラファンは納得するだろうか?

Д 作者による登場人物たちの紆余曲折はそれなりに楽しく、読み物としては魅力的だ。しかし、一つ気になったのは、19世紀初頭のイギリス中流社会と21世紀初頭のアメリカ中流社会、200年を隔てた2つの時代を比較して、女性はそれほど豊かになったわけでも自由になったわけでもない、ということだ。
『読書会』の魅力の一つは、登場人物の若い頃のややエキセントリックな経験を描いた断章の数々なのだが、実のところそれらは「心理的ポルノグラフィティ」とでも称すべきものであって、オースティンの悠々たる世界観、バランス感覚にはとうてい及ばない。
そう見てしまうと、同じ時間を費やして『読書会』を読み返すくらいなら『高慢と偏見』を再読したい、そんな心持ちを打ち消すことはできない。
ただ、第六章に登場するマジック・オースティン・ボールのアイデアは素晴らしい。Twitterのbotのようなものだが、自身で読み取ることに参加の意義がある。

Д 作者のカレン・ジョイ・ファウラーはネヴュラ賞を2度受賞するなど、評価の高いSF作家とのこと。
『読書会』には火星人も緑色の扉も溺れた巨人も出てはこないが、現在と過去を自在に行き来する辛らつでセンチメンタルな断片を無造作に並べる手法、これはそういえばカート・ヴォネガットJr.の、たとえば『猫のゆりかご』や『スローターハウス5』のあのタッチだ。
その限りでは『ジェイン・オースティンの読書会』はオースティンの愛読者より村上春樹のファンにこそ似つかわしいかもしれない。

Д なお、オースティンをこれから読まれる方には、ちくま文庫の中野康司訳をお薦めしたい。翻訳としての厳密さ、文学的情緒などは不勉強にして判断がつかないが、他の訳本に比べて現代的なリズム、テンポで書かれていて読みやすく、場面場面がすっきり明快だ。
生活と心情を描くオースティンの長編において、読みづらいことほど困ったことはないのだから。

2019/06/20

真珠は日々群青色 『じゃあまたね』 清原なつの / 集英社ホームコミックス

Photo_20190627182101 我らが清原なつのが漫画家に憧れながら小・中・高校生としてゆるりと過ごす、その昭和の出会いを描く1ページ1ページに手がとまる、胸が震える、たとえばマデレイン・レングルの『五次元世界のぼうけん』、これはカラスが小学校の図書室に出入りして係のミ〇ルちゃんに「この棚からここまで全部読んだ、ふん」とか言い放つケッタクソナマイキなガキだったころトーベ・ヤンソン『ムーミン谷の冬』やベリャーエフ『ドウエル教授の首』などと並んで夢中になった、いや、「首」はシリアスな話だったのに同じ本に入っている「永久パン」はなんだか「大きなカブ」みたいなおとぎ話で同じ作家なのにどういうことだこんなことがあってよいのかと不思議だった、そういう時代に清原なつのが同じ『五次元世界のぼうけん』を読んで、いや、夢中になっていたとは、これ以上ないヨロコビにシッポが震える、清原なつのはその後作画グループに参加したり雑誌に投稿したりでプロの漫画家になり、少年少女世界の名作文学(これも清原なつのの部屋には並んでいる)刊行完了に餓えたカラスは石川喬司の『魔法使いの夏』やテレビで放送された初代『ゴジラ』、そしてそのころ漫画誌で連載されたジョージ秋山『アシュラ』や山上たつひこ『ひかる風』にイカれて、できれば作家、でなくともなんでもよいからともかく本作りにかかわる仕事につこう、そうでなければ一生何もしない、そう祈って願ってそれはかなったのだからカラスの話はどうでもよくて、清原なつのだ、万華鏡のようにあの時代の萩尾望都大島弓子、「11月のギムナジウム」、「3月になれば」、「鳥のように」、「なごりの夏の」、同じ作品を同じころに清原なつのが読んで、雑誌から切り抜いて、わあ、わわわ、ただ昔から少しだけ不思議だったのは清原なつのは当時の前衛的というかSFや少女の自立を扱うそういった作家たちの中でも妙に覚めているというかどこか作家本人を俯瞰して見ている気配があって一つのコマを描くにあたりなぜそのコマをそう描くのか考えていたり知っていたりというふうな、あまり文系理系という区分けは好きではないのだがあえていうなら理系の実験室的な視線がすべてのページに感じられて、たとえば清原なつのは『花図鑑』で少女たちの花、つまりセクシャリティを、いやそんなことはこの『じゃあまたね』では後回しもとい先送りで、始まって3ページめ、小学生の彼女が口ずさむのはザ・タイガースの「シーサイド・バウンド」、「ザ・」を抜いてはいけませんよ、その向こうの壁には「007は二度死ぬ」のポスターが貼ってある、わあわあ、昭和の読者はうるさくてすみませんね、デモデモダッテ時をかける、時をかける、まあるくなってアルマジロ。

2019/06/10

毒ある潮目 『悪いものが、来ませんように』 芦沢 央 / 角川文庫

Photo_9 雨。
町中いたるところ、紫陽花(アジサイ)が花盛りだ。

ねえねえ紫陽花の、花に見える一つひとつは実はガクで、いわゆる花じゃないんですって。
そうそう、それに、紫陽花の花の色は土壌の酸性度によって色が変わるそうよ。酸性なら青、アルカリ性なら赤。
あら、それって。リトマス紙と逆? じゃ、もしかして……。

と、突然ご近所の理系奥様語りしてみたが、以降の書評に紫陽花はなんら関係ない。すみませんね。

さて、本題。
最近売れ筋の、芦沢央を何冊か読んでみた(セリザワ・オウと読んで、それは間違い。アシザワ・ヨウである)。

  角川文庫『悪いものが、来ませんように』
  創元推理文庫『今だけのあの子』
  新潮文庫『許されようとは思いません』

『悪いものが、来ませんように』では、不妊と夫の浮気に悩む若妻 紗英と、彼女に近しい奈津子の日常生活をより糸に、夫殺害の真実が見えてくる。
短篇集『今だけのあの子』では、若者たちのさまざまな「つらい」シチュエーションの中に、綱渡りのようなもろくも切ない友情が立ち現れる。
その果ての心温まる友情が描かれる『今だけのあの子』に対し、同じ短篇集『許されようとは思いません』では一転、「許されない」主人公たちがぎしぎしと追い詰められる。

紹介の歯切れが悪いのは当方の文才のなさだけでない、あらすじを書いてしまうと楽しみがそがれる、そんな作品が多いためだ。
たとえば「新婦とは一番の親友だと思っていたのに。大学の同じグループの女子で、どうして私だけ結婚式に招かれないの……」(『今だけのあの子』惹句)、「『これでおまえも一人前だな』入社三年目の夏、常に最下位だった営業成績を大きく上げた修哉。上司にも褒められ、誇らしい気持ちに。だが売上伝票を見返して全身が強張る。本来の注文の11倍もの誤受注をしていた―」(『許されようとは思いません』惹句)、さあどうする、どうなる。

これらの長短編を読んで、軽妙なサスペンス、上質なエンターテインメントとして楽しむ一方、

  潮目が変わった?

そんなことを感じる。
いや、一人ないし数人の作家を取り上げて言うことでないのは承知している。だが、何か、風向きの変化のようなものが感じられてならない。

7、8年前なら、悪意、嫉妬、憎悪を描くこれらの作品は「イヤミス」と称されて、湊かなえ真梨幸子沼田まほかるらの系譜に並んでいたのではないか。だが、芦沢央の作品はスリリングではあっても、「イヤミス」にはならない。

「イヤミス」なら、作品の構成、キャラクター、文体がもっと汚い。
それは作家の能力が及ばないのではない。描きたい対象にページが耐えられず、ゆがみ、夾雑物にまみれるのだ。「イヤミス」が「イヤミス」たり得たその理由は作者個々に異なっていただろう、だが、それが書かれ、売れた背景には何か、たとえば東日本大震災といった切実な時代の背景があったように思う。

それに比べると、芦沢作品は美しい。伏線からどんでん返しまで、なめらかな流線形の弧を描き、着地も穏やかかつ鮮やかだ。イヤな話、救いのない話にみえて、「目撃者はいなかった」の妻の強い目線など、どこかにまっすぐで流麗なものが描かれる。
決して「イヤミス」が劣るとか、「イヤミス」に劣るとか、そういったことを言いたいのではない、念のため。
ただ、(確かな論拠もなく)何か、この数年の間に変わったものを感じる、それだけのことだ。

でも、奥様、紫陽花って、あんなふうに見えて毒なんですって。
毒による症状はあるのに、毒の原因となる化学物質はまだはっきりわからないそうよ。
じゃあ、たった今、得体の知れない毒の葉が町中で雨に打たれているのね。
そうね。
ステキね。

2019/05/27

なんで死んでるんだよっ!! 『インハンド(01)』 朱戸アオ / 講談社 イブニングKC

Photo_8 * 誕生
現在、『インハンド』シリーズで書店で手軽に手に入るのは、
 『インハンド プロローグⅠ ネメシスの杖』
 『インハンド プロローグⅡ ガニュメデスの杯、他』
 『インハンド 01』
の3冊。

『インハンド 01』が2018年からイブニング誌上で連載継続中のもの。
『プロローグⅠ』『プロローグⅡ』はアフタヌーン誌にそれぞれ2013年、2016年に掲載されたもののリニューアル版。以前はそれぞれ『ネメシスの杖』『インハンド 紐倉博士とまじめな右腕』というタイトルでアフタンーンKCから発売されていた(品切れにともないたいそうな高値でやり取りされていたが、テレビドラマ化をきっかけに入手しやすうなったことは善哉)。

ちなみに作者の朱戸アオは「アカトアオ」と読む。サ行の棚に置いてある古本屋さん、そこ違うから。

♂ 男
主人公は寄生虫学の研究者、紐倉哲。紐倉という変わった姓は、ゴルディアスの結び目からかと推察するが確証はない。彼はかゆみ止めの薬品開発による莫大な資産をもって広大な研究所を所有し、うすら笑いを浮かべ、人を見下し、頭脳明晰だが正義より自身の研究を優先する、探偵のカガミのような人物。過去の事件により右手を失っている。「何か自分より弱っている人見たら元気になってきちゃった」は彼の人となりを示す名言。
テレビドラマで紐倉を演ずる山下智久はたいへんイケメンではあるが、とくにそんな「うすら笑い」について少しもの足りない印象を受ける。生真面目すぎ。もっと高田純次でいいと思う。

♀ 女
原作『インハンド』シリーズのヒロインは厚労省患者安全委員会(PSC)調査官の阿里玲から『プロローグⅡ』以降は内閣情報調査室健康危機管理部門の牧野巴に変わっている。テレビドラマで牧野に菜々緒を配したのはこれ以上ない選択肢。TBS、GJ

ちなみに紐倉の研究所にコックとして雇われた雪村潤月は朱戸アオの長編『リウーを待ちながら』(イブニングKC、全3巻)でペストに蹂躙された横走市の生存者。潤月はテレビドラマには出ていないようだが、『リウーを待ちながら』は医療マンガ好きの方はぜひご一読ください。ニ、三週間は浮上できない。

† 死亡
配役以外の、テレビドラマ『インハンド』の印象。
実は、東京慈恵会医科大学の嘉糠洋陸先生(デング熱の紹介でおなじみ)が監修されるというので楽しみにしていたのだが、紐倉が寄生虫専門の学者であるという設定が活かされたのは第1話のみで、あとは原作ともどもごく普通のバイオテロサスペンスドラマになってしまっている。
加えて、第1話では、被害者の誰もが、自らの死を賭しても真相を明らかにしない、というジレンマが作品の最大のキモだったにもかかわらず、ただ犯人側の視点を追ったお涙ちょうだいの復讐譚になってしまった。原作者は怒っていいレベル。

∞ そして無限
作品として、必ずしも全方位的にクオリティが高いとは言わないが、イジワルな探偵、ペダンティックな会話、ほどよく苦味の利いたストーリー展開は捨てがたい。
『ブラックジャック』を起点とする医療マンガにまた一つ「残るもの」をin handできたのではないかと思う。そうあってほしい。

2019/05/06

タイトルリストラ? 『ベスト8ミステリーズ2015』 日本推理作家協会編 / 講談社文庫

8 講談社文庫の「ミステリー傑作選」は、その年度に発表されたミステリ短篇から厳選して編まれた単行本『推理小説年鑑』(現在は『ザ・・ベストミステリーズ』)からさらに抽出して文庫化したもの。1974年発行の『犯罪ロードマップ ミステリー傑作選1』を嚆矢に、一部スピンオフ的なものも含めて現在では90冊、スチール製の本棚2段以上に及ぶ長大なシリーズとなっている。

今回の『ベスト8ミステリーズ2015』の内容を見てみよう。
収録作は2015年に発表された8篇。

  大石直紀「おばあちゃんといっしょ」
  永嶋恵美「ババ抜き」
  秋吉理香子「リケジョの婚活」
  日野草「グラスタンク」
  榊林銘「十五秒」
  小林由香「サイレン」
  大沢在昌「分かれ道」
  若竹七海「静かな炎天」

推理小説界の傾向か、選者の嗜好かは知らないが、女性が活躍する作品が多い。しかも過半数が、展開はいろいろあれど女性が女性と闘うストーリーである(男性が登場しても添え物、せいぜい輪投げの的程度の扱い)。

誰かが罪を犯し、名探偵がその犯人・動機・方法を推理する、という、いわゆる「探偵小説」の体をなすものは一作もなく、「こんな設定だとなんとこんなことに!」というシチュエーションサスペンスとでも称すべきものが大半。
とたえば社員旅行で三人のオールドミスが罰ゲームを賭けてババ抜きを繰り広げる「ババ抜き」、テレビの婚活番組にリケジョがExcel片手にチャレンジする「リケジョの婚活」、復讐代行業者への依頼を描いた「グラスタンク」、銃で撃たれて死ぬまでの15秒間の錯綜を描く「十五秒」、特殊な刑罰法のもとに被害者の父親が懊悩する「サイレン」など、いずれも設定だけでごはんがごはんがススムくん。

ただ、一短篇としてみると、シチュエーションの説明までの熱量が高すぎて、起承転結の「結」にさほどインパクトがない、起承承承で終わってしまうような作品も目についた。実はいずれもそれなりに「結」には意外性もあり、品質は低くないのだが、「起」が大きすぎてややベタな「結」に驚けない、そんな印象なのである。

さらに、「探偵小説」ほど論理展開に気を遣わないシチュエーションサスペンスでは、ほんの少し冷静になってしまうと大きな穴が目についてしまうことも少なくない。
これほど理詰めでことを進めるリケジョが「彼」に走ったきっかけは? とか、「ババ抜き」や「グラスタンク」のように本人が正直に秘密を暴露することが「結」の要になっているものもある。「サイレン」の終わり方はいっけんショッキングだが、こんな法律が施行されたなら当然予測されるはずで、警察も役所も何をやっているんだか、である。

--------------

おまけ。

最初にも書いたとおり、『ミステリー傑作選』は今回で90冊。そのサブタイトルは、『犯罪ロードマップ』『1ダースの殺意』『殺人作法』といったいかにもミステリアンソロジーめいたものから、最近はそれにさらにアルファベットのキャッチが付いて『Bluff 騙し合いの夜』『Life 人生、すなわち謎』『Acrobatic 物語の曲芸師たち』等々と続いていた。

ここにきて、今回は突然の『ベスト8ミステリーズ2015』。
サブタイトルを検討する労力も惜しんだのだろうか。表紙や帯は変わらず経費、手間をかけているように見えるので、ちょっと不思議だ。
これが今回最大のミステリー。

2019/05/02

何かをそっと囁いた 『狂気の巡礼』 ステファン・グラビンスキ、芝田文乃 訳 / 国書刊行会

Kyouki不気味な物語』(の、とくに「偶然」「和解」の連作)が思いがけずよかったので、グラビンスキをもう1冊読んでみた。

グラビンスキはポーランドの怪奇作家、『狂気の巡礼』は初期の短篇集『薔薇の丘にて』、『狂気の巡礼』から1篇を除いてまとめたもの。
ハードカバーに窓があいて、そこから表紙の不気味なイラスト(ペン画? リトグラフ?)がのぞく装丁が実に素晴らしい。

内容は、どこかの庭や部屋に赴いた主人公が何かを幻視、実はそれは死んだ……という展開が多く、ややバラエティに欠ける印象もなくはないが、それでも最後の1行であらゆる混乱に終止符を打つ「狂気の農園」、悪意が黒くよどむような「大鴉」など、それぞれ読み応えあり。
ジキルとハイドのグラビンスキ版、「チェラヴァの問題」では作者の論理的、科学的嗜好性読み取れる(ホラーとしては妻がBを撃ち殺すとAも、というほうが自然だと思われるが、そうしなかったことがかえって奇妙な読後感を残す)。

ただ、どうしても書いておきたい難点が2点。

1つは、Webの自動翻訳か、と思われるような訳のまずさ。

たとえば論理的に説明のつかない

  彼の客となって1週間、もう何年も顔を合わせていなかった。(「海辺の別荘にて」)

原書がどうなっているかは知らないが、これなど原文では「何年も顔を合わせていなかった彼のもとに客になって1週間」といった程度の意だったのではなかったか。

また、全体に、抽象的、観念的な名詞を(おそらく原文そのままに)主語、目的語に配してしまうことによる読みづらさが目につく。

  その幻影には実際あらゆる実在の基礎が欠けていることを確信して、私は目を凝らし、努めて知力の正気を保つようにした。(「薔薇の丘にて」)

  嵐になった。自然力が爆発する前に鉄道駅にたどり着こうと私は足を速め、(「夜の宿り」)

「実在の基礎が欠けている」「自然力が爆発」……。このような例は探すまでもなくどの頁にもあふれている。

もう1つは、帯やあとがきでの無理やりな「ポーランドのラヴクラフト」推し。

クラビンスキの作品の特徴は、ざっくりいえば死者、つまりは人間の強い思念が悪夢の実態となって生者を操り動かし、場合によっては死にまでいざなう展開にある。

かたやラヴクラフトの作品は時間、空間を超越した神話的存在が垣間見えたとき脆弱な人間は破滅せざるを得ない、というものであって、その恐怖、魔の存在は人智を越えているのだ。

説明のつかないウゴウゴしたお化けが出てくる、だからラヴクラフト的──などという短慮は避けたい。

2019/04/25

山川方夫『夏の葬列』(集英社文庫)、『親しい友人たち』(創元推理文庫)

Photo_6 最近、ときどき山川方夫を読んでいる。ざっくり、四十数年ぶり。

初めて手にしたのは大学に入ったばかりの頃、池袋東口にあったクラシック喫茶で本を読もうと先輩に誘われて。先輩たちと雑居していたアパートからの道すがら、西口の芳林堂2階で新潮文庫版を買った。『愛のごとく』、あるいは『海岸公園』、どちらだったかは覚えていない。
クラシック喫茶というのは、ひねもすクラシックの名盤をかける店で、その店は椅子、テーブルは一人掛けの一方通行、珈琲の注文は声をひそめ、私語をかわすと叱られる……。

なんて話はどうでもよくて。

山川方夫は幾度か芥川賞候補になった実作のほか、三田文学の編集やそれにともなう江藤淳、曽野綾子、浅利慶太、村松剛らの新人発掘で知られる。享年三十四、交通事故での早世だった。

そういうツウ好みだが地味な経歴、作風のわりに、文壇、出版人に愛好者が多いようだ。そう数字が出るとも思えないのに、文庫も切れ目ない。

なぜだろう? 山川信仰とでもいうか、なぜ山川方夫は読まれ続けるのだろう?

学生当時はともかく、今では一つの仮説を平気で口にできる。
山川方夫は、そのへんの凡庸な文学青年(壮年、老年)にとって、なんとなく、「自分もこのくらいは書けるんじゃないかな、きっと書けそうだ」と思える手頃な物差しなのだ。

Photo_7 日本画家だった父親の死に伴う実家の凋落を描く私小説的作品(「海岸公園」など)は育った環境次第に思われるし、
若者の無軌道を描くやや退廃的な作品(「安南の王子」「愛のごとく」など)は文学青年が誰でもかかる麻疹(はしか)のようなもの、
ミステリ、SFテイストの強いショートショート(「夏の葬列」「待っている女」「お守り」など)は確かにキレがよいし読後感も豊かだが、文学を志すこの身、頑張れば一つや二つくらいは書けそうではないか!

だが、結局、誰も山川方夫にはなれなかった。
山川方夫は青春小説の一つの星のまま、薄暮の空にぼんやりかかっている。今日もどこかで文学青年がそれを見て跳ねる。
ありがたいやら、迷惑やら。

«うちの土地 『幸せ戦争』 青木祐子 / 集英社文庫