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2018/06/25

『春の庭』 柴崎友香 / 文春文庫

Photoときどき、芥川賞受賞作品を読む。順不同。

「これは凄い! この作家は今後追いかけよう!」ということは過去ほとんど起こっていないので、ほかのジャンルの作品に比べてアタリは少ないのだが、なんとなくたまには勉強、という気分で読んでいる。

柴崎友香『春の庭』は第151回芥川賞受賞作。
世田谷の取り壊し間際のアパートに住む人々が、近所に建つ「水色の家」に引かれ、その周りをうろついたり、住人と知り合って上がり込んだり、という話。
よくわからない。

登場人物の多くがその「水色の家」に引っ張られるのだが(昔タレントが住んでいて、そこでのプライベートを撮った写真集が発売されていたという)、なぜその家が人の興味を引くのか、最後まで読んでもよくわからない。作中に描かれた写真集も説明の限りではつまらなそうなのに、登場する人物人物が皆それを知っているという不可思議さ。

読んでいるうちにどこかで読んだような気分になった。そうだ、又吉直樹の『火花』だ。

登場人物の誰もが特定の対象に興味を持つ(『火花』ならお笑いのネタ)が、読み手にはそれがなぜ重要か伝わらない。その魅力を伝えることはさほど重要ではない、らしい。
登場人物どうしの関係は希薄。親しく飲み食いしたりするが、希薄。
男女関係などはテーマにならない。エロもない。
最後は登場人物の突拍子もない行動が描かれて終わるが、いきなりすぎて何を狙ったものか、よくわからない。

『火花』の受賞は第153回。
こういうのが最近の選考委員の好みなのか、としか言いようがない。

ところで、カバーの惹句には「第151回芥川賞に輝く表題作に──」とあるが、「輝く」は今、正しいのだろうか?

2018/06/11

職責を果たせ 『警視庁文書捜査官』 麻見和史 / 角川文庫

Photo「えーまたテレビドラマネタ? しつこいと嫌われるよ」
「そうですねー、まああと1回、お付き合いください」
「うむ、日高屋のランチに半チャーハンおごってくれたら、付き合うのもやぶさかではない」
「先輩、その『おごる』、『やぶさか』、漢字で書けますか?」
「うぐぐ」
「今回は、こんなふうに言葉にうるさい登場人物が活躍する話です。ちなみに正解は、『奢る』、『吝か』」
「ほへー」

「警視庁の一画に居を構え、表立った捜査陣には姥捨て山のごとく軽んじられる組織。若手の元気な刑事が配属されると、そこには人格的にはクセがあるものの、博覧強記、知見のカタマリのような先輩刑事がいた。二人は衝突しつつも、それぞれの個性を活かし、次々と事件の謎を解き明かしていく」
「わかりやすい解説ありがとう、だけど、どこに向かって喋ってんの?」
「(無視)テレビ朝日系列で先週まで放送されていた『未解決の女 警視庁文書捜査官』の枠組みをざっくりまとめると、おやおや私としたことが『相棒』のあらすじそっくりになってしまいました」
「あ、鈴木京香と波瑠が出ていたドラマね。見た見た」
「異なるドラマである以上、細かいところはいろいろ違うわけですが、それでも、意識的にか無意識か、『未解決の女 警視庁文書捜査官』が同じテレ朝のドル箱である『相棒』の文体を追ってしまった印象は否めません」
「おやあ、こんなところに原作本が」
「角川文庫の原作『警視庁文書捜査官』では、少なくともヒロイン 鳴海理沙の扱いがテレビドラマとはまるで違います。まず、理沙の部下というか後輩にあたる巡査部長、原作の矢代朋彦が、テレビでは波瑠演ずる矢代朋という女性刑事になってしまっています」
「うむ、今どき鈴木京香一人主演では視聴率」
「先輩、地雷を踏むならカンボジアかどこかで」
「はい。鈴木京香さん素敵だと思いまーす」
「ドラマ版の鳴海理沙(鈴木京香)はベテラン刑事であり、『倉庫番の魔女』の異名を持ち、地下の個室でレコードを聴きながら文書解読に努めるという設定。しかし、原作の理沙は初々しい若手刑事、学んだ『文章心理学』を捜査に活かそうとはしますが、基本的に“おどおど”“おずおず”系のキャラクターです。しかも彼女は部屋にこもったりせず、むしろ捜査一課の指揮を無視して現場に走っては叱られます」
「そこまで変えて“原作”ってうたってよろしーのか」
「もちろんテレビ局から見れば、プロとして、こうしたほうがウケる! ウレる! 等いろいろ考えがあるんでしょう。原作者が了解しているなら我々がどうこう口をはさむべきではありません。ただ、こんなことを繰り返していても、数年経って“あのドラマはよかった!”と言われる作品はなかなか出てこないように思うのですが、どうでしょうね」
「ふがふが」
「あ、それは〇〇のオヤツ。無断で食べましたね、、、イノチシラズナ、、、」
「ぐ。ぐあぐあぐあ」

以下、麻見和史作品について雑感いくつか。
・同じ作者には警視庁捜査一課十一係シリーズ(講談社文庫)、特捜7シリーズ(新潮文庫)、重犯罪取材班・早乙女綾香シリーズ(幻冬舎文庫)などあり、いずれも若手の女性刑事や記者が活躍する。そのキャラクターの印象は悪くない。
・ただ、いわゆる本格ミステリなら「事件発覚」→「登場人物紹介」→「新展開」→「探偵による解決編」という起承転結構成が普通だが、警察小説の場合、解決にいたるまで地道な聞き取り捜査を重ねるため、さほど重要でない人物にも面会を繰り返すなど、全体が平板になる傾向あり。
・そのため、通常のミステリなら後半の100ページにいたると一気に読んでしまうことが多いが、この作者の作品の場合、最後までスピードアップしない印象あり。

「しかしなあ」
「どうかしましたか?」
「この『警視庁文書捜査官』にはほかに『緋色のシグナル 警視庁文書捜査官エピソード・ゼロ』『永久囚人 警視庁文書捜査官』のシリーズ2冊があって、いちおう読んでみたのだけれど」
「はい」
「本庁の刑事たちからは軽んじられつつ、クセのある人物が元気がとりえな人物と独自に捜査して、その豊富な知識とスルドイ推理で犯人を暴く……」
「おや。先輩も気がつきましたか」
「『文書捜査官』とか新味ぶってるけど、要はふつーに探偵小説だわな」
「実はそうなんですね」
「そのわりに、現場に残されたカードやら落書きやら、証拠としてパッとしないし、犯人特定の決め手にも欠けるというか。つまり、探偵小説としてイマイチ……」
「ああ、言ってしまいましたね」

2018/05/31

『正義のセ ユウズウキカンチンで何が悪い!』 阿川佐和子 / 角川文庫

Photo前々回、マーケティング手法の普及、発達に伴い、テレビドラマはヒット作品の劣化コピーを繰り返すようになった、と書いた。
それがどれほど正しいかは立証のしようもないが、テレビドラマの原作に選ばれた作品がそれぞれの豊かな味わい、個性を削り、切り捨てられ、いずれどこかで見たようなモノに張り替えられてしまう例は何度も目にしてきた。コミック原作ものにそれは顕著だが、小説を原作とするドラマも本筋はそう変わらない。

『正義のセ』シリーズは、キャスター、エッセイストで知られる阿川佐和子氏(NHK・Eテレで放送されたふなっしーとの「SWITCHインタビュー 達人達」は永久保存に値する傑作だ)による、若手検事 竹村凜々子を主人公にした連作小説である。角川文庫で現在4巻まで。

豆腐屋の娘 凜々子の小学生時代から書き起こし、慣れない検事業務の中から手探りで自らの「正義」を見つけ出そうとする成長物語で、ミステリ、サスペンス色は薄い──というか、ほとんどない。午後9時、10時から放送されるサスペンスドラマより、朝の連ドラに近い、と言うとわかりやすいだろうか。
各編で凜々子が担当する事件は、凜々子を苦しめ、「正しい裁き」について惑わせこそすれど、大きな裏やどんでん返しがあるわけではない。そもそも警察の捜査がそうそう覆るはずはないし、検事が警察からの報告を疑って現場に赴くこと自体イレギュラーなのである。
2巻めの終わりから3巻めにかけ、大きな冤罪事件、そしてマスコミとの軋轢が描かれはする。しかし、その際も作者の眼差しは事件そのものより、被害者、あるいは巻き込まれた凜々子のやるせない思い、家族や友人との関係の破綻、その結ぼれに暖かく向けられる。したがってその結末も、ミステリ小説に慣れた読み手からするとおよそ肩透かしの感が強い。

ところが、これが吉高由里子主演でドラマ化(日本テレビ)されるや、原作のいくつかの事件、脇役たちは踏襲しつつ、毎回検事が事件の現場に再捜査に赴き、真相を覆す1話完結の人情サスペンスに変わってしまう。人間関係も格段にスマートだ。

不思議なことに、吉高演ずる凜々子の演技が間違っているわけではない。2年前に発行された文庫の表紙イラストも、まるで吉高のキャスティングを想定していたかのようだ。

つまり、小説とテレビドラマでは、そもそも「文体」が違うのである。

2018/05/16

テレビにまつわる雑感 2/2

★彡

TOKYO MX1という地方局で毎週月曜、律儀に再放送されている「ルパン三世(PART2)」を愉しみに録画している。PART2は宮崎駿らも制作に関係した、人気シリーズだ。
ハードディスクに録画してはブルーレイにぎっちり焼き込み、ここまで1年半かけて今週でようやく第74話。
全体では155話あるのでフィニッシュはまだまだ先だ。
完結までに大きな事件、災害が、とか、ミサイルが、等々で放送が飛んだりしないか心配だ。
飛ばないまでもニュース速報が画面上に乗ると、がっかりする。

もちろん、ニュース速報が大切なものであることはわかっている。
だが、何年がかりで録画を積み重ねたものに、プロ野球の新人が初ヒットを打った、程度のニュースで画面がちらつくのには脱力する。大雨波浪警報も、録画したものには不要ではないか。

テレビ界はなぜデジタル放送にした際に、そういったコメント系の画面と本映像とを2画面に分けなかったのだろう。テキストだけならそれほど情報量がかさばるわけもない。仕組みだって簡単だ。
そうしなかった理由が、もし、画面の上下、左右にのさばる同じ局の番組宣伝を消されないため──だったとしたら、うんざりだ。

★彡

黒いアナログ電話がデジタル化されたとき、電話は「もしもし」のツールから一気にモバイル情報端末にまで走り抜けた。
生まれたときすでに手元にスマホやパッドのあった子供たちは、黒電話と新聞しかなかった時代なんて想像すらできないに違いない。

テレビは、どうか。もちろん、リモコンのボタンで天気予報を表示させたり、クイズに応募したり、といった機能は付加されている……しかし、実はそれらはアナログ電話でもほぼ可能だったことばかり。誰も、ちゃぶ台をひっくり返してはいない。

もちろん、デジタル化によって画質は圧倒的に改善された。しかし、たとえば1950年代から放送された「ロッテ歌のアルバム」と、現在の「ミュージックステーション」の間に、どれほどの違いがあるというのか。

★彡

結局、少なくとも日本のテレビは、1950年代に地上波放送が開始されて以来、現在にいたるまで、とくに団塊の世代を対象に普及はしてきたものの、ある日静かに沈没していく、たとえるなら一時期ビジネスマンや女子高生に広く愛用されながらあっという間に消えていったポケベルのように、ただ一過性の花火なのかもしれない。
なにしろ、これほど手間暇、金をつぎ込んでこしらえ、これほど視聴者を引き付けながら、何かを後に残そうという意欲にまったく欠ける不思議なメディアなので。

2018/05/14

テレビにまつわる雑感 1/2

★彡

金曜日に地上波で放送された『パシフィック・リム』、(前回放映時、録画を失念していたので)わくわくと録画してCM、番宣をカットしたら、残ったものが92分。あの素晴らしい132分の映像のうち、40分もがどこかに消えてしまった。

いつも不思議に思うのだけれど、テレビ局には人様のクリエイティブな作品をぶち壊している、という痛覚がないのだろうか?

★彡

大雑把に、そういう傾向があるかもね、という話なのだが、

視聴率とかアンケートとか世論調査とか、そういったマーケティング手法を誰もが使うようになると、、、

たとえば車でいえば燃費がよくてあれこれ便利なミニバンがよく売れるもよう、という調査結果から、各社は似たようなミニバンばかり投入し、相対的にスポーツカーや特異なデザイン(ビートル程度であれ!)は駆逐されていく。
道路はお醤油顔のミニバンであふれ、めでたしめでたし、よかったね。

いや、よくない。
燃費や利便性ばかり追い求めた結果(それだけが理由ではないだろうが)、若者は「車」そのものへの夢や希望を見失ってしまった。だってそれでは冷蔵庫や洗濯機と同じだもの。

テレビドラマも同じだ。

2時間も3時間も茶の間(死語)に座り続けるのはつらい。1つのテーマや事件の結論、決着を次週、その次の週まで待ち続けるのはつらい。だから刑事もの、サスペンスもの、医療もの、はては恋愛ドラマさえ、毎週、1時間で心地よい決着をつけたがる。そのほうが圧倒的に視聴率がとれるのだし、それはそうだろう。

結果として目先の刺激に腐心し続けたテレビドラマは、ついに重厚なメディア文化たる地位を獲得しないまま終わろうとしている。いや、終わるかどうかは知らないけど。

ヘタなワイドショーより『相棒』や『古畑任三郎』の再放送のほうが視聴率とれるんじゃないの、って、古畑は最新話でも10年前。
その間、ドラマの担当者たちは何をしていたのか──たぶん、日々公表される視聴率を横目に、ミニバンのような、よくできてはいてもワクワクしない、驚異も不思議もない、そういったものの劣化コピーを繰り返していたのだろう。違うのかな。

«エピゴーネン 『タラント氏の事件簿』 C・デイリー・キング、中村有希 訳 / 創元推理文庫