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2017/02/11

雑感 『短篇ベストコレクション 現代の小説2016』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo16作品収録。

朝倉かすみ「さようなら、妻」
早めにオチが見えてしまった分、落差が今ひとつ。
大沢在昌「分かれ道」
新宿鮫、まだこんな仕事してるのか。
荻原 浩「成人式」
体操の鉄棒にたとえるなら、決して超人的、軽やかな演技ではなく、要所要所ではらはらさせながら、最後の着地がなんとか決まり、気がつけば観客の目に涙。傑作。
恩田 陸「線路脇の家」
問題作(悪い意味で)。後で触れる。
梶尾真治「辺境の星で」
梶尾真治にしてはウェットな味付けのない落とし噺。
神田 茜「おっぱいブルー」
お嬢ちゃん、がんばれ。もう30年若かったら、読み方、感想も変わったか。
北村 薫「茶の痕跡」
小さなミステリであることは決して悪いことではない。が、どうもこのところのこの作者の“小物感”が気になる。
※作中に登場する『本をつくる者の心 造本40年』(藤森善貢、日本エディタースクール出版部)、面白そうなのでさっそく古本を取り寄せて読んでみた。近日中に取り上げたい。
佐々木 譲「降るがいい」
こういうやるせなさを、演歌のない今の若い人たちはどう処理しているのだろう。
髙村 薫「わが町の人々」
迷走してる? 大丈夫か?
長岡弘樹「涙の成分比」
話題になった同じ作者の短篇集を読んだときは今ひとつピンとこなかったのだが、本作は素晴らしい。登場人物は実質たった2人、だが、ともにその言動が読み手の想像を上回り、思いもかけないエンドマークにいたる。短篇ながら映画1本分の重荷。
新津きよみ「寿命」
読み手の想像を覆す点ではこれも凄い。ワンアイデアにもたれず、厳しく終わらせたことで再読に耐えた。
藤井太洋「ヴァンテアン」
怪作。とんでもない(ろくでもない?)発想。ただ、これでSFの読者が増えるのだろうか? 最後の7行の意味はよくわからなかった。誰か教えてください。
本城雅人「持出禁止」
スポーツ新聞の特ダネ競争を描いて痛快。面白さということでは集中随一か。
ただ、ファックスで原稿をやり取り、連絡は電話ボックス……いつの時代の話だ?
三浦しをん「胡蝶」
煮付けの好きな祖母に育てられた少女、という話から、やがてずるずると世界が崩れていく。壊すのは誰か。
宮木あや子「鞄の中」
短篇小説にはE.A.ポーのように論理的で起承転結のきっちりした(ミステリに向いた)「閉鎖血管系」の作品と、因果関係も終わりもはっきりしない(ホラー向きな)「開放血管系」の2種がある。本作は典型的な後者で、物語中の毛細血管からじわじわと血が染み出し、家中が血まみれなのに主人公は歯牙にもかけない。ここ数年読んだあらゆるホラーの中でも一、二を争う恐ろしさ。
両角長彦「頼れるカーナビ」
よくできたショートショート。なのだが、こういった技術製品を素材にした作品は数年経つと話が理解できなくなることもある。

さて、恩田陸については、以前、他者の、それもかなり広く知られたデザインやタイトルを平気で自作に用いる、その無神経さが気持ち悪いというようなことを書いた(その後発表された『ブラザー・サン シスター・ムーン』にも驚いた)。
今回収録の「線路脇の家」は、アメリカ人画家、エドワード・ホッパーの代表作のタイトルであり、ヒッチコックの映画『サイコ』の舞台のモデルとしても知られている。ところがそれを引用した恩田陸の物語の舞台は、日本国内の線路脇の、ホッパーの絵に似た家、というだけで、元の絵画作品や『サイコ』を膨らませるわけでも批評するわけでもない(実際、書き起こしは「線路脇に洋館があった」で十分だったろうし、逆にホッパーやヒッチコックの名を削ってしまえば提示された謎もその解もショボい、しみったれたものでしかない)。
それでなおかつ世界の著名作をひっぱってくる恩田陸。もう一度書くが、この作者の意識の中で,意匠とかオリジナリティとかはどういう具合になっているのだろうか。

2017/02/09

不安の入り口、希望の出口 『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』 田中圭一 / 角川書店

田中圭一といえば、手塚治虫パックリな絵柄でよもやのお下劣ギャグを連発する、“神をも恐れぬ”サラリーマン兼業漫画家、その人である。
ちなみに「パロディ」なるものは高度な批評眼と描写力を必要とする知的作業であり、田中圭一もサイテー、ド変態な印象の一方、さまざまな漫画家のペンタッチをトレースすることでそのコマの意図を深掘りする漫画評論家の一人でもある。あの夏目房之介の傑作『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』の系譜を正しく継ぐ者といえるだろう。

Photo最近は『Gのサムライ』などさらにゲスいパフォワッ!!な作品を発表するかたわら、その憑依ペンタッチを活かしたインタビュー作品に伸長著しい。
人気漫画家23人の──本人でなく──子息・息女を招いてその漫画家の馴染みの店、好きな食べ物を取材し、しかもその模様をその漫画家のタッチで描いた『ペンと箸 ~漫画家の好物~』は、漫画家たちの意外な実像とその子として育つ若者たちの生き様に迫る予想を遥かに上回る好著だ。ちばてつや、手塚治虫、赤塚不二夫、山本直樹、池上遼一、魔夜峰央、上村一夫、諸星大二郎、永野のりこら、取り上げられた漫画家のプライベートはいずれも興味深いが、ことに『ど根性ガエル』の吉沢やすみ、『アストロ球団』の中島徳博、『まんだら屋の良太』の畑中純の章など思いがけない展開と哀惜に充ち、人気作品にリアルタイムに触れてきたファンは涙を禁じ得ないだろう。

さて、そんな田中圭一の最新刊『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』はさらにシリアスな内容で、長年うつ病に苦しんできた著者本人、またロックミュージシャン大槻ケンジ、AV監督代々木忠(!)、小説家宮内悠介、熊谷達也らが表だっての活躍の一方でどうしてうつに陥ったか、いかにそのトンネルを抜け出たかをじっくりヒアリングし、うつ症状の実情、うつに陥るきっかけ、そして(容易ではないものの)そこから抜け出す方法について懇切丁寧にまとめたインタビュー形式のレポートである。

もちろん、類似のアドバイスは、文章の形でならすでにあちこちに再三書かれてきたに違いない。それを、漫画という、流して読みやすく、笑いを交えて理解しやすい形で提示したことが大きい。
発売後、売り切れの書店が相次ぐなど、ネットを中心に話題となり、同じくうつに苦しんだ人々から「よくわかる」「もっと早く読みたかった」「知り合いにも読ませたい」等、熱い共感が集まっている。

さて、この後は少しダークサイドに走るので、自分も苦しんでいる、あるいはようやく抜けたという方はご遠慮ください。

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Photo_3その好評の『うつヌケ』だが、読み終えての第一印象、それは実は世評とは逆に「この本はまずい、危ない」というものだった。

トンネルを抜ける手段がわかりやすいということは、そのトンネルに追いやる方法も明らか、ということだ。
誰かをうつに貶めたい、あるいはうつに苦しむ誰かをさらに苦しめたい、そんな毒親、毒家族、毒上司、毒同僚等々にとって、本書は天の与えた悪魔のお手軽マニュアルになりかねない。うつに苦しむ、あるいはうつに陥りかねぬ誰もが本作中に登場する人々のように才能や仕事に恵まれ、家族に恵まれているわけではない。もし悪意をもった誰かが本作を手にしたならば……。

もっとも実際のところ、そんな心配など杞憂に過ぎない。
蛇は毒を行使するにマニュアルなど必要としない。まして人をうつに追いやる毒は、自覚された歴然たる悪意などではなく、善意や好意や「あなたのため」の名のもとに押しかけてくるものだ。

2017/02/03

『片恋・ファウスト』 ツルゲーネフ、米川正夫 訳 / 新潮文庫

Photoバーナード嬢曰く。』の第2巻には、町田さわ子が「教養高めようと思って」手あたり次第に借りた古典のラインナップが
  『老人と海』
  『二十日鼠と人間』
  『ジーキル博士とハイド氏』
  『ポー詩集』
  ツルゲーネフの『はつ恋』
  ワイルドの『サロメ』その他
で、これが実はいずれも文庫の薄さで選んだものだった、というネタがあった(さらにその中でも屈指の薄さを誇る『春琴抄』がとんでもなく読みづらくて泣く、というオチ付き)。

しかし、ムズカシそうな古典はできれば薄いほうが──という生物の習性には思い当たるフシもあって決して笑えない。
横目で自分の未読の棚を見てみると、ありました、いつどこで入手したか覚えてないツルゲーネフ『片恋・ファウスト』。短篇2作で170ページ、薄いのでとりあえず買っとこう薄いのでそのうち読むだろう気配がいかにもたこにも。
おまけに昭和二十七年發行、昭和三十八年十三刷、パラフィン紙カバーの新潮文庫という町田さわ子もびっくりのヴィンテージ品だ(ほんとにどこで買ったのだろう……?)。

収録された作品は「片恋」「ファウスト」ともツルゲーネフ本人の自伝的恋愛小説で、ざっくりいえばどちらも露西亜無産階級インテリゲンチャの語り手にうっかりほだされた女がへたれ男の優柔不断で不幸になる、という情けないお話だ。
それでもこの時代の文学作品におけるロシアの「風変わりな」女たちが手に負えないほど魅力的なのは、どうしたものだろう。
頬を染めて黙り込み、そっぽを向いていきなり部屋を飛び出し、戻ってきて思いのたけを叫ぶやまた走り去って熱を出して寝込む。ときにはそのままうわ言をつぶやいて死んでしまう。
それぞれシチュエーションや年齢は異なるが、「片恋」のアーシャ、「ファウスト」のヴェーラとも(付け加えるなら玉井徳太郎が挿絵を描いた『孤児ネルリ』なども)、そういった熟しきらない林檎のような抗いがたいエキセントリックな魅力に満ちあふれている。

彼女たちに比べればフランスの悲劇のヒロインなど、狂ったように見えてどこか最後までお化粧を忘れないところがあって苦手だ。

ところで「あとがき」によると、米川正夫は、二葉亭四迷の「片恋」は題名含め名訳だが、さすがに時代感覚のずれや江戸の戯作の影響下にあるように思われたため改訳した、とのこと。
それでも米川の時代からさらに65年を経て、今や耳慣れない言葉も少なくないようだ。

  あたし全く空をつかってるんじゃありませんの。

  僕はこうしたごったくさには経験がないものだから。

「空をつかう」「ごったくさ」……???

2017/01/31

読書通絶句 『バーナード嬢曰く。』(現在3巻まで) 施川ユウキ / 一迅社 REXコミックス

Photo  「読んでない本を読んだ気になるのに
   楽をするな!!」

と豪語する町田さわ子は、読んでもいない本のことをいかに読書通ぶって語れるか、そこにばかりこだわる困った女の子。

そんな町田さわ子をなんとなくウォッチしてしまう遠藤は『真夜中は別の顔』『恋空』『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』『KAGEROU』などひと昔前に流行った本を古本屋で買って読むのが趣味。同じく図書室に常駐する神林しおりは熱心なSFファンゆえに町田さわ子のいい加減な読書ぶりが気になってしかたがない。遠藤に思いを抱く図書委員の長谷川スミカはシャーロキアン。

登場人物はほとんどこの4人だけ。
事件らしい事件は何も起こらない。その代わり、さまざまな本、本についての名言、妄言が横から斜めから次々飛んできて、半可通の読書家を刺す。

個人的には生真面目な神林しおりが、ほとんど恋しいレベル。
圧倒的な読書量と解説の嵐で大ゴマを文字で埋めながら、町田さわ子の素朴なツッコミカウンターに赤面、石化するしおり。
あるいは水泳部が休みの誰もいないプールで、大好きだけどやたら難しいグレッグ・イーガンの新作を読んだら思ったより読みやすく、それが嬉しくて無意識に足で水をぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃしてしまうしおりの愛おしさ。
停電で暗くなった図書室で、理科室から持ってきたアルコールランプの灯りのもと、嵐の音を聞きながら皆で本を読むエピソードもいい。

ちなみにタイトルの「バーナード嬢」とは、言わずと知れたアイルランド出身の劇作家「バーナード・ショウ」をもじったもので──とか知ったかぶりしてしまうわけだが、実のところ町田さわ子に限らず当方だってバーナード・ショウの本をちゃんと読んでいるわけではない。
本書がちくちく刺すのはまさしくそういう読書家である。
もっとも、刺すからといって殺すわけではない。バファリンではないが、『バーナード嬢曰く。』の半分は本好きへの優しさでできているのだ。

  「だから私は…
   同じ話を
   何度だってする……!!!」
  「何度でも
   聞くよ?」

2017/01/25

小学館版『少年少女世界の名作文学』の思い出

1_2少年少女のための文学全集があったころ』 でも取り上げられた小学館版『少年少女世界の名作文学』が刊行されたのは昭和39年から43年にかけてのことだった。月刊で、全50巻。
烏丸の場合、小学校2年から5年にかけてにあたる。毎月15日の発売日が楽しみで、学校から走って帰り、まだ届いてないと知るや玄関にへたりこむほどがっかりした記憶がある。

次の巻が出るまで何度も読み返す巻もあれば、なかなか読み終えられなくて次の15日が近づいて苦しんだものもあった(『クオレ』とか『次郎物語』とか)。

クリーム色に藍の天地の箱は今思い返してもなかなかモダンで、他社の子供向け全集の単色、布張りの装丁に比べてもかなりハイセンスな印象だった。

表紙カバーや各作品の章タイトル下にはその国の風物の写真やカットが配され、海外旅行など縁遠かった当時の小学生にとってはそれだけでも貴重な情報源だった。

また、各巻の表紙には世界の名画が貼られ、巻末の解説と併せて古今の芸術作品に触れる機会を提供してくれた。小学生の時分にルネサンスだの印象派だの、いっぱしの美術通ぶれたのはこの表紙によるところが大きい。
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内容はイギリス編(7巻)、アメリカ編(9巻)、フランス編(8巻)、ドイツ編(6巻)、ソビエト編(5巻)、日本編(5巻)などに分かれ、それがランダムに届く。
『小公子』『小公女』『家なき子』『ピーターパン』『トム・ソーヤーの冒険』『ガリバー旅行記』『オズの魔法使い』など子供向けに書かれた、もしくは子供向け全集の定番作品はもちろん、ギリシア神話や北欧神話、古事記などの神話(『ワイナモイネン物語』『ニーベルンゲンの歌』『ルバイヤート』『シャクンタラー』等まで!)、『ファウスト』『オリバー・ツイスト』『白鯨』『巌窟王』『狭き門』『車輪の下』『父と子』『即興詩人』『三国志』『坊っちゃん』など世界の名作の抄訳、モーパッサンやリラダン、メリメ、チェーホフ、マンスフィールドらの短編、さらにガボリオ、ルルー、ルブラン、ドイルらの探偵小説、ヴェルヌやH・G・ウェルズのSFまでそろっていた。

もちろん、大半は子供向けにわかりやすく翻案されたものである。
子供に本を与えるに、「完訳」を旨とすべきか「抄訳」を容認するか、いちがいにどちらが正しいかはわからない。しかし、小学生にいきなりディケンズやユゴーの「完訳」を読ませるのが困難である以上、ある程度の翻案はやむを得ないのではないか。

実際、『少年少女世界の名作文学』の抄訳で出会い、のちに「完訳」に手を広げた作家は少なくない。
たとえばドストエフスキーの『罪と罰』や『孤児ネルリ』(『虐げられた人々』の抄訳)には小学生時分ながら何か重いものに胸打たれ、のちに同じ作家の全作品を読むにいたった。後から思い返しても、抄訳で読んだこの2作への理解はそう間違っていなかったと思う。

3
ランボーと出会ったのもこの全集である。ほかの詩人と合わせ、ほんの数篇の掲載だったが、なにか夏の早朝のように突き抜けたものを感じた。
エセーニンもこの全集のソビエト編で知った。今でも一部そらんじることができるほどだ。

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──などなど、もし小学生時代にこの全集に出会ってなかったなら、などと、考えるだに怖ろしい。この全集のない世界に、自分はいない。

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