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2017/03/22

『またたかない星』 小泉喜美子 / 集英社コバルト文庫

Photoクレイグ・ライスやP.D.ジェイムズの翻訳仕事の一部以外、ほとんどの作品が品切れ、絶版だった小泉喜美子だが、『弁護側の証人』に続き、文庫の新装刊がポツリポツリと進んでいるようだ。
「そうでしょうそうでしょう」という嬉しい気持ちと、けっこう手間ヒマかけて古本屋あさって揃えたのにナ、という口惜しさ半々で、今夜はおそらく復刊の対象にならない、なったとしても最後の最後と思われる集英社コバルト文庫版の短篇集『またたかない星(スター)』を取り上げることにした。
(プライベートなブログとはいえ、わざわざ読み手が手に入れにくい本を取り上げてどうする……)

収録は7篇。
初出は1972年から77年にかけての「小説ジュニア」、「小説現代」、「小説サンデー毎日」、「小説推理」(2作)、「マーガレット」(!!)、「小説クラブ」。案外大人向け雑誌が多い。
内容も、エロティックな関係、グロテスクな殺人がさらりと持ち出され、大人が読んでも違和感のない読み応えだ。
小泉喜美子作品ではときにワルぶって背伸びした子娘キャラが鼻につくことがあるが、いずれの短篇もほど良く薄味で、するっとサスペンスに入り込むことができた。

「犯人のお気に入り」における後半の鮮やかな視点の変換、「髪」のある意味繊細、ある意味愚昧な犯人描写がよい。
「殺人者と踊れば」は作者の代表作と同工異曲なのだが、初出誌と記された「マーガレット」(1976年というと岩館真理子が『グリーンハウスはどこですか?』を連載した頃。「週刊マーガレット」や「別冊マーガレット」に小説ページなどあったろうか?)の読者層に合わせたのか、背景、情景描写をシンプルにし、時代や場所を特定しない、一種寓話の味わいにいたっていて、これもよかった。 

ただ、女性ならではのモノへの丁寧な眼差しが、結果として言葉を古くしているのが気になる。「マイ・カーのランツィア・フラミニアに」「カセット・テープ装置つきのレコード・プレーヤーが」「オレンジ色のパンタロンも金のサンダルも」など。いずれも現代でも通用する心理ドラマだけに、惜しい。

2017/03/16

エロ以外なんでもあり 『猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』シリーズ(現在7巻まで) 内藤 了 / 角川ホラー文庫

Photoヒロイン藤堂比奈子は八王子西署刑事組織犯罪対策課の新人刑事。長野出身。亡くなった母から渡された八幡屋礒五郎の七味缶をお守りに持ち歩き、ピンチになると七味を口にして「か、辛い」と声を上げる。特技は事件のあらましや関係者のやり取りをイラストで描く事で詳細に記憶すること。先輩課員や鑑識官たちに励まされ、からかわれつつ、一人前の捜査官として経験を踏んでいく……。

それのどこがホラー文庫なんだ、と首を傾げそうになるほのぼのほんわか設定である。空き家探検に探偵気取りの子供たちと協力する、事件で知り合ったおばあちゃんの太鼓焼きを課への差し入れに毎度買い求める、などなど、随所に昭和テイスト、人情味が溢れる。

──ところがぎっちょん首チョンパ、事件現場がエグい。

1冊め、『ON 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』では、殺人犯たちの自殺の仕方がエグい。心臓を三度刺す、とか、自分で○○を●●に突っ込む、とか。ことの真相も、なかなかくる。
2冊め、『CUT 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』では古い洋館に散らばる着飾った腐乱死体がどれもこれもステキステキ。アメリカの連続殺人鬼やトマス・ハリス『羊たちの沈黙』に影響受けてのものだと見当はつくが、それでもここまで大胆に描かれると食事中には読めない。

マスターピースは上記2冊。
以降はシリーズものの常としてだんだんダレてはくるが、

3冊め、『AID 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』も被害者の死体に漂う腐乱臭がページから溢れてこもる。
4冊め、『LEAK 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』、殺し方がエグい。生きている被害者の口から貨幣、紙幣を一気に流し込む。解剖中に気をつけないと胃が破れるほどに。
5冊め、『ZERO 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』、さすがに少々のことでは驚かなくなるが、脱獄して再登場の連続殺人鬼の挙動がヒリヒリ神経を刺す。

これらの猟奇的場面について、既存のサイコサスペンスの亜流と指摘する声もあるかもしれない。本格推理やサスペンスを求める向きには人情噺が余計だろうし、駆け出し刑事の頑張り物語を期待する読み手にはグロがいささか過ぎるに違いない。警察組織や捜査に関して現実に即していないという指摘もあるだろう(「東大法医学部教授の検死官」なる肩書は眩暈を誘うし、警察関係の施設として人道的に、いやそれ以前にちょっとあり得ないものが出てきたりする)。

それでも、とくに1作め、2作めの死体へのサイケな扱い、それをめぐる物語の推進力は半端なく魅力的だ。テレビ朝日「相棒」などにもときに死体は出てくるが、地上波ゆえか、出来てまだ半日程度の生ものか、逆にとうに白骨化していて、要するに腐敗や臭いについては描写に乏しい。本シリーズはそこにこだわるのである。

対策課の課員それぞれの個性が明らかになってくる3冊めあたりからはチーム色が強まり、個人的には少々うんざりしてしまうのだが、それでも読んで楽しいことに変わりはない。
インターネットで探せば本物の死体だろうが殺人の現場だろうが造作なく見られるようになった時代だが、それでも思わず身を引く猟奇性、さくっとオススメである(誰に?)。

2017/03/11

『本をつくる者の心 造本40年』 藤森善貢 / 日本エディタースクール出版部

Photoエネルギー供給の花形産業が第二次大戦後、石炭・水力⇒石油⇒原子力⇒?と移り変わってきたように、どんな仕事にも浮き沈みはある。

『本をつくる者の心 造本40年』の著者藤森善貢氏(1915-1985)は戦前に岩波書店に入店、製作課長や宣伝課長、辞典部副部長などを歴任し、退社後はほるぷ出版顧問、日本エディタースクールの講師を務めた。『広辞苑』の製作にも携わった、造本のプロ中のプロである。

著作には編集入門者向け参考書色の強いものが多いが、1986年に発行された本書は自身の生い立ちから岩波書店入店に至る経緯、それに本造りの心構えやノウハウをからめた自伝プラスアルファの内容となっている。戦中の左翼出版の取り締まり、戦後の落丁クレーム対応など、現場の話が読んで楽しい。
『広辞苑』や『岩波英和辞典』の活字や紙の取捨選択など、失敗含め、さすがは老舗、と称賛せざるを得ない。薄い紙の裏表の印字が印刷時の紙のびによってずれるのを抑えるため、印刷会社と図って両面印刷機を開発したというのである。現在、ここまで労力をかけて本造りをしている出版社がどれほどあるだろうか(なにしろ、函入りの『アリストテレス全集』全20巻を新訳で発行中の岩波だ)。
日本が樺太(サハリン)を失ったことで繊維の長い針葉樹のパルプが手に入らなくなり、闊葉樹(広葉樹)のパルプが主になって本の紙の品質が落ちた、機械化が進み、短期間に製本を仕上げることが可能になったため、ニカワが紙に浸透せず、本が壊れやすくなった、といった話も興味深い。

ただ……時が経てば必要とされる技術も変わる。

『広辞苑』は初期には活字組版をオフセット印刷したものだったそうだ。つまり、あのボリューム、あの複雑な文字種が、鉛の活字を並べて組まれていたということだ。その工数には頭が下がるが、写植活字、DTPと進歩した現在では、その当時のノウハウの多くは(少なくともそのままでは)役に立たないに違いない。また、その頃に望ましいとされた読みやすい活字の大きさ、ページをめくりやすい紙質などが現在でも必須かというと、それも少なからず疑問だ。
冊子の『広辞苑』に現在も一定のニーズがあることは想像がつく。それでも、文書作成作業がデジタル機器でなされることの多い現在、文字列検索やカット&ペースト、逆引き機能など、辞書においてはCD-ROMや電子書籍で提供されるメリットのほうが大きい。電子書籍の場合、フォントの大きさや活字タイプなどは利用者(ビュワー)側のマターである。そういった要素に手間暇をかけるより、データに特化して価格を抑えるほうが将来のためではないか(稼ぎ頭の紙版『広辞苑』に改版のたびお付き合いしているのは団塊の世代までと推察するが、どうか)。

著者が胸を張って語る、

校正面からみても、完全にその原稿の内容をクリアして、校正をキチッとやって、こういう本を出すんだということをはっきりやっているのは岩波書店一社しかないだろう。

これは、事実なのだろう。だが、それゆえ校閲部門のほうが編集部門より発言力が強く、古典には圧倒的に強いが新規な企画、製作の動きは重い、というのがはた目に見た岩波書店の実情だ。
それゆえ、昨今の出版不況下の目で見ると、著者の推奨する精度の高い造本はブロントザウルスの類となってしまっている。

この著作の技術的なページの多くは、現在の編集者の卵たちには意味不明だろうし、出版者に無駄な費用と労力を強いる点で一部、有害でさえあるかもしれない。
著者は1985年に亡くなったそうだが、長年誇りをもって担ってきた仕事が目の前で過去の遺物として消えていくのを見ずに済んでよかったのではないか。

2017/02/24

桜の花の散るごとく 『横綱』 武田葉月 / 講談社文庫

Photo昭和から平成にかけて、角界を支えた“横綱”22人のインタビューをまとめた1冊。
初代若乃花から大鵬、北の富士、輪島、北の湖、千代の富士らを経て双羽黒、大乃国、曙、朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜まで。
(残念ながらあとがき、資料とも、稀勢の里昇進の話題は間に合わなかったようだ。)

優勝回数や連勝に記録を残す大横綱もあれば、横綱に上がったあとパッとした成績を残せなかった者、追われるように角界を去った者など、堂々たる、あるいは朴訥だが生々しい横綱の声、裏話が聞けて相撲贔屓にはたまらない。

親方に誘われ飛行機に乗って東京見物とシャレているうちに抜けられなくなった千代の富士、とか、対戦相手をビデオで研究する輪島、全く研究しない北の湖などなど、さまざまな話題の中ではっと目を打たれるのは、

「横綱になった途端に、私はやめることを考えましたね」(大鵬幸喜)
「『もう、後は引退だけだよ。ダメなら、すぐやめなきゃいけないんだよ』まるで、引導を渡されるように、そう言われたのです」(栃ノ海晃嘉)
「ただ、ひと言だけ、『引き際をきれいにしよう』ということだけ」(北の富士勝昭)
「横綱昇進が決まって、師匠からまず言われたことは、『横綱になって、成績が悪かったら、スパッとやめなければいけない』ということでした」(若乃花幹士(二代))

と、多くの力士が、横綱に推挙された途端引退のときを強く意識させられる、意識し始める、ということだ。
それ以上上のない横綱という地位の責任が圧倒的に重いということだが、それにしてもこれほどとは思わなかった。

一つ面白く思ったのは、機会が得られなかったのか、この本には実は若貴兄弟、つまり若乃花勝、貴乃花光司の2人の横綱のインタビューが抜けている。ところが、その前後の世代の横綱たちの言葉の中に、自らを追いたてる若武者、眼前の敵、目標と崇め奉る横綱としての貴乃花が語られ、まるで各代の横綱の白黒の写真を無造作にペタペタと貼っていったら、真ん中に大きな貴乃花のシルエットが空白として浮き上がった、そんな塩梅なのだ。貴乃花という横綱が、記録に表れる以上に大きな存在であった証しだろうか。

もう一点。
昭和三十八年九月場所の千秋楽、6連覇中の大鵬が休場明けの柏戸との全勝対決に敗れた名勝負を(どうやら見もしないで)八百長と決めつけ、スポーツ新聞にそう書いた人物がいた。相撲協会が名誉棄損で告訴するにいたるとその人物は一転、謝罪したのだが……。これが当時人気作家だった石原慎太郎である。今も昔も、人騒がせな人なんだなぁ。

2017/02/23

『血と薔薇の誘う夜に 吸血鬼ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫

Photo角川ホラー文庫から出ている東雅夫のアンソロジーには『闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選』、『黒髪に恨みは深く 髪の毛ホラー傑作選』などがあるが、この吸血鬼ホラーを蒐集した『血と薔薇の誘う夜に』については発刊された当時──もうひと昔前に──読み逃して、それきりになっていた(はっきり言って東雅夫アンソロジーは、そのボリュームと出来頻度のため、追いかけるのが大変なのである)。
先だって、神田の古書店で見つけてようやく読了した次第。

収録作は、三島由起夫・須永朝彦・中井英夫・倉橋由美子・種村季弘・夢枕獏・梶尾真治・新井素子・菊地秀行・赤川次郎・江戸川乱歩・柴田錬三郎・中河与一・城昌幸・松居松葉・百目鬼恭三郎という古豪から中堅まで、十六人十六様の短篇小説、翻訳、考察等々。
純文学からSFまで幅広く材を求め、恐怖、エログロ、ユーモアと様々な味を並べ立ててホラーアンソロジスト東雅夫の面目躍如といえる。

しかし、逆に、東の手腕をもってしても、「吸血鬼」というテーマはホラーアンソロジーとしては今ひとつなものにならざるを得ない、という問題もまた浮かび上がる。

吸血鬼(Vampire)を描く作業はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』でひとたびその様式を極め、ヘビメタミュージシャンがスパイク付きレザーリングを手首にはめるように、その姿かたち、食生活、ファッション、死に方にいたるまでこと細かなパターン化が進んでしまった。
首筋から血を吸われることで自身も吸血鬼に変じ、十字架と日光とニンニクに弱く、昼間は棺桶に眠り、ときには蝙蝠に化けて神出鬼没、胸に杭を打たれるまで永遠に死なない。そんなお約束通りの吸血鬼を描いた作品はむしろペーソス溢れるパロディと化し(夢枕獏、新井素子など)、逆に独自な悪と闇を描いた三島由起夫、柴田錬三郎、中河与一、城昌幸らの作品はおそらく「吸血鬼」という言葉を使わなくとも高度な恐怖小説として成立するのだ。
つまり、吸血鬼を描いたホラー作品は、元祖・本家「吸血鬼」の血脈に近ければ近いほど怖くない、という困ったことになってしまっているのである。
血を吸う日本の鬼を古典から見繕った百目鬼恭三郎の最後の1行、「吸血鬼に限らず妖怪はすべて本来あいまいな存在であるにちがいない」を借りるなら、ストーカー以降の吸血鬼はあまりにあいまいさを喪ってしまったのだ。

おまけ:
吸血鬼を描いたマンガは少なくないが、狙われた美女、美少年の首に2つ並んだ噛み傷、よく考えるとあれは少々おかしい。犬歯で噛んだなら噛み傷の間はもっと間が空きそうなものだし、下顎側の歯の後がないのも不思議である。そもそも首筋を狙うのが新鮮な血液を求めるためだったなら、頸動脈を破れば大変な出血に見舞われるはずで、要は噛む場所などどこでもよいのである。

«『怪談狩り 市朗百物語』 中山市朗 / 角川ホラー文庫